2026/05/04

POST#1839 天皇霊というマジカルな存在はありや否や

奈良・桜井、大神神社 大物主を祀るこの神社は三輪山そのものが神体だ。
今日は女房子供が出かけている間に、近所の隣人が遊びに来た。一緒に大昔のレコードを聞いたり、たわいもないことを話したりして暮らしたんだ。だから、更新が遅くなってしまった。俺的にはめちゃめちゃ重大な問題、そう、人生を通じてずっと考え続けてきたことだ。

俺の手元には吉本隆明の『全南島論🔗 日本国と天皇制の起源』という本が広げられている。

この本に収められている『南島の継承祭儀についてー<沖縄>と<日本>の根底を結ぶもの』と題したテクスト(p229~)から、今日の話を進めよう。これは1971年に行われた隆明さんの講演を書き起こしたものだ。

『南東すなわち琉球、沖縄のノロの首長である聞得大君の就任儀式と、天皇の世襲祭儀である大嘗祭🔗との類似を探るということです。この二つは大変良く似ていて、同じところから発生しているいえると思います。この問題については重要であるにもかかわらず、まだ解明されていないところがたくさんあります。』と隆明さんは切り出す。

解明されていないのも当然だ。大嘗祭の祭儀そのものはいかなる高位高官であろうと大学者であろうと、数百年間一切公開されていない儀式だ。令和の大嘗祭においては、その神殿などは国民の理解を得るために広く公開されたので、ご覧になった方もおられるだろう。

しかし、その祭儀そのものは公開されない。

奥能登に伝わるアエノコト🔗と近いものではないかとも推測しうる。目には見えない神霊(アエノコトでは田の神)を迎え、饗応するという儀式だ。

『まず、天皇位の世襲に際して行われる宗教的な祭儀(大嘗祭があります)…中略…

二つの方位にある地域を占いできめまして、その卜定された田地から取れた稲を、収穫してきて、天皇位を継承する人物が食べるということが、その一つの構成要素です。喰べるということはどういうことかといいますと、これは共食するということで、部落中が一緒に食べるとか部落の主だったのが食事を共にするということとおなじで、天皇位をつぐ人物が神とともに食事をするという意味になります。共食というのは利害が同じだとか、血筋が同じだというマジックを成立させるのです。だから共食祭儀は世界のどこにもあるものです。この神との共食は天皇位の世襲祭儀の一つの大きな問題なのです。大嘗祭では、二つの方位のちがった地域から、田地をえらんで稲を持ってきますが、同じように二つの仮の小殿を建てます。それを悠忌殿(ゆきでん)・主基殿(すきでん)と言っています。そこを天皇位を継ぐ人物が巡廻するのです。そうして神との共食を行います。この神との共食は、農耕社会における国家権力という意味合いをもっていますが、宗教的権威・威力というのは、そういうところから選定された米を、神と一緒に喰べるということで、

つまり<権力であるぞ>という擬制が成立するのです。

もう一つの構成要素は、神と共に寝るという、性行為です。つまりセックスです。神と共にねることによって、神の威力を自分が受け取るという意味をもたせるわけです。

悠忌殿・主基殿の巡回あと、夜中すぎ午前三時頃に、天皇位を世襲する人物が、布団にくるまって寝るわけです。布団は二つ敷かれてあって、その一方に天皇が寝て、片一方に神が寝るということになっています。神と寝るといったって神はいないわけですから、ある時代には神の代わりに諸国の豪族の娘が、中央の宮殿にはべっていて神の代理として、実際、性的行為を行っていた時代もあります。いずれにしても神はいてもいなくてもいいわけで、要するに神と性的に寝るわけです。そして、そういうことによって神の威力が自分のところにふき込まれるというマジックが成立します。別の解釈をすれば、性的行為をしないで、ただ生殖行為をすることによって、その年の豊作を予祝するという祭が全国いたるところにありますが、それと同じで、農耕社会の豊作を生殖あるいは性行為によって象徴的に演じるという意味も多分にあります。』

この儀式を折口信夫🔗は、天孫降臨の際、天照大御神の孫にあたる瓊瓊杵尊🔗を地上に遣わす際にその実をくるんだ真床覆衾になぞらえ、天皇が大嘗祭で寝具(真床覆衾)にくるまることで「天皇霊」を身につけるという「秘儀」説を唱えて、長く定説となっていた。もちろん、この吉本隆明の公演が行われていた1970年代初期にも、それは定説と考えられていたのは付言しておこう。折口信夫などが提唱したこの「天皇霊」の概念は、肉体を超えて受け継がれる「霊的な力の源泉」だといえよう。大嘗祭という極めて密儀的なプロセスを経て、新しい天皇にその霊力が「着装」されるというイメージだ。

『これに対して、琉球、沖縄の聞得大君という最高位の巫女は—大体において当初国王の姉妹がなるわけですが—ノロという共同体の女祭司を体制的に編成したときの最高位の巫女です。もちろん現在とちがって、 宗教性が政治性よりも優位、あるいは根源におかれた古い時代では、聞得大君の御託神・御託宣によって実際の政治を行って、その兄弟である王が、国家・共同体を支配することが行われていました。この政治体制は一般的にヒメーヒコ性と呼ばれていますが、聞得大君は、そういう意味で体制化された最高の巫女であるということです。…中略…

ようするに聞得大君の御宣託によって、その兄弟が実際には政治権力を行使するという権力構造があったのです。その就任儀式を、南島では〈聞得大神の御新下り〉といっています。その「は大りといってます。その(下り)はどういう構造をもっているかというと、とよく似て〈御新下り〉はどういう構造を持っているかというと、天皇位の世襲大嘗祭とよく似ていて、構造からいえば、ほぼ同じといっていいのです。…中略…即位の祭は、大庫裡というところで行われます。どういう祭式かと申しますと、大庫裡で王冠を頭にかぶって一種のおまじないをするのです。それからもう一つユインチ、サングーイ(漢字で当てると寄満・三庫裡ですが)を順々に巡拝してゆく行事があります。天皇の大嘗祭でいえば、ユインチというのは、悠忌の国・悠忌殿といっているものに対応し、サングーイというのは、主基の国・主基殿といっているものに対応するとおもいます。そういう巡拝が終わると御待御殿(オマチオドン)といわれているところで—二つの布団が敷かれていて金の枕があるのですが、聞得大君がその一方に寝て、神がもう一方に寝るという儀式があります。神が寝るといってもいないじゃないかということがあります。天皇の場合だったら大体男性なので対手が女性であればいいのですが、聞得大君の場合は女性のなので、対手が男性でなければならないことになります。ここで様々な説があるわけです。』

これは、近世まで琉球=沖縄に保存されていたヒメ・ヒコ制なのだ。

男女が違うではないか、役割が違うんじゃないのか?と疑問を抱かれる向きもあるだろうけど、レヴィ=ストロースの構造主義🔗を援用して考えれば、男女という対になる項目が入れ替わっても、儀式構造とその根底にある神話構造には変わりはないといえるだろう。

では新たに即位した天皇や聞得大君が共食し、かつては同衾し儀礼的な性交することでミニに宿すと考えられていた神とは、いったい何なのだろうか?

