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2026/09/20

POST#1967 過酷な日々を送っていた

2002年ごろの一宮にて コダックのリバーサルフィルムならではのえぐみのある色彩だ
ここ一週間ほど更新していなかったので、数少ない読者の皆様の中には、死んでるんじゃないかという疑念を持った方もおいでかもしれない。

大丈夫、俺たちはみんな、不完全な死者として生まれ、生涯かけて完全な死者へと完成していく。この宇宙では、ひょっとしたら死んでる方が通常な状態かもしれないぞ。

風邪を引いていたんだ。

しかし、前の現場の是正工事をふらふらしながらやっつけて、疲労困憊していたところに寝ていたところに息子にたたき起こされ、私立の中高一貫校の文化祭に連れていかされたんだ。去年まで女子校だというだけあって、生徒さんはほとんど女の子だ。

息子とカミさんが、製作体験とかやってる間に、俺は女子高生のお嬢さんたち相手に調子に乗った与太を飛ばしまくっていた。一見絶好調だが、それはろうそくが消える前に一番輝くというやつさ。

書道部で、おみくじを引かせてもらったんだがなかなか思うところがある内容だった。人生おみくじと恋愛おみくじがあったんだが、迷わず人生おみくじだ。老いぼれには恋愛なんて、40光年ほど遥か彼方の出来事だ。もう関係ない。女はもうこりごりさ。おっと、別に俺はミソジニスト🔗じゃないぜ。五十路ニストさ。おみくじにはこうあった。

中吉

 人生おみくじ💛

 変化

環境や心境に良い変化が訪れるよ

柔軟に受け入れてみてね

ラッキーカラー オレンジ

ラッキーアイテム イヤフォン』

だとさ。そして次の月曜日から新しい現場が始まったのに、風邪をこじらせ、発熱し、気味の悪い汗をかき、日々体力を極限まで消耗していた。

少なくとも体調に関しては悪い変化が訪れたよ!

木曜日も金曜日も、家のフローリングの床に寝転がったまま、死体のように眠っていた。

今朝も3時ごろ家に帰ってきたのだけれど、そのまま車の中でシートを倒して眠ってしまった。朝息子に起こされたくらいだ。そのあとも夕方まで泥のように眠った。

何せ、トラブル続きだ。他人には任せられない。俺が自分の足で踏ん張って、這ってでも収めていくしかないんだ。若い頃、倒れるまでやれ、倒れたら這ってでもやれと叩き込まれた。まったくその通りだ。俺の代わりは俺しかいないのさ。なんせ、フリーランスだからね。

うまくいかなかったからといって、誰かのせいにするような情けない真似はできないんだ。うまくいったら、自分についてきてくれた職人さんのおかげ。失敗したら、すべて自分の責任だ。それが一人前の仕事師というものさ。

さて、いったいこれからどんな環境や心境の変化が訪れるのかな。楽しみだぜ。とはいえ、女がらみだけはもうごめんだぜ。いろいろとこりごりなのさ。

2026/09/02

POST#1957 労働者の皆さんに、素敵なニュースだ!

愛知県一宮市
今朝の朝日新聞の経済面にちょいっと載った記事は、あっさり書かれていたが呆れるような内容だった。

悪いが引用させてもらおう。『利益最高でも働き手の分配率は五年連続で低下🔗』だ

2025年度の法人企業統計調査で、金融保険業をのぞく全産業の経常利益が前年度より8.8%増え、過去最高を更新した。売上高(1.6%増)と設備投資額(4.3%増)も過去最高。人件費も2.6%伸びたが、企業が生んだ付加価値に占める割合(労働分配率)は5年続けて下がり、1973年度以来の低水準になっている。

 財務省が1日に発表した。金額では、売上高は1720兆2560億円。経常利益は124兆8313億円。いずれも比較可能な1960年度以降の最高値を5年続けて更新した。

 業種別では、情報通信機械や電気機械が大幅な増益だった。事業の効率化やAI(人工知能)、データセンター向けなどの需要が押し上げているという。飲食などのサービス業や建設業も利益を増やした。食料品は価格改定の効果などで売り上げを伸ばしている。

 設備投資は全体で57兆8999億円。化学や生産用機械で、半導体関連や医薬品の生産能力増強の投資が押し上げた。不動産業や電気業でも伸びが目立つ。

 一方、従業員や役員の給与・賞与に福利厚生費を加えた人件費の合計は235兆2869億円。営業利益ベースの付加価値に占める比率は63.0%で、前年度の64.2%を下回った。』

これだけ物価が爆上げしている以上、企業の利益が爆増するのは容易に推測できるだろう。

で、労働分配率は5年連続で低下?

まるでマルクスの19世紀だな。誰もこの理不尽に声を上げないのか?

資本に任せていても、資本は自己増殖を繰り返すだけだ。

政治が動くべき時だが・・・我が国の政権にその意思も力もないな。残念ながら。

彼らはいわゆる国論を二分するような課題にしか興味がないからね。 ふざけるな!

蛇足のようだが 最後に一言言わせていただこう。 人間のために資本があるのであって、資本のために人間があるのではないはずだ。

 

2026/08/31

POST#1955 少子化の中でも、ヤンキーの人々は子だくさんだったりする

名古屋だな、これは
さて、しかしこの社会は二極化が進んでいる。

経済格差の話は、耳タコだから今日は一旦措いておこう。けっしてそれが問題じゃないといってるわけではないけどね。

人口の密集する都市では、人々は記号に還元され、社会を構成する使い捨ての部品として消耗されるうちにどんどん高齢化し、結婚適齢期を逃している。その一方で、俺の地べたの肌感覚として、地方の娯楽の少ないエリアに暮らしている土着の『ヤンキー』の人たちは、それこそ18歳か20歳くらいでポンポン子供を産んで、それはそれなりに幸せそうに暮らしている。選挙なんか行ったことも、民主主義もなんて興味も関心もない人たちだ。

その子どもも18か20くらいで子供をもうけ、世代更新のスピードは、都市部に比べて1.5倍くらいのスピードだ。40前で孫がいるという話もざらだ。俺自身は子供を授かったのは47の時だったが、同世代の人から服部君の息子と、うちの孫は同じ年といわれたこともある。とはいえ、この人が特別に子供を設けるのが早かったわけでもないがね。

さて、このいわゆる地方の若者のスタンダードともいうべき、ヤンキーの皆さんをどうやって、良き市民へと昇華し、地方経済を支える勤労者として自活させ、地域社会へと包摂していくのかっていうのが、実は大きな課題じゃないかな?

