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2026/06/01

POST#1865 それは新自由主義の陰画なんだ

 

東京、築地より

ここんとこ縷々つづってきた子どもの自殺をめぐる現象は、俺が思うに新自由主義🔗がすべてを商品化し、社会を分断してしまったことの陰画なんだ。

「人間を材料(人材)扱いする風潮」や「カント的視点の喪失」の背景には、1980年代以降、日本を含む世界中に広がった「新自由主義(ネオリベラリズム)」の思想が決定的な影響を与えている。

ハイエク🔗ミルトン・フリードマン🔗によって打ち立てられた新自由主義は、経済だけでなく、社会の構造から、人間の生き方や教育のあり方までをも根本から作り変えてしまった。そこで起こったのが、「教育の市場化」だ。

新自由主義の本質は、あらゆるものを「市場原理(自由競争・自己責任・効率性)」で支配することだ。(実は、自分たちが困ったときには政府に救済してもらうというバックドアが仕込まれてるんだがな)これが教育現場に持ち込まれた結果、以下のような変化が起きた。

学校の「工場・育成機関」化

教育の目的が「豊かな人格の形成(カントの言う『目的』)」から、「グローバル市場で勝ち抜ける優秀なコマ(新自由主義的な『人材』)の育成」へと完全にシフトした。エミール🔗を記した親愛なるジャン=ジャック・ルソーが見たら、パンテオン🔗の棺から起き上がってくるんじゃないかって心配になるほどさ。

教育の自己責任化と投資化

いつの間にやら「学びは将来稼ぐための自己投資である」という自己責任論が定着した。私見ながら、俺はなにかの為にする学びは嫌いだ。自らのうちから湧き出る好奇心の赴くままに、問いをたて、学び、自分の血肉にしたいね。閑話休題。

これにより、子供は幼少期から「自分の市場価値を高めるための競争」に強制参加させられることになっちまったんだなぁ。それどころか、大学は単なる就職予備校になり、専門課程はほどほどに就職活動に奔走するなんておかしなことになってる。そのくせ、通勤電車の扉の横には、土日に経営専門大学院に通ってMBAつまり経営学修士🔗の資格を取ることが宣伝されているほどだ。まったく、何のために働いてるんだ?俺が思うに、人生は愉しむためにあるんだぜ。

そして、子どもたちを追い詰める「新自由主義的」3つの罠が待ち受けている。3つの口から破壊光線を出すキングギドラみたいだなぁ(笑)

新自由主義的な価値観は、子ともたちの精神を内側から破壊する特有の構造を持っているんだ。おっかないぜ。

① 無限の自己責任論(「努力不足」という呪い)

新自由主義は「誰もが自由に競争できる」という建前をとるため、失敗した原因はすべて「本人の努力不足・能力不足(自己責任)」に帰結させられちまう。

いじめ、不登校、成績不振に陥った子どもは、社会構造や環境のせいにできず、「自分が無能だからだ」と過剰に自分を責め立てるようになってしまうんだ。そんな馬鹿なことってあるか?

② 「自己啓発」の強要(ありのままの否定)

新自由主義社会では、現状維持は「退化」を意味するんだ。経済が常に成長し続けていかないといけないという呪縛そのままだ。だから預金じゃなくて投資が奨励されるんだな。ダハハ!

その呪縛のせいで、地球はだんだん金の星どころか金星みたいな灼熱の惑星へと変わり始めてるんだけどな。

おかげさんで、子どもたちは常に「もっと主体的に」「もっとスキルを身につけて」と、終わりなき自己改革を求められ続ける。終わりのないマラソンだ。大人だってうんざりだぜ。

カントが説いた「生きているだけで尊い」という状態は全否定され、「常に成長し続けなければ価値がない」という強迫観念に晒され続けるんだ。まともな神経でいられるわけがないぜ。

③ 連帯の分断と孤立(頼れない社会

徹底した競争社会は、クラスメイトを「共に生きる仲間」ではなく、「席を奪い合うライバル(敵)」に変える。俺の通っていた私立の中学に、先年用事があって行ってみたら、下駄箱の横に、『上を見て落ち込むな!下を見ていい気になるな!右を見ても受験生、左を見ても受験生!』とうんざりするようなことが書いてあったぜ。俺は思わず、名誉校長とかになりあがってたかつての数学の教師に『中島さん、あんたちょっと見ん間に、偉なったもんじゃんのう。これがあんたの理想の学校かいな?はよ、あんたの銅像も建ててもらえるとええのう』と、半ば軽蔑感を隠すこともなく言ってのけてしまったわ。ダハハ!

弱みを見せたら脱落するため、子どもたちは周囲にSOSを出せなくってしまう。結果、「過酷な競争の中で誰も信じられない」という致命的な孤立を生み出すことになってしまうだろう。親は競馬馬の馬主みたいなもんだからな。親にもそんな弱みは見せられないだろうしな。

もっとも、その親自身も、社会の中で同じようにもがいているわけだ。溺れている者が、溺れている者を救うことはできないのさ。

さてそこで、 日本特有のケミストリーが生じるんだ。まさに「最悪の掛け合わせ」だ。

日本の子供の自殺が突出して減らないのは、この「新自由主義」に、日本古来の「同調圧力・連帯責任」が最悪の形で融合したからだと考えるのが妥当だろう。

そもそも核家族から社会が構成されているアングロサクソン型の欧米の新自由主義は「自己責任」だが、ルールを外れても「個人の自由」としてある程度放置される傾向にある。よく言えば、これは多様性が担保されてるってことだ。

しかし、我らが日本の新自由主義は一味違う。 経済や能力面では「自己責任の競争」を強いる一方で、学校生活では「みんなと同じ行動、高い協調性(同調圧力)」を絶対の鉄板ルールとして求められるんだ。子どもたちの無意識は、相反するベクトルに引き裂かれることになるだろう。利益相反してもへっちゃらな汚れちまったおじさんとは違う若者たちの心は、混乱するよな。

つまり、日本の子どもたちは『激しいサバイバル競争を勝ち抜きながら、周囲の空気も完璧に読まなければならない』という、二重の過酷な要求に縛られているわけだ。

これが、逃げ場をなくし、自死を選ばざるを得ないほどの息苦しさの正体なんじゃないかな。

人間を「目的」ではなく「手段(利益を生む道具)」として扱い、使えなければ自己責任として切り捨てる新自由主義は、現代の子どもたちから「無条件で愛され、守られる権利(生存の安全基地)」を奪い去りってしまった。

子供の自殺問題は、この過剰な市場原理主義がもたらした「社会の精神疾患」そのものであると言えるだろう。

俺は思うに、子どもなんて 10 歳ぐらいまでは勉強なんかそっちのけで、けもののように友達と遊びまくる方が絶対に人間的に成長すると思うんだよ。そんな中で人間関係の機微を学んだり、自分で工夫したりする知恵を身に着けたり、有り合わせのもので何とか問題を解決するブリコラージュ🔗の能力を身に着けたりするんだ。そう、非認知能力🔗って奴だ。

この考えは教育学、心理学、そして脳科学の視点から見ても、圧倒的に正しく、本質的な人間性の成長を捉えているといえるだろう。

10歳頃までに「けもののように友達と泥まみれになって遊びまくる」経験こそが、新自由主義が求める薄っぺらな「人材スペック」ではなく、カントの言う「目的としての人間」として生きるための強固な土台(根っこ)をるんだ。

近年進展の著しい脳科学も「遊びが先、勉強は後」の順序の妥当性を証明している。

脳の発達順序から見ても、 人間の脳は、感情や本能をつかさどる「大脳辺縁系(けものの脳)」が先に発達し、論理的思考や勉強をつかさどる「大脳新皮質(人間の脳)」が後から発達するようになってるようだ。

で、10歳くらいまでに友達と全力で遊ぶことで、脳の感情システムやストレス耐性が爆発的に発達するらしい。この「根っこ(土台)」が未成熟なまま、早期教育で上の「人間の脳」ばかりをいじくると、ポキッと折れやすい木(メンタルを病みやすい子供)になってしまうであろうことは、容易に理解できる。一階が無きゃ二階はできない。そして土台がなきゃ家は建たないんだ。

