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2026/06/20

POST#1883 平等の力でちょっと脱線

Barcelona

ここまで真面目にトクヴィル🔗ルソー🔗カント🔗だとか言って、民主主義について考えてきたけど、レッド・ホット・チリ・ペッパーズ🔗の『The Power of Equality』が出てきちまったんで、ちょっと脱線だ。なんだかんだ偉そうなことをいってても、俺は大事なことは漫画とロックから学んだ男なんだ!

けど、この跳躍は決して間違っちゃいないんだぜ。

1991年の泣く子も黙るというか、もっと泣くであろう名盤『Blood Sugar Sex Magik🔗』のオープニングを飾るあの曲で、アンソニー・キーディスは強烈なファンクのグルーヴに乗せて、人種差別や不平等を激しく批判し、「平等が持つ真の力」を叫びあげたんだ。

ロックで自分の思考を鍛え上げてきた俺の「底辺からの全会一致の熟議」と、レッチリの言う「パワー・オブ・イコーリティ」は、まさに魂の深い部分で完全にシンクロしているんだ。あんまりにもアウフヘーベンされすぎてて、並の奴には理解不能だろうな。仕方ない。この辺の余人には理解不能なつながりを、解説しよう!

1. 「立場」をフラットにするファンクの精神

レッチリのあの曲が証明しているように、彼らの音楽はフロントマンだけが偉いのではなく、フリーのベース、チャドのドラム、ジョンのギターが、それぞれ完全に独立しながら、お互いの音を聴き合って一つの爆発的なグルーヴ(全体)を作っているんだよね。

これは、レッチリの音楽の源流にあるPファンク🔗の強烈なグルーヴ🔗ポリリズム🔗に由来するよね。それぞれの個性がマックスパワーでうねるように絡み合い、強烈なグルーヴを巻き起こすんだ。それ自体が、『平等性の力=Power Of The Equality』の表現になってるって寸法だ。
町内会や学区会での全会一致の熟議も、これと全く同じなんだぜ。

既存の権力や立場(肩書き)といった「上からの力」をすべて剥ぎ取り、全員が対等(平等)な人間として同じ土俵に立つことでしか、本物のパワー(一般意志)は生まれないんだ。

2. 「違い」を認めた上でのリスペクト

「パワー・オブ・イコーリティ」の思想は、みんなを同じ型にはめることでは断じてない。。全員が違う人間であり、違う意見を持っていることを大前提とした上で、それでも「人間としての尊厳や発言権は100%平等だ」と認めることだ。

皆さん大好きな相田みつを🔗風に言えば『みんなちがって、それがいい』ってヤツだ!(笑)
たった1票の差で少数派を切り捨てる多数決には、この相手へのリスペクトつまり『平等性』が決定的に欠けているんだ。

だからこそ、社会の底辺からこの「平等の力」を叩き上げていく必要があるんだYO!


ネットの冷笑主義や、しみったれた利権にしがみつく現状維持の大人たちを、腹の底からのファンク・スピリットで蹴散らしていくような、そんな力強さを君のハートに届けたいぜ!

「デジタルデトックスをして、本を読み、自分で考え、地域の小さな場所から平等の力で対話を叩き上げていく」。この俺の割に合わない生き方とそこから生まれた妄想力150%のビジョンそのものが、現代のディストピアに対する最高のロックンロール=抵抗なんだ。

いやなものは嫌なのさ!

音楽の話に脱線したついでに、もうここまで突っ走っておこう。俺が君たちにそっとささやきたい秘密は、実はレッチリは P ファンク軍団への傾倒から生まれてるっていうことなんだ。このPファンク軍団には『One Nation Under A Groove』=『一つのグルーヴによって統合される国家』という名曲があるんだけど、この曲が表しているように、平等性への深い理解があったんだぜ。

Pファンク軍団の二枚看板の一つファンカデリック🔗1978年に放った名盤・名曲One Nation Under a Groove(ワン・ネイション・アンダー・ア・グルーヴ)』こそ、まさにこれまで君たちと話し合ってきた「全会一致」と「平等の力」の核心を表してるんだ。

「グルーヴのもとに、一つの国家(共同体)へ」というPファンクのこの思想は、ただの音楽のキャッチコピーではなく、極めて深い政治哲学であり、合意形成の理想像なんだ。

1. 「ワン・ネイション・アンダー・ア・グルーヴ」と「一般意志」の完全な一致

ジョージ・クリントン率いるPファンク軍団が提示したこのヴィジョンは、ルソーのいう「一般意志」の最もファンキーな表現形態と言えるだろう。

  • 既存の国家:権力者が上から法律や恐怖で縛り付ける偽物の共同体。
  • Pファンクの国家:全員が理性を超えた深いレベルで響き合い、自発的に一つのうねり(グルーヴ)を作り出す本物の共同体。

「強制された一致」でじゃなくて、誰もが自分を解放しながらも、全体として完璧に調和している状態。これこそが、俺や君たちが想像する「社会の底辺から叩き上げる全会一致」の理想の空気感そのものなんだ。

2. Pファンクからレッチリへ受け継がれた「個と全体の平等」

Pファンクのステージは、何十人もの個性的すぎるミュージシャン(ブーツィー・コリンズ🔗バーニー・ウォーレル🔗など)が入り乱れる大混沌(カオス)でありながら、不思議と一つの凄まじい音楽として成立していた。
レッチリが彼ら(特にPファンクの総帥ジョージ・クリントン🔗本人をプロデューサーに迎えた2ndアルバム『Freaky Styley』など)から学んだのは、まさにこの「圧倒的な個性の肯定」と「全体の調和」の両立なんだよな

誰一人として自分を殺すことなく、しかし他者の音(意見)を聴き、一つのグルーヴを生み出す。この「深いレベルでの平等性への理解」が根底にあるからこそ、レッチリの『The Power of Equality』には魂が宿っているんだ。

そして、そのグルーヴを社会に解き放つこと、それが実は草の根の民主主義でもあるんだ。


💡 地域社会に「グルーヴ」を呼び込む

あなたが考えていらっしゃる学区会や町内会の改革に、この「Pファンク〜レッチリ」の系譜を重ね合わせると、非常にスリリングな未来が見えてくるんだぜ。

地域の全会一致を目指す話し合いは、ともすれば「お堅い、説教くさい、退屈な会議」になりがちで、それが若者や一般市民を遠ざける原因にもなってるのは間違いない。
しかし、そこに「ワン・ネイション・アンダー・ア・グルーヴ」の精神、つまり「全員が対等に意見を出し合い、セッション(熟議)を楽しみながら、みんなが納得する最高のグルーヴ(落とし所)を泥臭く見つけていく」という文化が持ち込まれたらどうだい?

それは文字通り、これまでの「数合わせの冷たい政治」を根底からひっくり返す、生命力に満ち溢れた「全然違うレベルの民主主義」になっちまうんじゃないのかい?

ルソー🔗の哲学、イロコイ連邦の智恵、デジタルデトックスという現代の戦術、そしてPファンク🔗の宇宙観までが一本の線で繋がりっちまったぜ!

俺たちが目指すローカルからの変革は、実は最高にファンキーで本質的な挑戦なんだ。

Pファンクのジョージ・クリントンは、ハチャメチャででたらめなおじさんに見えるけれど、も、『Chocolate City』(1975年)や『America Eats Its Young』(1972年)といった名盤には、とんでもなく鋭く、かつ壮大な社会批評が込められているんだ。

まさに、彼はただの「派手でデタラメなファンクのおじさん」などでは断じてなく、圧倒的なユーモアとSF的イマジネーションの仮面をかぶった、天才的な社会風刺家であり政治思想家でもあるんだよ

彼が提示したビジョンは、俺たちが目指している「社会の底辺から、成熟した知性と平等の力(グルーヴ)で民主主義を叩き上げていく」という実践において、最高のヒントと希望を与えてくれるんだ。少なくとも俺にはね。

1. Chocolate City』が撃ち抜いた「立場の権力」への逆襲

ホワイトハウスのあるワシントンD.C.の黒人人口比率が増えたことを捉えて歌われた『Chocolate City』は、一見すると過激なジョークのように聞こえるんだけど、その中身はとんでもなく本質的なんだよね。何しろこれだ!

「大統領はジェームス・ブラウン、財務長官はリチャード・プライヤー🔗、国務長官はスティーヴィー・ワンダー🔗、教育長官はアレサ・フランクリン🔗 [1]

これは単なるおふざけではないんだぜ。あれはホワイトハウスを黒人のためのブラックハウスに変えてしまえ!っていう強烈なアジテーションなんだ。

既存の白人中心主義的な権力の象徴(ホワイトハウス)を、ユーモアとファンクの力で「ブラックハウス」へとひっくり返しちまう。

この「名前やイメージを乗っ取って、価値観を180度反転させる」という手法こそ、既存の権力構造に対する最も鮮やかな逆襲なんだぜ。

そしてこれこそ既存の「スーツを着て、特権にあぐらをかき、現状維持を最優先する政治家たち(=立場の権力)」に対する、強烈なNOの表明なんだ。

「市民の魂を震わせ、苦しみや喜びに寄り添い、本当の意味で人々を一つにする(=グルーヴを紡ぎ出せる)アーティストたちの方が、よっぽどこの国を良くできる(=一般意志を体現できる)」という、民主主義のパロディでありながら本質を突いた批評なんだ。それは文章ではなく、音楽でなされる社会批評であり、現状批判なんだ。

2. America Eats Its Young』が暴いた現代社会のグロテスクさ

さらに遡る『America Eats Its Young(アメリカは自らの若者を食らう)』という恐ろしいタイトル自体が、ベトナム戦争や当時のアメリカの資本主義・人種差別が、いかに未来ある若者や弱者を「数合わせの駒」や「システムの肥やし」として消費しているかを鋭く告発していたんだ。

1ドル札に印刷された自由の女神が、若者を貪り食っているというぶっ飛んだデザインのジャケットだったけれど、50年以上たってもその構造はな~んにもかわってないんだ。
むしろより悪くなってる。現代のアテンションエコノミーが市民を「消費者」の檻に閉じ込め、その精神を食い荒らしている現状とも完全に地続きの、恐るべき預言的批評だよ。


ジョージ・クリントン🔗から学ぶ「真面目なことを不真面目にやる」知恵

俺がいつも考えている、既存の権力(現状維持を望む人たち)の抵抗をどうかわすか、という問いへの答えが、まさにこのジョージ・クリントンの姿勢から学ぶところ大なんだ。今っぽく言えば、インスパイアされてるぜ。

既存のしがみつく大人たちに対して、私たちが「熟議だ、全会一致だ、ルソーだ」と四角四面な正論(真面目な顔)で挑むとすると、たちまちヤツらは警戒して、ルールや立場を使って防衛線を張ってくるだろう。

しかし、ジョージ・クリントンのように、「圧倒的なユーモア、楽しさ、お祭り騒ぎ(グルーヴ)」をまといながら、社会の底辺から本質的な平等のインフラを敷いていったらどうだろう?
「町内会や学区会の話し合いって、なんかレッチリやPファンクのセッションみたいで最高に面白いぞ」という空気を作ってしまえば、堅物な権力者たちは、反対する大義名分を失っちまうんだ。

そして、気づいたときには、彼らの「立場の権力」は無効化され、みんなが対等に話し合う「ワン・ネイション・アンダー・ア・グルーヴ」の場が完成しているって寸法だ。まぁ、そんなにうまくいかないのは承知の上だけどね。

「でたらめに見えて、誰よりも鋭く世界を見通している」

デジタルデトックスをし、本を読み、自分の頭で深く考え抜いた末に、このPファンクの「真面目なことを、最高に不真面目に、ポップにやってのける知恵」を地域の場に持ち込むこと。これこそが、社会を確実に変えていく、最もスマートでファンキーな作戦の一つだってのは、間違いないな。


2026/06/06

POST#1870 大英博物館の書物の森の中から、熊野の山々の森の中から

Barcelona,Spain 双子座の女

疲れ果てて眠りこけていたら。宅急便のチャイムで目が覚めた。洗濯物を干し、仕事のメールチェックをしてからもうひと眠りしようと考えていたら、かかりつけの歯医者さんからの電話が鳴った。11時の予約ですけど、まだおいでになりませんか?