日本の出生率をけん引しているのは、このクラス=階級の人たちなんだからね。このクラスの人々を、社会にうまいこと組み込んでいかないと、ヤンキー国家になってしまう。

これが地方のリアルな姿だし、都市部の知識人が最も見落としがちな「地べたの生命力」だ。

俺はひそかに、この「18歳くらいでポンポン子供を産み、それなりに幸せそうに暮らしているヤンキー(マイルドヤンキー)の人たち」の存在こそが、実はお上やタワマンの知識人が立てた「経済的去勢のシステム」を根底からひっくり返す、生身の人間たちの最大の防衛線なんじゃないかって考えてる。
まぁ、自分を洗練された賢い存在だと思っている人は、単に彼らをDQN🔗とかB層🔗とか、土人だと考えているかもしれないがね。しかし、彼らの持つ何も考えていないんじゃないかという刹那的ともいうべき楽天性と、強靭な生命力こそ、日本列島という災害の多く厳しい階層構造を持っていた社会で、生き抜いてきたタフな人々の末裔だ。
彼らを「良き市民(つまり、良き納税者、あるいはシステムに従順な記号)」にどう回収していくか、という課題の裏には、近代社会の強烈な矛盾が隠されています。
まず、なぜ彼らは「去勢」されずに子供を産めるのか?
伝統的な経済理論や「おひとりさま論」の枠組みのなかでは、「お金がなければ結婚も子育てもできない。だからそれは諦めるべきだ、諦めてこの自立を混ざすことが正解だ」ということになるだろう。もっともだ。しかし、彼らはその「正論」の枠外で生きている。
大体、本屋なんかめったにないような農村地帯や工業地帯で彼らは生きている。最悪、そういったところで先輩後輩という属人的なつながりをどを頼って何らかの仕事にありつければ、なんとかなるだろうくらいに考えている。
もっと現実に即して言うなら、彼らは「脳(理念)」ではなく「身体(本能)」で生きているんだ。
彼らは「将来の教育費のシミュレーション」や「キャリアプラン」といった、お上が作った記号の計算に縛られちゃいない。
教育費?学校なんてとりあえず行っとけば近所のツレと遊べるから行く、くらいの感覚だ。そして、そんな環境の中で、学業という条件付けからオミットされた者たちが集団を形成し、その集団内で少年少女は急速に性的に早熟していく。
若者が、その思春期の性衝動を抑えることなく即行動に移すのは当然のことだ。ある意味健全なことだ。まぁ、俺自身もヤンキーではなかったが、若い頃は似たようなものだったからわかる。
彼らは「好きだから一緒にいる、子供ができたから育てる」という、圧倒的な身体性と生命力で動いている。で、その一方で、愛想が尽きたから別れる。実家に戻り、母系制の家族構造を形成してゆくというパターンをたどることになることもしばしばだ。
また、先にも少し触れたけど、彼らには独自の「セーフティネット」がある。都会の孤立した「おひとりさま」と違い、彼らの周りには地元の友人、親、親戚といった「地べたの共同体」が残っているんだ。お金はなくても、お互いに子供を預け合ったり、実家に身を寄せたりする「相互扶助(人類学的・民族学的な生存戦略)」がゆるく機能しているんだ。おかげさまで、お上の福祉制度に頼らずとも、シングルマザーになっても子供を育て上げることができるわけだ。
お上が考える「良き市民への回収」という傲慢
お上や知識人から見れば、彼らは「計画性がなく、学歴が低く、まともな労働市場(ホワイトカラー)に適応していない『問題のある存在』」に見えるかもしれないな。そのため、「教育を施し、洗練された『良き市民』に育成(回収)しなければならない」という発想に陥る傾向がある。しかし、ここに決定的な罠があるわけだ。
彼らを無理やりお上の言う「良き市民」のシステムに回収しようとすると、何が起きるか、考えてみよう。
まず挙げるべきは、生命力の去勢だ。
「もっと勉強して、いい大学に行って、まっとうな職に就きなさい。子供はそれからだ」と、都会的な価値観を押し付けた瞬間、彼らもまた「計算(リスクヘッジ)の呪い」にかかり、「おひとりさま」や「経済的去勢」の側へ引きずり込まれ、子供を産まなくなるだろう。
そして、もっと具合の悪いことに、そうしたからといって、割のいい仕事に就けるかどうか、誰にも分らないことだ。これは、新自由主義下のイギリスの労働党ブレア政権やアメリカ合衆国のクリントン政権が主張したことだ。
大学に行きなさい。学位を取りなさい。そうすれば、君の労働市場でも価値は上昇し、より良い生活を送ることができる。
しかし、現実はそううまくはいかなかったのは、その後の歴史を見れば明らかでしょう?
アメリカもイギリスも、挫折した人々はポピュリズムに走り、ブレクジットやドナルド・トランプ大統領を生み出したわけだ。
イギリスやアメリカで製造業が衰退したのは、こういった地べたのワーキングクラスが崩壊したからだ。
イギリスの労働者階級の不良少年が、熟練工へと成長し労働者階級の一員として社会に吸収されていく過程をリサーチした古典的名著ポール・ウィリス🔗の『ハマータウンの野郎ども🔗』が活写していたような、荒々しくも逞しい労働者の世界は、アメリカやイギリスにはもう見られない。それが、これらの国が工業生産力を大きく落とし、金融やITにその経済の命運を託すことになった遠因だ。
結果として、社会にとって具合の悪いことが起こった。インフラの担い手の消滅だ。
この社会を維持するのに欠かせない、「ゴミ回収、エレベーター点検、道路の維持」といった、社会をリアルに支える身体労働を担っているのは、まさにこうした地べたのバイタリティを持った若者やその成れの果てのおっさんたちだ。
彼らを全員を「記号を扱うホワイトカラー(良き市民)」に回収してしまえば、社会の物理的基盤はそれこそ瞬時に崩壊するだろう。俺が行っていることがわかるだろうか?そして、もしそうなったとしたら、日本の製造業もインフラも技術継承ができなくなり、デッドエンドだ。
また、都合が悪いことに、生易しい環境や、パワーのない指導では、彼らからその不良性はなかなか抜けない。厳しい労働環境と絶対的な人間関係の存在する職場で陶冶されることがなければ、容易に社会からドロップアウトしてしまう。水は低きに流れ、人は易きに流れるんだ。
じゃ、本当の「課題」はどこにあるのさ?
これは難しいけど、本当の課題は、彼らをシステムに「回収」することではなく、彼らの持つ「地べたの生命力」を、お上がその搾取システム(低賃金労働)によって食い潰さないようにすることにあると、俺は考える
彼らは一見幸せそうに暮らしているが、その労働環境は「非正規雇用」や「過酷な肉体労働」であることが多く、お上がインフラ労働を買い叩いているせいで、常に経済的な困窮と隣り合わせだ。また、飲酒、喫煙、ギャンブル、放蕩など、彼らへの誘惑は多い。
俺が昔一緒に働いていた連中も、日雇いのような仕事で金を手にすると、すぐにキャバクラに行って散財してしまうやつがごろごろいた。そしてその金は、ヤンキーギャルの手に渡る。
ヘラクレイトスも言っていたぜ。『万物は流転する』と。
ちなみに、少し脱線するが、男の日雇い仕事と女の風俗嬢というのは、いずれも麻薬のような仕事だ。即金で金が入り、資本はいらない。そして、日雇いで得た流動性の高い金は、まさに金は天下の周りモノといった風情で、すぐに享楽的な消費へと流れていくことになる。
ヘラクレイトスも言っていたぜ。『万物は流転する』と。
だからこそ、ここで「まず労働者の賃金を上げること」が重要になってくる。
彼らに遊ぶ金を持たせろというのではないんだ。まぁ、遊んだところで個人の自由だけど。しかし、過酷な労働と不安定な家庭環境からの現実逃避としての、享楽的な支出を減らして、その生活を安定させるのは、まずは金銭的に十分なものを与える必要があるんだ。それはやりがい搾取でなく、金銭的なインセンティブという好子を与えることなんだ。
彼らを上から目線で「教育」するのではなく、彼らが担っている地べたの労働(インフラ維持など)に対して、お上が、或いは資本サイドが「まっとうな、労苦に見合った給料」を払うこと。それさえすれば、彼らは「ヤンキー的な生命力」を保ったまま、社会を物理的に支え、次の世代を育て続ける「最強の市民」であり続けるだろう。
何も、大学卒のホワイトカラーに押し込める必要なんて微塵もないんだ。