新自由主義社会が「教科書」や「習い事」で教えようとしている能力ってのは、実は「放任された遊び」の中でしか身につかないんだ。人間は「生きる力」のすべてを遊びの中で学んでいるといても過言じゃない。

嘘じゃないぜ。

本物のコミュニケーション能力: ルールのない遊びの中で、言葉の通じない相手とどう折り合いをつけるか、喧嘩した後にどう仲直りするかを体で覚えるんだ。

本当の主体性と課題解決能力: 「次は何をして遊ぶか」「泥の中に落ちたボールをどう拾うか」を、大人に指示されず自分たちで必死に考えることで、本当の知性が磨かれていくんだ。

レジリエンス(折れない心): 転んで痛い思いをしたり、遊びのルール変更に耐えたりする中で、自然と「失敗しても大丈夫」という精神の免疫が作られていくんだ。

私事で恐縮だけれど、俺は世の中の平均的な人間ができるたいていのことは、努力すれば何とか格好がつくくらいにはできるだろうと世の中を舐めた姿勢でこの年までやってきたんだけど、確かに子供のころ畑のあぜ道や雑木林の中で駆け回った経験が基礎になっていると実感するぜ。痛い目もたくさん見たけどな。

友達とただ楽しく遊び狂う時間には、評価(テストの点数、内申点)が一切存在しない。

この「何かができるからではなく、ただ生きているだけで楽しい」という無条件の幸福感(自己肯定感の原点)を10歳までに心に貯金できた子どもは、大人になって社会の荒波や「人材査定」に晒されても、簡単には潰れないんだ。心の中に「絶対に壊れない安全基地」を持っているからだ。つまり、『何もしなくても愛される』という絶対的な全能感が熟成されてるんだ。

 

しかし現在の日本ではどうだろう。新自由主義的な焦燥感から、この大切な「10歳までの放牧期間」を塾や習い事で埋め尽くしてしまっている家庭が多いんじゃないだろうか。これこそが現代社会が抱える「遊びの喪失」という病だ。

結果として、「小綺麗で、大人の言うことをよく聞くけれど、内面はスカスカで傷つきやすい子供」が大量生産されてしまうんだ。

子供を一度「けもの」として野生のまま徹底的に遊ばせることは、決して教育の放棄ではないんだ。それこそが、社会の道具(手段)にされない「自立した一人の人間(目的)」を育てるための、最も高度で贅沢な教育なんじゃないだろうか。

もちろん、それについての反論もあるだろう。それは俺も重々承知しているし、不安になる親心もひとりの親としてよくわかる。

けれど、子供が死にたくなるような国って、それはあなたにとっていい国なんですか?

少なくとも俺にとっては、少なくない数の子どもたちが自ら命を絶ちたくなるような国は、どれだけ経済的に豊かで治安が良くても、決して「いい国」とは言えないと確信してる。

むしろ、社会のシステムがどこかで致命的に機能不全を起こしている「極めて不健全な国」であると断言するべきだ、というのがカントの哲学やルソーの人権の視点に立った結論じゃないかな。

なぜそのような国になってしまったのか?

まず真っ先に挙げるべきなのが、国家の「目的」が倒錯しているという致命的なバグだ。

カントの思想に立ち返れば、国家や社会というシステムは、「そこに生きる人間が幸福に、尊厳を持って生きること」が究極の目的であるはずだ。

しかし、子供が自殺に追い込まれる国では、その目的が完全に逆転しているといわずるを得ないだろう。

国を維持するため、あるいは経済を成長させるための「手段」として子どもたちが『消費』され、その過酷なシステムに耐えきれなくなった子供たちが命を落としていくんだ。

目的と手段がひっくり返った社会は、人道的な意味において「失敗している国」以外の何物でもない。俺はつねづね、ピンハネするだけで誰も幸福にならないようなクソ会社なんて潰れちまった方がいいんだ!というんだけれど、まさにそれが国家的なスケールで展開してるんだ。

そして俺たちは、「見せかけの豊かさ」に騙されている。

街にゴミが落ちておらず、夜間に女性が一人で歩くことができ、子どもは一人で外に出かけても誘拐されない。スーパーやコンビニの棚にはモノがあふれている。たまに目詰まりしてる時もあるけどな。だから、一見すると「いい国(先進国)」に見えるだろうさ。

しかし、子供の自殺率が高止まりしているという事実は、この国が「物質的には豊かだが、精神的には生存を脅かすほど過酷なディストピア」であることを証明しているんじゃないか?

物理的な治安が良くても、子供の心が安心できる「精神的な治安」が崩壊している国を、良い社会と呼ぶことはできないんじゃないか。

おまけに、 社会の「最後のセーフティネット」が壊れているから質が悪い。

野生のけものが子供を命がけで守るように、本来あらゆる共同体(国家、地域、学校、家庭)にとって、「子供の命を守ること」は最優先されるべき絶対的な防衛ラインだ。

子供が死にたくなるということは、学校も、家庭も、あるいは社会の空気も、すべてが子どもたちにとって「敵の陣地」になってしまい、どこにも逃げ場(安全基地)がなかったことを意味しているだろう。

最も弱く、守られるべき存在である子どもたちを孤立させ、死に追いやる社会は、共同体としての基礎が崩壊していると言わざるを得ないんじゃないか?どうなんだい、社長!


大人が『人材』や『経済成長』『自己責任』といったまやかしの言葉に踊らされ、カントの言う『人間を目的として扱う』という当たり前の倫理を忘れた結果、その歪みのすべてのしわ寄せが、最も無力な子どもたちに向かっているんじゃないのか。

また、その俺たち大人の都合で作り上げられたモデルチャイルドから逸脱したとたんに、社会から居場所がなくなり、引きこもり、或いはトクリュウ犯罪の網に絡み取られていく。

子供が「生まれてきてよかった」と心から思える国、10歳まで泥まみれになって遊び狂っても誰からも責められない国に作り直すこと。それこそが、この国に生きる大人が今すぐにでも果たさなければならない、最優先の責任だと言えるだろう。

 子供が幸せに生きられない国は大人も幸せには生きられないと俺は思うんだけれど、どうだろうか。もしそうならば、なぜその幸せに生きられない社会を、俺たちは拡大再生産せざるを得ないんだろうか?思考停止していないか?

子供の自殺や生きづらさは、大人の社会が抱える病理がそのまま投影された結果に過ぎないんだぜ。

にもかかわらず、俺たちがこの「不幸のシステム」を止められず、むしろ拡大再生産し続けている背景には、新自由主義と日本特有の構造が噛み合った「4つの罠」が存在してるんだ。

1. 自分が生き残るための「最適化の罠」

大人たち自身もまた、新自由主義的な競争社会の被害者だ。自覚している、していないに関わらずね。

大人の現状はこうだ。 労働環境の流動化、実力主義、老後不安などにより、大人は常に「明日は我が身」「脱落したら終わり」という強い恐怖の中に置かれている。そそのストレスは多くの人々を抑鬱状態に追い込んでいる。

こんな不健康な社会は変えなきゃならないのに、再生産のメカニズムは無情に進行するんだ。なんてったって、メカ=社会構造だからな。 

心に余裕がない大人たちは、社会のシステムそのものを変える(連帯して声を上げる)労力を持てない。結果として、「この過酷なシステム(ルール)を変えるのは無理だから、せめて自分の子供だけは競争に勝てるように、幼少期から『人材』として鍛え上げよう」という行動をとるわけだ。これが、結果的にシステムをさらに強化し、子供を追い詰める側へ回るという悪循環を生んでしまうんだ。

2. 「痛みの学習」による世代間連鎖

人は、自分が受けてきた扱いを他者にも正当化しやすいという心理的特性(認知の歪み)を持っている。俺が少年のころ、スポーツ系のクラブでは先輩によるシゴキといういじめが常態化していた。そしてシゴかれてた連中が上級生になったとき、そのシゴキを荒廃に繰り返すという負の連鎖だ。少年の頃から、俺はこういうシステムを嫌悪してたんだ。

そんな経験を敷衍すると、大人の本音はこんなところか? 現代の親や教師の世代も、かつて「我慢すること」「感情を殺して成果を出すこと」を美徳として叩き込まれ、サバイバルしてきたわけだ。

