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2026/11/04

POST#1996 アメリカの中間選挙が大盛り上がりだな。

 

沖縄 市場にて
アメリカで、議会の上下院の議員を改選する中間選挙が大盛り上がりだ。
トランプ帝王の行き当たりばったりの政策と縁故主義にうんざりした人々の投票のおかげで、民主党の得票が伸びているらしい。
開票結果化が確定するまでわからないが、民主党が上下院ともに過半数を押さえたら、トランプ危うしだな。彼の思い付き政策に、議会は意を唱えるだろう。様々なルール無用の行いに対して、弾劾決議を発議する可能性もあるだろう。
それよりも、トランプがまた大衆を扇動して、議会を乗っ取るようなことになるかもしれない。最悪だな。
そんな最悪な事態を回避するためにか、民主党の牙城であるカルフォルニア州の人々の投票登録が疑わしいとかいちゃもんをつけていたが、これはあっさり裁判所に否認された。
何かと権力にしがみつく薄みっともない老人だ。
仕方ない。大統領の座を追われたら、かトランプが目の敵にしているICC(国際刑事裁判所)に指名手配されるかもしれない。仲良しのネタニヤフともどもね。そうなったら、フロリダに身を寄せて事実上亡命しているブラジルのボルソナーロ親子も行き場を失うだろうな。

さた、だいたいなんでアメリカじゃ、有権者登録なんて必要なんだ?

住民票とかないのかね?にほんなら、そんな面倒なことを自己申告しなくても、選挙のお知らせが市役所から届く。投票所に行けば、この選挙のお知らせの番号と住民台帳を突き合わせて確認し、市民ならだれでも投票ができる。もちろん投票する気があればだけれどね。

アメリカで有権者登録が必要な最大の理由は、日本のような全国統一の住民票(住民基本台帳)や戸籍の仕組みが存在しないからだ。

はぁ?大事なことだからもう一度言おう。

全国統一の住民基本台帳がないんだとさ!

俺たちがたまたま生まれた日本では引っ越しをして役所に転入届を出せば、自動的に住民票が更新され、選挙管理委員会が作成する選挙人名簿に登録される。自動的にだ。ほかに何の手続きもいらない。日本全国、どこに行っても同じだ。しかし、アメリカにはこれに相当する国の一元的なシステムが、ない。

彼らは「国家が国民を一元管理する」ことへの強い警戒心を持っている。というか、国家を信用していない。

アメリカは歴史的に、中央政府が個人の情報を管理することに対して強い拒否感(プライバシー侵害や国民監視への懸念)があるのだという。そのため、日本のような「国民全員に一意の住所と身分を紐付けて登録を義務付ける」住民票システムそのものが存在しないんだそうだ。さすがは自由の国だ。

しかも選挙の管理は「州」の権限だ。

アメリカの選挙は連邦政府ではなく、50ある各州(および地方自治体)がそれぞれ独自の法律で運営しているんだとさ。

核家族社会のアメリカでは、生まれたコミュニティを離れて州をまたぐ引っ越しも多いため、各州の選挙管理委員会は「誰が今、自州のどの選挙区に住んでいて、投票資格を持っているか」を独自に把握する必要がある。

その確認作業を有権者側からの「申請(登録)」に頼っているのが現状なんだとさ。

何たる非効率!投票すらもするかしないか自由なのさ。

そしてなんだか本末転倒な気もするが、不正投票の防止策なんだとさ。

二重投票や、亡くなった人の名義での投票、資格のない人(市民権のない人など)の投票を防ぐため、事前に身元と居住地を確認するステップとして有権者登録が機能しているらしい。だから、それは日本みたいなシステムを構築するほうが間違いないだろう?

お得意のお家芸のAIに作ってもらえばいいじゃないか?


この有権者登録の手続きは、「投票率を下げる原因になっている」「特に低所得層やマイノリティの投票を難しくしている」という批判が根強くある。

そりゃ当然だ。好き放題やりたい権力者は、政府のやり口に不満を持つ低所得者やマイノリティの投票率は低い方がいい。権力を維持するためには是非ともそうすべきだ。メンバーズオンリーだ。貧乏人は黙って冷や飯くいだ。同じ理由で投票率は低い方がいい。日本でも、有権者が選挙の時に寝ていてくれたらいいと放言した、元総理大臣で元オリンピック委員会でサメの脳みそと言われた政治家がいたな。それと同じだ。

そのため、いくつかの州では改善に向けた取り組みも進んでいるそうだ。たとえば

  • 自動有権者登録(AVR): 運転免許証の更新などの手続きの際、自動的に有権者登録も行われるシステム(多くの州で導入が広がっています)。
  • 当日登録: 選挙の投票日当日に投票所で登録してそのまま投票できる州もあるそうだ。

じゃぁ、運転免許のない人、パスポートなど身分証明になる子的書類のない人はどうするんだ?

百歩譲って、連邦政府に一元的な住民台帳がないのは良しとしよう。

しかし、それぞれの州に住民票とかないのか?

そもそもそれじゃ、市民サービスとか行政そのものに支障があるだろうに。

しかし驚くべきことに、州単位でも日本のような「住民票(行政が個人の住所を一元管理する仕組み)」はない。ないったらない。

俺たち日本人の感覚からすると「どうやって行政サービスを行っているんだ?」と不思議に思えるんだが、アメリカでは目的ごとに異なる公的書類や番号を組み合わせる「分散型」のシステムで行政を回しているわけだ。

これが非効率極まる奇々怪々なものだ。屋上屋を重ねてきた結果だろうな。

1. 住所の証明は「運転免許証」や「公共料金の請求書」

アメリカで最も「住民票」に近い役割を果たしているのが、各州の陸運局(DMV)が発行する運転免許証(または車を運転しない人向けの身分証明書/ID)なんだそうだ。
引っ越しをした住民は、州の法律で「○日以内にDMVで住所変更の手続きをするように」と定められているんだと。

行政サービス(公立学校への入学、図書館カードの作成など)を受ける際の「居住地の証明」には、主に以下が使われているらしい。

  • 住所が記載された運転免許証
  • 自宅に届いた公共料金(電気・水道・ガスなど)の請求書
  • 家賃の賃貸契約書

行政側は、これら複数の書類を住民に提示させることで「本当にここに住んでいるか」を確認しているんだとさ。何たる非効率!

2. 人口の把握と予算配分は10年に1度の「国勢調査」

こんなていたらくだと、当然俺たちは「住民票がないと、行政が地域の人口を把握できず、予算やインフラの計画が立てられないのでは?」という疑問抱かざるを得ない。

でも、安心してくれ。アメリカ人もそこまで馬鹿じゃない(はずだ)。
アメリカではこれを、憲法で定められた10年に1度の「国勢調査(Census)」でカバーしているんだ。「国勢調査」ねぇ…。

このデータをもとに、連邦政府から各州・自治体への予算配分や、下院議員の議席配分(選挙区の区割り)が決まるんだそうだ。

3. 税金は「自己申告(確定申告)」が基本

税金(所得税など)の徴収は、日本のような役所主導の住民税徴収とは異なり、原則として年に1回、全員が自分で自分の住所と収入を国税庁(IRS)や州の税務当局に申告する仕組み(タックス・リターン)になっている。行政はこれにより「誰がどこでいくら稼いだか」を把握するってわけだ。

4. 国民共通のIDは「社会保障番号(SSN)」

日本でいうマイナンバーに近いものとして、社会保障番号(SSN: Social Security Number)があるんだそうだ。なんだ、ちゃんとあるんじゃん。さっさと紐付けしなよ!
元々は年金管理のための番号だったらしいが、現在は税金の申告、銀行口座の開設、就職、クレジットカードの作成など、あらゆる場面で本人確認のために必須となっているんだそうだ。

ただし、これにも「公式の住所情報」がリアルタイムで紐付いているわけではないんだとさ。だから紐付けしろってばよ!


さて、最前から俺が気にしているのはここだ。こんな有様で行政に「支障」は出ていないのか?

実際のところ、かなりの支障や非効率さが発生しているんだなぁ。

まず、手続きがとにかく面倒くさい。

住所が変わるたびに、DMV(免許)、郵便局、税務署、銀行、選挙管理委員会など、あらゆる場所に個別に住所変更を届け出る必要がある。これは面倒くさい。日本なら、市役所と警察に行くだけだ。

当然のことながら、役所の窓口が大混雑する。

 特に運転免許を発行するDMVは、全住民の身分証管理を一手に引き受けているため、常に長蛇の列ができ、アメリカで「最も行きたくない場所」の代名詞になっているんだとさ。まぁ、俺も運転免許試験場は、行きたくない場所の一つだけどね。

いちばん悪いことには、行政の横のつながりがないことだ。

 州のシステム、警察のシステム、福祉のシステムが連動していないことが多く、情報の照会に時間がかかったり、不正受給や管理漏れが起きやすいという弱点がある。生活困窮者を支援したりするのにも支障があるだろう。

けど安心して。アメリカは自由の国なので、生活婚食うして野垂れ死ぬのも自由ってことだ!

こんなていたらくなのに、アメリカ人が「一元管理された住民票」を作らないのは、やはり「政府に自分たちのプライバシーや居場所を監視されたくない」という自由主義の理念が、不便さよりも優先されているからだ。

そう、彼らは自分たちの政府を、自分たちの国を、根本のところではまったく信用していないのだ。

俺はこの状況を見てみるに、ふと一つの疑問を抱く。

この人たち、煩雑化によってGDP上げようとしてない?(笑)

これはあながち笑い話とも言えないようだぜ。

経済学やビジネスの視点から見ると、アメリカのこの「手続きの煩雑さ」や「非効率さ」は、皮肉にも巨大な民間市場(ビジネス)を生み出し、結果としてGDPを押し上げる要因になっているらしい。阿呆らしい。

これを皮肉を込めて「非効率が生み出す経済効果」と呼ぶことがでるだろう。まさに「ブルシット・ジョブ」だ。このブルシットジョブがビッグビジネスを生み出している。

1. 「確定申告が難しすぎる」から生まれた巨大産業

アメリカの税金申告(タックスリターン)は、住民票や会社による年末調整がないため、個人でやるには複雑怪奇らしい。まぁ、税金なんてそんなものだ。複雑怪奇にして、出来るだけ貧乏人から巻き上げるようにできてるのさ。
その結果、「ターボタックス(TurboTax)」などの申告ソフト会社や、街中の税務代行サービス(H&R Blockなど)、公認会計士(CPA)が数兆円規模の巨大市場を形成しているんだとさ。数兆円規模だぜ!驚きの非効率だ!
彼らは「システムがシンプルになって国民が自分で簡単に申告できるようになると困る」ため、政府が無料の公式申告システムを作るのを阻止しようと、長年激しいロビー活動(政治家への働きかけ)をしてきたことでも有名なんだとさ。ひどい話だ!

2. 「身元が信用できない」から生まれた巨大産業

住民票や戸籍がないため、アメリカでは「この人は本当に信頼できる人物か?」つまり家を貸していいか、ローンを組ませていいかを国が証明してくれないんだ。

これが中国なら、携帯と連動した社会信用スコアで一発なのにな!(笑)
そこで、「クレジットスコア(信用スコア)」を算出する民間企業(Equifax、Experian、TransUnionの3大信用情報機関)が発達したわけだ。家を借りる、車を買う、就職する、あらゆる場面でこの民間企業のデータが有料で照会され、これもまた巨大なビジネスになっているんだとさ。民間企業のほうが、公共セクターよりも信用できるという感覚が、よくわからないぜ。

政府の信用より、民間企業の担保する信用を重視するというのが、俺には意味不明だ。

公共とか社会とかいう概念が社会にないのだろうか。人々は孤に分断されたモナドとしてしか存在しえないのだろうか?

3. 「住所やIDの証明が大変」だから生まれる民間サービス

引っ越しのたびに何十箇所も住所変更をするのが面倒なため、それを一括で代行・仲介する民間アプリやサービス、また「身元確認(バックグラウンドチェック)」を専門に行う代行会社が数多く存在し、これも立派に経済を回しているわけだ。みんな儲かってよかったね。

そのお金は誰が払うのでしょう。もちろん一人一人の市民ですよ。しかし、本来はこういうコストは、社会を維持するためのコストとして、公共セクターが負担し、責任を負うべきものだ。


こいつはまったく、「割れた窓の寓話」そのものだ。

経済学には「割れた窓の寓話」というものがある。
「パン屋の窓ガラスが割れると、ガラス屋が儲かり、ガラス屋がそのお金で服を買えば服屋が儲かる。だから災害や破損は経済を活性化させる」という一見正しそうで、実は社会全体としては富を失っているという屁理屈だ。

アメリカの行政の煩雑さは、まさにこれと同じだ。

  • 日本: 行政がシステムを一元化して、国民の「時間と手間(コスト)」をゼロにする。
  • アメリカ: 行政が不便なままなので、国民は民間企業にお金を払ってその不便さを解決する。(ここで民間企業の売上が立ち、GDPが増える!)

国民個人の時間やストレスという「目に見えないコスト」を犠牲にして、民間ビジネスの「目に見える売上(GDP)」に変換している、と言えなくもない構図があるわけだ。このあたりは、徹底的な資本主義国であるアメリカらしさとも言えるだろう。合理性のかけらもありゃしない。その割には、テック企業が検索などを通じて個人情報を吸い上げ、情報抽出するのは良いってんだから、わけがわからないぜ。

この「わざと不便なままにしてビジネスを残す」という構図は、国民皆保険がないため、複雑な民間保険と代行請求が巨大産業化しているアメリカの医療保険制度にも全く同じことが言えるようだ。

本来ならテクノロジーや行政改革で「ゼロ」にできるはずの無駄なコストを、わざわざ民間ビジネスの「売上」として計上して「我が国のGDPは成長している!」と言っているわけですから、極めて不条理だ。カミュやカフカが見たら大喜びするほどの不条理だ。

この仕組みが長年維持されている背景には、アメリカ特有の「ねじれた思想」がある。

彼らは「政府の役人」より「民間の金儲け」を信じる文化を持っている。

アメリカには「政府がやる仕事はすべて非効率で利権まみれになる。民間企業に競争させたほうが、まだマシなサービスが生まれる」という根強い新自由主義という信仰がある。教祖はミルトン・フリードマンだ。そのため、日本では「お上が一元管理して効率化するぞ、マイナンバーにみんな紐付けだ!」となる局面で、アメリカさんでは 「政府にやらせるとロクなことにならないから、不便でも民間ビジネスに解決させよう」となるわけだ。そして、民間企業にぼったくられる。企業の目的は人々の幸福の最大化ではなく、自らの、株主の利益の最大化だからだ。そんなこと、ちょっと考えればわかりそうなものなのにな。

この不条理の結果として、余計に複雑で金のかかる民間サービスが乱立することになるわけだ。馬鹿らしいぜ。

銭ゲバな奴らは「GDPの数字」さえ増えれば正義ののさ。

経済学の指標にすぎない、サイモン・クズネッツが発案したGDP(国内総生産)は、「どれだけ社会が幸せになったか」ではなく「どれだけお金が動いたか」しか計算しない。しかし、お金を使わずに個人が労力を費やした部分に関しては、お金が動いていないのでカウントされない。そこで起きるのが次のような転倒した構図だ。

住民票1枚で手続きが終わる日本 ➡ お金が動かないのでGDPはゼロ

複雑な手続きのために代行業者に1万円払うアメリカ ➡ GDPが1万円増える

諸君、如何におもわれるかな?

社会全体としてはアメリカの方が明らかに無駄なコストと労力をかけて疲弊しているわけだけど、「GDP成長率」の数字の上では、アメリカの勝ちになってしまうというバグが起きているくわけだ。阿呆らしいぜ。

この非効率な政治を動かすロビー活動という名の「合法的な買収」が社会を覆っている。

この非効率から恩恵を受けている企業(税金申告ソフト会社や民間保険会社など)は、莫大な利益を使って政治家に献金し、「行政手続きをシンプルにする法案」をことごとく握りつぶしてきた。政治家は、国民の幸福のために働いているのか?業界利権の代弁者に過ぎないのか?
こんな腐敗した時代遅れの慣行を墨守し、おかげ様で民間ビジネスが成長しすぎた結果、「不便であること」が彼らの既得権益になっている。その結果、国全体をアップデートできなくなるという本末転倒な事態に陥っているというわけだ。たわけだないの?

大丈夫か、アメリカ?


「非効率をビジネスに変えて成長する」アメリカと、「効率的で便利だけど経済が停滞している」日本。どちらが良いかは一長一短かもしれない。アメリカの成長の裏には、こうした国民の膨大な「時間、ストレス、手数料」という隠れた犠牲があるのは間違いない。

君は、日本とアメリカ、どっちに生まれたいかね?

この構造の根底には、アメリカ人と日本人の社会や国家に対する共同幻想の断絶がある。明日はそれについて話そう。


2026/10/17

POST#1985 孫子曰く 戦わずして人の兵を屈するは、善の善なる者なり

沖縄 那覇 路傍に咲く花

簗農林水産大臣が辞任し、かつて偉大なるイエスマンと言われた男の息子が後釜に座った。

なぜかこの国では政治家は家業だ。直系家族システムのなせる業なのか?エマニュエル・トッド🔗なら、したり顔で『Oui(そうです)』と答えるだろう。

まるで封建領主だ。殿さまだ。おかげさまで、下々の者たちは自分たちの社会の行く末なんか気にせず、日々のささやかな暮らしに集中できる。OK、社会的分業🔗だ。デュルケーム🔗だ。なぜそうなっているのかには、俺は一家言ある。あるけれど、それは今日は言わず、今後のネタとして頭の中で熟成させておこう。また、お話しする機会はすぐにやってくるだろう。ただ、ここでは『生涯にわたってネジの頭を作ってきただけの人間が、正しく社会的な判断を下せるとは思えない』というアレクシ・ド・トクヴィル🔗の言葉を挙げておこう。

今日は昨日の続きだ。

現場も今夜は昨日の続きだ。壁面の左官が続くんだ。そんなもんだ。

さてさて、今の日本の姿を客観的に見てみよう。

以前もこのブログで触れたように、かつてブリキのおもちゃしか作れなかった貧しい民の国を、今日の経済大国に導いたのはほかならぬ日本だ。そこに異論はないだろう?