「女王蟻と働き蟻」の比喩で言えば、彼らは「お上の作った『働き蟻の去勢ルール』を、野生の本能と地元の絆でぶち破っている、規格外の人間たち」だ。
社会が完全にアリの巣化して滅びないための最後の希望が、実はこの「地べたのヤンキー的な身体性」にあるという皮肉。とはいえ、俺は彼らを必要以上にありがたがったり、賞賛するつもりもない。その奔放な生命力は往々にしてネグレクトを産み、精神的に成熟しないままに親になることによって生じるいら立ちを原因とする虐待とかは日常茶飯事だからね。
そして、そうやって育てられた子どもたちは、大人になったとき、周囲に大人のロールモデルがないために、往々にして、ネグレクトや虐待といった暴力が世代間をまたいで再生産されてく状況にある
まったくうんざりだ。
これらは決して美化や賞賛で済ませてはいけない、暴力と貧困が世代を超えて連鎖(再生産)していくという、もう一つの「地べたの暗黒面」だ。剥き出しのフォースの世界だ。
生命力があるように見えるそのコミュニティの内側では、文学や人類学が描いてきた人間の「醜さ」や「業」が、「ネグレクト」「児童虐待」「家庭内暴力(DV)」という最悪の形で牙を剥くことがしばしばだ。
暴力の再生産という「負のオペラント条件づけ」
先にも上げたけれど、行動分析学の視点から見ると、家庭内における虐待やネグレクトは、「親から受けた嫌悪刺激(暴力や無視)を、今度は自分が子供に対して学習した行動(モデリング)として出力してしまう」という、最悪の循環(負の条件づけ)の中にあるんだ。
仕方ない、それしかお手本がなかったんだからな。
お上が「児童虐待防止法」という法律(ルール)をどれだけ強化し、綺麗な理念を語っても、そのコミュニティの閉鎖性と「日常茶飯事化=感性の麻痺」した環境の中では、法の抑止力という『弱化』は全く歯止めになりゃしないだろう。残念だがそれが現実だ。
見つからなければ(つまり、通報されなければ)罪にならないという庶民の心理が、ここでは「子供の命や尊厳を削り取る隠蔽装置」として機能してしまうんだ。この点でも、学校の教師や保育園の先生に、もっと資金を注ぎ込んで、子どもたちのセイフティーネットを構築するべきだと俺は考える。
そして、「良き市民への回収」が破綻する理由
さっき俺が「彼らを社会にどうやって回収していくかが課題」といった背景には、まさにこの「放置すれば社会全体の治安や人権が底底から崩壊していく」という強い危機感がある。
そこに踏み込むのは、本来行政や福祉の仕事だろう。しかし、お上(行政や福祉)の行う「回収」のアプローチは、ここでも完全に空回りしている。
まず、記号的な行政対応だ。
児童相談所や福祉の現場は常に人手不足で、人間を「処理すべきケース番号(記号)」としてしか扱えない。表面的な「家庭訪問」や「指導」という形だけのルールを適用しても、地べたに根を張ったセックスアンドバイオレンスなカルチャーを根本から変えることは不可能だ。
そして孤立は加速してゆく。
無理に介入して家族をバラバラに解体(つまり行政システムによる隔離)すると、独自のセーフティネット(地元の絆)すらも失われ、今度は子供たちが「孤立したスラムの単身者」として、新たな格差と経済的去勢のサイクルへ放り込まれることになるだろう。しかし、そこで引き離してゆかないと、子どもの命そのものが危ういという局面も往々にして訪れる。これは、しばしば俺たちが報道で目にすることだ。
そして俺たちの前には「去勢された世界」と「暴力の荒野」の二択という素晴らしい世界が広がっている。くそ!
現代社会が直面している本当のディストピアは、クリーンな管理社会(タワマン側)が完成する一方で、その外側には「法律も言葉も通じない、暴力とネグレクトが再生産される荒野(スラム側)」が明確に分離し、二極化していくという頭を抱えるような現実だ。
タワマン側(女王蟻)
経済的に豊かだが、過剰なコンプライアンスと「おひとりさま論」で静かに去勢され、子供が消えていく世界。
スラム側(働き蟻の巣)
ポンポン子供は生まれるが、賃金は買い叩かれ、教育も届かず、虐待と暴力が日常茶飯事として連鎖していく世界。
「ヤンキーの生命力」を手放しで賞賛せず、そこに潜む「暴力の再生産」というグロテスクな実態を冷徹に見据える俺のひねくれた視線は、この社会が抱える歪みがどれほど深く、一筋縄ではいかないかを、君たちに明確に示していることだろう。
この前門の狼、後門の虎のような蟻の戸渡り状態を、うまく均衡させるには社会の経済的な格差を縮小させていくほか、俺には出口が見えない。
そう、衣食足りて、初めて礼節を知るだ。風俗を規制しろとかいう前に、まずはそこだ。

2026/08/17

POST#1941 1990年代前半の出来事

 

名古屋かな
1990年代の前半といえば、もう35年近く前の話だ。

俺は当時、ある宗教団体で儀式を作ったり、霊媒によって示唆された断片的な情報を文献に当たって調査し、レポートにまとめるような仕事をしていた。

その中には、御霊信仰🔗にまつわるものもあったし、神道イザナギ流🔗に関する内容や様々な神社の由来を調べたりしていた。己貴秘伝🔗という古神道に関する専門書を読んだり、図書館で大蔵経に当たったりしていた。漢文もなんとなく読めたので、大蔵経を見ても大意は掴むことができた。宿曜経という経典をもとにして、星占いのようなものを構成したこともある。要はこれはインド占星術だ。のちに本殿を岐阜の山奥に作るっていうんで神社建築もかじった。この教団の儀式体形の基礎構造を作り上げたのは、間違いなく二十代前半の俺だ。

その宗教団体は今もあるようだが、差しさわりがあると厄介なので、ここでその名は上げない。古神道やイザナギ流の知見を基にして、様々な儀式を生み出した。それがどんな内容か、それはここには書かない。

俺の独特の思考の長大な射程距離や異なる領域を横断して結び付ける能力は、もともと備わっていたのかもしれないが、間違いなくこの時期にはぐくまれた。黒歴史のたまものだ。

このころは、宗教学者のミルチァ・エリアーデ🔗世界宗教史🔗全四巻を手に入れて毎日読み耽っていた。

その日は、名古屋の千種駅前にあったちくさ正文館書店🔗で歴史関係や宗教関係の本をあさっていた時のことだ。名古屋大学の文学部史学科に進学した同級生の林君とあった。

彼はのちに、母校の歴史の教師になる。はやしとはっとりなので、席が近かった。

俺が学校を中退し、家も飛び出したことはある程度知れ渡っていただろうから、彼は驚いたようだった。そして、今こんなところで、何をしているのか訊いてきたのさ。

俺は、当時調べていた内容をさらりと説明した。

『うん、京都の祇園祭あるだろう?あの山車を鉾って言うじゃないか。この鉾ってのが疫病をもたらすとされる牛頭天王=スサノオを鎮め、疫病の流行を封じるために行われているのは知ってるよね。牛頭天王🔗はもともと仏教の神様だけれど、これが日本に入ることで、いつのまにかスサノオノミコト🔗が身をやつした武塔天神🔗をもてなす蘇民将来🔗説話と結びつくんだよね。蘇民将来🔗の子孫って玄関に記しておけば、疫病にならないって奴だよ。

で、あの鉾ってのが天岩戸でアマテラスを引き摺りだすために、古事記の中でアメノウズメ🔗が局部丸出しで踊り、逆さにした桶を突いた矛の儀礼となんかかかわりがあるんじゃないかって考えて、その考えを補強するような資料を探しに来たんだよ。

