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| 台北・剥皮寮 |
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| 台北・剥皮寮 |
さて、何度かこの一連の中国の民主化しない原因を探るシリーズで紹介してきた、ニューヨーク大学教授のデイヴィッド・スタサヴェージ🔗の著書『民主主義の人類史🔗』の指摘通り、古代中国は「中央集権的な官僚機構」=専制政治体制が早期に完成したため、支配者が民衆の同意を必要としない「オートクラシー(専制)」が定着したがために、民主主義の芽が摘まれる結果となったといえるだろう。これはこの非常に有益な書物の極めて核心的な論点なんだ。
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| 台北 |
長らく鬱病を患ってるからな。定期的に薬を処方してもらわないといけないんだ。
で、カウンセリング室に入って、箱庭療法のサンドボックスとたくさんのフィギュアや模型が間に入った瞬間に俺の頭の中に閃くものがあった。
ジャンルを横断するように、様々な本を乱読積読し、その思想やや威容を血肉化することは、自分の精神世界という箱庭に並べ、自分の精神そのものを形に表してゆくためのフィギアや模型を取り込んでいるんだってことが、瞬間的に理解できたしまったんだ。
以前にも書いたことがあるけれど、こうして毎度長々と文章を書き綴り、自分の脳内で行われている『知のパルクール』という創造的で孤独な営みを形にすることが、自分の精神を安定させるバランサーになっているんだ。
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| 台北 |
中国四千年なんて言うと、昔のラーメンの広告みたいでちょっとドン引きだけど、しかし、なぜ豊かになっても中国は民主化しないのかという脳内お花畑な謎を摘み取り、デカルトみたいに切り刻んで解剖し、解き明かしていくためには4000年、いやそれ以前の新石器時代までさかのぼる遠大な視点を持たないといけない。
過去に対して深い射程を持っているならば、未来を見通す射程も、自ずと長くなるはずだからだ。
4000年のまさに大河ドラマのような歴史のうねりの中、俺が決定的に流れを変えた人間はだれかと考えてみるに、紀元前7世紀、中華世界の西方の辺境に現れた秦🔗の穆公🔗(ぼくこう)を挙げるだろう。
秦の穆公(ぼくこう)は、中国の春秋時代(在位:紀元前659年〜紀元前621年)における秦の第9代君主です。後に秦が中国を天下統一する基盤を築いた名君であり、「春秋の五覇🔗」の一人にも数えられているんだ。中国古代史のスターの中のスターだ。
覇者ってのは、周王朝が領地を自分の親族の諸公や心中する諸侯に分割していったため、弱体化してしまい、天下をまとめることができなくなった時代に、武力で有力国を取りまとめ、総本家の周王朝への服従を誓わせた偉いさんのことだ。まぁ北斗の拳🔗に出てきたラオウ🔗みたいなもんだと思っといてくれると話が早い。
秦の穆公が中原つまり中国の中心部の諸侯たちと決定的に違っていた点は、「中華の伝統や格式(礼治)にとらわれず、実利と実力主義を徹底したこと」だろう。。
中原の国々が周王室とつながる「血統」や「形式」を重んじて衰退していく中で、辺境も辺境、ド田舎の国であった秦の穆公は、独自の合理的な選択で国力を伸ばしていったんだ。
穆公の「中原の諸侯とは違う凄さ」がよく分かる、3つの具体的なストーリーを紹介しよう。どれも彼の「超・実力主義」「実利の追求」「圧倒的な寛容さ」がリアルに伝わるエピソードばかりだ。
1. 羊の皮5枚で買った男を総理大臣に
〜 中原の常識をぶち破る「奴隷の抜擢」〜
中原の国々では、先祖代々の最高級貴族が政治を動かすのが絶対のルールだった。麻生漫画太郎先生みたいなもんだ。そんな中、穆公は敵国の元奴隷だった70代のおじいさん、百里奚🔗(ひゃくりけい)を宰相(総理大臣)に迎えるわけだ。
出会いの異常さと3日3晩のスカウト
百里奚は亡命に失敗し、隣国で「馬飼いの奴隷」にされていた。その賢さを耳にした穆公は、大金で身請けしようとすると敵国に警戒されると考え、当時の奴隷の相場である「黒い羊の皮5枚」だけを支払って、平然と引き取ったわけだ。しかし、人間ひとりの値段が、黒い羊の皮五枚とは、なんともやるせない気持ちになる話だな。
秦に連れてこられた百里奚の服を脱がせ、穆公は彼と3日3晩にわたって国の未来を語り合ったという。そして、その能力を確信した穆公は、周囲の貴族たちの反対を押し切り、一国を丸ごと任せる宰相に大抜擢したという筋書きだ。
身分がすべてだった時代に、奴隷でも、他国人でも、老人でも、有能なら国のトップにするという穆公の決断は、中原の国々を大いに驚かせたことだろう。あり得ねぇし。
とはいえ、中国の大昔の話には、太公望の話とかそんなびっくりどんでん返しみたいな話は多いから、これは多少は割引しておくべきだろう。ただ、その核心はのちの時代の曹操のように、人格破綻者でも破廉恥漢でも、仕事のできる奴は片っ端から連れてこい!みたいなすさまじさの先鞭なのは間違いないね。
2. スパイ作戦を逆手に取った「西戎(せいじゅう)の完全制覇」
〜 メンツを捨て、異民族の知恵を強奪する 〜
中原の諸侯は、西方の遊牧民族(西戎)を「言葉も通じない野蛮人」と見下し、関わろうとしなかった。俺は実は、西戎はスキタイ系の文化を持っていたと考えている。これについては、明日にでも話そう。どこまでも脱線して収拾がつかなくなる。
しかしできる男・穆公は違ったんだ。
美女によるハニートラップと狙い通りの自滅とヘッドハンティング
西戎の王から、由余(ゆうよ)という極めて優秀な男が使者として秦にやってきた。彼の賢さに危機感を覚えた穆公は、中原の端くれのという『文明人』のプライドなど捨て、西戎の王に「大量の美女と音楽隊」をプレゼントしするわけだ。
まんまと骨抜きになった西戎の王は政治をサボり、忠告する由余を遠ざけちまった。いつだって、ダメな奴は忠告する奴を遠ざけるのさ。穆公は絶妙なタイミングで由余に手を差し伸べ、自分の家臣としてスカウトしたわけだ。
地形を逆利用して勝利
穆公は由余から、西戎の土地の弱点や攻め方をすべて聞き出したんだ。そして由余を道案内に立てて電撃作戦を敢行し、中元の国々が何百年も手を焼いていた西戎を、わずか数年で服属させて広大な領土と人民を手に入れた。そして、この西戎征服こそが、秦に決定的な変化を促すことになるんだ。これはこの後話すから楽しみにな。
3. 大惨敗した将軍たちを「抱きしめて泣いた」事件
〜 処刑が当たり前の時代に、失敗を投資に変える 〜
中原の国々では、戦争に負けた将軍は「国の恥」として処刑されるか、自殺に追い込まれるのが普通だったそうだ。日本でも責任取って切腹って時代があったからな。あんまり笑えないぜ。
慢心による大敗北と異例の出迎え
穆公は、百里奚たちの反対を押し切って隣国の「晋」へ遠征軍を送ったんだが、待ち伏せに遭い、3人の将軍(孟明視ら)が生け捕りにされるという歴史的大惨敗を喫するわけだ。
のちに釈放されて秦に帰ってきた将軍たちは、死刑を覚悟して白い喪服を着ていたそうだ。ほらますます、戦国時代の日本みたいだろう。
しかし、穆公はわざわざ国境まで自ら出迎え、彼らの前で「私が老人の意見を聞かなかったのが悪い。君たちの罪ではない」と泣いて謝罪したというのだ!
