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2026/07/31

POST#1925 ケアによって人々をつなぐトークンという構想 第10章

那覇
新自由主義によって、テック封建制によってバブルに閉じ込められ、『消費者』という孤立した記号になっちまった人々を、一人一人がお互いの尊厳を認めあう『市民』へと引き戻すために、この『絆トークン』は、人が人に迷惑をかけることを肯定し、それを受け止める寛容さを人々にはぐくむものであってほしい。ニコリ😊

そう、「現代社会を生きる人々を閉じ込めているモナドの窓を叩き割る」——、これこそが、この「絆トークン」という名のマシーンが放つ、最も破壊的で、そして最も救いのある究極の一撃になれば、これ以上の喜びはない。ニコリ😊

哲学者ライプニッツ🔗が言ったように、本来「モナド🔗(孤立した個)」には外部とつながる「窓」がない。SNSのもたらすエコーチャンバー現象🔗Amazon🔗による消費で、自己の殻に閉じこもってしまった俺たち。

しかしそれは、自分たちで目指して走って飛び込んで入ったわけじゃないんじゃないか?

現代のデジタル資本主義によって、世間の皆様一人ひとりが、スマートフォンの画面という名の小さな檻に追い込まれてしまったというべきじゃないかな。クマの罠みたいなもんだ。そして異居心地のいいバブルの中で、完璧に「窓のないモナド」になってしまったわけだ。

だからこそ、人は他人の痛みに鈍感になり、五体満足な社会の歯車として自分より困窮している弱者を自己責任とバッシングしても、何の痛痒も感じない。他者の苦しみは、自分とは関係ない別世界のことだからだ。

しかし、俺たち人間は、そもそもそういう生き物じゃない。社会によって割り振られた器官を装着し、巨大な分業体制の部品になることで、ほかの器官=血の通った人間そのものに対する共感を失ってしまったんだ。

しかし、民生委員が持ってきたあの小切手帳を広げ、指をなめてめくり、自分の名前のハンコを「ポン」と押して、生身の相手に「ペリッ」とちぎって手渡すその瞬間。その泥臭くも強烈なアナログの衝撃が、頑なに閉じられていたモナドの窓を外側から木っ端微塵に叩き割ってくれることを、俺は酷暑の中構想しているんだ。ニコリ😊

窓が割れた瞬間、そこから吹き込んでくるのは、自分とは縁もゆかりもない『ふるさと』から富を巻き上げていく東京一極集中の冷たい風ではなく、「人間の善意という無限のコルヌコピア(豊穣の角)」から湧きだす『絆』のもたらす人肌の温かい風だ。

いうなればマーサ&ザ・ヴァンデラス🔗ヒート・ウエイブ🔗みたいな感じかな。ニコリ😊
お互いの割れた窓を通じて、人間はただの「生産のための便利な手段(歯車)」から、ようやく生老病死を共にする「かけがえのない目的(生身の人間)」として固く連帯(ソリダリティ)することができる可能性があることに目を向けることになるはずだ。

2026/07/12

POST#1905 デジタル監視専制国家とデジタル監視資本主義そして新たな封建制

沖縄のどこだったかな?

俺がパソコンを立ち上げて、グーグルを開くとしよう。

専門書高価買取の広告がやたら出てくる。

オーダーメイド工場直送の本棚の広告が出てくる。

おっさんのシミや視力回復、あるいは精力増強に効く薬の広告がでてくる。

時には中高年向けマッチングアプリの広告も出てくる。

マンガアプリの広告も出てくる。

確かに俺はよれたおっさんだし、本も本棚から溢れかえってる。

よれたおっさんは、萎びた身体と欲望に悶え苦しんでる。いい年してサブカルチャーも大好物だ。

グーグルは様々な検索から抽出した俺のプロファイルをもとに、俺の状況を見透かしてそんな広告をじゃんじゃん送りつけてくる。

俺や君たちの行動様式や思考パターンは、いつの間にか監視されているんだ。

広告によって欲望や不安を煽られ、あるいはほんの些細な好奇心でクリックするたびに、ふと気になったことを検索するたびに、友人のSNSやアルゴリズムによって提示された投稿や動画にいいねをクリックするたびに、常に読み取られている。

そしてそれらすべては、グーグル、アマゾン、メタなどのデジタルプラットフォーマーに「抽出」され、その瞬間に蓄積されたデータベースが、俺や君の属性や検索内容に応じた広告をドンピシャのタイミングで瞬時に表示してくれる。

考える必要はない。クリックするだけだ。

例えばグーグルに、今日のおすすめのランチは?と尋ねれば、スマートフォンを介したどこかのデータセンターのAIは、俺の位置情報とさまざまなデータ、近隣の飲食店の情報から、お値段、評価に応じて提案してくれるだろう。その時、そこで提示される店はグーグルと広告解約を結んでいる店が上位に表示されるだろう。

そして、いつのまにか、グーグルに広告費を払っている=おいしい店というように、俺たちの味覚自体が馴致されていくことになるだろう。

それがいま俺たちが生きている『デジタル民主主義社会』の世の中の仕組みだ。

中国のことを「あそこはデジタル監視専制国家だ、ありゃ恐ろしいもんだ」などと他人事のように言っているうちに、俺たち自身も家畜が柵に沿って歩まされていくように、巨大なデジタル資本=ビッグ・テック🔗によって監視され、誘導され、知らず知らずのうちに洗脳されているんだ。そう、俺たち自身がデジタルプラットフォーマーに利益をもたらす一種の家畜になっているんだ。

気づいていたかな?

この「家畜管理の精神性」は、専制政治か民主主義かという、政治体制の違いにかかわらず、現代のデジタルテクノロジーによって、今や人類全体へと牙を剥いているわけだ。

やれやれ素晴らしい世界だぜ。

2026/07/05

POST#1898 なぜ俺たちは和服を呉服というのか、考えてみたことあるきゃ?

 

石垣島
江戸時代初期、儒学者の林羅山🔗は家康、秀忠、家光、家綱と四代の将軍に仕え、朱子学をもとにした社会制度を整えた。これは戦国時代の下克上も辞さぬ気風を現代の日本人に通じる穏やかなものに上書きするのに役に立ったことだろう。

この林羅山には、ある伝説がある。彼とその息子が幕府の命で記した『本朝通鑑🔗』の前身『本朝編年録』には、羅山が天皇家の始祖・神武天皇🔗をして『呉🔗太伯🔗の末裔なり』と記し、水戸黄門でおなじみの徳川光圀🔗を激怒させ、光圀をして大日本史を編纂させるに至ったとい伝説だ。この話は、様々な碩学によって単なるこじつけの伝説と一蹴されているが、林羅山が『神武天皇論』でこの説に言及していたのは確かなようだ。この説は古くは 『魏略🔗逸文』に初めて見えるというから、魏🔗から西晋にかけてのかなり古いころから言われていたようだ。

これによれば、倭人=日本人は自分たちの祖先は呉の国を開いた太伯の後裔であり、その姓は周王室と同じく『姫🔗姓』だというように自称していたというのだ。ちなみに、この書には邪馬台国の記述も多い。呉は、現在の蘇州あたりに位置していたから、日本に一衣帯水だったわけだ。

林羅山としては、当時の東アジアで最高の権威を持ったいた大国である中国の歴史で最も儒教的な理想の王国であった周🔗王朝と日本の皇室が縁続きだったらサイコーだ!と思ったわけだろう。もっとも太伯は、自ら断髪し(文明人は髪を結うとされてたんだ)し、自ら入れ墨をいれ周に戻ることを拒んだ。自分はもう文明人じゃないんだとね。まぁ、これは越人の箔付けなのかもしれないがね。あくまで伝説だ。

この話から中国では、長く日本は姫🔗姓であると考えられてきたそうだ。この説の真偽は、今となっては確かめる術もない。何しろ呉の国は隣接する越🔗に紀元前473年に滅ぼされたんだ。あ、呉越同舟🔗の呉と越はこの二国のことだよ。大昔の中国人は、この辺りに住んでいた東南方系の人々を百越🔗と呼んでいた。

おそらく、百以上の様々な氏族🔗に分かれていた民族集団という意味合いだろう。

当然、氏族集団が密接していると、様々な分裂生成が起きて、他所とは違う家族形式や婚姻・儀式形式を発展させて差別化するんだけれど、そのあたりのまとまりのなさも百越と呼ばれてた一因だろう。おそらく、この集団は秦🔗などの西方の文化圏からかなり離れていたので、双系的な核家族システムを採用してた、より未開な氏族連合だったんではないかと思う。

稲作をし、水に潜って漁をし、蛟龍🔗の害を避けるために顔や身体に入墨し、龍蛇神や太陽神を信仰したり、鳥を聖なる鳥とする信仰(そう、ヤタガラス🔗みたいだな)を古い時期に持っていた形跡があったりと百越と倭人とりわけ海人族🔗との類似点が歴史書に見受けられるという主張があるという。

日本人の入れ墨も、そもそもは漁師が海で死にえびすさんになったとき、ご面相は腐敗してわからなくなったときのためのIDだったんだ。この百越の人々とよく似ているね。

とはいえ、状況証拠だけじゃ、今となっては確かめる術もない。

けれど、日本人が着物を呉服🔗といったり、漢字発音に呉音🔗が広く使用されているように、日本人と呉や百越といった中国江南地方の人々っていうのは、古くからかなり密接な繋がりがあったのは間違いないだろう。

「呉服(ごふく)」「呉音(ごおん)」という言葉が今なお日本の日常に深く息づいている事実こそ、俺や君たちが中国南方(かつての呉・越の地、つまり百越の領域)の文化構造をダイレクトに受け継いだ決定的な証拠なんじゃないか?

