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2018/12/02

Post #1712

東京2015
前回も書いたように、久々に出張して、首都圏で仕事をしている。
僕は食文化から商習慣まで、独特で排他的な中部圏の人間だ。赤だしの味噌汁が飲みたくて仕方ない。味覚のテイストが、ちょっと違うのだ。
同じように内装業界といっても、使っている材料、職方と職方の間の受け持ち範囲の微妙な違いなどに、地域性の違いを実感する。
なにより、建築現場で働く外国人労働者の比率の違いに、俺は驚かされる。

僕の住む名古屋界隈でも、ヴェトナム人や日系ブラジル人の職人はちらほら見かけた。日系ブラジル人は、リーマンショック以降めっきり少なくなったが、残った若者が、自動車業界の工場労働者になることを選ばず、建築業に参入してくるといった構図だった。
ヴェトナム人は、今、話題になっているいわゆる『技能実習生』といわれる人々がほとんどだった。
解体業者には、いつの頃からかトルコ人が進出していた。日本人の解体業者は、家屋解体などでは、彼らの単価に太刀打ちできないとこぼしていたものだ。
他にも、コンビニの店員には中国人はもちろん、ネパール人も多く見受けられた。

僕の住んでいる町は、かつて繊維産業で有名だったのだが、いまや価格的な競争力をなくし、ほとんどの工場が廃業してしまったのだが、わずかに生き残った工場で働くのは、中国人の女性たちだった。彼女たちが、小さな古い家で共同生活をしているのを、日常的に目にしていたのだ。そして、彼女たちがあり得ないほどの低賃金で働かされているというのは、公然の秘密だった。
同じような構図は、第一次産業、小規模な第二次産業によって地域経済をかろうじて延命させているような地域には、普遍的なものだと思う。

つまり、僕ら日本人の生活は、こうした外国人労働者の存在がなければ、成立しなくなっているということだ。そう、古代ギリシャやローマの奴隷制みたいにね。
仕方ない。日本人はもう、工場で何かを作ったり、農業や漁業をしたり、工事現場で働いたりすることなんかに価値や意味を見出せなくなっている。価値や意味を見出せないから、できるだけ金は払いたくない。金がもうからないから、人手不足になる。そこで、国を挙げて労働のアウトソーシングという流れになるわけだ。

まったくもって仕方ない。時代の流れなんだろうよ、仕方ない。

いつものことだが話がそれた。(しかし、それたところに実は本当に言いたいことが書いてあったりする場合もあるものだ。)
今回出張してみて実感したのは、首都圏の建築現場における、中国人、ヴェトナム人の比率の高さだ。何しろ、中国語やヴェトナム語の事故防止用啓発ポスターが貼ってあるくらいだ。俺が受け持っている現場には、常時15,6人の作業者が働いているが、その8割がたが中国人の若者たちだというのが現実だ。
こういった話をすると、こういう現実に縁のない読者の方々は、意思疎通もできず、単純労働に従事している外国人労働者というイメージを持つのかもしれない。
しかし、それは間違っていると断言しておこう。
彼らの中には、日本人よりも技能に優れた職人がたくさんいる。そうでなくても、一般的な同年代の日本人の職人さんの技量に、何ら劣るところはない。当たり前だろう、同じ人間なんだもの。
彼らは仲間同士、大きな声で話しながら仕事をしている。にぎやかで楽しそうだ。
(かつては僕たちも、仲間とにぎやかに冗談を言ったり、仕事のおさまりに関して言いあったりしながら陽気に仕事に取り組んでいた。しかし、いつしか仕事は細分化され、階層化され、協力して一つのものを作っていた仲間たちは、単なる賃労働者の寄せ集めに分断され、不機嫌に年を重ねてしまった。)
そういうと、こちらの作業指示もよくわからない外国人労働者ってのをイメージするかもしれないが、それは違う。彼らは僕らに対しては、日本語で話してくれる。多少怪しいところはあっても、日本人が話す英語だって怪しいもんだぜ、大目に見なけりゃ。それどころか、同じ日本人でも、何言ってるのかさっぱりわからない馬鹿野郎には、小生今日までお目通りかなったこと、実に多士済々という有様であった。
これが逆の立場だったら、どうだろう。必要だから身についた日本語だとしても、今の自分が、上海あたりにゆき、中国語で作業指示して仕事ができるかと自問すれば、彼らの優秀さは、自ずと理解できる。
僕はせめて、『你好』とか『早上好』といって挨拶をかわし、『明天見!』といって帰っていく彼らを送り出す。或いは『小心!』と声をかけて注意を促す。彼らはそんな僕のささやかなふるまいを人懐っこく笑って喜んでくれる。それはつまり、彼らに少しなりとも歩み寄ろうとする日本人が、どれほど少ないかという裏返しでもあるように思える。

こういうことを書くと、いろいろとご批判を頂戴することもある。
しかし、銀河系の中心から見れば、僕も、貴方も、彼らもみな、ひとしく辺境の野人に過ぎないという視点で、僕は物事を考えている。人間を同じ人間として遇したいだけである。燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんやである。

2015/11/19

Post #1681

Tokyo
自分の言葉が相手に届いている実感がないと、どうにも無力感や徒労感におそわれる。
どうせ届かないのなら、黙っていればいいじゃないかとも思う。
人間は、根本的に孤独な存在だと思う。自分という牢獄にとらわれた囚人だ。

一方で、自分の発した言葉によって、相手が感じ入ったりすると、なんだか俺は心にもない虚言を弄して、相手をたばかってしまったのではないかという、居心地の悪さを感じたりもする。

自分が正しそうなことを言っているのを客観的に見ると、自分が偽善者のように思えてきて、うんざりする。そして、その偽善者の言葉に納得する相手を見るにつけ、自分が偽り多い邪悪な人間なのではないかと疑わしくなる。

とりわけ、メールやチャット、そしてこのブログでもそうだけれど、書き言葉でコミュニケーションする機会が多いいま、その想いは強まるばかりだ。ほんらい言葉は、声質、調子、表情、語気など、文字では表すことができないもろもろの要素によって、補完されるべきものだと思う。

間違いなく目的を達すると思えるのは、相手を非難し断罪する言葉だろう。
言葉は時に、人のこころを踏みにじる暴力装置となりうる。これについては、いろいろと反省するべきことが自分にもたくさんある。
だから、そんな言葉はもう使いたくはない。そんなくだらないことで、人生を浪費するような暇はどこにもない。

しょせん、心と心が深く結びついて、信頼しあっているニンゲン相手でないと、本当の心なんて伝わらない。そしてそれは、往々にして、言葉以外の態度でしか伝わらないのではないかと思う。

そこらあたりが、このブログを、時折自分自身が生み出してしまった薄気味悪い節足動物のように感じて、放り出し、消し去ってしまいたくなる原因でもあるだろうし、ごく少数の、自分の心をゆだねられる相手としか言葉を交わしたくなくなる原因でもあると思う。

読者諸君、失礼する。

2015/09/19

Post #1628

Shinbashi,Tokyo
朝、行楽客で満員の新幹線に乗って東京に戻ってきた。
戻ってきたという言い方が、もうすでにおかしい。
しかし、山手線に乗り換え、銀座にもっとも近い有楽町の改札をくぐったときのウキウキするような高揚感は、単に現場に戻ってきたというものではなく、住み慣れた町に帰ってきたような類のものだった。

2か月以上ここで悪戦苦闘していたからな。

この連休、完成に向けてどこまで近づけることができるか、楽しみだ。

ふと振り返ると、自分が仕事が大好きだってのが、わかる。苦しんだ現場ほど、実は愛着があるものさ。

読者諸君、失礼する。明日も朝早いのさ。

2015/09/18

Post #1627

Tokyo
世間はあすからシルバーウィークとかいう連休だ。いつの間にそんなもんができたんだ?知らなかったぜ。
もう何年も祝日なんて関係ない仕事をしているからな。
明日から俺はまた、東京に舞い戻って、現場を切り盛りするんだ。
これから荷物の準備もしなくちゃいけない。こうしちゃいられないんだ。
だから、これで今夜は失礼するぜ。