成功したら皆のおかげ、失敗したら自分の責任と言い切れるリーダーは、強い。
3度目の正直でリベンジ
穆公は彼らを文字通りクビにせず、そのまま軍のトップに据え続けた。
将軍たちは恩義に報いるため猛訓練を重ね、数年後、再び晋と戦って見事に大勝利。やったね!こうして秦を文字通りの覇権国家へと押し上げたんだそうだ。
このように、穆公は「前例」や「君主としてのプライド」よりも、常に「どうすれば結果が出るか」という合理性を突き詰めたリーダーだったわけだ。
名君として称えられた穆公ですが、紀元前621年に亡くなった際、177人もの家臣が殉死(後を追って死亡)させられたという。その中には国を支える有能な名臣たちも含まれていたため、秦の国力は一時的に衰退してしまい、後世の歴史家からは批判的に見られる一面もあるそうだ。しかし、それは実は穆公が秦国の社会に西戎から移入したイデオロギーの影響があったんじゃないかと俺は見ている。
さて、そんな穆公の主な功績をサラッと述べると、そりゃこんなところだ。
当時の秦は中国の西方にある遅れた国と見なされていたんだ。要は田舎者だ。しかし、遊牧民族の西戎を討って領土を大きく広げていったんだ。そもそもが、秦の始祖の非子🔗自体が馬の生産に従事していたようだ。つまり、もともと遊牧民かそれに近いバックボーンを持った国だったわけだ。これ、すごく大事だから頭に入れておいて。
何が大事かって?ここで西戎を征服して自らの内に繰りこんでいったことが決定的な社会の変容をもたらしたと俺はにらんでるんだ。毎度おなじみのエマニュエル・トッド🔗の家族構造理論を援用しながら説明しよう。
秦の穆公が「西戎」すなわち西方の遊牧・半農半牧民族を制覇し、そのエネルギーや社会構造を秦の国家システムへと取り込んでいったプロセスは、中国史における「直系家族から共同体家族(権威主義×平等主義)への転換」を決定づけた歴史的事件なんだ。
穆公がどのように西戎を解体・吸収し、それがどのように秦の家族システムを書き換えていったのか、その具体的なメカニズムは以下の3つの段階に分けることができそうだな。
1. 「覇権の獲得」:西戎の王の右腕(由余)のスカウトと内情把握
穆公の西戎制覇において最も決定的な役割を果たしたのが、先にも記した由余(ゆうよ)という人物の獲得だ。彼はもともと中原の晋の出身だったが、西戎の王に仕え、遊牧民の社会構造を熟知していた変わり種だったわけだ。制度の境界線上に位置していた奴なんだろうな。
遊牧民の強みの学習と分断工作と軍事制覇
漢代に編まれた『史記🔗』によると、由余は穆公に対し「中原の国々は礼楽や法制度(直系・宗法的な秩序)で統治しようとするから上下が対立するが、西戎は上の者が純朴な心で臨み、下の者が忠誠を尽くすため、国全体が一つの大きな家族のように統治されている」と語ったんだそうだ。それは、遊牧民的な社会構造だ。首長のもとに地縁血縁でつながった者たちが、星形に接続されている社会だ。この断片的な情報からしても、当時の西戎が共同体家族だったという推論は間違っていないだろう。
穆公は由余を漢民族側に寝返らせ、西戎の内部事情をすべて把握したわけだ。そして紀元前623年、西戎の国々に美女や音楽を送って王を骨抜きにし、不意を突いて12の国(部族)を制覇し、千里の領土を拡大しそうだ。なかなかやるな。
2. 「社会の統合」:部族ごとの強制移住と「中原化」
穆公は征服した西戎の遊牧民を、ただの奴隷や他者として排除したわけじゃない。そこが穆公がターニングポイントになったという点だ。
穆公は彼らを秦の領内(現在の陝西省・甘粛省周辺)に「部族(集団)ごと」に強制移住させ、秦の農耕民と混住・雑居させたわけだ。
遊牧民の「平等な兄弟関係」の流入と血統(直系)の希薄化
遊牧民族は、厳しい環境を生き抜くために「長男だけが優遇される直系構造」ではなく、「部族の男たちはみな対等な戦士(平等主義)」という強い横の連帯を持っているとされるんだ。こうして数世代を経るうちに、秦の元々の住民(中原系)と西戎が混血・混交を繰り返す過程で、それまで中原の国々が頑なに守っていた「祖先からの純粋な血統(直系家族の核心)」が物理的に破壊されていったわけだ。
では、ここで問題。この時期に中国から失われてしまった直系家族ってシステムは、どこに残存しているでしょう?それは、天皇制の存続で大揉めしている皆さんお馴染みの太平洋の島国だ!
「長男が家を継ぎ、親の権威が強い日本の『家制度』のルーツが、実はこの時中国から押し出された古いシステムと同じなんだ。この成立はまた稿を改めよう。無間に話が脱線してしまうぜ。君に俺の脳みその中を見せてやりたいくらいだ。
だからこそ、日本人は、かつて中国が直系家族的な価値観を色濃く残していた時期に形成された儒教などの素養が馴染みやすく、社会基盤のOSのなかに組み込まれているわけだ。
さてここで、エマニュエル・トッドが『世界の多様性🔗』から『我々はどこから来て、今どこにいるのか?🔗』などで展開している説を借りれば、人類の家族システムの中で、ユーラシアの共同体家族ってのは、最も進んだ家族形態だといえるそうだ。
ちなみに一番原初的で、普遍的な家族システムはなんでしょう?