つまり「中原の漢民族」ではなく、「長江流域の呉越の文化システム」が日本人のアイデンティティに密接にかかわっていたのは間違いないようだね。

日本人(倭人)のルーツの中には、かつて長江流域から海へ散っていった『百越(ひゃくえつ)』の広大なネットワークの一派(一支族)だった」という仮説もあるんだけれど、この説は現代の歴史学、民俗学、そして最新の分子人類学(DNA研究)においても非常に有力な視点として支持されているようだ。

1. 最新のDNA研究(科学)が証明する「百越の血」

2000年代以降のゲノム解析技術の進歩により、日本人の遺伝子(特に弥生時代に渡来した人々)のルーツが科学的に解明されつつある。

Y染色体とミトコンドリアDNAの共通性
日本人の遺伝子プールの中で大きな割合を占める渡来系の遺伝子は、現在の中国華北(黄河流域の漢民族)よりも、華南(長江流域)からベトナム周辺にかけての古代ゲノム(まさに百越の民)にきわめて近いことが判明しているそうだ。
つまり、日本人は単に文化的な影響を受けただけでなく、物理的にも「百越の民の血を引き継いだ末裔」である可能性が非常に高いということだね。

2. 「百越=海の民(ネットワーク)」としての倭人

さっきも説明したように「百越」という言葉は、特定の単一民族を指すのではなく、長江以南の温暖な水辺や沿岸部に暮らしていた「数多くの海洋・河川民氏族の緩やかな連合体(ネットワーク)」を意味していた。

彼らは秦や漢の中央集権的な官僚制(タテの支配)に追われ、次々と船を出して海へと逃れたんだろう。あるいは、呉が越に滅ぼされたとき、その越が楚に滅ぼされたとき、ボートp-プルになって海に逃れた可能性が高いだろう。
このうち、ある者はベトナム(交趾・九真)へ、ある者は台湾や沖縄の島々へ、そしてある者は黒潮に乗って九州や西日本(のちの倭国)へと辿り着いたと想定されるんじゃないかな。まさに、柳田國男が思い描いた海上の道だ。
『魏志倭人伝』に描かれる「刺青(文身)をして水に潜り、魚や貝を捕る」という倭人の姿は、中国の古文書が記録する「百越の民(断髪文身、水に便ず)」の描写と完全に生き写しだといえるだろう。

3. 日本にだけ残った「百越の精神的ユートピア」

中国大陸の百越の民は、西北方の圧倒的な軍事力(周の天=テングリ・秦や趙が西戎や北狄から受け継いだスキタイ由来の騎馬民族のDNA)に呑み込まれ、自らの言語や双系的核家族システムを破壊され、漢民族という「巨大な共同体家族のキメラ」の中に融解させられてしまったと推測される。もちろん、なかには客家🔗のように、辺境にポツンと残った氏族もあっただろうが。また、ミャオ族🔗などのように山岳地帯に後退する集団もあったことだろう。

しかし、その中の一派であった「倭人(日本人)」だけは、日本列島という海に守られたクリーンルームに到達したことで、百越の本来持っていた瑞々しい文化を奇跡的に保存することができたんじゃなかろうか。

まぁ、水戸黄門のように怒り狂う向きもあるかもしれないけどね。

神話学における「盤古🔗神話・大気津比売🔗(オオゲツヒメ)神話というハイヌウェレ型神話🔗(死体化生神話)の類似性」は、すべて長江流域から海を渡ってきた「百越(ひゃくえつ)」の文化的・遺伝子的潮流として一本の線で完璧に繋がるんだ。

ハイヌウェレ神話ってのは、神様の死体から、人々の食べ物や生活に欠かせない様々なものが生まれるという神話だ。その中でも中国の盤古神話はスケールが飛びぬけてでかいんだがね。なんせ日月天地が生まれる話だからね。

この南方的アノミーの系譜が、どのように日本に流れ着いて開花したのか、神話構造と歴史の動線から整理しよう。また今日も神話だよ。

盤古と「ハイヌウェレ(五穀起源)神話」という 神話構造の一致

百越文化圏の神話には盤古という巨人が登場する。この巨人の亡骸から万物が生まれるという神話構造だ。この構造は、記紀神話の大気津比売(オオゲツヒメ)や保食神利🔗(ウケモチ)、そして世界中の農耕民に広く見られる「ハイヌウェレ型神話」の典型なんだ。

それは農耕民の死生観なんだ一粒の種が泥の中で「死ぬ」ことによって、そこから無数の新しい芽(生命)が溢れ出るという、湿潤な熱帯・温帯農耕民のリアルな体験から生まれた精神世界なんだといえるだろう。
そしてそれは昨日の伏羲・女媧よりも古層に位置するとされてるんだ。
伏羲・女媧の洪水型兄妹始祖神話🔗つまり「兄妹相姦による人類再創造」が、「生命のペアによる始祖繁殖」という地平に近い(アノミーから直系への移行期)のに対し、盤古やオオゲツヒメの物語は「個体の死が、集団(自然全体)の豊かな平等へと還元される」という、より原初的でフラットな混沌とした共同体の土壌から湧き上がっているといえるだろう。

アジアにおける「南方アノミー」のふたつの運命

これまで議論してきた「北・西の遊牧民(テングリの専制的な社会システム)」と「南・東の農耕民(百越の混沌)」の構図の上に、日本と中国の運命を改めて対比すると、歴史の解像度が極限まで高まっちゃいそうだな。

中国における「盤古(南方)」の運命
長江流域の百越が持っていた「ハイヌウェレ型(盤古風)のフラットなアノミー文化」は、北から降りてきた漢民族の官僚制(秦・漢)や、遊牧民(五胡・隋唐)の圧倒的なタテの支配権力(テングリ)によって完全にすり潰されてしまった。跡形もないんだ。そんなもん古い神話の記録に記述があるだけだ。
その結果、南方の「横のフラットさ(平等主義)」は、北方の「タテの支配(権威主義)」と無理やり結合させられ、個人の自由が一切ない「中国共産主義体制の基盤(共同体家族のキメラ)」のパーツへと昇華させられてしまったわけだ。かなわないな。
日本における「オオゲツヒメ(南方)」の運命
一方で、海を渡って西日本に根づいた百越の遺伝子は、中国のような「北方の遊牧民(テングリ)」による暴力的な上書きを受けまなかったのは言うまでもないよね。
だからこそ、万葉集や源氏物語の時代まで、その流動的な「双系的婚姻形態」を純粋に保ち続けることができたってわけだ。
のちに関東武士の登場によって「直系化(家制度)」に食い破られて移行することになるんだけれど、その根底(西日本文化や民俗宗教)には、いまなお「お天道様(自然そのもの)」を愛し、神仏が混ざり合う、盤古的な混沌を許容する豊かさが残り続けたわけだ。

日本人がいまも日常的に使う「呉服」「呉音」という言葉の向こう側には、かつて中原の全体主義的なモンスター(キメラ国家)に呑み込まれて消えていった、長江流域の百越たちの「もう一つの瑞々しいアジアのアノミー文化」が、奇跡のタイムカプセルのようにそのまま生き続けていると言えます。

その前に日本にいた縄文人🔗が一体どのような家族形態だったのかはいまいちよくわからないんだが、まずは双系的な核家族を中心としたクラン=氏族集団のようなものだったのではないかと推測できるだろう。

「百越の遺伝子」が流れ込む前にあった、日本列島の最古層である「縄文人の家族構造」について、遺跡のデータから分かっている具体的な証拠を整理すると、ビンゴ!どうにも正解のようだな。

1. 縄文人の基本ユニット

「核家族」の存在

縄文時代の竪穴住居跡の大きさを分析すると、そのほとんどが「大人23人、子供数人」が暮らすのにちょうどいい広さ(直径45メートル程度)だ。

中国の「共同体家族」のように、何世代もの大家族や既婚の兄弟が何十人も一堂に会して暮らしていた痕跡はない。ていうか無理だろう。
俺も竪穴式住居を復元した家に入ってみたことがあるけれど、それは狭いもんだ。親戚一同暮らすなんて、とても無理だぜ。
つまり、縄文社会の日常的な生活・経済の基本ユニットは、極めてシンプルな「核家族」であったと考えていいんじゃないかな。

2. 広域なネットワークを支える「アノミーなクラン(氏族)」

しかし、数人規模の核家族だけでは、近親交配を避けることができず、集団として生き残れない。平行いとこ婚、交叉いとこ婚、同父異母婚をフル活用しても、分母が小さければどうしようもないだろう。そこで重要になるのが、複数の核家族が緩やかに結びついた「クラン(氏族共同体)」の存在だ。

婚姻による「ヨコの繋がり」

縄文人は、ヒスイ🔗黒曜石🔗といった貴重な資源を数千キロにわたって交易する驚異的な広域ネットワークを持っていたのはみなさんご存じの通り。
このネットワークを維持できたのは、異なるクランの間で頻繁に婚姻が行われ、血縁の網の目が日本列島全体に広がっていたからだと推測できるだろう。この女性を通じた結びつきが、大きな戦乱を産むことなく、社会を緩く結合させていたんだと考えられるんじゃなかろう。
高い流動性の証拠
縄文時代の墓地を分析すると、男女の埋葬方法に極端な格差がなく、どちらか一方の血統、つまり父系のみ、母系のみを絶対視して固定化したような形跡が見られないそうだ。
その時々の集落の維持や交易の都合に応じて、夫が妻のクランに行ったり、妻が夫のクランに行ったりする、極めて流動的で自由度の高い婚姻(双系的な原初形態)が行われていたと推測されていいるんだそうだ。
俺は、双系的な核家族形態の中でも、割と母系のウェイトが大きかったんじゃないかと推測してる。その後の日本社会の、通い婚や子供が母方で養育されるシステムからもわかるけれど、何より彼らが残した土偶から読み取れるんじゃないかな。

縄文人が「双系性(あるいは流動的な)の家族をベースにした氏族(クラン)社会」であり、かつ「女性(母系)の象徴性が非常に強かった」という俺の見立ては、考古学の最新の研究成果とも完全に合致しているようだ。

土偶の圧倒的多数が女性をモデルにしている」という事実は、縄文人の精神世界において女性の「生命を生み出す力」が決定的な中心にあったことを示す、これ以上ない物理的証拠だといえるだろう。俺の家も、カミさんが中心だ。

1. 土偶が語る「母なる大地の信仰」

縄文時代を通じて数万点以上出土している土偶のほとんどは、発達した胸や大きなお腹、強調された臀部など、「妊娠した女性」の身体的特徴を持っているのは周知の事実だ。

これは、新しい生命を宿し、出産する女性の神秘的な力を、そのまま植物の芽吹きや狩猟の獲物の繁栄(=社会全体の生存)に重ね合わせる「地母神(母なる大地)信仰」の表れだとも解釈できるだろう。これをトッドの家族論に引き付ければ、今日の日本の家族のスタンダードだと考えられている父系の直系家族が「父の血筋」を絶対視するのに対し、原初のアノミー・双系社会では、誰から生まれたかが最も確実であるため、『母』という生命のハブ(中心)を中心に社会の心理的紐帯が形成されやすいという特徴があったんだと考えられるだろう。そう、昨日のブログにも書いた中上健次🔗の小説に出てくる秋幸の母のような感じさ。

2. 抜歯🔗(ばっし)」の痕跡が示す、女性が繋ぐネットワーク

しかも縄文人の骨を分析すると、成人儀礼(元服のようなもの)として健康な歯を抜く「抜歯」の風習があったことが広く知られている。近年の骨のストロンチウム同位体比(育った土地の成分)の分析から、非常に興味深い事実が分かってきたようなんだ。

多くの集落遺跡において、「男性は生まれた集落に留まり、女性が外部の集落から嫁いできていた(父系居住)」、あるいはその逆の「母系居住」が、固定化されずに地域や時期によって非常に流動的に行われていた痕跡があるんだ。どっちやねん。どっちもありや。
特に注目すべきは、外部からやってきた女性(つまりお嫁さん)が、実家のクランと嫁ぎ先のクランを繋ぐ「外交官」の役割を果たしていたということだ。女性たちがクラン間の横のネットワークを維持していたからこそ、縄文社会は平和的な広域交易を維持できという見立てだ。あるいは、小規模な小競り合いによって、強力な権力が生じることを防いでいた可能性もある。女性の交換に失敗したら、戦争という違う形の交換形態が発動するのがプリミティブな氏族社会というものだ。レヴィ=ストロース🔗が言うように、『戦争とは失敗した交換』なんだ。これはピエール・クラストル🔗が、『国家に抗する社会🔗』で参与観察していたヤノマミ族などにも共通することだ。