やれやれ、たまにはのんびりプリントしたいぜ。

読者諸君、失礼する。よい休日を楽しんでおくれ。

2015/09/13

Post #1622

原宿、東京
今頃になって、この夏の仕事の疲れがどっと出ている。
腰というか、ケツというか、具体的に言えば、骨盤の右の仙腸関節に鈍い痛みが常駐している。
これとリンクするように、右の腿やふくらはぎに圧迫するような違和感がある。
整体に行っても、整形外科に行ってもよくはならない。整形外科医は俺の同級生なんだが、これまたレントゲンを撮って投薬するだけで、患部に触ってみようともしない。それでわかるのか?
もっとも、男にそうそうケツを触られるのも、気が進まないがね。
春先の痔の話で懲りてるんだ。

そんな状況でも、カミさんのマタニティーウェアを買いに行ったり、一昨年の正月過ぎに死んだばあさんの納骨を済ませたりと、なにかとやらねばならないことが目白押しで、俺、すっかり疲れちゃったんだよね。それで昨日は、どうにもこうにも動けなくて、ブログを書くことすらままならなかったわけだ。

なぁに、人生そんなときもある。そんなときばかりだったら、困るがね。

俺が東京で働いているうちに、カミさんは切迫流産の危機を乗り越え、何とか安定期に突入してくれた。ありがたいことだ。
俺が帰ってくる直前には、腹のなかで、もぞもぞと赤ん坊は動き始めていたらしい。いわゆる胎動という奴だ。
しかし、俺が帰ってきたとたん、ピタリと動きが止まってしまったんだとよ。

きっと、いままで聞いたことのない声なんで、警戒してるんだろうよ。

参ったな。

そんなわけで、俺は毎日カミさんの大きくなりはじめ腹に手を当てて、『おれがお前のおとーさんだぞ、覚えとけよ』と言い聞かせているわけだ。
さて、効果はあるのかな?

読者諸君、失礼する。どうにも俺、風邪ひいてるんじゃないのかな。傘が嫌いだからって、台風の大雨のなか、ずぶ濡れになって歩いてたり、パジャマをもっていくのが荷物になるからって、パンツ一丁やフルチンで、クーラーかけっぱなしで眠っていたからな。やれやれ、無理もないぜ。

2015/09/08

Post #1617

Ikebukuro,Tokyo
写真はかつて、池袋で撮ったものだ。池袋に行くと、必ず職質を喰らう。俺には肌が合わない街なのさ。中野区には沼袋という町もあるらしい。そこは静かな住宅地だそうだ。
きっと俺は、そっちのほうがお似合いだろうよ。
誰だよ、池袋の風俗街のほうが似合うって言ってる奴は。

もうあと二日ほどで、いま手がけている銀座四丁目の現場から撤退だ。
残念だ。残念きわまる。引継ぎが大変だ。内装、外装、仮設工事、電気、設備、気になる項目はまだまだ山ほどある。監督は全体を理解してなきゃならないからな。中日ドラゴンズの低迷の原因は、谷繁監督が、選手なのか監督なのかはっきりしないところにある。
監督は、どっかり座って全体を見て、先を読んで、野郎どもを完成まで導いて行けばいいのさ。

銀座中央通りに面したハイブランドの路面店を手掛けるなんてのは、店舗屋としてもなかなか経験できることじゃない。
いろいろな不可避にして予想外のトラブルで、工期が延びてしまったとはいえ、残念きわまる。
もう、すぐに次の仕事が俺を待っているのだ。名古屋に戻らなけりゃならんのさ。
現場の野郎どもは、今まで剛腕辣腕とほとばしる男気、そして響き渡る大声で現場をまとめて引っ張ってきた俺がいなくなることが、不安で仕方ないらしい。

そりゃそうだろう。仕事のできる監督ならそこいらにごまんといる。出来ない監督は、もっとたくさんいる。しかし、俺の代わりはそうはいないのさ。強烈なキャラクターで現場を引張ってきたんだ。

前にも書いたが、最後までいられないとわかったときには、俺は誰もいなくなった現場で、悔しくて涙を流したこともあったさ。
けど、それはもう、遠い昔のことのように感じる。
開き直って、今ここでできる最善を尽くしてきたから、まったく悔いはない。

しかし、俺は懲りない男なんだ。

次の仕事がカレンダー通りっていう、まるで公務員かサラリーマンみたいな仕事だってのをいいことに、休みの日には銀座に戻って、厚かましくも現場に立って陣頭指揮するつもりなんだ。9月にはちょうどシルバーウィークなんて素敵なものもあるしな。ロスタイムみたいなものさ。

俺は自分の仕事が好きなんだ。
しっかり仕事をこなして、君たちに恥ずかしくない男でいたいんだ。
カミさんが妊娠してるのに、どういうつもりだって言われそうだけど、俺のカミさんだって、働いてるんだから、職業人としてのけじめの付け方くらい、ちゃんとわかってくれているのさ。

読者諸君、失礼する。俺は疲れているさ。けど、精神まで疲れてるつもりはさらさらないのさ。

2015/08/15

Post #1593

Tokyo

本日、8月15日は終戦記念日だ。

毎年、この終戦記念日という言葉に、引っかかる僕なのさ。
まるで、ごみ処理場をクリーン・センターって言い換えるようなもんだろう?クリーンセンターなんて言うだけで、僕達自身が出したくせえゴミの臭いがぷんぷんしてんのに、さも小綺麗な場所のように感じるだろ?そんな胡散臭さを感じるのさ。

今から70年前の今日、かつてアジアに存在した覇権国家、大日本帝国って国はアメリカやイギリスを中心とした連合国に敗北したんだ。
ちなみに、この連合国を英語で表すとThe United Nation、つまり皆さんお馴染みの国連そのものだ。
戦後レジームから脱却するというのは、世界の常識からすれば、国連から脱退し、いわゆるならず者国家になることを意味するのさ。そう、戦前の大日本帝国が、当時の国際連盟から脱退したようにね。
完膚なきまでに叩きのめされたあとで、皆様の安部ソーリがつまびらかに読んでいないといっていた『ポツダム宣言』を受諾し、ありていにいえば降参したんだ。
それまで、この大日本帝国という国は、西洋文明へのカウンターたらんとして、アジアの植民地解放を謳い、イギリスやオランダの植民地をぶん取り、中国大陸から欧米人を叩きだした。
そして、やったことと言えば、そこを大日本帝国の植民地とし、或いは傀儡政権をつくり、自分たちに協力しない現地の人々を、派手に弾圧した。
町の気のいい男たちは、赤紙一枚で戦場に送り込まれ、ヒロポンを打たれ、良心理性は摘み取られ、軍隊という組織に追い詰められた挙げ句に、方々でろくでもない残虐行為を行った。そして、その悔恨を胸の奥にしまいこんだまま、多くの人がこの世を去っていったに違いない。

証拠がない、資料がない、だからやってないなんてことは、日本のなかでしか通用しない話しだろう?中国や韓国、フィリピンやインドネシア、シンガポールやマレーシアに行って、そう主張してみればわかるだろう。
実際に中国では、日本軍は『東洋鬼=トンヤンクィ』と呼ばれて人々の憎悪の的になった。僕はそれを死んだお婆さんから、直に聞かされて育った。
彼女は戦時中大陸に暮らしていたのだ。実際に見てきた人間のいうことは信用に値するぜ。
この無謀な戦争に勝利するために、国民のあらゆる力は総動員された。しかし、豊富な物量と合理的で容赦のないアメリカの圧倒的な戦力の前に、大日本帝国は消耗し尽くしたあげく、無惨に敗北したんだ。
そして、大日本帝国という国はなくなり、アメリカを中心とした国連によって統治されたのちに、日本国という別の国家が生まれた。そう、ある意味で別の国なんだ。なぜって、国家と言うのは、国民の契約によって成立するものだから。憲法ってのは、その契約書みたいなもんだ。

かろうじて天皇制は残された。
陛下はおなくなりになるまで、戦争の犠牲者を弔い続けられた。それは大日本帝国で軍の総帥であった昭和大帝が自らに課した戦争責任の取り方であったと思う。その御心は今上の陛下にも明らかに継承されている。