そこでまたぞろ再生産のメカニズムが発動する。

 そのため、子どもたちが「苦しい、遊びたい」と訴えても、大人は「自分もそうやって耐えて大人になったんだ」「社会は甘くない」と、自分が受けた痛みを教育として再適用してしまうわけだ。自分が耐えた理不尽を肯定したいがために、次の世代にも同じ理不尽を強要するというスポーツクラブの上下関係構造そのまんまだ。

3. 社会の「経済至上主義」という巨大な慣性

社会の意思決定を行う政治、行政、経済界が、いまだに「GDP(国内総生産)」や「企業の国際競争力」といった数値の拡大を唯一の正義としている。そうじゃないのはブータン王国くらいか。しかし、GDPが世界で3%平均で100年成長すれば、社会は持続不可能だということは明々白々だ。何せ資源の量もゴミの量も19倍になるんだからな。俺たちは滅びの道を爆走してるんだ。

しかし、そこでも再生産のメカニズムは機械仕掛けの神のように無情に発動する。

 本来なら「国民の幸福度」や「子供の精神的健康」を最優先の指標にするべきなのにもかかわらず、現在の社会システムは「経済成長のために人間をどう最適配置するか」というロジックで動いている。

この巨大な経済の慣性(仕組み)を前に、個人の「おかしい」という声がかき消され、政策レベルで「人材育成」の教育改革が再生産され続けるんだ。機械の星の歯車のように全体主義的に動いていくしかなくなるわけだ。そのシステムに従わないことを選べば、現代社会では経済的な死を意味する。そして往々に人は経済的なデッドエンドを迎える時、生物学的な死を選択する。つまり自殺だ。

4. 相互監視が生む「誰も望んでいない同調圧力」

日本社会に深く根ざした「世間の目」が、新自由主義の自己責任論と結びつき、強力な監視社会を作っている。21世紀の経済戦争を勝ち抜くための『大政翼賛会』だ。

だれも望んでいないのに、なぜか止まらないのが再生産のメカニズムだ。

 「10歳まではけもののように遊ばせるのが良い」と内心では思っている親でも、周囲の子どもたちが一斉に塾や習い事に行き始めると、「我が子だけ遅れては将来くいっぱぐれて困るのではないか」「親としての責任を放棄していると後ろ指を指されるのではないか」という周囲の視線(同調圧力)への恐怖に負けてしまう。

誰もが「このシステムは異常だ」と思いながら、お互いを監視し合うことで、結果的に誰もそこから抜け出せなくなっているんだ。現代の自発的隷属だ。ラ・ボエシ🔗もあきれることだろうさ。


この「不幸の拡大再生産」を止めるには、俺たちが「降りる勇気」を持つしかない。

社会全体を一気に変えることは難しくても、まずは自分の家庭や身近なコミュニティにおいて、「社会のルール(使えるか・使えないか)」を完全にシャットアウトする「治外法権の安全地帯」を作ることが必要だ。

大人が「私はこの競争レースから降りる。子どもを材料にはしない」と腹をくくることが、この強固なシステムにヒビを入れる唯一の対抗策だろう。

ここからが、また俺の荒唐無稽な社会改革案が開陳される予定だ。こうご期待。

2018/12/02

Post #1712

東京2015
前回も書いたように、久々に出張して、首都圏で仕事をしている。
僕は食文化から商習慣まで、独特で排他的な中部圏の人間だ。赤だしの味噌汁が飲みたくて仕方ない。味覚のテイストが、ちょっと違うのだ。
同じように内装業界といっても、使っている材料、職方と職方の間の受け持ち範囲の微妙な違いなどに、地域性の違いを実感する。
なにより、建築現場で働く外国人労働者の比率の違いに、俺は驚かされる。

僕の住む名古屋界隈でも、ヴェトナム人や日系ブラジル人の職人はちらほら見かけた。日系ブラジル人は、リーマンショック以降めっきり少なくなったが、残った若者が、自動車業界の工場労働者になることを選ばず、建築業に参入してくるといった構図だった。
ヴェトナム人は、今、話題になっているいわゆる『技能実習生』といわれる人々がほとんどだった。
解体業者には、いつの頃からかトルコ人が進出していた。日本人の解体業者は、家屋解体などでは、彼らの単価に太刀打ちできないとこぼしていたものだ。
他にも、コンビニの店員には中国人はもちろん、ネパール人も多く見受けられた。

僕の住んでいる町は、かつて繊維産業で有名だったのだが、いまや価格的な競争力をなくし、ほとんどの工場が廃業してしまったのだが、わずかに生き残った工場で働くのは、中国人の女性たちだった。彼女たちが、小さな古い家で共同生活をしているのを、日常的に目にしていたのだ。そして、彼女たちがあり得ないほどの低賃金で働かされているというのは、公然の秘密だった。
同じような構図は、第一次産業、小規模な第二次産業によって地域経済をかろうじて延命させているような地域には、普遍的なものだと思う。

つまり、僕ら日本人の生活は、こうした外国人労働者の存在がなければ、成立しなくなっているということだ。そう、古代ギリシャやローマの奴隷制みたいにね。
仕方ない。日本人はもう、工場で何かを作ったり、農業や漁業をしたり、工事現場で働いたりすることなんかに価値や意味を見出せなくなっている。価値や意味を見出せないから、できるだけ金は払いたくない。金がもうからないから、人手不足になる。そこで、国を挙げて労働のアウトソーシングという流れになるわけだ。

まったくもって仕方ない。時代の流れなんだろうよ、仕方ない。

いつものことだが話がそれた。(しかし、それたところに実は本当に言いたいことが書いてあったりする場合もあるものだ。)
今回出張してみて実感したのは、首都圏の建築現場における、中国人、ヴェトナム人の比率の高さだ。何しろ、中国語やヴェトナム語の事故防止用啓発ポスターが貼ってあるくらいだ。俺が受け持っている現場には、常時15,6人の作業者が働いているが、その8割がたが中国人の若者たちだというのが現実だ。
こういった話をすると、こういう現実に縁のない読者の方々は、意思疎通もできず、単純労働に従事している外国人労働者というイメージを持つのかもしれない。
しかし、それは間違っていると断言しておこう。
彼らの中には、日本人よりも技能に優れた職人がたくさんいる。そうでなくても、一般的な同年代の日本人の職人さんの技量に、何ら劣るところはない。当たり前だろう、同じ人間なんだもの。
彼らは仲間同士、大きな声で話しながら仕事をしている。にぎやかで楽しそうだ。
(かつては僕たちも、仲間とにぎやかに冗談を言ったり、仕事のおさまりに関して言いあったりしながら陽気に仕事に取り組んでいた。しかし、いつしか仕事は細分化され、階層化され、協力して一つのものを作っていた仲間たちは、単なる賃労働者の寄せ集めに分断され、不機嫌に年を重ねてしまった。)
そういうと、こちらの作業指示もよくわからない外国人労働者ってのをイメージするかもしれないが、それは違う。彼らは僕らに対しては、日本語で話してくれる。多少怪しいところはあっても、日本人が話す英語だって怪しいもんだぜ、大目に見なけりゃ。それどころか、同じ日本人でも、何言ってるのかさっぱりわからない馬鹿野郎には、小生今日までお目通りかなったこと、実に多士済々という有様であった。
これが逆の立場だったら、どうだろう。必要だから身についた日本語だとしても、今の自分が、上海あたりにゆき、中国語で作業指示して仕事ができるかと自問すれば、彼らの優秀さは、自ずと理解できる。
僕はせめて、『你好』とか『早上好』といって挨拶をかわし、『明天見!』といって帰っていく彼らを送り出す。或いは『小心!』と声をかけて注意を促す。彼らはそんな僕のささやかなふるまいを人懐っこく笑って喜んでくれる。それはつまり、彼らに少しなりとも歩み寄ろうとする日本人が、どれほど少ないかという裏返しでもあるように思える。

こういうことを書くと、いろいろとご批判を頂戴することもある。
しかし、銀河系の中心から見れば、僕も、貴方も、彼らもみな、ひとしく辺境の野人に過ぎないという視点で、僕は物事を考えている。人間を同じ人間として遇したいだけである。燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんやである。