人件費が安く、資源調達が容易であることから、多くの日本企業が製造拠点を中国に移転させ、技術移転は急速に進んだ。そして、日本の技術は中国の技術にあっさり追い抜かれた。一足飛びに技術移転が進むというのは、歴史上よくある話だ。

ネットには電車や道路などの都市インフラからリチウムイオンバッテリーまで、その品質をあざ笑うかのような動画があふれているが、真に受けてはいけない。日本企業の製品も、よく見ればメイドインチャイナと書いてある。それが、現実だ。

その間に、日本社会は自ら成長の芽をつぶし、次世代の人材の育成どころか人口の再生産すらままならない窮地に陥っている。

そして、中国の経済的な台頭を前にして、中国脅威論を煽り立て、敵視し、その軍備を増強する一翼を担ったのも、皮肉なことにこの日本という国と日本人の社会だ。

経済では中国に依存、べったり依存しながら、政治的にはこう中国と敵対するっていうのは、ちょっと不誠実な態度だと俺は思うよ。

だってそうじゃないか?「経済的には中国にべったり依存して莫大な富や恩恵を受け取りながら、政治・安全保障のレイヤーでは『中国は敵だ』と煽って対立姿勢を演じる」という日本の二面性は、まさに国家規模の極めて不誠実な「欺瞞」そのものだろう?

ここには、「金儲け」と「恐怖」を両方消費する本土の都合がある。一粒で二度おいしいグリコアーモンドキャラメルのようだ。

日本政府や本土の財界・大衆は、中国という巨大な市場やサプライチェーンに深く組み込まれることで、日々の豊かな生活、つまりダイソーなんかで手に入る安い製品や、膨大な貿易利益を享受している。

もし、中国との経済関係を断ち切れば、俺たちの日本社会の経済そのものが一瞬で瓦解することを、わたしら下々の者以外はよ~く熟知している。

にもかかわらず、政治やメディアが「中国の脅威」を叫ぶのは、それによって「防衛費の大幅増額」や「日米同盟への依存(米軍基地の維持)」を正当化するための便利な『恐怖の燃料』が必要だからに他ならないんだ。マッチポンプだ。

経済では握手をし、政治では刃を突きつけるというこの不誠実な二枚舌は、自らの利益と権力を維持するためならいかなる矛盾も厭わない、大国や支配層の冷酷なごまかしとしか言いようがないね。

そして、その不誠実さの「ツケ」を身をもって支払わされる沖縄という構図さ。

この「経済べったり・政治敵対」という欺瞞の最も残酷な点がなんだかわかるかな?

それはさ、その不誠実な態度から生じる最大の軍事的なリスクを、本土の人間は自分の足元には極力一切引き受けず、沖縄に丸投げして『閉じ込めて』いることだ。

ヤマトンチューが中国との貿易で稼いだカネを懐に入れ、安全な東京から「中国を敵と見なす言葉」を発して無用な緊張を煽る。

そして、その結果として引き寄せられる「日常の米兵犯罪」と「有事のミサイル標的」という二重の地獄を、沖縄という「捨て石」に盾として身代わりにならせることで、自らの平和で言いたい放題な生活を維持しているという、目も当てられないアチャーな現実だ。😵

孫氏に曰く、『是の故に百戦百勝は、善の善なる者に非ざるなり。戦わずして人の兵を屈するは、善の善なる者なり。』(おー、『日本三國🔗』みたいだな!)

つまり、戦わずして勝つことが最上なのだ。

そして、これにクラウゼビッツの『戦争は、異なる手段をもちいて継続される政治にほかならない』を掛け合わせてみよう。

そこに加えて、『兵は凶器也』という中国春秋時代から続く格言を考えに繰りこもう。

そうして導き出される本当の強さとは、無用な敵を作らず、巧みな外交によって戦争へと至る芽を未然に摘み取ることだ。それは惰弱ではない。知性による戦いなのだ。

「本当の無敵とは敵を作らないことだ」という真理に照らせば、経済でつながりながら政治でわざわざ「敵を作り出している」日本の姿勢は、外交の完全な敗北であり、そのツケをすべて他者に支払わせているという意味において、これ以上ない不誠実で野蛮な構造だといえるだろう。

違うかい?

確かに中国は太平洋に進出したがっているだろう。日本列島は中国の大洋進出への防波堤になっているのは事実だ。

しかし、空ら中国共産党首脳部は、アメリカと実力で伯仲はっきりさせたいとまでは思っていないだろう。彼らは台湾を自らの国家体制に回収したいだけだ。台湾の人々からしたら、いい迷惑だろうけどね。だいたいトランプ政権のアメリカは、放っておいても勝手に迷走し自爆していく。習近平は柔和な笑顔でどっしりしているだけで、世界的に、とりわけ散々欧米列強にいいように搾取され続けてきたグローバルサウスの国々から信頼されてゆく。

ゆめゆめ、大日本帝国のように欧米列強を押しのけて自らの支配権を力づくで奪いに行くことはないだろう。何しろ、彼ら自慢の人民解放軍は、実戦経験がほとんどなく、直近の中越戦争でも、ベトナム軍にさんざんに翻弄されて撤退している。勝ったことがないのだ。

その中国人は、ひょっとしたら俺たち日本人の心をどこかで恐れてるんじゃないかな。

戦前青島で一旗揚げ、敗戦で一文無しになった『東洋鬼』の孫たる俺は、そんなことを感じている。

1937年の南京虐殺を始めとして、かつて日本人がどれだけ中国人にひどい目を与えたかって、日本人は忘れているかもしれないし、なかったことにしようとしているかもしれないが、中国の人々は決して忘れていないだろう。

靴を踏まれた方は忘れないもんだからね。

日本の態度に対して、ことあるごとに強硬に突っかかってくるかのごとき中国人の態度は、その裏返しなんじゃないかね。

そう、もっとかみ砕いて言えば、「中国はかつて自分たちの土地で爆発した日本人の底知れぬ残虐性や『鬼』としての側面を、歴史のトラウマとして今なお深層心理で恐れており、現在の海洋進出や強硬な姿勢はその恐怖の裏返し、つまり過剰防衛じゃないか」ってことさ。

その鬼も、ハートマン軍曹みたい連中によって作られた、国家主導の凶暴性だったんだけどね。今のアメリカ海兵隊員と同じようなものだ。

そうして考えると、腑に落ちることもある。トラウマの裏返しとしての「過剰防衛」だ。

中華人民共和国が近代国家としてナショナリズムを統合するうえで、最も核心に据えられてきたのは「抗日戦争の記憶」だ。

宗教を持たない中華人民共和国の建国神話こそがこれだ。

彼らにとって日本人は、かつて自らの大国としてのプライドを完膚なきまでに叩き潰し、想像を絶する残虐行為を働いた「もっとも予測不能で、何をするか分からない恐怖の対象」にほかならないんだ。

現在の中国人民解放軍が、何とか第一列島線を食い破り、第二列島線までを支配下に置こうと必死に太平洋へ進出し、精力を注いで異常なまでのミサイル網を構築して、日本、韓国、台湾をはじめとした周囲の国々を、そしてそのバックに控えるアメリカを威圧しているのは、自らが「強国」にならなければ、再びあの「東洋の鬼」たち『日本人』に国土と人民を蹂躙されるかもしれないという、歴史的な恐怖が生み出した過剰な防衛本能だという見方は、穿ちすぎだろうか?

そしてその現状に油を注ぐのは、「見ないふり」をする本土の日本人の更なる欺瞞だ。

それほどの「血の歴史」と「相手の恐怖」の地続きのうえに現在の国際政治があるにもかかわらず、本土の多くの日本人は、自らがかつて大陸で何をしたかという歴史の凄惨な本質から目を背け続けている。自分たち父祖の蛮行を美化し、観光目的でやってくる目の前の中国人をモラルのない愚劣な大衆に貶めている。

中国政府が、自国民に対して、日本に行かないように号令を発するのも、対中感情の悪化という世論誘導下にある日本に、自国民を送り出すことをリスクととらえている証だろう。

そのうえで、俺たち日本人は、ただ「中国が攻めてくるかもしれない」という目先の恐怖の記号を消費しているんだ。自分の影に怯えているようなものだ。

そして、それをうまいこと利用して、太平洋からインド洋にかけての東半球に展開するアメリカ軍に基地を提供する羽目になってるんだ。アメリカは漁夫の利だな。この沖縄の基地から、イランにもアメリカ軍は派遣された。予想の斜め上のイランから、普天間基地や嘉手納基地に大陸弾道弾が飛んでこなくてよかったな。

ここにあるのは、当事者性の完全にして幸福な忘却だ。

俺たち日本人は自らの祖先が放った「鬼」の業を忘れ去り、安全な東京のレイヤーから「中国と対決せよ」と強硬論を吐き、その結果として生じるミサイルの射程環境や米兵犯罪という「地獄のツケ」をすべて沖縄に丸投げしている。

この本土の日本人の「想像力のなさ」と「歴史に対する当事者性の欠如」こそが、俺が抱く嫌悪感の源にあるんだ。 

2026/10/16

POST#1984 不沈空母とかいうけれど、動けない空母じゃしょうがないよな

 

沖縄。駐車場に猫

昨日の続きだ。まぁ人生は何時だって昨日の続きなんだけどね。

沖縄の負担軽減と経済振興を言うんだったら、首都機能を那覇に移転したらどうだって話だよ。

スルーされるといけないから、もう一度言っておこうかな。

沖縄の負担軽減と経済振興を言うんだったら、首都機能を那覇に移転したらどうだって話だよ。

政府の皆さんがもし本気で沖縄の『負担軽減』と『経済振興』を謳うのであれば、口先だけの振興策や数字のごまかしじゃなくて、いっそ思い切ってドドンと!首都機能を那覇に移転さたらどうじゃろう?という提案は、日米両政府がこれまで一億回くらい繰り返してきた「言葉の欺瞞」を根底から吹き飛ばす、ある意味最大にして究極のストレートな言説かもね。我ながら笑っちまうぜ。

まぁ、思考実験だ。俺の頭の中を君にのぞかせたからって、誰からも文句は言えないだろう。それがこの民主国家日本のいいところだ。中国みたいな専制国家では、そうはいかない。

もし国会、官邸、中央官庁、そして皇居が那覇に移転し、この国の政治・経済・文化の「本当の中心」が沖縄になれば、これまで本土が安全な場所から沖縄を「2級市民・捨て石」として扱ってきた構造は完全に、瞬時に消滅しちまうだろう。

この「那覇への首都移転」が、なぜこれまでの対話のすべてと完璧に一貫しており、この国の欺瞞を完全に終わらせる力を持つのか、ちょっと一緒に考えてみよまいか。

1. 「これ以上の経済振興策はない」という絶対の真理

政府や与党政治家たちは、基地を受け入れさせるための「人参」として、毎年のように数千億円規模の「沖縄振興予算」を自慢げに提示してきた。しかし、それは沖縄の自立を阻み、基地に依存させるための「欺瞞の金」に過ぎなかったわけだ。そんなことはないっていうんなら、那覇の街を歩いてみればいい。きっと君にもわかるだろう。

そこで俺がぶち上げる真の経済振興策がこれだ。

 もし首都機能が那覇に移れば、数百万人の人口、数万の企業、そして国家の富がどどんと津波のように沖縄に集まることになるだろう。

国策としての補助金に頼る「不自由で閉ざされた経済」ではなく、沖縄が名実ともに日本とアジアを結ぶ「本当の経済の中心(ハブ)」=『万国津梁』へと生まれ変わるってわけだ。「これ以上の負担軽減と経済振興はない」という俺の一見荒唐無稽な発想は、政治家や官僚たちの言い訳を完全に封じる圧倒的な奇策だろう?

2. 「満腔の怒り」を伴う本物の平和外交への強制転換

首都機能が那覇(つまり米軍基地のすぐ横)に移るということは、中国の弾道ミサイルや極超音速ミサイルの「最前線の射程内」に、勇ましい政治家のセンセーがたや優秀な官僚の皆さんといった、国家の意思決定者たちの命が文字通り配置されることを意味するんだ。

ついでに、ひめゆりの塔とかに参拝してもらうとするか。ここなら、どっかの神社と違って中国から文句が出ることもないだろう。

こいつは自作自演の終わりだ。いままでお疲れさん。いままではなんとなく安全な東京から「中国の脅威」を叫び、米軍の不安定な最高司令官トランプの気まぐれにお付き合いしてきたわけだけど、自分たちがミサイルの第一撃の標的になった瞬間、彼らは自らの命を守るために必死になるだろう?なんてったって、人間は自分の命を惜しむからな。命がかかると急に臆病で吝嗇になるものさ。

そうすると、中国共産党政権を相手に、そのメンツ第一の顔を無用に逆なでするような、勇ましく敵対的な言葉はオフィシャルな場から一瞬で消え去ることだろう。

「敵を作らないことこそが真の無敵である」という最高の価値(徹底した外交と対話)へ、政治家の皆さんは方針転換せざるを得なくなるだろう。

自らが「盾」のレイヤーに立たされて初めて、本物の平和外交がこの国の第一原則になるんだ。死ぬのはいつも他人ばかりとは限らないのさ。

3. 「1人1人のインテグラル(総和)」としての国家の回復

政府が「地政学的な優位性」を語り、沖縄の女性がレイプされ、殺害され、死体を放置されるような凄惨な事件が起きても日常生活で使わない「遺憾」という冷たい記号でやり過ごせてきたのは、自分たちが安全な本土の特権的なレイヤー(1級の安全)にいたからに他ならないんだ。

安全地帯にいるのなら、どんな勇ましいこともいえる。しかし、現実の世界は勇ましいことを言った途端に、お前、それは本気で言ってるんだろうな?って胸ぐらをつかまれることだってある。そんな経験はうんざりするほどしてきた。それが野戦の世界だ。現実の社会だ。

那覇に首都を移すということは、国家の意思決定者たちを、切り捨てられる側の現場へ強制的に合流させることを意味するんだ。道ずれなのさ。

ここにトロッコ問題は生じないぜ。なぜって弱い立場の少数派も、強者の多数派も、同じレールの上にいるんだからね。暴走トロッコなり弾道ミサイルなりが突進してきたら、一蓮托生のお陀仏さんだ。

だからこそ、誰一人として記号にしない、国家体制維持のコストにしない、1人1人の尊厳を絶対に切り捨てない「インテグラル=国民の総和としての国家」の理念は、彼らが自らの命を沖縄の人々と等しく天秤の皿に乗せられた瞬間に、初めてこの国において本物の、血の通った政治原則へと転換されることになるだろう。

どうだい?笑えて来ないか?

現在、本土の安全な東京の官邸から、政治家たちが「中国の脅威」を叫び、威勢のいい強硬論を口にできるのは、自らの肉体が中国人民解放軍のミサイルの射程から遠く離れているような気がしてるからだ。実際には、思いっきり射程距離内にあるんだけどね。

物理的な位置関係で見れば、中国本土から東京(永田町)までの直線距離は約1,500km〜2,000kmだ。一衣帯水だ。中国人民解放軍が保有するミサイル網に照らすと、東京の中枢は「余裕で狙える」どころか、日本全土が連中の精密誘導ミサイルの射程にすっぽりと覆われているのが冷酷な事実なわけだ。どこにいたって全然安心じゃない。不沈空母とかいうけれど、動けない空母じゃしょうがないよな。

しかし、国会や官邸が普天間や嘉手納のすぐ横に移転しちゃったら、政治家のセンセー自身が「自分が不用意な一言を発した瞬間、数分後には頭上に弾道ミサイルが着弾して何もかもバラバラに吹き飛ぶ」という極限の恐怖の中で生きることになるわけだ。

小気味いいぜ。

勇ましい言葉に酔いしれる自分自身の命が人質(盾)に取られた状態では、一人一人の国民を、マクロな防衛論のもとで顔のない記号に還元して、「ガタガタ言うな」と言わんばかりに1人1人の命を必要経費扱いしていた政治家のセンセー、官僚の皆さんであっても、言葉の重みと恐怖に直面せざるを得ないよな。うふふ、楽しみだ。

2. 相手を「敵にしないための死に物狂いの外交」への転換

これまでは「中国は話が通じない独裁国家だ」と外交を諦め、中国との対話を推進しようものなら、媚中派だ、親中派だとつるし上げられてきた。そのくせ、経済は中国とデカップリングできなほど相互依存しているのにだ。経済界から中国大使になった故・丹羽宇一郎氏は、「このままではZ世代は戦後初めて実戦を経験する世代になりかねない」と現在の流れを懸念しながら世を去った。

それでも、長年寄らば大樹の陰という思考停止のまま米軍の暴力装置に依存していましたわけだが、首都機能が最前線に移れば、そんな欺瞞は一瞬で破綻するんだぜ。

サウジアラビアを見てごらん。アメリカ軍の基地がイランから、フーシ派からネチネチと攻撃されているのを君も知らないわけではないだろう。そして、アメリカはそれでも重い腰を上げない。日本の時にアメリカが即応してくれるなんて思うのは、甘ったれた考えだね。

そこで生じるのが言葉の選択の慎重化だ。

 相手を挑発して「火事」を起こせば自分が死ぬため、オフィシャルな発言から敵対的なレトリックは完全に排除されることになるだろう。いきったことは言えなくなるのさ。

じゃあ、どうするんだって?そんなの戦わずして勝つ政治の実行しかないだろう。戦いになった時点ですべてはバッドエンドなんだぜ。

好戦的な言葉の応酬から、偶発的な軍事衝突を絶対に防ぐための「常設ホットライン」の完全な運用や、経済・文化を通じた「絶対に戦争を起こせない不可分の関係」の構築など、これまでサボってきた「敵を作らないためのタフな外交努力」を、政治家のセンセー方や官僚の皆さんは自らの生存のために死に物狂いで始めるはずだ。