吉本隆明の講演を続けて引用してみよう。

『ここでもう一つの問題は、天皇位の世襲大嘗祭の場合の〈神)とは何かということですが、それは天皇の先祖の神である神だというこじつけがあり、もう一つは天孫降臨という〈聖なるもの)としての帝王であるということがあります。また、大嘗祭というのは、各地の村落共同体にある、田の神祭等の豊作の神という解釈もつけられます。そういった解釈のいずれか一つというのではなくて、大嘗祭における神というのは、それらが複合したものとして神が存在するのであろうとおもわれます。それに対して〈聞得大君の御新下り〉の場合の対手方の神は何であるかというと、一つは穀霊神ですが、もう一つは種族の原点というか、故郷からやってくる神だというものとして神が存在するのであろうとおもわれます。勿論、ごくどこにでもある田んぼ神であるというようにも、意味づけられます。やっぱりそれらの複合として考えるのがよいと思います。以下略』(全南島論 P231~P235)

この日本民俗学の天才・折口信夫の提唱した「天皇霊(すめらみたま)継承説」は岡田莊司・國學院大學名誉教授によって、批判され、現在ではちょっと的外れなフィクションだよねという流れになっている。これは1990年(平成2年)の「平成の大嘗祭」を機に広く知られるようになったもので、大嘗祭の歴史的・実証的な姿を提示したものだとされている。

 岡田説の核心は大嘗祭から「天皇霊」といった呪術的な神秘性を払しょくし「神秘的な霊の継承」ではなく、「古代以来の国家儀礼としての実像」として捉え直したものだという。

先にも述べたようにかつて折口信夫は、天皇が大嘗祭で寝具(真床覆衾)にくるまることで「天皇霊」を身につけるという「秘儀」説を唱えたが、岡田氏はこれに史料的根拠がないことを示した。そのうえで、岡田氏は、大嘗祭の核心は神秘的な「お籠り」ではなく、天皇が自ら神々に食事を供し、共に召し上がる「神饌供進(しんせんきょうぜん)・共食」の作法にあると論じているそうだ。

このような目に見えない神霊を迎え、ともに食事をとったりしてその霊威を蒙る儀礼は、先にあげた奥能登の「アエノコト」のように、かつては日本中に広く見られたものだ。

とはいえ、岡田氏の議論によれば、大嘗祭に神秘的な側面がないとされているわけではなく、「特定のタイミングで霊魂が乗り移る」という折口的な解釈が否定されていると理解するのが適切だという。

折口説は、記紀神話(天孫降臨)の記述を民俗学的な直感で結びつけた「学術的フィクション」としての側面が強く、(そこが折口信夫のダイナミックであるとともに文学的で、後学を魅了してやまない醍醐味なんだけれど)実証的な歴史学の立場からはその根拠が脆弱であるとされちゃったわけだ。

これに対し岡田氏は、大嘗祭を「天皇が即位後に初めて行う新嘗祭の拡大版」と位置づけ、皇祖神(天照大神)や天神地祇に対する感謝と報告の儀式であるという、より伝統的・形式的な側面を重視している。

1990年代の論争を通じ、宮内庁側も大嘗祭に「秘儀」としての要素(ふとんにくるまる等の所作)は存在しないことを公式に示唆する形となり、現在では、岡田氏の「神饌供進重視説」が学界の有力な見解となっている。

つまり大嘗祭は「神秘的な変身の儀式」から「至高の誠を捧げる祭祀」へと、解釈の重心が移っているとえるだろう。


う~ん、天皇霊ってマジカルな存在が二本という近代国家の最深部に存在しているってロマンがなくなっちゃうと、なんかつまんないですね。まぁ、だからといって俺の生活が何か変わるわけでもないけど…。

「天皇霊という神秘的な力が、代替わりの儀式を通じて受け継がれていく」という物語には、歴史の深みやロマンを感じさせる抗いがたい魅力がある。折口信夫の説がこれほどまでに長く人々の心に残り、語り継がれているのも、それが日本人の感性に訴えかける「美的な真実」を含んでいるからかもしれない。しかし、資料を逆さに振っても出てこないものは仕方ないないな。

史料に基づき、事実に忠実であろうとする岡田説。こちらは「大嘗祭がどう行われてきたか」を明らかにします。つまり「歴史学」としての正しさに立脚しているんだ。

しかし、折口→吉本ラインの『天皇霊継承説』は長らく人々の想像力を刺激し、天皇という存在の重みを表現しようとしていた。こちらは「文化・思想」としての豊かさとして「大嘗祭がどう感じられてきたか」を象徴しているわけだ。学術的に「根拠がない」とされたとしても、100年近く多くの人が「そうかもしれない」と信じてきたイメージ自体が、もはやひとつの現代の神話になっているとも言えるだろう。こっちのほうがたしかにワクワクするし、日本という国の神秘性が増すような気がするしな。

岡田莊司氏による「実証的な批判」が、吉本隆明の『共同幻想論』、特に天皇制の起源や本質を論じた部分にどう影響するか。吉本隆明に私淑するものとしては、大いに気になる。結論からいえば、「歴史的事実」のレベルでは解体される部分がありますが、「思想・構造の理論」としては必ずしも無効化されないという二段構えの解釈が一般的だとされているんだそうだ。ほっとしたぜ。

吉本隆明は『共同幻想論』の中で、折口信夫の『真床覆衾』などの説を援用し、天皇制を「根源的な呪力」や「国家という共同幻想の核心」として論じてきた。

岡田氏が指摘するように、もし大嘗祭に「霊の継承」という具体的な秘儀(ふとんにくるまる等)が歴史的に存在しなかったのだとすれば、吉本が前提とした「太古から続く具体的な呪術的プロセス」という記述は、歴史学的な根拠を失うことになるだろう。

しかし、隆明さんの理論の肝は、それが「事実かどうか」よりも、「人々がそれをどう信じ、共同体として共有しているかという共同幻想」という点にあります。隆明さんにとって重要なのは、実際の儀式の内容以上に、天皇制が日本人の精神構造において「共同幻想」として機能してきた事実そのものだ。

たとえ大嘗祭の実態がアエノコトのような単なる「神饌供進(食事の儀式)」であったとしても、人々がそこに「神秘的な継承」を読み取り、それが国家を統合する幻想として機能してきたのであれば、吉本の「共同幻想論」の枠組み自体は維持されるといえるだろう。

なんといっても、しょせん幻想なんだからな。

実際、吉本隆明は後年の対談などで、明治以降の天皇制儀礼が「作られた伝統」であるという指摘を受けた際、激しく拒絶したというエピソードがあるそうだ。まぁ俺も宗教をかじってたことがあって神社本庁から出たりしてた儀式に関する本を読んでいたから、中世の神仏習合🔗時代を経て、明治初期の廃仏毀釈🔗を経て再編され、純化された神道儀礼が、明治期をさかのぼるものではなく、遡ろうとしても、その古い儀式に関する記録を見出すことはできなかったことも知っているし、その間隙を突くように、様々な偽史古伝が出回り、さまざまな古神道が勃興したことも十分知っている。

そんなことは隆明さんも当然承知の助だったろうけれど、隆明さんは天皇制が持つ「数千年の時間の堆積」や「言葉にできない呪力」を直感的に重視しており、それを「実証主義」で解体しようとする動きに対しては、むしろ思想的な対抗心を持っていた節があるんだ。

岡田氏の論考によって、吉本の論考の「材料(折口学的な神話)」は確かに解体・修正を迫られるだろう。しかし、吉本の『共同幻想という構造の分析』は、むしろ『なぜ事実ではない神秘(幻想)がこれほどまでに力を持つのか』という新たな問いを立てることで、生き残り続けるとも言えるだろう。『事実はつまらないけれど、幻想には力がある』という、パラドックスがここにも存在している。


さて、なんだか専門的でよくわからん話になったが、今日はここまで。続きは明日。

明日の俺は、相反するテーゼとアンチテーゼを止揚してジンテーゼを打ち立てるつもりだぜ!天皇制の弁証法🔗だぜ!知のパルクールを見せてやるさ。

2026/05/03

POST#1838 外は雨。国家という幻想の成立を、隆明さんと辿ってみるかな

新宮市。神倉神社より太平洋緒を望む。伝説の神武天皇もこの風景を見たことになっとる

今日は憲法記念日だ。自民党を中心とした戦争したい右派の皆さんがしきりと改憲を訴えているが、それは泥棒が刑法を書き換えようとしてるようなもんだ。みんな注意しろよ。

憲法とは、国家の主権者たる私たち一人一人の市民から政治家や行政や司法に携わる公僕に与えられた、このように国家を運営せよという命令書なんだ。ほかの法律とは分けが違う。

だから、政治家共が発議して、憲法を変えようってのは、泥棒が刑法を自分のいいように書き換えようという試みに他ならないんだ。みんな、騙されてはいけない!気が付けば私たちは国家の主権者ではなく、支配システムの奴隷に成り下がってしまうぞ!

