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2026/11/02

POST#1995 自分たちの住んでいる社会をよりマシなものに変えていくことこそが、政治的に正しいってことじゃないのかい?

名古屋大須商店街にて

昨日は日曜日だったから、死んだように眠っていたかった。眠っていたかったんだけれど、息子がドライブに行きたいっていうから。運転しながら眠っていたんだ。

谷汲山華厳寺っていう寺の本堂にある戒壇巡りをやりたいって連れ出されたんだ。わが息子ながら、酔狂なもんだ。

真っ暗な中を手探りで進むのさ。人生とおんなじだ。わざわざそんなところに行くまでもなく、いつだって人生はそんな状態なんだ。やれやれ、眠たいぜ。

さて、世界のというか主にアメリカにお住いのポリコレ大好きな皆さんは、日本の学園もののアニメを批判したり改変することよりも、自分たちが暮らす社会で、夜中の三時に女の子が一人でループに乗って大通りを走ることができるような環境を作ろうとはしないのだろうか?

そんな安全な社会を実現するのが、政治的に正しいあり方だろう?

普通に考えれば、「日本の日常系アニメのような、誰もが銃を恐れず、格差に怯えず、穏やかに暮らせる安全な社会」を自分たちの国でも実現することこそが、彼らにとっても究極のゴール=理想であるはずだ。異論のある人いる?

しかし、なぜ彼らはそれを自分たちの国で実現しようとせず、日本のアニメに文句を言うだけなのか。そこには彼らの諦めと無力さがある。

まず、「現実のインフラ」を作る能力と覚悟がない。

「どんな理想も、現実に立脚していなければ道筋を描けない」と先に書いたよね。日本のこの現状ってのは、一朝一夕にできたものじゃないんだ。日本がこの「深夜3時に女の子が歩ける社会」を維持できているのは、秀吉の刀狩りから始まり、綱吉の文治政治、そして現代に至るまで何百年もかけて、治安、医療、教育、国民皆保険といった目に見えない「社会のインフラ(ソーシャルキャピタル)」をコツコツと地道に構築してきたからに他ならないんだ。

これをアメリカやヨーロッパで実現しようとすれば、とんでもなく凄まじい大改革が必要になるだろう。どんな?

例1

合衆国憲法を改正して、全国民から数億丁の「銃」を完全に没収する。全米ライフル協会の皆さんが黙っていないだろうな。そこで待っているルートは、命がけの内戦レベルの反発が起きるという経路をたどるのは必定だろうな。

例2

富裕層に大増税をして、貧困層のための国民皆保険や医療・教育インフラを本気で整える。

けど、トマ・ピケティも言ってるけれど、これは本当にやった方がいい。資産課税も視野に入れたほうがいい。富裕層の最高税率は、この30年くらいで劇的に下がってるんだから。

例3

路上で暴行や窃盗などの犯罪をおかすものを検挙し、麻薬を売る人間を徹底的に取り締まり、治安を回復させるのも必要だろう。これはやらないといけないだろう。特に麻薬はジェームスブラウンも、パブリックエネミー№1(社会の敵だ)と歌っていたんだが、それから何十年経っても、いまだに変わらない。

これらは気の遠くなるような時間、政治力、そして血の滲むような現実の痛みを伴うことだろう。

政治的に正しい精力的な活動家の皆様には、この地獄のような現実のプロセスに挑む覚悟も、具体的な道筋を描く能力もないというのが正直なところだろう。

だから、連中は「正しさのノルマ」を設定し、それをクリアしさえすれば満足してしまうんだ。それは現実に対する敗北を認めていること以外の何物でもない。

彼らにとっての「理想の社会」とは、実は「みんなが本当に安全で豊かに暮らせる社会」なんかじゃなく、「表面的に、すべての人種やジェンダーの比率が平等に配置されている画面」になってしまっているんだ。要は誤魔化しなんだ。絵に描いた餅なんだ。

現実の社会は銃や格差を解決するのは難しすぎるから諦める。

けど、エンタメの画面の中じゃ、映画やアニメの登場人物の比率(白人何割、黒人何割、LGBTQ+何割)を無理やり変えさせることは、SNSで圧力をかければ数年で達成できるぜ、せめてここだけでもあるべき世界を構築するぞ!となるわけだ。

タワケらしい。

つまり、彼らは「現実の社会を変える」という本物の理想への道筋を描くのをサボり、「映画の配役を変える」「アニメキャラの肌の色を濃くする」という、一番手軽で安易なインスタントの理想郷でお茶を濁しているわけなんだ。そう、自己満足以外の何物でもないんだ。

だから、現実の差別や治安は1ミリも良くならないのに、「自分たちは理想に向かって戦っている」という錯覚(=脳内お花畑)から抜け出せませないんだ。幻想なんだ。

だからこそ、GDPは落ちててもお花畑のような社会を作り上げてる日本の「普通の日常」を認めたくないんだ。認めたら、自分たちが惨めになるからさ。

つまり、煎じ詰めれば彼らのプライドの問題だ。

もし「日本のアニメに描かれている世界は、日本人が何百年もかけて作ってきた現実の日常だ」と認めてしまったら、欧米の自分たちの社会システムは、経済が30年も停滞している日本の日常に完全に敗北しているってことになっちまうだろう。そう、経済成長してないくせに治安も、医療も、教育も日本の方が豊かってどういうこと?っていう不都合な真実を認めざるを得なくなるんだよ。

アメリカやヨーロッパの知識人や活動家には、「自分たちこそが世界の中心であり、最先端の文明国である」という強いプライド(欧米中心主義)が根底にある。偉そうに言っても、エスノセントリズム=自分たちがサイコー!なんだ。

そのため、「日本のような東洋の単一民族に近い国が、自分たちより遥かに安全で理想的な社会をすでに実現している」という現実を直視したくないんだ。

ミニオンズみたいな連中だしな。

だからこそ、それを「現実の日本の姿」ではなく、「人種差別的な日本人が作った、多様性のない空虚なファンタジー」という低レベルなものに格下げして叩くことで、自分たちの心の平穏を保っているという側面があるとしか考えられないぜ。

本当にその理想を実現したいなら、日本のアニメを叩いている暇があったら、自国の銃規制や貧困問題に命をかけるべきだ。

それをせず、現実から一歩も進まない「空言(画面のポリコレ比率)」ばかりを弄んでいるからこそ、彼らの運動は世界中のフツーの感覚の皆様方から「偽善だ」「お花畑だ」と愛想を尽かされ始めているんだ。

言葉狩りやよその国の文化にケチをつけることが政治的に正しいことじゃない。

あくまで現実世界に働きかけ、自分たちの手で自分たちの社会をよりマシに変えていく地道な営みこそが、政治的に正しいっていうんじゃないのか。

その営みに終わりなんかない。日本だって決してユートピアじゃない。貧困や格差もある。けれど、いきなり銃撃されてぶっ殺されたり、警察や移民局の連中に袋叩きにあってどこかに連れ去られるってことが無いだけましなだけだ。

そう、一見正しそうなことを大声で言うやつらには、うさん臭さがある。気をつけろ、みんな。

2026/10/31

POST#1994 日本のアニメは人種的に偏っているので、世界の正しい人たちからすると実にけしからんそうだ

 

名古屋市大須商店街 昭和のパワーが炸裂している

クソみたいな現場で必死に格闘し、満員電車の中のように現場に犇めく職人やら設計士やら元請やら施主やらを、体使って、頭使って、気を使って何とかクリアしてきた。

こんな時は、ぼんやりユーチューブとかでアニメなんか見たりもするさ。にんげんだもの🔗

世界のアニオタの皆さんの間では、『葬送のフリーレン🔗』で描かれた舞踏会の描写が素晴らしいと称賛されてるそうだ。俺もフリーレンは大好きだ。全巻揃えてる。チェンソーマン🔗も全巻揃えてて、なおかつ評判の悪い第二部が大好きだ。

アニメ第15話(原作第32話)で描かれた、フェルンとシュタルクの社交ダンス(舞踏会)のシーン🔗は国内外で歴史的な神回として大絶賛されているんだ。知ってたかい?