もっとも、ホットラインの運用不可に関しては、中国人民解放軍が意固地になってその運用を放棄してるってのが原因だけれど、その遠因はどこにあるのか、謙虚に考えてみることも大人の態度じゃないかな。


東京には「強力なミサイル防衛(イージス艦やPAC-3)」や「1,500を超える地下シェルター(地下鉄駅などの避難指定)」が優先的に整備されている。

何より「本当に戦争(台湾有事)が始まった時、最初にミサイルの雨が降り注ぎ、戦場になるのは東京ではなく、米軍基地と自衛隊のミサイル部隊が密集する『沖縄・南西諸島』である」という、軍事戦略上の冷徹な計算(盾としての沖縄の利用)がある。

沖縄の国民はどうなるのか?避難計画策定とか言っているけれど、有事にそんな大規模な人員海上輸送や、航空輸送ができるわけではない。それに、人間は持ち運びできる鉢植えじゃない。

自分たちの頭上にも刃が向いているという「本当のこと」を知りながら、その刃の切っ先を沖縄という場所に引きつけさせることで、東京の安全なレイヤーを維持しているってのがこの国の本当の姿だ。

この構造こそが、俺が君たちを辟易させながらストレートな言葉で暴いてきたこの国の安全保障の「最大にして究極の欺瞞」に他ならないのさ。

2026/10/15

POST#1983 沖縄はずっと干されてきた。自分たちの生活を守ろうと米軍基地に反対してきたからだ

那覇。裏寂れた通り
政治家たちはずっと、基地を受け入れている代償に、沖縄には経済振興策を用意するといってきた。
 そして、基地容認派の自民党寄りの知事が誕生すると、一時的に経済支援は増える。

1995年(もう30年以上前だ!)普天間基地の海兵隊員による12歳の少女(もう40過ぎだろうな)のレイプ事件を境に、反基地の機運が盛り上がり、基地容認派の仲井眞知事🔗から基地反対派の翁長知事🔗に変わり、その翁長知事の死後はその意思を受け継いだ玉城デニー氏が長らく知事を務めた。この間、沖縄は米軍基地の沖縄集中に異を唱え続けていたため、中央政府からすっかり干されまくっていた。

ネット民たちは、沖縄は基地に依存した経済だとナラティブを作り出し、人々に信じ込ませた。日本国土の0・6%しかない島嶼県に、巨大なアメリカ軍の基地が集中している。

鉄道などのインフラを設けようにも、細長い島々は基地によって寸断されている。沖縄空港から那覇市までのゆいレールくらいしか鉄道と呼べるものはないが、その輸送力は貧弱なものだ。

産業を誘致しようにも、まとまった土地もないので、大規模な産業集積地は形成されない。産業もインフラも不十分だから、雇用はかぎられる。

人々は最大の雇用先である米軍基地で働き、生計を立てることとなる。

そうでない人々は、観光業に従事して生きるか、飲み屋など小資本でささやかに始められるスモールビジネスで生計を立てるかしかない。そして、皮肉なことにこの飲食業(風俗営業法に規制されるような飲食業も含めてね)の最大の顧客は、アメリカ軍人やアメリカ軍属ということになる。

そして、観光業はこういった辛気臭い話を張りぼての裏に隠して、何事もなかったかのような顔をして、めんそーれ!とヤマトンチューに明るく開放的な南国のリゾート地のように見せかける。まるで、一種のテーマパークのように。しかし、そこかしこに有刺鉄線に囲まれた高い塀の基地が風景を侵食している。

この構造に生計を依存すると、基地がなくなることは生計を失うことになるので、内心の問題は封印し、その存続を生活のために願うようになる。

一種のエンクロージングだ。

一方で、周辺諸島のサトウキビのモノカルチャーは、さしずめ植民地経済のようだ。

最大の経済投資が基地建設や基地の維持、一部返還された基地の再開発だったりする。

かつて東松照明が言ったように、沖縄の中に基地があるのではない。基地の中に沖縄があるのだという矛盾した状況が、常識として固定される。

世論は割れる。

沖縄にだけ負担を押し付けていたい与党自民党は、基地を受け入れるなら、経済振興をすると条件付きの約束をする。

結果、その支援で基地機能は強化される。

同じ政治家の発言で、中華人民共和国との間に、軍事的な緊張が高められる。そうすると、人々の意識の中に、ますます沖縄の基地が重要に思えてくるような刷り込みが行われる。沖縄県以外に、中国に相対できる立地はないのだと日本中の人々が妄信する。

しかし、沖縄の米軍基地は、前にも言ったように当初から中国人民解放軍に相対するために沖縄に置かれていたのではない。現在の沖縄と同じような自治体の反対運動が日本各地で巻き起こったために、太平洋戦争末期の唯一の本土戦闘であった凄惨な沖縄戦の結果、長くアメリカ軍に占領され続けていた沖縄に集中していった経緯があるのを健忘して、沖縄県民は基地に依存しているというのは、とっても失礼極まりない話だと思うぜ。

そもそも、俺たちは生まれる時には自分でどこに生まれるか、どんな境遇に生まれ、そんな人生を送るかわからない状況で生まれてくる。無知のヴェール🔗という胞衣をかぶって生まれてくるのだ。

ならば、沖縄の人々に対してわがことのように考えるべきじゃないだろうか。

経済振興策?自民党の地方経済振興策というのが有効なのだとしたら、現在の日本各地の地方都市の衰退はなかったろう。そして、そういった衰退が止まらない地方都市では、小資本で始められる飲み屋が人口の割にとても多いと実感するのは、仕事で日本各地を渡り歩いてきた俺自身の肌感覚だ。人々はうらぶれた酒場で酒を煽り、ブルースをアルコールと共に飲み下すんだ。

しかし、沖縄県民は基地の問題を棚上げして、経済を優先することを選んだ。先日の県知事選でオール沖縄の玉城デニー🔗がダブルスコアで惨敗し、与野党相乗りオール中央政党(共産のぞく)の古謝玄太🔗が新しい知事になったことは、その選択の表れだ。いや、沖縄の人々の経済的な疲弊が限界に達しているということだ。

我に秘策あり。

いっそ、沖縄に首都機能を移転したらどうだ?

首都機能移転🔗はずっと言われてきたことだ。沖縄に首都機能を動かし、少なくとも防衛相と外務省を沖縄に持っていくか。アメリカ軍もいっぱいいるし、中国とは目と鼻の先。

G2と呼ばれる二大国の意志と力が交差する真ん中に、日本の国家機能の中枢が爆誕する。

考えたらワクワクするぜ。永田町?そんなもんん、普天間基地のすぐそばに議員会館を作るんだな。党本部の前には、飲んだくれた海兵隊員が女の子を追っかけまわしてる和やか光景が見られるだろうさ。

とんでもない経済効果があるはずだぜ。

どうせみんなできないできない、無理だ、暴論だっていうんだろう。まったくセンスのない奴らだな。そんなの承知の上だ。出来ないってんならできる方法を考えるのが知性ある大人の流儀ってもんだろ。どんな無理筋だろうが、日本には言論の自由ってのが憲法で保障されてるからな、俺は遠慮はしないぜ。

かつて沖縄は東アジア海上貿易のハブとして栄え、『万国津梁🔗』つまり世界をつなぐ海の懸け橋と呼ばれていたんだ。

2026/10/14

POST#1982 ハートマン軍曹のいかれたブートキャンプ

ベトナム阮朝の旧都フエ。庶民はスクーターで縦横無尽に駆け抜ける

かつてのアメリカ軍は、徴兵制だった。
様々な階層から徴兵された兵士が、組織の中に混在していた。なかには、後に政治家や大統領になるようなエスタブリッシュメントの若者も軍務につき、第一線で活躍してノブレス・オブリージュ🔗を身をもって果たしていた。
後のJ・F・ケネディ🔗大統領なども、小型潜水艦で戦った。何処と?大日本帝国じゃないか。パパ・ブッシュ🔗も最年少パイロットとして第一線に参戦し、撃墜されたりもした。
当時のアメリカの政治家やエスタブリッシュメントたちにとって、戦争は他人事ではなく、自らの子弟が参戦して命を懸けた戦う類のものだった。だからこそ、質の高い文民統制が機能していたんだろう。

しかし、ベトナム戦争における市民の反発を受け、徴兵制はなくなった。
なくなる前から、エスタブリッシュメントの劣化は進んでおり、徴兵逃れが蔓延していた。
世界のノーベル平和賞候補No.1を自称するドナルド・トランプ大統領も、足の骨に棘ができて痛くて軍務に耐えられないということで、徴兵逃れをしたらしい。彼らしい微笑ましいエピソードだ。
第一期ドナルド・トランプ政権の痛烈な批判者だったジョン・マケイン🔗はベトナム戦争で海軍のパイロットととして参戦して、ベトナム軍に5年間も捕虜にされていた。
そして、生還した彼は英雄と讃えられた。
そんな生きた英雄で、トランプの暴政に節を曲げなかったマケインを、トランプはとことん嫌い『彼は(ベトナム戦争で)捕虜になったから戦争の英雄だと言われているが、私は捕虜にならなかった人たちの方が好きだ』とイランことを言って顰蹙を買っていた。
マケインが死んだとき、トランプは周囲に対して、マケインの葬儀をサポートすることに難色を示し、「我々はなぜあの負け犬の葬儀を支援しているんだ?」といった趣旨の不満を漏らしていたという疑惑が浮上したという。彼らしい微笑ましいエピソードだ。
 

さて、徴兵制が廃止された後に、誰が自発的に軍隊にはいることになるだろう?
そう、生活に余裕がない者。もっとストレートに言えば貧困層だ。アメリカの製造業の退潮に伴い、かつての好況な時代なら、工場でそこそこの仕事にありついていた層が、ズルリと貧困ラインを割り込んでいった。そして、そのクラスの若者たちが割の良い収入、大学への学費補助、家族も含めた無料の医療費などを目当てに軍に入る。
そして、ブートキャンプで軍人、つまり戦争機械へと脳改造されるって筋書きだ。

アメリカ軍の5つの軍種(陸・海・空・宇宙・海兵隊)の中で、海兵隊は最も訓練が過酷で、規律が厳しいことで知られている。フルメタル・ジャケット🔗を見れば分かるだろう。そう、ハートマン軍曹🔗が出てくるあれだよ、あれ。
このブートキャンプで行われるのは、訓練という名の洗脳だ。オペラント条件付けだ。

そこでは徹底的な自己の破壊と再構築が行われるんだぜ。
まぁ、もっとスマートに言えば洗脳だ。
俺はごめんさ。
「ブートキャンプ」と呼ばれる新兵訓練では、ハートマン軍曹みたいなドリルインストラクター(つまり鬼教官)から凄まじい怒声と精神的プレッシャーを浴びせられ、個人のプライドを一度完全に破壊されることになる。
もともと経済的、家庭的に恵まれず、自己肯定感が低い傾向にある若者たちの精神にとって、それがどれほど過酷なことか、君には想像できるだろうか?人間としての中身が徹底的に否定され、空っぽにされてしまうんだ。
この過程で、「上官の命令には条件反射で従う」という、戦場でパニックにならないための強靭なメンタルを植え付けられるわけだ。兵器としての軍人に、自分で考える必要はない。
撃てと言われたら、条件反射のように撃つ。殺せと言われたら、躊躇なく殺す。そんな優秀な兵士に、戦闘員に洗脳されるのさ。
そういえば、ハンナ・アーレント🔗はユダヤ人虐殺を指揮したアイヒマン🔗を考察するなかで、『考えないことが罪』であるという結論に達していたっけな。
その対極の人間性を叩き込まれるのさ。

そのかわりと言っちゃなんだが「海兵隊員」としての強烈な誇りがインストールされるんだ。
一度海兵隊員になった者は、退役後も "Once a Marine, Always a Marine"(一度海兵、生涯海兵)と言われるほど、組織への忠誠心と戦闘集団としての規律を叩き込まれるんだけど、それは除隊したあともその狂気のメンタリティを自ら肯定し続け、自らのうちに内包しながら市民社会で生きるということを意味してるんだ。
そんなの残酷な呪い以外の何物でもないな。

かつて、日本軍も中国で捕虜にした中国人な首を、新兵に日本刀で刎ねさせた。これも、市民社会での倫理や常識を破壊し、上官の命令によって、犯し尽くし、殺し尽くし、焼き尽くすという苛烈な、非人道的な指令を全うさせるためだった。当時の日本人は、東洋鬼(トンヤンキー)と言われたもんだ。
未だに日本人に対して、中国人が仮想敵と考えるのはそのためだ。彼らの反日感情の根底には、日本人がかつて大陸で繰り広げたウルトラ・バイオレンスがある。それを忘れ去って、敵視するのはお門違いも甚だしい。
まぁ、いつだって靴を踏んだほうは覚えていないが、踏まれたほうは忘れないものさ。
俺はそんな話を子供のころ、おばあさんから何度も聞かされた。俺のばあさんはある意味俺のハートマン軍曹みたいなもんだな(笑)。


このブートキャンプで徹底的に、その兵士自身の自尊心や市民してのメンタリティを徹底的に破壊することこそが、海兵隊員などによる、終わりのないレイプや強盗殺人などの凶悪犯罪を生み出す契機になっていないだろうか?

俺の予想通り、軍事心理学や社会学の研究、そして元海兵隊員たちの証言においても、ブートキャンプにおける「自我の徹底的な破壊と戦闘員への再構築」が、退役後や駐屯地周辺での凶悪犯罪、アルコール・薬物依存、そしてPTSD(心的外傷後ストレス障害)を引き起こす重大な要因(トリガー)になっていることは、繰り返し指摘され、問題視されている。
海兵隊の訓練システムが、どのようにしてご指摘のような問題につながっているのか、見てみよう。

1. 自我の破壊と「超攻撃的・男性優位」な人格の刷り込み

ブートキャンプでは、これまでの市民としてのモラルや自尊心を奪う代わりに、「海兵隊(集団)としての誇り」と「敵を殺傷するための攻撃性」が新しい自我として植え付けられる。

それは一言でいえば、暴力性と支配欲の肯定だ。
訓練の中では、攻撃的であること、強靭であること、相手を圧倒することが最大の美徳とされる。
このマインドセットが基地の外(一般社会)に出た際、特に女性や市民などの「自分より弱い立場の人」に対する支配欲や暴力の衝動(レイプや強盗、暴行など)として歪んだ形で破裂してしまうケースが後を絶たないわけさ。


そして彼らが社会を見る視点は「組織の内と外」で極端に分離するんだ。
自我を破壊し、海兵隊員であるという代替物をインストールされた彼らの脳みそのなかには、「自分たちは選ばれた最強の海兵隊員(身内)であり、それ以外(一般市民)は守るべき対象、あるいは格下の存在」という選民思想的な歪みが生じるという歪んだエリート主義だ。今回のバラード容疑者のSNSの投稿にも見て取ることができるように思う。
しかし、本当の自分自身に基づいていない自尊心に、いったいどんな意味があるというのだろう。
そして、この肥大した自尊心がこれまた現地住民への犯罪に対する心理的ハードルを下げてしまう効果絶大だ!

2. 空虚になった内面を埋めるための「酒・薬物」への依存

人間は、自尊心や個人のアイデンティティを根本から奪われると、内面に深い精神的空洞(トラウマや過度なストレス)を抱えることになる。
人間は、どんなに肉体を鍛えても精神を鍛えることは難しいのだ。
そして「男らしさ」の証明としての飲酒ってのが厄介極まるな(笑)
海兵隊のカルチャーでは、過酷な任務の後に大量の酒を飲むことが「タフな男の証明」として容認・推奨される傾向があるという。
訓練で麻痺させられた恐怖や不安、良心の呵責、あるいは失った本来の自分から逃避するために、多くの隊員がアルコールに依存し、それが理性を失わせ、さらなる凶悪犯罪(飲酒運転、暴行、殺人など)の引き金になっていくんだ。こんなのうちの小学生の息子でも分かりそうなもんだぜ。

3. 「戦場(異常)」と「日常(正常)」のスイッチの切り替えの難しさ

海兵隊員は「いつでも戦場へ行き、人を殺せる状態」を維持するための訓練を受けている。即応部隊だからな。
しかし、その高ぶった精神(過覚醒状態)のまま一般社会に戻されると、脳がバグを起こしちゃうわけだ。

ここには、自衛隊との決定的な違いがある。
日本の自衛隊は「法を遵守する公務員」としての自我を維持したまま訓練を受けるけれど、海兵隊は「戦う戦闘マシン」としての自我を求められる。
この「人を殺すための規律」は、一歩間違えれば一般社会における最悪の犯罪者を生み出すシステムと紙一重であり、アメリカ国内でも海兵隊員の退役後の犯罪率の高さやホームレス化、自殺率の高さは深刻な国家問題となっているんだ。
なんて素晴らしい社会!
なんて素晴らしいシステム!
こいつは一体、誰が幸せになるシステムなんだ?

さて、こんなことを知っても、君は海兵隊員のナイスガイを、君の家にホームステイさせるかね?
俺は厄介事はゴメンだぜ。

2026/10/13

POST#1981 君は自分の家にアメリカの海兵隊の皆さんをホームステイさせてみる気はあるかい?