かつて麻生漫☆画太郎も『ヒットラーやり方を見習ったらいいんだ』みたいなことを言ってただろう?俺は忘れていないぞ、あの時の麻生漫☆画太郎のひきつったような悪党面を(笑)

ヒットラーが当時世界で最も先進的で民主的だったワイマール憲法のバグを使って、ファシズム国家を作ったように、俺の愛するこのクニにディストピアを生み出すわけにはいかのんじゃ!

閑話休題(こんな大事な話が暇つぶしとは、俺もまったく狂ってるな(笑))

先日、施設に入ってる親父を銀行に連れて行った際に、親父は死んだ婆さんが後生大事にとっておいた『聖徳太子🔗の一万円札』を持ってきて、これを俺の息子に託したいというんだ。

そんなもの渡しても、豚に真珠であっという間にプラレールかNゲージに変わっちまうわさ。さようなら、聖徳太子!今の若者は知らんだろう!和国の教主だ。冠位十二階だ。日出る処の天子だ。右派の政治家が反対意見を封殺するときに、錦の御旗で持ち出す『和を以て貴しとなす』の十七条憲法だ!俺はあれは議論しないことじゃなくて、徹底的な熟議と合意によって遺恨と分断が残らないようにすることじゃないかと思うんだが、さぁ、君どう思う?

さて、俺は親父に『馬鹿野郎!そんな銭があるならあんたの借金返済の足しにでもしやがれ!死んだ婆さんが浮かばれないぞ!』って一蹴ローリングソバット決めたったわ!

さて、一万円札の後続打者・福沢諭吉と渋沢栄一によって歴史の闇に葬り去られた感のある聖徳太子が、俺の人生の一コマにひょっこり姿を現したのは、何かの符牒かそれとも千五百年前という遥かな過去からの呼び声か?

昨日の夜中に仕事をしていて気が付いた。丑三つ時には頭がさえわたる。

聖徳太子と推古天皇🔗の関係ってのは、昨日のPOST #1837に出てきた琉球王国の「聞得大君と国王」の関係、つまり「オナリ神」信仰に基づく祭政一致の構造に相似したもんなんじゃなかったかということだ。

レヴィ=ストロースの構造主義を援用すれば、性別や機能、立場や権能などの属性を入れ替えても、基本構造が同じなら、それは相同関係を見いだせるってもんだ。

おお、わくわくするじゃろ?知性のパルクールが夜中の現場の中で足場から足場へと華麗にジャンプするのさ。

歴史学や民俗学の分野でも、古代日本の「ヒメヒコ制(祭祀を司る女性と政治を司る男性のペア統治)」と琉球のシステムは、構造的な類似性がしばしば議論されているようだ。

琉球の「聞得大君と国王」と聖徳太子・推古の関係の相似点を整理してみるべ。

精神的守護と実務のペア(オナリ神構造)

琉球では、王の姉妹や王族女性が「聞得大君」となり、霊力(セジ)によって国王を護る「おなり神」として君臨しました。

これを聖徳太子と推古天皇に当てはめると、「宗教的・象徴的権威としての女帝(推古)」と、その加護のもとで「政治・実務を司る男性(太子)」というペアになります。

「祭」と「政」の分立と補完

琉球では聞得大君が「祭祀」の頂点、国王が「政治」の頂点として国を支えました。

推古朝においても、推古天皇が太陽神(天照大神)につながる血統的な聖性を担い、太子が実際の憲法制定や外交を担うという形は、まさに「祭政一致」を二人三脚で実現する琉球的な統治モデルと重なるだろう。調子に乗って隋の煬帝に対して『日出処の天子、書を日没処の天子に致す』とやらかして隋の煬帝の怒りを買ったとされているが、俺はここに日出処の天子とあることに引っかかる。これってまさにヒメ・ヒコ制によって聖徳太子が実務を担い、宗教的な祭祀権を継承する推古天皇と両輪で国家を運営していた証じゃないかと推察するを得ないわけだ。

血縁による固い結びつき

聞得大君は主に王の妹や娘が務めたが、聖徳太子も推古天皇にとって「甥」であり、王族内の非常に近い血縁による二頭政治だった。POST #1837の崇神天皇と倭迹迹百襲姫も同じ構造だ。倭迹迹百襲姫は、三輪山に鎮座する蛇体の大和の地主神・大物主命と神婚し、大和の祭祀の頂点に立っていた。この倭迹迹百襲姫はその墓所・箸墓の伝承などからも、卑弥呼🔗その人ではないかと考えられていることも付言しておこうか。

相似の背景:古代日本の「ヒメヒコ制」

推古天皇と聖徳太子の関係は、邪馬台国の「卑弥呼と男弟」に象徴される古代のヒメヒコ制の延長線上にあると考えられる。一方で、日流語族の琉球王国は、日本本土では律令制(天皇への権力集中)によって失われていったこの「男女ペアの統治システム」を、明治時代の琉球処分まで色濃く残していたため、歴史の合わせ鏡のように相似して見えるのだ。

つまり、日本古代の統治構造と琉球の信仰体系をつなぐ核心的な相似だと言えるだろうな。

さて、そこでもう一度昨日の続きに戻ろうかな。

古代で一般的だったヒメ・ヒコ制(男女ペアの統治)が崩壊し、「男性単独の天皇制」へと変質していくプロセスを、吉本隆明、いやもっと敬愛の念を込めて隆明さんと呼ばせてもらおう、の視点から解説してみよう。

私淑する知の巨人の最重要テクストを解説するとは、まこと畏れ多いぜ。

隆明さんはこの転換期を、単なる政治制度の変化ではなく、『対幻想(個人的な愛)』が『共同幻想(国家の法)』に敗北する象徴的な事件として捉えている。

これ、そのうちまた別のところで触れる重要なテーマだから、覚えておいて!予備校の先生みたいでなんだけど!