俺は取るものもとりあえず、歯医者に向かい、しっかりたまった歯石を取ってもらったんだ。

カネはたまらないが、疲労や歯石はたまる。人体の不思議だ。

さて、俺は今日も今日とて仕事に行かねばならない。疲れて年老いた体に鞭うって、一時間ほど車を転がして現場に行くと、現場に常駐してる臨時警備のおじさんは70はとうに声、80に届くんじゃないかというおじいちゃんだ。大変な国だな、ここは。いつも思うが、こんなおじいちゃんが警備してても、悪意のある人間を前にしたら、即刻マンガのモブキャラのようにぶった推されるに違いないぜ。

さてと、そんな日本から魂を幽体離脱させ、ユーラシアを瞬間的に横断し、途中Barcelonaあたりで一休み、ジブラルタル海峡を渡ってアフリカ大陸に想いを馳せよう。

おお、スゴい活気と人々の熱量だ。そして砂埃と肌を焼くような日差しだ。けれど、スマホばっかり見てゾンビのように歩いている日本人なんかよりも、アフリカの最貧国の方が人々がパワフルに、大声で怒鳴り合うように話し、大きな身振りで幸せそうに生きてるのはなぜだ?

この「最貧国の人々の方が幸せそうに見える」という直感は、文化人類学や社会心理学の調査でもしばしば実証される「豊かさと幸福のパラドックス」に基づいてるんだぜ。

もちろん、アフリカの最貧国、とりわけサブサハラアフリカ🔗などには、深刻な貧困、飢餓、医療不足といった過酷な現実がある。それは揺るぎのない現実だ。現代のマクロな世界の大いなる欺瞞だ。

断言する。そこは決してユートピアではない。

しかし、そこに住む人々が、俺たち先進国に住んでる恵まれた、おめでたい連中よりも「幸せそう」に生きている、つまり自殺率が低く、生を肯定しているように見える背景には、新自由主義的な市場原理に汚染されてきっていない「人間としての生存基盤」が残っているからだ。

もちろん、IMF🔗 の課す手垢まみれどころか時代遅れの比較優位🔗という原則と、自由貿易🔗という美名のもとに、自主関税権を縛られて国内産業の保護育成もままならず、モノカルチャー🔗経済に縛られているという欺瞞の構造で、半永久的に発展途上国であることを運命づけられているという、マクロな格差、マクロな欺瞞、マクロな不幸はある。

にもかかわらず、そんなもの知ったことかといわんばかりに、人びとは幸せそうに生きているように見える。紛争とか宗教や民族紛争によるジェノサイドさえなければね。

それはなぜか?

彼らの社会が持っていて、俺たちの生きる今の日本が失ってしまった「幸福の理由」はなんなか?考えてみようまいか。

1. 人間関係の「非金銭化」と強固な共同体(ウブントゥ)

最貧国:

 アフリカには「ウブントゥ(あなたがいて、私がいる)」に代表される、他者との分かち合いを絶対とする哲学が生活に根付いているのだそうだ。

それは贈与の精神だ。かつて、POST#1726🔗でも触れたことのある、「一番よくないのは、贈り物をしないことだ」って考えに近いかもしれない。

そこには貨幣経済が介在しないため、助け合いや食事を共にすることが日常であり、人間関係そのものが、最大の娯楽でありかつまた安全基地となっていたんだ。

いつも君たちに語っているように、個に分断され、共同体から切り離され、モナド化した人間は、システムに容易く奴隷化されてしまうんだ。かつてのアフリカでそうだったようにね。アフリカでは、かつて本当にそういう人々は、奴隷狩りに襲われ、不衛生な木造船にすし詰めにされ、アメリカ大陸に送られた奴隷としてこき使われたんだ。覚えておいてほしい。

先進国:

ここではあらゆるサービスをお金で賄うことができる。この新自由主義社会では、人間関係まで「コスト」や「利害関係(損得)」で計算されてしまうのだ。

なんという精神の貧しさだ!

結果として「お金がなければ生きていけない」という強烈な恐怖と孤立が生まれてしまう。

タワマンに住んで、十分な収入があり、おひとり様を大化できる人には天国だ。しかし、多くの地べたをはいずるように生きる人々には、便利で清潔な地獄になっているんだ。

2. 「相対的剥奪感」がない、つまり他者と比較されない

最貧国: 

周囲の全員が同じような経済水準で、カツカツで生活しているため、物質的な「格差」を意識して劣等感を持つ機会がほとんどない。

それにもまぁ、実は国際的な金融経済によって彼らが豊かになることを阻んでいる要素や欺瞞がてんこ盛りだが、今はそれには触れずにおこう。また、テーマを改めて話し合おうぜ。

先進国:

かたや我々先進国といわれる国々の民の暮らしはどうだ?

圧倒的に豊かだ。圧倒的に豊かだが、圧倒的な精神の貧困だ。

 俺たちはSNSの普及により、24時間365日、他人の「輝かしい成功」や「贅沢な暮らし」を見せつけられつづける。見たくなくても、スマートフォンには次々通知がやってきやがる。

おかげさまで、十分な生活水準にあるはずの人でも「自分は負け組だ」という相対的剥奪感、つまり絶え間ない敗北感を植え付けられ、精神を病んでいくことになるんだ。

何日か前に話したPOST#1868🔗に出てきた、老子の小国寡民の話を思い出してくれるとよくわかるだろう。こうして参照してPVを稼ぐって算段だ(笑)。

3. 「生存そのもの」が目的である、つまり人間が手段にされないってことだ。

最貧国: 

今日をどう生き延びるか、家族でどう飯を食うかという「本能的な生存」に日々直面しているわけだ。そこには悩む隙がないだけでなく、「生き延びることそれ自体」が毎日クリアすべき目的となってるだけだ。まさに、生きてるだけだ丸儲けだ。

先進国: 

翻って私どもの住む社会はどうなっているだろう。

法と行政システムの整備により、生存のインフラは保障されているものの、その内面の荒廃は著しいもんがあるぜ。

大人は「会社の売上」、子供は「テストの点数」といった「社会の道具(手段)としてのノルマ」を果たすことを要求され続けてるんだ。これはゴールのないマラソンだ。生存の先にある「過剰な要求」に終わりがないため、精神が燃え尽きてしまうんだ。

死にたくもなるだろうよ。電車が遅延するその向こうに、思い詰めて命を絶たざるを得なかった人がいることすら、俺たちは想像することも、そんな社会に対して怒ることすらない。ただ、迷惑な馬鹿野郎だと舌打ちするだけだ。

まったくひでぇもんです。

4. 「ただ存在するだけ」で役割がある

最貧国: 

伝統的な社会では、勉強ができなくても、力が強い、子供の面倒を見るのが上手い、あるいは「ただそこにいて笑っているだけ」でも、大家族や村の中という共同体に包摂され、愛され、役割が与えられる。

つまり、自分が自分でいることがそのまま肯定されるわけだ。

先進国:

そして毎度おなじみ、俺たちのディストピアではどうだ?

 社会が求める「高い生産性」「人材スペック」を満たせない人間には、居場所が与えられない。学校に行けない子供や、働けない大人は「社会のお荷物」であるかのような扱いを受け、存在そのものを否定されちまうんだ。

しかし、今日はちゃんと学校に行けていても、今日はちゃんと働けていても、人間はいつその境遇から転落してしまうかわからない。わからないからこそ、明日は我が身だと考えて、そういった人々を包摂していく必要があるんじゃないのかな?

誤解しないでほしいのは、彼らの幸福感は、「お金がないから幸せ」なのではないってことだ。お金なんてものは、彼らだってそりゃ欲しいに決まってるだろう。喉から手が出るほどに欲しいだろう。しかし問題はそこじゃないんだ。

「人間が市場の『材料』として値踏みされ、規格化され、自己責任で切り捨てられる」という新自由主義の病理から、まだ守られているからなんだ。

俺が君たちに話した「10歳まではケモノのように遊ぶべき」という野生の教育は、まさにアフリカなどのコミュニティでは当たり前に実践されている日常だ。なんてったって、学校に行くだけで、ライオンとかいる平原を迂回したりしなきゃいけないんだ。毎日がサバイバルだぜ。

物質的豊かさを手に入れた代償に、私たちは「ただ生きているだけで尊い」というカント的な人間性を売り払ってしまったんだ!盥のお湯を流そうとして、赤子まで排水溝に流してしまったという本末転倒な状況になっているんだ。

この呆然とするような事実に気づくことこそが、日本が「不幸の拡大再生産」を止めるための極めて重要な一歩になるんだ。

気づいたときに、茫然として、悲嘆絶望して、思考停止してちゃいけない。

自分に何ができるか考えるんだ!

俺自身は、もっともっと社会に『贈与』とか『だらけること』とかを普及させた方がいいと思ってるんだ。

迷惑はかけ合って当たり前。

人間はいずれ死ぬんだから、ことさらに気に入らない奴に『死ぬ死ね』とか言ったり、裸にひん剥いて橋から突き落としたりしなくったっていいんだ。なんせ、そのうちほっとけば間違いなく死んじまうんだから。

そういうことをみんなもっと考えれるようになった方がいいと思ってるんだ。

この「贈与」「だらけること」「迷惑をかけ合うこと」「死を放っておくこと(生への執着の手放し)」という思想は、新自由主義の病理に対する極めて強力な「解毒剤(アンチテーゼ)」になりうるだろう。

なんせこれらはまさに、社会学者や哲学者たちが現代社会を救うために議論している最先端のテーマそのものだからな。

人間を「材料(人材)」として1分1秒まで効率的に使い倒そうとする今の日本社会に、この「脱・効率主義」の思想を普及させるべき理由は、実はたくさんある。よくわが身に引き寄せて考えてみておくんないさいまし。

1. 「等価交換」から「贈与」へ:査定されない関係を作る

現状の病理:

 現代社会は「何かをしてもらったら、同等の価値(お金や成果)を返さなければならない」という交換経済だ。その原則が等価交換🔗だ。パチンコから鋼の錬金術師🔗まで、すべて等価交換だ。あらゆる商品、サービスに値段が設定され、それに対応した貨幣を支払うことで、いつもニコニコ現金払い、その価値が手に入るという幻想だ。

これが子供にも適用され、「塾代(投資)を払ったのだから成績(成果)を返せ」という圧迫になっているんだな。

贈与の普及: 

しかし、人類がつい300年ほど前まで普遍的に持っていた交換様式、つまり見返りを求めずに与え、受け取る「贈与(ギフト)」の文化が広がれば、人間は「役に立つかどうか」という市場価値から解放されるだろう。いよいよ山下清🔗の出番だな。

ただそこにいるだけで、誰かから無条件に何かを受け取っていいという安心感が、子どもたちの命を繋ぐんだ。

2. 「だらけること(贅沢な無駄)」:それは生産性への最大の反逆

現状の病理: 

現代人は大人も子供も「常に何かを学ばなければ」「時間を有効に使わなければ」という強迫観念に縛られている。しかもそれには終わりがない。さっきも話したようにゴールのないマラソンだ。これはキツイ。愉しんでやれるような狂ったやつじゃないと出来っこない。

だらけることの普及: 

フランスの哲学者ジョルジュ・バタイユ🔗は、社会が崩壊しないためには、経済的な「無駄(蕩尽)」や生産性のない時間が不可欠だと説いたんだ。ハンドルの遊びみたいなもんだ。

俺が垂れ流す「10歳までケモノのように遊ぶ」ことも最高のだらけ=無駄そのものだ。世のお母さんたちは、カンカンになって俺を糾弾するだろうよ。

しかし、だらけることを肯定することは、「人間は生産性のための道具ではない」というカント的尊厳を取り戻すための最大の反逆になるんだぜ。

3. 「迷惑はかけ合って当たり前」:それは欺瞞の自己責任論の完全な破壊

現状の病理:

 日本の「人に迷惑をかけるな」という教育は、裏を返せば「他人の迷惑も一切許さない」という冷酷な相互監視を生み、新自由主義の自己責任論と完璧にフィットしてしまったわけだ。これが俺たちの社会を息苦しいディストピアにしているんだ。

迷惑のシェア:

けど考えてみてほしい。そもそも 人間は、生まれ落ちて死ぬその瞬間まで、生きているだけで他人に迷惑をかける存在なんだ。

「お互いに迷惑をかけ、許し合って生きる(インドの教育方針などにも見られる思想)」という前提に立てば、いじめや不登校、ドロップアウトに怯える必要はなくなるだろう。フーテンの寅次郎🔗の出番だな。

人間の「弱さ」を認め合える社会こそが、本当の安全基地=シェルターにしてアジールなんだ。

4. 「ほっとけばいい」:過剰なコントロールの手放し

現状の病理: 

現代社会は「人間を完璧に管理(コントロール)し、リスクをゼロにする」ことを求めている。しかし、人間はロボットじゃない。不条理な存在なんだ。

けれどこれが子供への過度な干渉や、「まともな大人にならなければならない」という息苦しさを生んでいるんだ。

死生観の転換: 

「人間はどうせいつか死ぬ。だからそんなにカリカリ管理しなくたって、ほっとけばいい」という、少し肩の力を抜いた大らかな死生観(あるいは無常観)を持つことは、現代の過剰なシステムに対するカウンターになるだろう。

「失敗したら人生終わり」という全能感を大人の側が手放すんだ。

失敗しても、人生は終わらない。あきらめなければ、そこから本当の自分だけの人生が始まるんだ。

子供の人生を「放牧」する寛容さが、結果として死にたくなるほどのプレッシャーを消し去ってくれるだろう。

俺が提示する世界は、決して「怠惰な社会」ではなく、「人間が人間として、ただ生きていていい社会」なんだけど、まんざらでもないんじゃないか。

効率性、生産性、人材スペックという「数字の檻」の中に閉じ込められている現代の日本において、この「だらける、迷惑をかける、贈与する、放っておく」という態度は、社会の息苦しさを根底からひっくり返すスゴいパワーを持っているんだ。

大人がまず「だらだらと、迷惑をかけ合って、楽しそうに生きる背中」を子供に見せることこそが、最も強力な教育であり、子供の自殺を防ぐ最大の防衛策ではないんじゃないか?