憲法は変わった。戦争にうんざりしていた国民はもちろん、政治家もみな、今日の日本国憲法を歓迎した。だって、もうこの憲法があるかぎり、くだらない戦争で何百万にもの人々が、焼肉や挽き肉みたいな無惨で惨めな死を、押し付けられることがなくなったんだから。

戦争を知る人々が、世を去るにつれ、あの戦争には大義があったとかいう言説が飛び交い、再び日本が戦争の出来る国にしようという政治の動きに歯止めがかからない。

僕は、70年前に終わった戦争で亡くなった全ての人に申し訳ない。そんな思いで胸いっぱいだ。

僕には来年、子供が出来るだろう。
戦争中のプロパガンダに『名誉の戦死と喜ぶ老母』というものがあった。冗談じゃない。

僕は、自分の子供が戦争で死んでしまっても、喜んでいるように振る舞わなければならないような、嘘で塗り固めた嫌な社会は、僕は真っ平だ。

自分の良心が、到底受け入れられないことに異を唱えると、隣近所から非国民と謗られ、場合によっては投獄され処刑されるような暗い社会なんて、僕は真っ平だ。

国民同士が、互いの言葉に聞き耳をたてて、密告することが奨励されるような社会なんて、僕は真っ平だ。

ネットの社会では、すでに似たようなことがおこりつつあるように感じるけどね。みんなが、匿名の裁判官のように振る舞っている。ボブ・マーリーは、『誰かを指さして非難するのなら、自分の指が汚れていないか、まず確かめろ!』と言っていたけど、どんなもんかな。

若者たちが、日本とはまったく縁もゆかりもない国で、自分たちに関わりのない戦争の片棒を担がされた挙句、弾に当たって殺されてしまい、英霊としてどこやらの神社に祀られるような社会も、気に入らない。


僕は、生まれてくる子供に、そんな不幸な世の中で苦しんで欲しくはない。

だからせめて今日は、戦争によって絶ち切られた何百万人もの人々を悼もう。

戦争によって、人生を狂わされ、大切なものを奪われて、なおも生き続けなければならなかった人々の苦しみを偲ぼう。

そしてそれは日本人に限ったことではなく、全てのあの戦争で、命を落とし、また苦しんだ人達全てのために。

この日が、奇しくも死者があの世から帰ってくるというお盆の時期に当たることに、僕はいつも不思議な符号の様なものを感じるんだ。

読者諸君、失礼する。これについてとやかく言い合うつもりはない。僕は、黙って悼みたいんだ。

2015/08/09

Post #1587

Tokyo
Paul Weller
Wood Cutter's Son

Sugar town yea has turned so sour
It's people angry in their sleep
There's more small town, oh paranoia
Sweepin' down its evil sheets

Give me the chance
I'll cut you down with a glance
With my small axe, so help me
Though I'm only one and though weak I'm strong
And if it comes to the crunch
Then I'm the woodcutter's son

Cutting down the wood for the good of everyone, yea

You can tell yea, it's witching hour
You can feel the spirits rise
When the room, goes very quiet
Oh and there's hatred in their eyes
(Hatred)

You better give me the chance
I'll cut you down with a glance
Yeh, with my small axe, so help me
Though I'm only one an' though weak I'm strong
And if it comes to the crunch
Then I'm the woodcutter's son

Cutting down the wood for the good of everyone
Cutting down the wood for the good of everyone, yea

There's a silence when I enter
And a murmur, oh when I leave
You can see their jealous faces
Oh I can feel yea, the ice they breathe
(Ice they breathe)

You better give me the chance
I'll cut you down with a glance
Yeh, with my small axe, so help me
Though I'm only one and though weak I'm strong
And if it comes to the crunch
Then I'm the woodcutter's son

Cutting down the wood for the good of everyone
(So)
Cutting down the wood for the good of everyone
(Yea)
Cutting down the wood for the good of everyone
Cutting down the wood for the good of everyone
Cutting down the wood for the good of everyone


ふと、この曲を思い出して、口ずさんでいた。
虚飾も、冷笑も、憎悪も、嫉妬も、心ない人の言葉も、きこりの息子がその小さな斧で切り倒すように蹴散らしてしまうような、素朴で真っ直ぐなニンゲンでいたいと思ってね。
『俺はたった独りで弱いけれど、俺は強いんだ』ってところが、いいのさ。
自分の弱さを知らない奴は、本当の強さを手にすることはできないんだ。
たった独りで現実に立ち向かえない奴は、本当に強いなんて言えないからだ。

読者諸君、失礼する。俺にとっての小さな斧は、いったい何だろう?

2015/07/02

Post #1548

歌舞伎町2丁目、新宿、東京
久々に東京で仕事だ。
行きの新幹線は、昨日の新幹線車内での焼身自殺の影響で、混んでるんじゃないかと心配していたが、むしろガラガラだった。
ラッシュ時間をさけたのも良かったかもしれないが、誰かがまた焼身自殺しちゃたまらないって、みんな新幹線に乗るのを敬遠したのかもしれないな。
まったく、そんなの見たら、しばらく飯が食えなくなりそうだぜ。すくなくとも焼き肉はしばらくご遠慮させていただくことになるだろうよ。
新幹線の電光掲示板のニュースでは、その焼身自殺した男は、涙を流しながら油をかぶり、自分自身に火をつけたとあった。そりゃ、そんな形でこの世界とおさらばするんだ。涙くらい流したくもなるわいな。
無惨で不可解な事件に、人間の生きる悲しみを垣間見たような気がしたよ。

東京で仕事をすると、どうにも食費がかさむ。
俺は食うことに金をかけるのは好きじゃないんで、なかなかに辛いものがある。
これから2か月も続くのかよ・・・。

たまらないな。

築地本願寺のすぐ東のマンスリーマンションを借りてこの夏を過ごすのさ。こぎれいだが、殺風景だ。現場は銀座で、宿から歩いても10分そこそこ。悪くない。時間を見つけて月島とかぶらぶらしてみるとするか。

しかし、そんな余裕が果たしてあるのかな?

読者諸君、失礼する。

2013/06/28

Post #859 今日は写美に行くんだぜ


Robert Capa "D-Day" Tokyo Metropolitan Museum of  Photography
いかんいかん、また風呂でウトウトしてしまった。明日はお客さんの会社主催の安全大会に出るために、原宿の明治神宮参集殿とやらにいかねばならぬというのに。そんなものに出ても金にはならないんだが、これも浮き世の義理だ。仕方ない。
そうしてついでに恵比寿の東京都写真美術館に足を運ぶのさ。久々だ。
写真は撮るのも楽しいし、プリントするのも愉しい。写真を見ながら仲間とああだこうだ言うのも愉しい。そしてもちろん、美術館や写真集でグレートな写真を見るのはすごく愉しいのだ。とりわけ、美術館でナマのプリントを見るのは、この上ない喜びだ。コンドーム無しでセックスするみたいにストレートなかんじだ。例えが下品だが、許してほしい。百歩譲って、プロのピッチャーの投球を受け止めるようなものか。
いずれにせよ楽しみだ。
今夜の写真は写美のエントランスに複製され壁画のようになっているキャパのノエルマンディー上陸作戦をとらえた傑作を複写の複写したものだ。キャパはこの時、弾丸が飛び交うなか、アメリカ軍の兵士たちと共に、揚陸挺から海に降り立ち、波を掻き分けるようにして前進しながら写真を撮った。2台のコンタックスを首から下げ、フィルム交換すらできなかった。写真は恐怖と緊張のため、構図もいわゆる絵になってないし、ピントも合っていない。像もひどくぶれている。しかもフィルムを受け取ったロンドンのラボが現像を失敗してしまったため、ガサガサな画像だ。けれど、にもかかわらず、これは今までくそほどられて来た写真のなかで、最も素晴らしいものの一つだというのは間違いないと思う。もちろん、俺はこの写真が大好きだ。で、好きな女の子の写真を撮るように、俺が最も好きな写真のひとつを複写してみたってわけだ。
写真は現実の複写であり、複写である以上、無限に複写され得るものだ。オリジナリティーなんてのは、写真に関してはあんまりないような気がするよ。