2018/11/11

Post #1711


月島
子どもが産まれてから、仕事は極力セーブしていた。夜7時までに、保育園にお迎えに行かなきゃならないからだ。
仕事がないときには、以前なら焦燥感に身も心も苛まれ、先行きの不安におののいていたが、息子の麒麟児と一緒にいられるなら、仕事がないのも、まぁそう悪いことではないなと思えるようになった。
なにしろ、普通なら、もう孫がいても不思議ではない年齢だ。この先を考えると、この子と一緒に居られる時間は、さほど多いとは思えない。
一緒に散歩をしたり、公園で遊んだり、コンビニで買い食いしたりするのは、僕にとっても楽しみだし、人生で出会ったどんな女の子より、可愛いと思える。
だから、いつもそばにいたいと思っていたのさ。

しかし、豚児(間違いではない。これこそ自分の息子の事を、謙遜して言う言葉なんですぞ!)と一緒にいたいからと無為安逸に遊び暮らしていては、いずれ生活は困窮するであろう事は明々白々、コンビニで倅にうまい棒の一本も買ってやれなくなってしまうことであろう。
また、いいおっさんが毎日子供の送り迎えをしていると、自分よりも隣近所の皆様に、大丈夫か?と訝しく思われるであろう。

そこで、致し方なく、ここ最近出稼ぎしている。出張なんざ三年ぶりだ。
子供と離れていることが、こんなにさみしいとは思わなかったよ。僕には単身赴任なんて、無理だと痛感するよ。
仕事はストレスフルだ。受忍限度いっぱいいっぱいだ。ストレスと食生活の偏りで、痛風発作が足首に襲いかかってくる。かみさんが送ってくれる息子の写真だけが、慰めだ。
Photo by かみさん 

失礼する。
出来ることなら、自分が死んだあと、ゲゲゲの鬼太郎の目玉親父みたいになって、息子をフォローしてやりたいもんだなぁ!
とはいえ、玉は玉でも金玉親父ってのは流石に御免だな!(笑)

2018/10/15

Post #1710

築地2015夏
人間とは、すべからく皆、いずれ死に逝く者として、平等であると思い至るようになりました。
以前は、意のままにならない他者に、『死ね!』と思うことしばしば、実際に罵声を浴びせることもありました。
しかし、自分なり誰か他の人間が手を下すこともなく、いずれ誰もが、この世からおさらばして行きます。もちろん、私もあなたもね。
当たり前のことかもしれませんが、この広大無辺な宇宙のうちに、束の間の生を得て、生きていることの不思議さの前には、肌の色、言語習慣、性別年齢、地位財産の別などなく、その儚さをこそ、互いにいとおしむべきではないのかと、遠い目をして想うのです。


まぁ、どうでもいいことと言えば、どうでもよいことですが。

2018/09/21

Post #1709

Tokyo 2015
生産性をめぐって、様々な言説が飛び交っている。
そういった内容に関する僕の個人的な意見を、ここに表明するつもりは、さらさらない。
そういう争いからは、一線を引いて距離を置きたいからだ。
しかし、その代わりに僕の好きな小説の一説を引用しておこう。
初めてこの言葉を知ったのがいつか、もう覚えてないけれど、読み古されてよれよれになった文庫本の奥書には、1996年5月31日 13刷とある。すでに20年以上大昔だ。

『いずれそのうちに、ほとんどすべての男女が、品物や食料やサービスやもっと多くの機械の生産者としても、また、経済学や工学や医学の分野の実用的なアイデア源としても、価値を失う時がやってくる。だからーーもしわれわれが、人間を人間だから大切にするという理由と方法を見つけられなければ、そこで、これまでにもたびたび提案されてきたように、彼らを抹殺したほうがいい、ということになるんです』
(キルゴア・トラウト談  カート・ヴォネガット・ジュニア/朝倉久志訳「ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを」ハヤカワ文庫288ページより引用)

僕らは、1960年代に記されたこの言葉が、現実味を増してきた時代を生きている。能無しとして、あるいはまた自分は有能だと思い込んでいる能無しとして。

2015/11/19

Post #1681

Tokyo
自分の言葉が相手に届いている実感がないと、どうにも無力感や徒労感におそわれる。
どうせ届かないのなら、黙っていればいいじゃないかとも思う。
人間は、根本的に孤独な存在だと思う。自分という牢獄にとらわれた囚人だ。

一方で、自分の発した言葉によって、相手が感じ入ったりすると、なんだか俺は心にもない虚言を弄して、相手をたばかってしまったのではないかという、居心地の悪さを感じたりもする。

自分が正しそうなことを言っているのを客観的に見ると、自分が偽善者のように思えてきて、うんざりする。そして、その偽善者の言葉に納得する相手を見るにつけ、自分が偽り多い邪悪な人間なのではないかと疑わしくなる。

とりわけ、メールやチャット、そしてこのブログでもそうだけれど、書き言葉でコミュニケーションする機会が多いいま、その想いは強まるばかりだ。ほんらい言葉は、声質、調子、表情、語気など、文字では表すことができないもろもろの要素によって、補完されるべきものだと思う。

間違いなく目的を達すると思えるのは、相手を非難し断罪する言葉だろう。
言葉は時に、人のこころを踏みにじる暴力装置となりうる。これについては、いろいろと反省するべきことが自分にもたくさんある。
だから、そんな言葉はもう使いたくはない。そんなくだらないことで、人生を浪費するような暇はどこにもない。

しょせん、心と心が深く結びついて、信頼しあっているニンゲン相手でないと、本当の心なんて伝わらない。そしてそれは、往々にして、言葉以外の態度でしか伝わらないのではないかと思う。

そこらあたりが、このブログを、時折自分自身が生み出してしまった薄気味悪い節足動物のように感じて、放り出し、消し去ってしまいたくなる原因でもあるだろうし、ごく少数の、自分の心をゆだねられる相手としか言葉を交わしたくなくなる原因でもあると思う。

読者諸君、失礼する。

2015/09/19

Post #1628

Shinbashi,Tokyo
朝、行楽客で満員の新幹線に乗って東京に戻ってきた。
戻ってきたという言い方が、もうすでにおかしい。
しかし、山手線に乗り換え、銀座にもっとも近い有楽町の改札をくぐったときのウキウキするような高揚感は、単に現場に戻ってきたというものではなく、住み慣れた町に帰ってきたような類のものだった。

2か月以上ここで悪戦苦闘していたからな。

この連休、完成に向けてどこまで近づけることができるか、楽しみだ。

ふと振り返ると、自分が仕事が大好きだってのが、わかる。苦しんだ現場ほど、実は愛着があるものさ。

読者諸君、失礼する。明日も朝早いのさ。

2015/09/18

Post #1627

Tokyo
世間はあすからシルバーウィークとかいう連休だ。いつの間にそんなもんができたんだ?知らなかったぜ。
もう何年も祝日なんて関係ない仕事をしているからな。
明日から俺はまた、東京に舞い戻って、現場を切り盛りするんだ。
これから荷物の準備もしなくちゃいけない。こうしちゃいられないんだ。
だから、これで今夜は失礼するぜ。

やれやれ、たまにはのんびりプリントしたいぜ。

読者諸君、失礼する。よい休日を楽しんでおくれ。

2015/09/13

Post #1622

原宿、東京
今頃になって、この夏の仕事の疲れがどっと出ている。
腰というか、ケツというか、具体的に言えば、骨盤の右の仙腸関節に鈍い痛みが常駐している。
これとリンクするように、右の腿やふくらはぎに圧迫するような違和感がある。
整体に行っても、整形外科に行ってもよくはならない。整形外科医は俺の同級生なんだが、これまたレントゲンを撮って投薬するだけで、患部に触ってみようともしない。それでわかるのか?
もっとも、男にそうそうケツを触られるのも、気が進まないがね。
春先の痔の話で懲りてるんだ。

そんな状況でも、カミさんのマタニティーウェアを買いに行ったり、一昨年の正月過ぎに死んだばあさんの納骨を済ませたりと、なにかとやらねばならないことが目白押しで、俺、すっかり疲れちゃったんだよね。それで昨日は、どうにもこうにも動けなくて、ブログを書くことすらままならなかったわけだ。

なぁに、人生そんなときもある。そんなときばかりだったら、困るがね。

俺が東京で働いているうちに、カミさんは切迫流産の危機を乗り越え、何とか安定期に突入してくれた。ありがたいことだ。
俺が帰ってくる直前には、腹のなかで、もぞもぞと赤ん坊は動き始めていたらしい。いわゆる胎動という奴だ。
しかし、俺が帰ってきたとたん、ピタリと動きが止まってしまったんだとよ。

きっと、いままで聞いたことのない声なんで、警戒してるんだろうよ。

参ったな。

そんなわけで、俺は毎日カミさんの大きくなりはじめ腹に手を当てて、『おれがお前のおとーさんだぞ、覚えとけよ』と言い聞かせているわけだ。
さて、効果はあるのかな?