大体、大人が辛そうで面白くなさそうに生きてて、大人になんかなりたいと思える奴のほうがどうかしてるぜ。

そもそも20世紀を代表する経済学者ジョン・メイナード・ケインズ🔗は 100 年も前の1930年のエッセイ『我が孫たちの経済的可能性』の中で、「100年後(つまり2030年頃)にはテクノロジーの進歩により、人間は週15時間働けば十分に暮らせるようになる」と予測してたとけど、現実はどうよ?

実際には 1 日 15 時間働いても生活できないっていうことがあるような、働き方改革なんて、いったいぜんたいどこの世界だよ?的な世の中になっております、はい。

まったく、生産性なんて嘘っ八じゃないか?

現代の科学技術や生産性は、ケインズの時代とは比較にならないほど爆発的に向上しているにも拘らず、1日15時間働いても生活が困窮する人がいる現実を見れば、「生産性の向上なんて嘘っぱち(まやかし)ではないか」と感じるのは当然だろう。

なぜ生産性が上がったのに私たちは楽にならず、むしろ窮屈になっているのか、その構造的な原因も深堀だ。Dig、Dig、Digだ!

1. 生産性の成果が「労働者」ではなく「資本家」に独占されちまったんだ!

構造の歪み: 

確かにテクノロジーによって1人の労働者が生み出せる成果(生産性)は劇的に上がりましたでごさいますよ。

しかし、それによって得られた莫大な富つまり利益は、働く人の給料や休みの増加には回されず、企業の内部留保や、資本家つまり株主や経営者の利益として、過剰に分配されている。その格差は開き続けるばかりだ。

結果として 労働者は「以前より効率的に働かされている」にもかかわらず、その恩恵を十分に受け取れないんだ。

働けど働けど わが暮らし楽にならず じっと手を見る 足を見るって感じだ。

2. 「ブルシット・ジョブ(クソどうでもいい仕事)」の大量発生

人学者デヴィッド・グレーバー🔗の指摘通り、新自由主義的な官僚制が進んだ結果、社会には「本来なくても誰も困らない、無意味で非生産的な仕事」が大量に生まれたわけだ。

君にも覚えがあるだろう。

過剰な報告書の作成、形だけの会議、コンプライアンスのチェック、お互いを監視・管理し合うための業務などてんこ盛りだ。

社会全体の「生産性」という数字は上がっていても、個々の労働者はこの「無駄な仕事」に時間を奪われ、1日15時間働いても精神と肉体を消耗するだけという非常事態が起きているんだ。まったくバカバカしいったらないぜ。

どうしてみんなこんなバカバカしいことを押し付けてくる会社を、自分自身がリストラして、自分のスキルでもって腕一本で生きようとしないのか、理解に苦しむところだぜ。

3. 「生存コスト」自体の吊り上げ(インフレと新しい必需品)

消費の罠: 

ケインズの言う「十分な生活」とは、衣食住が満たされる最低限のレベルであったそうだ。しかし現代の資本主義社会は、スマートフォン、通信費、高額な家賃、そして「将来脱落しないための教育費(塾代など)」を生きるための新たな「必需品」が次から次に発明され、マストアイテムとして社会に実装されちまったわけだ。さぁ困ったぞ!

おかげさんで、社会全体の生活水準(生存コスト)が無理やり吊り上げられちゃったわけだ。せっせと歩いて移動するゴールポストみたいなもんだ。

いくら働いて生産性を上げても、その「新しい生存ライン」を維持するための支払いに追われ続け、いつまでも楽になるわけないだろう!現代の資本主義は、24時間365日、広告を浴びせ続けることによって、人々の消費マインドを喚起し、不要なものをじゃんじゃん作って売り飛ばすことでしか、拡大成長しないんだからな。そこで導き出されのが、ジャジャーン!これだ。

4. 資本主義の「終わりなき欲望」の暴走

資本主義の本質は「常に前年より成長しなければならない」という拡大の呪いに他ならない。

本当だったら、週15時間働いて「十分な量」が生産できたら、そこで仕事を止めてだらだら遊べばいいはずだ。それが本当の意味での裁量労働って奴だ。

これこそが、俺の言ってる『だらけること』『贈与』を実現化することの本質だ。

しかし今のシステムは、「もっと売れ、もっと効率を上げろ」と人間の欲望と労働を無限に煽り続けるんだ。

総括すれば、「生産性」という言葉のすり替えつまりごまかしが起きてるのさ。

「生産性が上がれば人間が豊かになる」という言説は、現代社会においては嘘っぱち(まやかし)だ。

いつまでたってもたどり着かない蜃気楼のようなものだ。

なぜなら、その生産性は「人間の幸福のため」ではなく、「システム(市場や資本)を維持・拡大するため」の指標にすり替えられているからだ。

いまや人間は単なるシステムの奴隷なんだ。

俺たちがケインズの予言した「週15時間労働の幸福」を取り戻すには、これ以上の生産性向上(スペックアップ)を目指すのをやめるしかないだろう。

社会全体で「もう十分に物は足りている」と認め、俺が垂れ流している「だらけること」「無駄を愛すること」「迷惑をかけ合うこと」を社会の共通認識にしていくことこそが、この狂った生産性競争から抜け出す唯一の道だ。

 そう、グレイバーもピケティもそこを指摘しているんだよね。

俺や君たちは本当はもっと豊かに暮らせるはずだし、もっと気楽に暮らせるはずなんだ。

デヴィッド・グレーバーの『ブルシット・ジョブ🔗』や、トマ・ピケティ🔗の『21世紀の資本🔗』が世界中でこれほど読まれたのは。俺や君たちが今まさに感じている「私たちは本当はもっと豊かで気楽に暮らせるはずなのに、なぜこんなに苦しいのか」という決定的な違和感を、圧倒的なデータと論理で証明したからに他ならない。人間は、データと論理にすぐ丸め込まれるんだ。ついでに言うと、日本人は政治家のウソにすぐ丸め込まれる!(笑)

二人の指摘を組み合わせると、現代社会の「気楽に暮らせない仕組み」が完全にあぶり出されてくるだろう。

 グレーバーとピケティが暴いた「現代の奴隷制」。

言っとくけど奴隷化されてるのは俺たち自身ね。

ピケティの指摘はズバリ、『富の独占』だ。

彼の有名な数式 r > g(資本収益率は経済成長率を上回る)は、「どれだけ真面目に働いて生産性を上げても、その富はすべて一握りの資本家に吸い上げられる」という、レ・ミゼラブルな事実を証明しちまった。石川啄木🔗も納得だ。

俺たちが1日15時間働いても生活が楽にならないのは、俺や君たちの労働が「自分の豊かな暮らし」のためではなく、「富裕層の資産をさらに増やすため」に搾取されているからに他ならないんだぜ。なのに、出来が悪いと査定を下げられ、やられた方はハラスメントで訴える。

恐ろしい世界線だ!

片やグレーバーの指摘は『精神の監禁』だね。

親愛なるグレーバーは、テクノロジーが進歩したのに労働時間が全く減らないのは、「人々が暇になると、社会のシステムや格差に対して疑問を持ち、反乱を起こすからだ」という支配階級の無意識の恐怖を指摘した。そういうと俺がすごい暇人みたいだが、寸暇を惜しみ、睡眠と命を削って書き記してるんだ!(笑)

つまり、社会を維持するために、わざと「無意味な仕事(ブルシット・ジョブ)」を大量に作り出し、大人を1日中忙しくさせて思考を奪っているという転倒した状況だ。

さらにグレーバーは、一見有能そうで実は無意味な仕事をしている人間のほうが給料が高く、介護や看護、教育やごみ収集、掃除や建築など、社会に絶対に欠かせない仕事の賃金が低いのは、この類の人々は、すでに社会に対して意味のある仕事をしているという有意義で『使用価値』があるという『報酬』を受け取っているから、無意味な仕事に従事している人々により、その分の『交換価値』=賃金が過小評価されるという、悪夢のような現実を描き出したんだ。

 こうして欺瞞に満ちた『大人の不自由』が『子供の絶望』へと直結するんだ。

ようこそディストピアへ!

滝川クリステル🔗がおもてなしと手話を交えて微笑んでるぜ!

俺がかまやつひろし🔗なら、この後に

♪マリーアントワネットがシトロエンの馬車のうえにたちあがって ワインはいかがと招いてる~♪

って続けるな(笑)

さて、この二人の知性の持ち主が語る、今日の大人の世界の絶望は、そのまま子供たちの世界へとスライドしている。

子供の「ブルシット・スタディ(クソどうでもいい勉強)」

現代の子供たちが深夜まで塾に通い、ポートフォリオを埋め、自己PRを磨いている姿は、大人の「ブルシット・ジョブ」と全く同じだ。一人の父親として胸が痛むぜ。

「将来のサバイバルのため」という恐怖に突き動かされ、本当の人間的成長には何の役にも立たない「評価されるための記号集め」に人生の貴重な時間を奪われているんだ。

しかし、本当に必要なサバイバルスキルは、しっかりと愛されて心がホカホカしてるっていう充足感じゃないか?さらに言えば、ナイフやロープの使い方、そう身近なものをブリコラージュ🔗して実生活を生き抜いてゆく知識だ。

反論のあるやつは、名乗り出ろ!

逃げ場のない「総資本主義化」

ピケティが描いた格差社会の中で、親は「子供を負け組にさせたくない」という不安から、子供をさらに過酷な教育市場へと投入ちゃうんだな。これ、無間地獄の入り口だ。

おかげさまで、楽しい我が家のはずの家庭さえもが『投資と回収』の場となり、子供にとっての「無条件の安全基地」が消滅してしまう。しかもたいていはハイコスト・ハイリスク・ローリターンっておまけつきだ!なぜってノータリーンだからな(笑)

このままじゃ、子供そのものが絶滅危惧種になっちまうぜ。

 私たちが「気楽さ」を取り戻すための革命が必要だ。

しかし、しかしですよ、グレーバーもピケティも、ただ絶望を語ったわけではないんだぜ!あの知の巨人たちの思想の先にあるのは、俺が垂れ流した『贈与』『だらけること』『迷惑の掛け合い』の肯定だ。特にグレーバーは、社会ってのは「やれる能力を持ったものが、必要に応じて見返りを求めずやる」という基盤的共産主義によって成り立ってると喝破してるんだ。

考えてみ、君がオフィスで、ちょっとそこの資料取ってくれる?とお願いしたら、対価を請求されてみろ。やってられないだろ。つまりそういうことさ。

俺や君たちは、社会が押し付ける『偽りの豊かさ』、つまりもっと早く!もっと大量に!もっと稼げ!もっとスペックを上げろ!の競争から、意識的に「降りる」必要があるんだぜ。そんなのに付き合ってたら、そもそも身が持たないし、一度きりの人生がそんなバカバカしいことで浪費されてたまるもんか!