読者諸君、失礼する。著作権侵害だとか心外なことを言うのはやめておくれよ。 

2013/06/04

Post #835 強制労働について考える

Tokyo
政治家の調子こいた発言が続いている。あまりの暴走ぶりに、国連からも物言いがつく始末だ。
情けない。戦後70年近く経とうというのに、未だに我が国は過去の振る舞いを糊塗しようとしている。
従軍慰安婦問題の焦点が、政府や軍隊組織が関与していたのか?そして、それは強制労働だったのかというところにあるようだ。政治家は、政府や日本軍としては、その運営に関与していないと言っているようだ。
あくまで、民間によって運営され、本人たちの自由意思に基づいているというのだ。
ちょっと待てよ。
自由意思というのなら、『この仕事、しんどいし、私には向いてないみたいだから、もう辞めよっかなぁ』と思った時、自由に辞めてしまえるものだったはずでしょう?
だったらそれは確かに自由意思だろう。しかし、そんなもんじゃなかったんでないの?
毎日まいにち、何十人もの男に次から次に突っ込まれてたら、誰だって嫌になるだろうよ。痛いだろうしね。けど、それで辞めますと言って、はいそうですかって聞き分けのイイことは通用しなかったんだとすれば、どんなに言いつくろっても、それは明らかに強制労働だったんだと、実感として俺は思うぜ。
民間によって運営されていた、軍は無関係だったっていっても、お客はみんな大日本帝国軍人の兵隊さんばかりなわけですからね。そこから、辞めたって逃げ出したりしたら、どんな目にあわされるかわかったもんじゃありませんぜ。民間たって、そこらの雑貨屋が前線について回ってたわしやなんかを売るってのとは、意味が違うだろうし、そもそも、軍隊との何らかのコネクションがないと、そんな商売できるわけもないでしょう。

さて、森林を伐採し、ゴムだのなんだのプランテーションを作ったりして、現地のニンゲンをこき使っていたのも、これは強制労働です。何故って、森林のなかで狩猟採集を営んでいた人々の住処を奪い、生活の糧を得る術を失くし、プランテーションでの賃労働以外に生きる方途が無いようにしてしまう訳ですから、これは広い意味での強制労働なわけです。
蟹工船なんかも、まぁ一種の強制労働ですよね。もう辞めたって言ったって、凍えるような海の上なんですから、どうしようもありませんからね。
俺自身は以前、会社員として働いて頃には、『バカ野郎、俺達ぁ奴隷じゃないんだぜ!』と上司にしばしば悪態をついたものでした。ただ、実際の奴隷と違ったのは、コーポレートガバナンスに関するあまりの問題の多さと、同僚たちのモチベーションとスキルの低さと、現場サイドのことをまるっきり理解していない上司にホトホトうんざりして辞めることにしたとき、すんなりと辞めることができたということです。奴隷ではこうはいきません。昔々に自分が属していた宗教では、もうついて行けないので辞めたいといったら、イロイロと内情や秘密を知り過ぎているので、辞めさせてはくれませんでした。それどころか、もうちょっとで殺されて名古屋港に沈められるところでした。
そういった経験があるので、自由ということについては、俺はなかなかに敏感なんです。

そっからすれば、従軍慰安婦問題ってのが、強制労働であり、慰安婦の皆さんは、アメリカさんの言うところのセックス・スレイブ=性奴隷だったってことが明らかになると思いますが、如何なもんですかね。
言葉でどんなに言いつくろってみても、これは仕方ないことだと、俺には思えるんだけどな。

読者諸君、失礼する。自由ってのも、これはこれでしんどいもんなんです。なんてったって、野良なわけですからね。

2013/04/17

Post #786 こういう事を言うと叱られそうだけど、うわぁ言っちまった!

Tokyo
ボストンで、テロがありましたね。
”愛国者の日”という祝日に行われた、ボストンマラソンのゴールでのことでした。
3人の方が亡くなり、多くの方が傷を負いました。その惨状は目を覆いたくなります。
お見舞い、お悔やみ申し上げます。
犠牲者は世界中に公開され、多くの方々がその死を悼んでいらっしゃいます。

しかし、この21世紀に入ってから、この糞ったれな世界ではテロが相次いでいます。
圧倒的な武力を持つ覇権国家に戦いを挑むには、テロしか手段がないのだろうと推察しております。もちろん、テロを称揚したり、美化したりする意図は、当方まったく持ち合わせてはおりません。デリケートな問題なので、誤解の無いようにお願いしたいものです。
今もなお、アフガニスタンで、イラクで、アフリカで、インドで多くの民間人の方々が、テロによって命を失っております。
また、民間人がテロリストと間違われ、爆撃を受けて命を失うという悲劇も、頻発しています。結婚式の祝宴が、テロリストの集会と間違われて爆撃され、新郎新婦はもちろん、多くの参列者がぶっ殺されてしまったという悲劇も耳にしたことがあります。
かけがえのない家族を、理不尽な暴力によって奪われてしまったしたら、人種や宗教に関わりなく、誰だって悲しみのどん底に突き落とされ、やり場のない怒りに打ち震えることでしょう。ほんの少し、想像力を使って、被害者の方々の身になってみれば、分かることだと思います。
もう一度、ボストンでのテロの犠牲者をお悔やみします。
しかし、TVやネットでろくに報道されないだけで、この世界中で、自爆テロなどの惨事による犠牲者は、後を絶ちません。そして、今やそういったニュースは新聞の国際欄の片隅に、ちょろりと記されるだけです。まるで、途上国で起きるテロの話題など、日常茶飯事でニュースにもならないとでもいうような雰囲気です。
30人死んだって、死者の名前なんて、報道されることもありません。死んでいった方々は、単なる数字に還元されてしまっておるわけです。で、ふーん、で終わっちゃうわけです。
単に生まれた国が違うだけで、肌の色が違うだけで、文化が違うだけで、どうしてこう違ってしまうのでしょうか?
私には、どうしても納得いきません。
ボストンのテロによる犠牲者を貶める意図はもちろんありません。
ここんところ、くれぐれも誤解の無いようにお願いいたしますよ。FBIや公安委員会なんかに、不穏な人物だなんて思われたくありませんので。アメリカに行く機会があった時に、アメリカ社会にとって、好ましくない人物として入国拒否されるのは、ゴメンですから。
私の言いたいことは、実にシンプルで簡単なことです。
人間の経済的な価値にはピンキリあれども、人間の持っている命の価値にはピンキリはないはずでしょう?ということです。
アメリカでテロによって命を奪われた方々も、途上国でのテロで、名もなく虫けらのように命を奪われたいった人々もまた、愛する人がいて、夢を持ち、今日よりよい明日を願い、日々を必死に生きていた同じ人間であり、両者の間に、本質的には何ら差異などありはしないということが言いたいだけです。
不愉快に思われた方がおいでになったなら、謝ります。
けれど、この天と地ほどの差別を、当たり前のこととして受け入れることは、私には到底容認できません。私は、全てのニンゲンには、健康で文化的な生活を送る権利があると信じています。
それは、永い永い暗黒時代を経てきた私達人類が、やっと掴みかけた、比較的新しい考え方かもしれません。
もちろん、そのような共通認識を持つに至っていない社会に暮らしている人々も、この地球上には多くいらっしゃることは理解しているつもりです。
難しい問題です。しかし、難しいからといって、考えることや、死者を悼むことをやめたくはありません。そして、この世で唯一絶対な死の前では、人種や国家、宗教や民族、財産や知識の多寡などは一切かかわりなく、人はただの人として、完全に平等です。
今回の事故の報道を見て、どうにも腑に落ちず、自分独りが飯を食っていくだけで、苦労の絶えない小市民の私、自らの立場も顧みず蟷螂の斧、自らが思うところを述べてみた次第であります。
まぁ、天邪鬼の愚痴みたいなものなので、どうぞお構いなく。また、バカがほざいていやがると、鼻でお笑いください。
読者諸君、失礼する。

2013/04/02

Post #771 Tokyo Lucky Hole Again!!