そう、つまり矛で大地を突くもしくは中空のもの、つまりそれは子宮の暗喩かもしれないね、を男性器の暗喩である矛でつくという性的なニュアンスのある儀礼の呼び覚ます生命力そのものが鎮魂の儀礼なんじゃないかって考えてるのさ』

今は母校の偉いさんになってる林君は、真面目な史学科の学生だったから、僕の話をぽかんとして聞いていた。そして絞り出すように『浩一郎、僕らのやってる学問では、そんなこと考えもしないし、文献的に証明できないことは絶対に仮説としても考えつかないんだ…』といったな。まぁ、もっともだろう。

このころの調査した資料だけは、この教団から夜逃げするときに持ってきたかった。

護国神社、靖国神社、そして招魂社という毎年夏になると亡霊のようによみがえるような内容もあった。もちろん、跳躍飛躍で通説を一刀両断だった。道祖神やチベットの曼陀羅に関する内容のものもあった。残念だ。

今ならUSBにコピーしておくだけで済むけれど、当時はなんとフロッピーディスクー🔗だったからな!Windows以前の時代なんて、今の人たちには想像もつかないだろうよ!

このころのことは、多くの人に迷惑をかけた。あまり調子に乗って話すものじゃないね。このころの失踪のおかげで、俺は同級生の間では長らく死んだはずの人になっていたんだとさ。まいったな。失礼する。


2026/08/10

POST#1934 盛夏、百花繚乱その6

路傍の朝顔と蝶
先日、Youtubeのリコメンドに、蝶とトンボをよく見る人、先祖に見守られているという動画が上がってきた。

バカバカしすぎて、見る気にもならなかった。俺は去年の秋、京都の鴨川の川面に、無数のトンボが群れを成している無限のような光景を見たが、そのあとに俺を待っていた運命は、お世辞にも先祖のお導きには程遠い無残なものだった。

昔、ある女性が自分を溺愛していた父親が、死んだ後も蝶などに姿を借りて自分の周りに現れると語るのを聞いた。

冗談じゃない。

俺にとって、家の周りを飛ぶアゲハ蝶は、息子が小学校に入ったときにもらったレモンの葉を食い散らかして丸裸にしてしまう幼虫の卵を産み付ける害虫でしかない。あの黄緑色で、盛大に糞をまき散らす芋虫だ。

近縁のキアゲハは、パスタやサラダに添えるためにプランターで育てているパセリを食い尽くしてしまう幼虫の卵を産み付ける。緑と黒の毒々しい縞模様の幼虫だ。ぞっとするぜ。

アサガオを食害するのはスズメガだ。

虫はしょせん、虫でしかない。親しい人々の魂なんかじゃない。俺の死んだ母や祖父の魂は、俺の血の中にこそ宿っている。そして、もし俺が死んだとしても、息子の血の中に俺は生き続ける。

2026/08/02

POST#1926 ケアによって人々をつなぐトークンという構想 第12章

 

春、俺の町にて
困ってる人が、自治体から与えられる小切手型の『絆トークン』。

手助けやケアを必要としている社会的な弱者が、自分たちの困り事を近所の隣人をはじめとした地域共同体の人に手助けしてもらうことで、これは初めて命を吹き込まれ、振り出され、地域共同体の中を流通し始める。ニコリ😊

このトークンを相手にピンポンのようにケアをしてもらって返すのはルール違反。必ず他の人に何かをお願いして、そのトークンを流通させること。で、そのトークン自体は年 4 回の市県民税や固定資産税の収納期日に価値がゼロになる。そしてまた 1 からやり直し。誰か困っている社会的弱者や近隣の人を助けることで、トークンを手に入れて、市区民税や、固定資産税、或いは水道代の支払いに充当できる。ニコリ😊

このトークンは、それぞれにバーコードやQRコードが印刷れていて、トークン自体の管理をすることができるが、使用する分には一切電子デヴァイスの使用は必要とせずに、人の手から手へと渡る。また、緊急時には裏面に記載されているQRコードを読み込むことで、適切な行政機関に公的な支援を要請することができるものとする。ニコリ😊

その導入に際しては、ランダム化比較試験を行ったうえで、事業規模や対象範囲を注意深く検討してゆく。ニコリ😊

これが、今の段階で考えている概要だ。田舎くさいな。我ながら時代遅れっぽい気がする。しかし、それがいままでさんざん言ってきたように、本当に社会的弱者を取りこぼさないための仕掛けなんだ。

2026/07/29

POST#1922 ケアによって人々をつなぐトークンという構想 第8章

名古屋市にて。奮闘努力の甲斐もなく、今日も涙の、今日も涙の陽が落ちる♪
OK、俺の住む愛知県の夏は暑い。アフリカの人もげんなりする高温多湿だ。アイスを買っても、食べ終わる前に溶けてしまうくらいだ。ヨーロッパ人のようにクーラーは使わないとかバカげたことを言っていたら、死んでしまう。
昨日は珍しく激しい雷雨で過ごしやすかったけど、迂闊に外に出ると電撃くらってお陀仏ってのは、御免被る。

だから連日、俺は自室でクーラーをぶんまわしながら、この構想を充実させることにだけ心血を注いでいる。なんせ今月は暇なんでな。暇すぎて倒れそうだ。

2026/07/14

POST#1907 構造主義で読み解くG2は同じ穴のムジナ論/けれど諦めてたまるか

愛知県江南市 かつての木曽川の乱流地帯 俺の生まれたところ
うんざりするような暑さも続いている。
うんざりするような話に終わりはないのか?

実は書いている俺自身が、いい加減うんざりしてるんだがね(笑)

そういえば、RCサクセション🔗にもキーボードロボットのゴンタ2号=G2🔗っていたな!(笑)

米国のマスキズム(テック資本による国家の乗っ取り)も、中国のデジタル監視社会(国家によるテック企業の囲い込み)も、どちらも「大衆をクラウド小作農として囲い込み、テクノロジーの力で移動や思想の自由を奪い、地代を永久に吸い上げるシステム」であるという点においても、まさにヤニス・バルファキスの言う「テック封建主義」そのものだ。

そして興味深いことに、第二次ドナルド・トランプ🔗政権で、ICE🔗がやっていることと中国がウイグルやチベットでやっていることに大きな違いはないと俺は見ているんだ。

米国のICE(移民税関捜査局)による移民・難民への過酷な取り締まりと、中国政府がウイグルやチベットで行っている人権侵害・強制収容は、アプローチや国際法上の名目こそ違えど、「最先端のデジタルテクノロジー(監視・バイオメトリクス)を駆使し、特定の民族や属性の『移動の自由』や『人権』を剥奪して巨大な収容施設で管理する」という本質において、驚くほど共通している。

ぶっちゃけ言えば、その目的を「国家安全保障・不法移民対策」とするか「テロ対策・民族融和」とするかの違いだけで、テクノロジーが国家の暴力を無限に効率化させているディストピアの実態は瓜二つだといえるだろう。

その共通性と、G2(米中)の「管理システム」としての冷酷な実態を整理してみるかい?