1. 「ヒメ・ヒコ制」の限界と崩壊

古代の統治は「女性の霊力(神託)」に依存していたと考えられる。しかし、農耕社会が大規模化し、他集団との戦争や土地の私有化が進むと、現実的な「武力」や「法」による支配が求められるようになる。マルクスの言う下部構造が上部構造を変形させてしまうというアレだアレ。

ここで、神託を解釈するだけの存在だった男性(弟)が、自ら権力の主体(天皇)として自立し始めるわけだ。その過程に神功皇后🔗と、その夫君にしてヤマトタケルの息子仲哀天皇🔗の説話があるんだろう。

2. 象徴的なエピソード

倭迹迹百襲姫の死の逸話も上げられる。隆明さんが重視するのは、崇神天皇の時代の倭迹迹日百襲姫(ヤマトトトヒモモソヒメ)の物語だ。神話の内容とはこうだ。 彼女のもとに毎晩美しい男が通ってくる。その正体はとぐろを巻く蛇の形をしは三輪山の蛇体の神大物主🔗の妻となる。彼女はぜひ毎夜暗闇の中通ってくる男の姿を見たいと懇願する。男は渋っていたものの、彼女のあまりの熱意に負けて、明日の朝櫛笥(くしげとよむのだよ。今でいう化粧ポーチか)の中を見よ。ただし、絶対に驚いてはいけないと語り、また闇の中に消えてゆく。次の朝、姫が櫛笥を開けてみるとその中には小さな蛇がいた。これが三輪山の神大物主の化身だったわけだ。彼女は夫の正体を見て驚き、それを恥じた神は去ってしまう。彼女は驚き、しりもちをついた途端に、箸が陰部に刺さって亡くなる。こうして、彼女を葬るために、箸墓古墳🔗が築かれたという。

3. 隆明さんの解釈: 

これは、女性が「神(共同幻想)」と直接つながる巫女としての力を失い、国家の表舞台から去るプロセスを象徴しているという。

神話的な霊力による統治が終わり、男性天皇による軍事・行政支配へと移行した瞬間を物語っているのだという。

4. 「サホ姫」に見る対幻想の圧殺

もう一つの重要な例が、垂仁天皇🔗の皇后、狭穂姫命🔗(サホヒメ)のエピソードだ。

古事記に語られる神話の内容は次のようなものだ。

狭穂姫は垂仁天皇の皇后となっていた。ところがある日、兄の狭穂彦に「お前は夫と私どちらが愛おしいか」と尋ねられて「兄のほうが愛おしい」と答えたところ、短刀を渡され天皇を暗殺するように言われる。ここに狭穂一族内のヒメ・ヒコ制の存在が垣間見えるね。

妻を心から愛している天皇は何の疑問も抱かず姫の膝枕で眠りにつき、姫は三度短刀を振りかざすが夫不憫さに耐えられず涙をこぼしてしまう。目が覚めた天皇から、夢の中で「錦色の小蛇が私の首に巻きつき、佐保の方角から雨雲が起こり私の頬に雨がかかった。」これはどういう意味だろうと言われ、狭穂姫は暗殺未遂の顛末を述べた後兄の元へ逃れてしまった。

彼女は「兄への愛(対幻想)」と「天皇の妻としての義務(共同幻想)」の間で激しく葛藤し、最終的に炎の中で兄と共に死ぬことを選ぶ。

隆明さんの解釈:

 この物語は、国家(共同幻想)が確立される際、それ以前の絆である「きょうだい愛」や「家族愛(対幻想)」が、いかに容赦なく罪として裁かれ、排除されるかを示しているという。

結論として、ヒメ・ヒコ制が解体されたことで何が変わったのかしら?

 神を呼ぶ者(女)と政治をする者(男)が未分化だった状態から、政治権力が分離独立することとなった。

そして、 天皇が「神の代理人」として、巫女を介さずに自ら祭祀と政治を兼ねるようになりヒメ・ヒコ制のもと分離されていたそれぞれの権能を独占するようになったわけだ。

こうして、共同幻想(国家)が個人の心(対幻想)よりも上位にあるという規範が、神話を通じて日本人の深層心理に植え付けられることになったわけだ。

このように、吉本隆明は『共同幻想論』において、天皇制の成立を「人間が自ら作り出した幻想の体系が、生身の人間(女性や家族)を抑圧し始める歴史」として批判的に描いているというわけだ。そして、いまだに女性は男性の賃金より低く見積もられ、女性の持つ命を生み出すという力は、国家のために少子化を防ぐという道具に貶められ、挙句、ますます女性たちは疎外されて子供を産むことを諦めてゆくことになる。

そんな閉塞した状況の中、国民は保守政治家や保守論客のほとんどミソジニー🔗を感じさせる論調とは反して、来るべき『愛子天皇』の登場を待ち望んでいる。

浅薄な歴史認識と作られた伝統に固執し、明治以来の皇室典範を馬鹿の一つ覚えみたいに墨守することしかない彼らがどんな打開策を急ごしらえで出してくるのか。それを国民は受け入れるのか。俺は見ものだと思う。やれるものならやってみろと内心思っているくらいだ。

長くなってきたから、読むほうも疲れるだろうし、今日はこれまで。

明日の心だ!(今は亡き小沢昭一🔗先生風に!)

2026/05/02

POST#1837 『共同幻想論』を携え、国家の始原の時を想う

新宿の路地裏

 俺の人生の遥かな過去にさかのぼり、40年前、吉本隆明🔗共同幻想論🔗に立ち返る。

現在の自分を決定づけた書物だ。かつて黒田さんという全共闘世代の知人からもらった河出書房版の大昔の箱入りの単行本も捨てがたいが、平治物語絵巻の火焔をモチーフにした杉浦康平のデザインによる角川文庫ソフィア版が俺の好みだ。今でも本屋に行けば文庫で売っている。君も興味があるなら読んでみるといい。

そしてこの『共同幻想論』をステッピングストーンにして、始原のヤマトの淵源にさかのぼる。明治以来の伝統なんてけちなことは言わないぜ。

いつとも定かでない(とはいえ、2000年前から±500年といったあたりかな)まだ大和朝廷などといった、たいそうなものが出来上がる前。昨日話したアマゾンの諸部族みたいな状態から、いくらか社会が発展して、この東アジアの端に円弧を描く列島に、王権というものが生まれるその時に想いを致そう。

吉本隆明の『共同幻想論』において、日本の天皇制(国家)の成立は、個人や家族の幻想(これを彼の用語では対幻想ちゅうんだわ)を超越した『共同幻想』が法や罪の体系として自己目的化していく過程として描かれている。

その遥かな歩みの先は、俺たちが生きる国家という存在や俺たちを縛りその行動を規定する法律の正当性へとつながっている。

吉本はこの本を記すにあたって、膨大なテクストから『遠野物語』と『古事記』のみを用いると定めた。そして『古事記』の神話を分析し、未開の共同体がどのようにして天皇を頂点とする国家へと転化したかを理論化したんだ。それはもう、衝撃的な本だった。高校生の俺も圧倒され、人生を誤って現在に至るほどだ。

天皇制成立の論理的プロセス吉本は、以下のステップを経て天皇制という巨大な共同幻想が確立されたと説いている。

まず「対幻想」から「共同幻想」への転化が起こるんだ。

人間が「血」や「性」でつながる家族・氏族集団(対幻想の水準)から離脱して、より広範な社会的規範を必要としたときに、初めて国家という共同幻想が誕生するんだ。

この移行期において、かつては家族的な絆であったものが、国家に従属する「法」や「罪」の構造へと書き換えられていくわけだ。

この過程で生じるのが、「罪」と「浄化」の制度化だ。ここで大祓詞🔗に記される天津罪・国津罪🔗というものが生まれる。

農耕社会への移行に伴い、当時の共同体の秩序を乱す行為が「罪」として定義されたわけだ。天皇はもともと、これらの罪を「清祓(きよめはらい)」によって浄化する宗教的な役割を担っていた祭祀王だ。この宗教的権威が、次第に現世的な政治権力(法)へと変質することで天皇制が確立されたと解釈されている。

そしてそれらのシステムの神話による正当化が起こる。太陽神アマテラスと暴風神スサノオの相克による壮大なホームドラマだ。

吉本はアマテラスを「大和朝廷(国家の共同幻想)」、スサノオを「原始農耕民や異族」の象徴と捉えた。母の死を受け入れられず泣き続け国土を荒廃させてしまった暴風雨神スサノオが、太陽神アマテラスのもとに赴く。それを戦士のように完全武装したアマテラス(これ、日本のサブカルチャーの先頭美少女の源泉だよね)がスサノオと遭遇する。