ARAKI TOKYO LUCKY HOLE,Published by TASCHEN

世界を股にぶっ掛けて、ついに俺の手元に本が届いた。
ニッポンが世界に誇る偉大な写真家、荒木経惟の『TOKYO LUCKY HOLE』だ。
この本の日本版に関しては既にご紹介している(http://fragment-sparks.blogspot.jp/2013/02/post-719-tokyo-lucky-hole.html)ので、熱心な読者の方は、またおんなじ本を買ったんか君は、アホじゃないの?そういうのを金をドブに捨てるというんだぜと、お嘆きのことだろう。
放っておいて欲しいぜ、俺の金だ、どう使おうと俺のカミさん以外に迷惑をかけるこたぁ、無いはずだ。だってほしかったんだもん、しょうがないじゃん。
CDだって、リマスタリングされて、音質は向上、なおかつ未発表のボーナストラックがついてたら、欲しくなるのが人情でしょう?こういうのは、まぁそうしたもんですよ。
それ以上に、700ページという、ちょっとした辞書くらいのヴォリュームになっているんで、迷わずクリックして買ってしまったのだ。
大いにマン足だ。
まず、日本版は判型も一回り小さく、いわゆるペーパーバックのようなざらっとした紙に印刷されていたんだが、このドイツ版はちゃんと上質紙だ。こうしてみると、上質紙ってのはツルツルしていて、俺の愛用しているRCペーパー(印画紙だよ)を思わせて、ヌメッとした写真的な質感があってよろしい。やはり、写真とお肌にはうるおいが必要だ。
それに何と言っても、日本版は20年くらい前に出版された初版だったから、紙の焼けが結構ありましたんでね。
Kabukicho,Tokyo
さて、このドイツ版は単に日本版をドイツで出版したという訳ではなく、まったく新たに編集しなおしているので、ちょっと芸術的にまとまっているような印象も受ける。というのは、日本版のほうは、伝説の写真雑誌『写真時代』の連載を、順番に並べていったような形式になっているのに対して、ドイツ版は一冊の写真集という、全体として構成された形に編集されているからだ。
具体的には、同時期に撮影されたと思しき、毎度おなじみのラブホヌード撮影が巻頭におかれて、読者をアラーキーによって開かれるおマタならぬエロチックな世界に誘う。そうしてどこをめくっても良識ある方々なら、目を背けたくなるような酒池肉林、阿鼻叫喚、狂喜乱舞のどんちゃん騒ぎの合間合間に、東京の風景写真が箸休めのように配置されており、一時の性の快楽にふける人々を、客観視するかのような、クールな視点を与えている。
まぁ、言うならばヨーロッパ人的なセンスでリミックスされているってことだろう。なにしろ、俺達日本人にとっては、その時代は、すでに過去のこととはいえ、自分自身の経験した出来事であるのに対して、ヨーロッパの皆さんからすれば、はるか極東の異民族の狂乱の一時代に過ぎないのだから、客観的な視点が設けられていても、驚くには値しない。
だからと言って、そのヴォルテージが減衰しているわけではなく、当然ドイツ編集なので、日本版のように、にっこりほほ笑む聖子ちゃんカット(若い読者には分からないだろうから言っておくと、当時絶大な人気を誇っていた松田聖子によって流行した髪型だ。俺の高校生の頃は、女の子はみんなそんな髪型であった。あぁ、既に30光年ほど離れている世界の話しだ。)の風俗嬢の股間は、ばっちりノーカットで、丸見えだ。丸見え過ぎて、当分焼肉は食いたくないってカンジだ。
で、そういう乱痴気騒ぎ(その中には、当然アラーキー自身も黒メガネでニタニタゲラゲラ笑ったり、すましたような顔をして写り込んでいる。)の合間合間に挟み込まれた、アラーキー独特の何とも言えない、少し侘しいような風景写真によって、性=生の儚さと、儚いがゆえの迸るような激しさが強調されているようにも思える。
その風景の中には、荒木の生家にほど近い浄閑寺の無縁墓地も含まれている。しかも2カットも。
この場所がどんなものか知らなければ、何故こんな墓の写真が置かれているのか、唐突な印象を持つことだろう。この墓地は、江戸時代、身寄りのない遊女=風俗嬢の死骸を葬った場所だ。アラーキーの本には、時折登場する。これが、新宿や渋谷の風景写真とともにおさめられているのは、意味深長だ。エロスの奥の細道が、タナトスにつながっているように感じられるぜ。しかし、それってヨーロッパ人にはまったく分かんないと思うんだけどな。何のキャプションもついてないし・・・。
とはいえ、こうした編集意図によって、より一冊の写真集としてまとまったものになってるように思う。ゲージュツっぽい雰囲気すら漂ってくるぜ。
また、日本版では割愛されていたようなカットも、ふんだんに取り込まれている。これはウレシイ。
100キロは超えていそうな肥満体の3人の女王様のカットなんか、てんこ盛りに増えている。別にデブ専ではないが、こういうリミックスは、かなり嬉しい。この3人のデブ女王様(もちろんSMの女王様だ)は、アラーキーの傑作選には、必ず出てくるわけだが、そのものすごいインパクトが質量ともにUPという感じだ。
さらには、英語、ドイツ語、フランス語の三か国語で、当時アラーキーとコンビを組んで写真時代を担っていた名編集者、末井昭氏による解説が記されている。日本版からの忠実な翻訳だ。これで、3か国語のお勉強にも役立つというおまけつきだ。
しかし、いくつか残念なこともある。
日本版で、末井昭氏によって付されていたと思しきユーモラスなキャプションは、一切割愛されている。あれはあれでけっこうクスリと笑わせてくれたのに。
また、日本版のラストを飾っていた印象深い包茎手術のシリーズは、そっくりカットされている。残念だ。残念きわまる。
しかし、まぁ随分と(オーダーしてから3週間)マタされた貝じゃない、甲斐があった写真集だってのは、間違いない。お値段およそ、15ドル。送料10ドル。
タッシェンホンコンと書いていながら、何故かオフィスはシンガポールであった。運送会社はスウェーデンポスト。不思議な組み合わせだったが、何とか手元に届いた。こいつがいったい世界のどこを経巡ってきたのか、とても気になるもんだ。
それはそうと、アベノミクスとやらのおかげで、マカを呑むようになったおじさんみたいに、日本の景気が良くなって、うっかり万一バブルがきちゃったりしても、すっかり去勢されたような草食系の若者と、過重労働でフラフラになったおじさんばかりのこの日本には、こんな毎日がどんちゃん騒ぎみたいな時代は、二度とは来ないだろうな。
なんてったって、すぐにセクハラだとかパワハラだとかって大騒ぎだからな。風俗だって、ひっそりとしたデリヘルばかりが大流行だ。まったく日本人も繊細になったものさ。その意味でも、この写真集は貴重な記録だと思うよ。

読者諸君、失礼する。そろそろ眠らせてもらうとするぜ。 

2013/03/31

Post #769 俺のマカロニほうれん荘はどこに消えたのか?