原作漫画では2コマほどと扉絵だけであっさりと流された場面だったんだけど、マッドハウス制作のアニメ版では、エンディング映像を丸ごとカットしてこのシーンの尺に費やし、約1分間におよぶ美しいダンスをすべて手描き(フルアニメーション)で描写したんだ。日本の職人芸だ。

流れるようなカメラワーク、キャラクターの細かな表情の変化、特訓の末に優雅に踊る二人の表情からにじみ出る含羞と信頼感、そしてこのためだけに書き下ろされた楽曲(ワルツ)が完璧に調和し、「アニメ史に残る名シーン」として世界中のアニオタが悶絶、絶賛したんだ。

なぜかって?ヨーロッパの文化を手書きのアニメーションで完璧かつ優雅に再現したからだ。

その一方で、欧米ではリベラルな皆の衆が吹かしまくってるポリティカルコレクトネスのおかげさまで、イギリスの王が黒人に描かれるっていう、理解に苦しむ状態が起きてる。

2024年にAmazon Prime Videoでも配信された海外ドラマ『マイ・レディ・ジェーン🔗』という番組で、実在の英国王を「黒人のゲイ」に改変したんだそうだ。

16世紀のイングランド王国に実在した国王エドワード6世🔗(史実ではも・ち・ろ・ん白人男性)を、作中では黒人で、なおかつゲイにして、しかも身体障害を抱えて車椅子って、ハンバークカレーとんかつトッピングみたいなことになっていた。

このドラマはガチガチの歴史劇じゃないんだそうだ。人間が動物に変身する魔法が存在する世界線を舞台にした、ファンタジー要素の強い「歴史IF(もしも)系ローファンタジー」なんだとさ。とはいえ 「ファンタジーなら何でもあり」で「創作の自由」なのか?

エドワード6世はあくまで実在した人物なんだぜ。もちろん、アングロサクソンで、ゲイでもホモでもなく、車椅子にも乗ってなかった。

因みに『葬送のフリーレン』だって、エルフや魔族、ドワーフや魔法使いがフツーにいるファンタジーだが、そんな違和感を抱かせるようなトンデモ設定はない。キャラクターの名前はすべてドイツ語に由来する。(一部フランス語の名前の者もいるがね)

まぁ、ポリティカルコレクトネスで、王様を黒人にしたところで、彼らの先祖がアフリカの黒人を奴隷にすることで、資本の根源的蓄積🔗をやり遂げた事実はなかったことにはならない。現実から目をそむけてどうする?

こんなことだから、人気アニメ『ダンダダン🔗』の海外吹き替えで、宇宙人オタクの主人公オカルンが、髪型(それも劇中で、燃えて縮れたからツーブロックで上がもじゃもじゃ)という一点突破で、その声優は黒人じゃないとダメだとか、オープニングのダンスが黒人文化をパクってるとか、政治的に正しいらしいことでボカスカ叩いてくるんだよね。

海外、特にアメリカを中心としたエンタメ界における「人種の多様性(ダイバーシティ)」の要求が、日本のコンテンツ(アニメや漫画)にも向けられる現象については、国内外のファンの間でも非常に激しい摩擦と反発を生んでいます。

海外の熱進的な一部のファンやコミュニティ(主にSNS上のポリコレ・多様性を重視する層)の高尚な方々の間では、「日本のアニメのキャラクターは白人、あるいは人種的にニュートラル(無国籍)に見える」という独自の解釈に基づき、多様性を持たせるために「黒人や有色人種のキャラクターをレギュラーに入れるべきだ」といった要求がしばしば持ち上がる。あるいは二次創作で肌の色を濃く変更する行為がしばしば行われ、日本側のファンとの間で衝突を繰り返している。

なぜ欧米ではこんな原作へのリスペクトのない要求が執拗に起こるのか?

ディズニーをぱろったり改変したら大訴訟になるってのにな。

欧米、特にアメリカのエンタメ業界では、「表現されること(Representation」という概念が極めて重視されるんだとさ。なんかよくわからんけど。

どうも「自分の人種が画面に映ること」が正義とされる文化があるらしい。

アメリカのような多民族社会では、「子供たちがテレビを見たときに、自分と同じ肌の色のヒーローやヒロインがいないと、自己肯定感が育たない」という社会運動的な思想が強くあるんだとさ。そのため、彼らにとって多様性は「あれば良いもの」ではなく、「エンタメが果たすべき絶対的な義務」と捉えられてるんだそうだ。とはいえ、スネ夫とかみて自己肯定感は育たないけどな。

ディズニーで、黒人のお姫様が出てきたりするけど、俺はそういうのを見ると、偽善性が鼻についてしまうんだ。黒人がいままで、そして現在もどう扱われてきたのか?それを棚に上げて何を言ってるんだってね?

阿呆らしいぜ。緑とか青とかもあるだろ?あれはどーすんだ?

なにより、ちょっとむかしは日本人はみんな眼鏡で出っ歯で黄色いちび、まるでミニオンズ🔗みたいに描かれてたのにな!

おまけに勝手に日本のアニメを「世界共通の公共財」と捉えてくださってるから、困ったことになるんだよね。

日本のアニメが世界中で爆発的な人気を得た結果、海外の活動家や一部のファンは、それを「日本という特定の国の文化」として尊重するのではなく、「自分たちの社会(欧米)の基準に合わせてアップデートされるべきコンテンツ」として扱おうとするんだ。

これが、日本のクリエイターやファンから見ると「土足で踏み込んで自分たちのドグマで設定を改変しようとする、わけのわからない傲慢な要求」に映ることになるんだ。

そう、異文化を尊重しているような建付けのくせに、異文化をまったく尊重していないんだ。

近年、この欧米からの要求に対して、日本やアジアのファンからは「それこそアジア人に対する差別ではないか」という理路整然とした反論が強まっているげな。当然だな。

日本のアニメキャラクターは、日本人のアイデンティティやアジア的な感性に基づいて描かれているものが大半だ。なぜって、日本人が日本社会で作ってるからね。

それを「黒人や白人が足りないから」という欧米の政治的・社会的な都合(主にBlack Lives Matter運動以降のトレンド)だけで書き換えようとする行為は、「アジア人の文化やキャラクターの存在を軽視・消去する行為(アジアン・イレイシャー)」である、という批判だ。

ご納得いただけるかな?

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ディズニーのような米国の巨大企業が「ポリコレ(政治的正しさ)」や「多様性」をビジネスとして推進し、それを世界基準として押し広げようとした結果、その波が日本のアニメカルチャーにまで押し寄せ、現場の海外声優やファンの間で「文化の盗用」や「原作冒涜」を巡る深刻な対立を生み出しているのがさもしい現状だ。

自分たちが、異文化を改変するのはポリコレ、日本人が日本を描いたり、中世ヨーロッパを舞台に描いた作品に黒人が出てこないと噛み付くのもポリコレ。

いったい、誰がそんなことをして面白く感じるんだ?

欧米の意識高い系のお歴々が日本のアニメや漫画を叩いたりしやすいのは、俺が思うに、彼ら自身が、世界にこんな社会は絶対にありえないと思っている、理想の社会に非常に近い描写がされてるからだと思うんだ。

でも、実はそれが日本の普通の人間の暮らしだったりするんだよ。

病気になればちゃんと病院に行くことができる。

人種差別は暴動が起こるほどに表面化してない。少なくともね。ミックスルーツの子が、クラスに一人はいる。アニメの声優にもそんな人はたくさんいる。

学校で銃が乱射され、子どもたちが屠殺されることもない。

公衆の福祉やインフラもかろうじてしっかりしてる。

格差はないとは言わないが、欧米ほどじゃない。

そんな日本のリアリティに立脚してるのが、非常理想的、いやファンタジーみたいな空虚なものに見えるんじゃないかなと思うんだ。

そう、彼らが「こんなのファンタジー(空虚な理想郷)だ」と感じている世界が、実は日本の「地続きの退屈な日常(リアリティ)」なんだ。ここには、巨大な認識の非対称性という、文化の断絶がある。

なんでそうなるかって言えば、日本こそはアメリカ人にとっての「あり得ないユートピア」だからだ。

日本のアニメ、特に「日常系」や「学園モノ」、あるいは何気ない都会や田舎を描いた作品には、アメリカ(特に都市部)の感覚からすると奇跡のような理想郷(ユートピア)が描かれている。

まず治安のリアリティだ。

女子高生が夜間に一人でコンビニに行ったり、小学生が公共交通機関を使って一人で通学したりする描写(そうメジャーどころでは『ちびまる子ちゃん🔗』から現代の『正反対な君と僕🔗』まで)は、銃社会であり誘拐や犯罪のリスクが日常にあるアメリカでは「あり得ないファンタジー」そのものだ。

学校に銃を持った不審者が乱射してこない前提の、のんびりした学園生活自体が、彼らにとっては信じられない特権に見えることだろう。まぁ日本でも池田小学校事件🔗とかあったけど、毎週学校が銃撃されてるわけじゃない。

また、インフラと福祉のリアリティが違いすぎるのかもしれない。 街にゴミが落ちておらず、自動販売機がバールで破壊されずに街中に置かれ、皆が当たり前に国民皆保険で病院に行ける社会が日本だ。

格差(スラムと高級住宅街=ゲーテッドコミュニティの断絶)が可視化されすぎているアメリカに比べたら、日本のアニメに登場する家や生活水準は、多くが「中流階級の普通の暮らし」として平準化されていると言っても言い過ぎじゃないだろう?