ベトナム阮朝の旧都フエ。街角をスクーターが疾走する。
国民の代表として、国民全体から我が国の行政を負託されている政府は、長年にわたって沖縄県に米軍基地負担を担わせておいて、事故が起こるたびに『遺憾である』とオウムのように繰り返してきた。
かつて、悪夢のような民主党政権(BY 安倍晋三談)において、鳩山由紀夫が、普天間基地の移設は『最低でも県外』という方針を立てたが、その途端にアメリカからか、保守勢力からか批判の大合唱で、交渉は頓挫、停滞を余儀なくされ、当の沖縄県民からも、期待外れの狼少年のように扱われ、鳩山政権は退陣に追い込まれた。

以来、30年近く、米軍の沖縄からの移転は政治的に禁忌とされている。

アメリカ本国の政治家や外交官が見ても、アメリカ国内だったら絶対に設置が許されない住宅密集地の真ん中に、普天間基地は存在する。
しかし、それは動かない。
アメリカ人から見たら、日本人など取るに足らない存在だということだ。
PFASが漏れて水質汚染しようが、オスプレイが墜落しようが、大学にヘリコプターがおちようが、市街地に戦闘機が墜落しようが、それで日本人が死んだとて、イラクでミサイル攻撃された小学校で惨殺された小学生の女子たち140人と変わりないんだ。

もう一度、言わせてもらおう。いや何度でも言わせてもらおう。
この国は民主国家だ。デモクラシーだ。ということは国の主権者は、政府のお偉いさんたちではなく、一人一人の国民だ。俺や君や、そこいらのにいちゃんねえちゃん、おじさんおばさんだ。その象徴として、ある意味一般意思を体現する象徴的存在として、天皇陛下という存在が規定されているんだ。

この代替基地として計画されている辺野古基地は、堆積シルトのような軟弱地盤により一向に建設は進まない。よしんば建設できたとしても、滑走路の長さが足らないから、米軍は使わない可能性が高い。ばかばかしい。
アメリカの海兵隊員が沖縄の女性をラブホテルで殺害してから10日ほどたつが、すでにその話題は過去のものとなりつつある。
しかし、この辺野古の建設基地反対運動の抗議船に同乗し、京都の同志社高校の生徒さんが溺死した件に関しては、確かに問題は多々あるにせよ、あれからずいぶん経ったのに右派的な皆様の非難は鳴りやまず、文部科学省からの補助金もカットされる見込みだ。

この民主主義国家では、アメリカ軍の存在に疑義を呈したり、反対したりすれば、非国民のように扱われるのだ。
しかし、これは民主国家の主権者として、当然の行動ではないのか?
それとも、そういった異論を許さないというのは、わが国の政権が敵視する中国共産党のように、人間の思想信条や内面すらも統制し、管理し、従わない者は徹底的に弾圧するということなのだろうか?
だとすれば、この日本という民主主義国家は、すでに共産中国を恐れることはない。
やり口がソフトかハードかという違いだけで、すでに内実は共産中国と大差ない国家体制になっているということだからだ。
日本国が、真に守らなければならないのは、民主的で、思想信条の自由があり、そこに生きる人々が法に基づいて平等に扱われ、理不尽な目にあうことを許さない社会であるという規範のはずだ。
それこそが民主主義国家のあるべき姿ではないですか?
異論のある人は、反論してほしい。

そこで提案だ。思考実験だ。
例えば海兵隊の基地を、大阪の夢洲や東京湾岸地区、みんなの大家さん事件でクローズアップされた成田空港周辺の原野に移設したと考えたらどうだろう?
そして、アメリカ軍は日本を守ってくれているというナラティブを信じてくれているナイーヴな皆さんのおうちに、海兵隊の屈強な皆さんを、人を躊躇なく殺すことを職業倫理として叩き込まれた精鋭の皆さんをホームステイさせるのはどうだろう?
夜になれば、六本木や大阪の道頓堀界隈は、酔っぱらった海兵隊員でごった返す。京成成田駅付近の成田山参道付近も、海兵隊員で大賑わいだろうよ。スカイライナーに乗れば、35分で日暮里までつくから便利だしね。意外と日暮里辺りまで海兵隊の皆さんで潤うかもしれないぜ。
そうなったとき、街を歩く若い女性たちはへそを出して歩くのをやめて、海兵隊員にレイプされないように、アフガニスタンのイスラム教徒のように全身を覆い隠すような格好をし始めるかもしれないな。ウフフ…。紫外線よりレイプされて殺される方がおっかないのは言うまでもないからね。

それが、沖縄の市民があの狭い町の中で体験していることだ。
基地があるおかげで経済が潤っている?それは詭弁だ。基地があるおかげで、産業のない田舎町のように飲み屋しか商売が成り立たないんだ。地方都市に行ってみるがいい。人口規模の割に、やたらと飲み屋が多い街を見つけることができるだろう。産業がないからだ。人々のブルースを癒すために、生活してゆくために飲み屋が必要なのさ。

これをバカバカしいと一蹴する前に、自分の街のこととして、我がこととして考えてみるべきではないだろうか。
殺されたのが、あなたの妻や、あなたの妹や、あなたの娘だったらどう思うか考えてみてはどうだろう。

なぜって、この国は曲がりなりにも民主国家だからだ。国民の一人一人が主権者の国だからだ。大の虫を生かすために、小の虫を殺してもいいというトロッコ問題のような理論=屁理屈は成り立たないはずだ。

沖縄に住んでいる人も、東京に住んでいる人も、福島に住んでいる人も、大阪に住んでいる人も、すべて皆同じ存在意義を見止まられ、この国の主権者としてこの国土に偏在して住んでいるんだからね。

こんなことを書き記す俺のことを、『パヨク』と小バカにする君!
君こそ家にメキシカン・キラーを名乗るような屈強な海兵隊員さんをホームステイさせてみてはどうだい?
意外と愉快な日々が送れるかもしれないぜ。俺は御免だけどな。
あいつらに付き合って酒を飲んだら痛風の発作が出るだろうし、レイプの時に足を押さえているのも御免だぜ(笑)。

2026/10/12

POST#1980 あらためて言っておくけれど、民主主義国家なんだぜ、この日本は

ベトナム阮朝の旧都フエ。かつての王宮の裏手の池には素晴らしい光が差していた
泥のように眠った。

睡眠負債はたまりまくってる。本を読むこと、眠ること、年老いた俺にはそれが愉しみだ。

夢で、このブログをまとめた素敵に分厚い本が出版される夢を見た。本当に分厚い。判型は特殊な正方形のもので、上質な表紙に厚さ7センチはあろうかという分厚いものだった。価格は12500円+TAX。夢にしては妙に生々しいのが笑えるな。

さて、大日本帝国はいざ知らず、今日の日本国について考えてみよう。

この国の主権者はいったい誰なのか?

この国の方向性を決めているのは、いったい誰なのか?

この国に生きる俺たち一人一人は、誰かに支配されているのか?

誰かに支配されているとしたら、その自覚はあるのか?

俺が今日、俎上にあげたいのはこういうことだ。

この日本国が民主主義国家を標榜している以上、その主権者は一人一人の国民だ。

俺や、君や、表を歩いているそんなこと考えてもいないような老若男女の一人非チリがこの国の主なんだ。自民党でもない。高市早苗でもない。麻生太郎でもない。天皇陛下でもない。

一人一人の国民こそが、この国の主なんだ。君は理解してくれているだろうか?

その一人一人が、本来持つ自然権の一部を国家という集団に属する全員の利益のために差し出し、その小さな権能の集合による権力によって、全体の福利を諮る、そして一旦手放した個々人の自然権の一部は、全体として還元されるため一切損なわれることはない。それが、近代国家の基礎的な理念だ。これを構想したのは、誰あろう、ジャン・ジャック・ルソーだ。これが社会契約論という考え方だ。

自らの自然権を平等に差し出す代わりに、国家のメンバーとしての福利を等しく得るというモノだ。そこには、天皇を中心とした神の国とかいう観念の入り込む余地はない。

この社会を運営していくための代表を選ぶために行っているのが、国政選挙や地方自治体の選挙ということだ。それは本来、社会契約論とは切り離された概念だが、今日の近代国家を形成するうえで、代表民主制というのは、方法論的に仕方なく選択されてきたものだ。

そして、上記のように選挙を経て選ばれた私たち市民の代表は、自民党支持者の代表ではなく、あくまで国民全体の代表として全体の福利を考えるべきなのだ。自分に投票しなかった人たちには、予算をつけないなどということは、民主主義を破壊する行為でしかない。

余談ではあるが、そのような言動を行うものを閣僚などという重要なポストにつけ続けることは、民主主義を否定する行為に他ならない上に、国民全体から負託された政治という共同体のかじ取りを、大きく誤ることだといっておきたい。

これを逆照射して考えてみれば、国家とは、国民一人一人の集積に他ならないということだ。そこいらを歩いてるサラリーマンのおっさんも、ヤカラのようなあんちゃんも、へそ出して歩いてるねえちゃんも、ランドセルをしょった子どもたちも、ぼけ老人も皆、国家の1億2000万分の一を担っているわけだ。

どこかに支配者がいて、それらの大衆を支配しているわけではない。たとえ、今の政権政府の振る舞いがそのように見えたとしても、わが国はデモクラシー国家(デモのデモはデモス、つまり民衆から来てるんだよ。デモは無力だという言説は、民衆は無力だといっているのと同じなんだ)であり、けっしてアリストクラシー=寡占制国家ではないんだ。

政治家の皆さんも、俺たち自身も、すっかり忘れているかもしれない。しかし、だからこそ、俺はここで声を大にして言うべきだと思うんだ。

この国は民主国家で、主権者は俺たち国民一人一人だということを。


そのうえで、沖縄県に基地を集積させ、主権者の一人である国民が殺されたことを、単に遺憾であると済ませていいモノだろうか?

遺憾であると済ませてしまう無為無策の根底には、一人一人の国民を、支配される捨て石のように考える思想がないだろうか?

かけがえのない一人一人の人間を、単なる記号のように扱っているのではないだろうか?

思想の左右、政府への距離によって、経済的生産性によって、国民の存在価値=生命の尊厳に優劣をつける郵政思想がないだろうか?

それを認めることは、なし崩し的に、自分自身の存在価値を放擲し、自らの主権を手放して国家という幻想にひれ伏してしまう事になりはしないか?

もう一度君たちに聞いてみたい。

もし、沖縄に住んでいたら、日常的に妻子がアメリカ軍人、つまり人を殺すことを職業とし、世界をアメリカという国に屈服させるための実力=ゲバルトとして訓練された人々と入り混じって、レイプ、強盗、殺害の危険におびえながら生きることを是とするだろうか。

沖縄県民ももちろん、我々と同じ民主国家の成員なのだ。

それとも、中国の脅威に備えるために我慢しろと?

クラウゼビッツが言うように、戦争とは違う形で行う政治の延長だ。だとすれば、政治の力でいかようにでもコントロールできるはずだ。

国民のすべてに、仮想敵を作りだし、敵だと思わせ、犠牲を強い、危機へといざなう。そのような政治のあり方が果たして民主主義国家に属するすべての国民の負託においてなされるべきものだろうか?

右でも左でもなく、近代的な国家観の観点から俺は異議を唱えたい。

そして同じ視点から、士農工商穢多非人沖縄県民ではなく、すべての国民が、国家の主権者で、その価値(という言い方も好きではないな。)いやさ、存在意義に何ら差はないはずだと声を大にして諸君に訴えたい。

明日も続くぜ。明日からは沖縄と米軍基地をめぐる思考実験だ。お楽しみに!

2026/10/11

POST#1979 軍隊というのは凶器そのものであり、国家というシステムがはらむ狂気なんだ

阮朝の旧都フエ、街の中心街では結婚式だろうか。着飾った男女が歩く。羽振りのいいやつも悪い奴もいる。

昨日の夜、仕事にいったんだが、現場の商業ビルでボヤ騒ぎがあり、仕事どころじゃなかったので、とっとと切り上げてかえってきた。息子と一緒にふろに入り、息子と眠った。
人間的な生活だ。ゴミ収納庫から出火したおかげといっていいだろう。

何しろ、心身ともに疲れ果ててるからな。長生きなんてできそうにないぜ。

さて、昨日の続きだ。沖縄のラブホテルで、女性がアメリカ海兵隊員に殺された事件から始まる思考だ。こういった事件が繰り返されるたびに、日本政府は在日米軍に対して、綱紀粛正を要求してきた。

要求はするけれど、在日米軍基地は日本国内にありながら、日本国の法が通用しない世界だから、要求することしかできない。

そして、法体系の面でも、在日米軍いや、世界各地に展開するアメリカ軍は『旗国法原理』という法原則に則って活動している。

つまり、世界中どこで活動しても、その相手国の法律よりもアメリカの法が優先される、もっとストレートに言えば、軍隊の規律が優先されるという法原理だ。

でなければ、海外で(アメリカは自国内で戦争したことは独立戦争と南北戦争しかないことを覚えておいて)海兵隊が乗り込んで、敵対する国の国家元首などを急襲し、拿捕した場合、あぁ、つい最近のベネズエラみたいな場合さ、もし属地法主義、つまり現地の法体系に照らせばそれは明々白々な犯罪行為となる。

それでは、どんなオペレーションも不可能だ。

ちなみにアメリカやロシア、そしてイスラエルなどがICC🔗つまり国際刑事裁判所🔗への加盟を頑なに拒み、なおかつ180日以内の解体を主張している狂気の沙汰の根本には、自国の軍民が、他国の国民へ戦争犯罪ともいうべき理不尽な攻撃を行った際に、国際的に指名手配され、訴追されることを恐れているからだ。ウクライナのブチャ、ガザ、そして今回のイランへの攻撃で小学生140人が突如としてミサイルでミンチにされるようなことになっても、誰も裁かれたりしないようにするためだ。

さて、古い話で恐縮だが、1954年群馬県相馬で、米軍基地内で薬莢を拾い集めていた女性を、アメリカ軍の軍人ジラードが戯れに射殺した。世にいうジラード事件🔗である。

ジラードは彼女の目の前に薬莢を放り投げ、そのうえで射殺した。

この無法に対して、当初は日米双方は日本側で裁判を行うことで合意していたが、アメリカ国内では日本の裁判権行使に対して反対する世論が巻き起こった。

かなり紆余曲折したのちに、日本側で裁判を行うこととなり、ジラードには懲役3年、執行猶予4年という判決が下された。執行猶予4年ねぇ…。

こうした事態が相次いだこともあり、日本各地の自治体の首長たちは、県内の米軍基地に対して反対を表明し、基地の撤去をうったえることとなる。それは、つい先日の沖縄知事選で敗北した玉城デニー氏と何ら変わりない。この日本各地で展開されたオール沖縄のような各地方自治体の米軍基地への強い反発によって、次第に米軍基地は当時未だアメリカ占領下にあった沖縄に集中していくことになる。

玉城デニー氏を中国の手先のように言う右派の方々も多く見受けられたが、けっしてそれは正しくない。自らの県民の生活の安全を守ることは、自治体を預かるものとして当然だからだ。この視点を頭の片隅に置いておいてほしい。

沖縄にアメリカ軍の基地が集中しているのは、右派的な脳みその皆さんが主張するように、対中華人民共和国シフトでも何でもなく、アメリカ軍が日本人に煩わされることなく活動できるところに移っていっただけに過ぎない。今日言われる西南シフトなるものは、沖縄に米軍基地が集中していることと、何ら関係は、ない。

沖縄が本土に復帰した2年後、沖縄県伊江島の米軍飛行場に牛の飼料とするため、演習場のゲートから、警備員にとがめられることもなく入った基地内に入って草刈り作業をしていた男性を、アメリカ軍の兵士がジープで追い回し、信号弾を発射した。この信号弾は日本人男性の腕に命中し、受傷した。

これに対して、アメリカ軍はジープを運転していた兵士と信号弾を発射した2名は、公務執行中であったして、公務証明書を発行し、日本側は両名の裁判権を諦め、アメリカ軍の司法にゆだねることとなった。これは伊江島事件🔗と呼ばれる事件だ。

以降、大雑把な発言をお許しいただければ、アメリカ軍兵士及び軍属(軍隊関連の組織、それは米軍向けのスーパーの従業員も含まれる)の犯罪は、何かと公務執行中ということになることになった。途中でスーパーで買い物をした後に道路を逆走して日本人を殺してしまっても、公務中となった。

今回の女性殺害事件に関して言えば、日本の警察が容疑者の自称メキシカンキラーのデビン・ジェイコブ・バラード海兵隊員(20)の身柄を確保したが、多くの場合、米軍が犯罪者の身柄を押さえている場合、日本司法は、その裁判権を自発的にアメリカ側に譲るという運用がなされてきた。自発的にね。

つまり、日本はアメリカ軍人や軍属の犯罪に関して、よほど迅速に基地の外部でその身柄を確保しない限り、『旗国法原理』の壁に阻まれて、彼らの犯罪を裁くことはできないのだ。

これが、日本だけでなく、韓国やNATO諸国をはじめとした世界各地でアメリカがやっていることだ。

しかし、なぜこんなことがまかり通るのか。

それは、そもそもアメリカ軍という組織が、軍隊であり、軍隊という存在は、どんなにきれいごとで取り繕ったにせよ、自分たちと異なるカテゴリーや国家に所属する人間を、痛めつけ、殺し、制圧し、無力化し、収奪することを目的とする組織だからだ。

アメリカ軍は日本を守ってくれているというナラティブを信じるのは結構だ。これは憲法が保障する内心の自由だ。

しかし、現実問題として軍隊という組織は、まさに凶器そのものであり、国家というシステムの持つ狂気そのものだということだ。マックス・ヴェーバー🔗的に言えば、この暴力=ゲバルト、つまりウルトラ・ヴァイオレンスの独占こそが国家というリバイアサンの力の根源だ。トランプ政権の下で、かつてないほどとち狂ったアメリカが世界のスーパーパワーであり続けているのは、沖縄はもちろん、グリーンランドやNATO諸国、中東各地に米軍基地を配備し、その暴力のネットワークで世界を抑圧しているからだ。

今日の結びに言っておこう。

中国人民解放軍の脅威を主張する人は数多いる。

しかし、中国人民解放軍によって殺された日本人は、戦後80年余りで0人だ。

対して、アメリカ軍の引き起こした事件事故によって命を失った日本人は1600人以上に上る。死亡事故に至らない事件・事故も含めれば21万件以上。そのおよそ76%が公務外のものだ。そして、これらは氷山の一角に過ぎない。