Tokyo
ふざけた大人になりたいと思っていた。

思いっきりふざけていながら、どこかさびしさを漂わせていたら、サイコーだ。
ふざけることで、世の中の上っ面の厳粛さや、下らない固定概念を笑い飛ばしてやりたくなる。親しい人を、楽しい気分にさせたくなる。そう、君がくすりと笑ってくれたりすると、俺は楽しいんだ。くだらない連中が、苦虫を嚙み潰したような渋面を見せてくれたら、しめたものさ。
大したこともないくせに、真面目くさった連中をぎゃふんと言わせたくて、うずうずしてるんだ。
ありきたりな大人になるのはゴメンだった。ユーモアに富んだ大人になりたかったんだ、小学4年生くらいからずっとね。
そう、子供の頃に読んで衝撃を受けた、鴨川ツバメの『マカロニほうれん荘』の登場人物のように。
俺の人生に影響を与えた本を5つ挙げるなら、中上健二『千年の愉楽』、吉本隆明『共同幻想論』、手塚治虫『火の鳥』、森山大道『新宿』と並んで、『マカロニほうれん荘』はベスト5に堂々のランクインだろう。
何年か前にネットで全巻セットで買ったんだが、どこにも見当たらない。余りにも本が増えすぎて、深夜の飲み屋街の客待ちタクシーのように、2列に並んでいる本棚の中には見当たらない。
友人に貸したと思っていたんだが、心当たりの友人に訊ねても借りていないという。
ブックオフに売り払ってしまったんだろうか?
一体ぜんたいどうしたことだ?
借り暮らしのアリエッティに持っていかれてしまったのか?だとしたら、なかなかアリエッティも面白い奴だ。
無いと思うと、強烈に読みたくなる。それが人間の生理だ。
重要な問題だ。アベノミクスの行方よりも、マカロニほうれん荘の行方のほうが気にかかる。
しかし、またもや本屋なりアマゾンなりで散財するのは、癪だ。
もう少し、地道な聞き込みをしてみるか・・・。
そういえば、諸星大二郎の『妖怪ハンター』シリーズも、知人に貸したっきり、4年くらい帰ってきていないな。冗談じゃないぜ。俺は物惜しみしない性格だから、気に入った本とかCDとか、直ぐに人に貸して、いつしか貸したことすら忘れ、失くしてしまうのだ。困った性格だ。そろそろ、なんでも持って行ってイイよってのは、改めたほうがイイのか?それとも、貸出帳を作って、図書館みたいに管理するべきか?いずれにしても、けち臭くってしみったれたカンジがして嫌だなぁ・・・。

うむ、強烈に読みたい。誰か俺から借りていっていないかい?
読者諸君、失礼する。

2013/03/30

Post #768 しまった!

Tokyo
久々に、仕事でやらかしてしまった。完全に俺のミスですだ!
せっかく立てた壁の位置が600ミリ、ずれていたのだ。
力なく、笑って済ましたいところだが、そうはイカンよな。昨日の夜は、そんなわけで、若い仲間と一緒に、必死になって壁を解体していたよ。
読者諸君、失礼する。

2013/02/07

Post #720 AMERICAN PHOTGRAPHS

Tokyo
俺が最近買った写真集はアラーキーだけではないんだぜ。
俺にはストレスが溜まると、そのストレスを小出しにして発散するかのように、写真集を買う習性がある。
以前はCDだった。おかげでCDは800枚くらいはあるんじゃないだろうか?中古カメラやレンズがその役割を担っていたときもある。あるいはまた、パイソンの靴とかね。
この不経済な習性のおかげさんで、俺の小さな家はガラクタで溢れかえっているんだ。壁にはアラーキーや森山大道、東松照明や安井仲治の写真のポスターがあちこちに貼られている。まるでいつまでたってもマニアックな大学生の部屋のようだとよく言われるぜ。
そんな環境はかなり落ち着くが、俺が死んだ後、ゴミになってしまうのは、いささか寂しいもんだ。だから、最近は自分が死んだとき、葬儀の参加賞として参列者の皆様に配ろうかとも考えている。
俺の遺体を焼き場で焼いてる間に、ビンゴでもしてもらって、このガラクタどもを生きてる連中に押し付けよう。
何といっても、皆に盛り上がってもらいたいってもんだ。俺は湿っぽいのはどうにも隙になれない性質なんでね。
閑話休題だ。
俺はいつも脱線する。線路の無いところを走ってる電車みたいな男なんだ、勘弁してくれ。

俺は先日、ウォーカー・エヴァンズの写真史に残る古典的名作『アメリカン・フォトグラフス』を買ったんだ。まだばあさんが死んでしまう前、静岡に出張していたときに、ふと欲しくなってね、日曜日に静岡の主だった本屋を回って探してみたんだが、見つからないんでアマゾンにオーダーし、ホテルのそばのコンビニで受け取ったんだ。仕方ないだろう、欲しくてたまらなかったんだ。
1938年、まだ発足して間もないMOMA、つまりニューヨーク近代美術館から発刊された写真集の復刻版だ。
エヴァンズは若い頃、パリに渡り、ソルボンヌ大学で学んだ。作家になるつもりでアメリカに戻ってきたが、彼は写真家になった。写真に呼ばれてしまった人なんだろう。
Walker Evans American Photgraphs
  エヴァンズの写真を決定付けたのは、間違いなく1930年代に参加したFSAプロジェクトだ。
当時、アメリカは世界大恐慌の影響で、深刻な危機に陥っていた。この頃、ルーズベルト大統領が、ダムを造ったりだのなんだかんだ財政出動を行い景気回復を目指したニューディール政策ってのは、有名だ。80年ほどたった今でも、ニッポンの政治家や官僚の皆さんは、その方法が大好きだ。今回も国土強靭化の美名の元に、福祉を削って公共事業にぶっ混むわけだ!人からコンクリートだぜ!貧乏人は死んじまえって言わんばかりだな。
しかし、当時のアメリカ人はしっかりしていた。
FSAつまりアメリカ農業安定局という役所の担当者ロイ・ストライカーは、大恐慌の影響で深刻な打撃を受けた南部農村地帯の惨状を記録するために、(そしてそれは、未だかつて行われたことのない政策の効果を検証する側面もあったことだろうよ)何人もの写真家を雇い、南部の農村地帯に派遣した。
セオドア・ヤング、ドロシア・ラング、ベン・シャーンなど、多くの優れた写真家が国家的プロジェクトに駆り出された。彼らは、お互いに影響を与えあいながら、優れたドキュメンタリー写真を、演出を排したストレートフォトグラフィーの傑作を生み出した。
ウォーカー・エヴァンズは、このFSAプロジェクトの写真家のなかでも、とりわけ名高い存在だ。
そのプロジェクトに参画するなかで撮られた写真を中心に、この傑作写真集『アメリカン・フォトグラフス』は編まれている。
そして、ここには素晴らしいスナップ写真が多くおさめられている。
 
毛皮の襟巻きを身に付けたニューヨーク6番街42丁目の黒人女性。
ニューヨーク、フルトン街の女性は厳しい表情で何かを見つめている。
仕事もなくそこいらに座り込み途方にくれる男たち。
どこかの店先で、着の身着のままで眠る労働者。
破られたポスター。
白いスーツに身を包んだクールな黒人男性(これは『ハバナの下町の市民』として、知られている)。
そして何よりも、エヴァンズの代表作、まだ20代なのに乾ききったかのように疲れはてた表情を浮かべる南部の小作人の妻アニー・メイ・グシャーのポートレイト。
未曽有の不況の中、エヴァンズによって記録された写真は、ある意味で、不景気のどん底にあえぐ21世紀の俺達にも、訴えかけるものがあると、俺は思ってる。トンデモなく雄弁だ。だからいてもたってもいられなくて、出張で手に入れたのさ。確かにこの写真集は発刊以来75年を経た古典中の古典だけれど、文学でも音楽でも、そして写真でも、古典をないがしろにしてはいけない。個展を踏まえないと、前には進めないんだ。まさに、過去から未来がやってくるのだ。
読者諸君、失礼する。今日はサラリーマンのメッカ、新橋まで出張した。そこは不景気のどん底を這いずりまわるサラリーマンのおっさんであふれかえっていた。右翼のおじさんは、今日が北方領土の日だってんで、淡々と語り続けていた。サラリーマンのおっさんたちは、それには目もくれず、喫煙所にひしめき合うように、身を寄せ合うようにして、タバコを吸っていた。
俺はフィルムで靴磨きの老婆や、浮浪者みたいなおっさんを撮り続けていた。
この不景気のどん底で、写真を撮っておくことは、意義深いことだと俺には思えたんでね。

まぁ、今日はそんなところさ。御機嫌よう。 

2013/02/06

Post #719 TOKYO LUCKY HOLE!