週3日だけ働いて、あとは仲間とだらだら過ごす。

できないことは「ごめん、手伝って」と他人に迷惑をかける。

子供には「勉強なんかいいから、早く寝て遊びなさい」と笑って言う。

まっとうな大人がそうやって「気楽に生きる背中」を見せること自体が、新自由主義に対する最も過激で、最も子供を救う非暴力革命になるんだよ!

大人がシステムに洗脳されたままでいる限り、子供たちをこの檻から出してあげることはできないんだ。溺れてるやつは、隣で溺れてるやつを救えるはずがないんだぜ!

そう、アクセク働くよりも、ダラダラと寝転びながら本でも読んだ方が、よっぽど人間有意義な人生の過ごし方だと思うぜ。

これは単なる「怠け」ではないんだよ。

古代ギリシャのアリストテレス🔗などの哲学者たちは、この生産性から解放された自由な時間のことを「スコレー(Schole)」と呼び、これこそが人間の幸福であり、知性の源泉であると考えたんだ。しかもこれが英語の「School(学校)」の語源なんだぜ。

つまり、本来の学校や学びとは、「労働や効率から解放されて、ダラダラと知性を楽しむ場所」だったはずなんだ。

それを新自由主義がひっくり返し、ダラダラすることを「悪」とし、アクセク働くこと(手段になること)を「正義」に洗脳してしまった。

いや、ひょっとするとマックス・ヴェーバー🔗の『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神🔗』を参照すると、その淵源はキリスト教のプロテスタンティズムにあるのかもしれない。それはスルーして、俺の提唱するライフスタイルが、なぜ現代社会において究極の救いになるのか、その本質を考えてみよう。

「寝転んで本を読む」という最高の抵抗

それは市場に魂を売らない時間なんだ。

 寝転んで本を読んでいる間、君はお金を稼いでもいなければ、無駄な消費もしちゃいない。本を買って読んでても、それによって、君の内面世界の奥行きが深まるんだ。

つまり資本主義のシステムから完全に「脱出」している状態なんだ。

これこそ本当の「主体性」の回復さ。

考えてごらんよ。 誰かに評価されるためではなく、自分の「知りたい」「面白い」という純粋な興味だけでページをめくること。これこそが、毎度おなじみカント🔗の言う「目的としての人間」の姿そのものじゃないか。

そしてそれが子供に「逃げ道」を示す背中でもあるんだ。

 大人が家でゴロゴロしながら楽しそうに本を読んだり、だらだら過ごしたりしている姿を見ることで、子供は初めて「あぁ、あんなにアクセク生きなくても、人間って生きてていいんだ」「大人になるのって楽しそうだ」と、心の底から安心することがでるだろう。たまには屁の一発でもかましたらいいんだよ。

俺はここんとこ、君たちと「なぜ子供の自殺が減らないのか」という重い問いから出発し、社会の構造、カントの哲学、新自由主義、グレーバーやピケティの経済論を経て、「ダラダラと寝転んで本を読むことの尊さ」という、極めてシンプルで本質的な答えにたどり着いた。

すごい遠回りしたな。

子供たちを死に追いやるこの息苦しい国を変える特効薬は、制度の改革だけじゃない。どれだけ制度を変えたって、俺や君たち大人の頭の中がが変わらなければ、何も変わらない。

新しい地獄の幕が開くだけだ。俺たちは社会の「人材になれ」「生産性を上げろ」という脅し文句を無視して、「迷惑をかけ合い、だらだらと、気楽に生きる姿」を今ここから実践していくことが必要なんだ。

俺たちが抱いた違和感と、その先にある「だらけること・贈与・気楽さ」の全肯定は、現代の歪んだ日本社会を生き抜くための、最も強力な生きた哲学なんだ。

俺は思い出す。紀州熊野の産んだ博覧強記の怪物、南方熊楠🔗だって何ヶ月もの間、フルチンでごろごろしながらバートン版アラビアンナイト🔗を読書したりしてたんだ。最高だ。風邪ひくぜ!

これこそが人間が生きる究極の贅沢であり、本来の「知の爆発」の姿なんだ。

南方熊楠という稀代の天才が、全裸(フルチン)で寝転がりながら大著を読み耽っていたというエピソードは、現代の「効率性」や「人材スペック」といった小綺麗な綺麗事を一撃で吹き飛ばす圧倒的なパワーを持ってる。

 南方熊楠が証明する「けもの」と「知性」の融合

熊楠は正真正銘の「天才」でしたが、現代の日本の教育や産業界が求める「扱いやすい優等生(人材)」とは真逆の存在だった。まさに怪物だ。手っ取り早く知りたい向きは水木しげる🔗の『猫楠🔗』を読むがいいさ。

「けもの」としての野生

家を飛び出し、泥まみれ、全裸で粘菌を採集し、夜通し酒を飲んで大暴れする野生児というか手におえない迷惑なおっさんだ。酒を飲めばたいていゲロを吐き、そのゲロに発生する粘菌🔗を観察するといって掃除することもない。道鏡🔗の巨根伝説を立証するために、自分の一物に蜂蜜とか塗りたくって、庭で何日も寝転がる。普通の感覚からしたら、馬鹿だ。しかもとびぬけた大馬鹿野郎だ!これは誉め言葉だぜ。

「目的」としての知性

誰かに評価されるためではなく、ただ自分が「面白い」と思うから学び、10カ国語以上を操り、ロンドンの大英博物館で膨大な文献を読み漁る。

熊楠の生き方は、俺が君たちと話し合ってきた「10歳まではけもののように遊ぶべき」「だらけること」「人間を目的として扱うこと」のすべてを、そのまま生涯かけて体現したような、まさに破格なものだ。

彼は社会のルールや生産性のために生きたのではなく、自分の生命力と好奇心のためだけに生きたんだよなぁ。憧れるぜ!

 俺たちが熊楠から受け取るべき「全裸の哲学」

現代を生きる俺や君たちは、衣服つまり、社会的な立場、学歴、他人の目を着込みすぎて身動きが取れなくなっている。

だからこそ、熊楠のように「すべてを脱ぎ捨てて、ただ本能と知性の赴くままにだらだらと本を読む」という、圧倒的な全能感を取り戻す必要がある。

私事で恐縮だが、俺はかつて務めていた会社を辞めるという話を社長と直談判したときに、社長は思わず殴ったろか!と息巻いた。すかさず俺は、『おう、望むところだ。その代わり、その瞬間から俺とあんたは、一対一の裸一貫の男と男だ。どっちが強いかよく考えろよ!』と啖呵を切って撃沈させてことがある。そういう覚悟が必要なのさ。

大人が「熊楠スピリット」を持って、撃沈じゃなくてフルチンとまではいかなくとも、社会の評価を一切気にせずダラダラと生を謳歌していれば、子供たちも「あ、社会の型にはまらなくたって、こんなに面白おかしく生きていいんじゃね?」と救われること間違いなしだ。

「使える・使えない」の資本主義の檻を打ち破るヒントは、100年前の和歌山の森の中で全裸で笑っていた熊楠が、すでに俺や君たちに示してくれていたんだ。

2015/10/01

Post #1639

Barcelona
本日、写真だけで失礼する。

読者諸君、ごきげんよう!

2015/06/09

Post #1525

Barcelona
先日、この写真をプリントしていて、言いようのない憂鬱な気分に落ち込んでしまった。憂鬱な気分に引きずられるようにして、風邪までひいてしまったほどだ。

昨日話したバルセロナのカフェには、一台のスロットマシンが設けられていた。
そして、俺がカミさんとコーヒーを飲んでいると、一人の太った老女が店に入ってきて、カウンターに向かってなにやら注文するや否や、このスロットマシンに飛びつくようにしてかじりつき、小銭をどんどんつぎ込みながら、何度もプレイしはじめた。財布を握りしめ、1プレイ終わると、すぐに小銭を投入して、またプレイし始める。何度も、なんども。ギャンブル依存症なんじゃないかって思うくらいだ。

日本では、公設カジノを設けて観光客の誘致をしようというようなふざけた議論が、世間知らずの坊ちゃんたちの学級会ともいうべき国会なるところで議論されているようだが、俺自身がいろいろと世界を旅してみたところ、日本ほど大っぴらに賭博が行われている国は、見たことがない。そりゃマカオみたいに町全体が賭博場の様な所もあるが、それはあくまで特殊な事例だ。あそこの主要産業はカジノだからな。
日本全国、どこに行ってもパチンコ店がある。競輪、競馬、競艇など公営ギャンブルも大っぴらに御開帳されている。どのギャンブルも、親方日の丸だ。
ついでに言えば、世界で最も手軽に性的なサービスにありつける、つまりもっとストレートに言えば、女を買えるのも、この日本だろう。

カジノはどこの観光地にもある。とはいえ、それはあくまで観光客向けのものだし、ハンブルグの裏町でみたカジノに至っては、そこに入ったら身ぐるみはがされないと出てこれないようなヤバい雰囲気が漂っていた。けっして、一般庶民がカジノで身を持ち崩すことはなさそうだ。もちろん、どこにでも例外はあるだろうが。
で、人々は日々の暮らしのやるせなさと、その双子の兄弟ともいうべき射幸心を、このようなカフェの片隅のスロットマシンにゆだねるしかないのだろう。

スロットマシンにかじりつくこの女性の姿から、俺は彼女の生活を想像してみた。
この女性は、むくむくと太っているが、服装もどこか薄汚れていたし、幸薄いオーラが立ち込めていたからだ。なにより、スロットマシン以外は、眼中にないといった様子が、俺にはどこか病的に見えたのだ。
余計なお世話かもしれないが、それはお世辞にも幸せという言葉から縁遠いもののように思われた。彼女の心の穴を埋めるものは、スロットマシンしかないのだろうか?家族と呼べる人はいないのだろうか?
ありえないことではない。

考えても見てほしい。彼女も生まれながらに年老いていたわけではないだろう。そして、みっともなく太っていたわけでもないだろう。
彼女にも、希望にあふれた時代はあったことだろう。友人と夢を語り合ったり、恋人と愛を交わしたりしたことだろう。精一杯着飾り、人生を愉しんでいた時期だってあったはずだ。
しかし、いまの彼女の姿から、その片鱗を見出すのは、なかなかに難しく思える。

誰の人生も、足早に過ぎ去ってしまう。俺たちに与えられた時間の、なんと儚く短いことだろう。けれどそれは、他人ごとではないんだ。たった一度しかない人生を、能う限り良く生き切ることこそが重要なんだ。でも、どうやって?
そして、スロットマシンに魂の救済をゆだねているように見える彼女の姿は、俺たちの誰もが無縁のものとは、決して言い切れないんじゃないかと俺には思えるのさ。

そう思うと、いてもたってもいられないような思いに駆られるとともに、自分が無駄に年を取りすぎたことを思い、何とも言えないわびしく憂鬱な気分に陥ってしまったって訳さ。

子供の写真を撮るのは、未来に希望を見出したいから。
女性の写真を撮るのは、男性の俺にとって、どこまで行っても女性は未知の世界だから。
それに比べて、老人の写真を撮るのは、あんまり愉しいものじゃないな。

この短い人生で、本当に大切なものは何か。俺たち自身にとって、幸せとは何か?それを日々考えながら生きていきたいもんだぜ。きっとそれは、そんな大それたものじゃないはずだ。

読者諸君、失礼する。想像力を働かせてみれば、一枚の写真から受け取るものはたくさんあるんだ。

2015/06/08

Post #1524

Barcelona
風邪なんかに負けちゃいられないと思い、焼き肉をしてみたんだ。アメリカ産の牛肉を、がつがつ食ってみたのさ。誰が何と言おうが、俺は肉食系中年だからな。あまりにたくさん肉を食ったってんで、家人に呆れられ、かつ叱られてしまったくらいさ。
そうしたら次の朝、いつもの痛風で足の指の付け根が痛くなってしまった。
予想通りだ。まったく、マンガのようなていたらくだ。
まぁ、この痛みには慣れっこだ。痛みどめさえ飲めば、どうってことないんだぜ。ちょろいもんだ。こいつのおかげで、俺は生命保険に加入できないのさ。

バルセロナのカフェにて。

ヨーロッパでは飲食店の中では禁煙なので、煙草の吸いたい奴は、雨が降ろうが風が吹こうが雪が降ろうが、外だ。
しかも、このカフェは入り口の横に小さな丸テーブルが置いてあるだけ。つまり立ち飲みだ。

それでも、おっさんたちは渋いコーヒーと煙草を愉しんでいる。
ヨーロッパでは、1mgなんてスカスカの煙草を吸ってるような奴は、お見受けしなかったな。

煙草は、誰が何と言おうと緩慢なる自殺行為だ。人生が退屈で仕方ないから、みんな煙草を吸って、終わりを早めようとしているのさ。
拳銃と度胸があったら、わざわざ煙草なんか吸い続ける必要もないだろう?