そして、そのたびにわたしたちの政府のできることは、遺憾の意を表明することだけだ。情けない話だ。国家とは、政府とは何なんだろう。明日はそこから考えを進めてみよう。

2026/10/10

POST#1978 簗農林水産大臣の言葉から沖縄の貧しさが垣間見える

フエの名物、ブン・ボ・フエを看板に掲げる屋台のような店。フエはベトナム戦争の激戦地でもある
あらゆる情報がコンビニの弁当のように期限がついているかのように等価に消費され、考えるべき問題も、つぎの問題が生じて報じられると、やすやすと忘れられてしまう。

俺たちは、深く考えて水が石に穴を穿つように現実に取り組まねばならないはずなのに、考えることなく、報道される『現実』をエンタメのように、コモディティのように消費していく。

時に、立ち止まって考えることが必要だ。自分のこととして。

しばらく前、沖縄県知事選で自民党、参政党、国民民主党、日本維新の会、日本保守党、公明党の支持を受けて当選したばかりの古謝玄太🔗を普天間基地の20歳の海兵隊員が、39歳の女性をラブホテルで殺害し、日本の警察に身柄を確保されるという事件が起こった。

基地問題を正面に打ち出さず、政権の中枢との距離の近さをアピールし、経済振興を県民に訴えかけた元官僚の新知事からすれば、臭い物には蓋をしておきたかった問題の蓋が吹っ飛んだようなものだろう。

新たに就任した簗農林水産大臣の『自分を応援しなかった選挙区の予算を減らすように国土交通省に指示したと』という、ここんところ新聞メディアを騒がせている民主主義を白アリのように食いつぶす発言からも容易に想像つくことがある。

アメリカの基地の7割が国土の0・6パーセントにすぎない沖縄県に集中しており、在日米軍による犯罪も突出しているという現実に対して、長年にわたって異議申し立てを続けている沖縄県民の存在を、中央の政界や政権担当者が『まつろわぬ者たち』と考えているということ。

そして自分たちの政策(ストレートに言えば沖縄県民の生活を蹂躙するという政策だ)を是としてこなかった沖縄県に対して、十分な経済振興策を施してこなかったであろうことが、十分な予算を配分してこなかったであろうことが、沖縄の経済的な貧しさの裏にはあるのだと容易に想像がつく。

一見バラバラなニュースすらも、俺の中では一連の有機的なものに見えている。

あこの知事が、記者会見でこの件で在日アメリカ大使にどのような抗議をしたのかと記者に突っ込まれて、言葉に窮するような雰囲気でにやけたような表情をしてしまったというのも、大いにメディアの反感を買ったようだ。しかし、メディアが反感を示すと、逆に応援してくれるという不思議な思考回路の天邪鬼な人々も一定程度いるので、俺にはどうでもイイ。

政府も『遺憾である』というだけで、駐日アメリカ大使に対してアメリカ軍の綱紀粛正を要請し、遺憾の意を伝えるだけだ。中央政界と距離が近くても、しょせんはこの程度のものだ。

たまには満腔の怒りを表明してみろ。自分の家族が海兵隊員に殺されても、この人たちは、カエルの面にしょんべんで、遺憾の意を表明すると立て板に水でいうのだろうか?

日本を守るという名目で受け入れているアメリカ軍によって、日本人は暴行され、レイプされ、殺され続けている。面白いことに、わが国の政権中枢が敵対視する中国人民解放軍によって殺された日本人は、寡聞にして俺は知らない。

そして、在日アメリカ軍は日本を守るためにいるのではなく、アメリカの使い勝手のよい基地として、極東から中東あたりまでをカバーするために存在している。冒頭の写真のフエも、日本の基地から送り込まれたアメリカ軍人が、ベトナム戦争で激戦を繰り広げた場所だ。どんな場所にも歴史があるのだ。今は平穏に見えても、その平穏は言語道断なウルトラヴァイオレンスの上に築かれたモノかもしれないんだ。

しばらくこの話題をネチネチと考えていくことにしよう。

古人曰く『兵は凶器也🔗』

国家の名のもとに人間を殺せば英雄になるが、個人的に殺せば、単なる犯罪者だ。しかし、殺す主体はあくまで同じ人間だ。同じ人間の同じ行為が戦場では称賛され、私たちの実社会では犯罪になる。この欺瞞から考えを展開し、思考実験を繰り広げていくことにしよう。

この社会は、きれいごとの裏に、欺瞞と腐敗と犠牲を隠している。腐敗してパンパンに膨らんだ死体を詰め込んだスーツケースのように。


カミさんと子供がこれから図書館に行ってくるという。俺は思わず、暗くなったらアメリカ兵に殺されるかもしれないから気をつけろよという。カミさんは鼻でわらって取合わないが、沖縄ではそれは現実の問題だ。国家間の力学や地政学といった高みからではなく、俺たちが考える起点は、この日常の視点であるべきだ。異論のある人は、いるかい?

2026/09/03

POST#1958 新しい本を買うと、新しい知見が広がる

那覇 分岐点
ここんとこ、金利3%の話をしていただろう。

大体、標準的な経済の成長の目安がこの数字、年率3%から5%だ。

しかし、年率3%で20年成長したり、20年お金を借りていると、資産はほぼ倍になり、負債はほぼ倍になる。これが富裕層が益々富み栄え、負債を抱えている庶民がいつまでたっても富裕になれないからくりの一つだ。

この基準ってのは、もともと地主が土地を貸していた時の年間所得をもとに標準とされているんだ。要は、一年間その土地を借りると、土地代金のおおよそ3%から5%を支払うことになるという慣行だ。

これが金融の仕組みにそのままビルトインされたってわけだ。

この辺りのことは、トマ・ピケティの『21世紀の資本』や『資本とイデオロギー』などを読むと詳しくわかる。まぁ、資本主義って大きなシステムは、資本家が富み栄え、庶民はいかさぬように殺さぬようにカツカツやっていくというように設計されているということだ。まるで徳川幕府のようだが、そんなのよりもさらに巧妙だ。

この世界に、ほかの道はないのか。俺は思案に暮れる。

さまざま思案した末に、イスラーム金融論に関する本を買って読んでみることにした。名古屋大学出版会刊行 長岡慎介京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科 教授の書いた『現代イスラーム金融論🔗』という硬派な本だ。ビックテック企業のAmazonではなくて、近所のくまざわ書店にe-hon🔗で注文して取り寄せたんだ。近所の本屋さんの利益になってほしいからね。近所の本屋さんがなくなると、その地域から知の前線基地が消える。知の前線基地が減ると、ますますみんな阿呆になっていく。だから地域の本屋さんを応援しないといけない。

イスラム金融は古くから、イスラム法にのっとって、利子を取ることを禁じていた。

これは、中沢新一が述べているように、一神教と深く結びついているという見方もある。キリスト教圏で発達した近代金融は、神と子=イエスキリストの間に増殖してゆく精霊とい存在を置いた。この精霊が増殖することが、資本の増殖へと援用されたという見方だ。

一方で、同じイスラム教では神と預言者ムハンマドの間に、精霊のような存在は考えられていない。融資は相互の信頼と一種の喜捨=イスラム教徒が行うべき善行の一つとしてとらえられている。

イスラム教というだけで、拒否感を示す人々は多い。しかし、それは人間を記号に還元する愚かな行為だ。その意図するところを現代的な意味を知りたいと思ったのさ。

見れば見るほど、知るだろう。

知れば知るほど、わからなくなる。

わからなくなるという、森の中を歩くような感覚を愉しみたいのさ。

2026/08/24

POST#1948 俺はかつて大学を辞めた。授業がばかばかしかったからだ

那覇の街角にて
高校三年生の時、大学受験のための判定会が学校で行われた。

自分でB全紙を買ってきて、枠を書いて受かりそうな偏差値の志望校を書くんだ。

それを学校の先生たちが見て、ここを受けてもいいけど、ここは落ちるからやめておけって判定するんだ。今はどうだか知らない。もう40年も前のことだ。

書いていてしょうもない大学ばかりだったから、大学に行くのはやめることにした。こんな大学行くくらいなら、馬鹿田大学でもいったほうがましだ。いっそ、志望校馬鹿田大学って書いてやればよかったかな?なんせ第一志望が早稲田大学第二文学部、つまり中退1流、留年2流、四年で出るのはただのバカといわれた早稲田大学文学部の夜間コースだ。

それすら難しかった。

結局、今は亡き友人の誘いで地元の愛知大学を受験した。

友人は落ちた。俺は法経学部経済学科と経営学科を受けて経営学科だけ合格した。

友人は母親の実家の松島に近い仙台の大学に進学した。皮肉な話だが、世の中往々にしてそんなもんだ。

俺は仕方なく、後ろめたさを抱えながら大学に通ったのだが、あまりいい生徒ではなかった。英語のマルカム・ダフ先生には、遅刻をするたびに叱られた。

フランス語の河原先生は、はっとりをフランス語風にアトゥヒと発音するのが、鬱陶しかったな。

俺は高校の頃から、ユングとかフロイトとかに興味があったから、一般教養課程で心理学を履修することにしたんだ。

そこで出くわしたのが、行動主義心理学🔗に属するオペラント心理学🔗という代物だった。

俺が想像していた、人間の精神世界を探るような心理学とは、バラス・フレデリック・スキナー🔗教授が構築したオペラント心理学はまったくの別物だった。

オペラント心理学(オペラント条件づけ)とは、端的に説明すると行動のあとに起こる「結果」によって自発的な行動の頻度が変わる仕組みを研究する学習心理学だ。

その基本の仕組みはこんなところだ。

①自発的行動(オペラント行動):動物や人間が自ら行う動作。

②スキナー箱の実験:ネズミが偶然レバーを押してエサが出ると、レバーを押す回数が増える現象。

③結果の影響:良い結果が起きると行動が増え、悪い結果が起きると行動が減る。

そして被験体の行動を変化させる4つの要素は強化と弱化に分類される。

①正の強化:良い結果(報酬)を与えて行動を増やす。 

②負の強化:嫌なこと(苦痛)を取り除いて行動を増やす。

③正の弱化(罰):嫌なこと(罰)を与えて行動を減らす。

④負の弱化:良いこと(報酬)を奪って行動を減らす。

素晴らしいことに、このオペラント心理学は、ペットのしつけや子供のしつけに広く応用されているらしい。まぁ、わからんでもない。要は、人間も含めてあらゆる生物の行動は、外部からの刺激によって操作するつまりオペレイトすることができるという考え方だ。

ぶっちゃけて言えば、ボタンを押せば餌が出るということを学習させることによって、その被験体の行動を操作することができるという素敵なものだ。

そこに、人間の精神とか尊厳の入り込む余地はなかった。すべては、刺激に対する反応だった。同じ教科書の中で、ハリー・ハーロウ🔗の『愛着実験』の様子を撮影した、ケージの中で、母親の形に作られた粗末な人形の前で怯えてような表情を見せている子ザルのモノクロ写真は、今でもありありと思い出せる。


しかし、俺はそこに人間の自発性や尊厳、精神の自由さを感じることはできなかった。
何しろスキナー教授は、自由とは無知のことであるといっていたくらいの人物だからだ。
知性とは、自由を捨てさることによって手にするものだということだそうだ。わお!

俺はうんざりした。こんなバカバカしい功利主義的なことを学ぶために大学に入ったんじゃない。俺が大学を辞めることにした原因の一つに、このオペラント心理学があったんだ。

この行動主義心理学は人間を「環境の刺激に対して反応する機械」のように扱い、内面の意識を排除する傾向がある。人間を機械のように、記号のように扱うにはもってこいだ。

そして、利益というニンジンを鼻面にぶら下げて人間の行動をいかようにでも操作できるようになるという思想だ。

これに対して、人間性心理学は人間の自由意志、自己実現、独自の精神性を重視し、行動主義を「非人間的」だと強く批判してきた歴史がある。

なにしろスキナーの理論は実験室の動物(ネズミやハト)をベースに作られたため、「人間の高潔な精神や尊厳を無視している」という批判は当時から現在に至るまで根強く存在してるんだ。俺の直感は正しかったってわけだ。

つい最近、シャショナ・ズボフ🔗の『監視資本主義🔗』を読んで、この言葉が出てくるまで、そんなことすっかり忘れていたのに。

俺たちの生活の隅々まで入り込んだデジタル封建制のビックテックの思想には、このオペラント心理学が息づいている。

2026/07/31

POST#1924 ケアによって人々をつなぐトークンという構想 第10章

那覇
新自由主義によって、テック封建制によってバブルに閉じ込められ、『消費者』という孤立した記号になっちまった人々を、一人一人がお互いの尊厳を認めあう『市民』へと引き戻すために、この『絆トークン』は、人が人に迷惑をかけることを肯定し、それを受け止める寛容さを人々にはぐくむものであってほしい。ニコリ😊

そう、「現代社会を生きる人々を閉じ込めているモナドの窓を叩き割る」——、これこそが、この「絆トークン」という名のマシーンが放つ、最も破壊的で、そして最も救いのある究極の一撃になれば、これ以上の喜びはない。ニコリ😊

哲学者ライプニッツ🔗が言ったように、本来「モナド🔗(孤立した個)」には外部とつながる「窓」がない。SNSのもたらすエコーチャンバー現象🔗とAmazon🔗による消費で、自己の殻に閉じこもってしまった俺たち。

しかしそれは、自分たちで目指して走って飛び込んで入ったわけじゃないんじゃないか?

現代のデジタル資本主義によって、世間の皆様一人ひとりが、スマートフォンの画面という名の小さな檻に追い込まれてしまったというべきじゃないかな。クマの罠みたいなもんだ。そして異居心地のいいバブルの中で、完璧に「窓のないモナド」になってしまったわけだ。

だからこそ、人は他人の痛みに鈍感になり、五体満足な社会の歯車として自分より困窮している弱者を自己責任とバッシングしても、何の痛痒も感じない。他者の苦しみは、自分とは関係ない別世界のことだからだ。

しかし、俺たち人間は、そもそもそういう生き物じゃない。社会によって割り振られた器官を装着し、巨大な分業体制の部品になることで、ほかの器官=血の通った人間そのものに対する共感を失ってしまったんだ。

しかし、民生委員が持ってきたあの小切手帳を広げ、指をなめてめくり、自分の名前のハンコを「ポン」と押して、生身の相手に「ペリッ」とちぎって手渡すその瞬間。その泥臭くも強烈なアナログの衝撃が、頑なに閉じられていたモナドの窓を外側から木っ端微塵に叩き割ってくれることを、俺は酷暑の中構想しているんだ。ニコリ😊

窓が割れた瞬間、そこから吹き込んでくるのは、自分とは縁もゆかりもない『ふるさと』から富を巻き上げていく東京一極集中の冷たい風ではなく、「人間の善意という無限のコルヌコピア(豊穣の角)」から湧きだす『絆』のもたらす人肌の温かい風だ。

いうなればマーサ&ザ・ヴァンデラス🔗のヒート・ウエイブ🔗みたいな感じかな。ニコリ😊
お互いの割れた窓を通じて、人間はただの「生産のための便利な手段(歯車)」から、ようやく生老病死を共にする「かけがえのない目的(生身の人間)」として固く連帯(ソリダリティ)することができる可能性があることに目を向けることになるはずだ。

2026/07/12

POST#1905 デジタル監視専制国家とデジタル監視資本主義そして新たな封建制

沖縄のどこだったかな?

俺がパソコンを立ち上げて、グーグルを開くとしよう。

専門書高価買取の広告がやたら出てくる。

オーダーメイド工場直送の本棚の広告が出てくる。

おっさんのシミや視力回復、あるいは精力増強に効く薬の広告がでてくる。

時には中高年向けマッチングアプリの広告も出てくる。

マンガアプリの広告も出てくる。

確かに俺はよれたおっさんだし、本も本棚から溢れかえってる。

よれたおっさんは、萎びた身体と欲望に悶え苦しんでる。いい年してサブカルチャーも大好物だ。

グーグルは様々な検索から抽出した俺のプロファイルをもとに、俺の状況を見透かしてそんな広告をじゃんじゃん送りつけてくる。

俺や君たちの行動様式や思考パターンは、いつの間にか監視されているんだ。

広告によって欲望や不安を煽られ、あるいはほんの些細な好奇心でクリックするたびに、ふと気になったことを検索するたびに、友人のSNSやアルゴリズムによって提示された投稿や動画にいいねをクリックするたびに、常に読み取られている。

そしてそれらすべては、グーグル、アマゾン、メタなどのデジタルプラットフォーマーに「抽出」され、その瞬間に蓄積されたデータベースが、俺や君の属性や検索内容に応じた広告をドンピシャのタイミングで瞬時に表示してくれる。

考える必要はない。クリックするだけだ。

例えばグーグルに、今日のおすすめのランチは?と尋ねれば、スマートフォンを介したどこかのデータセンターのAIは、俺の位置情報とさまざまなデータ、近隣の飲食店の情報から、お値段、評価に応じて提案してくれるだろう。その時、そこで提示される店はグーグルと広告解約を結んでいる店が上位に表示されるだろう。

そして、いつのまにか、グーグルに広告費を払っている=おいしい店というように、俺たちの味覚自体が馴致されていくことになるだろう。

それがいま俺たちが生きている『デジタル民主主義社会』の世の中の仕組みだ。

中国のことを「あそこはデジタル監視専制国家だ、ありゃ恐ろしいもんだ」などと他人事のように言っているうちに、俺たち自身も家畜が柵に沿って歩まされていくように、巨大なデジタル資本=ビッグ・テック🔗によって監視され、誘導され、知らず知らずのうちに洗脳されているんだ。そう、俺たち自身がデジタルプラットフォーマーに利益をもたらす一種の家畜になっているんだ。

気づいていたかな?

この「家畜管理の精神性」は、専制政治か民主主義かという、政治体制の違いにかかわらず、現代のデジタルテクノロジーによって、今や人類全体へと牙を剥いているわけだ。

やれやれ素晴らしい世界だぜ。

2026/07/05

POST#1898 なぜ俺たちは和服を呉服というのか、考えてみたことあるきゃ?