そこで、彼らは思うんだ。「この2次元の理想郷のなかに、なぜ自分たちがいない?」って。

アメリカの批評家や一部の過激なファンは、アニメが描くその「安全で、福祉が行き届き、格差が少なく、誰もがのんびり暮らしている社会」を、日本の現実の写し鏡だとは夢にも思っていないらしい。

彼らはそれを、クリエイターが脳内で作り上げた「究極の理想の社会」だと解釈してるらしいんだ。おいおい、日本のクリエイターたちはいつからジャン・ジャック・ルソー🔗になったんだ?

ここから、彼らの歪んだ屁理屈が生み出される。

「こんなに素晴らしい、差別のない理想的な社会(=彼らにとってのファンタジー)を描くなら、なぜそこに黒人やラテン系、LGBTQ+といった多様な人々が含まれていないんだ?」

「有色人種を排除して、マジョリティだけでお花畑のような理想郷を作って楽しんでいる、極めて排他的で差別的な表現だ」

彼らにとって、その心地よい空間は「人為的に作られたユートピア」だからこそ、自分たちを入れないのは「差別」だと感じて叩きやすくなるわけだ。

俺たちにも、ファンタジーの国へのチケットをくれ!と言うことさ。

しかし、日本のファンや普通の生活者からすれば、アニメに描かれるそれは「理想」なんかじゃない。ただの「日本の普通の、ありふれた現実」だ。

考えてみ?日本の学校を舞台にするから、日本の高校生(大半がアジア人・日本人)が出るのは当然だ。

そして、日本の治安が良いから、キャラクターが夜道を歩くし、子どもだけで遊びにいく。

おまけに、日本の医療や福祉がそこそこ上手く回っているから、怪我をすれば普通に病院に行く。そりゃそうだ。痛いもん。

これらは思想やポリコレの産物ではなく、単なるフツーの生活の猫写だ。

それを、自国の深刻な社会問題、そう医療崩壊や銃規制の失敗、極めつけは根深い人種対立なんかのフィルターを通すことでしか見られないアメリカの活動家は、日本の「普通の日常」を「白人・マジョリティのための特権的な空虚なファンタジー」だと勘違いし、アメリカの基準(人種ノルマ)で書き換えようと躍起になるわけ。

日本のコンテンツが持っている強さは、現実から浮いた「空言としての理想」ではなく、「日本の社会が失われた30年とバカにされながらも、曲がりなりにも達成している安定した現実というリアリティ」に立脚している点にあるんだ。

それが差別や銃や医療問題があまりに過酷で、GDPの割には社会がぐでんぐでんな社会の中心で、せめてフィクションやエンタメのなかでポリティカルコレクトネスを叫ぶみなさんは、日本のエンタメが持つ「あまりにも平穏で、お説教臭さのないリアリティ」こそは、嫉妬を通り越してもー理解不能な「空虚なもの」として映るんだろうね。だからこそ攻撃の標的にしやすいのかもしれないな。

そこからわかるように失われた30年って日本は馬鹿にされるけど、それは単にGDPから見てるだけで、今の世界で深夜の3時に女の子が1人でループに乗って街の大通りを走れる世界っていうのはそんな国っていうのは世界中にどれぐらいあると思う?

アメリカのポリコレ信者の皆様は、この「銃乱射もなく、スリも強盗も恐れず、夜でも女性が丸腰で歩ける日本のアニメの日常」を見たとき、それを「現実の日本社会の縮図、つまり秀吉以来の歴史と綱吉以来の道徳の結晶」だとは想像できないんじゃないだろうか?

一般的にアメリカ人は夜郎自大🔗なので、驚くほどアメリカ以外の世界を知らない。だから、「こんなに恐怖がなくて、みんながのんびり平和に暮らせる社会なんて、現実のアメリカには絶対に存在しないだろ!」→「ということは、これはクリエイターが頭の中で作った『究極の理想のファンタジー(ユートピア)』に違いないぞ!」→「それなら、その完璧な理想郷に、なぜ俺たち(黒人や有色人種)を入れないんだ? 差別だ!」

という、凄まじい認知の腸捻転を起こすのさ。

彼らにとって、日本のアニメの何気ない日常は、「自分たちがどんなに逆立ちしても手に入らない、喉から手が出るほど欲しい完璧なファンタジー」に見えているんだ。

だからこそ「土足で踏み込んで、自分たちの思い通りのポリコレ色に染め変えてやりたい」という傲慢で原作やクリエイターにリスペクトのない態度に出ちゃうんだろうな。

まぁ、週末だものこんな内容も悪くないかな?

2026/10/26

POST#1991 失われた数十年を生き抜いてきて思うんだ

 

カニ将軍だかかに道楽だか。どっちでもイイや。名古屋
夜中の三時過ぎ、現場を終えて駐車場へと歩く。名古屋駅の周辺は車もまばらで、人影もない。精力的に活動しているのは、いつ終わるとも知れない現代のシューシポス🔗のようなリニア工事の作業員たちだけだ。

ふと、俺の目の前をループの電動キックボードに乗った年若い女性が走り去る。信号の向こうには、終夜営業のカラオケ屋の前に若い男女がもつれ合うようにして歓談している。

夜中の三時だ。

俺たちはそれを別段驚きもしない。けれど、そんなことが可能な国が世界にどれだけあるか、考えてみてほしい。

日本の皆さんが盲目的に大好きなアメリカはどうだろう?

ありえないだろう。自殺行為だ。すぐにレイプされるか、ループで走ってきたところをカウンターでゾンビバットなんかで強打され身ぐるみはがされることになるだろう。

そもそも、深夜に女性が一人で出歩くこと自体が自殺行為って言われるだろう。

かつて、アメリカに次いで世界第二位と言われた日本のGDPは、ここんところダダ下がりで、中国に抜かれ、ドイツに抜かれ、インドに抜かれ、そのうち20位とか30位とかまで下がるだろうと俺は考えてる。

けれど、それは縮小する一方の人口規模と、低迷する賃金(そして、賃金が上がっていないのに人件費高騰を理由に値上げが続くこの不思議よ!)、将来への不安による貯蓄額の蓄積=資本の流動性の低下という観点に照らせば、不思議などどこにもない。むしろ、当たり前のことだ。

そして、この状況をして日本は終わった、日本はオワコンだと人々は悲観する。

大丈夫、どんだけ日本が衰退してもスーダンとかみたいにはならない。むしろ、日本はある意味で世界のダウンサイジング先進国だ。

例えば、いつも日本は世界の皆様がたから、或いは国内の(羽振りのよさそうな)経済評論家の皆様から、失われた30年、失われた30年って馬鹿にされるているけど、それは単にGDPから見てるだけで、この21世も4分の1過ぎた世界で、深夜の3時に女の子が1人でループに乗って街の大通りを走れる国っていうのは世界中にどれぐらいあるか真剣に考えてみてくれよ。

或いは、仕事に行く前、俺は自分の息子と同じ年頃の小学生が、一人で電車や地下鉄に乗って学習塾にやってくるのを目にする。俺たち日本人には至極当たり前のことだ。しかし、海外ではそんなことが可能な国は限られているぜ。