読者諸君、失礼する。

2015/06/07

Post #1523

Barcelona いかにもエスパニョーラって感じの娘っ子だな。
風邪を引いたおかげで、ひねもす食べて眠り、眠っては食べてを繰り返す。
豚の生活だ。
いくらでも眠れそうだし、いくらでも食べられそうだ。しかし、それがまた鬱の症状と似ているので、ふと不安になる。
タバコに関しては、丸一日以上吸っていないんだがな。
思うにあれは、退屈だから吸うもののような気がする。
こうしていても吸いたくて仕方ないんだがな。
ニコチン1mgとかのヤニのない煙草を、みんな吸っているけれど、そんなもの吸うくらいなら、すっぱりやめてしまいたいぜ。
ちなみに俺が、ここ何年か吸ってるラッキー・ストライクはニコチン11mgだ。
タバコらしい味がする。

正直言って、俺は自分を持て余してるのさ。俺のエンジンは特大なんだ。
だから、のんびりしていると、かえっておかしくなっちまう。
過酷な仕事で寝る暇もないくらいじゃないと、充実してるように思えないんだ。

読者諸君、失礼する。

2015/01/14

Post #1379

Balcerona
ここ何日か、本棚の奥から『古今和歌集』を引っ張り出して読んでいる。
若いころにはよくわからなかったんだが、改めて読み返してみると千年も前の人々の、迸るようなホットな感情が、ビシビシびんびん伝って来る。
とりわけ、切ない思いを詠いあげた数多くの恋歌は、その大半が叶えられぬ恋と、伝えたくても伝えられない相手への思い、そして逢いたくても逢うことが出来ない切なさを詠っているのだが、21世紀を生きる自分と、何ら変わりのないことに、驚くとともに深く共感する。

まさに、『もののあはれ』だ。
なんたって、当時の人々にはラインもフェイスブックもないし、電話もなけりゃ携帯電話もない。道路もなけりゃ交通機関もない。だから当然、離れた人に気軽に会いに行くことが出来ないばかりか、久しく消息の途絶えた人の安否すら知ることも出来ない。ネット社会ってのはスゲー便利だが、そんな思いを募らせて、転げまわるように苦しみもだえることもない。恋すら軽いのだ。悩むより前に、ラインか何かで、新しい恋人をゲットすればイイのだから。
まったく、平安朝の人々の恋は、現代人のそれとは、比べ物にならないくらい不便だ。

けれど読めば読むほど俺には、人間の本質ってのは、千年経とうが、技術がどれだけ進もうが、ぜんぜん変わらないんだって思えるよ。
いや、ひょっとしたら俺の感覚が千年前の人間の感覚なのかもしれないけどな。
まぁいい。そんな気持ちの解からない奴には、どれだけ言っても仕方ない。
けれど、そんな気持ちがわからないようじゃ、人生の楽しみは半減だぜ。
嘘じゃないさ。実際に少し読んでみればいい。
君が日本人の端くれなら、声に出して読んでみるがいいさ。
きっと五臓六腑にしみるのさ。

俺は、巻十二 恋歌二のこのあたりに痺れるぜ。

605 『人知れぬ 思ひのみこそ わびしけれ 我が嘆きをば 我のみぞ知る』  つらゆき
(相手に知ってもらえない恋の思いこそ、辛いものはない。私の嘆きを知るのは、私だけなのだ)

611 『わが恋は ゆくへも知らず はてもなし あふを限りと 思うばかりぞ』   みつね
(私の恋の悩みは、どうなるかわからないし、果てしがない。せめてあの人と逢うことで、治まりはしないかと、思うばかりだ)

613 『今ははや 恋ひ死なましを あひ見んと 頼めしことぞ 命なりける』    ふかやぶ
(本当ならば、自分はとっくに恋こがれて死んでしまっていたはずだけれど、あなたがそのうち逢おうと約束してくれた言葉をだけを頼りに、生きているのです。)

615 『命やは 何ぞは露の あだものを あふにしかへば 惜しからなくに』    とものり
(命なんて、露のようにはかないものだ。あの人に逢うことと引き換えられるのなら、そんなもの惜しくもないさ。)

けど、このころの大人って、カッコいいなぁ。
いい年こいて、好きな女に会えるんなら、死んでもかまわない!なんて歌えるんだから。
けど、誰かを好きになるって、そんな気持ちがするもんじゃないかい?自分にもそんなときがあったなぁなんて思えるのは、果たして俺だけかい?

読者諸君、失礼する。


2013/04/16

Post #785 視線

Barcelona
意味ありげな男の視線の先には、いつだって女がいるものだよ。
読者諸君、失礼する。

2012/09/10

Post #622 重力について考える夜

昨日は遅くまで働いた。
本来は今日は朝のうちに打ち合わせに行くだけにして、午後はプリントする気満々だったのだが、仕事が入ってしまったんだ。いったいぜんたい、何時になったらゆっくりプリントできるのか。きっとすっかり涼しくなってからだろう。
Barcelona
夕方、家に帰ると、ふと気になって中上健二の小説『地の果て 至上の時』を本棚から引っ張り出し、読み始めた。没後20年、既に中上健二は過去の人も過去の人だ。しかし、彼の突きつけた課題に堪えることなく、時代はかる~く過ぎ去ってしまった。
人びとから畏れられる男の子として生まれた主人公・秋幸は、本作に先行する『岬』で異母妹を犯し、それに続く『枯木灘』で異母弟を石で殴り殺す。そして、3年間の服役の後、故郷(そこは路地と呼ばれる紀伊半島の被差別部落だ)に還り、自らの服役中にすっかり様変わりした故郷の路地を見る。そこから、物語が始まるのだ。うう、まるで現代を舞台にした神話か英雄譚のようだ。
硬質で美しい文章だ。こんな文章を読むのは、久しぶりだ。眠さも疲労も忘れてぐいぐい引き込まれる。心が硬質な結晶に純化するように感じるほどだ。
扱うテーマ、主人公と彼を巡る登場人物たちの葛藤、どこを切ってもヘヴィーだ。文章に、ズシリとした重力を感じる。
そう、重力だ。軽やかさなどとは無縁。泥臭い方言を語る登場人物たちは、誰も皆心の奥底に狂気を秘めているようにすら感じる。その狂気の源は、むろん主人公たちに流れる路地の血、即ち非人として差別され続けてきた被差別民の血に起因することがわかる。
今時の小説が、ちゃちな安物にしか見えなくなってくるような重さが、文字の羅列から立ち昇ってくる。当節流行のライトノベルなど、文学に値しないということがよくわかる。
しばらくは、久々に中上健二を読んでみるか。なに、俺は中上健二の全集を持ってるんだ。チョイと持ち運ぶのには重たくて不便だが、なに構うものか。そこに描かれる世界のほうがはるかに重たい世界なのだ。
そして重たい=質量を持つ者は、その重力によって周囲のものを惹きつける。
鬼才・若松孝二監督によって、中上健二の絶頂ともいえる『千年の愉楽』の映画化が進んでいるという。これも、路地を舞台にし、オリュウノオバという産婆の老婆を語り手に、自らに流れる路地の血に翻弄されるように、激しい人生を送り、しかも生命の絶頂期に命を絶たれていった路地の男たちを描いた現代の神話のような作品だ。楽しみだ。ぜひとも見てみたいものだ。
うう、そしてこれもまた無性に読みたい。
意外なことに、写真にも、重力がある。ブラウザーの上を軽やかに飛び交うデータとしての写真ではなく、実際のモノとして数百枚の写真を手にすると、ズシリと重たいものがある。そして、それを一挙に何十枚、何百枚とめくってみてみた時、写真のはなちゅ重力を感じることだろう。写真は、プリントしてなんぼなのだ。
俺の写真を見てくれる君が、もしも俺の写真から、俺の暗く沈んだトーンの黒々とした写真から、重力のようなものを感じてくれたなら、これに過ぎる幸せはないだろう。魂は決して見えないが、それには重さがあるのだから。そしてそれはお金で買うことはできないんだ。
読者諸君、失礼する。 

2012/07/20

Post #600 さんざん書き散らしてきたもんだ

読者諸君、このブログもついに600回だ。関係者諸君、どうもありがとう。
さんざんいままでお喋りしてきた。言いたいことはまだまだ山ほどあるような気もする。しかし、余りにくだらない政治の話しや社会を騒がす事件に関して、バカらしくって何も言う気になりゃしないってのが正直な気分だ。
OK、みんな好きにやってくれ。俺も好きにやらせてもらおう。いままでも、ずっとそうだった。誰かに言われても改まるわけもない。これからも、俺の持ち時間が尽きるその日まで、そうさせて頂くぜ。
てなわけで、今日は久々に一挙8枚写真をUP。
自分で言うのもなんだけど、改めて今までUPした写真を見返してみると、これはスゲー強力だ。下手っぴだが、ガッツがある。そんじょそこらの写真とは一線を画する黒っぽさだ。俺はその力強さに驚き、満足し、自分の写真に確信を持つ。俺は間違ってない、間違ってるのは社会のほうだと。
下らないお喋りよりも、写真のほうがきっと雄弁だ。分かる奴には解かる。分からない奴には分からない。そういうもんだ。
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 失礼する。また会おう。

2011/11/15

Post #367 いろんな考え方がある

Barcelona
最近よく思うんだけども、この世界には70億も人間がいると、いろんな奴がいるってことだ。
トーゼンながら、いろんな考え方がある。それは結構なことだけれど、おかげで諍いも絶えないもんだ。
お、そういえばシーナ&ロケッツの歌で、そんな歌があったな。あれは確か、こんな歌だった。

♫いろんな考え方がある
 俺はたぶんバカだ、バカだ。
 はたちでヒッピーになったまま
 未だに自由に憧れてる

作詞は阿久悠だったはずだ。『ガキ』とかいうタイトルだったはずだ。Bメロの歌詞は忘れちまったけど、最後はこんな歌詞で締めくくられていたっけ。

♫とっくに老いた、お前と違って、
 心の中に眠らないガキがいる、ガキがいる

そんな大人になりたいもんだと、若いころ思っていたけど、実際なってみると、まぁこんなもんですか。所詮、70億のうちのありふれた1人ってことさ。
俺が死んだところで、世界は何にも代わり映えしないだろうし、痴漢が一人減っただけのこと。
俺が長生きしたって、世界に何か有益なことをすることも、まぁありはしないさ。
ならば、このまま自分の考え方で行ってみるのも一興じゃないかね。どうせ今更軌道変更なんて、できっこないんだろうから。
だから読者諸君、俺が自分で飽きるまで、こんな調子でお付き合い願いたいもんだ。失礼する。

2011/10/26

Post #347 自由と放埓

世の中には、ずいぶんたくさん勘違いした奴がいる。
これは自明のことだ。彼のフランク・ザッパは『宇宙には普遍的に二つのものが存在する。水素と愚かさだ。』という名言を遺したが、全く以てその通りだ。石を投げれば勘違い野郎にあたると言っても過言ではない。
なかでも、俺がイラつく勘違い野郎は、好き放題やることを自由だと思っている奴だ。
人には誰にも自由がある。それは人類がさまざまな問題を乗り越え、長い年月にわたって培ってきた、比較的新しいコモンセンスだ。うむ、自由とは現代の偶像無き宗教といってもいいんではなかろうか。
その意味では、俺も自由の信徒であり、自由の使徒でありたいと思う。
けれど、自由ということは何をやってもお構いなしというものでは、ない。
そんなものが自由なら、殺人も、強姦も、詐欺も、強奪も、そう、あらゆる悪徳が人間に許されてしまう。諸君、想像してみてくれ、そんな自由な社会はお断りだ。ゲヘナの火に生きながら焼かるべしだ。
自由とは、常に自分自身で周囲の状況を判断し、自らなすべきことを自発的に行い得るということではないだろうか。クラーク博士だったっけ?学長として赴任した学校の校則を如何にするかと問われて、『紳士たれ』の一言でかたずけてしまったのは。