3. 「縄文のアノミー」と「百越のアノミー」の奇跡的な合流

こうして見ると、日本の歴史には「アノミーの二重構造」があったことになるだろう。

そのベース(土台)には日本列島に元々いた縄文人たちが、1万年以上かけて育んだ「核家族を中心とする、フラットで流動的な双系的な氏族社会があった。

そこに上書きされた百越の一派の構造。

この縄文人の双系的核家族氏族集団の中に、大陸の中央集権システムから逃れて海を渡ってきた、同じく「フラットで流動的な双系的な海洋民」である百越の一派=大陸系の弥生人が合流した構図だ。

北方の遊牧民(テングリ)のようなスキタイ由来の「圧倒的なタテの暴力と権威主義」を持たない二つの集団が出会ったからこそ、日本列島では激しい民族虐殺や社会構造の完全な破壊が、奇跡的に起きなかった。

むしろ、縄文と百越の「フラットでアノミーな遺伝子」同士が、お互いに違和感なく、パズルのピースのようになだらかに融合(ハイブリッド化)したと考えていいだろう

だからこそ、その数百年後に完成する『万葉集』の時代になっても、特定の家に縛られない自由な『通い婚』や大らかな『歌垣』の気風が、日本社会の幸福な古層としてごく自然に息づいていたのだと言えるだろう。

疲れたぜ。明日はこの日本に直系家族、そう自民党の皆さんの大好きな男系男子の直系家族のルーツにいこう!Follow Me!

2026/06/21

POST#1884 俺たちはもうだまされないぜ。なぜって自分たちで考えるからさ

石垣島

ルソー🔗からイロコイ連邦🔗、そしてPファンク🔗へ。

この豊かで強靭な思想の系譜を、俺や君の住んでる町の町内会や子どもたちの小学校の学級会という現場で「一歩目」として動かすとしたら、「まずはこの人(あるいはこの小さな課題)を巻き込んで、面白いグルーヴを起こしてみたい」という、具体的なターゲットやイメージは何か浮かんでくるかい?

これを、自分事として真面目に考えてみれば、とてもワクワクする戦略が見えてくるんじゃないかな。

「お堅い会議」を「ブラックハウス」に変えちまえ

私たちが地域社会で直面する既存の会議(現状維持を最優先する人たちが仕切る場)は、いわば小さくて退屈な「ホワイトハウス」のようなものです。

  • 前例踏襲のルールに縛られ、
  • 偉い人が上から目線で方針を決め、
  • 異論は「数合わせ」で処理される。

これを真っ向から批判して変えようとすると、角が立ち、泥沼の戦いになっちまうだろう。くだらない泥仕合の果てに、意見の合わない少数派は脱退するという専制政治みたいなオチがついて、地域のコミュニティーは自滅してしまうだろうよ。
けれど、人間にはユーモアがある。

ここでジョージ・クリントンの「ブラックハウス」の精神を取り入れるなら、「会議というフォーマット(形式)はそのまま借りながら、中身のグルーヴを完全に別物に塗り替えてしまう」という作戦が有効になるんじゃないかな。

まずはルールの「乗っ取り」だ。

形の上ではちゃんとした町内会の議題を扱いながらも、進め方を「全員の意見を1人も切り捨てずに落とし所を探るセッション」に変えてしまうんだ。

そして楽しさによる「制圧」だ。

これまで発言権のなかった若い世代や親たちが、ユーモアと圧倒的な当事者意識(平等の力)を持って生き生きと議論をリードし、堅物な大人たちをそのポジティブな空気(グルーヴ)に巻き込んでしまう事になったらこっちのもんさ。

重鎮たちが「自分たちの立場が脅かされている」と気づく前に、その場自体が「みんなが対等に熟議する、最高に風通しの良い場」へと変わっている。

これこそが、社会の底辺から民主主義のレベルを叩き上げていく、本物の「パワー・オブ・イコーリティ」の実践なんじゃないかな。

ルソーの「一般意志」から、イロコイ連邦の「全会一致」、そしてPファンクの「ブラックハウス」まで、すべては「一人ひとりの尊厳を等しく認め、最高の合意(グルーヴ)を紡ぎ出す」という地平で見事に連結されてしまうのさ。

この最高にファンキーで知性にあふれたビジョンだが、世の中には実はもっと手ごわい現実がある。こいつは手ごわい。

今の社会ってのは、そもそも多数決という以前に、過激な意見を言う人の声に皆が引っ張られてしまっているのが実情だ。行政も臆病になり、ネットなどで極端な暴論を吐く人間の言葉に易々と膝を屈してしまい、本来の意図が忘れられ、平等な政策がねじ曲げられたりする嘆かわしい状態になっているんだ。

こんなバカバカしい状況を防ぐためにも、本当の意味でのボトムアップの民主主義っていうのが根付いていかないとダメだと思うんだ。

大事なことだからもう一度言っておこう。

今の社会は、ネット上で「最も大きな声で、最も極端な暴論」を叫ぶ過激な一部の人々や、あるいはアテンションエコノミーによって増幅された偽りの民意に、行政や政治が脅され、臆病になり、結果として社会全体の「共通の利益(一般意志)」や「平等な政策」がねじ曲げられてしまうという最悪の悪循環に陥っているんだ。

だからこそ、俺や君たち語り合ってきたように、ネットのノイズに左右されない「本物のボトムアップの民主主義」を地域社会の底辺から根づかせ、行政に「本当の民意のベース」を突きつけていくことが、今どうしても必要な防波堤になるんだ。

なぜって、俺や君たちの生きるこの現実の社会を守るためにね!

この「極端な暴論」から平等な政策を守るために、なぜ地域の小さな熟議(ボトムアップ)が不可欠なのか、3つの理由から考えてみようぜ。

1. 暴論の正体である「幻の多数派」を無効化する

行政が過激な意見に怯えてしまうのは、ネットの「アテンション」のせいで、それがまるで世論の大部分であるかのように錯覚してしまうからだ。

みんなが言っているという『みんな』なんてのは、実際に突き詰めてみれば、たいていほんの一握りの個人に過ぎないんだ。そもそも暴論で横車を押す奴ってのは、俺の経験上『みんな』が言っているっていうんだよ。

で、俺が腹を括って、その一人一人と相対で話し合って、各個撃破で説得するから名前を揚げろって言っても、アウアウと口ごもるだけと相場が決まっているんだ。
しかし、学区会や町内会という現場で、実際に住民がデジタルデトックスをして対面で熟議を重ね、「地域の全員が納得した落とし所(全会一致の合意)」をカチッと形成できれば、それは行政にとって「サイレントマジョリティの本当の声」という強力な盾になるんだ。

行政も「ネットの暴論ではなく、地域の組織的な合意に基づいています」と堂々と言えるようになり、臆病な姿勢から脱却できるだろう。

2. 「極論」を溶かす、顔の見える関係

ネット上の過激な暴論は、相手の顔が見えない「記号」だからこそエスカレートする。

『みんな』という匿名の中に隠れているんだ。
しかし、俺や君たちが構想してきたローカルな場にその暴論を持ち込もうとしても、そこには「毎日顔を合わせる隣人や、子どもたちの親」がいるんだ。抜き差しならない顔の見える関係だ。

Pファンクの「ワン・ネイション・アンダー・ア・グルーヴ」のように、誰もが平等に発言できるセッションの場に置かれると、極端な意見を言う人も、周囲の冷静な「成熟した知性」と対話するうちに角が取れ、過激さを維持できなくなるものさ。

ただし、ここで地元のボスの声の大きさに全員が平伏してしまったら、それはただの「お堅いホワイトハウス(同調圧力)」の再生産に逆戻りだ。だからこそ、上下関係をなくすユーモアと、全員の尊厳を等しく認める「ブラックハウスの精神」で、場をつねにファンキーで風通しの良いセッションにチューニングし続ける必要があるんだ。

そう、だからこそ底辺からの熟議は、暴論を社会的に「無害化(チューニング)」する装置になるんだよ。

3. 行政を「下から支え、動かす」主権者への転換

これまでの『市民』は、行政に対して「あれをしてくれ、これをしてくれ」と要求するだけの『消費者』だった。だからこそ、クレーマーのような過激な声ばかりが行政に届いてしまっていたわけだ。

しかし、本当の市民とは、かつてケネディ元大統領が語ったように、『自分が社会のために何ができるか考える』人々じゃないだろうか?

地域社会が「自分たちで熟議し、全会一致で落とし所を決める」という自立した集団(本当の市民)になれば、行政に対して「私たちはここまで話し合って合意を作りました。あとはこの平等な政策を執行してください」と、主導権を握って行政をリードできるようになるだろう。


多数決の「数合わせ」すら崩壊し、いまや「声の大きさ」だけで社会が歪められる現代のディストピアにおいて、俺と君たちが真剣に語り合ってきた「社会の底辺からの叩き上げ」の民意というのは、もはや単なる理想ではなく、社会の崩壊を止めるための唯一の防衛策なんだ

お堅い「ホワイトハウス」的なお役所仕事や、ネットの暴論というノイズを、地域住民のファンキーで成熟した「平等の力(ブラックハウスの精神)」で包み込み、本来あるべき平等な社会を取り戻していくんだ。

ルソーから始まったこの探求は、現代の日本の地域社会を救うための極めて具体的で力強い作戦へと結実したように思うんだけれど、どうだろう?

この「本当のボトムアップ」を、俺の町から、そして君の町から、少しづつでいいから形にしていこう。

例えば今回文春が仕掛けているあの高市総理が総裁選に出馬した際に、他の候補を誹謗中傷するような動画を作らせたという疑惑がある。

そりゃそんな悪巧みする奴は良くないけれど、今の世の中、そんな奴がウヨウヨしてる百鬼夜行だ。

けど、俺がほんとうに憂慮するのは、そういったフェイク動画にあっさりと騙されてしまう人々のリテラシーのなさなんだよ。

こういうものを無くしていくためにも、俺や君たちが構想してるこの地べたの民主主義構想ってのは絶対に必要だと思うんだ。

この週刊誌の報道をめぐる疑惑や、それに対する世間の反応は、現代社会における「情報リテラシーの脆弱さ」と「民主主義の危機」が地続きであることを示す極めて象徴的なケースだと思うだろ?