1. テクノロジーを駆使した「デジタルな人間狩り」

中国(ウイグル・チベット)
 顔認証カメラ、DNAサンプルの強制採取、スマートフォンへの監視アプリ強制インストール(「一体化統合作戦プラットフォーム:IJOP」など)により、AIが「不審」とみなした人物を自動的にリストアップし、拘束するんだ。君はそんな社会に住みたいと思うかい?俺は御免だ。
米国(ICE
イーロン・マスク🔗の盟友でもあったピーター・ティール🔗などが設立したパランティア🔗社などビッグデータ解析企業のシステムを使い、移民の顔認証データ、運転免許証の記録、公共料金の支払い履歴までを横断的に監視・追跡しているわけだ。
さらに、拘束の代わりにスマートフォンのGPSアプリ(SmartLink)や足首のアンクレットで移民を24時間監視する「拘束代替プログラム(ATD)」は、まさに「物理的な壁のないデジタル牢獄」そのものだといっていいだろう。
ウイグルやチベットも御免だが、こっちも御免蒙るぜ。

2. 広大な「強制収容システム」のビジネス・官僚化

中国
「職業技能教育訓練センター」という名目で、ウイグル自治区などに巨大な強制収容所を建設し、何百万人もの人々を思想統制と強制労働の下に置いているという。実際には確認することは物理的に不可能だから、断言はできないけれど、そこから逃れてきた亡命者の証言などから類推すると、事実らしいぞ。
米国
ICE🔗は全米に民間の「移民拘束センター(インテンション・センター)」を多数展開している。
日本人の俺からすると、公共セクターの施設を民間が運営するってこと自体が、ちょっと衝撃だ。これらは民間刑務所企業が運営しており、「移民を拘束すればするほど企業が儲かる」という最悪の資本主義=監獄ビジネスと結びついている。劣悪な衛生環境、医療の不備、家族の強制隔離など、人道上の危機が常に批判されているのも当然だろう。なんせ私企業は利益を最大化するために存在しているんだからな。

3. 「他者化(アザーリング)」による人権の剥奪

どちらのシステムも、特定のグループを「国家の安全を脅かす危険分子」または「法を犯す犯罪者」として徹底的にラベル貼り(他者化)することで、一般市民の同情を断ち切り、人権侵害を正当化している。

中国は「宗教的極端主義の排除」、つまりイスラム教徒の改宗・排除を掲げ、米国(特に右派・マスキズム的政治勢力)は「不法移民による国境の侵略」というナラティブを煽る。
結果として、法の適正手続き(デュー・プロセス)を無視して人間を拘束・排除する仕組みが完成しちまうという、世も末な状況になっているわけだ。
新自由主義が行きついた果てのアメリカ合衆国と国家権威主義の極みである中華人民共和国は、国境の管理やマイノリティの統治という「国家の最も暴力的な側面」において、まったく同じテクノロジーと論理を共有しているといえるだろう。まさに太平洋を挟んだ合わせ鏡のようにね。

これにレヴィ=ストロース🔗の二項対立構造を当てはめてみようかな()

両者の違いは単なる分裂生成にとどまらず、その家族システムと歴史に由来しているけれど、まるで太古の爬虫類のイクチオサウルス🔗と現代のイルカのようにそっくりだ

分類学(系統)としては全く異なる爬虫類と哺乳類が、「海で生き抜く」という同じ環境圧(淘汰圧)にさらされた結果、ヒレや流線型の体型という同じ「構造(かたち)」へと収斂していったわけだ。
まさに、家族システムや歴史という「固有の遺伝子(系統)」が全く異なるアメリカと中国が、「デジタルテクノロジーによる大衆統治」という21世紀の環境圧の中で、全く同じ「監視システム」のフォルムへと収斂している現実が、社会統治システムの収斂進化として表れているんだ。

ここにレヴィ=ストロース🔗の「二項対立構造の変換関係(数式化)」を当てはめるのは、最高にスリリングな思考実験だ。君たちとぜひ一緒に数式(マトリクス)を組んでみようじゃないか。

1. 表面的な二項対立のセット(近代の神話)

まず、俺たちが信じ込まされてきた、歴史や家族システムに由来する「表層の二項対立」はこうだな。

  • 【アメリカ型(西側)】自由主義 / 個人主義 / 市場(テック企業)主導 / 資本の最大化
  • 【中国型(東側)】全体主義 / 家族・共同体主義 / 国家(共産党)主導 / 体制維持の最大化

レヴィ=ストロース🔗の『神話論理🔗』風に言うなら、この両者は「反転・対称の関係」としてきれいに構造化されている。

家族システムで言えば、個人の自由を尊ぶ西側の「核家族を基本とした緩やかな親族関係」と、共同体家族制的な統治をベースにする東側の「強固な共同体家族システム」の対立が、そのままテクノロジーによる統治形態の差(市場vs国家)に変換されているように見えるよね。

2. 「変換の論理」による構造の収斂(イクチオサウルスとイルカ)

しかし、ここに「デジタル、つまりアルゴリズムによる行動制御」という強力な変数を投入すると、あら不思議、二項対立の軸がグニャリと反転(変換)し、同じ結論へと収斂することになるわけだ。

レヴィ=ストロース🔗の有名な「神話の公式」を緩やかに応用するしてみると、以下のような反転構造が起きていることになるようだ。

  • アメリカ「個人の自由(A)」を極限まで追求した結果、ビッグ・テック企業による「個人の行動の完全な予測・支配(B)」へと反転した。
  • 中国「国家による全体統治(B)」を極限まで追求した結果、デジタル技術を用いて「個人を細部までスコアリングして管理する(A)」へと至った。

つまり、「自由から入って管理(奴隷化)に至る」西側と、「管理から入って個人の内面に至る」東側は、ベクトルの向きが真逆なだけで、「人間をデータに還元して統治する」という構造の位相(トポロジー)としては完全に同一(同相)になっているわけだ。

だから何なのさって言われたら、まぁ思考実験というか知的なお遊び意外な何物でもないが、構造としてはそういうことだってことだよ。

2026/07/06

POST#1899 東国の首狩り族が産んだ日本の直系家族システム

 

江南市宮田 木曽川の堤防沿いにて

俺の住んでいるあたりってのは、承久の乱🔗で朝廷方の西国軍と東国方の鎌倉軍が激突したあたりだ。うちの息子が小さな頃によく連れて行った岐阜県各務原市の前渡不動尊🔗には、この合戦の死者を弔う承久の乱合戦供養塔🔗がある。息子はこの矢熊山の山頂付近にある茄子のオブジェから、茄子の山って呼んでいたな。

かつては木曽川の乱流地帯だったこの美濃と尾張の境界線付近は東西交通の要衝だった。今もうちの近所には鎌倉街道🔗といわれる道が残っている。

木曽川を挟んで美濃に朝廷側の軍勢、尾張に鎌倉方の軍勢が対峙した。うちのすぐ近所の尾張一宮真清田神社鳥居前にて北条泰時、北条時房らを筆頭にした軍議をしたのち、当時尾張川と呼ばれていた木曽川を渡河し、対岸に布陣していた朝廷軍の藤原秀康🔗率いる主力約一万騎を壊走させた。世にいう尾張川の戦い🔗だ。

こののち、朝廷側は大津の瀬田と宇治に最終防衛ラインを構築し、宇治川の橋を落として防戦するも、強硬渡河した幕府軍に撃破され、承久の乱は幕府方の勝利に終わった。

朝廷側で戦った西国の武士の所領の多くは没収され、鎌倉方の御家人たちに温床として与えられた。

これが、日本の家族システムが直系家族へと大きく転換した画期的な瞬間だったといえるだろう。

2026/06/14

POST#1877 俺たちの足元から始まる「静かな革命」

俺の町、一宮

今日は日曜日だが、今夜も仕事だ。これで14連勤だ。だれだ、こんな過酷な工程を組んだ奴は。絶対請求を吹っかけてやるぜ。俺の眠気と疲労は限界間近だ。ボーとする頭の中に