読者諸君、失礼する。どうにも俺、風邪ひいてるんじゃないのかな。傘が嫌いだからって、台風の大雨のなか、ずぶ濡れになって歩いてたり、パジャマをもっていくのが荷物になるからって、パンツ一丁やフルチンで、クーラーかけっぱなしで眠っていたからな。やれやれ、無理もないぜ。

2015/09/08

Post #1617

Ikebukuro,Tokyo
写真はかつて、池袋で撮ったものだ。池袋に行くと、必ず職質を喰らう。俺には肌が合わない街なのさ。中野区には沼袋という町もあるらしい。そこは静かな住宅地だそうだ。
きっと俺は、そっちのほうがお似合いだろうよ。
誰だよ、池袋の風俗街のほうが似合うって言ってる奴は。

もうあと二日ほどで、いま手がけている銀座四丁目の現場から撤退だ。
残念だ。残念きわまる。引継ぎが大変だ。内装、外装、仮設工事、電気、設備、気になる項目はまだまだ山ほどある。監督は全体を理解してなきゃならないからな。中日ドラゴンズの低迷の原因は、谷繁監督が、選手なのか監督なのかはっきりしないところにある。
監督は、どっかり座って全体を見て、先を読んで、野郎どもを完成まで導いて行けばいいのさ。

銀座中央通りに面したハイブランドの路面店を手掛けるなんてのは、店舗屋としてもなかなか経験できることじゃない。
いろいろな不可避にして予想外のトラブルで、工期が延びてしまったとはいえ、残念きわまる。
もう、すぐに次の仕事が俺を待っているのだ。名古屋に戻らなけりゃならんのさ。
現場の野郎どもは、今まで剛腕辣腕とほとばしる男気、そして響き渡る大声で現場をまとめて引っ張ってきた俺がいなくなることが、不安で仕方ないらしい。

そりゃそうだろう。仕事のできる監督ならそこいらにごまんといる。出来ない監督は、もっとたくさんいる。しかし、俺の代わりはそうはいないのさ。強烈なキャラクターで現場を引張ってきたんだ。

前にも書いたが、最後までいられないとわかったときには、俺は誰もいなくなった現場で、悔しくて涙を流したこともあったさ。
けど、それはもう、遠い昔のことのように感じる。
開き直って、今ここでできる最善を尽くしてきたから、まったく悔いはない。

しかし、俺は懲りない男なんだ。

次の仕事がカレンダー通りっていう、まるで公務員かサラリーマンみたいな仕事だってのをいいことに、休みの日には銀座に戻って、厚かましくも現場に立って陣頭指揮するつもりなんだ。9月にはちょうどシルバーウィークなんて素敵なものもあるしな。ロスタイムみたいなものさ。

俺は自分の仕事が好きなんだ。
しっかり仕事をこなして、君たちに恥ずかしくない男でいたいんだ。
カミさんが妊娠してるのに、どういうつもりだって言われそうだけど、俺のカミさんだって、働いてるんだから、職業人としてのけじめの付け方くらい、ちゃんとわかってくれているのさ。

読者諸君、失礼する。俺は疲れているさ。けど、精神まで疲れてるつもりはさらさらないのさ。

2015/08/15

Post #1593

Tokyo

本日、8月15日は終戦記念日だ。

毎年、この終戦記念日という言葉に、引っかかる僕なのさ。
まるで、ごみ処理場をクリーン・センターって言い換えるようなもんだろう?クリーンセンターなんて言うだけで、僕達自身が出したくせえゴミの臭いがぷんぷんしてんのに、さも小綺麗な場所のように感じるだろ?そんな胡散臭さを感じるのさ。

今から70年前の今日、かつてアジアに存在した覇権国家、大日本帝国って国はアメリカやイギリスを中心とした連合国に敗北したんだ。
ちなみに、この連合国を英語で表すとThe United Nation、つまり皆さんお馴染みの国連そのものだ。
戦後レジームから脱却するというのは、世界の常識からすれば、国連から脱退し、いわゆるならず者国家になることを意味するのさ。そう、戦前の大日本帝国が、当時の国際連盟から脱退したようにね。
完膚なきまでに叩きのめされたあとで、皆様の安部ソーリがつまびらかに読んでいないといっていた『ポツダム宣言』を受諾し、ありていにいえば降参したんだ。
それまで、この大日本帝国という国は、西洋文明へのカウンターたらんとして、アジアの植民地解放を謳い、イギリスやオランダの植民地をぶん取り、中国大陸から欧米人を叩きだした。
そして、やったことと言えば、そこを大日本帝国の植民地とし、或いは傀儡政権をつくり、自分たちに協力しない現地の人々を、派手に弾圧した。
町の気のいい男たちは、赤紙一枚で戦場に送り込まれ、ヒロポンを打たれ、良心理性は摘み取られ、軍隊という組織に追い詰められた挙げ句に、方々でろくでもない残虐行為を行った。そして、その悔恨を胸の奥にしまいこんだまま、多くの人がこの世を去っていったに違いない。

証拠がない、資料がない、だからやってないなんてことは、日本のなかでしか通用しない話しだろう?中国や韓国、フィリピンやインドネシア、シンガポールやマレーシアに行って、そう主張してみればわかるだろう。
実際に中国では、日本軍は『東洋鬼=トンヤンクィ』と呼ばれて人々の憎悪の的になった。僕はそれを死んだお婆さんから、直に聞かされて育った。
彼女は戦時中大陸に暮らしていたのだ。実際に見てきた人間のいうことは信用に値するぜ。
この無謀な戦争に勝利するために、国民のあらゆる力は総動員された。しかし、豊富な物量と合理的で容赦のないアメリカの圧倒的な戦力の前に、大日本帝国は消耗し尽くしたあげく、無惨に敗北したんだ。
そして、大日本帝国という国はなくなり、アメリカを中心とした国連によって統治されたのちに、日本国という別の国家が生まれた。そう、ある意味で別の国なんだ。なぜって、国家と言うのは、国民の契約によって成立するものだから。憲法ってのは、その契約書みたいなもんだ。

かろうじて天皇制は残された。
陛下はおなくなりになるまで、戦争の犠牲者を弔い続けられた。それは大日本帝国で軍の総帥であった昭和大帝が自らに課した戦争責任の取り方であったと思う。その御心は今上の陛下にも明らかに継承されている。

憲法は変わった。戦争にうんざりしていた国民はもちろん、政治家もみな、今日の日本国憲法を歓迎した。だって、もうこの憲法があるかぎり、くだらない戦争で何百万にもの人々が、焼肉や挽き肉みたいな無惨で惨めな死を、押し付けられることがなくなったんだから。

戦争を知る人々が、世を去るにつれ、あの戦争には大義があったとかいう言説が飛び交い、再び日本が戦争の出来る国にしようという政治の動きに歯止めがかからない。

僕は、70年前に終わった戦争で亡くなった全ての人に申し訳ない。そんな思いで胸いっぱいだ。

僕には来年、子供が出来るだろう。
戦争中のプロパガンダに『名誉の戦死と喜ぶ老母』というものがあった。冗談じゃない。

僕は、自分の子供が戦争で死んでしまっても、喜んでいるように振る舞わなければならないような、嘘で塗り固めた嫌な社会は、僕は真っ平だ。

自分の良心が、到底受け入れられないことに異を唱えると、隣近所から非国民と謗られ、場合によっては投獄され処刑されるような暗い社会なんて、僕は真っ平だ。

国民同士が、互いの言葉に聞き耳をたてて、密告することが奨励されるような社会なんて、僕は真っ平だ。

ネットの社会では、すでに似たようなことがおこりつつあるように感じるけどね。みんなが、匿名の裁判官のように振る舞っている。ボブ・マーリーは、『誰かを指さして非難するのなら、自分の指が汚れていないか、まず確かめろ!』と言っていたけど、どんなもんかな。