『汝の欲するところを為すべし』という自由は、『思うところに従いて則を越えず』という自制心がなければ、唯のケダモノとかわりない。

そしてなにより、自由には絶対的に、責任が伴う。

どう振る舞おうが俺の自由だろう!と息巻く御仁をよく見かけるが、それによってぶん殴られたり、仕事を失ったり、相手とタイミングが悪ければぶっ殺されたりすることを受け入れる覚悟があるのかと訊きたいものだ。それがわかっちゃいない奴は、いくら年齢を重ねていても、単なるガキだ。そして、トーゼン、そんな連中に自由を云々する資格などなかろう。そんなのは単なる放埓であって、自由でも何でもない。
バカらしくって、そんな奴らとはお友達になりたくもないぜ。
Barcelona
かつて、宮沢賢治が詠ったような『億の巨匠が並んで生まれ、しかも互いに相おかさない そんな世界』がいつかこの地上に打ち立てられる日が来ることを俺は信じている。神様を信じるように信じている。悪いかい?3年後とか5年後とかの話しじゃないぜ、気が遠くなるような未来の話しさ。誰もが自由にふるまって、なおかつ互いに傷つけあったり、誰かの幸福を踏みにじったり、他人の自由や尊厳を損なったりすることのない、夢のような社会だ。そう簡単に実現するわけもない。何千年、いや何万年も先の話しだろう。ひょっとしたら、そんな社会が実現する前に、人類は滅んでしまうかもしれない。けれど、俺はそんな世界がいつか実現する事を、最後の審判がやってくることを確信しているエホバの証人の皆さんように、堅く、堅く信じている。そして、今日の一日が、その未来につながっている事を、俺は知ってるんだ。どれだけまわりに自由と放埓をはき違えたバカヤローが便座や薄汚れたまな板の上に繁殖しているバイキンのようにうようよしていようがね。

だからこそ、せめて俺は自制心と責任感を持った自由人でありたいと思っているんだ。
読者諸君、失礼する。渡る世間はアホばかりだ。

2011/06/15

Post #215 PINHEAD

突然だが、世の中には、くだらない奴らがゴマンといる。
自分じゃ何もしないくせに、社会や会社や学校や家族に、不満たらたらな奴らだ。挙句の果てには死にたいなんてほざきやがる。くだらないぜ。俺は文句は言うが、文句を言った以上は、自分はベストを尽くし、結果を出すことにしているんだ。ご立派だろう?
ネットを見ていると、そんな奴らをしばしば見かける。
ストレートに言って、死にたい奴は死ねばいいだろう。それも黙って。ネットで自分がドン詰まりで、にっちもさっちもいかないから死にたいなんてつぶやいたりしてる奴は、どうなのさ?寂しくてかまってもらいたいだけじゃないのかい?本当に死にたいのなら、とっとと死ねばいいんじゃないか、誰にも言わずに黙って。
Tokyo
言わせてもらえば、人生なんて自分の思うようには決して行かない。思うようにいってもせいぜい3割だ。少しばかり人生経験を積んだ人なら、誰だってわかってることだろう?
とりわけ、自分が頭がいいと思っている奴に限って、自分に対して正当な評価が与えられていないとぶーたれる。
例えば、俺の弟がそうだ。俺には3人の弟がいるが、その一人は、私立の中学高校に進み、慶応大学に入学したんだ。クロマティ高校卒、某愛知大学中退の俺とはえらい違いだ。しかし、奴は慶応じゃご不満だったらしく、大学を辞めて京都大学に入ったんだ。大したもんだ。俺の考えじゃ、才能のない奴は大学に行くしかないんだけどね。奴は目出度く京都大学を卒業し、これまた目出度く一流企業に入社したんだ。しかし、しかしですよ、奴はこの会社がご不満だったらしく、会社を辞めて専門学校に行きたいなんてほざきやがった。それを親にぐちぐち言っている訳だ。要は認めてもらいたいんだろうな。しかもあわよくば学費を出してもらいたいなんて虫のいい考えもあったのかもしれない。
俺は思ったぜ。
もういい加減大人なんだから、自分の生きる道なんか、自分で決めて、黙って実行すればいいだろう。なんてったって自分の人生なんだぜ?人に迷惑をかけないように好きにやったらいいだろう。
俺はそういって突き放してやったぜ。20万光年くらい突き放してやった。ひょっとしたら、ぶん殴ってやったかもしれない。いや、ケリを入れてやったのかもしれない。なんせ昔の事なんで、よく覚えちゃいないがね。奴は今でもぐずぐずとその会社に留まっている。俺にいわせりゃ、人生の無駄だ。
会社の上司がじぶんを評価してくれないから、もう会社に行きたく無いとか、自分から辞めると世間の目が厳しかったり、失業保険がすぐにもらえなかったりするから、クビにしてもらえないだろうかなんて虫のいい事を考えている奴もいる。惰弱なカンジがするぜ。人生は短いんだ、ぐずぐずしてる暇はないぜ。
もうこんな暮らしには疲れ切ったから、死んでしまいたいけれど、自殺するほどの勇気もないから、病気にでもならないだろうかとかほざいてやがる奴もいる。とんだ玉無し野郎だ。
そんな奴に限って、他人を受け入れたりしない、自分は優れた人間だと勘違いしているから手におえない。心の底から、ぶん殴ってやりたいぜ。そのあとで俺についてこい!って言ってやるさ。
この手合いは、どいつもこいつも、人生は上げ膳下げ膳で、自分の思うままになると思ってるのかよ。甘い、甘すぎる。この世界で最も豊かな国で、甘やかされて育っちまったんだな、可哀そうに。
そんなにうまくいくんだったら、今頃俺は結構な邸宅に住んで、高級外車をブイブイ乗り回し、若い女をスケコマシ放題だろう。そいつはいいぜ、楽しそうだな。そんなクソ野郎に俺もなってみたいもんだぜ。
しか~し、人生はちっともそんな風には運ばない。
俺だって、伊達に仕事を次から次に変わっている訳じゃない。人生がそんな甘いもんじゃないってのは、骨身にしみてるぜ。そう、ブルースを知っているのさ。絶望していると言っても過言じゃない。しかし、人生は絶望から始めたほうがいいんだ。甘い夢など、見ちゃいないさ。しかし、苦しみのない人生なんて、スープのないラーメンみたいに味気ないもんだろうよ。まったく、満たされ過ぎると野生が萎むとはこの事だ。
俺の愉快痛快な人生をプレイバックすると、ちっぽけな会社で、権力闘争に負けて、やむなく辞めたこともあった。交通事故で酷い怪我をして、やむなく辞めたこともあった。元請の思いつきの指示に腹を立てて喧嘩し、その日のうちに辞めたこともあったし、びっくりするほど安い金で、奴隷同然にこき使われて、あほらしくなって辞めたこともあった。時には、夜逃げ同然で逃げてきたこともある。
いつも、理不尽と闘ってきた。気に入らない奴にデカい顔をされるのが嫌だったから、必死になって働いた事もしばしばだ。阿呆な上司に正面切って戦いを挑んだことなんか日常茶飯事だった。
勢いで飛び出したはいいけれど、何の当てもなく、不安な思いで近所の川を覗きこみ、水面に浮かぶカモをみては、『鳥はイイよなぁ…、家賃もいらなけりゃ、飯代もかからねぇ。年金も保険もないしな…』なんて、ゲゲゲの鬼太郎の歌みたいな事を呟いていたことだってあった。
しかし、そのどれもがイイ経験だった。その経験のどれが欠けても、今の俺はいなかっただろう。
いつだって、頼りになるのは、自分の意志しかない。世間の目なんか気にしたこともないぜ。俺は毎日生きるのに全力投球なんだ。世間なんて、かまっちゃいられないぜ。俺は自分の人生を、自分自身の人生を、自分だけの人生を生きるんだ。
つまり、こういうことだ。自分自身を十全に認めて、自分の人生を受け入れるのさ。
そう、まさにこれが人生だ、ロックンロールだ。
Tokyo
誰かのようになりたいなんて思ってもダメだ。ダメダメだ。
所詮自分は、自分自身にしかなれないのさ。生まれた瞬間に自分が出来ていると思ったら大間違いだ。俺達は毎日の一見くだらない平凡な暮らしの積み重ねの中で、経験を積み、自分自身になっていくモノだと俺は思っているんだ。
もっとはっきり言えば、俺達の人生にはそもそも意味なんか、無い。
蚊やナメクジの生が俺たちにとって無意味なのと同じように、人間の人生にもまるっきり意味なんかない。神様も手を差し伸べたりするほどの価値なんかどこにもないんだ。ちっぽけなもんなんだ。生まれちまったから、仕方なく生きているのが、人間の有様だ。
しかし、もし人生に意味があるとすれば、この人生で、いったい何をなすのかということだ。意味は生得的に付与されているモノではなく、自ら見出すものなんだ。ナマコやクマムシと大きく違うのは、人間には意志があるという一点だけだ。思うにままになりっこないこの絶望だらけの世界で、自分の足でしっかり立って、自分の目で将来を見つめて、自分の手で夢を掴む。そう、この意志の力で世界に対峙し、一点集中突破するしかないんじゃないか?どうだろう?
俺の見出した人生の意義?それはここじゃ、言えないな。そんなに安くないぜ。まぁ、いつも俺の文章を読んでくれている君には、もうわかっているだろうけれどね。

Barcelona
ふぅ、今日はなんだか久々に熱くなっちまったな。そんな日もあるさ。きっと、つまらん!なんて言う読者が続出だろう。楽しみなこった。そういえば、最近しばしばつまらん!にチェックが入っているんだ。しかもいつもきっちり2つ入っている。しかも、しかもだ、おもしれー!にチェックが入る前に、必ずつまらん!にチェックが2つはいっている。やる気がなくなるほど、驚くぜ!つまり、しばしば2人の熱心な読者が、つまらないと思いながら読んでくれているんだろう。まったくもってご苦労なことだ。ありがとう、まったくもって尊敬するよ。俺ならつまらない事をやりたいとは思わないからな。
そんなにいつもつまらないんなら、もっと他にも面白い事をやったほうがいいぜ。俺のようなイカれたおっさんの妄言なんか読んでるよりも、人生にはもっと有意義なことがあるはずだ。TVをみたり、パチンコしたり、ネットで政府を批判してみたり、ケツの穴に塩もみしたキュウリを突っ込んでみたりとかな。ダッハッハ!もちろん俺はそんなことはしないがね。
前にも言ったように、俺は銭金のためにこのクソったれな文章をつづっている訳じゃぁないんだ。資本主義を超越してるんだ。つまらんと言われようが、俺のスタイルを変える気はサラサラないぜ。悪かったな。
俺の人生は、そして君の人生も、苦難と闘争と、そしてその向こうに広がる創造に満ちている。どんとこいだ。痛快だ。そう、それが人生だ、ロックンロールだ。
失礼する。

2011/06/12

Post #212 Naked Eye #5

最近、つまらん!という評価が多いので、今日は写真だけ。
写真だけと言ったら写真だけ。
それじゃ、行くぜ。
Barcelona
HomeTown
HongKong
Amsterdam
Osaka
Paris
Tokyo
Turk
VietNam

Fukuoka
どうだった?つまんなかったかな?
俺は自分ではいつも面白おかしく書いているんだけどね。
それでは、読者諸君、そのうちにまた会おう。

2011/06/07

Post #207 Fragment Of Fragments #18

読者諸君、ご機嫌いかがかな。こちらはまぁまぁだ。
今日からしばらくは、俺のホームタウンというべき名古屋のど真ん中で仕事なんだ。電車でGo!だ。地球の環境にも、俺の財布にも優しいぜ。電車で現場に通えば、行き帰りに写真も撮れるしな。ただし、電車に乗るのは気が重いんだ。痴漢に間違われたりしないかどうか、非常に気がかりだ。迂闊に写真なんか撮ってて、植草一秀教授みたいに逮捕されかねんぜ。
Paris
今日から乗り込みだった割には、仕事はあっさり終わったぜ。
ふふふ…、調子いいな。しかし、朝早かったから眠いんで、写真を撮ってぶらつくのは今日はお預けだ。かわりにと言っちゃなんだが、近くの美術館のB1にあるNADIFF愛知に行って写真集でも買ってくるとするか。
中平卓馬の『Documentary』(Akio Nagasawa Publishing刊)さ。これ、今年の頭に発行されていたんだけど、限りなくインディーズ出版の流れなんで、そんじょそこらじゃなかなか売っていないんだ。NADIFFで売っているのは知ってたし、以前にもお店のおねーさんに勧められてはいたんだけれど、資金的な問題もございまして、見送った経緯があった訳だ。
資金にめどがついた後も、読者諸君もご存じのとおり、殺人発狂的に忙しかったから、買いに行く暇がなかったんだ。忙しいってのは、まったく心を亡くすぜ。
うむ、イイ写真集だ。これについては、まぁ例によって近日中に紹介させてもらおうかな。楽しみにしてておくれよ。
Barcelona
ひとつだけ、俺には分かってることがある。写真でも、音楽でも、人生でも言えることだ。

『マンネリでも飽きなきゃいい』

かつて天才アラーキーが言っていたのさ。大抵の凄い奴は、自分のスタイルを持っている。時代がどんなに変わっても、自分のスタイルに確信を持っている奴は、ぶれない。そして、勁い。

俺の写真も、マンネリかな?俺はちっとも飽きちゃいないんだがね。どうだろうかね、諸君。
さて、今夜も失礼させてもらうぜ。いささかあっさりかなとも思うけれど、明日も電車でお出掛けしなけりゃならないんだからな。

2011/06/04

Post #204 She Said Yeah!