真偽の不確かな情報や、感情を煽るように編集された動画、あるいは一方の立場に偏ったスクープ報道に対して、多くの人が「自分で考える」プロセスを飛ばし、あっさりと鵜呑みにしちまってるんだ。

そして、その反応がさらにネット上で増幅され、社会の分断や政治の機能不全を加速させていく。まったく見ちゃいられないぜ!この現状を打破するためにも、「社会の底辺からのボトムアップの民主主義」と、それを支える「情報リテラシー」の構築は絶対に不可欠なんだ!

地域の小さなコミュニティで熟議を重ねる習慣が、なぜこの「リテラシーのなさ(あっさり騙される危うさ)」を排撃する最強の武器になるのか?さぁ、頭の体操だ!考えてみよう。

1. 「検証する脳」を鍛えるリハビリになる

ネットの動画や刺激的なテキストに騙されてしまうのは、情報の受け手が「受動的な消費者」になっちまっているからなんだ。すると何も自分で考えずに、脳が延髄反射モードで情報を処理してしまう。延髄反射って要は脳みその一番古い、トカゲとかワニとかと同じレベルの脳味噌のパートなんだよ!
一方で、学区会や町内会で「全員が納得する落とし所」を探るプロセスは、「このデータは本当か?」「この意見の背景には何があるのか?」と、常に情報を多角的に検証し、主体的に考えること(成熟した知性)を要求されることだろう。

この日常的な対話の訓練こそが、怪しい情報に直面したときに「ちょっと待てよ」と立ち止まれる、本物のリテラシーの土台を作るんだ。要は自分のニンゲンの脳みそで考えろってことだよ。

2. 「極論のエンタメ化」の毒気を抜く

ネット上の誹謗中傷動画やネガティブキャンペーンがなぜ流行るかといえば、それが「刺激的なエンターテインメント」として消費されているからなんだよな。センセーショナルな内容のほうがおもしろい。権威ある人の舞台裏を御開帳するのがたまらない。そんな刺激的なものにみんな飛びつくんだ。なかでも、だれかを悪者に仕立てて、叩きまくるってのは魔女裁判みたいに俗受けするんだ。つまり人々は、画面の向こう側の政治家や候補者を「生身の人間」としてではなく、「叩いてもいいキャラクター」として消費していいるのさ。

これは、もちろん政治家だけに限らない。芸能人だって、犯罪者やその被害者だって、この慎みのない人々の手にかかると「どれだけぶっ叩いてもいいキャラクター=記号」にすり替えられるんだ。記号には感情も家族もない。しかし、人間には感情もあれば家族もいる。なにより尊厳がある。これを忘れちゃだめだぜ。
しかし、ローカルな熟議の場は「生身の人間同士が、利害を調整する泥臭い現場」そのものだ。みんな、今はなしてるやつが、どこに住んでいて、どんな家族構成かも知っている。子供同士が同級生だったりもする。

こんな抜き差しならない現実社会で人間の複雑さや、物事を一つ決めることの難しさを身をもって知っている人は、ネットの1分弱の動画ごときで、社会が勧善懲悪のように語られているのを見たときに、「そんなに単純なわけがない」と見抜く知性を持つことができるだろう。

3. 「アテンションの奴隷」から「主権者」への解放

ジョージ・クリントンの「ブラックハウス」が既存の権力をユーモアでひっくり返したように、俺や君たちは「過激な声に怯える行政」や「メディアのスクープに一喜一憂するだけの世論」という今の歪んだホワイトハウス的構造を、下からの平等の力で上書きしなけりゃならないんだ。
「上から流れてくる情報に一喜一憂し、踊らされる」のをやめるんだ。俺も君たちも、上流から流れてくる餌を待ち構えて、口をパクパクさせている川のコイとは違うんだぜ。

「自分たちの足元から、確かな事実と対話に基づいて合意(グルーヴ)を作っていく」。この主権者としてのプライドを取り戻すことこそが、あらゆるデマや偏向報道、そしてそれに釣られる暴論を社会から自然に排撃していくための、最も強靭な防壁になることだろう。


多数決の限界から始まり、アテンションエコノミーの病理、Pファンクの哲学、そして現代の具体的な政治・メディアの課題に至るまで、本来常識的に言ったらつながるはずのないものが、こうしてここで一本の太い線で繋がっちまった。まさにブリコラージュ🔗だな。

書斎にこもって、世間様の「リテラシーのなさ」を嘆くだけでは何も変わらない。

しかし、俺や君たちが真剣に見据えているように、「だからこそ、小学校や町内会という一番小さな社会の底辺から、騙されない知性と、1人も切り捨てない対話の習慣を叩き上げていくんだ」というアプローチは、このとんでもねぇ閉塞した時代をひっくり返す、最も現実的でファンキーなカウンター(逆襲)になるんじゃないかな。

この「騙されない知性を地域で育む」という挑戦、俺や君たちの問題意識が、身近な足元から小さなさざ波となって、社会を確実に変える大きなうねり(グルーヴ)へと育っていくことを、俺は確信しているんだ。次の世代に、よりマシな時代を手渡すためにも、必要なことなんだ。肩の力抜いていくのさ。

さて、明日からは様々な知見を駆使して、俺流に組み上げて、どうして中国はどれだけ豊かになっても民主的な社会にならないんだ?ってことを考えていく。乞うご期待だ。

2026/06/03

POST#1867 金がない奴ぁ、俺んとここい、国家は信用創造でいくらでも作れるのさ

石垣島

国家の財源なんて、信用創造でいくらでも作れる。

金のない奴ぁ、俺んとここい!といってほしいもんだぜ。

もし植木等🔗演じる『無責任男』が総理大臣だったなら、そうやって大言壮語するだろうな。

これこそ金融システムの本質を突いた、極めて本質的事実だ。

みんななんとなく、自分の家の家計を考えて騙されちゃいけない。

政府の言うバランスシートとか、財政健全化っていうのを鵜呑みにしちゃいけない。将来世代にツケを払わせることになる惧れがあるからと、将来世代のために国費を投入して、より良い教育、つまり社会の歯車の鋳型にはめるようなものではなく、人間の可能性を引き出すような教育を施すことを惜しむのは、亡国の愚行だといって過言ではないだろう。

国債を発行して予算を作ることは、次世代への借金のツケ回しではなく、単なる政府による信用創造(通貨発行)である」という事実は、現代の経済学(MMT現代貨幣理論🔗など)でも明確に説明されている通りだ。もっとさかのぼったら、100年ほど前のドイツの経済学者クナップ🔗が『貨幣国定学説』で展開した表券主義🔗までさかのぼるだろう。

これは嘘でも何でもない。

金がない、財政難だといいながら、政府は国債の発行をやめる気配もない。なぜなら、それは自己増殖する貨幣そのものだからだ。年に数パーセント価値が下落していく円の価値を金利で補うもう一つの貨幣だからだ。現代の貨幣は、金本位制じゃないから、国家の信用だけでその価値と流動性を担保しているんだ。

お金はどこかから「集めてくるもの(財源論の罠)」ではなく、政府が決断すればその瞬間にキーボードの入力一つで作り出せるものものなんだ。その証拠に、アメリカからこんなだけ金出せと言われると、どこからともなく金がひねり出されてくるだろう?

「財源がない」という言葉は、子供たちを労働機械として使い潰すシステムを維持するための、単なる政治的・思想的な言い訳(プロパガンダ)に過ぎないんだぜ。

この信用創造の視点から、私たちが求める社会(子供を歓迎する社会)へシフトするための論点は以下の通りであろう。

1. 財源の壁は「嘘」である。

銀行が融資を行う際に預金を原資とせず、万年筆で通帳に数字を書き込むだけでお金を作り出す(万年筆マネー)のと同様に、政府が国債を発行して日銀がそれを受け入れるプロセスも、無から通貨を生み出す「信用創造」だ。みんな間違えちゃいけない。銀行はみんなが預金したお金を貸してるわけじゃないんだ。

真の制約は「お金」ではなく「供給能力」そのものだ。

お金をいくら刷っても、それを形にする「人間の労働」「資源」がなければインフレになりる。昨今のコストプッシュ型のインフレも、労働人口の縮小や、資源の高騰(とりわけアメリカ大統領ドナルド・トランプ氏の功績は絶大だ)によるものだといっていいだろう。

しかし今、この一連の構想で、俺たちが求めているのは「余っているリタイア世代(面白い老人)」の知恵の活用や、求職中の人たちを「事務職員」として雇ったり、「カウンセラー」として養成して、日本全国の学校に配置することでなわけだ。

社会に眠っている「人間という生身の資源」(こんな言い回しを俺が使うのも矛盾してるのは十分承知しているけれどね)は十分に余っているため、信用創造で予算を作ってもハイパーインフレなどを引き起こすことはないだろう。ナフサやコメのように目詰まりすることもないさ。

2. 「何を信用創造(創出)するか」という価値観の戦い

政府はこれまでも、必要とあらば事実上の信用創造で巨額の予算を一瞬で作ってきた。嘘だと思うかい?例えば、コロナ禍の持続化給付金や、銀行の救済、防衛費の増額など、実例は枚挙にいとまがないぜ。

問題は「お金を作れるか」ではなく、「作ったお金をミサイル(破壊の道具)に換えるのか、それとも子供たちの笑顔(生の余白)に換えるのか」という、国家の倫理観の選択にあるんだよ。子供たちを「かけがえのない存在」として歓迎するための信用創造こそ、最も正当な通貨の発行理由じゃないか。人々に死をもたらす道具か、人間の生を豊かにする余白か。君はどっちがいい?

さて、こういう話をすると、必ずや防衛費をケチって、中国に侵略されたらどうするんだ!と懸念を表明なさる方がいる。そんなお怒りの貴兄に一言申し上げさせて頂くとするならば、わが国の空気のように社会を覆う同調主義的な全体主義と、習近平の号令一下で社会の方向が決まるあからさまな全体主義と、どう違うというのかな?

そもそも中国でも日本でも、金のあるやつは政治に首を突っ込まない限り好きにやってるんだ。庶民はより良い社会の歯車を目指して精進し、搾取されるだけなのも変わりない。

政治や社会に異を唱えたときには、中国では劉暁波🔗やジミー・ライこと黎智英🔗のようにお上に拘束される。日本では、社会からバッシングされたり黙殺されるかの違いだけだ。

今のままじゃ、風呂の温度が熱いか温いかだけの違いの専制状態に変わりはないだろ。

こんな柔らかな専制政治のような社会の状況に対して、決定的な変化を生み出すためにも、これは必要なんだ。

3. 「貨幣の奴隷」から「貨幣の主人」への転換

「お金が足りないから、子供への投資を削り、労働機械を増やす」という発想は、人間がお金(システム)の奴隷になっている状態以外の何物でもない。

お金は人間が生きるための「道具」に過ぎないんだ。

「ようこそ地球へ!」という社会基盤を作るために、政府の信用創造という特権を発動させることが求められているんだ。生きた金を使うってことだ。これこそが、新自由主義的資本主義の呪縛を解き、人間の尊厳を経済の最上位に据え置くための具体的な実践とり得るだろう。人間の尊厳のための通貨発行だ。

「お金は作れる」という前提に立ったとき、俺や君たちは「財源の言い訳」に騙されることなく、堂々と「子供たちの命を救うための予算」を国に要求することになるだろう。

要は、日本政府に金はないというのは『共同幻想』なんだ。いつもずいぶん大昔に久米宏🔗がニュースステーションの中で、刻一刻と動き続けるデジタル表示、それは一瞬の休みもなく利子によって増大してゆく国債残高を示していたんだが、その前で持ち前の深刻ぶった表情を作って見せ、日本社会の行く末を案じて見せた姿を思い出す。

それからもう、二十年くらいは経ってるはずだけれど、俺たちは相変わらずだ。もちろん、国債残高が減ったわけでもない。

政府にこの「人間の尊厳のための信用創造」を決断させるために、俺や君たちたち『市民』(「消費者」じゃないぜ)はどのような世論のうねりを、あるいは政治へのアプローチを作っていくべきだろうか?