若者たちが、日本とはまったく縁もゆかりもない国で、自分たちに関わりのない戦争の片棒を担がされた挙句、弾に当たって殺されてしまい、英霊としてどこやらの神社に祀られるような社会も、気に入らない。


僕は、生まれてくる子供に、そんな不幸な世の中で苦しんで欲しくはない。

だからせめて今日は、戦争によって絶ち切られた何百万人もの人々を悼もう。

戦争によって、人生を狂わされ、大切なものを奪われて、なおも生き続けなければならなかった人々の苦しみを偲ぼう。

そしてそれは日本人に限ったことではなく、全てのあの戦争で、命を落とし、また苦しんだ人達全てのために。

この日が、奇しくも死者があの世から帰ってくるというお盆の時期に当たることに、僕はいつも不思議な符号の様なものを感じるんだ。

読者諸君、失礼する。これについてとやかく言い合うつもりはない。僕は、黙って悼みたいんだ。

2015/08/09

Post #1587

Tokyo
Paul Weller
Wood Cutter's Son

Sugar town yea has turned so sour
It's people angry in their sleep
There's more small town, oh paranoia
Sweepin' down its evil sheets

Give me the chance
I'll cut you down with a glance
With my small axe, so help me
Though I'm only one and though weak I'm strong
And if it comes to the crunch
Then I'm the woodcutter's son

Cutting down the wood for the good of everyone, yea

You can tell yea, it's witching hour
You can feel the spirits rise
When the room, goes very quiet
Oh and there's hatred in their eyes
(Hatred)

You better give me the chance
I'll cut you down with a glance
Yeh, with my small axe, so help me
Though I'm only one an' though weak I'm strong
And if it comes to the crunch
Then I'm the woodcutter's son

Cutting down the wood for the good of everyone
Cutting down the wood for the good of everyone, yea

There's a silence when I enter
And a murmur, oh when I leave
You can see their jealous faces
Oh I can feel yea, the ice they breathe
(Ice they breathe)

You better give me the chance
I'll cut you down with a glance
Yeh, with my small axe, so help me
Though I'm only one and though weak I'm strong
And if it comes to the crunch
Then I'm the woodcutter's son

Cutting down the wood for the good of everyone
(So)
Cutting down the wood for the good of everyone
(Yea)
Cutting down the wood for the good of everyone
Cutting down the wood for the good of everyone
Cutting down the wood for the good of everyone


ふと、この曲を思い出して、口ずさんでいた。
虚飾も、冷笑も、憎悪も、嫉妬も、心ない人の言葉も、きこりの息子がその小さな斧で切り倒すように蹴散らしてしまうような、素朴で真っ直ぐなニンゲンでいたいと思ってね。
『俺はたった独りで弱いけれど、俺は強いんだ』ってところが、いいのさ。
自分の弱さを知らない奴は、本当の強さを手にすることはできないんだ。
たった独りで現実に立ち向かえない奴は、本当に強いなんて言えないからだ。

読者諸君、失礼する。俺にとっての小さな斧は、いったい何だろう?

2015/07/02

Post #1548

歌舞伎町2丁目、新宿、東京
久々に東京で仕事だ。
行きの新幹線は、昨日の新幹線車内での焼身自殺の影響で、混んでるんじゃないかと心配していたが、むしろガラガラだった。
ラッシュ時間をさけたのも良かったかもしれないが、誰かがまた焼身自殺しちゃたまらないって、みんな新幹線に乗るのを敬遠したのかもしれないな。
まったく、そんなの見たら、しばらく飯が食えなくなりそうだぜ。すくなくとも焼き肉はしばらくご遠慮させていただくことになるだろうよ。
新幹線の電光掲示板のニュースでは、その焼身自殺した男は、涙を流しながら油をかぶり、自分自身に火をつけたとあった。そりゃ、そんな形でこの世界とおさらばするんだ。涙くらい流したくもなるわいな。
無惨で不可解な事件に、人間の生きる悲しみを垣間見たような気がしたよ。

東京で仕事をすると、どうにも食費がかさむ。
俺は食うことに金をかけるのは好きじゃないんで、なかなかに辛いものがある。
これから2か月も続くのかよ・・・。

たまらないな。

築地本願寺のすぐ東のマンスリーマンションを借りてこの夏を過ごすのさ。こぎれいだが、殺風景だ。現場は銀座で、宿から歩いても10分そこそこ。悪くない。時間を見つけて月島とかぶらぶらしてみるとするか。

しかし、そんな余裕が果たしてあるのかな?

読者諸君、失礼する。

2013/06/28

Post #859 今日は写美に行くんだぜ


Robert Capa "D-Day" Tokyo Metropolitan Museum of  Photography
いかんいかん、また風呂でウトウトしてしまった。明日はお客さんの会社主催の安全大会に出るために、原宿の明治神宮参集殿とやらにいかねばならぬというのに。そんなものに出ても金にはならないんだが、これも浮き世の義理だ。仕方ない。
そうしてついでに恵比寿の東京都写真美術館に足を運ぶのさ。久々だ。
写真は撮るのも楽しいし、プリントするのも愉しい。写真を見ながら仲間とああだこうだ言うのも愉しい。そしてもちろん、美術館や写真集でグレートな写真を見るのはすごく愉しいのだ。とりわけ、美術館でナマのプリントを見るのは、この上ない喜びだ。コンドーム無しでセックスするみたいにストレートなかんじだ。例えが下品だが、許してほしい。百歩譲って、プロのピッチャーの投球を受け止めるようなものか。
いずれにせよ楽しみだ。
今夜の写真は写美のエントランスに複製され壁画のようになっているキャパのノエルマンディー上陸作戦をとらえた傑作を複写の複写したものだ。キャパはこの時、弾丸が飛び交うなか、アメリカ軍の兵士たちと共に、揚陸挺から海に降り立ち、波を掻き分けるようにして前進しながら写真を撮った。2台のコンタックスを首から下げ、フィルム交換すらできなかった。写真は恐怖と緊張のため、構図もいわゆる絵になってないし、ピントも合っていない。像もひどくぶれている。しかもフィルムを受け取ったロンドンのラボが現像を失敗してしまったため、ガサガサな画像だ。けれど、にもかかわらず、これは今までくそほどられて来た写真のなかで、最も素晴らしいものの一つだというのは間違いないと思う。もちろん、俺はこの写真が大好きだ。で、好きな女の子の写真を撮るように、俺が最も好きな写真のひとつを複写してみたってわけだ。
写真は現実の複写であり、複写である以上、無限に複写され得るものだ。オリジナリティーなんてのは、写真に関してはあんまりないような気がするよ。

読者諸君、失礼する。著作権侵害だとか心外なことを言うのはやめておくれよ。 

2013/06/04

Post #835 強制労働について考える

Tokyo
政治家の調子こいた発言が続いている。あまりの暴走ぶりに、国連からも物言いがつく始末だ。
情けない。戦後70年近く経とうというのに、未だに我が国は過去の振る舞いを糊塗しようとしている。
従軍慰安婦問題の焦点が、政府や軍隊組織が関与していたのか?そして、それは強制労働だったのかというところにあるようだ。政治家は、政府や日本軍としては、その運営に関与していないと言っているようだ。
あくまで、民間によって運営され、本人たちの自由意思に基づいているというのだ。
ちょっと待てよ。
自由意思というのなら、『この仕事、しんどいし、私には向いてないみたいだから、もう辞めよっかなぁ』と思った時、自由に辞めてしまえるものだったはずでしょう?
だったらそれは確かに自由意思だろう。しかし、そんなもんじゃなかったんでないの?
毎日まいにち、何十人もの男に次から次に突っ込まれてたら、誰だって嫌になるだろうよ。痛いだろうしね。けど、それで辞めますと言って、はいそうですかって聞き分けのイイことは通用しなかったんだとすれば、どんなに言いつくろっても、それは明らかに強制労働だったんだと、実感として俺は思うぜ。
民間によって運営されていた、軍は無関係だったっていっても、お客はみんな大日本帝国軍人の兵隊さんばかりなわけですからね。そこから、辞めたって逃げ出したりしたら、どんな目にあわされるかわかったもんじゃありませんぜ。民間たって、そこらの雑貨屋が前線について回ってたわしやなんかを売るってのとは、意味が違うだろうし、そもそも、軍隊との何らかのコネクションがないと、そんな商売できるわけもないでしょう。