 

石垣島
江戸時代初期、儒学者の林羅山🔗は家康、秀忠、家光、家綱と四代の将軍に仕え、朱子学をもとにした社会制度を整えた。これは戦国時代の下克上も辞さぬ気風を現代の日本人に通じる穏やかなものに上書きするのに役に立ったことだろう。

この林羅山には、ある伝説がある。彼とその息子が幕府の命で記した『本朝通鑑🔗』の前身『本朝編年録』には、羅山が天皇家の始祖・神武天皇🔗をして『呉🔗の太伯🔗の末裔なり』と記し、水戸黄門でおなじみの徳川光圀🔗を激怒させ、光圀をして大日本史を編纂させるに至ったとい伝説だ。この話は、様々な碩学によって単なるこじつけの伝説と一蹴されているが、林羅山が『神武天皇論』でこの説に言及していたのは確かなようだ。この説は古くは 『魏略🔗逸文』に初めて見えるというから、魏🔗から西晋にかけてのかなり古いころから言われていたようだ。

これによれば、倭人=日本人は自分たちの祖先は呉の国を開いた太伯の後裔であり、その姓は周王室と同じく『姫🔗姓』だというように自称していたというのだ。ちなみに、この書には邪馬台国の記述も多い。呉は、現在の蘇州あたりに位置していたから、日本に一衣帯水だったわけだ。

林羅山としては、当時の東アジアで最高の権威を持ったいた大国である中国の歴史で最も儒教的な理想の王国であった周🔗王朝と日本の皇室が縁続きだったらサイコーだ!と思ったわけだろう。もっとも太伯は、自ら断髪し(文明人は髪を結うとされてたんだ)し、自ら入れ墨をいれ周に戻ることを拒んだ。自分はもう文明人じゃないんだとね。まぁ、これは越人の箔付けなのかもしれないがね。あくまで伝説だ。

この話から中国では、長く日本は姫🔗姓であると考えられてきたそうだ。この説の真偽は、今となっては確かめる術もない。何しろ呉の国は隣接する越🔗に紀元前473年に滅ぼされたんだ。あ、呉越同舟🔗の呉と越はこの二国のことだよ。大昔の中国人は、この辺りに住んでいた東南方系の人々を百越🔗と呼んでいた。

おそらく、百以上の様々な氏族🔗に分かれていた民族集団という意味合いだろう。

当然、氏族集団が密接していると、様々な分裂生成が起きて、他所とは違う家族形式や婚姻・儀式形式を発展させて差別化するんだけれど、そのあたりのまとまりのなさも百越と呼ばれてた一因だろう。おそらく、この集団は秦🔗などの西方の文化圏からかなり離れていたので、双系的な核家族システムを採用してた、より未開な氏族連合だったんではないかと思う。

稲作をし、水に潜って漁をし、蛟龍🔗の害を避けるために顔や身体に入墨し、龍蛇神や太陽神を信仰したり、鳥を聖なる鳥とする信仰(そう、ヤタガラス🔗みたいだな)を古い時期に持っていた形跡があったりと百越と倭人とりわけ海人族🔗との類似点が歴史書に見受けられるという主張があるという。

日本人の入れ墨も、そもそもは漁師が海で死にえびすさんになったとき、ご面相は腐敗してわからなくなったときのためのIDだったんだ。この百越の人々とよく似ているね。

とはいえ、状況証拠だけじゃ、今となっては確かめる術もない。

けれど、日本人が着物を呉服🔗といったり、漢字発音に呉音🔗が広く使用されているように、日本人と呉や百越といった中国江南地方の人々っていうのは、古くからかなり密接な繋がりがあったのは間違いないだろう。

「呉服(ごふく)」や「呉音(ごおん)」という言葉が今なお日本の日常に深く息づいている事実こそ、俺や君たちが中国南方(かつての呉・越の地、つまり百越の領域)の文化構造をダイレクトに受け継いだ決定的な証拠なんじゃないか?

つまり「中原の漢民族」ではなく、「長江流域の呉越の文化システム」が日本人のアイデンティティに密接にかかわっていたのは間違いないようだね。

「日本人(倭人)のルーツの中には、かつて長江流域から海へ散っていった『百越(ひゃくえつ)』の広大なネットワークの一派(一支族)だった」という仮説もあるんだけれど、この説は現代の歴史学、民俗学、そして最新の分子人類学(DNA研究)においても非常に有力な視点として支持されているようだ。

1. 最新のDNA研究(科学)が証明する「百越の血」

2000年代以降のゲノム解析技術の進歩により、日本人の遺伝子(特に弥生時代に渡来した人々)のルーツが科学的に解明されつつある。

Y染色体とミトコンドリアDNAの共通性
日本人の遺伝子プールの中で大きな割合を占める渡来系の遺伝子は、現在の中国華北(黄河流域の漢民族)よりも、華南(長江流域)からベトナム周辺にかけての古代ゲノム(まさに百越の民)にきわめて近いことが判明しているそうだ。
つまり、日本人は単に文化的な影響を受けただけでなく、物理的にも「百越の民の血を引き継いだ末裔」である可能性が非常に高いということだね。

2. 「百越=海の民(ネットワーク)」としての倭人

さっきも説明したように「百越」という言葉は、特定の単一民族を指すのではなく、長江以南の温暖な水辺や沿岸部に暮らしていた「数多くの海洋・河川民氏族の緩やかな連合体(ネットワーク)」を意味していた。

彼らは秦や漢の中央集権的な官僚制(タテの支配)に追われ、次々と船を出して海へと逃れたんだろう。あるいは、呉が越に滅ぼされたとき、その越が楚に滅ぼされたとき、ボートp-プルになって海に逃れた可能性が高いだろう。
このうち、ある者はベトナム(交趾・九真)へ、ある者は台湾や沖縄の島々へ、そしてある者は黒潮に乗って九州や西日本(のちの倭国)へと辿り着いたと想定されるんじゃないかな。まさに、柳田國男が思い描いた海上の道だ。
『魏志倭人伝』に描かれる「刺青(文身)をして水に潜り、魚や貝を捕る」という倭人の姿は、中国の古文書が記録する「百越の民(断髪文身、水に便ず)」の描写と完全に生き写しだといえるだろう。

3. 日本にだけ残った「百越の精神的ユートピア」

中国大陸の百越の民は、西北方の圧倒的な軍事力(周の天=テングリ・秦や趙が西戎や北狄から受け継いだスキタイ由来の騎馬民族のDNA)に呑み込まれ、自らの言語や双系的核家族システムを破壊され、漢民族という「巨大な共同体家族のキメラ」の中に融解させられてしまったと推測される。もちろん、なかには客家🔗のように、辺境にポツンと残った氏族もあっただろうが。また、ミャオ族🔗などのように山岳地帯に後退する集団もあったことだろう。

しかし、その中の一派であった「倭人(日本人)」だけは、日本列島という海に守られたクリーンルームに到達したことで、百越の本来持っていた瑞々しい文化を奇跡的に保存することができたんじゃなかろうか。

まぁ、水戸黄門のように怒り狂う向きもあるかもしれないけどね。

神話学における「盤古🔗神話・大気津比売🔗(オオゲツヒメ)神話というハイヌウェレ型神話🔗(死体化生神話)の類似性」は、すべて長江流域から海を渡ってきた「百越(ひゃくえつ)」の文化的・遺伝子的潮流として一本の線で完璧に繋がるんだ。

ハイヌウェレ神話ってのは、神様の死体から、人々の食べ物や生活に欠かせない様々なものが生まれるという神話だ。その中でも中国の盤古神話はスケールが飛びぬけてでかいんだがね。なんせ日月天地が生まれる話だからね。

この南方的アノミーの系譜が、どのように日本に流れ着いて開花したのか、神話構造と歴史の動線から整理しよう。また今日も神話だよ。

盤古と「ハイヌウェレ(五穀起源)神話」という 神話構造の一致

百越文化圏の神話には盤古という巨人が登場する。この巨人の亡骸から万物が生まれるという神話構造だ。この構造は、記紀神話の大気津比売(オオゲツヒメ)や保食神利🔗(ウケモチ)、そして世界中の農耕民に広く見られる「ハイヌウェレ型神話」の典型なんだ。

それは農耕民の死生観なんだ。一粒の種が泥の中で「死ぬ」ことによって、そこから無数の新しい芽(生命)が溢れ出るという、湿潤な熱帯・温帯農耕民のリアルな体験から生まれた精神世界なんだといえるだろう。
そしてそれは昨日の伏羲・女媧よりも古層に位置するとされてるんだ。
伏羲・女媧の洪水型兄妹始祖神話🔗つまり「兄妹相姦による人類再創造」が、「生命のペアによる始祖繁殖」という地平に近い(アノミーから直系への移行期)のに対し、盤古やオオゲツヒメの物語は「個体の死が、集団(自然全体)の豊かな平等へと還元される」という、より原初的でフラットな混沌とした共同体の土壌から湧き上がっているといえるだろう。

アジアにおける「南方アノミー」のふたつの運命

これまで議論してきた「北・西の遊牧民(テングリの専制的な社会システム)」と「南・東の農耕民(百越の混沌)」の構図の上に、日本と中国の運命を改めて対比すると、歴史の解像度が極限まで高まっちゃいそうだな。

中国における「盤古(南方)」の運命
長江流域の百越が持っていた「ハイヌウェレ型(盤古風)のフラットなアノミー文化」は、北から降りてきた漢民族の官僚制(秦・漢)や、遊牧民(五胡・隋唐)の圧倒的なタテの支配権力(テングリ)によって完全にすり潰されてしまった。跡形もないんだ。そんなもん古い神話の記録に記述があるだけだ。
その結果、南方の「横のフラットさ(平等主義)」は、北方の「タテの支配(権威主義)」と無理やり結合させられ、個人の自由が一切ない「中国共産主義体制の基盤(共同体家族のキメラ)」のパーツへと昇華させられてしまったわけだ。かなわないな。
日本における「オオゲツヒメ(南方)」の運命
一方で、海を渡って西日本に根づいた百越の遺伝子は、中国のような「北方の遊牧民(テングリ)」による暴力的な上書きを受けまなかったのは言うまでもないよね。
だからこそ、万葉集や源氏物語の時代まで、その流動的な「双系的婚姻形態」を純粋に保ち続けることができたってわけだ。
のちに関東武士の登場によって「直系化(家制度)」に食い破られて移行することになるんだけれど、その根底(西日本文化や民俗宗教)には、いまなお「お天道様(自然そのもの)」を愛し、神仏が混ざり合う、盤古的な混沌を許容する豊かさが残り続けたわけだ。

日本人がいまも日常的に使う「呉服」「呉音」という言葉の向こう側には、かつて中原の全体主義的なモンスター(キメラ国家)に呑み込まれて消えていった、長江流域の百越たちの「もう一つの瑞々しいアジアのアノミー文化」が、奇跡のタイムカプセルのようにそのまま生き続けていると言えます。

その前に日本にいた縄文人🔗が一体どのような家族形態だったのかはいまいちよくわからないんだが、まずは双系的な核家族を中心としたクラン=氏族集団のようなものだったのではないかと推測できるだろう。

「百越の遺伝子」が流れ込む前にあった、日本列島の最古層である「縄文人の家族構造」について、遺跡のデータから分かっている具体的な証拠を整理すると、ビンゴ!どうにも正解のようだな。

1. 縄文人の基本ユニット

「核家族」の存在

縄文時代の竪穴住居跡の大きさを分析すると、そのほとんどが「大人2〜3人、子供数人」が暮らすのにちょうどいい広さ(直径4〜5メートル程度)だ。

中国の「共同体家族」のように、何世代もの大家族や既婚の兄弟が何十人も一堂に会して暮らしていた痕跡はない。ていうか無理だろう。
俺も竪穴式住居を復元した家に入ってみたことがあるけれど、それは狭いもんだ。親戚一同暮らすなんて、とても無理だぜ。
つまり、縄文社会の日常的な生活・経済の基本ユニットは、極めてシンプルな「核家族」であったと考えていいんじゃないかな。

2. 広域なネットワークを支える「アノミーなクラン(氏族)」

しかし、数人規模の核家族だけでは、近親交配を避けることができず、集団として生き残れない。平行いとこ婚、交叉いとこ婚、同父異母婚をフル活用しても、分母が小さければどうしようもないだろう。そこで重要になるのが、複数の核家族が緩やかに結びついた「クラン(氏族共同体)」の存在だ。

婚姻による「ヨコの繋がり」

縄文人は、ヒスイ🔗や黒曜石🔗といった貴重な資源を数千キロにわたって交易する驚異的な広域ネットワークを持っていたのはみなさんご存じの通り。
このネットワークを維持できたのは、異なるクランの間で頻繁に婚姻が行われ、血縁の網の目が日本列島全体に広がっていたからだと推測できるだろう。この女性を通じた結びつきが、大きな戦乱を産むことなく、社会を緩く結合させていたんだと考えられるんじゃなかろう。
高い流動性の証拠
縄文時代の墓地を分析すると、男女の埋葬方法に極端な格差がなく、どちらか一方の血統、つまり父系のみ、母系のみを絶対視して固定化したような形跡が見られないそうだ。
その時々の集落の維持や交易の都合に応じて、夫が妻のクランに行ったり、妻が夫のクランに行ったりする、極めて流動的で自由度の高い婚姻(双系的な原初形態)が行われていたと推測されていいるんだそうだ。
俺は、双系的な核家族形態の中でも、割と母系のウェイトが大きかったんじゃないかと推測してる。その後の日本社会の、通い婚や子供が母方で養育されるシステムからもわかるけれど、何より彼らが残した土偶から読み取れるんじゃないかな。

縄文人が「双系性(あるいは流動的な)の家族をベースにした氏族(クラン)社会」であり、かつ「女性(母系)の象徴性が非常に強かった」という俺の見立ては、考古学の最新の研究成果とも完全に合致しているようだ。

「土偶の圧倒的多数が女性をモデルにしている」という事実は、縄文人の精神世界において女性の「生命を生み出す力」が決定的な中心にあったことを示す、これ以上ない物理的証拠だといえるだろう。俺の家も、カミさんが中心だ。

1. 土偶が語る「母なる大地の信仰」

縄文時代を通じて数万点以上出土している土偶のほとんどは、発達した胸や大きなお腹、強調された臀部など、「妊娠した女性」の身体的特徴を持っているのは周知の事実だ。

これは、新しい生命を宿し、出産する女性の神秘的な力を、そのまま植物の芽吹きや狩猟の獲物の繁栄(=社会全体の生存)に重ね合わせる「地母神(母なる大地)信仰」の表れだとも解釈できるだろう。これをトッドの家族論に引き付ければ、今日の日本の家族のスタンダードだと考えられている父系の直系家族が「父の血筋」を絶対視するのに対し、原初のアノミー・双系社会では、誰から生まれたかが最も確実であるため、『母』という生命のハブ(中心)を中心に社会の心理的紐帯が形成されやすいという特徴があったんだと考えられるだろう。そう、昨日のブログにも書いた中上健次🔗の小説に出てくる秋幸の母のような感じさ。

2. 「抜歯🔗(ばっし)」の痕跡が示す、女性が繋ぐネットワーク

しかも縄文人の骨を分析すると、成人儀礼(元服のようなもの)として健康な歯を抜く「抜歯」の風習があったことが広く知られている。近年の骨のストロンチウム同位体比(育った土地の成分)の分析から、非常に興味深い事実が分かってきたようなんだ。

多くの集落遺跡において、「男性は生まれた集落に留まり、女性が外部の集落から嫁いできていた(父系居住)」、あるいはその逆の「母系居住」が、固定化されずに地域や時期によって非常に流動的に行われていた痕跡があるんだ。どっちやねん。どっちもありや。
特に注目すべきは、外部からやってきた女性(つまりお嫁さん)が、実家のクランと嫁ぎ先のクランを繋ぐ「外交官」の役割を果たしていたということだ。女性たちがクラン間の横のネットワークを維持していたからこそ、縄文社会は平和的な広域交易を維持できという見立てだ。あるいは、小規模な小競り合いによって、強力な権力が生じることを防いでいた可能性もある。女性の交換に失敗したら、戦争という違う形の交換形態が発動するのがプリミティブな氏族社会というものだ。レヴィ=ストロース🔗が言うように、『戦争とは失敗した交換』なんだ。これはピエール・クラストル🔗が、『国家に抗する社会🔗』で参与観察していたヤノマミ族などにも共通することだ。

3. 「縄文のアノミー」と「百越のアノミー」の奇跡的な合流

こうして見ると、日本の歴史には「アノミーの二重構造」があったことになるだろう。

そのベース(土台)には日本列島に元々いた縄文人たちが、1万年以上かけて育んだ「核家族を中心とする、フラットで流動的な双系的な氏族社会があった。

そこに上書きされた百越の一派の構造。

この縄文人の双系的核家族氏族集団の中に、大陸の中央集権システムから逃れて海を渡ってきた、同じく「フラットで流動的な双系的な海洋民」である百越の一派=大陸系の弥生人が合流した構図だ。

北方の遊牧民(テングリ)のようなスキタイ由来の「圧倒的なタテの暴力と権威主義」を持たない二つの集団が出会ったからこそ、日本列島では激しい民族虐殺や社会構造の完全な破壊が、奇跡的に起きなかった。

むしろ、縄文と百越の「フラットでアノミーな遺伝子」同士が、お互いに違和感なく、パズルのピースのようになだらかに融合(ハイブリッド化)したと考えていいだろう。

だからこそ、その数百年後に完成する『万葉集』の時代になっても、特定の家に縛られない自由な『通い婚』や大らかな『歌垣』の気風が、日本社会の幸福な古層としてごく自然に息づいていたのだと言えるだろう。

疲れたぜ。明日はこの日本に直系家族、そう自民党の皆さんの大好きな男系男子の直系家族のルーツにいこう!Follow Me!