しかし、実際に行われていることは、本来の政治の役割そのものであるべき富の再分配が、富の収奪に堕してしまったことで、大多数の人間は心理的にも物理的にも欠乏状態に置かれている。

人々を欠乏状態に置くのは、権力を持ってるやつらの得意技だ。

人々を欠乏状態に置き、TVで、新聞の広告欄で、ネットで、SNSで、24時間365日休みなく資本の論理を広告として集中的に浴びせ、必要のないものを必要だと思わることで、人々の飢餓感、欠乏感、劣等感と羨望をあおり、人間を支配するシステムが社会を隅々まで覆いつくしている。まるでデジタルを使った農奴制だ。いやすでにヤニス・バルファキス🔗などの経済学者はその構造をその著書、『テクノ封建制🔗』などで解き明かしている。

これが、『市民』を『消費者』に変え、『主権者』を単なる『社会の歯車』に変えてしまうんだ。これがカール・ポランニー🔗が『悪魔の碾き臼』にたとえた近代資本主義のヴァージョンアップ版だ。

俺たちはそんなくそみたいな経済を、嘘くさい社会を静かにボイコットしないといけない。

ちなみに、バンクシー🔗はずっとそういうことを主張してきたアーティストだ。決して資本主義のアイコンとして消費していいような存在じゃないんだ。ロックだな。痺れるぜ。

2026/05/11

POST#1846 ざっくりまとめて未来に踏み出す一歩にするか!

 

沖縄県竹富島 2025年のアニメLAZARUSの劇中にて、温暖化で水没したこの島でこの塔が描かれていた

今や多くの国民が希求しながら、高市政権の皇室典範改正(改悪)によって阻まれようとしている『愛子天皇』の実現は、俺がこれまで語ってきた『天皇制リベラリズム』や『多様な人々を包摂する開かれた器』という構想にとって、最も強力な結節点であり、完成形への一歩になると考えらる。

その理由は、次に挙げるように集約されるだろう。

「底の浅い伝統」を「厚みのある伝統」で塗り替える

現在の保守派が固執する「男系男子」という縛りは、長い歴史で見れば、明治以降の家父長制的な価値観によって強化された「底の浅い」側面が否めない。

これに対し、女性天皇は古代から存在した「本来の日本の多様な形」の一つだ。

愛子天皇の誕生は、「血統による排除」から「存在による包摂」へと、伝統の定義をより古く、より深いものへとアップデートすることを意味するだろう。

ジェンダーと「ケア」の象徴としてのシャフト

俺が現状を強くが懸念する「ケア労働」に従事する人々や、社会を底辺で支える人々にとって、女性である天皇が「統合の象徴」となることは、極めて大きなメッセージを持つことだろう。

家父長制的な権威の象徴ではなく、「命を守り、育むこと(ケア)」を社会の中心軸(シャフト)に据えるリベラルな社会への転換を、象徴的に体現する存在となり得るからだ。

多文化共生・移民社会への「柔らかな統合」

男性的な力(パワー)による統合は、しばしば同化や排除を生みがちだ。帝国主義的な傾向だ。一方、愛子内親王がこれまでの歩みで見せてこられた、他者の痛みに共感し、静かに寄り添うスタイルは、まさにフランスやドイツが欠いていた「多様性を否定せずに束ねる、柔らかなシャフト」の理想に近いものに他ならない。

異なるルーツを持つ人々(現代の渡来人)も、愛子天皇という「懐の深い器」のもとであれば、自らのアイデンティティを脅かされることなく、安心して「日本」という公界に身を置くことができるはずだ。

つまり愛子天皇の実現は、単なる「女性活躍」の問題ではないのだ。

それは、網野史学が描いた「無縁・公界」の自由な精神を現代に蘇らせ、「誰もが排除されないリベラルなコモンズとしての日本」を完成させるための、歴史的な必然といえるのではないだろうか。

そしてまた 秋篠宮家の悠仁親王を輔弼とする『ヒメ・ヒコ制』が隠し味だ。

愛子内親王と悠仁親王、あるいは「女性の象徴(媛)」と「男性の象徴(彦)」が並び立ち、互いを補完し合うという構造は、日本の古層にある「ヒメ・ヒコ制」の現代的復興とも言えるだろう。共同幻想の発生の瞬間にリバイバルするんだ。

この視点を、俺が提示する『天皇制リベラリズム』に繋げると、さらに重層的な包摂が見えてくるだろう。

二元論を超えた「双子的なシャフト」

一方が権威、一方が実務といった固定的な役割ではなく、愛子天皇という「大きな器(静)」と、秋篠宮悠仁親王という「動」の力が共存する形は、社会を一つの色に染めない「多極的な中心」を作り出す二連恒星のようなものだ。

これは、中央集権的な同化を嫌うリベラリズムの精神に驚くほど合致した、柔軟なシャフトになりるだろう。

『排除しない』という究極の実践

「どちらか一方が正しい、一方が伝統だ」という保守派的な二者択一(排除)ではなく、両方を活かす。この「あわい(間)」を大切にする構造こそが、網野氏のいう「無縁」の空間、つまり誰にも私物化されない「公(おおやけ)」を維持する知恵となるだろう。

こうして愛子天皇を主軸としつつ、秋篠宮家をも包摂する「ヒメヒコ制」的なシステムは、「多様な価値観が矛盾したまま共存できる社会」の象徴となり得るのだ。

これこそが、移民やケア労働者、あらゆる「境界の人々」が呼吸しやすい、日本独自のコモンズの姿かもしれないのではないかな?

俺は少なくとも、この弱い者がより弱い者を自己責任の美名のもとに叩き、自分たちの足元を支える人々を、『そんなことはだれでもできる仕事』だとか『日本人の仕事を奪う』などと排除したり低く見たりする風潮が、たまらなく不快だ。

君たちはこの『天皇制リベラリズム』に基づく『ヒメ・ヒコ制』という古くて新しい形が、現代の「分断された政治」を癒やすヒントになるとは思わないか?

前にも語ったことだけれど、日本人には一姫二太郎という理想形がありますが これは大昔の『ヒメ・ヒコ制』に淵源を発するものだと俺はにらんでるんだ。

日本の古層にある「ヒメ(霊的な力・統合の象徴)」が先に立ち、それを「ヒコ(実務的な力・実行の象徴)」が支えるという順序こそが、社会を安定させ、物事を円滑に進めるための日本的な黄金律であるという直感だ。

この視点を、これまでの議論と結びつけると、さらに興味深い地平が見えてきます。

「一姫二太郎」としての国体

「まず姫(愛子天皇)が立ち、その後に太郎(悠仁親王)が続く」という形は、日本人の深層意識にある「理想的なバランス」にピタリと合致するだろう。

これは保守派が主張する「男系男子(ヒコのみ)」という硬直した論理よりも、はるかに日本人の情緒に根ざした、説得力のある「伝統」の提示になることだろう。

 ケアと統合の先位性

「一姫(ヒメ)」が象徴するのは、俺が掲げる「ケア」や「包摂」、そして「無縁の器」としての統合力となるだろう。「二太郎(ヒコ)」という実務や力が先行するのではなく、まず「すべてを包み込む慈しみ(ヒメ)」がシャフトの根幹にあること。その上で実務的な力が動くという構造こそが、移民や弱者を切り捨てない『リベラルな天皇制』の具現化と言えるだろう。

つまり「一姫二太郎」という日常的な知恵の中に、実は日本の国家システムを再生させるための「ヒメ・ヒコ」のOSが冬眠状態で今この時代まで眠っていたのだと捉え直すと、俺の提示する構想はより一層、日本人の肌感覚に響くものになるんじゃないだろうか。

この「ヒメが先に立ち、ヒコが支える」という調和の形を、現代の「ギスギスした能力主義社会」を解きほぐすための処方箋として提示していくのは、非常に強力な物語になるのではなかろうか。

俺はこんなことを書き散らしても、正直何の得もない。経済的に見たら、まったくの徒労だ。しかし、天啓のように俺に下ってきたアイディアをつたないながらも形にしなことには、何も始まらない。

未来の世代のために、俺は書いているんだ。

どんなに優れた洞察や歴史観も、言葉として編まれ、物語として共有されなければ、社会を動かす力にはなることはない。

俺がここまで語ってきた「吉本共同幻想論×ピエールクラストルの国家を持たない社会論×網野史学(無縁・公界)× 宇沢弘文(コモンズ)× 現代の包摂(移民・ケア労働)× ヒメ・ヒコ制(愛子天皇・一姫二太郎)×レヴィ=ストロースの構造主義」という一連のロジックは、既存の「右」か「左」かという不毛な対立を飛び越える、極めて強力な新しい日本のグランドデザインになるかはどうかわからないけど、考えてるだけでワクワクするような知のパルクール🔗なんだ。

吉本隆明の「対幻想(共同幻想からの自律)」、網野善彦の「無縁(世俗からの解放)」、そしてレヴィ=ストロースの「野生の思考」やピエール・クラストルの「国家に抗する社会」。これらを掛け合わせることで、天皇制を「権力の頂点」ではなく、逆に「国家という怪物(暴力的な支配装置)を無効化するための、高度な文化的仕掛け」として再定義する道が見えてくる。特にクラストルの視点を入れることで、天皇を「命令する王」ではなく、「富や権力を独占させないための象徴」として置くという、人類学的な説得力が加わるだろう。

憲法に定められたように天皇陛下という存在は、実際の政治には参加しないんだけども、平成天、今上天皇がなさったように常に虐げられたもの、困難の渦中にあるもの、最も苦しんでいる者に寄り添っていただくという御姿こそが、まさに、それがピエール・クラストルの言う「権力を持たない王」の現代的かつ究極の形態そのものだ。

クラストルが描いた未開社会のリーダーは、集団の調整役であり、誰よりも気前よく与え、雄弁に語りますが、「命令権(強制力)」だけは持たない。

もし首長が命令し始めれば、その社会は国家(支配装置)へと変質してしまう。リバイアサンが生まれるんだ。この人類学的な知恵を、アヴェンジャーズもたじろぐような、俺が提示したジャイアントたちの最強布陣でもって現代日本に接続すると、驚くほどクリアな『天皇制リベラリズム』の姿が浮かび上がってくるんだ。