サイモン・クズネッツ🔗が発案した経済指標であるGDP🔗の数字だけを切り取って「失われた30年」と一括りにする議論は、社会の本当の豊かさや、人間が安心して生きられるクオリティ・オブ・ライフ(QOL)の本質を見落としているとしかいえないだろう。

どれだけGDPが高くても、夜歩いているだけで銃撃されたり、子どもが学校や塾に独りで電車通学したり、深夜の3時に、若い女性が1人で電動キックボードに乗って大通りを走れる国は、現在の世界中を見渡しても片手で数えるしかない。もっと言えば、日本の主要都市(なぜって主要都市しかループはないからな)以外にはほぼ存在しないというのが冷酷な現実だ。

俺たちが当たり前と思っている日本のこの「日常」が、世界基準から見れば奇跡であり、経済指標以上の価値があるということさ。

まずは世界の大半の都市における「深夜3時」のリアリティだ。

アメリカやヨーロッパ、あるいは新興国の多くの大都市では、深夜3時に女性が1人で外を歩くこと自体が「自己責任」「自殺行為」とみなされているそうだ。

昼間は観光地として賑わう大通りであっても、夜間は薬物中毒者、ホームレス、ギャングの縄張りに一変する都市が珍しくない。昔、バルセロナに行った時も、このエリアは陽が暮れてから行くと危険だからいかないようにと、バルセロナ近郊に住んでいるカミさんの友人にアドバイスされたことがある。まぁ、バルセロナではスリにあったこともあるしね。

また、「乗り物」としてのキックボードそのものにもリスクがある。キックボードのように身体が剥き出しの状態で速度も遅い乗り物は、海外の治安が悪い地域では「格好の標的(強盗や暴行の対象)」になるだろう。釘でハリネズミみたいになったバットで襲われたら即死だ。車に乗ってドアをロックして移動するのが大前提の社会がほとんどだ。

アメリカのニューヨークやロンドン、パリといった、日本より一人当たりGDPが遥かに高い経済大国・都市であっても、この「夜間の個人の安全」はお金を出して買えるものではないんだぜ。だから、富裕層はゲーテッドコミュニティー🔗を作って、警備員が門番を務める塀の中に暮らしたりもする。これじゃ、自主的な牢獄と変わりないぜ。

つまり「安全」な暮らしってのは、GDPに換算されない超巨大なインフラだってことだ。

経済学で言うところのは、GDPは「どれだけお金が動いたか」の計算にすぎない。万能の指標じゃないんだ。皮肉なことに、社会が不安定で治安が悪いほうが、経済の数字(GDP)は回ることすらある。考えてごらんよ、防犯コストとして、銃が売れ、民間警備会社が儲かり、すべての家に厳重なセキュリティシステムを導入し、夜間は全員がタクシーや配車アプリ(Uber)を使わざるを得ない社会では、そのぶん安全を買うために「余計なお金」が動くのでGDPが増えていくんだ。

これに対して、日本社会の効率性はお金でカウントできない。

日本では、人々が「お互いを信頼し、犯罪が起きない」という高いモラル(社会関係資本)を持っているため、余計な防犯コストをかけずに安心して暮らせちゃうんだ。

当然ながら、この「お金を払わなくても安全が手に入る状態」は、GDPという指標には一切プラスとしてカウントされない。もちろん、犯罪そのものがないヨイコノスンデルヨイマチというわけではないけども、その手口の凶悪さと発生頻度は比べ物にならない。

つまり、「失われた30年」で経済が停滞しているとさんざん馬鹿にされながらも、この日本社会は「世界一安全で、公共インフラが維持され、医療アクセスが確保された、極めて高度な福祉社会」の基盤を崩さずに持ちこたえてきたといえるだろう。

だからこそ、海外の人は日本に熱狂するらしいぜ。

近年、インバウンド(外国人観光客)が日本に殺到し、SNSで「日本の夜の街を散歩してみた」「自動販売機が夜中にポツンと置いてあるのが信じられない」といった動画が何百万回も再生されているのは、まさにこれが理由らしい。夜の散歩も自販機も、深夜三時のループの女の子も、俺たち日本人にはなんの不思議もない。ありきたりな風景だ。しかし、日本人以外にとっては驚異的なんだとさ。よくわからん感覚だ。確かに、海外でとりわけヨーロッパで夜歩くと、どこからか視線を感じて緊張感を持つことはある。それは、身体感覚的な経験だ。

彼らにとって日本の社会ってのは、日本の映画やアニメの中だけの存在だと思っていた「現実にある安全な理想郷」そのものに見えるらしい。

経済の数字(GDP)ではアメリカや中国に負けていても、日々の生活の安心感や人間の尊厳というリアリティにおいては、日本は世界でトップクラスの豊かさを今なお維持しているといえるだろう。

日本は衰退途上国である以上に、ダウンサイジング先進国なんだ。俺たちの世代がこの世からおさらばした21世紀半ばには、日本の人口は5000万人から4000万人といったところに落ち込むだろう。その時、安全な社会という経済コストで測れない社会の真価がいかんなく発揮されるだろう。

その淵源はどこにあるのか?俺はそれは400年以上前の日本社会、まさに戦国時代の戦乱の終息期にあるとみている。そう、一朝一夕にできたものじゃない。

日本社会の独特の息苦しさの淵源も、この安心と表裏一体なんだけれどな。


2026/09/20

POST#1967 過酷な日々を送っていた

2002年ごろの一宮にて コダックのリバーサルフィルムならではのえぐみのある色彩だ
ここ一週間ほど更新していなかったので、数少ない読者の皆様の中には、死んでるんじゃないかという疑念を持った方もおいでかもしれない。

大丈夫、俺たちはみんな、不完全な死者として生まれ、生涯かけて完全な死者へと完成していく。この宇宙では、ひょっとしたら死んでる方が通常な状態かもしれないぞ。

風邪を引いていたんだ。

しかし、前の現場の是正工事をふらふらしながらやっつけて、疲労困憊していたところに寝ていたところに息子にたたき起こされ、私立の中高一貫校の文化祭に連れていかされたんだ。去年まで女子校だというだけあって、生徒さんはほとんど女の子だ。

息子とカミさんが、製作体験とかやってる間に、俺は女子高生のお嬢さんたち相手に調子に乗った与太を飛ばしまくっていた。一見絶好調だが、それはろうそくが消える前に一番輝くというやつさ。

書道部で、おみくじを引かせてもらったんだがなかなか思うところがある内容だった。人生おみくじと恋愛おみくじがあったんだが、迷わず人生おみくじだ。老いぼれには恋愛なんて、40光年ほど遥か彼方の出来事だ。もう関係ない。女はもうこりごりさ。おっと、別に俺はミソジニスト🔗じゃないぜ。五十路ニストさ。おみくじにはこうあった。

『中吉

 人生おみくじ💛

 変化

環境や心境に良い変化が訪れるよ

柔軟に受け入れてみてね

ラッキーカラー オレンジ

ラッキーアイテム イヤフォン』

だとさ。そして次の月曜日から新しい現場が始まったのに、風邪をこじらせ、発熱し、気味の悪い汗をかき、日々体力を極限まで消耗していた。

少なくとも体調に関しては悪い変化が訪れたよ!

木曜日も金曜日も、家のフローリングの床に寝転がったまま、死体のように眠っていた。

今朝も3時ごろ家に帰ってきたのだけれど、そのまま車の中でシートを倒して眠ってしまった。朝息子に起こされたくらいだ。そのあとも夕方まで泥のように眠った。

何せ、トラブル続きだ。他人には任せられない。俺が自分の足で踏ん張って、這ってでも収めていくしかないんだ。若い頃、倒れるまでやれ、倒れたら這ってでもやれと叩き込まれた。まったくその通りだ。俺の代わりは俺しかいないのさ。なんせ、フリーランスだからね。

うまくいかなかったからといって、誰かのせいにするような情けない真似はできないんだ。うまくいったら、自分についてきてくれた職人さんのおかげ。失敗したら、すべて自分の責任だ。それが一人前の仕事師というものさ。

さて、いったいこれからどんな環境や心境の変化が訪れるのかな。楽しみだぜ。とはいえ、女がらみだけはもうごめんだぜ。いろいろとこりごりなのさ。

2026/09/02

POST#1957 労働者の皆さんに、素敵なニュースだ!