読者諸君、俺はこの気持ちのイイ土曜日、ゆったりと眠ってから今、まさに高校生の頃に買ったローリング・ストーンズの初期のアルバム“Out Of Our Heads"を聴いている。CDじゃない、LP盤だ。まだ若々しいミック・ジャガーの歌うラブソングが、俺を少し切なくさせる。はるか大昔の高校時代と、今と、その二つの時空のはざまに体験したさまざまなことが、この風の吹きぬける俺の部屋で交差する。少しセンチメンタルだ。
俺は、ブライアン・ジョーンズが生きていた頃のストーンズが結構好きなんだ。少し感傷的な響きでね。古いロックンロールのカバーもよくやっている。素敵なカンジだ。このころエレベーターの中でチャック・ベリーにであったミックとキースは、チャックベリーから『このままロールし続けろ!』と激励されたという。
このアルバムは、モノクロ写真のジャケットもカッコいい。こういう写真から、いつも俺はインスパイアされる。アサヒカメラなんか見る必要は1マイクロシーベルトも感じない。

一曲目はShe Said Yeahだ。俺の頭の中で、時空と記憶が混ざり合う。ノリの良い叩き付けるようなロックンロールから、She Said Yeahというフレーズを頼りにして、少し切ない記憶が引き出される。

彼女に出会ったのは、何時だったかどこだったか、憶えているけれど忘れたことにしておく。
忘れておいた方がいい事もたくさんある。
彼女は、センスの良い娘だった。とっくにくたびれたロックンロール・キッズの俺と違って、若さがオーラのように輝く年頃だった。この年頃の女の子は、どんな娘だって、とびきり輝いているのさ。その輝きに気付かず、日々を送り、くだらない男と所帯を持ってくたびれていってしまう。残念ながら、それが世の常だ。無情な世界だ。
Sagrada Familia,Barcelona
彼女は個性的な顔立ちに、流行とは一線を画した独自のスタイルを持っていた。そしてスタイルときたら、とびっきりによかった。要は素敵な娘だったのさ。
俺は彼女の写真を撮りたかった。きっと二度と逢うことはないだろうって予感があったから、たくさん撮っておきたかった。アラーキーみたいなカンジで撮りたかったんだ。けれど、彼女は写真をとられるのは好きじゃないと言っていた。残念だ。俺なら彼女の輝く季節を永遠に遺してやれたのにと思う。
彼女は、自分にはいろんな夢があると語っていた。なりたい職業があると言っていた。
俺達はいろんな話をした。俺は調子に乗っていろんなことを話したんだろう。
写真を撮っていること、昔は小説家になりたいと思って、原稿用紙にくだらないことを山ほど書きつけて、最終的には木曜日の燃えるごみの日に捨てたこととかね。
俺の事をもっと知ってほしかったし、彼女の事ももっともっと知りたかった。
彼女は、何時か一人で旅に出てみたいと語っていた。アムステルダム、イビザ、ゴアetc…。
俺は、そんな彼女といつか旅をする自分を想像した。いいだろう、想像するくらい?人生にはちょっぴりのロマンスも必要だろう。
俺は、そんな彼女に自分の旅の写真で編んだポートフォリオをあげた。
バルセロナを旅したときのものだ。
彼女は、そう彼女は俺からそのポートフォリオを受け取ると、その場でポートフォリオを見てくれた。
そして彼女は言ったんだ、Yeah!『写真家になってくださいよ。小説家になってくださいよ』ってね。

それ以来、彼女とはもう逢っていない。連絡を取る術もない。時折、写真を撮りながら、雑踏の中でよく似た人がいないだろうかと、視線を走らせることがあるって程度さ。きっともう、俺の人生で二度とふたたびまみえることはないだろう。人の出会いなんて、所詮はそんなもんさ。
俺が彼女にあげたポートフォリオは、どうなったことだろう?俺が思うに、きっとその日のうちに、駅のごみ箱かなんかに放り込まれていたことだろう。クソッ、酷いもんだ。しかし、所詮は、そんなもんさ。それが人生さ、ロックンロールさ。

けれど、彼女は確かに言ったんだ。『写真家になってくださいよ。小説家になってくださいよ』ってね、Yeah!

読者諸君。こんな話が本当にあったかどうかは、俺は知らないさ。俺はなんて言ったって、小説家志望だったんだからな。嘘を捏ね上げでっち上げるのが得意中の得意なのさ。たったひとかけらの真実を核にしてね。
そう、何時だって俺の真実は、俺の写真の中にだけ入ってる。たとえそれがどんな下手糞な写真でも。でも、もしもそんな言葉が無かったら、俺はこのブログをはじめようとは思わなかったかもしれないな。
俺は少し切なく、少し悲しい。
スピーカーからは、若き日のミック・ジャガーがBig Oことオーティス・レディングの名曲“That's How Strog My Love Is"を唄う声が流れている。俺の愛はなんて強いんだろう。こんな土曜日も悪くないもんだ。あぁ~、ストーンズが骨身に沁みるなぁ。

2011/05/29

Post #198 In A Cross Fire Hurricane

なんてついてないんだ。
台風がやってきているというのに、俺はこれから仕事で関西方面に出張だ。2泊3日、むしろ2泊3夜勤だ。浮かれている暇はないんだ。切迫してるぜ。何しろ季節外れの台風が来ているからな。梅雨に入ったばかりだというのに、いったいぜんたいどうなってやがるんだ。
俺は、こんな叩き付けるような雨の中、高速をすっ飛ばして出かけなきゃならないんだ。ついてないぜ、まったく。俺の連れ合いは心配している。そりゃそうだ。俺だって心配だ。なにもないのなら、窓の外の嵐をのんびり見物し、読書でもできたものを…。たまらないぜ。
読者諸君も、俺の無事を祈っていてくれたまえ。あ、あと商売繁盛もね。
Barcelona
窓の外では、雨に浮かれた蛙たちが、俺の部屋から流れ出すロックンロールのリズムに合わせて、ゲッゲッ、ゲッゲッと鳴いているのさ。
全然関係ない話だけれど、君たちは来世は信じるかい。俺は自分の来世はきっとカニ蒲鉾だと思っているのさ。しかも、酢醤油とかついているよーな少し高級な奴だ。あれは旨いからね。
で、俺は死んだあと、カニ蒲鉾に生まれ変わって、君たちにおいしいおいしいって食べてもらいたいなとか想像して、一人でくすくす笑ったりしてるんだ。まぁ、俺はそんなくだらないことをいつも喋って、連れ合いや家族にはうんざりされているんだ。困ったもんだぜ。
Amsterdam
さて、読者諸君。くだらないおしゃべりは今日は早々に切り上げさせてもらおうか?何しろ俺は今からこの十字砲火のような激しい雨の中、車を飛ばして俺のフィールドに向かわなければならないんだ。なに、心配はいらないぜ。俺は運転が巧いのさ。
では、失礼する。危険だから台風の中、あまりで歩いたりしない方がイイだろう。せっかくの日曜日が台無しさ。

2011/05/20

Post #189 しょんぼりすんなよ、元気を出せよ!

昨日の仕事はしくじったぜ。
俺の手落ちじゃないんだが、確認しなかった俺の手落ちだ。
俺はそれについてはこれ以上ぐたぐた言いたくないぜ。せっかくの人生が無駄になる。
ガックリしょんぼりしていても仕方ない。予約してあった医者まで、イカした音楽を聴きながら歩いていくのさ。俺の歩みはいつしかステップになり、心の奥底から渦巻きながら吹きあげる、滑らかなグルーヴは俺の腰を、肩を、腕を踊らせる。そう、マンガのキャラのようにあり得ないカンジで歩いていくのさ。
道行く人は、誰も彼も俺をイカれた奴だと思うだろをうが、俺は健康さ。すこぶるケンコーなのさ。心の中にロックンロールが溢れているのさ。熱いビートが津波のように押し寄せるのさ。
俺は疲れているんだろうが、いたって元気なんだ。この元気を、君たちに分けてやりたいぜ。
銭金と違って、こいつはどれだけ分けても減るもんじゃないんだ。むしろ、増えていくのさ。
この元気はどこからやってくるのか?

そんなこと、言えるわけないだろう。俺が頭のイカれたシャブ中かおかしなカルト野郎だと誤解されそうだからな。
そう、まだ君たちに言うのは早い。早すぎる。
Amsterdam
俺には108の秘密があるが、まだまだ君たちに打ち明けていない秘密が多すぎる。
ダメダメダメダメ。何事も順番だ。日本人は順番を守る礼儀正しい民族だろう?
いずれにせよ、頭の固い、会社の中だけが自分の全世界だと感じてる世間の皆様に、そう思われるのは屁でもねぇけど、親愛なる読者の皆さんにそんな誤解をされるのは、少し寂しくもあり、悲しくもあるからな。
それにまた、いつものよーに調子に乗って、読者の皆様の理解をぶっちぎるような、訳の解らない事を書き散らして、つまらんとか言われちゃたまんないぜ、ダッハッハッ!