Tokyo
天才アラーキーこと荒木経惟も、わいせつ容疑で書類送検だかされたことがあったように思う。
致し方ない。天才なんだから。
アラーキーはかつて、芸術とは何かと尋ねられて、『女の子に、股をもうちょっと広げさせるときに、ゲージュツだから、もっと開いて見せて!』というのに使えるいい言葉だとかなんとか、すっとぼけたことを言っていたように俺は覚えている。
ゲージュツだから、チンが写っていてもわいせつではないと言い張るのとはえらい違いだ。
ヘアヌードが今のように容認されておらず、陰毛が写っているだけで警察に摘発されていた時代、アラーキーは、毛を剃ってしまえば捕まることはないと、剃毛ヌードを発明した。そして、そんなわいせつに対するお上の教条主義をあざ笑うように、女の子のそり上げた恥丘に、筆でわざわざ陰毛を書いて写真を撮っていた。
権力に真正面から勝負を挑んでも、勝つことはできっこない。ゲージュツだなんだっていったって、御上がやると決めたなら、やられるのだ。だったら、位相をずらして、斜めから攻めてみようという発想、ソンケーに値するぜ。忌野清志郎のタイマーズなんかにも通じる世界だ。大麻を持っているとしか聞こえないのに、タイマーを持っているとか歌って、ケーサツを小馬鹿にしていたようなのと似た臭いを感じる。
それに比べたら、ギャラリーのオヤジの口車に乗って、芸術を気取って、こっそりモロちんを販売していたなんてのは、ナイーブに過ぎる。笑止だ。
それで『信じられない、この日本も信じられない』とか絶句しているようなモデルも、ナイーブ極まりないように思う。そんなんだから、二股かけられたりするのだ。
バカバカしい。
芸術なんて気取らずに、バカバカしいことを真剣に追及してみる方向で、勝負する道もあったろうに。諧謔の精神を養わないといけないってもんだ。
今日は実は、うちのカミさんの誕生日だった。しかし、それとは全く関係なく、アマゾンで買うてしもうた写真集を、俺は喜んで見ている。
それは、天才アラーキーの大傑作『東京ラッキーホール』だ!
平成2年10月1日第一刷だ!もちろん中古品だ。
天才アラーキー『東京ラッキーホール』、太田出版刊
一昔前の場末のキャバレーのようなピンクの表紙に、何やらいかがわしいイメージの写真だ。これだけ見ても、中身はわいせつだってわかるだろう?
これは、1983年から、新風営法施行の85年をはさんで87年まで、伝説の写真エロ雑誌『写真時代』(これについては、以前にも触れたけど、面白ければ何でもイイってノリの、まさにアラーキーの為の、アラーキーによる写真のオンパレード雑誌だった。強烈だ。はっきり言って、写真のエルドラド、つまり黄金郷だ)を舞台に、シルクのスーツに怪しい黒メガネ、そしてステッキとカメラを手にして天才アラーキーが、バブル前夜から絶頂期に、狂乱の歌舞伎町を、体当たりで、しかも大いに楽しみながら駆け抜けた記録だ。
タイトルの東京ラッキーホールとは、このカバーに写っている、行きつくところまで行きついたいわゆる風俗営業の一業態だ。
アイドルの顔写真が貼られたべニア板には、ちょうど男性のちんのあたりにぽっかりと穴が開いている。その穴が股間に来るようにして、アイドルの顔写真には、稚拙な便所の落書きのような女体が描いてある。で、男性はそのべニアの前に立ち、アイドルの顔を見ながら、チンをそのラッキーホールに差し込むと、そのべニアの向こうで、おばちゃんが気持ちよくしてくれるという、人間の快楽とはいったいぜんたい何のさ?と哲学的な疑問を抱かざるを得ないような奇妙な性風俗のことだ。
一時期はやったアイコラ、つまりどこぞの女性のヌードに、アイドルの顔を合成して貼り付ける写真が登場するよりも早く、人間はこんなしょうもなく、かつ面白く、やがて哀しきシステムを生み出していたのだよ。
そこからわかるとおり、この中には、ピンサロ、ホテトル、ノーパン喫茶、覗き、SM、ヘルス、当時はトルコと呼ばれていたソープランド、ニューハーフコールガール、性感マッサージなどなど、ありとあらゆる性風俗に、天才荒木経惟が、面白半分、いや真面目に不真面目快傑ゾロリに、まさに体当たりで、ぐちょぐちょになりながら写真を撮りまくったという、強烈な写真集だ。
芸術の香りなんか、まったくしない。ねっちょりとした匂いが漂ってきそうだ。サイコーだ。草食系の若者に、ゼヒ読んでもらいたいぜ!ギャッハッハ!
しかし、もしこの時天才荒木経惟が、こんな酔狂な写真を撮らなかったとしたら、この時代に繰り広げられていた乱痴気騒ぎを、21世紀の今、顧みることができるだろーか?
この写真集で、あっけらかんと股間を広げている19歳の女性(もちろん、その股間には旅館の朝食に出てくるような味付け海苔みたいなベタ塗が、黒々と施されている)は、今では50前後の立派なおばはんだろう。
こんなことをして、荒稼ぎしていたことなんか、おくびにも出さずに生きているのかもしれない。いや、ひょっとしたら、未だにそんな世界の第一線で生きている人もいるのかもしれない。それどころか、この世にいない女も、きっといるだろう。
嗚呼、性(=生)の饗宴、一大スペクタクルに潜む、何という儚さよ!

しかしそのおかげさんで、素っ裸でにっこり微笑む聖子ちゃんカットの笑顔は、この21世紀にも生き続けているんだよ、おい!
まさにアラーキーは、歌舞伎町のウジェーヌ・アッジェだ。
アッジェはかつて失われゆく古き良きパリを、芸術家の為の資料として、淡々と写真におさめた。花の都パリに世界中から集まってきていた十把一絡げ、玉石混交の画家達に写真を売り、生活の糧を得るため。
つまりその写真は純粋な意味での芸術ではなかったわけだ。
けれど、それによって俺達は、19世紀末から20世紀初頭のパリの息遣いをうかがうことができる。そして何より、今、アッジェの写真に芸術性を見い出さない者は少ないだろう。
そして今また俺達は、ひとりの黒メガネのゲージュツ家の偉業によって、バブル絶頂期の歌舞伎町の狂乱のオルギーを、覗き見るようにしてうかがうことができるのだ。
まさに、絶頂期のアラーキーの、どこかアンダーグラウンドな胡散臭い写真家から、一挙に時代の大舞台に踏み出し始めた荒木経惟の、ナハハハハっていう高らかな哄笑が聞こえてきそうだ。

それこそがまさに写真の写真たるところであり、ゲージュツなんて女の子にお股を開かせる殺し文句と言いながら、360度まわって、もう一段上のレイヤーに上昇した形で、見事に芸術となっている。少なくとも、ココには生きた人間の姿が、人間の欲望の逆噴射が、克明に記されている。薄っぺらなものなど、どこにもない。ズシリと重たい写真なのだ。
写真は記録だ。
だとしたら、これこそまさに写真のあるべきひとつの姿ではないかね?
この写真集のラストは、包茎手術の場面で終わっている。
さすが、永井荷風の断腸亭日乗を拝借して、自らの写真日記を包茎亭日乗と称したアラーキーらしい諧謔だ。そこにはもちろん、チンが写っている。黒く塗りつぶされた亀頭のすぐ後ろを、手術で縫われたばかりのちんが。
もう一度言わせていただこう。誰が何と言っても、荒木経惟は世界的な写真家だ。
読者諸君、失礼する。明日は東京まで打ち合わせに行かなけりゃならないんでね。 

2013/02/05

Post #718 世界的な写真家、逮捕だってさ

Tokyo
世界的な写真家が逮捕されたというセンセーショナルな見出しで、ネットのニュースを覗いてみた。
で、俺は拍子抜けした。
事件の顛末は、シンガポール国籍のゲイの写真家レスリー・キーが自らの個展で、モロちんが大半を占める男性ヌードの写真集を売っていたという。一冊6千円、容疑としては男性会社員2人に、7冊販売したというもの。個展を開催したギャラリーの経営者は、『わいせつではない』と言っているそうだが、どんなもんでしょうね。
①買ったのが、男性会社員だという点が、面白いですね。この人たちも、ゲイなんでしょうか?実に気になります。それがし、趣味嗜好性癖で人を差別するのはけしからんとは思っていますが、口髭のはえたゲイの電気屋さんに、ケツをさわられたり、言い寄られたりしているため、ゲイという方たちだけは、余りイイ印象がございません。それがしの趣味ではないということです。
②レディー・ガガや浜崎あゆみを撮ったりしていれば、世界的写真家なのか・・・。どうなんでしょう?それは被写体の勝利でしょう?被写体で下駄を履いてることを考えておく必要があります。
俺如きが言っても詮無いことではあるが、俺としては、その程度では世界的とは認められんな。
俺の個人的な見解ではあるが、ここで声を大にして言わせて頂く。
俺が日本で活躍する写真家で、世界的なレベルだと思えるのは、森山大道と荒木経惟だけ!
レスリー・キーなんて、それがし、聴いた事も御座らぬ。世界性の獲得とは、そう簡単なものではござらぬ。50年、100年経っても、残る写真でなければ、ダメだろうよ。
まぁ、一言で言えば、猪口才でござる。