愛知県一宮市
今朝の朝日新聞の経済面にちょいっと載った記事は、あっさり書かれていたが呆れるような内容だった。

悪いが引用させてもらおう。『利益最高でも働き手の分配率は五年連続で低下🔗』だ

『2025年度の法人企業統計調査で、金融保険業をのぞく全産業の経常利益が前年度より8.8%増え、過去最高を更新した。売上高(1.6%増)と設備投資額(4.3%増)も過去最高。人件費も2.6%伸びたが、企業が生んだ付加価値に占める割合(労働分配率)は5年続けて下がり、1973年度以来の低水準になっている。

 財務省が1日に発表した。金額では、売上高は1720兆2560億円。経常利益は124兆8313億円。いずれも比較可能な1960年度以降の最高値を5年続けて更新した。

 業種別では、情報通信機械や電気機械が大幅な増益だった。事業の効率化やAI(人工知能)、データセンター向けなどの需要が押し上げているという。飲食などのサービス業や建設業も利益を増やした。食料品は価格改定の効果などで売り上げを伸ばしている。

 設備投資は全体で57兆8999億円。化学や生産用機械で、半導体関連や医薬品の生産能力増強の投資が押し上げた。不動産業や電気業でも伸びが目立つ。

 一方、従業員や役員の給与・賞与に福利厚生費を加えた人件費の合計は235兆2869億円。営業利益ベースの付加価値に占める比率は63.0%で、前年度の64.2%を下回った。』

これだけ物価が爆上げしている以上、企業の利益が爆増するのは容易に推測できるだろう。

で、労働分配率は5年連続で低下?

まるでマルクスの19世紀だな。誰もこの理不尽に声を上げないのか?

資本に任せていても、資本は自己増殖を繰り返すだけだ。

政治が動くべき時だが・・・我が国の政権にその意思も力もないな。残念ながら。

彼らはいわゆる国論を二分するような課題にしか興味がないからね。 ふざけるな!

蛇足のようだが 最後に一言言わせていただこう。 人間のために資本があるのであって、資本のために人間があるのではないはずだ。

 

2026/08/31

POST#1955 少子化の中でも、ヤンキーの人々は子だくさんだったりする

名古屋だな、これは
さて、しかしこの社会は二極化が進んでいる。

経済格差の話は、耳タコだから今日は一旦措いておこう。けっしてそれが問題じゃないといってるわけではないけどね。

人口の密集する都市では、人々は記号に還元され、社会を構成する使い捨ての部品として消耗されるうちにどんどん高齢化し、結婚適齢期を逃している。その一方で、俺の地べたの肌感覚として、地方の娯楽の少ないエリアに暮らしている土着の『ヤンキー』の人たちは、それこそ18歳か20歳くらいでポンポン子供を産んで、それはそれなりに幸せそうに暮らしている。選挙なんか行ったことも、民主主義もなんて興味も関心もない人たちだ。

その子どもも18か20くらいで子供をもうけ、世代更新のスピードは、都市部に比べて1.5倍くらいのスピードだ。40前で孫がいるという話もざらだ。俺自身は子供を授かったのは47の時だったが、同世代の人から服部君の息子と、うちの孫は同じ年といわれたこともある。とはいえ、この人が特別に子供を設けるのが早かったわけでもないがね。

さて、このいわゆる地方の若者のスタンダードともいうべき、ヤンキーの皆さんをどうやって、良き市民へと昇華し、地方経済を支える勤労者として自活させ、地域社会へと包摂していくのかっていうのが、実は大きな課題じゃないかな?

日本の出生率をけん引しているのは、このクラス=階級の人たちなんだからね。このクラスの人々を、社会にうまいこと組み込んでいかないと、ヤンキー国家になってしまう。

これが地方のリアルな姿だし、都市部の知識人が最も見落としがちな「地べたの生命力」だ。

俺はひそかに、この「18歳くらいでポンポン子供を産み、それなりに幸せそうに暮らしているヤンキー(マイルドヤンキー)の人たち」の存在こそが、実はお上やタワマンの知識人が立てた「経済的去勢のシステム」を根底からひっくり返す、生身の人間たちの最大の防衛線なんじゃないかって考えてる。
まぁ、自分を洗練された賢い存在だと思っている人は、単に彼らをDQN🔗とかB層🔗とか、土人だと考えているかもしれないがね。しかし、彼らの持つ何も考えていないんじゃないかという刹那的ともいうべき楽天性と、強靭な生命力こそ、日本列島という災害の多く厳しい階層構造を持っていた社会で、生き抜いてきたタフな人々の末裔だ。
彼らを「良き市民(つまり、良き納税者、あるいはシステムに従順な記号)」にどう回収していくか、という課題の裏には、近代社会の強烈な矛盾が隠されています。
まず、なぜ彼らは「去勢」されずに子供を産めるのか?
伝統的な経済理論や「おひとりさま論」の枠組みのなかでは、「お金がなければ結婚も子育てもできない。だからそれは諦めるべきだ、諦めてこの自立を混ざすことが正解だ」ということになるだろう。もっともだ。しかし、彼らはその「正論」の枠外で生きている。
大体、本屋なんかめったにないような農村地帯や工業地帯で彼らは生きている。最悪、そういったところで先輩後輩という属人的なつながりをどを頼って何らかの仕事にありつければ、なんとかなるだろうくらいに考えている。
もっと現実に即して言うなら、彼らは「脳(理念)」ではなく「身体(本能)」で生きているんだ。
彼らは「将来の教育費のシミュレーション」や「キャリアプラン」といった、お上が作った記号の計算に縛られちゃいない。
教育費?学校なんてとりあえず行っとけば近所のツレと遊べるから行く、くらいの感覚だ。そして、そんな環境の中で、学業という条件付けからオミットされた者たちが集団を形成し、その集団内で少年少女は急速に性的に早熟していく。
若者が、その思春期の性衝動を抑えることなく即行動に移すのは当然のことだ。ある意味健全なことだ。まぁ、俺自身もヤンキーではなかったが、若い頃は似たようなものだったからわかる。
彼らは「好きだから一緒にいる、子供ができたから育てる」という、圧倒的な身体性と生命力で動いている。で、その一方で、愛想が尽きたから別れる。実家に戻り、母系制の家族構造を形成してゆくというパターンをたどることになることもしばしばだ。
また、先にも少し触れたけど、彼らには独自の「セーフティネット」がある。都会の孤立した「おひとりさま」と違い、彼らの周りには地元の友人、親、親戚といった「地べたの共同体」が残っているんだ。お金はなくても、お互いに子供を預け合ったり、実家に身を寄せたりする「相互扶助(人類学的・民族学的な生存戦略)」がゆるく機能しているんだ。おかげさまで、お上の福祉制度に頼らずとも、シングルマザーになっても子供を育て上げることができるわけだ。
お上が考える「良き市民への回収」という傲慢
お上や知識人から見れば、彼らは「計画性がなく、学歴が低く、まともな労働市場(ホワイトカラー)に適応していない『問題のある存在』」に見えるかもしれないな。そのため、「教育を施し、洗練された『良き市民』に育成(回収)しなければならない」という発想に陥る傾向がある。しかし、ここに決定的な罠があるわけだ。
彼らを無理やりお上の言う「良き市民」のシステムに回収しようとすると、何が起きるか、考えてみよう。
まず挙げるべきは、生命力の去勢だ。
「もっと勉強して、いい大学に行って、まっとうな職に就きなさい。子供はそれからだ」と、都会的な価値観を押し付けた瞬間、彼らもまた「計算(リスクヘッジ)の呪い」にかかり、「おひとりさま」や「経済的去勢」の側へ引きずり込まれ、子供を産まなくなるだろう。
そして、もっと具合の悪いことに、そうしたからといって、割のいい仕事に就けるかどうか、誰にも分らないことだ。これは、新自由主義下のイギリスの労働党ブレア政権やアメリカ合衆国のクリントン政権が主張したことだ。
大学に行きなさい。学位を取りなさい。そうすれば、君の労働市場でも価値は上昇し、より良い生活を送ることができる。
しかし、現実はそううまくはいかなかったのは、その後の歴史を見れば明らかでしょう?
アメリカもイギリスも、挫折した人々はポピュリズムに走り、ブレクジットやドナルド・トランプ大統領を生み出したわけだ。
イギリスやアメリカで製造業が衰退したのは、こういった地べたのワーキングクラスが崩壊したからだ。
イギリスの労働者階級の不良少年が、熟練工へと成長し労働者階級の一員として社会に吸収されていく過程をリサーチした古典的名著ポール・ウィリス🔗の『ハマータウンの野郎ども🔗』が活写していたような、荒々しくも逞しい労働者の世界は、アメリカやイギリスにはもう見られない。それが、これらの国が工業生産力を大きく落とし、金融やITにその経済の命運を託すことになった遠因だ。
結果として、社会にとって具合の悪いことが起こった。インフラの担い手の消滅だ。
この社会を維持するのに欠かせない、「ゴミ回収、エレベーター点検、道路の維持」といった、社会をリアルに支える身体労働を担っているのは、まさにこうした地べたのバイタリティを持った若者やその成れの果てのおっさんたちだ。
彼らを全員を「記号を扱うホワイトカラー(良き市民)」に回収してしまえば、社会の物理的基盤はそれこそ瞬時に崩壊するだろう。俺が行っていることがわかるだろうか?そして、もしそうなったとしたら、日本の製造業もインフラも技術継承ができなくなり、デッドエンドだ。
また、都合が悪いことに、生易しい環境や、パワーのない指導では、彼らからその不良性はなかなか抜けない。厳しい労働環境と絶対的な人間関係の存在する職場で陶冶されることがなければ、容易に社会からドロップアウトしてしまう。水は低きに流れ、人は易きに流れるんだ。
じゃ、本当の「課題」はどこにあるのさ?
これは難しいけど、本当の課題は、彼らをシステムに「回収」することではなく、彼らの持つ「地べたの生命力」を、お上がその搾取システム(低賃金労働)によって食い潰さないようにすることにあると、俺は考える。
彼らは一見幸せそうに暮らしているが、その労働環境は「非正規雇用」や「過酷な肉体労働」であることが多く、お上がインフラ労働を買い叩いているせいで、常に経済的な困窮と隣り合わせだ。また、飲酒、喫煙、ギャンブル、放蕩など、彼らへの誘惑は多い。
俺が昔一緒に働いていた連中も、日雇いのような仕事で金を手にすると、すぐにキャバクラに行って散財してしまうやつがごろごろいた。そしてその金は、ヤンキーギャルの手に渡る。
ヘラクレイトスも言っていたぜ。『万物は流転する』と。
ちなみに、少し脱線するが、男の日雇い仕事と女の風俗嬢というのは、いずれも麻薬のような仕事だ。即金で金が入り、資本はいらない。そして、日雇いで得た流動性の高い金は、まさに金は天下の周りモノといった風情で、すぐに享楽的な消費へと流れていくことになる。
ヘラクレイトスも言っていたぜ。『万物は流転する』と。
だからこそ、ここで「まず労働者の賃金を上げること」が重要になってくる。
彼らに遊ぶ金を持たせろというのではないんだ。まぁ、遊んだところで個人の自由だけど。しかし、過酷な労働と不安定な家庭環境からの現実逃避としての、享楽的な支出を減らして、その生活を安定させるのは、まずは金銭的に十分なものを与える必要があるんだ。それはやりがい搾取でなく、金銭的なインセンティブという好子を与えることなんだ。
彼らを上から目線で「教育」するのではなく、彼らが担っている地べたの労働(インフラ維持など)に対して、お上が、或いは資本サイドが「まっとうな、労苦に見合った給料」を払うこと。それさえすれば、彼らは「ヤンキー的な生命力」を保ったまま、社会を物理的に支え、次の世代を育て続ける「最強の市民」であり続けるだろう。
何も、大学卒のホワイトカラーに押し込める必要なんて微塵もないんだ。