さて、森林を伐採し、ゴムだのなんだのプランテーションを作ったりして、現地のニンゲンをこき使っていたのも、これは強制労働です。何故って、森林のなかで狩猟採集を営んでいた人々の住処を奪い、生活の糧を得る術を失くし、プランテーションでの賃労働以外に生きる方途が無いようにしてしまう訳ですから、これは広い意味での強制労働なわけです。
蟹工船なんかも、まぁ一種の強制労働ですよね。もう辞めたって言ったって、凍えるような海の上なんですから、どうしようもありませんからね。
俺自身は以前、会社員として働いて頃には、『バカ野郎、俺達ぁ奴隷じゃないんだぜ!』と上司にしばしば悪態をついたものでした。ただ、実際の奴隷と違ったのは、コーポレートガバナンスに関するあまりの問題の多さと、同僚たちのモチベーションとスキルの低さと、現場サイドのことをまるっきり理解していない上司にホトホトうんざりして辞めることにしたとき、すんなりと辞めることができたということです。奴隷ではこうはいきません。昔々に自分が属していた宗教では、もうついて行けないので辞めたいといったら、イロイロと内情や秘密を知り過ぎているので、辞めさせてはくれませんでした。それどころか、もうちょっとで殺されて名古屋港に沈められるところでした。
そういった経験があるので、自由ということについては、俺はなかなかに敏感なんです。

そっからすれば、従軍慰安婦問題ってのが、強制労働であり、慰安婦の皆さんは、アメリカさんの言うところのセックス・スレイブ=性奴隷だったってことが明らかになると思いますが、如何なもんですかね。
言葉でどんなに言いつくろってみても、これは仕方ないことだと、俺には思えるんだけどな。

読者諸君、失礼する。自由ってのも、これはこれでしんどいもんなんです。なんてったって、野良なわけですからね。

2013/04/17

Post #786 こういう事を言うと叱られそうだけど、うわぁ言っちまった!

Tokyo
ボストンで、テロがありましたね。
”愛国者の日”という祝日に行われた、ボストンマラソンのゴールでのことでした。
3人の方が亡くなり、多くの方が傷を負いました。その惨状は目を覆いたくなります。
お見舞い、お悔やみ申し上げます。
犠牲者は世界中に公開され、多くの方々がその死を悼んでいらっしゃいます。

しかし、この21世紀に入ってから、この糞ったれな世界ではテロが相次いでいます。
圧倒的な武力を持つ覇権国家に戦いを挑むには、テロしか手段がないのだろうと推察しております。もちろん、テロを称揚したり、美化したりする意図は、当方まったく持ち合わせてはおりません。デリケートな問題なので、誤解の無いようにお願いしたいものです。
今もなお、アフガニスタンで、イラクで、アフリカで、インドで多くの民間人の方々が、テロによって命を失っております。
また、民間人がテロリストと間違われ、爆撃を受けて命を失うという悲劇も、頻発しています。結婚式の祝宴が、テロリストの集会と間違われて爆撃され、新郎新婦はもちろん、多くの参列者がぶっ殺されてしまったという悲劇も耳にしたことがあります。
かけがえのない家族を、理不尽な暴力によって奪われてしまったしたら、人種や宗教に関わりなく、誰だって悲しみのどん底に突き落とされ、やり場のない怒りに打ち震えることでしょう。ほんの少し、想像力を使って、被害者の方々の身になってみれば、分かることだと思います。
もう一度、ボストンでのテロの犠牲者をお悔やみします。
しかし、TVやネットでろくに報道されないだけで、この世界中で、自爆テロなどの惨事による犠牲者は、後を絶ちません。そして、今やそういったニュースは新聞の国際欄の片隅に、ちょろりと記されるだけです。まるで、途上国で起きるテロの話題など、日常茶飯事でニュースにもならないとでもいうような雰囲気です。
30人死んだって、死者の名前なんて、報道されることもありません。死んでいった方々は、単なる数字に還元されてしまっておるわけです。で、ふーん、で終わっちゃうわけです。
単に生まれた国が違うだけで、肌の色が違うだけで、文化が違うだけで、どうしてこう違ってしまうのでしょうか?
私には、どうしても納得いきません。
ボストンのテロによる犠牲者を貶める意図はもちろんありません。
ここんところ、くれぐれも誤解の無いようにお願いいたしますよ。FBIや公安委員会なんかに、不穏な人物だなんて思われたくありませんので。アメリカに行く機会があった時に、アメリカ社会にとって、好ましくない人物として入国拒否されるのは、ゴメンですから。
私の言いたいことは、実にシンプルで簡単なことです。
人間の経済的な価値にはピンキリあれども、人間の持っている命の価値にはピンキリはないはずでしょう?ということです。
アメリカでテロによって命を奪われた方々も、途上国でのテロで、名もなく虫けらのように命を奪われたいった人々もまた、愛する人がいて、夢を持ち、今日よりよい明日を願い、日々を必死に生きていた同じ人間であり、両者の間に、本質的には何ら差異などありはしないということが言いたいだけです。
不愉快に思われた方がおいでになったなら、謝ります。
けれど、この天と地ほどの差別を、当たり前のこととして受け入れることは、私には到底容認できません。私は、全てのニンゲンには、健康で文化的な生活を送る権利があると信じています。
それは、永い永い暗黒時代を経てきた私達人類が、やっと掴みかけた、比較的新しい考え方かもしれません。
もちろん、そのような共通認識を持つに至っていない社会に暮らしている人々も、この地球上には多くいらっしゃることは理解しているつもりです。
難しい問題です。しかし、難しいからといって、考えることや、死者を悼むことをやめたくはありません。そして、この世で唯一絶対な死の前では、人種や国家、宗教や民族、財産や知識の多寡などは一切かかわりなく、人はただの人として、完全に平等です。
今回の事故の報道を見て、どうにも腑に落ちず、自分独りが飯を食っていくだけで、苦労の絶えない小市民の私、自らの立場も顧みず蟷螂の斧、自らが思うところを述べてみた次第であります。
まぁ、天邪鬼の愚痴みたいなものなので、どうぞお構いなく。また、バカがほざいていやがると、鼻でお笑いください。
読者諸君、失礼する。

2013/04/02

Post #771 Tokyo Lucky Hole Again!!