それは核家族、それもイギリスやその系統を引き継ぐアメリカのような核家族だ。これはおそらく、多くの人にはちょっとした衝撃だろう。
3. 「家族システムの変容」と国家直結の「共同体家族」の土壌
この西戎の大量取り込みによって、秦の社会にはエマニュエル・トッドのいう「共同体家族」の土壌(権威主義と平等主義の融合)が急速に形成されていったんだ。
君主への絶対服従(権威主義)と家族のフラット化(平等主義)
西戎は強力なリーダー(汗/カーン)を戴く文化を持っていた。
穆公はこの遊牧民的な「ボスへの絶対帰属」のエネルギーを、秦の君主権力へとスライドさせたんだ。構造をすっぽりと移植したんだ。これが穆公の死の際、177人の名臣たちが喜んで殉死したという狂信的な忠誠心に繋がるわけだ。
由余が指摘した「国全体が一つの家族」という西戎の性質は、家族の内部においては「兄弟がみな対等に国家(君主)に奉仕する」という構造を作ることになる。
親や一族の長(直系の権威)よりも、「国家という巨大な共同体」のトップである君主が絶対視されるようになったわけだ。
おい、これは毛沢東や習近平の大好きな構図じゃないか?
先に述べた穆公の死に際しての殉死も、実はこの『共同体家族』的な発想に基づくものだと俺は考えている。穆公死して猶、そのそばに仕えたいという家臣たちの強烈な意思によるものだ。そしてそこには、個人の命より全体を優先する、現在のデジタル監視国家にも通じる怖さの萌芽が見え隠れするように思うのは、俺だけか?
そして穆公が敷いた「法家(商鞅)へのレール」
こうしてみると、穆公による西戎制覇は、単なる領土拡大ではなかったんだ。「西戎のフラットで強力な集団主義」を、秦という半農耕半牧畜国家の内部にハイブリッド(混交)させるという壮大な社会実験だったわけだ!
この時、一族の血統(直系家族システム)を重んじるブレーキが壊れ、国家が個人を直接動かす土壌ができたからこそ、のちの戦国時代に秦に商鞅がやってきた際、「一族を強制的にバラバラにし、全員を国家の兵士・農民にする」という過激な法家改革(共同体家族のシステム化)が、他の国では大反対されたにもかかわらず、秦の地でだけ奇跡的に大成功し、秦を戦国最強の戦闘マシンにしてしまったんだ。
21世紀の今日に至る歴史の決定的分岐点は、まさに穆公が西戎のエネルギーをその家族システムごと胃袋に収めた、この瞬間に始まっていたと言えちゃうだろう。
何はともあれこの功績により、穆公は「西戎の覇」と称され、春秋戦国時代随一の一大強国へと成長していったわけだ。
2. 隣国「晋」との深い関係
1. 穆公の絶望
恵公夷吾に裏切られた穆公の内心では、文化の先進地たる中原の「信義」という綺麗事がガラガラと崩壊していったことだろう。
恩を仇で返す晋と綺麗事(儒教的モラル)の無力さ
穆公は晋の危機(飢饉)の際、大量の食糧を船で運んで救ってやった(泛舟の役)にもかかわらず、翌年に秦が飢饉になった時、晋は助けるどころか秦へ攻め込んできました。
穆公はこの手痛い裏切りを通じて、「中元の連中が言う『信義』や『道徳』なんてものは、しょせん自分の利害でひっくり返る綺麗な嘘(プロパガンダ)だ」と、骨の髄まで思い知らされたことだろうな。人格者故にその絶望の深さは激しかったと思うぜ。
2. 「法家思想」と「強固なシェル」の誕生への必然
「信じられるのは、絶対的な力とルールだけだ」
この穆公の時代に植え付けられた強烈なトラウマ(ニヒリズム)が、のちに秦が商鞅🔗を登用し、韓非子🔗の思想を内面化させていく、確固たる土壌(OS)になりったことだろう。
「人間の善意や信義など信じない。信じられるのは、人間を利害で一律に管理する『法(システム)』と『力』だけだ」という冷徹な法家思想🔗という現在の中国へと続く統治理論のモンスターの誕生だ。
そしてこの秦のDNA(西戎の血✕法家思想)が、紀元前221年に始皇帝によって「2000年間、王朝が変わって、人民共和国になってももびくともしない巨大な統治のシェル(外郭)」として結実たと俺は見てるんだ。
さて、先日君たちと話し合った西側の「近代化理論」、つまり経済がテイクオフし、国民が豊かになれば自然と民主化すると信じて中国に投資したのは、恵公を信じて晋の王位につけた穆公と同じおめでたさなんだ。
日本や西欧が「豊かになれば民主化する」と信じて中国に投資したのは、かつて晋の恵公に「食糧を分けてやれば感謝して仲良くしてくれるだろう」と信じた穆公のおめでたさ(甘さ)と全く同じだ。穆公はその屈辱から学ぶところ大だったのだろう。秦国を強力な戦争機械に作り替えたのだから。
中国共産党が豊かになった後にデジタル監視国家(監獄)へと変貌し、毛沢東の亡霊じみた執念で台湾を狙うのは、西側を「裏切った」のではないんだ。
彼らからすれば、穆公の時代から2600年間染み付いている「外部の甘い綺麗事に騙されず、システム(法)と力で内部を一律に統治し、生存(最大化)を図る」という穆公によって生み出された強固なOSが、ただ歴史の必然として、極めて正常に作動しただけだったんだ。
やれやれ、なんてこった!