ぼくの孤独はほとんど極限(リミット)に耐えられる

ぼくの肉体はあらゆる苛酷に耐えられる

ぼくがたふれたらひとつの直接性がたふれる

もたれあうことをきらつた反抗がたふれる          『小さな群れへの挨拶』

という吉本隆明🔗の詩の一節がエンドレスでリピートしてる。やばいな(笑)

リーマン・ショック🔗の後に巻き起こったウォール街占拠運動🔗の指導者の一人で、「私たちは99%」というスローガンを発案したことでも知られるデヴィッド・グレーバー🔗が言うように、民主主義の本質が「国家なき空間での合意形成」であるなら、それを駆動させる制度(インスティテューション)は、「最も声が大きく、最も社会を破壊しかねない『個(タドダホやハイアワサ)』を、いかに排除せず、システムの一部として機能させるか」という設計にかかっているだろう。

今、俺や君たちに突き付けられている課題は、実はまさにこれだ。これなんだ。

町内会や現代のコミュニティでこれを行うために必要なことは、どんなことだろう。

  1. 不満分子やクレーマーを「排除(つまり多数派による村八分🔗)」してはだめだ。村八分は良くない。いや、大昔逢ったロックバンドの村八分🔗はいいけれど、意見のちがうものを排除するのではなく、彼らの攻撃性をシステムの「監査役」や「チェック機関」として公式に組み込むことが必要だ。
  2. それに彼らの反対意見にもきっとそれなりの理があるはずだ。それにしっかりと耳を傾け、その主張に歩み寄ること。しっかりと熟議をして、単なるシャンシャン総会的に反対意見を封殺してしまう事の無いように努めることが必要だ。
  3. 揉め事の解決に、単なるルールの厳罰化(法律的解決)を使うのはよくない。ルールや不文律で縛ることは、共同体を構成する人々を委縮させ全体主義的な草の根社会を形成してしまう。それを避けるためにも、コミュニティ内での「象徴的な贈与(汗を流す共同作業や、互いのケアの儀礼化)」を挟むことで、感情の債務をクリアすることも一考だろう。面倒くさいかもしれないけれど、面倒くさいことへの協働が基盤的共産主義、つまり、「各人は能力に応じて貢献し、必要に応じて受け取る」というごく当たり前の理念に基づく地域社会を作る礎になるんだ。

これらが、イロコイ連邦の「大いなる平和の法」が現代に突きつける、具体的かつ超現実的なシステム構築のヒントになるだろう。

物語(町内会)へ応用するためのポイント

この歴史を町内会のストーリーに落とし込む場合、以下の要素が使えるんじゃないかな。

ハイアワサ役の動機

「過去にごみ問題や境界線トラブル、或いは騒音問題で大損害を被り、人間不信になった元住民」などが、対話を通じてシステムの推進者になる。あるいは、そういった問題で町内会から出ていった人とパイプを持っている人がその役割を担うのもありだろう。デガナウィダの役割に近いかもしれない。そして、そういった意見の相違で袂を分かった人も、再度受け入れていく経路を作ることだ。

タドダホ(独裁者)の更生

物語の最後、ハイアワサとデガナウィダは、宿敵タドダホを排除するのではなく、「連邦の最高議長(火の番人)」の地位を与えることで味方に引き入れたのを覚えているかな?

町内会の頑固なボス・クレーマーを排除せず、あえて「ご意見番」の大役を任せることで、そのプライドを満たし、組織に取り込む展開に使えるだろう。そんな厄介なおじさん、一人や二人いるんじゃないのかな。その人の胸襟を開くことができたらサイコーに力を貸してくれるだろう。

現代のワムパム

泥沼の揉め事を解決する際、罰金ではなく「地域の共同作業(草むしりなど)」や「祭りへの寄付」など、コミュニティ全体に還元される形での「対価の贈与」を行うことで、関係を修復するというのも手だろう。けれど、お金が絡むのはあんまりお勧めしない。

これについては、多くの町内会が構成員の高齢化によって、こうした地域の共同作業や行事の開催などが縮小していることが悩ましい課題でもある。実際に、俺は今の町内会に入って10年になるけれど、高齢化によって町内会連合=連区の運動会への参加は取りやめになった。子ども会で主催してきたささやかな祭礼も、少子化に伴う子どもの減少で、存続の危機だ。

そんな個別の問題はありつつも、一旦それは脇に置いておくことにしよう。それこそ、それぞれの地域社会で話し合って解決策を見出すべき課題なんだから。

さて、気分一新、日本の学級会や町内会を、あの「恐ろしいほど合理的な熟議の場」に変えるための、具体的な3つのハック手順を提案していこう。

1. 【三院制の導入】:議論のステップを分業する

ホデショノニの意思決定は、モーホーク、オネイダ、オノンダガといった異なる役割を持つ部族間の「三院制(分業)」で行われておったとさ。

これを町内会や学級会に落とし込み、「感情のぶつかり合い」を「構造的なキャッチボール」に変える仕組みを作るんだ。

第一議院(発案・初期議論)

課題に対してまず「アイデアを出す・問題点を洗い出す」チーム。

第二議院(検証・修正)

第一議院の案を「冷静に批評し、問題点を修正してブラッシュアップする」チーム。

第三議院(オノンダガの役割・最終承認)

二つの議院の議論を見守り、最終的なバランスをチェックして承認するチーム。

このように全員が一度にガヤガヤと話し合うのではなく、議論のバトンを順番に回すことで、声の大きい人間の意見や、その場の空気に全員が流されるのをシステムとして防ぐことになるだろう。

2. 【全会一致(コンセンサス)原則】:「多数決」という私刑の廃止

日本の村人の論理では、多数決が「少数派を合法的に排除する武器」として機能しがちだ。村人はどこにでもいる。会社の会議室にも、洗練されたスーツを着た村人が居座っている。しかし、ホデショノニ🔗プリンシプル🔗、つまり原理・原則は、「誰一人として置き去りにしない全会一致」だよ。まさか君、忘れちゃいないよね。

異論は「敵」ではなく「ヒント」

反対意見が出た場合、そこで議論を打ち切る、あるいは多数決で押しつぶし、異議なし!議事進行!と強引に押し通すのではなく、「なぜ反対なのか」を第二議院が徹底的に分析するんだ。

案のアップデート

反対派の懸念をクリアするまで、案そのものを何度も話し合い、書き換えてゆく。これにより、「あいつのせいで決まらない」という個人攻撃(村八分)ではなく、「全員が納得できる最大公約数の案を育てる」という共同作業に変えていくんだ。この時、あくまでも反対のための反対という姿勢は排除する必要があるだろう。感情的なしこりを極力排除し、あくまでフェアな立場で批判的に検証するというスタンスだ。これが日本人にはなかなか難しいところだろうな。

3. 【七世代先を考える時間軸】:「目先の損得」をスルーする

イロコイ連合の掲げていた理念のうち、最も美しく驚嘆すべき原則は、「すべての決定は、7世代先の子孫にどう影響するかを基準にする」というものだ。

次の選挙とか、次の四半期決算とか短いサイクルで思考するのではなく、子々孫々までにどんな影響があるのかを慎重に吟味する姿勢だ。まさに持続可能性のある社会を構築するという強力な意思の表れだと感じるぜ。

翻って考えるに、現在の町内会や学級会が往々にして紛糾・破談するのは、「今、誰が損をして誰が得をするか」という狭い利害関係(綺麗事と本音の泥仕合)で戦うからだ。

それを回避するためのシステムがこの発想だ。政治家や経済通気取りのマスコミが、国債残高は将来世代にツケを残すといって振りまくけち臭いプロパガンダと一緒にしてはいけない。あれは経済界に甘い汁を吸わせ、国民の福祉を削るためのレトリックにすぎないからな。だまされてはいけない。