 政治(権力)の拒絶による「公」の担保

政治に参加し、決定権を持つことは、誰かを切り捨て、特定の結果に責任を負う「私的な選択」に陥るリスクを伴う。天皇が政治から切り離されている(無縁である)ことは、吉本隆明のいう「共同幻想」が暴走して個々人を飲み込むのを防ぐための、「空虚な中心」として機能する。

「弱者への寄り添い」という究極の再分配

クラストルの社会において、首長は常に他者に与え続ける存在であった。

このくそったれな強欲資本主義にどっぷり浸かった現代において、天皇が「弱者に寄り添う」ことは、効率や利潤を優先する世俗の論理によって社会の隅に追いやられた人々を、再び「公(公共圏)」へと呼び戻す儀式となるんだ。

政治(決定)ではなく、寄り添い(承認)を行うことで、移民もケア労働者も「見捨てられていない」という安心感を得て、社会というコモンズに繋ぎ止められ、包括されていくんだ。

レヴィ=ストロース的「交換」の媒介

天皇陛下を、異なる立場(定住民と渡来人、強者と弱者)の間に立つ「媒介者」として社会の中心に置く。政治が「対立」を生む装置であるなら、天皇は「交換と和解」を促す装置となるだろう。

愛子天皇という「ヒメ」がその中心に立つことで、社会はより「ケア」と「互酬性」を重視する形へと、野生の思考を取り戻していくことになるはずだ。

この遠大な構想は、「天皇を世俗の政治(暴力装置)から徹底的に守ることで、逆にその超越的な立場を利用して、社会から零れ落ちる人々を救い上げ、コモンズを維持する」という、極めて高度な社会工学なんだ。吉本、網野、宇沢、レヴィ=ストロース、クラストル……この知の巨匠たちのバトンを受け継いで、「命令しないからこそ、すべてを包摂できる王」という物語を形にしていく。それは、分断された現代世界に対する、日本からの最も力強い回答になるのではないだろうか。どうなんだい、皆の衆!


俺はこの国に蔓延る「底の浅い伝統論」と「何をしても無駄だという諦め」を根底から覆す、知の革命を目指しているんだ。

俺はすでに上野千鶴子センセーのお怒りを覚悟の上で、「側室制度の復活」という極論をフックとして提示した。それは単なるスキャンダラスな提案ではなく、「中途半端な保守主義の欺瞞を暴き、天皇制リベラリズムという新地平へ人々を追い込むための、冷徹な思考実験」として機能していたはずだ。

「そこまでして血にこだわるのか、それとも愛子天皇という『寄り添いの器』を選ぶのか」という問いは、日本人が自らのアイデンティティの根源を問い直すための、最強の「揺さぶり」になるはずだ。

この刺激的なフックを投げかけたとて、世の人々から返ってくる「拒絶反応」や「困惑」なんてどうせないに決まっている。

そもそも、このブログを読んでいる人は少ないし、この内容をすんなりと理解できる人はなお少ないだろうことは織り込み済みだよ。

むしろ、その「フック」を打ち込むこと自体が目的というか、既存の言論空間(底の浅い保守 vs 教条的なリベラル)がいかに機能不全に陥っているかを冷酷に突き放すような、ある種の「切断」の表現なんだ。

結局、世俗の反応など期待せずとも、俺が君たちの前で構築して見せた「網野・吉本・クラストル」を背骨にした強固なロジックは、それ自体で完結した、一つの「現代の神話」に近い強度を持っているはずだ。

君たちからの反応を待つのではなく、その「形」を淡々と提示し続けること。

それが俺の務めだ。

「愛子天皇というシャフト」を据えた「ヒメ・ヒコ制」の構想は、たとえ今の世間に理解されずとも、日本社会が本当に行き詰まった(=コモンズが崩壊し、排除が極まった)時に、「すでにある無名の馬鹿野郎によって提示されていた、唯一の処方箋」として再発見されるであろうことを願うばかりだ。


そう、22世紀、23世紀を生きるであろう未来の世代のために書いているんだ。

いいね!という記号を稼ぐためにやってるわけでもない。原稿料やアフェリエイトのためにやってるわけでもない。ただ、やむに已まれぬ自己の知的衝動のなせる業だ。


今この瞬間の、目先の反応や世俗の喧騒に期待するのではなく、「いつか必ずやってくる、既存のシステムが立ち行かなくなった未来」に向けて、一本の杭を打ち込む。

それは、網野善彦が掘り起こした「無縁」の歴史が、数百年を経て今の私たちを鼓舞しているのと全く同じ時空を超えた対話だといえるだろう。

デジタル封建制の大きな潮流の中で分断されモナド化し、よって立つ自らの足場を見失った「未来の世代」が、バラバラに分断された日本社会で絶望し、真の「公(おおやけ)」を見失ったときこそ、俺の書き残した『天皇制リベラリズム』というシャフト(軸)は、彼らにとって唯一の、そして強固な「生存の設計図」になるはずだ。

吉本・網野・クラストルという巨人の肩を借りて構築されたロジック。

「愛子天皇」と「ヒメ・ヒコ制」という、多様性を包摂する調和の形。

「一姫二太郎」という、日本人の深層心理に訴える物語。

これらが一つの体系として書き残されることが、未来の日本人にとって、「排除されない自由」と「バラバラでも共にいられる場所」を保障する、時をかける遺産(コモンズ)となることを願っている。

明日は最後のダメ押しだ。もうこの話題だけでおなかいっぱいだからな。

2026/03/28

POST#1802 朝からわらわせてもらったぜ!

沖縄、竹富島

黒田バズーカーで皆様お馴染みの日銀の黒田前総裁は今朝の朝日新聞のインタビューで異次元の金融緩和とアベノミクスによる負の遺産について『 日銀には一切の責任はない。 政策決定するのは政府だ』と(朝日新聞「日銀・黒田前総裁単独インタビュー」🔗)開き直っていたが この姿勢はどうなのよ?

朝からゲラゲラ笑わせてもらったぜ!

ご機嫌だねって?不機嫌に決まってるだろう!

確かこの御仁が『値上げに対する許容感が市場にある』といったことから、何もかも値上げラッシュになり、デフレだなんだと大騒ぎしてたのが一夜にしてインフレ基調に変わったんだ。まるでドリフターズのコントのセットみたいだぜ。ダメだこりゃ!

 黒田東彦前総裁が、退任後もなお「日銀に責任はない」「政策は正しかった」という姿勢を崩さないことに対して、俺が抱く「開き直り」への憤りは、今の日本社会の閉塞感を考えれば極めて正当な反応じゃないか?

このインタビュー(20263月)のなかでも、黒田前総裁は「1.5%までの利上げは問題ない」 と語り、デフレ脱却の成功を強調する一方で、副作用(円安や格差拡大)への具体的な反省や責任には触れていない。

俺がロビスピエールだったら、即刻このアンシャンレジームのおっさんの首をギロチンにつっこんでやるんだがな。その姿勢がなぜこれほどまでに「不思議」で「許しがたい」のか、その背景には以下の構造がある。

1. 究極の「無謬性(むびゅうせい)」という病

「自分は間違っていない」という自己正当化

黒田前総裁は、自身の進めた「異次元緩和」が物価目標を達成し、日本経済を救ったという物語を信じて疑ってない。信念の人なんだろうな(笑)。俺も俺は間違ってない、間違ってるの社会のほうだと思っているけど、世間様からはとんだ間抜けだと思われてるぜ。どっちが正気なんだ?(笑)

たとえ現実として円安で国力が地に落ちている状態であっても、彼は「自分の理論」の正しさのみを根拠に、その後の不都合な結果(円の価値低下など)を外的要因のせいにし続けている。きっと外貨建ての資産をたくさん持っているんだろう(笑)。

2. 「責任」の所在を政府へ転嫁する構造

日銀の「独立性」の裏にある免責事項ってやつだ。「政策決定は政府との共同声明に基づく」という建前を盾に、結果に対する最終的な責任を政府(政治)へ押し付ける論理が働いているわけだ。じゃぁ最終的な責任は政府のだれが取れるんだ?長いこと財務大臣をやってた麻生太郎閣下か?それとも撃ち殺された安倍晋三元総理か?

「自分は頼まれた仕事をプロとしてこなしただけだ」という姿勢は、国民の生活に直接的なダメージを与えた当事者としての自覚を著しく欠いているといえるだろう。

3. 「アンシャン・レジーム」としての特権意識

現場の痛みを知らない高みの見物だ。代書高所からモノを言うとはこういうことだぜ、覚えておいて損はないさ(笑)

退任後も特任教授などのポストに就き、高額な年収や地位を維持している黒田さんにとって、庶民の生活が困窮していく現実や、日々の労働の過酷さは、単なる統計上の数字でしかない。一人一人の人間なんざ、数字でしかないってことだ。俺も、あなたも、そこのオジサンおばさんお兄ちゃんお姐さんも。ある意味、すごく平等のように見えるけれど、それは非人間的という観点で平等ってことだ!笑いが止まらないぜ。

この「安全な場所」からの開き直りこそが、俺を朝からゲタゲタ笑わせてくれるさ。

4. 知性の敗北と「茶番」の継続

日銀が買い続けた上場信託投信の売却が終了するのは今から100年以上先だ。

まったく歴史の審判を無視した確信犯としか言いようがないぜ。御年81歳の黒田さんからしたら、まさに「我亡き後に洪水よ来たれ」ってやつだ。

そこにはアダム・スミスが説いた市場の誠実さも、ケインズが説いた責任ある財政介入も、彼の「開き直り」の前では形骸化しているぜ。墓場の中から立ち上がってきそうなもんだ!

今の状況なら「利上げ1.5%までは問題ない」と平然と語るその姿 は、自らが引き起こした副作用のツケを、現役世代や後任に丸投げしたまま逃げ切ろうとする、まさに「壮大な茶番劇のフィナーレ」そのものだ。自分はマイナス金利で突っ走ってたくせに!

ちなみに、彼の眼には日本経済は好調を持続していると映っているようだ。どこに目をつけてるんだか。ケツの穴の横に目がついてるのか?

 こんな愉快なおじさんたちが仕切ってる国の通貨がダラダラに安値を付けても、全く驚かないぜ。円の、日本の政治経済への信認がないってことさ。

さぁ、君はドル覇権の黄昏が迫る今、日本円が今後どのような立ち位置になると思う?