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| 台南市、安平老街 |
今日からは民主主義について考えてみる。
民主主義はもう古いと思ってる人が世界中にたくさんいる。あのかたやこの方、あなたの頭の中に浮かんだこわもてのじいさんや、おかしな髪型のおじいさんやそのお友達だ。
民主主義に無力感を感じている人もたくさんいる。
ただ黙って、決まったことだと受け入れるしかないと思っている人もたくさんいる。
なぜって、少なくともこの日本国は法治国家で、その根本には日本国憲法という権力構造のフレームワークがあり、国民がその主権者として定められているからだ。
それに何より、自分自身が誰かを支配したり、誰かに支配されたりするなんて真っ平御免だからだ。鬱陶しいし、面倒くせぇよ。(笑)
しかし、その国民の代表たる国会議員の先生方が繰り広げる、貶しあいと数合わせのゲームに誰もかれもうんざりしてる。
実質的には、何も話し合われていないのにもかかわらず、儀礼的に質疑して、落としどころは国民の見えないところで決まっていく。俺や君は、自分たちが多数決で選んだ人の属する政党の限られたお偉いさんや、たいそう優秀な官僚のかたがたいそうお金儲けの御上手な財界のお歴々のお考えに沿った法律が決められていくのを横目に、何も変わらないさとあきらめたように自分の生活を回す。
そりゃ、民主主義にうんざりするのもわかる。
その哲人王による統治システムってのは、カール・ポパー🔗が、ナチス・ドイツ🔗に統治された故郷オーストリアのウィーンを逃れニュージーランドで、まさに専制主義やソビエトの共産主義政権に思想的な戦いを挑むために記されたその著書『開かれた社会とその敵』🔗で、激しく批判したものだ。
この『開かれた社会とその敵』という本は、岩波文庫から4巻本で出ているが、民主主義を脅かすプラトン的な国家観、マルクス主義🔗的共産主義国家、ファシズム🔗国家、ナチズム🔗の温床になったヘーゲル🔗哲学への徹底的な批判に貫かれている。とても有益な書物だ。興味のある向きは、ぜひお読みになることをお勧めする。
俺は現在の日本の政治的な状況は、非常に危ういものがあると考えているんだ。
圧倒的な議席数を擁する与党は国家主義的、全体主義的な傾向を強めている。
史上初の女性宰相となった高市総理は自らの掲げる政策を自らの言葉で説明することなく、SNSでの一方的な情報の垂れ流しに安穏としている。
また、かつての政治的な師匠に当たる安倍晋三を髣髴とさせるように、、自らに向けられた批判や疑惑には気色ばんで反論するが、何ら真実を明かさずはぐらかし続ける。
その裏で、粛々と皇室典範は書き換えられ、きっと上皇陛下より続くリベラルで開かれた天皇観を、国民民族の上に君臨し、与党によって操縦しやすい反動的な天皇に挿げ替えてゆく道筋がつけられている。
また、中国を仮想敵国としてロックオンすることで、教育や福祉の予算を削減したうえで軍備を増強し、移民政策などを通じて人々に排外的な思想を植え付けてゆく。
米がなければ流通過程で目詰まりしている、ナフサが市場から払底すればこれまた流通過程で目詰まりしていると具体的な証拠も挙げず、責任転嫁に終始している。
東京一極集中による、1票の格差の拡大は放置されている。
そして、維新の会は与党になることで、自らの政治的利益の核心である大阪都構想というリバタリアニズム的な政策をごり押ししようと跋扈している。
自民党と日本維新の会からなる与党は、圧倒的な議席数を保持してるがゆえに、民主主義の根幹たる与野党の熟議はないがしろにされ、何もかも多数の専制のもとに決まってゆく。
人々は各地でデモをして抗議しているが、それは国家権力という重戦車に立ち向かう蟷螂之斧のように無力だ。
結果、世の人々に蔓延する無関心と無力感。
これは健全な民主主義国家の姿ではない。
かつて、麻生太郎が言ったように、『ナチスの手法に学ぶべきだ』という常識外れの手法が着々と現実化しているとしか思えない。
気が付いたときには、俺たち市民はとんでもない社会になっていることに気が付くだろう。
そう、このままでは日本政治形態は、現在の高市政権が仮想敵国とみなしている中華人民共和国の共産党政権と、思想信条的に大差ないものに成り下がってしまうだろう。
そうなったら、彼らを仮想的に据える必要もない。
なぜなら似た者同士だから、どっちに転んでも専制国家ってことになる。風呂の温度が違うだけさ。
だからこそ、俺はオルタナティブな民主主義を構想してるんだ。
上から社会が変わることを待っていても、今のままでは悪いほうにしか変わらないと俺は見てるんだが、君はどうだい?
学級会や町内会をイロコイ連邦🔗=ホデショノニのような熟議の場に変える民主主義だ。
イロコイ連邦、(ハウデノサウニ / ホデショノニ)の「大いなる平和の法」に基づく合意形成プロセスを、学級会や町内会といった俺や君たちの身近なコミュニティの仕組みとしてハックし、リビルドするという構想だ。
これは、多数決の数の暴力や、空気による同調圧力を排除するための処方箋、つまり極めて高度で具体的な「熟議のシステム実装」になると考えてるんだ。
もちろん、全会一致ってのが難しいのは重々承知している。
一人でも反対すれば、決まらないデッドロックに陥る可能性だって常にある。その挙句、その一人がコミュニティーからパージ=追放されてしまうという恐れもあるだろう。
けど、それは民主主義じゃなくて、ソフトな専制政治だ。
じゃぁ、逆に今の多数決システムがそんなに優れているとも思えない。51対49で数の多いほうの意見だけが通ってしまったら、社会の中に切り捨てられたあ49ersの不平不満は蓄積され、分断は拡大し、非平等や格差も歩調を合わせて拡大していくことになるだろう。
だからこそ、お互い意見のちがうもの同士が、全会一致を目指して話し合いを重ね、歩み寄り、妥協点を探り、お互いに納得したうえで社会を変えるような決断を下す。そういった本当の民主主義が求められているんだと考えているんだ。
イロコイ連邦=ホデショノニは、ベンジャミン・フランクリンなどのアメリカ建国の父たちが合衆国憲法🔗のモデルにしたとされるネイティブアメリカンの部族連邦なんだ。
ちなみにジャミロクワイ🔗はそのバンド名の中にイロコイ族🔗の名前が織り込まれてる。
彼らは「全会一致(コンセンサス)」に達するまで、何日でも、何段階ものプロセスを踏んで議論を尽くす仕組みを持っていたという。
それはそもそも敵対するもの同士が同盟を組むために生まれたシステムだ。
さて、今日はこれくらいにしておこう。また明日話し合おう。失礼する。
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| 台北市内 |