「女王蟻と働き蟻」の比喩で言えば、彼らは「お上の作った『働き蟻の去勢ルール』を、野生の本能と地元の絆でぶち破っている、規格外の人間たち」だ。
社会が完全にアリの巣化して滅びないための最後の希望が、実はこの「地べたのヤンキー的な身体性」にあるという皮肉。とはいえ、俺は彼らを必要以上にありがたがったり、賞賛するつもりもない。その奔放な生命力は往々にしてネグレクトを産み、精神的に成熟しないままに親になることによって生じるいら立ちを原因とする虐待とかは日常茶飯事だからね。
そして、そうやって育てられた子どもたちは、大人になったとき、周囲に大人のロールモデルがないために、往々にして、ネグレクトや虐待といった暴力が世代間をまたいで再生産されてく状況にある。
まったくうんざりだ。
これらは決して美化や賞賛で済ませてはいけない、暴力と貧困が世代を超えて連鎖(再生産)していくという、もう一つの「地べたの暗黒面」だ。剥き出しのフォースの世界だ。
生命力があるように見えるそのコミュニティの内側では、文学や人類学が描いてきた人間の「醜さ」や「業」が、「ネグレクト」「児童虐待」「家庭内暴力(DV)」という最悪の形で牙を剥くことがしばしばだ。
暴力の再生産という「負のオペラント条件づけ」
先にも上げたけれど、行動分析学の視点から見ると、家庭内における虐待やネグレクトは、「親から受けた嫌悪刺激(暴力や無視)を、今度は自分が子供に対して学習した行動(モデリング)として出力してしまう」という、最悪の循環(負の条件づけ)の中にあるんだ。
仕方ない、それしかお手本がなかったんだからな。
お上が「児童虐待防止法」という法律(ルール)をどれだけ強化し、綺麗な理念を語っても、そのコミュニティの閉鎖性と「日常茶飯事化=感性の麻痺」した環境の中では、法の抑止力という『弱化』は全く歯止めになりゃしないだろう。残念だがそれが現実だ。
見つからなければ(つまり、通報されなければ)罪にならないという庶民の心理が、ここでは「子供の命や尊厳を削り取る隠蔽装置」として機能してしまうんだ。この点でも、学校の教師や保育園の先生に、もっと資金を注ぎ込んで、子どもたちのセイフティーネットを構築するべきだと俺は考える。
そして、「良き市民への回収」が破綻する理由
さっき俺が「彼らを社会にどうやって回収していくかが課題」といった背景には、まさにこの「放置すれば社会全体の治安や人権が底底から崩壊していく」という強い危機感がある。
そこに踏み込むのは、本来行政や福祉の仕事だろう。しかし、お上(行政や福祉)の行う「回収」のアプローチは、ここでも完全に空回りしている。
まず、記号的な行政対応だ。
児童相談所や福祉の現場は常に人手不足で、人間を「処理すべきケース番号(記号)」としてしか扱えない。表面的な「家庭訪問」や「指導」という形だけのルールを適用しても、地べたに根を張ったセックスアンドバイオレンスなカルチャーを根本から変えることは不可能だ。
そして孤立は加速してゆく。
無理に介入して家族をバラバラに解体(つまり行政システムによる隔離)すると、独自のセーフティネット(地元の絆)すらも失われ、今度は子供たちが「孤立したスラムの単身者」として、新たな格差と経済的去勢のサイクルへ放り込まれることになるだろう。しかし、そこで引き離してゆかないと、子どもの命そのものが危ういという局面も往々にして訪れる。これは、しばしば俺たちが報道で目にすることだ。
そして俺たちの前には「去勢された世界」と「暴力の荒野」の二択という素晴らしい世界が広がっている。くそ!
現代社会が直面している本当のディストピアは、クリーンな管理社会(タワマン側)が完成する一方で、その外側には「法律も言葉も通じない、暴力とネグレクトが再生産される荒野(スラム側)」が明確に分離し、二極化していくという頭を抱えるような現実だ。
タワマン側(女王蟻)
経済的に豊かだが、過剰なコンプライアンスと「おひとりさま論」で静かに去勢され、子供が消えていく世界。
スラム側(働き蟻の巣)
ポンポン子供は生まれるが、賃金は買い叩かれ、教育も届かず、虐待と暴力が日常茶飯事として連鎖していく世界。
「ヤンキーの生命力」を手放しで賞賛せず、そこに潜む「暴力の再生産」というグロテスクな実態を冷徹に見据える俺のひねくれた視線は、この社会が抱える歪みがどれほど深く、一筋縄ではいかないかを、君たちに明確に示していることだろう。
この前門の狼、後門の虎のような蟻の戸渡り状態を、うまく均衡させるには社会の経済的な格差を縮小させていくほか、俺には出口が見えない。
そう、衣食足りて、初めて礼節を知るだ。風俗を規制しろとかいう前に、まずはそこだ。