俺の答えは単刀直入に言えばこうだ。

円は埋没します。

確かに、その見通しは非常に現実的で厳しいんだけど、日本円が「通貨多極化」の中で埋没していくという予測には、逃れられない構造的な要因がいくつかあるんだ。

円が埋没する決定的な理由はざっと次のようなもんが考えられるんじゃないかな。

①経済規模の相対的低下

かつて世界2位だったGDPは惜しくもドイツに抜かれ、インドにも抜かれる寸前だ。

人工も減っていく一方だ。経済のパイが小さくなれば、日本人の貿易収支は赤字になってゆくだろう。そうするっていうと、決済通貨としての需要も自然と減退するってことだ。

②「安全な資産」神話の崩壊

 かつては「有事の円買い」と言われたおめでたい時代もあったようだが、現在は日本の経常収支の構造変化(貿易赤字の定着などね)により、有事にはむしろ円安が進む局面が増えているというわけだ。

③金利差と国力

 アベノミクスと黒田バズーカーの地道な努力もあって、膨大な政府債務を抱える日本は、他の国のように機動的に金利を上げられないんだよね。借金だるまだからさ、金利を上げれば、国債の利払いでさらに借金が膨らみ、本来国民のために使うべき政府予算を圧迫するってわけだ。低金利の円は「キャリートレード(投資資金の調達元)」として利用されるだけのあわれな存在になりつつあるという状況だ。借りても借りても、利子がつかない不思議なお金だからね。So SAD!

今や日本の庇護として80年振舞ってきたアメリカのドルがその覇権を失いつつあり、元やユーロが勢力を伸ばす中で、円は「国際的な基軸・準基軸通貨」としての地位を失い、日本国内と一部の限定的な取引でしか使われない「ローカル通貨」へと収束していく可能性が高いな。そう、「ローカル通貨」化への道をまっしぐらだ。誰もついてこれないくらい爆走中だ。

政府もきっと外貨建ての株や国際を買うべきだと国民にもっと周知したほうがいい。

俺たちの円には、将来性がないんだって正直に言うべきだ。

米ドルという「絶対的な基準」が揺らぐ中で、埋没していく円。

じぁ、なんでそんなに人気がないのかってことをかんがえてみよう。

 長年続いた超低金利政策と近年のインフレ・円安により、日本円の「実質的な価値」は大きく目減りしている。

お金の価値が下がる要因は主に2つある。

1つは国内で物価が上がり、同じ金額で買えるものが減ること、つまりインフレだ。

もう1つは海外通貨に対して円の価値が下がること、つまりは円安だ。

日本国民の皆様はまさにこれをダブルパンチでくらってるわけだ。

1. 国内での購買力の低下(インフレによる目減り)

「インフレ率2%」が継続した場合、現金(タンス預金など)の価値は以下のように目減りします。良いか皆の衆、心して聞くのじゃ。

10年後:現在の100万円で買えるものが、約122万円出さないと買えなくなっちまうんだ。

20年後:現在の1,000万円の価値は、実質的に約553万円(-44.7%)まで減少する計算になる。これは物価上昇率3%想定の場合だそうだ。老後2000万円問題とか言ってたけど、いったいいくらあったらいいんだよ!ふざけんな!こどもと年寄りに金を巻き上げられ、家のローンも延々と続くなか、貯金なんて無理ゲーだろう!

これを過去に30年間に視座をうつしてみると、どうだろうか。

1994年から2023年までの約30年間で、消費者物価指数は約1割上昇しており、日本円の価値は約10%目減りしたと言えるそうだ。これは物価ベースだけだからね。

さらに国際収支を考えてみると、それどころの話じゃない!

2. 海外に対する価値の低下(円安による目減り)

近年の歴史的な円安により、海外製品の購入や海外旅行における円の価値は急激に低下しちまった。急降下だ。俺の若いころは1ドル90円だった。それが今や160円だ!かつての半分くらいにまで円の価値は下がってる。下がりすぎだろ!そりゃ日本人は生産性が悪いって言われるだろうよ!

この円安は、エネルギー(原油など)や原材料の輸入価格を押し上げる。ガソリン代を見てみろ。わかるだろう?そしてそれがそのまま、国内の食料品や電気代の値上げ(インフレ)に直結している。

そしてそれが、富裕層と庶民の経済格差を飛躍的に拡大させてる。

低金利が続くこの国で、日本円だけで資産を持っている俺のような貧乏人と、外貨建て資産(米国株など)を保有している金持ちのとの間で、資産価値の格差が広がっている。

そういえば俺はユーロができたころ、カミさんに外貨建ての貯金をお勧めしたんだ。円はまだ堅調だったが、このままではいずれダメになると思ってたんだ。皆がドルを求めているときにこそ、国境を越えた貨幣経済圏という理想にオッズを張るように言った覚えがあるな。あの金は、家を買うときに使っちまったのか…。

3. 金利による補填の欠如

かつての日本(1960年代〜90年代前半)では、預金金利が56%、高いときは8%もあったそうな。そのため、物価が上がっても利息で資産を守ることができた。Nice Ageだ。

しかし、長年の超低金利政策により、預金金利は0.001%0.02%程度の極めて低い水準が続いる。銀行の利子なんて、振込何回かしたら手数料で消えてしまう。消えてしまうんだよ!

つまり利息がほとんどつかないため、インフレによる価値の目減りを全くカバーできていないのが現状だ。そう、インフレターゲットが2%で、金利が0.001%なら、預金してもお金の価値は毎年2%づつ目減りしていくわけだ。これも黒田さんのおかげさまだね(笑)

20243月に日銀が植田新総裁のもとマイナス金利を解除し、「金利のある世界」へと転換し始めたけれど、依然として物価上昇率に金利が追いついていないため、現金のまま保有するリスクは続いている。この瞬間にも、俺の金も君の金も、目減りしてるってことさ。

そうするってぇと、今後の対策として、インフレに強い資産(株式、不動産、外貨など)への分散投資を検討することが、資産を守るための重要な手段となっていくわけだ。やたら政府がNISAだ、新NISAだと旗を振るのは、円安に白旗を上げていることに他ならないのさ。

やれやれ、朝から盛大に笑わせてもらったのに、なんだか切なくなってきたぜ。

気晴らしに桜でも見に行くか。

2026/03/27

POST#1801 君には水平線の彼方にドル覇権の終焉が見えるか!?

沖縄、竹富島

有事のドル買いで、アメリカのドルは世界に流通する。
それは則ち、アメリカに世界中の商品が流入するということだ。
アメリカ人の浪費で世界経済が回ってるてことだ。
そして、アメリカの下々の皆さんのことは一旦おいておいて、アメリカという国は、ドルを刷れば(実際にはコンピューターに金額を入力するだけでドルはいくらでも生み出されるんだぜ!) 無限に世界中の市場からお買い物ができる。
そして、世界中にドルが流通すればするほど、どこでも誰でも貿易の決済資金のためにドルを受け取ってくれるようになるから、ドルの流動性がますます高まる。
つまり、ユニバーサルな世界通貨になるってことだ。
要はドルが様々な貨幣のHUBとして成り立っているドル本位制が現在の経済の姿だってことだ。
で、このプロセスを称して彼らは貿易赤字の拡大といっているわけだ。
問題はドルが量的に増えすぎて、その希少性=価値が低下することだけれど、そんなときは心配ご無用、どっかちょろい相手に喧嘩を吹っかけて「有事のドル買い」でドルの価値を吊り上げる。

永久機関が完成しちまったぜ!(チェンソーマンにもそんなセリフがあったなWWW)

しかし、こんな茶番がいつまでも続くはずはない。「ドル覇権の終焉」がいつかはやってくるんだ。
ドル覇権の終焉」は、もはや単なる陰謀論ではなく、国際政治経済の現実的な議論のホットなテーマとなっている。見てきたようにアメリカ自身の行動(制裁によるドルの「武器化」や巨額の財政赤字)が、世界的な「脱ドル化」を加速させている側面は否定できない。 

現状のポイントを整理すると次のようになるんじゃないか。

1. 進行する「脱ドル化」の動き

①ドルの「武器化」への警戒: 

ロシアに対するSWIFT(国際決済ネットワーク)からの排除や資産凍結を目の当たりにし、中東や新興国は「明日は我が身」とドル依存のリスクを強く認識している。なんせ、アメリカの王様は気まぐれだ。ダーツで次の獲物を決めてるとしか思えないときがある。

②石油決済の変化

長年続いた「ペトロダラー(石油はドルで買う)」の仕組みが揺らいでいる。

サウジアラビアが中国との取引で元(人民元)決済を検討するなど、エネルギー市場でのドル独占が崩れ始めている。帝国は必ず衰退するんだ。

③BRICSの台頭

2026年現在、BRICS諸国は金(ゴールド)や地域通貨バスケットに裏打ちされた共通決済手段(仮称:ユニット)の開発を模索しているようだ。こうして西側諸国を介さない独自の経済圏を形成しようとしている。 

2. 基軸通貨としてのシェア低下

世界の中央銀行が保有する外貨準備(要は貿易決済のために使うドル資金だ)に占める米ドルの割合は、かつての70%超から50%台まで低下しており、20年ぶりの低水準となっているそうだ。その背景には何があるのか。賢明な読者諸兄諸姉ならお分かりだろう。

①ユーロ・人民元の拡大

 欧州内でのユーロ決済の定着に加え、中国のCIPS(人民元クロスボーダー決済システム)の利用拡大により、ドルを介さない取引ルートが実用化されている。 残念ながら、円決済はとんと広がっていないですな。

3. それでも「即座に終焉」と言い切れない壁

一方で、ドルの覇権が明日明後日に消滅するわけではない理由も存在する。

①圧倒的な流動性

世界の貿易決済やデリバティブ取引の大部分は依然としてドル頼みであり、これに代わる「深さと広さ」を持つ市場(代替先)がまだ存在しないんだ。世界はウォール街に握られているのさ。

②資本の自由度

専制国家中華人民共和国の人民元などは為替管理が厳しく、ドルほど自由かつ大量に動かすことができない。信頼の置ける「逃避先」としての代替資産(米国債に代わるもの)が見当たらないのが現状だ。そう、今は兆しが見え始めたばかりの過渡期なんだ。 

現在は、「ドル一強時代」から「通貨多極化時代」への過渡期にあると言えるだろう。

歴史上の基軸通貨(英ポンドなど)が数十年の歳月をかけて交代したように、ドルの影響力が徐々に、しかし確実に削り取られていくプロセスの中に私たちはいるわけだ。それがどう落ち着いていくのかを見る前に、俺はこの世とおさらばするだろうけど、これはいずれ必ず起こる。今日のようにアメリカ様が自らの信用を切り崩し続ける以上、この流れは止まらない。

このまま「多極化」が進んだ場合、俺たち地球人は複数の通貨を使い分ける、より複雑で不安定な経済圏に放り出されることになるわけだけれど、それこそが「ドル覇権後の世界」の落ち着くべき姿なのかもしれないな。

そのとき君は、日本円がこの「通貨多極化」の中でどのような立ち位置になると予想する?