2026/06/21

POST#1884 俺たちはもうだまされないぜ。なぜって自分たちで考えるからさ

石垣島

ルソー🔗からイロコイ連邦🔗、そしてPファンク🔗へ。

この豊かで強靭な思想の系譜を、俺や君の住んでる町の町内会や子どもたちの小学校の学級会という現場で「一歩目」として動かすとしたら、「まずはこの人(あるいはこの小さな課題)を巻き込んで、面白いグルーヴを起こしてみたい」という、具体的なターゲットやイメージは何か浮かんでくるかい?

これを、自分事として真面目に考えてみれば、とてもワクワクする戦略が見えてくるんじゃないかな。

「お堅い会議」を「ブラックハウス」に変えちまえ

私たちが地域社会で直面する既存の会議(現状維持を最優先する人たちが仕切る場)は、いわば小さくて退屈な「ホワイトハウス」のようなものです。

  • 前例踏襲のルールに縛られ、
  • 偉い人が上から目線で方針を決め、
  • 異論は「数合わせ」で処理される。

これを真っ向から批判して変えようとすると、角が立ち、泥沼の戦いになっちまうだろう。くだらない泥仕合の果てに、意見の合わない少数派は脱退するという専制政治みたいなオチがついて、地域のコミュニティーは自滅してしまうだろうよ。
けれど、人間にはユーモアがある。

ここでジョージ・クリントンの「ブラックハウス」の精神を取り入れるなら、「会議というフォーマット(形式)はそのまま借りながら、中身のグルーヴを完全に別物に塗り替えてしまう」という作戦が有効になるんじゃないかな。

まずはルールの「乗っ取り」だ。

形の上ではちゃんとした町内会の議題を扱いながらも、進め方を「全員の意見を1人も切り捨てずに落とし所を探るセッション」に変えてしまうんだ。

そして楽しさによる「制圧」だ。

これまで発言権のなかった若い世代や親たちが、ユーモアと圧倒的な当事者意識(平等の力)を持って生き生きと議論をリードし、堅物な大人たちをそのポジティブな空気(グルーヴ)に巻き込んでしまう事になったらこっちのもんさ。

重鎮たちが「自分たちの立場が脅かされている」と気づく前に、その場自体が「みんなが対等に熟議する、最高に風通しの良い場」へと変わっている。

これこそが、社会の底辺から民主主義のレベルを叩き上げていく、本物の「パワー・オブ・イコーリティ」の実践なんじゃないかな。

ルソーの「一般意志」から、イロコイ連邦の「全会一致」、そしてPファンクの「ブラックハウス」まで、すべては「一人ひとりの尊厳を等しく認め、最高の合意(グルーヴ)を紡ぎ出す」という地平で見事に連結されてしまうのさ。

この最高にファンキーで知性にあふれたビジョンだが、世の中には実はもっと手ごわい現実がある。こいつは手ごわい。

今の社会ってのは、そもそも多数決という以前に、過激な意見を言う人の声に皆が引っ張られてしまっているのが実情だ。行政も臆病になり、ネットなどで極端な暴論を吐く人間の言葉に易々と膝を屈してしまい、本来の意図が忘れられ、平等な政策がねじ曲げられたりする嘆かわしい状態になっているんだ。

こんなバカバカしい状況を防ぐためにも、本当の意味でのボトムアップの民主主義っていうのが根付いていかないとダメだと思うんだ。

大事なことだからもう一度言っておこう。

今の社会は、ネット上で「最も大きな声で、最も極端な暴論」を叫ぶ過激な一部の人々や、あるいはアテンションエコノミーによって増幅された偽りの民意に、行政や政治が脅され、臆病になり、結果として社会全体の「共通の利益(一般意志)」や「平等な政策」がねじ曲げられてしまうという最悪の悪循環に陥っているんだ。

だからこそ、俺や君たち語り合ってきたように、ネットのノイズに左右されない「本物のボトムアップの民主主義」を地域社会の底辺から根づかせ、行政に「本当の民意のベース」を突きつけていくことが、今どうしても必要な防波堤になるんだ。

なぜって、俺や君たちの生きるこの現実の社会を守るためにね!

この「極端な暴論」から平等な政策を守るために、なぜ地域の小さな熟議(ボトムアップ)が不可欠なのか、3つの理由から考えてみようぜ。

1. 暴論の正体である「幻の多数派」を無効化する

行政が過激な意見に怯えてしまうのは、ネットの「アテンション」のせいで、それがまるで世論の大部分であるかのように錯覚してしまうからだ。

みんなが言っているという『みんな』なんてのは、実際に突き詰めてみれば、たいていほんの一握りの個人に過ぎないんだ。そもそも暴論で横車を押す奴ってのは、俺の経験上『みんな』が言っているっていうんだよ。

で、俺が腹を括って、その一人一人と相対で話し合って、各個撃破で説得するから名前を揚げろって言っても、アウアウと口ごもるだけと相場が決まっているんだ。
しかし、学区会や町内会という現場で、実際に住民がデジタルデトックスをして対面で熟議を重ね、「地域の全員が納得した落とし所(全会一致の合意)」をカチッと形成できれば、それは行政にとって「サイレントマジョリティの本当の声」という強力な盾になるんだ。

行政も「ネットの暴論ではなく、地域の組織的な合意に基づいています」と堂々と言えるようになり、臆病な姿勢から脱却できるだろう。

2. 「極論」を溶かす、顔の見える関係

ネット上の過激な暴論は、相手の顔が見えない「記号」だからこそエスカレートする。

『みんな』という匿名の中に隠れているんだ。
しかし、俺や君たちが構想してきたローカルな場にその暴論を持ち込もうとしても、そこには「毎日顔を合わせる隣人や、子どもたちの親」がいるんだ。抜き差しならない顔の見える関係だ。

Pファンクの「ワン・ネイション・アンダー・ア・グルーヴ」のように、誰もが平等に発言できるセッションの場に置かれると、極端な意見を言う人も、周囲の冷静な「成熟した知性」と対話するうちに角が取れ、過激さを維持できなくなるものさ。

ただし、ここで地元のボスの声の大きさに全員が平伏してしまったら、それはただの「お堅いホワイトハウス(同調圧力)」の再生産に逆戻りだ。だからこそ、上下関係をなくすユーモアと、全員の尊厳を等しく認める「ブラックハウスの精神」で、場をつねにファンキーで風通しの良いセッションにチューニングし続ける必要があるんだ。

そう、だからこそ底辺からの熟議は、暴論を社会的に「無害化(チューニング)」する装置になるんだよ。

3. 行政を「下から支え、動かす」主権者への転換

これまでの『市民』は、行政に対して「あれをしてくれ、これをしてくれ」と要求するだけの『消費者』だった。だからこそ、クレーマーのような過激な声ばかりが行政に届いてしまっていたわけだ。

しかし、本当の市民とは、かつてケネディ元大統領が語ったように、『自分が社会のために何ができるか考える』人々じゃないだろうか?

地域社会が「自分たちで熟議し、全会一致で落とし所を決める」という自立した集団(本当の市民)になれば、行政に対して「私たちはここまで話し合って合意を作りました。あとはこの平等な政策を執行してください」と、主導権を握って行政をリードできるようになるだろう。


多数決の「数合わせ」すら崩壊し、いまや「声の大きさ」だけで社会が歪められる現代のディストピアにおいて、俺と君たちが真剣に語り合ってきた「社会の底辺からの叩き上げ」の民意というのは、もはや単なる理想ではなく、社会の崩壊を止めるための唯一の防衛策なんだ。

お堅い「ホワイトハウス」的なお役所仕事や、ネットの暴論というノイズを、地域住民のファンキーで成熟した「平等の力(ブラックハウスの精神)」で包み込み、本来あるべき平等な社会を取り戻していくんだ。

ルソーから始まったこの探求は、現代の日本の地域社会を救うための極めて具体的で力強い作戦へと結実したように思うんだけれど、どうだろう?

この「本当のボトムアップ」を、俺の町から、そして君の町から、少しづつでいいから形にしていこう。

例えば今回文春が仕掛けているあの高市総理が総裁選に出馬した際に、他の候補を誹謗中傷するような動画を作らせたという疑惑がある。

そりゃそんな悪巧みする奴は良くないけれど、今の世の中、そんな奴がウヨウヨしてる百鬼夜行だ。

けど、俺がほんとうに憂慮するのは、そういったフェイク動画にあっさりと騙されてしまう人々のリテラシーのなさなんだよ。

こういうものを無くしていくためにも、俺や君たちが構想してるこの地べたの民主主義構想ってのは絶対に必要だと思うんだ。

この週刊誌の報道をめぐる疑惑や、それに対する世間の反応は、現代社会における「情報リテラシーの脆弱さ」と「民主主義の危機」が地続きであることを示す極めて象徴的なケースだと思うだろ?

真偽の不確かな情報や、感情を煽るように編集された動画、あるいは一方の立場に偏ったスクープ報道に対して、多くの人が「自分で考える」プロセスを飛ばし、あっさりと鵜呑みにしちまってるんだ。

そして、その反応がさらにネット上で増幅され、社会の分断や政治の機能不全を加速させていく。まったく見ちゃいられないぜ!この現状を打破するためにも、「社会の底辺からのボトムアップの民主主義」と、それを支える「情報リテラシー」の構築は絶対に不可欠なんだ!

地域の小さなコミュニティで熟議を重ねる習慣が、なぜこの「リテラシーのなさ(あっさり騙される危うさ)」を排撃する最強の武器になるのか?さぁ、頭の体操だ!考えてみよう。

1. 「検証する脳」を鍛えるリハビリになる

ネットの動画や刺激的なテキストに騙されてしまうのは、情報の受け手が「受動的な消費者」になっちまっているからなんだ。すると何も自分で考えずに、脳が延髄反射モードで情報を処理してしまう。延髄反射って要は脳みその一番古い、トカゲとかワニとかと同じレベルの脳味噌のパートなんだよ!
一方で、学区会や町内会で「全員が納得する落とし所」を探るプロセスは、「このデータは本当か?」「この意見の背景には何があるのか?」と、常に情報を多角的に検証し、主体的に考えること(成熟した知性)を要求されることだろう。

この日常的な対話の訓練こそが、怪しい情報に直面したときに「ちょっと待てよ」と立ち止まれる、本物のリテラシーの土台を作るんだ。要は自分のニンゲンの脳みそで考えろってことだよ。

2. 「極論のエンタメ化」の毒気を抜く

ネット上の誹謗中傷動画やネガティブキャンペーンがなぜ流行るかといえば、それが「刺激的なエンターテインメント」として消費されているからなんだよな。センセーショナルな内容のほうがおもしろい。権威ある人の舞台裏を御開帳するのがたまらない。そんな刺激的なものにみんな飛びつくんだ。なかでも、だれかを悪者に仕立てて、叩きまくるってのは魔女裁判みたいに俗受けするんだ。つまり人々は、画面の向こう側の政治家や候補者を「生身の人間」としてではなく、「叩いてもいいキャラクター」として消費していいるのさ。

これは、もちろん政治家だけに限らない。芸能人だって、犯罪者やその被害者だって、この慎みのない人々の手にかかると「どれだけぶっ叩いてもいいキャラクター=記号」にすり替えられるんだ。記号には感情も家族もない。しかし、人間には感情もあれば家族もいる。なにより尊厳がある。これを忘れちゃだめだぜ。
しかし、ローカルな熟議の場は「生身の人間同士が、利害を調整する泥臭い現場」そのものだ。みんな、今はなしてるやつが、どこに住んでいて、どんな家族構成かも知っている。子供同士が同級生だったりもする。

こんな抜き差しならない現実社会で人間の複雑さや、物事を一つ決めることの難しさを身をもって知っている人は、ネットの1分弱の動画ごときで、社会が勧善懲悪のように語られているのを見たときに、「そんなに単純なわけがない」と見抜く知性を持つことができるだろう。

3. 「アテンションの奴隷」から「主権者」への解放

ジョージ・クリントンの「ブラックハウス」が既存の権力をユーモアでひっくり返したように、俺や君たちは「過激な声に怯える行政」や「メディアのスクープに一喜一憂するだけの世論」という今の歪んだホワイトハウス的構造を、下からの平等の力で上書きしなけりゃならないんだ。
「上から流れてくる情報に一喜一憂し、踊らされる」のをやめるんだ。俺も君たちも、上流から流れてくる餌を待ち構えて、口をパクパクさせている川のコイとは違うんだぜ。

「自分たちの足元から、確かな事実と対話に基づいて合意(グルーヴ)を作っていく」。この主権者としてのプライドを取り戻すことこそが、あらゆるデマや偏向報道、そしてそれに釣られる暴論を社会から自然に排撃していくための、最も強靭な防壁になることだろう。


多数決の限界から始まり、アテンションエコノミーの病理、Pファンクの哲学、そして現代の具体的な政治・メディアの課題に至るまで、本来常識的に言ったらつながるはずのないものが、こうしてここで一本の太い線で繋がっちまった。まさにブリコラージュ🔗だな。

書斎にこもって、世間様の「リテラシーのなさ」を嘆くだけでは何も変わらない。

しかし、俺や君たちが真剣に見据えているように、「だからこそ、小学校や町内会という一番小さな社会の底辺から、騙されない知性と、1人も切り捨てない対話の習慣を叩き上げていくんだ」というアプローチは、このとんでもねぇ閉塞した時代をひっくり返す、最も現実的でファンキーなカウンター(逆襲)になるんじゃないかな。

この「騙されない知性を地域で育む」という挑戦、俺や君たちの問題意識が、身近な足元から小さなさざ波となって、社会を確実に変える大きなうねり(グルーヴ)へと育っていくことを、俺は確信しているんだ。次の世代に、よりマシな時代を手渡すためにも、必要なことなんだ。肩の力抜いていくのさ。

さて、明日からは様々な知見を駆使して、俺流に組み上げて、どうして中国はどれだけ豊かになっても民主的な社会にならないんだ?ってことを考えていく。乞うご期待だ。

2026/06/03

POST#1867 金がない奴ぁ、俺んとここい、国家は信用創造でいくらでも作れるのさ

石垣島

国家の財源なんて、信用創造でいくらでも作れる。

金のない奴ぁ、俺んとここい!といってほしいもんだぜ。

もし植木等🔗演じる『無責任男』が総理大臣だったなら、そうやって大言壮語するだろうな。

これこそ金融システムの本質を突いた、極めて本質的事実だ。

みんななんとなく、自分の家の家計を考えて騙されちゃいけない。

政府の言うバランスシートとか、財政健全化っていうのを鵜呑みにしちゃいけない。将来世代にツケを払わせることになる惧れがあるからと、将来世代のために国費を投入して、より良い教育、つまり社会の歯車の鋳型にはめるようなものではなく、人間の可能性を引き出すような教育を施すことを惜しむのは、亡国の愚行だといって過言ではないだろう。

「国債を発行して予算を作ることは、次世代への借金のツケ回しではなく、単なる政府による信用創造(通貨発行)である」という事実は、現代の経済学(MMT=現代貨幣理論🔗など)でも明確に説明されている通りだ。もっとさかのぼったら、100年ほど前のドイツの経済学者クナップ🔗が『貨幣国定学説』で展開した表券主義🔗までさかのぼるだろう。

これは嘘でも何でもない。

金がない、財政難だといいながら、政府は国債の発行をやめる気配もない。なぜなら、それは自己増殖する貨幣そのものだからだ。年に数パーセント価値が下落していく円の価値を金利で補うもう一つの貨幣だからだ。現代の貨幣は、金本位制じゃないから、国家の信用だけでその価値と流動性を担保しているんだ。

お金はどこかから「集めてくるもの(財源論の罠)」ではなく、政府が決断すればその瞬間にキーボードの入力一つで作り出せるものものなんだ。その証拠に、アメリカからこんなだけ金出せと言われると、どこからともなく金がひねり出されてくるだろう?

「財源がない」という言葉は、子供たちを労働機械として使い潰すシステムを維持するための、単なる政治的・思想的な言い訳(プロパガンダ)に過ぎないんだぜ。

この信用創造の視点から、私たちが求める社会(子供を歓迎する社会)へシフトするための論点は以下の通りであろう。

1. 財源の壁は「嘘」である。

銀行が融資を行う際に預金を原資とせず、万年筆で通帳に数字を書き込むだけでお金を作り出す(万年筆マネー)のと同様に、政府が国債を発行して日銀がそれを受け入れるプロセスも、無から通貨を生み出す「信用創造」だ。みんな間違えちゃいけない。銀行はみんなが預金したお金を貸してるわけじゃないんだ。

真の制約は「お金」ではなく「供給能力」そのものだ。

お金をいくら刷っても、それを形にする「人間の労働」や「資源」がなければインフレになりる。昨今のコストプッシュ型のインフレも、労働人口の縮小や、資源の高騰(とりわけアメリカ大統領ドナルド・トランプ氏の功績は絶大だ)によるものだといっていいだろう。

しかし今、この一連の構想で、俺たちが求めているのは「余っているリタイア世代(面白い老人)」の知恵の活用や、求職中の人たちを「事務職員」として雇ったり、「カウンセラー」として養成して、日本全国の学校に配置することでなわけだ。

社会に眠っている「人間という生身の資源」(こんな言い回しを俺が使うのも矛盾してるのは十分承知しているけれどね)は十分に余っているため、信用創造で予算を作ってもハイパーインフレなどを引き起こすことはないだろう。ナフサやコメのように目詰まりすることもないさ。

2. 「何を信用創造(創出)するか」という価値観の戦い

政府はこれまでも、必要とあらば事実上の信用創造で巨額の予算を一瞬で作ってきた。嘘だと思うかい?例えば、コロナ禍の持続化給付金や、銀行の救済、防衛費の増額など、実例は枚挙にいとまがないぜ。

問題は「お金を作れるか」ではなく、「作ったお金をミサイル(破壊の道具)に換えるのか、それとも子供たちの笑顔(生の余白)に換えるのか」という、国家の倫理観の選択にあるんだよ。子供たちを「かけがえのない存在」として歓迎するための信用創造こそ、最も正当な通貨の発行理由じゃないか。人々に死をもたらす道具か、人間の生を豊かにする余白か。君はどっちがいい?