2026/08/17

POST#1941 1990年代前半の出来事

 

名古屋かな
1990年代の前半といえば、もう35年近く前の話だ。

俺は当時、ある宗教団体で儀式を作ったり、霊媒によって示唆された断片的な情報を文献に当たって調査し、レポートにまとめるような仕事をしていた。

その中には、御霊信仰🔗にまつわるものもあったし、神道イザナギ流🔗に関する内容や様々な神社の由来を調べたりしていた。己貴秘伝🔗という古神道に関する専門書を読んだり、図書館で大蔵経に当たったりしていた。漢文もなんとなく読めたので、大蔵経を見ても大意は掴むことができた。宿曜経という経典をもとにして、星占いのようなものを構成したこともある。要はこれはインド占星術だ。のちに本殿を岐阜の山奥に作るっていうんで神社建築もかじった。この教団の儀式体形の基礎構造を作り上げたのは、間違いなく二十代前半の俺だ。

その宗教団体は今もあるようだが、差しさわりがあると厄介なので、ここでその名は上げない。古神道やイザナギ流の知見を基にして、様々な儀式を生み出した。それがどんな内容か、それはここには書かない。

俺の独特の思考の長大な射程距離や異なる領域を横断して結び付ける能力は、もともと備わっていたのかもしれないが、間違いなくこの時期にはぐくまれた。黒歴史のたまものだ。

このころは、宗教学者のミルチァ・エリアーデ🔗の世界宗教史🔗全四巻を手に入れて毎日読み耽っていた。

その日は、名古屋の千種駅前にあったちくさ正文館書店🔗で歴史関係や宗教関係の本をあさっていた時のことだ。名古屋大学の文学部史学科に進学した同級生の林君とあった。

彼はのちに、母校の歴史の教師になる。はやしとはっとりなので、席が近かった。

俺が学校を中退し、家も飛び出したことはある程度知れ渡っていただろうから、彼は驚いたようだった。そして、今こんなところで、何をしているのか訊いてきたのさ。

俺は、当時調べていた内容をさらりと説明した。

『うん、京都の祇園祭あるだろう?あの山車を鉾って言うじゃないか。この鉾ってのが疫病をもたらすとされる牛頭天王=スサノオを鎮め、疫病の流行を封じるために行われているのは知ってるよね。牛頭天王🔗はもともと仏教の神様だけれど、これが日本に入ることで、いつのまにかスサノオノミコト🔗が身をやつした武塔天神🔗をもてなす蘇民将来🔗説話と結びつくんだよね。蘇民将来🔗の子孫って玄関に記しておけば、疫病にならないって奴だよ。

で、あの鉾ってのが天岩戸でアマテラスを引き摺りだすために、古事記の中でアメノウズメ🔗が局部丸出しで踊り、逆さにした桶を突いた矛の儀礼となんかかかわりがあるんじゃないかって考えて、その考えを補強するような資料を探しに来たんだよ。

そう、つまり矛で大地を突くもしくは中空のもの、つまりそれは子宮の暗喩かもしれないね、を男性器の暗喩である矛でつくという性的なニュアンスのある儀礼の呼び覚ます生命力そのものが鎮魂の儀礼なんじゃないかって考えてるのさ』

今は母校の偉いさんになってる林君は、真面目な史学科の学生だったから、僕の話をぽかんとして聞いていた。そして絞り出すように『浩一郎、僕らのやってる学問では、そんなこと考えもしないし、文献的に証明できないことは絶対に仮説としても考えつかないんだ…』といったな。まぁ、もっともだろう。

このころの調査した資料だけは、この教団から夜逃げするときに持ってきたかった。

護国神社、靖国神社、そして招魂社という毎年夏になると亡霊のようによみがえるような内容もあった。もちろん、跳躍飛躍で通説を一刀両断だった。道祖神やチベットの曼陀羅に関する内容のものもあった。残念だ。

今ならUSBにコピーしておくだけで済むけれど、当時はなんとフロッピーディスクー🔗だったからな!Windows以前の時代なんて、今の人たちには想像もつかないだろうよ!

このころのことは、多くの人に迷惑をかけた。あまり調子に乗って話すものじゃないね。このころの失踪のおかげで、俺は同級生の間では長らく死んだはずの人になっていたんだとさ。まいったな。失礼する。


2026/08/10

POST#1934 盛夏、百花繚乱その6

路傍の朝顔と蝶
先日、Youtubeのリコメンドに、蝶とトンボをよく見る人、先祖に見守られているという動画が上がってきた。

バカバカしすぎて、見る気にもならなかった。俺は去年の秋、京都の鴨川の川面に、無数のトンボが群れを成している無限のような光景を見たが、そのあとに俺を待っていた運命は、お世辞にも先祖のお導きには程遠い無残なものだった。

昔、ある女性が自分を溺愛していた父親が、死んだ後も蝶などに姿を借りて自分の周りに現れると語るのを聞いた。

冗談じゃない。

俺にとって、家の周りを飛ぶアゲハ蝶は、息子が小学校に入ったときにもらったレモンの葉を食い散らかして丸裸にしてしまう幼虫の卵を産み付ける害虫でしかない。あの黄緑色で、盛大に糞をまき散らす芋虫だ。

近縁のキアゲハは、パスタやサラダに添えるためにプランターで育てているパセリを食い尽くしてしまう幼虫の卵を産み付ける。緑と黒の毒々しい縞模様の幼虫だ。ぞっとするぜ。

アサガオを食害するのはスズメガだ。

虫はしょせん、虫でしかない。親しい人々の魂なんかじゃない。俺の死んだ母や祖父の魂は、俺の血の中にこそ宿っている。そして、もし俺が死んだとしても、息子の血の中に俺は生き続ける。

2026/08/02

POST#1926 ケアによって人々をつなぐトークンという構想 第12章

 

春、俺の町にて
困ってる人が、自治体から与えられる小切手型の『絆トークン』。

手助けやケアを必要としている社会的な弱者が、自分たちの困り事を近所の隣人をはじめとした地域共同体の人に手助けしてもらうことで、これは初めて命を吹き込まれ、振り出され、地域共同体の中を流通し始める。ニコリ😊

このトークンを相手にピンポンのようにケアをしてもらって返すのはルール違反。必ず他の人に何かをお願いして、そのトークンを流通させること。で、そのトークン自体は年 4 回の市県民税や固定資産税の収納期日に価値がゼロになる。そしてまた 1 からやり直し。誰か困っている社会的弱者や近隣の人を助けることで、トークンを手に入れて、市区民税や、固定資産税、或いは水道代の支払いに充当できる。ニコリ😊

このトークンは、それぞれにバーコードやQRコードが印刷れていて、トークン自体の管理をすることができるが、使用する分には一切電子デヴァイスの使用は必要とせずに、人の手から手へと渡る。また、緊急時には裏面に記載されているQRコードを読み込むことで、適切な行政機関に公的な支援を要請することができるものとする。ニコリ😊

その導入に際しては、ランダム化比較試験を行ったうえで、事業規模や対象範囲を注意深く検討してゆく。ニコリ😊

これが、今の段階で考えている概要だ。田舎くさいな。我ながら時代遅れっぽい気がする。しかし、それがいままでさんざん言ってきたように、本当に社会的弱者を取りこぼさないための仕掛けなんだ。

2026/07/29

POST#1922 ケアによって人々をつなぐトークンという構想 第8章

名古屋市にて。奮闘努力の甲斐もなく、今日も涙の、今日も涙の陽が落ちる♪
OK、俺の住む愛知県の夏は暑い。アフリカの人もげんなりする高温多湿だ。アイスを買っても、食べ終わる前に溶けてしまうくらいだ。ヨーロッパ人のようにクーラーは使わないとかバカげたことを言っていたら、死んでしまう。
昨日は珍しく激しい雷雨で過ごしやすかったけど、迂闊に外に出ると電撃くらってお陀仏ってのは、御免被る。

だから連日、俺は自室でクーラーをぶんまわしながら、この構想を充実させることにだけ心血を注いでいる。なんせ今月は暇なんでな。暇すぎて倒れそうだ。

2026/07/14

POST#1907 構造主義で読み解くG2は同じ穴のムジナ論/けれど諦めてたまるか

愛知県江南市 かつての木曽川の乱流地帯 俺の生まれたところ
うんざりするような暑さも続いている。
うんざりするような話に終わりはないのか?