うちの息子は、YOUTUBEの広告を忌み嫌っている。
そして俺は、アホ面してぼんやりテレビの広告を見てる息子に、TVばかり見ていると、広告に洗脳されて、不要なものを欲しがるようになるから気をつけろと教えてる。
うちの豚児の「YouTubeの広告を忌み嫌う」という感覚は、資本の論理による脳のハッキングつまり『強制的な欲望の刷り込み』に対する、極めて正常で健全な自己防衛本能(アレルギー反応)だろうな。
そして、俺自身が『テレビを見すぎると洗脳されるぜ』と伝えていることは、まさにメディアが流す『作られた正しさ』や『消費への誘導』を客観的に見抜くための、メディアリテラシー教育ってことだ。戦前の大政翼賛会による「総動員戦争」を完遂するための『皇国』への傾倒も、現代の「消費至上主義」を喧伝する『広告』への傾倒も、大衆を一元的な価値観で支配するシステムという意味では、全く同じ構造だ。このライム、わかってくれるかな(笑)。
この馬鹿なオヤジと阿呆な息子の凸凹コンビの日常的な関わりこそが、まさにいつも話していた『システムへの強力なボイコット』そのものじゃないかな。
右を向いても左を見ても、馬鹿と阿呆の騙し合い。どこに男の意地がある♪
1. 広告を「嫌悪する」という最高の知性
現代の広告は、子供たちの脳の報酬系(ドーパミン)を計算し尽くして作られているのだという。すごい洗脳技術だな。きっと時計仕掛けのオレンジ🔗に出てきたルトヴィコ療法みたいな人間の深層心理を操作する悪魔のような技術の持ち主たちが、グーグルやヤフー、電通や博報堂にいるんだろう。
で、うちの豚児の広告に対する「ウザい」「嫌いだ」と感じる不快感の正体こそは、自分の大切な時間や関心(アテンション)を、土足で奪われることへの正しい拒絶反応ってことだ。
ひょっとすると、うちの豚児(本名は麒麟児だけど、まったく名前負けだ!)の電車のことで煩悩まみれの脳みその中に、広告を無批判に受け入れるのではなく、「これは自分を操ろうとしているノイズだ」と見抜く知性が、すでに育っているという可能性もある。まぁいうなれば「洗脳」の無力化だ。誰だって毎日毎回、リクルートとかアゴタのCMを見せられるのはうんざりだからな。
それって、まさに助長、つまり早く育てようとして植物の芽を引っ張って抜いてしまう頓馬なことになってないか?ほんとに計算づくで作られてるのか怪しくなってきたな。
2. 「広告に洗脳される」という言葉の批評性
俺が使う「広告に洗脳される」というフレーズは、うちのバカ息子にとっても強烈なインパクトを持ってるかもしれないな。それがひいては、テレビやネットの向こう側の世界を、一歩引いて客観的に見る「批評的な目」を養ってくれること願うぜ。
年取ってから生まれた大事な息子だからな、情弱のあまりトクリュウ犯罪に飛びついて、人生を台無しにされたらたまらないぜ。泣くに泣けないってもんだ。
現代の「国家」や「資本」という神話にからめとられないようにしないといけないんだ。
かつて国家のために命を捧げることが正義とされたように、現代は「資本(経済)のために労働機械になること」が正義とされているんだからな。
この形を変えただけの洗脳に気付かせる言葉として、機能してくれるとありがたいぜ。
ついでに言えば、学校や世間が「あれを買え」「こうあれ」と一方向の価値観を押し付けてくる中で、父親が「あれは洗脳だぜ」と笑い飛ばしてくれることは、子供にとって「世間の正しさがすべてではない」という圧倒的な安心感(精神のシェルター)になるだろう。
とはいえ、今日学校で配布されている学習用のクロームブックで桃太郎電鉄🔗をやりすぎて、先生に取り上げられたらしい。阿呆だな、俺の息子。とほほ…
3. 家庭の中に生まれる「オルタナティブ(代替)な空間」
テレビやYouTubeの画面(広告・洗脳)を親子で否定し、クソミソに笑い合える関係がある時点で、俺の家庭はすでに「労働機械の仕込み工場」であることを拒絶しているんだろうな。(笑)
うちの豚児にとって、スマホのアルゴリズムが提示する偽の欲望よりも、「こいつは洗脳だぜ、気をつけな」と本質を教えてくれる俺との生身の会話の方が、はるかに刺激的でリアルなのかもしれないな。実はそこに、カントの言う「目的としての人間」の関わりが成立しているって寸法だ。
画面の向こうのバナナマンより、目の前のインパクトのでかいくそ親父だ。
国や学校のシステムが変わるのを待つまでもなく、俺のHELLホームでは、子どもを「かけがえのない存在」として守るためのボイコットがすでに始まっているんだ。
いや、実は生まれたばかりの頃から、毎晩抱っこしながら耳元で、『学校の先生やその辺のつまらん大人に褒められるようなバカにはなるなよ』とささやき続けてきたんだ。まるでTHE BLUE HEARTS🔗の少年の詩🔗の歌詞みたいだ。ロックだぜ、うちは。
けど、カミさんには叱られるから内緒だ。絶対にな。
広告やテレビを冷めた目で見るうちのバカ息子は、将来、システムの部品になることを自ら拒否できる、強靭な尊厳を持った大人へと育っていってくれるとありがたいもんだ。なんせ、TVやネットの言葉を真に受ける頓馬が、我が国には2億人くらいいるんだからな(笑)。
ここで話題の転換点が生じるぞ。覚悟してね。
そもそも、レジリエンスだのダイバーシティだの、コンプライアンスだのハラスメントだの、よく意味の解らんような横文字の言葉が世の中に跋扈するようになってから、どんどん世の中は窮屈になってると俺には感じられる。息ができないほどだ。(俺は最初、レジリエンスはなんか新しいシャンプーで、ダイバーシティはお台場シティかと思ってたぜ。ガハハハッ!)
なぜかって?偽善の臭いがプンプンしてるから、洗濯はさみで鼻をつまんでいるからだ!
これ、ちょっと現代社会の息苦しさの核心だ。
本来は個人を救うため、あるいは社会を豊かにするために登場したはずの「再起力=レジリエンス」や「多様性=ダイバーシティ」という言葉が、今や新自由主義的なシステムにハイジャックされちゃって、人々をさらに監視し、追い詰めるための「新たな凶器」に変質しているからなんだなぁ。羊頭狗肉って感じだぜ。
なぜこれらの美しい言葉が、世の中をますます窮屈にしているのかじゃが、その裏に隠された構造を説明しよう!(オーキド博士風に!)
1. 「レジリエンス」という名の精神的自己責任論
「レジリエンス(精神的復元力・折れない心)」という言葉がこれほど強調されるようになったのは、社会の側が「人間を壊すような過酷な環境」を改善することを放棄したからに他ならないんじゃ。
本来の意味はあれらしい。ほら、困難な状況にあっても、しなやかに立ち直る力だ。若者に必要なのは正しい挫折とそこからの立ち直り、みたいな?