その前に、以前にも書いたことけど、このまま経済の成長のみを追い求めてゆけば、俺たちは地球の資源を食い尽くし、地球は金星みたいな灼熱の死の星になっちまうぜ。

通貨はいくらでも信用創造できるけれど、通貨は富そのものじゃない。単なる交換のためのツールなんだ。幸せな生活を送るためには必要かもしれないが、本当の幸せはそこにはないんじゃないか。

本当に求められてるのは、基軸通貨の交代じゃなくて、俺たちの価値観の交代なんだよね。

2026/03/26

POST#1800 壮大なスケールのマッチポンプ

沖縄、竹富島

俺にはここんところ、どうにもおかしいと思えることがあるんだ。

聞いてくれるかい?OK,ありがとう。

しばしば「有事のドル買い」ということが言われる。今回のイラクへの攻撃によって生じた原油の供給体制の崩壊にも、「有事のドル買い」ってことで、円はますます安くなってる。底抜けだのダラ安だ。残念極まりないね。おかげさまで国民生活は窮乏してゆく一方だ。

しかし、しかしですよ、この世界のたいていの有事はアメリカが起こしていたり、関わっていたりしてるように思うんだが、どう思う?確かにロシアもやらかしてるし、中国もやる気は満々だが、なんだかんだ言って70年代の中越戦争以来、やってないしな。

それに対してアメリカは建国以来ほとんどの期間を世界のどこかの国との戦争に費やしてきた国だ。ここ最近だって、イラン、ベネズエラ、イラク、アフガニスタン、シリア内戦・・・いつもどこかで戦争していたんじゃないか?ある統計によれば、1776年の建国以来、91%の期間戦争しているそうだ。俺がアメリカ人ならうんざりだな。

それによって巨大な軍産複合体を潤わせ、国内の格差から目をそらし、さらには「有事のドル」というか、世界通貨ともいえる圧倒的な通貨の流動性を梃子にして、ドルの価値を上げていく。

これは壮大なマッチポンプではないですかい?

そう、自作自演ってやつだ。アメリカの王様のおかげでみんなが迷惑してるぜ。

いくつかのポイントに分けて整理してみよう。

1. 「有事のドル買い」のメカニズム

本来、紛争の当事国であれば通貨は売られるはずなんだけど、アメリカの場合は特殊なんだ。それには次のような理由がある。

①圧倒的な流動性

 世界で最も使われ、どこでも換金できる「基軸通貨」であるため、パニック時には誰もがとりあえずドルを手元に置こうとするわけだ。要はみんなが受け取ってくれるからってことだね。円は価値が低いから円では受け取りたくないね、ドル建てでビジネスねってことだね。

②地理的優位性

 ユーラシア大陸で紛争が起きても、北米大陸は物理的な戦火にさらされにくいという「逃避先」としての安心感があるのも間違いないだろう。(余談だが、∀ガンダムでは、舞台は遥か未来の北米大陸だったな。)

実際にアメリカ(待てよ、これにはカナダも中南米も包含されてしまうからUSAっていうべきか?)本土に攻撃されたことはまずない。第二次大戦中に日本が飛ばした風船爆弾による小規模な被害か、9.11のWTCへの旅客機突撃攻撃くらいしかない。

基本的に現代のアメリカ人にとって、戦争は世界のどこかよくわからんところで行われる、イマイチ現実感のない ものなのかもしれない。そう、ゲームみたいなもんだ。

2. 軍産複合体と経済のサイクル

アメリカの経済構造において軍事産業は巨大なパイを占めている。世界最大気の最大規模のアメリカ軍だけじゃなく。日本やEUの同盟国にも自分とこの規格の武器をじゃんじゃん売りまくってる。貿易交渉で、型落ちの余剰品を売りつける。親方日の丸ならぬ親方星条旗産業だ。

①需要の創出

せっかく作っても、世界が平和で皆が友好的だったら、そんなものは無用の長物だ。反対に 戦争や緊張状態が続けば、兵器の受注が増え、軍事技術への投資が加速する。

②格差と不満の転嫁

 国内に渦巻いている社会問題や経済格差から国民の目をそらすため、共通の「敵」を設定し、愛国心を煽る手法はアメリカに限らず人類の歴史の中で繰り返されてきた。

3. 「マッチポンプ」説の背景

アメリカが介入、あるいは引き金となった紛争の後に、結果としてドル高や米軍需産業の利益がもたらされる構図は確実に存在するだろう。

(アメリカとEUの代理戦争ともいうべき)ウクライナで戦争が長引けば、ジャベリンを作っている工場がフル稼働した。ひらたくいえばそんな話だ。君もよくよく新聞を読んでみるとわかるはずだ。

①通貨の覇権維持

 ご丁寧に石油取引をドル建てに縛る(ペトロダラー)など、軍事力を背景にドルの地位を守り、他国からの資本を吸い上げる仕組みもある。

②意図的なのか、結果的なのか

すべてが緻密な計画通りの「マッチポンプ」なのか、あるいは「世界の警察官」として介入せざるを得ない立場を利用しているのかについては議論が分かれるところだけれど、「混乱が起きるほど、最終的にドルと米軍事力が再評価される」という構造自体は否定できない。

そもそも、世界の警察官をやめたいって近年のアメリカの政権は党派を問わず言っているにも拘らず、自国の利益になると見れば、すぐに軍事行動を仕掛ける。アメリカファーストのトランプに至っては、国際法もへったくれもない。気に食わないとすぐ攻撃だ。

こんな無法は日本の感覚で言ったら、そんなことしたら一発で政権が瓦解だ。

アメリカの場合はむしろ、常にどこかでドンパチやっていないと政権が持たない、泳ぎ続けるマグロのような戦争機械国家だといえるんじゃないか。

結局のところ、アメリカが横車を押して世界が不安定になればなるほど、皮肉にもその不安の源(あるいは介入者)であるアメリカの通貨に頼らざるを得ないという、強固な矛盾の上に現在の金融システムは成り立っているといえるだろう。

それって、おかしくないか?

2026/03/05

POST#1779 私たちの神は 一枚の葉や一匹の蟲にすら宿っている

沖縄 斎場御嶽
啓典の宗教を奉じる啓典の民🔗が、宗教の違いで理解できず争いあうのは、自分のような本質的にアニミズム🔗 の日本人には意味が分からない。なんせ日本はアニメ大国だからな。アニミズムとアニメーションは同じ語源なのさ。

奉じる宗教や文化、家族形態とそれを基層にした社会構造が違っても、人間であることは同じではないか。なぜいつまでたっても理解しあえないのか、まったく意味不明だ。

自分と異なる文化に属する人々を、野蛮人と称し、劣等人種と差別し、殺戮しても何の痛痒も感じない。それは残念ながら人類にはよく見られることだ。ことに、自らのアイデンティティーを確立し、自らの集団の独自性と優秀性を強調するときにはありとあらゆる形態の文化で見られる。あえて他集団とは違う様式を選好し、その選好故に、他集団よりも自らの集団が優れていると喧伝し、信じ込む。

しかし、文化も人種も可塑的なものだし、相対的なものだ。人間は所与の環境次第で、いかようにも変化する柔軟性を持っている。いささかトートロジーめいて恐縮だが、この人類の多様性こそがその柔軟性の証左だ。その違いをあげつらって争っていても仕方がないのではないかな。

その違いをあげつらうことなく、異なった価値観のもの同士が共存するためのものが法だ。

国際法を自分には必要ないと言い切るものに従属し続けるならば、その無法はいずれ自分たちにも向けられるだろう。16世紀の覇権国家スペインの首相が、アメリカによるイランへの攻撃をはっきり国際法違反だと指摘し、自国内にあるアメリカ軍の基地のイラン攻撃への使用を拒否したことは、見事なふるまいだった。また、イギリスの政権もアメリカの大義無き軍事行動には賛意を示していない。まぁ、イラクの時に彼らはひどい目に合ってるからな。

一方で、ダボス会議ではアメリカの批判を展開しつつ、軍事行動に関しては早々に指示を打ち出したカナダ。がっかりだ。

北朝鮮はますます核ミサイルの実験にいそしみ、ハリネズミのようになっていくだろう。

中国はますます軍事費を積み増し、その伸び率は年率7%。兵は凶器也。肥大化した人民解放軍(実は対外的な戦争に勝ったことはないけど)をどこまで抑え込めるのか。それは外に向かうのか。それとも、経済的に疲弊し、国民が豊かになる前に老い始めてしまった社会がその重さに耐えきれず自壊するともに、地方軍閥化し、国家を分裂させてゆくのか。

世界はますます混沌としてる。しかし、俺には自分の仕事を誠実にこなすことしかやれることはない。

閑話休題。

俺には、もし神的存在があるとするならば、木々を照らす光の中、風に揺らぐ一木一草の中にも、もちろん私たち一人一人の中にも存在するとしかおもえない。

仏陀の開いた最高にクールな仏教ですら、この国に生まれた神観念をベースに取り込んだことで、山川草木悉有仏性を唱えるようになった。宮沢賢治、手塚治虫、宮崎駿、こういった人々の作品にもその思想が色濃く流れているのがわかる。ナウシカは言った『私たちの神は 一枚の葉や一匹の蟲にすら宿っている』(風の谷のナウシカ7巻208頁)

アジアの東の果てに長く伸びるこの国は、山川草木悉皆成仏の国なのだ。

できることならば、万物に霊性を見出すその普遍主義に則って、あらゆる生命をこそ判断基準の根拠に据える寛容で、それを蔑ろにするものを正しく諫めることのできる国であってほしい。まぁいろいろ事情があって無理なのはわかってるけどね。

2020/07/05

Post #1717 世界にとって俺たちは何なんだ


2018年 竹富島にて

私たちは世界に対して客観的に、また孤立して存在しているのではなく、世界の一部として存在しているのだと考えるべきだと、私自身は考えています。
私というのは確固とした存在というよりむしろ、はかない現象に過ぎないのではないかと考えています。

2018/04/23

Post #1708 この国の人々は、自己責任が好きだ

高畑監督が亡くなって、火垂るの墓が再放送された際に、ネット上では、主人公が孤立して、窮乏してゆき、結果的に悲惨な結末に至ることを、自己責任だと批判する意見がみられたという。
この国の人々は、自己責任が好きだ。

生活保護受給者は、自己責任を問われ、奨学金の返済に苦しむ若者は、自己責任を問われる。
イスラム国に捕まって殺されてしまった人にも、自己責任。

苦境に陥っている人々に、それはお前の自業自得と突き放すのが、我が国の国民性だ。

しかし、権力や地位に恵まれた人々には、彼らがもし、なにかとんでもないことをやらかしても、責任を取れという大合唱はおこらない。

おかしなものだ。

長いものには巻かれろなのか、苦境に陥った市井の名もなきひとは、糾弾しても安全だと思っているのか。

僕らは誰しも等しく苦境に陥る可能性を持っている。そして、この世界で生きるということは、自分の意思だけでは、いかんともしがたいものがあることを忘れてはいけない。

その一方で、世の中には、責任を取らない責任者、必死に責任から逃げ回っている責任者が、たくさんいる。