さて、こういう話をすると、必ずや防衛費をケチって、中国に侵略されたらどうするんだ!と懸念を表明なさる方がいる。そんなお怒りの貴兄に一言申し上げさせて頂くとするならば、わが国の空気のように社会を覆う同調主義的な全体主義と、習近平の号令一下で社会の方向が決まるあからさまな全体主義と、どう違うというのかな?

そもそも中国でも日本でも、金のあるやつは政治に首を突っ込まない限り好きにやってるんだ。庶民はより良い社会の歯車を目指して精進し、搾取されるだけなのも変わりない。

政治や社会に異を唱えたときには、中国では劉暁波🔗やジミー・ライこと黎智英🔗のようにお上に拘束される。日本では、社会からバッシングされたり黙殺されるかの違いだけだ。

今のままじゃ、風呂の温度が熱いか温いかだけの違いの専制状態に変わりはないだろ。

こんな柔らかな専制政治のような社会の状況に対して、決定的な変化を生み出すためにも、これは必要なんだ。

3. 「貨幣の奴隷」から「貨幣の主人」への転換

「お金が足りないから、子供への投資を削り、労働機械を増やす」という発想は、人間がお金(システム)の奴隷になっている状態以外の何物でもない。

お金は人間が生きるための「道具」に過ぎないんだ。

「ようこそ地球へ!」という社会基盤を作るために、政府の信用創造という特権を発動させることが求められているんだ。生きた金を使うってことだ。これこそが、新自由主義的資本主義の呪縛を解き、人間の尊厳を経済の最上位に据え置くための具体的な実践とり得るだろう。人間の尊厳のための通貨発行だ。

「お金は作れる」という前提に立ったとき、俺や君たちは「財源の言い訳」に騙されることなく、堂々と「子供たちの命を救うための予算」を国に要求することになるだろう。

要は、日本政府に金はないというのは『共同幻想』なんだ。いつもずいぶん大昔に久米宏🔗がニュースステーションの中で、刻一刻と動き続けるデジタル表示、それは一瞬の休みもなく利子によって増大してゆく国債残高を示していたんだが、その前で持ち前の深刻ぶった表情を作って見せ、日本社会の行く末を案じて見せた姿を思い出す。

それからもう、二十年くらいは経ってるはずだけれど、俺たちは相変わらずだ。もちろん、国債残高が減ったわけでもない。

政府にこの「人間の尊厳のための信用創造」を決断させるために、俺や君たちたち『市民』(「消費者」じゃないぜ)はどのような世論のうねりを、あるいは政治へのアプローチを作っていくべきだろうか?

しかし、実際に行われていることは、本来の政治の役割そのものであるべき富の再分配が、富の収奪に堕してしまったことで、大多数の人間は心理的にも物理的にも欠乏状態に置かれている。

人々を欠乏状態に置くのは、権力を持ってるやつらの得意技だ。

人々を欠乏状態に置き、TVで、新聞の広告欄で、ネットで、SNSで、24時間365日休みなく資本の論理を広告として集中的に浴びせ、必要のないものを必要だと思わることで、人々の飢餓感、欠乏感、劣等感と羨望をあおり、人間を支配するシステムが社会を隅々まで覆いつくしている。まるでデジタルを使った農奴制だ。いやすでにヤニス・バルファキス🔗などの経済学者はその構造をその著書、『テクノ封建制🔗』などで解き明かしている。

これが、『市民』を『消費者』に変え、『主権者』を単なる『社会の歯車』に変えてしまうんだ。これがカール・ポランニー🔗が『悪魔の碾き臼』にたとえた近代資本主義のヴァージョンアップ版だ。

俺たちはそんなくそみたいな経済を、嘘くさい社会を静かにボイコットしないといけない。

ちなみに、バンクシー🔗はずっとそういうことを主張してきたアーティストだ。決して資本主義のアイコンとして消費していいような存在じゃないんだ。ロックだな。痺れるぜ。

2026/05/11

POST#1846 ざっくりまとめて未来に踏み出す一歩にするか!

 

沖縄県竹富島 2025年のアニメLAZARUSの劇中にて、温暖化で水没したこの島でこの塔が描かれていた

今や多くの国民が希求しながら、高市政権の皇室典範改正(改悪)によって阻まれようとしている『愛子天皇』の実現は、俺がこれまで語ってきた『天皇制リベラリズム』や『多様な人々を包摂する開かれた器』という構想にとって、最も強力な結節点であり、完成形への一歩になると考えらる。

その理由は、次に挙げるように集約されるだろう。

「底の浅い伝統」を「厚みのある伝統」で塗り替える

現在の保守派が固執する「男系男子」という縛りは、長い歴史で見れば、明治以降の家父長制的な価値観によって強化された「底の浅い」側面が否めない。

これに対し、女性天皇は古代から存在した「本来の日本の多様な形」の一つだ。

愛子天皇の誕生は、「血統による排除」から「存在による包摂」へと、伝統の定義をより古く、より深いものへとアップデートすることを意味するだろう。

ジェンダーと「ケア」の象徴としてのシャフト

俺が現状を強くが懸念する「ケア労働」に従事する人々や、社会を底辺で支える人々にとって、女性である天皇が「統合の象徴」となることは、極めて大きなメッセージを持つことだろう。

家父長制的な権威の象徴ではなく、「命を守り、育むこと(ケア)」を社会の中心軸(シャフト)に据えるリベラルな社会への転換を、象徴的に体現する存在となり得るからだ。

多文化共生・移民社会への「柔らかな統合」

男性的な力(パワー)による統合は、しばしば同化や排除を生みがちだ。帝国主義的な傾向だ。一方、愛子内親王がこれまでの歩みで見せてこられた、他者の痛みに共感し、静かに寄り添うスタイルは、まさにフランスやドイツが欠いていた「多様性を否定せずに束ねる、柔らかなシャフト」の理想に近いものに他ならない。

異なるルーツを持つ人々(現代の渡来人)も、愛子天皇という「懐の深い器」のもとであれば、自らのアイデンティティを脅かされることなく、安心して「日本」という公界に身を置くことができるはずだ。

つまり愛子天皇の実現は、単なる「女性活躍」の問題ではないのだ。

それは、網野史学が描いた「無縁・公界」の自由な精神を現代に蘇らせ、「誰もが排除されないリベラルなコモンズとしての日本」を完成させるための、歴史的な必然といえるのではないだろうか。

そしてまた 秋篠宮家の悠仁親王を輔弼とする『ヒメ・ヒコ制』が隠し味だ。

愛子内親王と悠仁親王、あるいは「女性の象徴(媛)」と「男性の象徴(彦)」が並び立ち、互いを補完し合うという構造は、日本の古層にある「ヒメ・ヒコ制」の現代的復興とも言えるだろう。共同幻想の発生の瞬間にリバイバルするんだ。

この視点を、俺が提示する『天皇制リベラリズム』に繋げると、さらに重層的な包摂が見えてくるだろう。

二元論を超えた「双子的なシャフト」

一方が権威、一方が実務といった固定的な役割ではなく、愛子天皇という「大きな器(静)」と、秋篠宮悠仁親王という「動」の力が共存する形は、社会を一つの色に染めない「多極的な中心」を作り出す二連恒星のようなものだ。

これは、中央集権的な同化を嫌うリベラリズムの精神に驚くほど合致した、柔軟なシャフトになりるだろう。

『排除しない』という究極の実践

「どちらか一方が正しい、一方が伝統だ」という保守派的な二者択一(排除)ではなく、両方を活かす。この「あわい(間)」を大切にする構造こそが、網野氏のいう「無縁」の空間、つまり誰にも私物化されない「公(おおやけ)」を維持する知恵となるだろう。

こうして愛子天皇を主軸としつつ、秋篠宮家をも包摂する「ヒメヒコ制」的なシステムは、「多様な価値観が矛盾したまま共存できる社会」の象徴となり得るのだ。

これこそが、移民やケア労働者、あらゆる「境界の人々」が呼吸しやすい、日本独自のコモンズの姿かもしれないのではないかな?

俺は少なくとも、この弱い者がより弱い者を自己責任の美名のもとに叩き、自分たちの足元を支える人々を、『そんなことはだれでもできる仕事』だとか『日本人の仕事を奪う』などと排除したり低く見たりする風潮が、たまらなく不快だ。

君たちはこの『天皇制リベラリズム』に基づく『ヒメ・ヒコ制』という古くて新しい形が、現代の「分断された政治」を癒やすヒントになるとは思わないか?

前にも語ったことだけれど、日本人には一姫二太郎という理想形がありますが これは大昔の『ヒメ・ヒコ制』に淵源を発するものだと俺はにらんでるんだ。

日本の古層にある「ヒメ(霊的な力・統合の象徴)」が先に立ち、それを「ヒコ(実務的な力・実行の象徴)」が支えるという順序こそが、社会を安定させ、物事を円滑に進めるための日本的な黄金律であるという直感だ。

この視点を、これまでの議論と結びつけると、さらに興味深い地平が見えてきます。

「一姫二太郎」としての国体

「まず姫(愛子天皇)が立ち、その後に太郎(悠仁親王)が続く」という形は、日本人の深層意識にある「理想的なバランス」にピタリと合致するだろう。

これは保守派が主張する「男系男子(ヒコのみ)」という硬直した論理よりも、はるかに日本人の情緒に根ざした、説得力のある「伝統」の提示になることだろう。

 ケアと統合の先位性

「一姫(ヒメ)」が象徴するのは、俺が掲げる「ケア」や「包摂」、そして「無縁の器」としての統合力となるだろう。「二太郎(ヒコ)」という実務や力が先行するのではなく、まず「すべてを包み込む慈しみ(ヒメ)」がシャフトの根幹にあること。その上で実務的な力が動くという構造こそが、移民や弱者を切り捨てない『リベラルな天皇制』の具現化と言えるだろう。

つまり「一姫二太郎」という日常的な知恵の中に、実は日本の国家システムを再生させるための「ヒメ・ヒコ」のOSが冬眠状態で今この時代まで眠っていたのだと捉え直すと、俺の提示する構想はより一層、日本人の肌感覚に響くものになるんじゃないだろうか。

この「ヒメが先に立ち、ヒコが支える」という調和の形を、現代の「ギスギスした能力主義社会」を解きほぐすための処方箋として提示していくのは、非常に強力な物語になるのではなかろうか。

俺はこんなことを書き散らしても、正直何の得もない。経済的に見たら、まったくの徒労だ。しかし、天啓のように俺に下ってきたアイディアをつたないながらも形にしなことには、何も始まらない。

未来の世代のために、俺は書いているんだ。

どんなに優れた洞察や歴史観も、言葉として編まれ、物語として共有されなければ、社会を動かす力にはなることはない。

俺がここまで語ってきた「吉本共同幻想論×ピエールクラストルの国家を持たない社会論×網野史学(無縁・公界)× 宇沢弘文(コモンズ)× 現代の包摂(移民・ケア労働)× ヒメ・ヒコ制(愛子天皇・一姫二太郎)×レヴィ=ストロースの構造主義」という一連のロジックは、既存の「右」か「左」かという不毛な対立を飛び越える、極めて強力な新しい日本のグランドデザインになるかはどうかわからないけど、考えてるだけでワクワクするような知のパルクール🔗なんだ。

吉本隆明の「対幻想(共同幻想からの自律)」、網野善彦の「無縁(世俗からの解放)」、そしてレヴィ=ストロースの「野生の思考」やピエール・クラストルの「国家に抗する社会」。これらを掛け合わせることで、天皇制を「権力の頂点」ではなく、逆に「国家という怪物(暴力的な支配装置)を無効化するための、高度な文化的仕掛け」として再定義する道が見えてくる。特にクラストルの視点を入れることで、天皇を「命令する王」ではなく、「富や権力を独占させないための象徴」として置くという、人類学的な説得力が加わるだろう。

憲法に定められたように天皇陛下という存在は、実際の政治には参加しないんだけども、平成天、今上天皇がなさったように常に虐げられたもの、困難の渦中にあるもの、最も苦しんでいる者に寄り添っていただくという御姿こそが、まさに、それがピエール・クラストルの言う「権力を持たない王」の現代的かつ究極の形態そのものだ。

クラストルが描いた未開社会のリーダーは、集団の調整役であり、誰よりも気前よく与え、雄弁に語りますが、「命令権(強制力)」だけは持たない。

もし首長が命令し始めれば、その社会は国家(支配装置)へと変質してしまう。リバイアサンが生まれるんだ。この人類学的な知恵を、アヴェンジャーズもたじろぐような、俺が提示したジャイアントたちの最強布陣でもって現代日本に接続すると、驚くほどクリアな『天皇制リベラリズム』の姿が浮かび上がってくるんだ。

 政治(権力)の拒絶による「公」の担保

政治に参加し、決定権を持つことは、誰かを切り捨て、特定の結果に責任を負う「私的な選択」に陥るリスクを伴う。天皇が政治から切り離されている(無縁である)ことは、吉本隆明のいう「共同幻想」が暴走して個々人を飲み込むのを防ぐための、「空虚な中心」として機能する。

「弱者への寄り添い」という究極の再分配

クラストルの社会において、首長は常に他者に与え続ける存在であった。

このくそったれな強欲資本主義にどっぷり浸かった現代において、天皇が「弱者に寄り添う」ことは、効率や利潤を優先する世俗の論理によって社会の隅に追いやられた人々を、再び「公(公共圏)」へと呼び戻す儀式となるんだ。

政治(決定)ではなく、寄り添い(承認)を行うことで、移民もケア労働者も「見捨てられていない」という安心感を得て、社会というコモンズに繋ぎ止められ、包括されていくんだ。

レヴィ=ストロース的「交換」の媒介

天皇陛下を、異なる立場(定住民と渡来人、強者と弱者)の間に立つ「媒介者」として社会の中心に置く。政治が「対立」を生む装置であるなら、天皇は「交換と和解」を促す装置となるだろう。

愛子天皇という「ヒメ」がその中心に立つことで、社会はより「ケア」と「互酬性」を重視する形へと、野生の思考を取り戻していくことになるはずだ。

この遠大な構想は、「天皇を世俗の政治(暴力装置)から徹底的に守ることで、逆にその超越的な立場を利用して、社会から零れ落ちる人々を救い上げ、コモンズを維持する」という、極めて高度な社会工学なんだ。吉本、網野、宇沢、レヴィ=ストロース、クラストル……この知の巨匠たちのバトンを受け継いで、「命令しないからこそ、すべてを包摂できる王」という物語を形にしていく。それは、分断された現代世界に対する、日本からの最も力強い回答になるのではないだろうか。どうなんだい、皆の衆!


俺はこの国に蔓延る「底の浅い伝統論」と「何をしても無駄だという諦め」を根底から覆す、知の革命を目指しているんだ。

俺はすでに上野千鶴子センセーのお怒りを覚悟の上で、「側室制度の復活」という極論をフックとして提示した。それは単なるスキャンダラスな提案ではなく、「中途半端な保守主義の欺瞞を暴き、天皇制リベラリズムという新地平へ人々を追い込むための、冷徹な思考実験」として機能していたはずだ。

「そこまでして血にこだわるのか、それとも愛子天皇という『寄り添いの器』を選ぶのか」という問いは、日本人が自らのアイデンティティの根源を問い直すための、最強の「揺さぶり」になるはずだ。

この刺激的なフックを投げかけたとて、世の人々から返ってくる「拒絶反応」や「困惑」なんてどうせないに決まっている。

そもそも、このブログを読んでいる人は少ないし、この内容をすんなりと理解できる人はなお少ないだろうことは織り込み済みだよ。

むしろ、その「フック」を打ち込むこと自体が目的というか、既存の言論空間(底の浅い保守 vs 教条的なリベラル)がいかに機能不全に陥っているかを冷酷に突き放すような、ある種の「切断」の表現なんだ。

結局、世俗の反応など期待せずとも、俺が君たちの前で構築して見せた「網野・吉本・クラストル」を背骨にした強固なロジックは、それ自体で完結した、一つの「現代の神話」に近い強度を持っているはずだ。

君たちからの反応を待つのではなく、その「形」を淡々と提示し続けること。

それが俺の務めだ。

「愛子天皇というシャフト」を据えた「ヒメ・ヒコ制」の構想は、たとえ今の世間に理解されずとも、日本社会が本当に行き詰まった(=コモンズが崩壊し、排除が極まった)時に、「すでにある無名の馬鹿野郎によって提示されていた、唯一の処方箋」として再発見されるであろうことを願うばかりだ。


そう、22世紀、23世紀を生きるであろう未来の世代のために書いているんだ。

いいね!という記号を稼ぐためにやってるわけでもない。原稿料やアフェリエイトのためにやってるわけでもない。ただ、やむに已まれぬ自己の知的衝動のなせる業だ。


今この瞬間の、目先の反応や世俗の喧騒に期待するのではなく、「いつか必ずやってくる、既存のシステムが立ち行かなくなった未来」に向けて、一本の杭を打ち込む。

それは、網野善彦が掘り起こした「無縁」の歴史が、数百年を経て今の私たちを鼓舞しているのと全く同じ時空を超えた対話だといえるだろう。

デジタル封建制の大きな潮流の中で分断されモナド化し、よって立つ自らの足場を見失った「未来の世代」が、バラバラに分断された日本社会で絶望し、真の「公(おおやけ)」を見失ったときこそ、俺の書き残した『天皇制リベラリズム』というシャフト(軸)は、彼らにとって唯一の、そして強固な「生存の設計図」になるはずだ。

吉本・網野・クラストルという巨人の肩を借りて構築されたロジック。

「愛子天皇」と「ヒメ・ヒコ制」という、多様性を包摂する調和の形。

「一姫二太郎」という、日本人の深層心理に訴える物語。

これらが一つの体系として書き残されることが、未来の日本人にとって、「排除されない自由」と「バラバラでも共にいられる場所」を保障する、時をかける遺産(コモンズ)となることを願っている。

明日は最後のダメ押しだ。もうこの話題だけでおなかいっぱいだからな。