スサノオは自分に悪意のないことを訴え、その証に『誓約🔗=うけひ』という、相互の持ち物を交換してそれをもとに子をなすという、象徴的な近親相姦を行う。そこで、男子を得たスサノオは、自らの潔癖が証明されたと称し、高天原に乗り込み、様々な乱交を犯し、秩序を乱す。この時に行われた乱交乱暴が、罪の祖型とされるわけだ。

これによって、スサノオは地上へと追いやられ、アマテラスは天岩戸にこもってしまう。そこからは有名な天岩戸の神話だ。

スサノオの乱暴と追放の物語は、国家(共同幻想)が個々の民衆を「罪」の自覚によって支配下に置き、従属させるプロセスを象徴的に表していると分析されている。

ということは、俺たち民衆の中には、小さなスサノオの雛形が罪とともに宿っているんだ。

それに続いて発生するのが、母制から父制への移行だ。

サホ姫の挿話(実質的な初代天皇と考えられている崇神天皇の第三子垂仁天皇🔗の皇后)を例に、兄との「対幻想(家族愛)」と天皇への「共同幻想(国家的忠誠)」の間に引き裂かれる葛藤を描いている。

これは、神武天皇以来、9代のその存在が疑問視されている天皇(当時はオオキミと呼ばれていたけどね)を除いて、国家という共同幻想が人々の中に凝集し、形を持った直後に怒った出来事だ。

吉本によれば、この対立において共同幻想(天皇制)が勝利することで、日本独自の国家形態が完成したと考えられている。

そしてその思想的な意義

吉本の論点は、天皇制を「歴史的にずっと存在した実体」ではなく、あくまで人間が生み出した「幻想(観念)」の拡張であると捉え直した点にある。右派の皆の衆、すまんな。

これにより、当時のマルクス主義的な唯物史観🔗(経済構造が土台であるとする考え)とは異なる、人間の心性や関係性から国家を批判する独自の視座を提示したわけだ。


そして、俺の話は核心に向けてどんどん向心力を増し、強力な引力が様々なものを引き寄せるように、拡張し、君がまだ見ぬ結論へと凝集してゆくだろう。しっかりとついてきてほしい。

アマテラスとスサノオのペアの存在には、氏族の祖神に仕える巫女王を、男性の弟が実際の政治を取り仕切り支えるという、権力の複合体制がモデルになっているという視点がある。

吉本隆明は『共同幻想論』の中で、日本の古代国家(天皇制)の成立過程における特異な形態として、「巫女(女性)の霊力」と「その兄弟(男性)の政治力」による共同統治を重視した。

漫画の神・手塚治虫の『火の鳥🔗黎明編』にも、火の鳥の生き血を求める巫女王ヒミコと、その言葉を取り次ぎ政務を司るスサノオという登場人物が描かれていた。まさにそれだ。俺は小学2年生のころからこの漫画を読んでいたから、『共同幻想論』を読んだとき、すぐにこのことだって理解したよ。

これは文化人類学などで「ヒメ・ヒコ制」とも呼ばれる構造だ。

吉本はこれを対幻想(きょうだい愛・性)が共同幻想(政治・国家)へと転化する結節点として分析している。

巫女(ヒメ)と弟(ヒコ)の複合性のポイント

霊媒師としての女性(ヒメ)

吉本は、古代において神の託宣を聞くことができるのは女性(巫女)だけであったと考えた。実際、日流文化圏においては神の声を聴くことができるのは、沖縄のユタやノロ、そしてその頂点の聞得大君🔗や東北のイタコなど、ほとんどが女性だ。

彼女たちは「神という共同幻想」と直接つながる窓口であり、集団の意志を決定する源泉であった。ちなみに俺が若いころに所属していた秘密結社的な宗教団体でも、その方針決定は若い女性霊媒を通じた神霊との対話によってなされていた。俺は国家の生まれる瞬間のような時間を、自分の人生の中で生きていたわけだ。

実務・政治を担う男性(ヒコ)

女性が受け取った神託を、実際の集団の統治や法執行へと翻訳し、現実の権力として行使するのがその弟や兄(ヒコ)の役割であった。先にあげた『火の鳥・黎明編』のスサノオがまさにこれだ。

「対幻想」の利用と抑圧

この男女のペアは、本来は「きょうだい」という最も純粋な対幻想の形を取っている。

しかし、国家が成立する過程では、この個人的な愛着や絆が、集団全体を支配するための共同幻想(天皇制の権威)の道具として再編されていくのだ。

古事記や日本書紀を紐解けば、この名残が多く見られるだろう。一例をあげれば、アマテラス(姉)とスサノオ(弟)の関係や、先にあげた崇神天皇の大叔母倭迹迹日百襲姫命🔗ヤマトトトヒモモソヒメ(巫女)が崇神天皇が支える構造などがこれに当たるだろう。また琉球王朝の国王と国土を霊的に守護するおなり神🔗とされる聞得大君とその兄弟の国王の関係もまさにこれに当たるだろう。

吉本はこの「男女ペアの統治」が、やがて男性単独の権力(天皇制の確立)へと移行していく過程を、「対幻想が共同幻想に完全に飲み込まれていく悲劇」として描き出したんだ。

この話は、とても大切な話だから、焦らずつづきは明日に任せよう。何せ今夜も仕事なのさ。

2026/05/01

POST#1836 俺の考えはきっと上野千鶴子を逆上させるだろう。

千葉県佐原市
皇統存続のためなら、側室制度を復活させればええやんっていう俺のとんでも発言(自分でもわかってるぜ)はきっと上野千鶴子センセーのお怒りを買うことだろう。
まぁ、俺のような地下人の放言など上野千鶴子センセーには届くことはないので、杞憂とはこのことだ。

彼らの人類学的なフィールドワークに基づく、人類社会の祖型ともいえる南米の様々な部族の姿を通して、人間という生き物の社会の原型を探るのが俺の楽しみだ。
彼らはその著書『悲しき熱帯🔗』や『国家に抗する社会🔗』などで、権力を持たない首長たちの姿を描いた。彼らが描いた首長たちは、だれよりも働き、共同体の皆に対して、一族の歴史と倫理を、あるべき姿を、たとえみんながあくびをして聞いてなくても、鼻くそをほじって聞いてなくても毎日語り掛け、その共同体の理念を成員の中に刻み続ける。
狩猟の際には、皆にどこに行けば獲物がいるか導き、不猟の時には自分と妻を伴って、皆の食料を集め、不平を垂れてひっくり返っている共同体の皆に分配する。
故に、これら人類の未開社会に現れる首長たちは、総じて一般のものたちよりも貧しく、成員を取りこぼすようなことはしない。弁舌に優れ、また優秀な狩人でもある。
まるで、首長そのものが行政府そのもののようだ。
しかし、首長にはなんの権力も強制力もない。あるのは、皆を導き生かすという義務だけだ。
しかし、そこから一歩権力者という境涯に足を踏み入れ、共同体の中で突出した存在となって、その成員を支配しようとすれば、彼は共同体から追放されたり、夜陰に紛れてその喉笛を掻き切られることとなる。
これは古代アテネでも、同じように権力を独占しようとした僭主🔗が追放されたり、勇敢な市民によって殺害されたり、陶片追放🔗されたりしたのと同じだと俺は考えている。少なくとも全く同じではないが、相似だ。
こうして、『未開社会』は極めて民主的で、独裁や支配を許さない体制を維持する。
だれがそうすると決めるわけでもなく、それが共同体そのものの意思=共同幻想のようにね。
これらの社会は基本的に一夫一妻制なんだけれど、この首長だけは年若い第二婦人を持つことを認められている。なぜって、皆の要求を満たし、万一の時には食料を工面したりするために労働力が必要となるからだ。この第二婦人は、ギリシャ神話のアルテミス🔗のように男たちと森に分け入り、同じように狩猟し、往々にして壮年の首長の補佐をする。

さて、俺が側室制度云々を言うのには、右派の人々が大好きな『日本の伝統』に基づく以上に、これら人類の社会のごく基本的な段階に発生する『権力を持たない首長』のあり方に大きく影響されている。
そもそも、右派の政治家のセンセー方が掲げる伝統なんて、自分たちの思う理想にかなった部分だけをつまみ食いしたフィクションだしね。
『権力を持たず』共同体の掟と道徳倫理の『象徴=化身』として、皆にあるべき姿を語り続ける首長。
君は僕の言わんとするところを理解してくれるだろうか?