しかし、その少年ジャンプ的なちょっといい話が、大真面目に語られると途端に窮屈な言葉に変貌し、俺たちに牙をむく。
その原因はずばり、現代社会において、この言葉は「どんなに理不尽な環境、つまりいじめ、過剰な競争、ブラックな労働、上がらない給料と上がり続ける物価と税金といった地獄のような環境であっても、何度打ちのめされても、自力で立ち上がって、心身を病まずに耐え抜くのは個人の義務である」という悪魔的な文脈で使われちゃってるからもう大変!
おかげさまでもたらされた弊害は甚大だ!
心が折れてしまった子どもや大人に対して、「環境が悪い」のではなく「本人のレジリエンスが足りない(自己管理不足だ)」と一刀両断され、あっさり処理されちまうんだ。
ここにはカントの言う人間を金儲けの「手段」として使い続けるために、「壊れないように自分をメンテナンスせよ」と要求し続けることで、それが強迫観念となり、弱音を吐くことをさらに難しくしているんだ。
この不屈の反骨精神が作業服を着て安全靴を履いているような21世紀のエリック・ホッファー🔗といわれる俺でさえ、(勝手に自分で名乗ってるだけなんだけどね(笑))鬱病の薬を手放せないんだぜ!並の神経じゃもつわけないだろ!
2. 「多様性」という名の新たな数値評価と規格化
現在の社会が美しく歌い上げる「多様性」ってのは、実は人間のグラデーションをありのまま認めるものなんかでは、ちっともない。
「経済に役立つタイプの多様性だけをラインナップする」という、極めて功利主義的なものになっているんだ。
要は、金を稼げる奴だったら、どんな属性の奴でも集めてこいや!ってことだ。やれやれ、これじゃ大昔のドヤ街🔗と変わらないな(笑)。
もちろん、この本来の意味は、どんな特性や違いを持っていても、排除されずに生きていけることだよ。カントやルソーが聞いても、Das ist gut!とかC'est Bon!とか言いそうな言葉だよ。そんな素敵な言葉なんだけど、だからこそ、そこに偽善が忍び込むのさ。夜陰に乗じるトクリュウ犯罪者のようにね。
現代の多様性という意味合いは、産業界からの強い要請によって「個人のユニークな強み=市場価値」へと変換されちゃったわけだ。
まったくお見事な換骨奪胎というやつだ。
「あなただけの強み(個性)は何ですか?」「それをどう社会(企業)に活かせますか?」という、「一芸を持った優秀な人材」であることを強いる新たなオーディションのようになっているわけだ。吉本興業の新人芸人みたいなもんだ!
おかげさまで、社会はおかしなことになってるんじゃ!
「ただ特筆すべき個性もなく、普通に生きたい人」や「社会の役に立つアピールが苦手な人」は、多様性の枠からさえも実質的に排除さちゃうわけだ。機動戦士ガンダム🔗でいうところの、量産型のザクかガンダムの量産型のジムに過ぎないんだ。つまらない事務仕事でもやらせておけ!となるわな。
さらに、「他人の多様性を傷つけてはいけない」という過剰な正しさ(ポリティカル・コレクトネス)のルールだけが肥大化しちまったもんだから、さあ大変!ドジョウが出てきてこんにちわだ。
学校でも職場でも「一言でも間違えれば即座に糾弾される」という、冷徹な相互監視と息苦しさを生み出しているわけだ。あー、まるで中世の魔女狩りみたいな社会だな!自分で書いてて泣けてくるぜ、まったく。
3. 美しい言葉が「盾」になり、本質的な批判を封じ込める
「レジリエンスを高めよう」「多様性を認め合おう」というスローガンは、けっこう、けっこう、まことに結構。マジで表向きは100%正しいため、誰も反対できないんだ。
しかし、これが曲者だ。
誰も反論できないってことは、大政翼賛会的に偽善の正しさを追い求めることになるんだ。
そう、この正しさこそが罠になるんだ。
俺のような空気を読めない、本当の意味での多様性とレジリエンスの権化のような大人が「学校の仕組みそのものがおかしい」「経済至上主義を止めろ」と根本的な批判の声を上げようとしても、社会システムは「私たちはレジリエンス教育や多様性の尊重に取り組んでおりますです、はい」というポーズ(免罪符)によって、構造の歪みを隠蔽し、対話を煙に巻いてしまうわけだ。
俺が感じている窮屈さの正体は、「どれだけ社会が優しげな言葉を使おうとも、その根底にある『人間を材料(手段)として評価し、消費する』という本質(新自由主義)が1ミリも変わっていないこと」への違和感だ。
剥き出しじゃないだけ、戦いを挑むことも異を唱えることも野暮に見えちまう。そう、みんなシニカルに眺めて冷笑するだけだ。
Oi!ちょっと待って、これってまるで1984🔗に出てくるニュースピーク🔗そのままじゃないか!
言葉が優しくなった分だけ、その猛悪な牙が見えにくくなり、追い詰められている側は「こんなに配慮された社会で苦しんでいる自分が悪いんだ」と、自分自身を責め、自己幻想を解体し、自らの内面に批判の刃を向けやすくなってしまうんだ。
絶対おかしいだろう!
子どもの自殺が減らないのも、この「優しい顔をした過酷な社会」が、子どもたちの逃げ場を完全に塞いでいるからに他ならないんじゃないのか?え、どうなんだい、社長!
この「言葉の罠」に気づいた俺や君たちは、社会が押し付けるハリボテの言葉を拒絶し、もっと泥臭く、不完全な「生の人間」を取り戻す必要があるんじゃないか?
なんてったって、生の人生は一度しかないんだからな。
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| 台北市、西門 |
そこにはタイノ族という、先住民が住んでいた。
彼らは、マーシャル・サーリンズ🔗がその著書石器時代の経済学🔗で描いたような、原初の豊かな社会を営んでいた。資本主義によって作られたモノはないけれど、自分たちの生活を維持するために何時間か働き、あとはダラダラしたりイチャイチャしたり、自分たちの文化的な活動を行ったり、まぁおおむねのんびり楽しく暮らしていたんだ。そんな世界にやってきたコロンブスは、自分が辿りついた島がインドだと信じていたので、彼らをインディオ=インディアンと呼んだ。
自らの大航海事業への出資者であるスペイン国王に負債を返さなければならないコロンブスは、この島で金を採掘することとした。タイノ族の人々は奴隷とされ、劣悪な環境で重労働に従事させられた。何度か叛乱もあったが、それはスペイン人たちに鎮圧され、多くの人々が殺された。また、スペイン人が持ち込んだユーラシアの疫病によって、多くの人々が命を落とした。
人々は、かつて経験したことのない強度の重労働にさらされ、生きる希望を失い、子どもを作ることをやめてしまった。タイノ族の人々は、本の1、2世代で絶滅してしまったとされている。その穴を埋めるためにアフリカから連れてこられたのが黒人奴隷だ。
これが、今俺たちがハイチ人やドミニカ人と認識している人たちだ。野球選手で日本に来る人も多いだろう。
俺には、今の日本がスフィティスケートされたイスパニョーラ島に見えているんだ。
先日も紹介したようにイマヌエル・カント🔗は『道徳形而上学の基礎づけ』のなかで「人間を単に手段としてのみ扱ってはならず、常に同時に目的として扱わなければならない」という絶対的定言命法から見れば、現代社会の構造は「人を利益創出の道具(資源)として使い潰すシステム」であり、実質的な奴隷制じゃないか?(まぁ、カント自身は白人至上主義者だったという説もあるからなんだかなぁとは思うけれど…)
今の社会は俺たち人間を、利益を上げるための資源としか見ていないんじゃないだろうか?