男性器モロだしでも、芸術か否か、評価は分かれるだろう。それは俺の知ったこっちゃない。
俺は、モロちんでもロバート・メイプルソープの写真は、誰がなんと言おうと芸術だと思うぜ。メイプルソープもかなりハードなゲイだったけどね。毎晩のように、ゲイのたまり場に繰り出し、モデルになりそうな好みの男性を誘ってきて、写真を撮っていた。彼を見い出したのも、ホモのオヤジだった。筋金入りだ。さらに言えば、エイズで痩せ衰えて死んでしまったけれど。
メイプルソープの写真からは、見えるモノの奥に潜む、目に見えない何かが感じ取れる。
君も機会があったなら、彼の写真集を見てみるとイイだろう。鬼気迫るものがある。メイプルソープの写真は、余りに過激すぎて、今日の日本ではエイズで体力がなくなった後、静物写真しか撮れなくなった後の花の写真くらいしか見ることは出来ない。しかし、その花の写真とはつまり、植物の生殖器にほかならず、生殖器のメタファーとしての花なのだ。写真と言うのは、そういう目を持ってみるべきものなのだ。見えるものだけではなく、その奥に秘められたものを読み解く能力を、時に写真は要求する。つまりそれはイマジネーションだ。
荒木経惟の花の写真もエロスの表象であり、リングストロボで撮られた膨大な食事の写真もまた、エロスの表象であると言えよー。世界性を持ってる写真家の力技だ。そうでなければ、そこいらのブログに氾濫する、今日なにを食べました♪的な写真と何ら変わりなくなってしまうだろう?
同じものを撮っても、そこには歴然とした違いがある。生きているニンゲンと死んでしまったニンゲンが、同じもので出来ていても、何かが、しかし決定的に違うように。
欲情を刺激するだけ写真なら、単なるわいせつ写真に過ぎないさ。
欲情を超えて、何かを考えさせるような写真、そういうもので写真はあって欲しいと思う。とはいえ、個人的には劣情をそそるような写真って、決して嫌いじゃないけどね。しかしまぁ、本物のほうがイイに決まってるだろう?
読者諸君、失礼する。今日もまた言いたい放題だった。しかし、これからひとっ風呂浴びて、仕事の続きをしなけりゃならんのだ。俺が心行くまで写真の三昧境に浸れる日は、いったいいつ来るというのか?やれやれだぜ。けど、捕まったのがアラーキーじゃなくってホッとしたよ。 

2013/01/31

Post #713 世の中が悪くなっている!

Tokyo
最近、メディアでは歴史認識(なんかこれ自体が胡散臭い言葉な気もするが)などに関して、いわゆる愛国的な日本人の皆さんの意向に沿わない発言をする人を名指しして、国賊だとか売国奴なんて非難する言説を目にする機会が増えたような気がする。
週刊誌やネットニュースは、特定の個人をそのように非難し、それによって読者の溜飲を下げているのだと言わんばかりだが、どうにもそんな風潮が俺には鼻につく。世の中が悪くなっていると、つくづく実感するぜ。
この手の言説は、どうにも俺には昭和初期から戦中にかけての言論弾圧を思い起こさせて、生理的に嫌悪感を感じるのだ。

国賊?

売国奴?

一体ぜんたい何時代の話しだよ?
今にきっと非国民だとかいいだすに違いないぜ!
冗談じゃない、笑いが止まらないぜ。大政翼賛会にでも入ってるのかい?
いいぞ、進め一億火の玉だ!
欲しがりません勝つまではだ!

俺は思わず吹き出しそうになる。そんな時代がかった言葉を持ち出してきて、どういうつもりなんだろう?俺達は21世紀に生きているんだぜ。国賊とか売国奴とか、とっくにカビの生えたような不愉快な言葉を軽々しく使うなんて、ジャーナリストとしての資質を疑ってしまうぜ。
まったく、マスコミ自体が2chみたいになっているんじゃないのかい?
戦争というものは、いつの時代でも、他国の住民を大量に虐殺したり、女性を強姦したり、性的に搾取したり、住民を強制労働させたりするという側面を伴っている。それはどんな大義名分があろうとも、必ずや大なり小なりありうることだ。もっと言うなら、戦争とは自分の国の国民を他国の軍隊を使って殺戮することだ。
だからこそ、俺は日本国憲法第九条こそ、易々と変えるべきではないと思っているんだ。何故って、紛争解決の手段として、戦争を行う権利を国に与えていない以上、俺たち日本人が、二度とよその国の住民を虐殺したり、強姦したり、奴隷にしたりしなくて済むんだ。人間のなかにはそういう禍々しい本性が潜んでいる。それを戦争という手段を禁じることで、封じ込めているんだからな。俺は、人のイイ親父さんが、戦争に行った途端に、目を三角にして、他国の人間をぶっ殺したり、他国の女性を強姦同然にやりまくったりする姿など、決して見たくない。
俺は死んだおばあさんから、大陸でおこった目を覆いたくなるような話を、たくさん聞いて育った。
だからこそ、戦争なんて御免だ。
しかし、いまどき、そんな事を言うと、国賊とか売国奴と言われるんだだろうか?
メディアが権力のウォッチドッグを自認していたのは、もう遠い昔の話しなのかい?
奴らは戦争中、自分たちの先人たちが、大本営発表を鵜呑みにして、嘘っぱちの報道をして戦争の片棒をかついできたことの反省なんて、すっかり忘れているに違いないぜ。
だからって、戦前に先祖返りしたみたいな昨今の言説は、目に余るってもんだ。いや、まるで右翼の街宣車の演説みたいだ。民度が低いぜ。
自民党政権や石原慎太郎なんかの言うことに異を唱えると、反日的日本人だの、国賊だの、売国奴だの言われちゃ、たまらないってもんだろう。そういう事を言わないのは、反日的新聞として悪名高い朝日新聞だけかい?ふふふ、俺はこれからも朝日を購読し続けるぜ。
この手の言説を弄するバカヤローは、自分を完全に正しいと信じているんだろう。一体ぜんたい、この人たちは何の権利があって、自分と意見の異なる人物を国賊や売国奴、はたは戦犯呼ばわりしているのだろーか?
この手の連中に限って、自分たちの言説が非難されると『言論の自由』を護れとかいうに違いないぜ。目に浮かぶさ。安全地帯から、他人を狙い撃ちし、貶める、それは俺には卑劣な行いに感じられるぜ。ただ単に時代の雰囲気に迎合した事を書いてるだけで、正義漢ぶるのは止めにしてほし―ぜ。2chよりも、右翼の街宣車よりもたちが悪いぜ。

自分と意見が違う人間を、排除するのは簡単だ。
しかし、それでは私たちはどんな未来にも辿り着くことはできない。
客観的で科学的な事実を拾い集め、正々堂々と意見を戦わせ、真実に迫ってゆくべきだ。それを軽々しく、国賊だの売国奴って、言論人としてレベルが低すぎるぜ。噴飯ものさ。
民主主義の基盤には、『君の意見には反対だが、君が意見を述べる権利を、私は必ずや擁護する』という精神がある。
素晴らしいぜ。俺は民主主義者でいたいからな。国家主義者や大政翼賛会みたいな連中から褒められるよりも、国賊とか非国民とか言われた方が、民主主義者の勲章のような気すらしてくるってもんだぜ。
読者諸君、失礼する。日本はいつから軍国主義国家になっちまったんだ?