どこかの国の国民の統合の象徴として、常に弱者や被災者のそばに寄り添い、右派の政治家連中やネトウヨ民の批判もどこ吹く風で、苦しむ人々に対して膝をつき目線を合わせ、その言葉に耳を傾けられる象徴としての首長。常に柔和な笑顔を崩さず、いかなる私も廃して、自ら権力を持つことをその人生の可能性から排除して生まれ変わり死に変わりしてその意思を継承して存在し続ける、中空の権力としての帝。

ちょっと脱線するけれど、仏さまって色々あるじゃない。阿弥陀如来とか薬師如来とか、不空成就如来とか観世音菩薩、普賢菩薩とか。
これは実はそういう人格神というものではなくて、あくまで慈悲や知恵といった理念に形を与えたものだ。つまり、慈悲の化身とか救済の化身とか知恵の化身ってことだ。

我が国の天皇陛下とは、この化身って概念に近い気がする。なんの?

ジャン=ジャック・ルソーが言うところの一般意思🔗の化身だ。
これは俺の独自の観念だから、何の学問的な裏付けもないけれど。俺は極めて近しいと感じている。批判してい人はどうぞ徹底的に批判してください。僕は歯牙にもかけないから。

レヴィ=ストロースは、日本が先端技術を持ち、高度に発達した国でありながらアマゾンの奥地に住む部族の人々とも通じる神話体系とそれに基づく社会観念を持つ国であり続けていることに驚嘆していた。
俺が上野千鶴子センセーの鼻面を逆なでするようなことを主張するのは、浅薄なデントーや単にその血統を維持するためというような不敬な話ではなく、人類の数万年スパンのあり方について、五劫思惟したうえでの主張だということをわかってほしい。

そもそも、天皇とは何なのか?君は考えてことがあるか?神話的な話をしてるんじゃない。どのような役割=機能を持ってこの日本という列島に存在してきたのか、深く向き合って考えたことはあるかい?
明日はそれを掘り下げてみよう。

上野千鶴子センセーには激切れされるだろうが、泉下のクロード・レヴィ=ストロースは、『Ce'st Bon. 君わかってるね』って、ワインを勧めてくれると思うんだけどな。
今夜も仕事だから、飲酒運転は困るんだけれどね。

2026/04/30

POST#1835 俺が天皇陛下なら、自分の家のことを他人決められたくないよな

伊勢

今、高市政権は皇室典範の改正に向けてフルスロットルだ。

俺が畏れ多くも皇統に連なる立場だったら、家の事情にいちいち口を突っ込んでもらいたくないと思うだろうな。よっぽど『愛子内親王のご即位』つまり『愛子天皇』が嫌なんだろうな。

エマニュエルトッドが分析しているように、わが国は直系家族だから男系男子の維持を最優先するだろう。 高市総理は、2000年以上にわたって例外なく続いてきた「父方をたどれば神武天皇にいきつく」という男系継承の伝統(そんなの幻想だ)を、自らの保守政治の根幹として守るべきだと考えているんだとさ。けど、そんなのみ皆の衆信じてるのか?神武天皇だって怪しいもんなのにね。

いわゆる 「愛子天皇」の誕生は、現在の典範が定める「男系男子」という原則を変更することを意味するわけだ。高市総理は、女性天皇が認められた場合、その次の代で女系天皇(母方のみが天皇の血を引く天皇)へつながるリスクを懸念してるんだとさ。で、これを阻止しようとする姿勢がくっきりはっきりだ。けど、歴史上にも時代の転換点には推古天皇とか持統天皇とか女性天皇が即位してるがな。今は俺からすると未曽有の歴史の転回点じゃないかって思えるけど。今しかないでしょ!

旧宮家の皇籍復帰を推進して皇族方の数の確保にを法制化して、愛子さまを天皇にするのではなく、旧宮家の男系男子を養子に迎えるなどの案で解決を図ろうとしているようだ。

それでもし、保守論客でブイブイ言わせてる竹田宮様の御後胤が即位することになったら、俺は絶対に嫌だな。  悪いけどまったく尊敬できないよ。ゴールデン・トライアングルでケシでも栽培して暮らすさ。

高市総理の行動は「愛子さま個人への感情」というよりは、「男系継承という伝統こそが皇室の正当性の根源である」という強い信念に基づいた政治的判断といえるだろう。しかし、国民の間では愛子天皇を望む声が高く、この方針が国民の意思を無視しているとの批判も根強くあり、をり、はべり、いまそかり。 まぁ、奴らが国民の意思なんか全然気にしないってのは今に始まったことじゃない。あいつらは国民や陛下のことより、支配のシステムのほうが大事なんだ。

そもそも天皇制とは何なのかとか寸毫も考えず、保守と如何なる態度かも考えていないちゅうのも、今に始まったことじゃない。ただ、自分たちの支配の後ろ盾というか正当性の証としての天皇制が大切だと思ってるだけだ。不敬極まりないぜ!

俺は天皇制とは何か、吉本隆明🔗の『共同幻想論』に出会ったときからずっと考え続けてきた。

そんな俺から言わせると、旧皇族🔗を今一度皇族に養子として迎え入れるとか、そんなことしか彼らは考え付かないのか?

 いっそのこと 皇族には側室を持たせるとか それぐらいのこと考えたら どうなのかしら?

この意見は、歴史的に見れば確かに男系継承を支えてきた強力な手段だった。しかし、かつて皇太子時代の昭和天皇が摂政として大正天皇の輔弼をなさることをお受けなさった折り、その条件として側室制度の廃止を断行されたという話を聞いたことがある。昭和天皇は側室制度が現代的な制度ではないとお考えになられたのであろう。もっともだ。

とはいえ、俺がアナクロニズムを承知で今一度この側室制度を唱えるのは、天皇という存在が、畏れ多くも現代的な存在ではない。古代の息吹を今に伝える祭祀王≒生身の神だからだ。

しかし、高市総理をはじめとする現代の政治議論では、側室の復活は事実上「ありえない選択肢」として扱われている。

高市総理はインタビューなどで、側室制度の復活について「考えたこともございません」と笑い飛ばしており、明確に否定しているそうだ。

一宰相如きが、皇室の在り方に対して笑い飛ばすなど、不敬の極みではないか?言行不一致とはこのことだ。本来、内閣総理大臣は「天皇の補助」を行う立場であり、皇室のあり方に対して謙虚であるべき存在だ。

それにもかかわらず、高市総理が「側室」という歴史的な制度について、一政治家の価値観で「あり得ない」と笑い飛ばす姿は、見方によっては以下の点で極めて不遜にして不敬だといえるだろう。彼らの大好きな戦前の価値観なら、万死に値するんじゃね?

越権行為: 皇室の伝統を「守る」と言いながら、都合の悪い伝統(側室)は現代の価値観で一方的に切り捨てるという、「選別する傲慢さとご都合主義」が透けて見えまくりだろ?