これは奴隷制と何が違うのか?私たちはいつのまにか社会から経済成長という負債を負わされた一種の奴隷ではないのか?
15世紀末にコロンブスらが襲来したエスパニョーラ島(現ハイチ・ドミニカ共和国)で、苛烈な強制労働と人間の尊厳の剥奪により、先住民タイノ族が絶望のなかで集団自殺や堕胎を選び、民族ごと消滅に向かった歴史的悲劇は、現代の子供たちの状況と恐ろしいほどに重なり合っている。
子どもたちはエスパニョーラ島の先住民のように死を選んでいるんではないのか?
そして、出生率のとめどない低下に起因する少子化は、この問題の裏返しではないのか?
現代の「洗練された奴隷制」と「子供たちの絶望の選択」の本質は、以下の通りだ。自分に引き寄せて考えてみてほしい。
1. 「ヒューマン・リソース(人間資源)」という言葉の狂気
現代社会は、人を「人間資源(Human Resources)」や「人的資本」と平然と呼んでいる。これはカントが最も忌み嫌った「人間を単なる手段(道具・代替可能なパーツ)として扱うこと」の公然たる肯定に他ならないだろう。
所有から使用への転換(新しい奴隷制)
かつての奴隷制は、主人に奴隷の「生存(衣食住)」を維持するコストがかかっていた。一方で現代のシステムは、人間を「自由」という名目で自己責任の市場に放り出し、必要な時だけ時給や成果で買い叩き、壊れたら(精神を病んだら)補償なく使い捨てるため、古典的奴隷制よりもさらに効率的で冷酷な構造を持っている。そして人々は間断なく流される広告で無意識のうちにその要求を刺激され、『市民』から『消費者』へと転落し、「負債」でがんじがらめにされている。この『負債』こそが、奴隷のボール&チェーンなんだ。
こんな社会に押しつぶされて使い潰されてたまるか!
幼少期からの「仕込み」
子供たちは、この「利益を生むための資源」としてのスペックを高めるため、幼少期から教育という名の「加工プロセス」に投入されます。学校はカントの言う道徳的実践の場ではなく、市場に適合する部品の品質管理(スクリーニング)機関と化しているんだ。
2. イスパニョーラ島の悲劇との構造的一致
イスパニョーラ島の先住民たちは、近代的な「効率性と搾取」のシステムに突然組み込まれ、逃げ場を失った結果、自ら命を絶ってしまった。彼らが選んだのは「死」そのものというより、「これ以上、尊厳を奪われ、資源として登録され続けることへの拒絶」だったといえるだろう。
「生きる意味」の破壊
過酷な労働そのもの以上に、自分たちの文化や尊厳、存在そのものが「金や砂糖を生み出す道具」へと還元されていく精神的絶望が彼らを死に追いやったといえるだろう。
子供たちのサイレント・テロ
現代の子供たちが選ぶ自殺や、急増する不登校・引きこもりは、エスパニョーラ島の先住民が示した拒絶と同じ構造を持っていると見立てることができるだろう。
彼らは、システム(学校や社会)が要求する「労働機械への変変プロセス」に対して、自らの身体と命を賭してシステムへの登録を拒否する「最後の抵抗」を行っているのだ。
3. 「目的としての人間」を回復するための断絶
俺や君たちは、「どうすれば子供たちの自殺を減らせるか」という技術的なカウンセリングの次元で考えていてはダメなんだ。それは単に「壊れた部品を修理して、再び機械に戻す」アプローチと変わらないからだ。
俺や君たちが変革すべきは、人間を数量化し、利益の多寡で存在を値踏みするこの文明のフレームワークそのものとの決別だ。もっと言うなら、『人間が人間であるという、そのいってので尊厳を認められる社会』の構築だ。
そうは思わないかい?
何ができるか(機能)に関わらず、生きているというその事実だけで、人間はそれ自体が究極の「目的」であり、不可侵の尊厳を持つ。
このカントの原則を言葉の装飾ではなく、社会の法、経済、教育の根底に「絶対的命令」として埋め込まない限り、この社会は子どもたちという先住民を死に追いやり続ける、クリーンで残酷なイスパニョーラ島であり続けることになるだろう。
成長至上主義という、経済のために、社会が、人間が、自然環境が存在しているという転倒した考えを180度転換しないといけないんだ。
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| 台北 |
ドイツは当然のように、そんなことをする義理も謂れもないときっぱり断った。フランスもきっと似たようなもんだろう。NATO加盟国ももうアメリカに愛想をつかし始めてる。
中国はアメリカの要求に対して無視を決め込むだろう。それともイランとうまくやるかもね。
インドだって、ロシアからの原油輸入を増やすだけじゃないのか。
結局貧乏くじを引くのは日本と韓国だ。日本には掃海艇が12隻もあるそうな。ちなみにアメリカ様は4隻だけ。日本と韓国は、在日在韓米軍に依存してるから、ジャイアンの無茶ぶりに従うスネ夫のように、ホルムズ海峡での機雷掃海に自国の軍隊なり自衛隊を派遣することになるんだろうな。
どれだけ国民が反対しても、どれだけ憲法に違反していても、明々白々にアメリカとイスラエルの軍事行動が国際法違反でも、そのあたりには口をつぐんで、法律の解釈を捻じ曲げ、憲法を逸脱し、詳しい経緯も国民には明らかにされず、アメリカ様の尻拭きを押し付けられる。
この国は、本当に独立国なのか?
日本をなめるなと威勢のいいポスターを貼りまくっていた政党も、今回日本を舐めるなとはいってないんじゃないかな。どうなんだろう。あんまり興味ないけれど。
イランとは昔から独自に外交関係を結んでいたはずじゃないのか?