ARAKI TOKYO LUCKY HOLE,Published by TASCHEN

世界を股にぶっ掛けて、ついに俺の手元に本が届いた。
ニッポンが世界に誇る偉大な写真家、荒木経惟の『TOKYO LUCKY HOLE』だ。
この本の日本版に関しては既にご紹介している(http://fragment-sparks.blogspot.jp/2013/02/post-719-tokyo-lucky-hole.html)ので、熱心な読者の方は、またおんなじ本を買ったんか君は、アホじゃないの?そういうのを金をドブに捨てるというんだぜと、お嘆きのことだろう。
放っておいて欲しいぜ、俺の金だ、どう使おうと俺のカミさん以外に迷惑をかけるこたぁ、無いはずだ。だってほしかったんだもん、しょうがないじゃん。
CDだって、リマスタリングされて、音質は向上、なおかつ未発表のボーナストラックがついてたら、欲しくなるのが人情でしょう?こういうのは、まぁそうしたもんですよ。
それ以上に、700ページという、ちょっとした辞書くらいのヴォリュームになっているんで、迷わずクリックして買ってしまったのだ。
大いにマン足だ。
まず、日本版は判型も一回り小さく、いわゆるペーパーバックのようなざらっとした紙に印刷されていたんだが、このドイツ版はちゃんと上質紙だ。こうしてみると、上質紙ってのはツルツルしていて、俺の愛用しているRCペーパー(印画紙だよ)を思わせて、ヌメッとした写真的な質感があってよろしい。やはり、写真とお肌にはうるおいが必要だ。
それに何と言っても、日本版は20年くらい前に出版された初版だったから、紙の焼けが結構ありましたんでね。
Kabukicho,Tokyo
さて、このドイツ版は単に日本版をドイツで出版したという訳ではなく、まったく新たに編集しなおしているので、ちょっと芸術的にまとまっているような印象も受ける。というのは、日本版のほうは、伝説の写真雑誌『写真時代』の連載を、順番に並べていったような形式になっているのに対して、ドイツ版は一冊の写真集という、全体として構成された形に編集されているからだ。
具体的には、同時期に撮影されたと思しき、毎度おなじみのラブホヌード撮影が巻頭におかれて、読者をアラーキーによって開かれるおマタならぬエロチックな世界に誘う。そうしてどこをめくっても良識ある方々なら、目を背けたくなるような酒池肉林、阿鼻叫喚、狂喜乱舞のどんちゃん騒ぎの合間合間に、東京の風景写真が箸休めのように配置されており、一時の性の快楽にふける人々を、客観視するかのような、クールな視点を与えている。
まぁ、言うならばヨーロッパ人的なセンスでリミックスされているってことだろう。なにしろ、俺達日本人にとっては、その時代は、すでに過去のこととはいえ、自分自身の経験した出来事であるのに対して、ヨーロッパの皆さんからすれば、はるか極東の異民族の狂乱の一時代に過ぎないのだから、客観的な視点が設けられていても、驚くには値しない。
だからと言って、そのヴォルテージが減衰しているわけではなく、当然ドイツ編集なので、日本版のように、にっこりほほ笑む聖子ちゃんカット(若い読者には分からないだろうから言っておくと、当時絶大な人気を誇っていた松田聖子によって流行した髪型だ。俺の高校生の頃は、女の子はみんなそんな髪型であった。あぁ、既に30光年ほど離れている世界の話しだ。)の風俗嬢の股間は、ばっちりノーカットで、丸見えだ。丸見え過ぎて、当分焼肉は食いたくないってカンジだ。
で、そういう乱痴気騒ぎ(その中には、当然アラーキー自身も黒メガネでニタニタゲラゲラ笑ったり、すましたような顔をして写り込んでいる。)の合間合間に挟み込まれた、アラーキー独特の何とも言えない、少し侘しいような風景写真によって、性=生の儚さと、儚いがゆえの迸るような激しさが強調されているようにも思える。
その風景の中には、荒木の生家にほど近い浄閑寺の無縁墓地も含まれている。しかも2カットも。
この場所がどんなものか知らなければ、何故こんな墓の写真が置かれているのか、唐突な印象を持つことだろう。この墓地は、江戸時代、身寄りのない遊女=風俗嬢の死骸を葬った場所だ。アラーキーの本には、時折登場する。これが、新宿や渋谷の風景写真とともにおさめられているのは、意味深長だ。エロスの奥の細道が、タナトスにつながっているように感じられるぜ。しかし、それってヨーロッパ人にはまったく分かんないと思うんだけどな。何のキャプションもついてないし・・・。
とはいえ、こうした編集意図によって、より一冊の写真集としてまとまったものになってるように思う。ゲージュツっぽい雰囲気すら漂ってくるぜ。
また、日本版では割愛されていたようなカットも、ふんだんに取り込まれている。これはウレシイ。
100キロは超えていそうな肥満体の3人の女王様のカットなんか、てんこ盛りに増えている。別にデブ専ではないが、こういうリミックスは、かなり嬉しい。この3人のデブ女王様(もちろんSMの女王様だ)は、アラーキーの傑作選には、必ず出てくるわけだが、そのものすごいインパクトが質量ともにUPという感じだ。
さらには、英語、ドイツ語、フランス語の三か国語で、当時アラーキーとコンビを組んで写真時代を担っていた名編集者、末井昭氏による解説が記されている。日本版からの忠実な翻訳だ。これで、3か国語のお勉強にも役立つというおまけつきだ。
しかし、いくつか残念なこともある。
日本版で、末井昭氏によって付されていたと思しきユーモラスなキャプションは、一切割愛されている。あれはあれでけっこうクスリと笑わせてくれたのに。
また、日本版のラストを飾っていた印象深い包茎手術のシリーズは、そっくりカットされている。残念だ。残念きわまる。
しかし、まぁ随分と(オーダーしてから3週間)マタされた貝じゃない、甲斐があった写真集だってのは、間違いない。お値段およそ、15ドル。送料10ドル。
タッシェンホンコンと書いていながら、何故かオフィスはシンガポールであった。運送会社はスウェーデンポスト。不思議な組み合わせだったが、何とか手元に届いた。こいつがいったい世界のどこを経巡ってきたのか、とても気になるもんだ。
それはそうと、アベノミクスとやらのおかげで、マカを呑むようになったおじさんみたいに、日本の景気が良くなって、うっかり万一バブルがきちゃったりしても、すっかり去勢されたような草食系の若者と、過重労働でフラフラになったおじさんばかりのこの日本には、こんな毎日がどんちゃん騒ぎみたいな時代は、二度とは来ないだろうな。
なんてったって、すぐにセクハラだとかパワハラだとかって大騒ぎだからな。風俗だって、ひっそりとしたデリヘルばかりが大流行だ。まったく日本人も繊細になったものさ。その意味でも、この写真集は貴重な記録だと思うよ。

読者諸君、失礼する。そろそろ眠らせてもらうとするぜ。 

2013/03/31

Post #769 俺のマカロニほうれん荘はどこに消えたのか?

Tokyo
ふざけた大人になりたいと思っていた。

思いっきりふざけていながら、どこかさびしさを漂わせていたら、サイコーだ。
ふざけることで、世の中の上っ面の厳粛さや、下らない固定概念を笑い飛ばしてやりたくなる。親しい人を、楽しい気分にさせたくなる。そう、君がくすりと笑ってくれたりすると、俺は楽しいんだ。くだらない連中が、苦虫を嚙み潰したような渋面を見せてくれたら、しめたものさ。
大したこともないくせに、真面目くさった連中をぎゃふんと言わせたくて、うずうずしてるんだ。
ありきたりな大人になるのはゴメンだった。ユーモアに富んだ大人になりたかったんだ、小学4年生くらいからずっとね。
そう、子供の頃に読んで衝撃を受けた、鴨川ツバメの『マカロニほうれん荘』の登場人物のように。
俺の人生に影響を与えた本を5つ挙げるなら、中上健二『千年の愉楽』、吉本隆明『共同幻想論』、手塚治虫『火の鳥』、森山大道『新宿』と並んで、『マカロニほうれん荘』はベスト5に堂々のランクインだろう。
何年か前にネットで全巻セットで買ったんだが、どこにも見当たらない。余りにも本が増えすぎて、深夜の飲み屋街の客待ちタクシーのように、2列に並んでいる本棚の中には見当たらない。
友人に貸したと思っていたんだが、心当たりの友人に訊ねても借りていないという。
ブックオフに売り払ってしまったんだろうか?
一体ぜんたいどうしたことだ?
借り暮らしのアリエッティに持っていかれてしまったのか?だとしたら、なかなかアリエッティも面白い奴だ。
無いと思うと、強烈に読みたくなる。それが人間の生理だ。
重要な問題だ。アベノミクスの行方よりも、マカロニほうれん荘の行方のほうが気にかかる。
しかし、またもや本屋なりアマゾンなりで散財するのは、癪だ。
もう少し、地道な聞き込みをしてみるか・・・。
そういえば、諸星大二郎の『妖怪ハンター』シリーズも、知人に貸したっきり、4年くらい帰ってきていないな。冗談じゃないぜ。俺は物惜しみしない性格だから、気に入った本とかCDとか、直ぐに人に貸して、いつしか貸したことすら忘れ、失くしてしまうのだ。困った性格だ。そろそろ、なんでも持って行ってイイよってのは、改めたほうがイイのか?それとも、貸出帳を作って、図書館みたいに管理するべきか?いずれにしても、けち臭くってしみったれたカンジがして嫌だなぁ・・・。

うむ、強烈に読みたい。誰か俺から借りていっていないかい?
読者諸君、失礼する。

2013/03/30

Post #768 しまった!

Tokyo
久々に、仕事でやらかしてしまった。完全に俺のミスですだ!
せっかく立てた壁の位置が600ミリ、ずれていたのだ。
力なく、笑って済ましたいところだが、そうはイカンよな。昨日の夜は、そんなわけで、若い仲間と一緒に、必死になって壁を解体していたよ。
読者諸君、失礼する。