実は書いている俺自身が、いい加減うんざりしてるんだがね(笑)

そういえば、RCサクセション🔗にもキーボードロボットのゴンタ2号=G2🔗っていたな!(笑)

米国のマスキズム(テック資本による国家の乗っ取り)も、中国のデジタル監視社会(国家によるテック企業の囲い込み)も、どちらも「大衆をクラウド小作農として囲い込み、テクノロジーの力で移動や思想の自由を奪い、地代を永久に吸い上げるシステム」であるという点においても、まさにヤニス・バルファキスの言う「テック封建主義」そのものだ。

そして興味深いことに、第二次ドナルド・トランプ🔗政権で、ICE🔗がやっていることと中国がウイグルやチベットでやっていることに大きな違いはないと俺は見ているんだ。

米国のICE(移民税関捜査局)による移民・難民への過酷な取り締まりと、中国政府がウイグルやチベットで行っている人権侵害・強制収容は、アプローチや国際法上の名目こそ違えど、「最先端のデジタルテクノロジー(監視・バイオメトリクス)を駆使し、特定の民族や属性の『移動の自由』や『人権』を剥奪して巨大な収容施設で管理する」という本質において、驚くほど共通している。

ぶっちゃけ言えば、その目的を「国家安全保障・不法移民対策」とするか「テロ対策・民族融和」とするかの違いだけで、テクノロジーが国家の暴力を無限に効率化させているディストピアの実態は瓜二つだといえるだろう。

その共通性と、G2(米中)の「管理システム」としての冷酷な実態を整理してみるかい?

1. テクノロジーを駆使した「デジタルな人間狩り」

中国(ウイグル・チベット)
 顔認証カメラ、DNAサンプルの強制採取、スマートフォンへの監視アプリ強制インストール(「一体化統合作戦プラットフォーム:IJOP」など)により、AIが「不審」とみなした人物を自動的にリストアップし、拘束するんだ。君はそんな社会に住みたいと思うかい?俺は御免だ。
米国(ICE)
イーロン・マスク🔗の盟友でもあったピーター・ティール🔗などが設立したパランティア🔗社などビッグデータ解析企業のシステムを使い、移民の顔認証データ、運転免許証の記録、公共料金の支払い履歴までを横断的に監視・追跡しているわけだ。
さらに、拘束の代わりにスマートフォンのGPSアプリ(SmartLink)や足首のアンクレットで移民を24時間監視する「拘束代替プログラム(ATD)」は、まさに「物理的な壁のないデジタル牢獄」そのものだといっていいだろう。
ウイグルやチベットも御免だが、こっちも御免蒙るぜ。

2. 広大な「強制収容システム」のビジネス・官僚化

中国
「職業技能教育訓練センター」という名目で、ウイグル自治区などに巨大な強制収容所を建設し、何百万人もの人々を思想統制と強制労働の下に置いているという。実際には確認することは物理的に不可能だから、断言はできないけれど、そこから逃れてきた亡命者の証言などから類推すると、事実らしいぞ。
米国
ICE🔗は全米に民間の「移民拘束センター(インテンション・センター)」を多数展開している。
日本人の俺からすると、公共セクターの施設を民間が運営するってこと自体が、ちょっと衝撃だ。これらは民間刑務所企業が運営しており、「移民を拘束すればするほど企業が儲かる」という最悪の資本主義=監獄ビジネスと結びついている。劣悪な衛生環境、医療の不備、家族の強制隔離など、人道上の危機が常に批判されているのも当然だろう。なんせ私企業は利益を最大化するために存在しているんだからな。

3. 「他者化(アザーリング)」による人権の剥奪

どちらのシステムも、特定のグループを「国家の安全を脅かす危険分子」または「法を犯す犯罪者」として徹底的にラベル貼り(他者化)することで、一般市民の同情を断ち切り、人権侵害を正当化している。

中国は「宗教的極端主義の排除」、つまりイスラム教徒の改宗・排除を掲げ、米国(特に右派・マスキズム的政治勢力)は「不法移民による国境の侵略」というナラティブを煽る。
結果として、法の適正手続き(デュー・プロセス)を無視して人間を拘束・排除する仕組みが完成しちまうという、世も末な状況になっているわけだ。
新自由主義が行きついた果てのアメリカ合衆国と国家権威主義の極みである中華人民共和国は、国境の管理やマイノリティの統治という「国家の最も暴力的な側面」において、まったく同じテクノロジーと論理を共有しているといえるだろう。まさに太平洋を挟んだ合わせ鏡のようにね。

これにレヴィ=ストロース🔗の二項対立構造を当てはめてみようかな(笑)

両者の違いは単なる分裂生成にとどまらず、その家族システムと歴史に由来しているけれど、まるで太古の爬虫類のイクチオサウルス🔗と現代のイルカのようにそっくりだ

分類学(系統)としては全く異なる爬虫類と哺乳類が、「海で生き抜く」という同じ環境圧(淘汰圧)にさらされた結果、ヒレや流線型の体型という同じ「構造(かたち)」へと収斂していったわけだ。
まさに、家族システムや歴史という「固有の遺伝子(系統)」が全く異なるアメリカと中国が、「デジタルテクノロジーによる大衆統治」という21世紀の環境圧の中で、全く同じ「監視システム」のフォルムへと収斂している現実が、社会統治システムの収斂進化として表れているんだ。

ここにレヴィ=ストロース🔗の「二項対立構造の変換関係(数式化)」を当てはめるのは、最高にスリリングな思考実験だ。君たちとぜひ一緒に数式(マトリクス)を組んでみようじゃないか。

1. 表面的な二項対立のセット(近代の神話)

まず、俺たちが信じ込まされてきた、歴史や家族システムに由来する「表層の二項対立」はこうだな。

  • 【アメリカ型(西側)】:自由主義 / 個人主義 / 市場(テック企業)主導 / 資本の最大化
  • 【中国型(東側)】:全体主義 / 家族・共同体主義 / 国家(共産党)主導 / 体制維持の最大化

レヴィ=ストロース🔗の『神話論理🔗』風に言うなら、この両者は「反転・対称の関係」としてきれいに構造化されている。

家族システムで言えば、個人の自由を尊ぶ西側の「核家族を基本とした緩やかな親族関係」と、共同体家族制的な統治をベースにする東側の「強固な共同体家族システム」の対立が、そのままテクノロジーによる統治形態の差(市場vs国家)に変換されているように見えるよね。

2. 「変換の論理」による構造の収斂(イクチオサウルスとイルカ)

しかし、ここに「デジタル、つまりアルゴリズムによる行動制御」という強力な変数を投入すると、あら不思議、二項対立の軸がグニャリと反転(変換)し、同じ結論へと収斂することになるわけだ。

レヴィ=ストロース🔗の有名な「神話の公式」を緩やかに応用するしてみると、以下のような反転構造が起きていることになるようだ。

  • アメリカ:「個人の自由(A)」を極限まで追求した結果、ビッグ・テック企業による「個人の行動の完全な予測・支配(B)」へと反転した。
  • 中国:「国家による全体統治(B)」を極限まで追求した結果、デジタル技術を用いて「個人を細部までスコアリングして管理する(A)」へと至った。

つまり、「自由から入って管理(奴隷化)に至る」西側と、「管理から入って個人の内面に至る」東側は、ベクトルの向きが真逆なだけで、「人間をデータに還元して統治する」という構造の位相(トポロジー)としては完全に同一(同相)になっているわけだ。

だから何なのさって言われたら、まぁ思考実験というか知的なお遊び意外な何物でもないが、構造としてはそういうことだってことだよ。