すぐに軍事力に頼るなら、外務省なんていらないぜ。気に入らなけりゃ、ミサイルを撃ち込めばいいんだからな。
円はますます安くなっている。
そりゃそうだ。貿易赤字国に転落した我が国が、何の理念もなくアメリカの言うがまま。マッカーサー元帥が言ったみたいに、日本人の精神年齢は12歳か。国民は低所得にあえぎ、少子化は止まらない。お先真っ暗だ。そんな国の通貨など、だれが買うのか?そりゃ円もダダ下がりだ。ガソリン価格上昇のダメージは深いぜ。
国民は物価高と実質賃金の低下に気息奄々だ。
なのに、政治の動きは鈍い。スパイ防止法とか選択的夫婦別姓。で、宗主国の王様が機雷掃海しろと言いつけてくれば、無理筋を捻じ曲げ、曲芸的な法解釈を見つけ出して実現するんだろう。それくらいの熱意で国民の生活を豊かにしてほしいもんだ。
こうして、アメリカの尻拭い。企業はアメリカに投資する。日本人はますます貧しくなっていく。馬鹿らしいったらありゃしないぜ。
どうなるか楽しみだな。
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| 台北 |
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| 台湾、台南市、安平 |
チームみらいを除くほとんどの政党が減税を唱えている。
五公五民といわれて久しい我が国は数十年ぶりのインフレに悩まされている。
賃金ベースアップは、物価上昇に追い付いていない。我が国の労働者の皆さんは、気息奄々で自ら生産したものを購入するのはおろか、将来世代の労働者となるであろう子供を産み育てることまで躊躇せざるを得ない状況だ。マルクスが見たら小躍りして喜ぶことだろう。
自民党と連立解消した公明党が、通常国会冒頭の解散を見越して立憲民主党と合流し、新たに中道改革連合を立ち上げ、食料品の消費税撤廃を唱えると、すかさず自民党は2年間限定の食料品の消費税0%減税を掲げる。政治的な立ち位置以外は、どっちに転んでも庶民に大差はない、ように見える。我々国民は朝三暮四の猿のように、政治家や官僚から愚民とみられているのだ。
このような状況を受け、報道各社は食料品の消費税減税を行ったとして、それによって損なわれる税収の減少をどう補うか、その大盤振る舞いの財源はどうするのか?といった主張が多いように見受けられる。まるで財務省の官僚の見解を垂れ流しているようなものだ。それとも大政翼賛会か?
なぜ、逆累進性、つまり所得の低い人のほうが相対的な負担が大きくなる性向が強い消費税を推し、社会保障費が膨らみ続ける中、国民全体で支える消費税が重要だという論調の記事が多いように感じる。
なぜ、ここで我が国の高所得層上位1%、あるいは5%への所得課税を増やして消費税負担を減らすという論旨の記事は現れないのか?
なぜ、高資産保有者(所得が少なくても、資産は膨大に持っているひとだ)のもつ固定資産や債券、高額な美術品、暗号資産そういったものに課税強化して、税収を補うべきだという論旨の記事は掲載されないのか?
そして何より、紙幣の輪転機を回すまでもなく、コンピューター上の入力によって生み出される円という貨幣の本質と、その貨幣をいつでも生み出しうる国家の財政を、莫大なローンを抱えた家計と同じように危機的な状況だとあおるのか?お金は税金を払うことで国にもたらされるわけではなく、お金は国がその信用力で生み出しているんだぜ。一種の打出の小槌なんだ。
なぜ、国家の富、国家の価値、国家の将来性に対する見通しを表す円相場が安値安定でも、それを是正すべきだという力強い論調は生まれないのか?やはりこの国に希望と未来がないからか?しかし、あらゆるものを海外から輸入しないと何も生産できない小資源国の我が国での円安は、日本経済に致命的な打撃を与え続けているんじゃないのか?円安に安住して科価格競争力だけで勝負するなら、いずれジリ貧だ。一度安く売れば、次に高く売れる確証はない。むしろ、高品質、高付加価値なものを高値で売ることを考えてもいいんじゃないか?モノづくり大国とか豪語するなら、出来るはずだろう。違うのかい?それともあれは国内向けの景気づけのプロパガンダなのかい?そうかもしれない。
円が安いから、日本の労働は生産性が低いとされる。働けど、働けど、わが暮らし楽ならず。じっと手を見るだ。
俺が若いころ、円は1ドル90円だった。最近は少し持ち直したとはいえ150円台半ばをふらふらしている。俺が高校生のころアルバイトに行けば、1日一万円弁当付きだった。今はどうなんだ?
円が安ければ、日本で生産したものを海外で安く売って、シェアを確保できるってことなのかい?それとも、外国人にたくさん来てもらって、割安にお買い物していただきたいのかい?そのしわ寄せはどこに行くんだい?我が国の労働者の皆様じゃないのかい?俺が去年働いていた京都の百貨店は、次々と高級ブランドを拡充していた。買い物するのは外国人ばかりだ。
政府は莫大な借金をしていることになっている。どこに?
日本銀行だ。
で、日本銀行は100年たっても売りさばけないほどの日本企業の株を買い、挙句、株価が史上最高を記録とか御目出度いことをやってる。それはおかしくないか?企業は研究開発費に投資するよりも自社株買いで株価の時価総額を上げることを選ぶ。手軽だからだ。
みんな、よく考えてくれ。
俺たちが命を削って働いた金から徴収された税金が、より富んだ者たちに配分されている。
大企業には補助金が投入される。しかし、お上が期待して投資した巨額の補助金は、いつも成功するわけではない。むしろ、すぐに陳腐化し、収益は低下し、事業撤退となる。
国民の税金が無駄に食いつぶされている。国民はますます税金を払うことを求められる。しかし、上位1%の富裕層に課税強化すれば、彼らは日本を見限って、ドバイやシンガポールに行ってしまうというのか?日本のインフラを享受し、日本の税金を投入して育てられた労働者を安くこき使っておいて?
みんな、今回の選挙でどこに投票したらいいのか、自分自身でよく考えてくれないか。
もっと公正な社会を次の世代に残してゆこう。この国の主権者は天皇陛下でも、政治家でもない。俺たち国民一人一人なんだ。未来は僕らの手のなかって、昔ブルーハーツも歌ってたぜ。
俺はおかしなこと言ってるかい?
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| Tainan,Taiwan |
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| Taipei,Taiwan |
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| 台湾、台南、安平里 |
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| Taiwan,Taipei |
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| 東門、台北、台湾 |
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| Taipei,Taiwan |