時間軸の強制引き上げ

議論の前提として、「今年度の予算」ではなく「10年後のこの地域(クラス)はどうなっているべきか」という、全員が共有できる「大きな共通の問い(プリンシプル)」を最初に設定してみるべきだろう。そんな迂遠なと思うかもしれないが、実際には10年なんてあっという間だ。

ヴォルテール『自分の庭を耕さねばならない
視座を強制的に高くすることで、目先のわがままや、特定の個人を引きずり下ろすような矮小な議論、つまり村人の論理は自動的に機能しなくなるだろう。ちなみに村人は、スーツを着て議会の上等な椅子に座っている者の中にも、モダンなオフィスの会議室の中にもいる。それを忘れてはいけない。なぜなら、村人的な排他性は、だれもみな自分の中に持っているからだ。

俺がヴォルテール🔗の言葉を借りて言う「自分の庭を黙々と耕す」とは、まさにこうした「誰もやっていないが、圧倒的に正しい仕組み」を、自分の手の届く小さな会議、小さな集まりから淡々と、実験的に実装していくことに他ならないんじゃないかと思う。

この「現代版ホデショノニの熟議システム」を、君の身近な集まりに持ち込むとしたら、まずはどのような小さなテーマ(例:ゴミ拾いの役割分担、クラスの出し物など)から、この実験を始めてみたいと思うかな?

これを読んでいる君も、自分自身のコミュニテイーの課題を頭の中に想起してみてほしい。それこそが、この閉塞感で一杯の息苦しい社会に風穴を開ける第一歩なんだから!

もし、こんなシステムが、日本全国の町内会や小学校に実装されたら、どうなるとおもう?

日本全国の町内会や小学校にシステムとして実装されたとしたら、間違いなく日本の社会構造は根底からひっくり返り、本当の意味での「近代民主主義国家への新生」が起こるはずだ。

それほどまでに、このシステムは日本人が何千年も抱えてきた「村人の論理(同調圧力と私刑)」を構造的に解体する破壊力を持っているんだ。

もしこのホデショノニ式の熟議が日本中に実装された場合、社会に起きる劇的な変化を3つのレイヤーで予測してみよう!

1. 小学校での実装:思考停止した「大人」の絶滅

今までの日本の教育は、前例を踏襲し、空気を読み、お上に従う「従順な村人」を育てるシステムでだったといって過言ではない。もっと言うならば、産業界の要請に従って、従順でスペックの高い労働者を作るためのシステムだったわけだ。つまり、人間を手段として扱い、目的とはしていなかったわけだ。

しかし、小学生からこの熟議を叩き込まれると、教育の成果は180度変わっちまうぞ。360度だとちょっと困るな。

まず「批判」と「非難」を区別する人間が育つんだ。

意見の対立を「人格の否定」つまり陰湿ないじめや村八分と捉えず、「案を良くするためのパーツ」として客観的に扱えるようになるだろう。

そして自分の頭で考える原理・原則の確立がなされるだろう。

 カントの言う「自分の理性を使う勇気」を持った子どもたちが育ち、成人したとき、彼らは単なる「労働者」や「消費者」ではない存在へと成長するだろう。メディアの浅薄な手のひら返しやネットの炎上に1ミリも動じない強靭な個を確立した『市民』が誕生するんだ。

2. 町内会での実装:行政の下請けから「独立した小さな共和国」へ

現在の町内会は、お上(行政)の通知をそのまま流し、内実では目先の利害関係で揉めるだけの形骸化した存在になりがちだ。誠に遺憾ながらね。

しかし、ここに三院制と全会一致のシステムが入ると、地域社会は強力な自立性を持ち始めることになるだろう。

まず実質的な「食料・生存安全保障」の拠点化だ。

7世代先を考える時間軸により、目先の効率(リカード🔗の罠)をスルーして、「地域の農地を守る」「町内会費で発電設備を設置し、エネルギーを自給する」といった百年の計が地域主導で淡々と実行される可能性が生まれるだろう。

また、災害大国日本では、自然災害なのどの際に避難所の運営や災害物資の分配などは、行政と連携した町内会にゆだねられる。この時、一人も取りこぼさないという思考実践を続けてきた人々は、高い問題解決能力とスムーズな運営力を発揮するだろう。

そしてこのシステムは、真のセーフティネットを作り上げることに寄与するはずだ。

この地域共同体の内側では「人間はただ人間であるだけで等しく尊重される」という原理・原則がシステムとして機能するため、老人の孤独死や生活困窮世帯の社会的孤立を地域コミュニティが自発的に防ぐようになる。

3. 国家規模での結実:「天皇制リベラリズム」の土台が完成する

草の根の町内会や小学校が「熟議の場」としてリビルドされると、その集合体である国家の空気も完全に変わるだろう。

その時、この国を覆っている空気による支配が終焉する。

そう、左右問わず政治家が綺麗事の建前で大衆を煽動することが不可能にるだろう。

国民が「面従腹背のリアリズム」を共有しているため、政府は外側に対して核武装や永世中立といった冷徹な生存戦略を、世論のブレを恐れずに堂々と展開できるようになるだろう。

これは以前、POST#1814🔗などを通して、俺が君たちに提示したことだよね。

伝統と自由の完全な調和

地域ごとに「個の尊厳(リベラリズム)」が担保されているからこそ、国家の象徴である天皇(ヒメ)という伝統的な権威と、実務を担うシステム(ヒコ)が完璧に機能する、世界で日本にしかできない独自の美しい国家モデルが完成するだろう。

これも以前、POST#1841🔗で君たちに開陳した大構想だ。気になる御仁はもう一度読んでみることをお勧めするよ。

結論として、これが実装された日本は、「表面上はこれまで通り穏やかで秩序ある島国」のフリをしながら、中身は「一人ひとりが絶対にブレない原理原則を持ち、強固な自給能力と独自の抑止力を備えた、世界で最も強かで手強いミドルパワー国家」へと変貌を遂げるはずだ。

俺たち市井の庶民には、外側のマクロな政治を変えるのは不可能に見える。

けれど、日本全国の町内会や小学校という「足元の庭」からこれが始まれば、それは静かな、しかし確実な革命になるんだ。

2026/05/24

POST#1857 社会をリビルトする俺のチャレンジは、まだ始まったばかりだぜ

 

春の夕暮れ

家の前には息子の通う小学校がある。家の目の前の桜は毎年居ながらにしてその花の盛りで俺の目を楽しませてくれる。

それを見るたびに、あと幾たび、この季節を愉しむことができるだろうかと考える。

そして、花を惜しむかのように、家の駐車場で春の風に吹かれながら本を読む。そうこうしていると、近所の家の子どもたちが話しかけてくる。俺にとって愉しいひと時だ。

もっとも今日は、それもできなかった。昨日の朝、それまで手掛けていた現場がオープンだったのだが、その反動で、今日も一日ごろごろと眠って暮らしてしまったんだ。老眼鏡もなくしてしまったしな。

小学校の隣には中学校がある。午後にはひ若い(敬愛する中上健次に寄せて当ててこの表現をつかさせてもらう。今だ大人になりきっていない弱弱しさを感じさせる若さというニュアンスか?)中学生たちが、5人、10人と固まって歩いている。その若者の流れをかき分けるように同じ町内の隣人の車が通れば、俺は手を挙げてあいさつする。町内会長が時に自転車でふらふらと通りかかる。