不誠実な態度: 2000年の伝統の重みを説くのであれば、かつてそれを支えた側室制度を単に「笑い飛ばす」のではなく、なぜ今は不可能なのか、その矛盾を誠実に説明する責任があるはずじゃないのかね。

「道具」としての扱い: 皇室を自分たちの保守的なアイデンティティを誇示するための「道具」として利用しているからこそ、陛下の御意思や歴史の重みよりも、自分の政治的パフォーマンスが優先されてしまうのだろう。まぁこれは蘇我馬子の頃からわが国の伝統かもしれんな。

歴史と伝統を重んじると言いながら、その実、自分たちの都合で伝統を「編集」し、陛下に対して不遜な態度を取ることは、「究極の偽善」であり、政治家としての資質が問われるべき傲慢な姿勢ではないかね?

「伝統」を口実にしながら、実際には陛下や国民の思いを軽視するこのような政治のあり方は、果たして日本の象徴である皇室を本当に守っていることになるのだろうか?君はどう思う?

さて、法的な側面からなぜ側室が、あかんのか考えてみるに、そもそも夫婦別姓だって大騒ぎして30年も放置されてるんだから、できっこないと思うよな。

日本は明治31年の民法によって重婚を禁止しており、皇室も昭和天皇以降は側室を持たない一夫一婦制が完全に定着している。現代の価値観において、皇室だけを多妻制に戻すことは「国民の敬愛を損なう」と判断されているんだとさ。

加えて戦後の皇室典範(1947年)では、正妻(皇后)以外から生まれた子(非嫡出子)には皇位継承権が認められていないんだ。もし側室を認めるなら、この根幹部分を書き換える必要がありるだろう。

お妃候補がいなくなるリスク: 現代において、側室がいることが前提の家庭に嫁ごうとする女性を見つけるのは極めて困難だわな。上野千鶴子が黙っていないだろうよ!この制度自体が婚姻のハードルを上げてしまうという皮肉な結果を招きかねんな。

高市総理が「愛子天皇」を認めず、かつ「側室」も否定する場合、残された道は「旧宮家の男系男子を養子に迎えて皇族にする」という案一点に絞られることになるんだというのが、彼らの思考パターンだ。

これがいま彼女が「フルスロットル」で進めようとしている現実的な落とし所と言えるでしょうな。俺から言わせたら、底が浅い。

「伝統を守るための側室」と「現代の倫理観」の間にあるこの矛盾こそが、議論を複雑にしている最大のポイントだとしても底が浅い。


「側室を持つ方が現実的」という考え方は、生物学的な皇統の維持という点では理にかなっているように見えるし、実際かつては世界中で行われていたが、現代の法制度や国民感情という高い壁に阻まれちゃうだろう。みんなお利口さんだからな。

高市総理が「側室」を完全に選択肢から外し、旧宮家の養子案に「フルスロットル」で突き進んでいるのには、以下のような政治的な「現実味」の判断があると考えらている。

1. 「側室」よりも「養子」が選ばれる理由

憲法と法律の整合性: 現代日本は「一夫一婦制」が法的に確立しており、側室制度を復活させるには民法や憲法の家族観を根本から覆す必要がある。一方、養子縁組であれば、皇室典範の改正のみで手続き上は可能となる。

国民の受容性: 21世紀の現在、側室を認めることは「女性蔑視」や「時代錯誤」との猛烈な批判を浴び、皇室の尊厳を著しく損なうリスクがある。高市総理も、側室については「考えたこともない」と即座に否定し笑い飛ばしてる。 けど、俺だって、そんなことは百も承知で覚悟の上で言ってんだ!

2. 高市総理が「養子案」を推す最大のメリット

高市総理にとって、旧宮家の男系男子を養子に迎える案は、彼女が守りたい「伝統」と「現代の市民の常識との妥協点」のギリギリのラインだろう。

男系継承の完全維持: 側室がいなくても、すでに存在する「男系男子(旧宮家の末裔)」を皇室に呼び戻せば、126代続いてきたとされる男系の血筋を絶やさずに済むんだと。しかし、一度民間に戻ってしまった人々が、憲法の外側に孤独に存在する皇族にもう一度もどったとして国民たちは支持するだろうか?

愛子天皇議論の回避: 皇族数を確保し、将来の継承候補(悠仁さまの次世代など)を増やすことで、「愛子さまを天皇にする(=男系男子の原則を崩す)」という選択を「喫緊の課題」から外すことが可能になる。けど、そんなに言うならいっそ、クローン人間とか提案してるみたらどうだ?

3. ただし、養子案にも「非現実的」との批判がありますぞ!

高市総理が強力に進めるこの案も、決して万能ではない。

「門地による差別」の疑い: 特定の血筋の人だけを国民から皇族にするのは、憲法14条(法の下の平等)に反するという指摘が野党や憲法学者から出ている。あたり前だ。

本人の意思: 80年近く一般国民として生活してきた旧宮家の方々が、果たして本当に皇族としての重責と制約を引き受けるのか、という実効性の疑問も残っている。無理でしょ?

結局のところ、高市総理にとっては「側室」は論外であり、愛子天皇の容認(女系への道)を絶対に避けたいからこそ、消去法的に「旧宮家の養子案」が唯一の現実的な突破口になっているという構図ですな。

側室も愛子天皇も認めないとなると、この「旧宮家の養子案」が失敗した場合、皇室はどうなってしまうと思う?

俺の意見を述べるぜ、よく聞いて欲しい。

そもそも 天皇家という一族は、憲法も含めて法制度の例外として考えられているので 、民法が、どうだとか取ってつけたような法律論は偽善じゃないか?

憲法第1条で「国民の総意」に基づく「象徴」と規定されている天皇・皇族方は、戸籍も持たず、参政権や職業選択の自由もないなど、最初から「法の下の平等」の枠外にある存在だ。

その意味で、「側室は法的にダメだが、男系維持のための養子はOK」という線引きを「偽善的だ」と感じるのも、無理からぬところだろ?

高市氏ら保守層が、側室を「非現実的」と言いながら養子案を「現実的」とする裏には、以下のような論理(あるいは苦肉の策)がありわいな

「人権」のライン: 側室は現代の「女性の人権」や「公序良俗」に真っ向から反するため、国際的な批判も含めて政権が耐えられないと判断している。

対して、養子は「本人の同意」があれば、既存の法体系の延長線上で説明がつきやすいと考えてるんだろ。

「国民の感情」という物差し: 多くの国民にとって、側室は「時代劇の世界」だろうが、養子は「家系を継ぐ手段」としてまだイメージしやすい、という計算がある。

しかし、自民党の皆さんが改正したがっている憲法すら例外的存在と規定する「特別な一族なのだから、理屈をこねずに伝統的な手段(側室など)を検討すべき」という意見や、逆に「特別扱い自体が限界なのだから、愛子さまを認めれば済む話だ」という意見が出るのは、まさに「皇室という例外的な存在を、どう現代の法理で説明するか」という矛盾が限界に来ている証拠と言えるだろう。

けれど、そもそも女性の人権 云々言うんだったら愛子天皇だっていいんじゃないですかねぇ?君はどう思う?