どこかで、誰かが俺の駄文を読んで、共感したり、反発したりしてくれているんだ。不様な生き方は出来ないぜ。いや、無様でもイイか、マディーウォーターを飲んでも、這いずってでも行くぜ。俺は自分の人生の軌跡で、虚空に絵を書くように生きていたいのさ、すぐに消えてしまう飛行機雲のようにね。
この糞溜めみたいな社会で、苦しんでいる人もいるだろう。
自分自身の人生を送れていないと悩んでる奴もいるだろう。
過去にこだわって、前に進めなくなった人もいるだろう。
OK、俺の中に渦巻いている、このエネルギーを、分けてあげたいぜ。
君が元気になったなら、俺はきっと、もっと元気になるのさ。これは資本主義じゃ説明できないぜ。
もちろん、元気になったからって、問題が解決する訳じゃない。高価な壺やパワーストーンで幸福になれる訳ないのと同じ事さ。
Barcelona
しかし、俺が崇拝しているロックンロール・グル、ピート・タウンゼントは言っているぜ、『ロックンロールは悩みを解決したりはしない。悩んだまま、踊らせるのだ』と。
そう、元気さえあれば、この糞ったれな現実に立ち向かう事はできると思うぜ、元気を出せよ!しょんぼりすんなよってカンジだ。
下らない社会だと、絶望する前に、面白い人間になるのはどーだい?あくまで自己責任だけとね。所詮、社会なんて、ちっぽけな人間の寄り合い所帯さ。一人ひとりが面白い人間になれば、この息苦しい社会も、いつかきっと変わるさ。
俺は信じてるのさ。明日の君が、今日よりも面白い人間だって事を。
そうさ、悩んだまま、踊ればええのさ。
『グルーヴがあれば、水の中に入っても濡れることもない』と、Pファンク軍団の総帥、ジョージ・クリントンも歌っているぜ。つまり、グルーヴを、元気を持っていれば、くそくだらない社会の中でも、簡単に押しつぶされたりはしないってことだ。実に、含蓄があるぜ。
もし一度でも、俺のところに来てくれたなら、俺はいつでもここにいながらに、君のそばにいるだろう。
読者諸君。失礼する。今日も仕事がてんこ盛りなのさ。
仕事のボーディングタイムが近づいているんだ。また、明日会おう。いつでも君たちのすぐそばに俺はいるのさ。

2011/04/22

Post #161 Fragment Of Fragments #14

結局今日も、仕事関係の雑事に忙殺されて、プリントどころか、ネガをチェックすることすらできなかった。いつもながら、自分のヤルヤル詐欺っぷりには驚くぜ。まぁ、締切とか期限がないとその気にならないのは、ガキの頃からだ。仕方ない。
しかも、急遽明日の朝からひと仕事安仕事入っちまったもんだから、今日はあんまり遅くまでブログを書いている訳にもいくまい。ましてや35本のネガチェックなんて、絶対に夜が明けちまうぜ。ダメダメダメ…。時間を守るのは、まっとうな社会人の基礎の基礎だ。時間にルーズな奴はイマイチ信用ならないからな。睡眠不足で運転して、通学中の子供さんを轢き殺す羽目になったりしたら、俺のこの人生、どうにもならないぜ。
だから今日は、流す。宣言する。あっさり行こう。
だいたい俺の統計によれば、金曜の夜は、あまりPVが伸びない。花金なんて言葉はとっくに死後の世界に突入している感がある。20世紀末を思わせる響きだ。しかし、時代は巡っても、世間の皆さんの傾向としては、金曜の夜くらいは飲みに行ったり、デートしたり、クラブに繰り出して朝まで踊ったりと有意義に人生を謳歌しているのだろう。そう、人生には何かしら楽しみが必要だからな。金曜の夜にシコシコブログを書いてたり、夜通し仕事をしているなんて、客観的に見ると、いささか悲しいもんだ。しかし、海外旅行に、フィルムに、現像にと今月はすっかり散財してしまったので、まぁ、俺としては家で大人しくしているべきなんだが。
まぁ、いいさ。週明けの25日は給料日だ。自分で銀行に行って、自分の会社の口座から、自分の口座に振り込むのさ。儲かってないからささやかなもんだ。ふふふ…、零細企業なんてモノ悲しいもんだぜ、ホント。
Barcelona
ヨーロッパに行くと、黒人をたくさん見かける。移民だろうか。そーだろうな、俺の記憶ではヨーロッパには白人が住んでたはずだからな。一口に黒人といっても、ブラックアメリカンとは、歴史もルーツも違うから、微妙に顔立ちが違っている。つい最近まで、アフリカにすんでいたような雰囲気の人も多々ある。まぁ、人それぞれってことだ。
ぱっりとしたスーツを粋に着こなして、ビジネスマン然とした奴もいれば、しけた商店で店番をしてる奴もいる。いや、俺が今回パリで見かけた店番の黒人のアンちゃんたちは、あれはただ店で音楽を流して、店番をしてるふりをしながら、リズムをとっていただけだった。何しろ、彼らの店には、それは露店だったんだが、パッとしないTシャツが10枚くらいぶら下げてあっただけだったからな。真面目に商売してるようには、う~む、見えなかったな。まぁ、人にはそれぞれ事情があるか。

以前訪れたバルセロナでは、道端で大きな布を広げて、その上に、どう見てもパチモンのブランドバックやベルトやサングラスなんかを並べて、通行人に売りつけている黒人をよく見かけたぜ。大通りのブランド店の前で、堂々とそのブランドのパチモンのバックを、地面に広げた布の上にぎっしり並べて売っているんだ。驚くぜ。いやむしろ、凄いユーモアだ。しかも、どう見てもいかさまのパチモンにしか見えないそれを、買ってる奴がいるんだろうな。それもまた驚きだ。そういや、香港じゃ、ニセモンの時計買わないかってよく声をかけられたりしたっけ。得る方も売る方なら買う方も買う方か。いや~、まいったなぁ。

図太いというか、バイタリティがある。

俺たち日本人も、多少は見習ったほうがいいかもしれない。いや、そのパチモン商売のほうじゃなくて、もっとその、なんていうかね、精神的な逞しさに関してだね、見習うべきじゃないのかなということが言いたいわけだ。誤解すんなよ。

Baby!逃げるんだ!
当然、営業許可なんか受けてるわけじゃないから、当局の取り締まりなんかがあるだろう。そうすると、奴らは一体どうするか?下手にそんなところで挙げられたら、強制送還とか食らっちまうかもしれないしな。そうなったら、彼らが頭の中に描いているサクセスストーリーも台無しだ。
見ものだぜ。
いかさま商品が乗った布の四隅には、長い紐がついているんだ。彼らはその紐を握ったまま商売しているのさ。
そして、いざガサ入れだってぇと、その紐を一気に引っ張るんだ。
そうすると、いかさま商品を満載した布は、あっという間に風呂敷っつうか、マンガのドロボーかサンタクロースが担いでいる大きな袋みたいになるって訳だ。
そうして奴ら、その袋を担いで、蟻の子を散らすみたいに、みなてんでバラバラの方向に一目散に逃げていくのさ。まさにスタコラさっさってカンジだ。

世間の風は冷たい。故郷を離れた人間が、生きていくのは大変なもんだぜ。

読者諸君、また会おう。
今回の旅行の写真は、もう少しお預けだ。
俺も大いに気になってはいるんだがね。
いつもながら、こんなだらしのない俺を許してはくれないかい?

2011/03/18

Post #124 ヘリコプター

いつも災害が起こると、不思議に思い、なおかつ苛立ち、挙句の果てには憤慨することがある。
今回の災害にも、避難所には食料も水も生活物資もない。しかし、そんな避難所にも、カメラが入って、マスコミのレポーターが入っていて、呑気に『避難所生活はいかがですか?』とか『一番必要なものは何ですか?』とか被災者に訊いて回っている。俺達はそれを通じて、状況を知ることができるのだが、どこか割り切れない。
そして、今回の震災でも、被災地の上空には真っ先にマスコミのヘリコプターが、ぶんぶんと飛び回っただろう。

Osaka 例によって本文とはカンケー無し
何度俺は、ヘリコプターに乗ったレポーターが『病院(もしくは学校)の屋上には、SOSと書かれています。』と伝えるのを見たことだろうか?
SOSだって言ってるだろう!マスコミがそういう状況をカメラにおさめて、そのまま飛び去ってしまったのを何度見たことだろう。そして、そのSOSと書かれた屋上で、ヘリコプターに向かって必死に手を振る人々を何度見てきたことだろう。子供が線路を走る電車に手を振ってるのとは訳が違うんだぜ。そのカメラが映している光景の先には、生か死かというぎりぎりの状況に置かれて、困窮逼迫している被災者のかたが、電気も薬もない状況の中で、患者を救おうとして懸命に働く医師や看護師がいるんだぜ?
相も変わらず、今日もまた、マスコミのカメラは避難所に上がり込み、被災者に対して、訊くまでもなく分かるような頓馬な質問を投げかけては、こういうのさ。『道路が寸断され、物流が止まったいるため、被災地には援助物資がなかなか届きません』 じゃ、俺はマスコミの皆さんに訊きたいぜ。『HEY、HEY、HEY、マスコミのおにーさんよ、あんたたちははいったいぜんたい、どうやってそこにたどり着いたんだい?』ってね。そしてもう一発訊きたいぜ。『あんた、まさかマイクだけ持って行ったんじゃないだろうな?何か、援助物資を、それが例え焼け石に水のわずかな量でも、持っていかなかったのかい?』ってね。
わかってる、俺は本当はよーく分かってる。それは報道の使命ではないっていうんだろう。客観的に事実を伝えるのが報道の仕事ですって、シレッとした顔で言うんだろう?
けど、本当にそれでえーんかい?
俺がその立場だったなら、報道の使命だのなんだのは、とりあえず脇に置いても何かしたいぜ。
ああ、わかってるよ。本当によ〜く分かってる。目の前の人たちだけ助けても仕方ないっていうんだろう。起きていることを広く社会に伝える仕事なんだ。食料や水や生理用品や靴下を被災者にもっていってやることが仕事じゃないっていうんだろう?
けど、本当にそれでえ〜んかい?
俺が子供じみたことを言っているのは承知している。彼らが職務を忠実に果たすのは、被災してない俺が、自分の仕事を誠実に真面目にこなすのとまったく同じ仕事ですっていうことくらい、百も承知だ。
Barcelona
承知していることと、納得していることは違う。俺はこのブログは極力自分の想いを自由に、誰憚ることなく、正直にセージツに綴りたいと思っている。だから、それが社会の一般的な通念と噛み合わなくても、あえて言ってみるか。それってなんか納得いかないぜ。これは見せもんじゃないんだぜってね。これ見よがしにヘルメットなんかかぶりやがって、この野郎って思うのさ。

昔、阪神大震災の時にもそう思った。作家の辺見庸も、確かそんなことを書いていたっけ。しかし、俺にとって、最もインパクトがあったのは、キヨシローによく似たゼリーなる人物が率いていたザ・タイマーズが歌っていた『ヘリコプター』って曲だ。もちろん俺には、自衛隊のヘリの活躍が報じられている時に、それに異を唱えたり、水を差したりするつもりは全くないが、あくまで、かつてこういう歌もあったって形で書いておく。
皆さん、決して俺の真意を誤解しないでほし―ぜ。

ヘリコプター  ヘリコプター
空から水をまいてくれ
ヘリコプター
今すぐこの火を消してくれ
マスコミばかりが乗ってるヘリコプター

燃えてるぜ 燃えてるぜ
2日も3日も骨まで燃えてるぜ
ヘリコプター
まるでこの街は火葬場さ
人命救助をしてみろヘリコプター

自衛隊のヘリコプター 消防署のヘリコプター
警察のヘリコプター エリートだけが乗れるヘリコプター

ヘリコプター ヘリコプター
燃え広がる前に飛んでこい
ヘリコプター
レポーターよりも俺を乗せてくれ
火事場のまわりの野次馬ヘリコプター

政府要人のヘリコプター 海外派兵のヘリコプター
税金で買ったヘリコプター いざという時に飛べないヘリコプター

ヘリコプター ヘリコプター
燃え広がる前に
ヘリコプター ヘリコプター
飛べなくなる前に
ヘリコプター ヘリコプター
上昇気流のその前に
ヘリコプター

THE TIMERS 『ヘリコプター』(アルバム『不死身のタイマーズ』より)

過激だ。誤解を招く恐れがビンビンあるぜ。
俺も、読者諸君から呆れられてしまうかもしれない。もちろん、俺は自衛隊の皆さんが、孤立した人々をヘリですくいまくっているのを知っているし、福島の原発でも、危険を冒して消火活動に従事していることも知っているし、心から尊敬している。しかし、言いたい。もちろん、俺が言いたいのは、マスコミの皆さんに関することが言いたいから、こんな昔の歌を引っ張ってきたんだ。分かるだろう?実にこの逡巡こそが人生だ、ロックンロールだ。
マスコミの皆さんも、職務に忠実なのはまことにいいことだ。なんて言ったって、彼らも所詮サラリーマンなんだからな。しかし、職務を逸脱したり、自分の組織をはみ出すようなことをしでかす方が、人間として正しい、いや義しい(もちろん、ただしいと訓むのだよ)時もあるんじゃないだろうか?
諸君、どう思うだろう?俺は今回も今一つ納得いかないと思ってるんだがな。
もちろん、このどさくさに紛れて便乗値上げで一儲けをたくらんでいるような性根の腐ったクズ野郎や、今から復興特需をにらんでホクホクしているようなろくでなしなんかには、納得するどころか、憤慨しているんだけどな。もし、そんな性根の腐った奴に出会ったら、問答無用で簀巻きにして川に放り込んでやるぜ。憶えてろよ!今から風呂に入って、よーく首を洗っておくこった。

それでは、また会おう。明日から本格的に、俺もイソガシー。また、体調をくずしてアレルギーを起こしたり、結石や通風で悶絶しないようにしなくちゃな。そうそういつも君たちに心配をかける訳にはいかないさ。もっと心配してあげてほしい人が、今の日本には何十万にもいるんだからな。
失礼する、また会おう。