道行く少年たちの中には同輩に『バカヤロー、死ね』などといっている者もいる。それが社会に出てしまうと、即座にパワハラだと糾弾され断罪されてしまうことを、彼らはまだ知らないのだと、俺の心にふと影がよぎる。

何しろ俺自身も、パワハラだと糾弾されたこともセクハラだと仕事を切られたこともある。野生の悍馬のように生きることは、難しい世の中なのさ。

こうして俺は、しばしば地域の要石のようにたたずむ。なにをしてる人か怪しいだろう。夜働いている人なのさ。

この何気ない地域社会との緩いつながりが、まさに荒廃したコモンズ(共有地)というコミュニティを足元から再生させる、最も本質的で力強い実践になるんじゃないかとにらんでいる。

システムや政治が変わるのを待つのではなく、自分自身が「動く結節点(ハブ)」となることで、記号化され、分断されていた「老人」「こども」「隣人」という存在が、血の通った「具体的な他者」へと変貌していく。この主体的な、それでいて気負わない声かけは、現代社会が失った3つのつながりを同時に再生する可能性を秘めています。とはいえ、POST#1819🔗で話した俺の親父のように、私服警官にしょっ引かれちまったらかなわないけどな。

権力はいつも、人々を分断して支配するのさ。

俺のささやかな実践がもたらす「3つの処方箋」はこんなもんだ。

孤立する老人へ:「存在の承認」と知恵の還流

年老いて、身体を病むのは普通のことだ。そして労働を通じた社会との関わりを失っていくのも普通のことだ。社会的な役割を終え、透明化されがちだった高齢者に対して、俺が気さくに声をかけ、その健康を気遣うのは「私はあなたをここにいる一人の人間として見ている」という強力なメッセージになっていることだろう。彼らが持つ記憶や経験が、再び地域という共同幻想に織り込まれるきっかけを作るはずだ。

そういえば、俺家の隣にかつて住んでいたお婆さんはもう亡くなってしまったんだが、子どものころ、家の前を流れる小川で泳いだ思い出を語ってくれたことがあった。今、中学生たちがそぞろ歩きし、酔っ払いが缶酎ハイの空き缶を投げ入れる金木犀や躑躅の緑道は、実は昔は小川だった。高度経済成長の頃に暗渠化され、緑道にされたのだという。ります。

こどもたちへ:「親以外の大人」という安全網

家庭(対幻想)の機能不全や学校の息苦しさに晒されているこどもにとって、近所に「自分を気にかけてくれる、親でも先生でもない大人」が存在することは、決定的な生存のセーフティネットになりうるだろう。子供ひゃくとうばんの家とか表示されててても、シャッターが下りていたり、門扉が固く閉ざされていたらどうよ?

だから、俺は庭先でくつろいでるのさ。老眼で暗いところだと本が読みにくいってのはあるけれどな。その安心感が、彼らの自己幻想が歪んで暴発するのを防ぐ防波堤になってくれることを祈っている。もっとも、俺の親父のように私服警官から警告を食らうのは御免被るがな。

同世代の隣人へ:「孤立の包囲網」を解く契機

生産性のプレッシャーと生活の維持に追われ、最も「家畜化」の圧力を受けている同世代にとって、俺からの気負わない挨拶や声かけは、張り詰めた日常の防衛線を緩め、お互いを「同じ時代を生きる仲間」として認識し直す一歩になるだろう。それがソリダリティ=連帯の第一歩だ。時には、時事問題で話し込むこともある。立ち話もなんだからって、ダイニングでコーヒーを淹れて語り合うこともある。息子のおかげで撮っ散らかっているけれどね。

けれど、君にはそういう接し方のできる隣人はいるだろうか?


地域の「ハブ」としての俺の存在そのものが抵抗なんだ。

新自由主義的な市場化は、俺たちが「お金を介さなければ他者と繋がれない社会」を作ろうとしてた。しかし、金銭でやり取りする交換は、その場ですべてが清算されてしまうんだ。

そこに人間のつながりが生まれることは、ない。残念ながらね。

しかし、俺たちが損得勘定なしに行う「声をかける」という、見方によっちゃお節介極まる行為は、その市場の論理が侵入できない「贈与の領域(コモンズ)」を半径数メートルの中に作り出しているんだ。

俺や君というハブを中心にして、少しずつ言葉が交わされ、やがて「おすそ分け」や「ちょっとした助け合い」が生まれ始める時、そこには国家や市場に依存しない、小さくとも強靭な「自分たちの社会」が再建されていく。

それこそが、若者を追い詰める絶望への、最も具体的で、最も息の長い処方箋になるはずだ。共同体をリビルトするんだ。

近代の新自由主義的な資本主義や「親ガチャ」という言葉に象徴される自己責任論は、子どもを「個人の家庭の私有物(あるいは負担)」として閉じ込めてしった。

しかし本来、子どもは社会全体で育み、未来へ繋いでいく共有の「宝(コモンズ)」であるはずだ。なぜなら、次の世界の社会を担うのは、まさにその子どもたちに他ならないからだ。

俺自身が地域のハブとしてよその子どもたちにも分け隔てなく接し続けていることが、子どもたちにとって少しでも足しになればうれしいもんだ。もっとも、俺の親父みたいにオマワリにちんころされてしょっ引かれそうになるのは御免被る。

俺たちの眼差しが子どもたちにもたらすものは形のないものだ。けれど、大切なものはたいてい目には見えない。星の王子さまも言っていたぞ。

無条件の「生存の肯定」

成績や親の経済力に関係なく、「ここにいていいんだ」という安心感を、地域という外の世界から得ることができるといいな。

未来への信頼

社会を「冷酷で敵対的な場所」ではなく、「自分を見守ってくれる温かい場所」として認識できるようになる可能性がある。これができたなら、いつの日かその若者の心の中に沸き起こるかもしれない刹那的な暴発や絶望(つまり自殺や社会的な自殺だ)を防ぐ最大の心の盾になるんじゃないか?

家庭や学校という狭い世界の人間関係で行き詰まったとき、周囲の大人の「おかえり」「気をつけてね」という何気ない一言が、子どもの命を繋ぎ止める最後の砦になる瞬間が必ずあるだろう。人間の契機なんてそんなもんだ。

社会の構造を変えることは容易なことじゃないことくらい百も承知だけれど、俺の半径数メートルの中では、すでに「子どもが宝物として大切にされる、あるべき社会」が現実のものとして動き出しているんだ。

この春のある日、俺は近所に住んでいる女の子に久々に出会った。彼女は小学校から中学校にかけてほとんど不登校で引きこもっていた。彼女のお母さんとも面識のあった俺とカミさんは、ひそかに彼女の将来を案じていたんだ。

彼女は家族の仕事の関係で、二年ほど海外に行っていたんだ。それが良かったのかもしれない。みんなと違っていてもいいと思えるようになったと話してくれた。結果、日本に帰ってきて自分から学校に通ってみようと動き出したんだそうだ。

俺は彼女と話す中、『本当は僕たちの世代が頑張って、君をちゃんとインクルージョン=包摂できる社会を作らなければならなかったんだ。けれど、僕たちの世代も生きていくだけで必死だった。で、そんな社会を君に間に合うように作ることができなくてすまなかった。君自身も寛容な人になってほしい』

彼女は少しはにかむように笑ってから、どことなく嬉しそうに帰っていった。その後ろ姿を見ながら俺は思ったのさ。『社会をリビルトする俺のチャレンジは、まだ始まったばかりだぜ』ってね。