バカバカしいぜ。それこそアナクロニズムだんべ(笑)

2026/04/29

POST#1834 眠っているときにかかってきた電話は、あまり覚えていないもんだ

ホイアン、ヴェトナム
長年店舗工事をしていると、夜働くことが圧倒的に多い。大昔のゲゲゲの鬼太郎の歌🔗のように朝は寝床でぐーぐーぐー、で、夜は現場で漢だらけの運動会だ。楽しいな、楽しいな、こんなことしてたらそのうち死んじまうよ(笑)

ちなみに今時この歌をAdoが歌っているんだ。リンクを張り付けておいたから興味のある向きはどうぞ(笑)

しかし、眠っているときだって世の中の皆様はご遠慮なくご連絡をくださるんだ。

俺は長年の修行で、眠っていても完璧に受け答えができる。少なくともできてるつもりだ。ワンオペコンビニみたいだな。先週の木曜日ごろのことだ。町会長から電話がかかってきた。

先日の文書に関して、役員の皆さんから集まった意見をもとに、土曜日だか日曜日だかの朝に町内の主要メンバーで話し合いをしたいということだ。場所は近所の喫茶店だ。まったくご苦労な話だが、しっかり俺も頭数に入ってるんだよな。

その日も間違いなく夜勤明けだが仕方ない。俺はわかりました、参加しますと電話を切ってまた眠った。

数時間眠って間が覚めた時、内容は覚えていたが、肝心の日時が土曜日だったか日曜日だったか思い出せない。時間も9:00だったか10:00だったか、まったく覚えていない。

仕方ない、俺は町内会長に連絡をしてもう一度日時を確認した。日曜日の朝の9時だ。

土曜日の夜の仕事で、現場では問題が噴出していた。ええ加減な図面でデザイン重視で安く・早く・凝ったものを作ろうとしているから、問題が出るのはいつものことだ。

俺は明け方三時ごろに帰ってきて飯を食い、ふろに入り、そのあとで三角関数とか使って計算し、どうやって設計者の意図を実際の現場に落とし込むのか、脳汁を絞ったぜ。なんで俺がこんなことまでしなきゃいけないんだ?これは設計の仕事だろう?とはいえ、治めないことには面白くない。一騎当千の現場監督の名が廃るぜ。しかし、午前七時俺の電池残量は底をついた。少し仮眠しようと八時にアラームをセットしすやすや眠っている息子の隣で眠りに落ちた。

午前九時、電話が鳴ってたたき起こされた。町内会の重鎮A井さんからだった。俺は寝過ごしたことを悟り、飛び起きて着替え、顔も洗わずに車で急行した。頭も寝起きのもじゃもじゃだけれど、くせ毛でいつももじゃもじゃだから、セットなんかする必要はないんだ。時短だぜ。

喫茶店の奥の大テーブルには、町会長や重鎮のA井さん、民生委員のT島さん、その娘さんのYさん、その他ゴミに悩まされてる班長さんなどがいた。まだコーヒーは出てきてないようだ。副会長や会計さんは来ていない。そんなもんだ。

で、町会長が挨拶をすると、重鎮のA井さんが話し出した。大まかに言えば、やはり町内会費を差別化して、役員になれないご老人や心身の不自由な方から一般より高い金額を取るのも、やりたくない人からさらに、役員をやらない代わりに割高な町内会費を取るのも白紙にしたという。そりゃそうだ。弱い立場の人から例え月50円とは言え、割高な会費を取ったりするのは道義に反する。やはりそういう声が多かったそうだ。また、役員をやらなくていいから割高な会費を徴収するっていうんなら、みんな金だけ払って後は知らん顔になるに決まっている。

地域の民主主義の原則としては、負担を平等に分かち合うべきだし、不平等というのは最も弱い立場の人を救済するためにこそ許されると公正としての正義という概念を追求した大著『正義論🔗』の中でもジョン・ロールズ🔗も言っている。ロールズが言ったからどうだという話ではないけれど、老人や社会的な弱者に、より大きな負担を求めるのは公平ではない。

そして、町内会に未加入の人がゴミボックスを使用することで、町内会費の2倍近い使用料を徴収するのも取りやめにしたという。結構なことだ。町内会長は実際に朝の四時から3時間くらいゴミ捨てを監視していたという。ご苦労極まるが、労多くして得るものなしだ。むしろ、そんなことをしても地域の分断を招くだけだ。町会長は裁判になっても勝つことはできるだろうが、そんなことになっては大変なので、取りやめたという。裁判費用を町内会費から出したりしたらそれこそバカバカしい限りだ。

それに何より、町内会に入っていない人がゴミボックスにごみを入れずに放置し、それでカラスが宴会を開いてたら、何の意味もないぜ。どうせ、生ごみや使い古したコンドームをかたずけるのは町内会の班長さんとかなんだ。それこそ本末転倒だ。

まぁ、班長さんたちの話によると、ゴミボックスの設置を機に町内会に再入会した人もいるという。それはそれでいいことだ。何も問題がないときには、町内会なんてなくてもいいとみんな思う。しかし、何か問題が起こったとき、地域の共同体で支えあうことができないと困ると、みんな初めて気が付くんだ。

結局町内会でもそれぞれのエリアで個別の事情がある。だから、基本的には町内会に入っていない人を排除するようなことはせず、それぞれの考えに応じて臨機応変に対応していこうということになった。そもそも、ごみの収集自体は市の公共事業だしね。

そもそもこんなことはだいたいでいいんだよ。厳格なルールを作ると、今度は人間がルールに奉仕するようになる。世の中そんなもんだ。そんなのバカバカしくないか?

まぁ、何はともあれよかった。丸く収まった。俺の思った通りだ。町会長の話では、俺が持って行った裁判の判例資料が今回の決断を後押ししてくれたようだ。無理を通せば道理が引っ込むからな。誰かを分断し排除するんではなく、包摂していく。それこそが豊かな地域社会を作り、大きなシステムの体制翼賛的な収奪から一人一人の市民を守ることになるんだと俺は考えてるんだ。

その会合を終えて、俺は家に帰ると、前の日に配った市の広報のあまりを、俺の家の裏に住んでるUさんの家に持って行った。この人は今の町内会長と意見の食い違いで町内会を脱退した人だ。けれど、大切な隣人であることには変わらない。人間と人間の間に、見えない線を引いてはいけない。レゲエの神様ボブ・マーリー🔗の歌っていた『I & I communication』だ。大切なことはロックから教わった俺さ。

ちょうどU田さん本人が、どこからか自転車で帰ってきた。俺とU 田さんは、彼の家の前で募る話で盛り上がった。息子さんが往年のスポーツカートヨタMR2🔗に彼女を乗せて出かけていく、娘さんがグラスに入れたお茶を持ってきてくれる。並びに住んでる民生委員のT島さんもやって来て話の輪に入る。U田さんの隣の家の4歳くらいの息子さんが、はっとりさんだぁ!と言って百回くらいハイタッチをしてくる。すっかり老け込んでしまった息子の同級生のお祖母さんも現れてきて、T島さんと嬉しそうに話している。何があるというわけでもないけれど、みんな楽しそうだ。俺はそんな近所の人達の姿を見ることができて深い満足を覚える。

ストリートから、地域社会を繕っていこう。家に引きこもってネットばかり見ていたって、みんな孤立した最小単位に分断され、巨大な体制翼賛的なシステムや分断をあおるデマゴーグにからめとられてしまう。誰かをのけ者にしたり、弱い立場の人を叩いたり、自分たちとは異質だと決めつけて排除したりしようとしていてはいけない。

通りに出て、にこやかにあいさつし、相手の目を見て対等な人間として話し合おう。まずはそこからだ。君もどうだい?

2026/04/28

POST#1833 物事はたいてい悪いほうにエスカレートするのさ

somewhere
先ほど入ってきたニュースだと、日銀は金利引き上げを見送った。相も変わらず0.75%だ。

1万円を持っていても一年間の利息は75円だ。物価上昇を加味すると、円の価値は年間2から3%目減りしていく。インフレなんだ。なのにコストプッシュ型のインフレで真のデフレ脱却ではないとか言ってるんだ。どこの国の話だろうか?

75円でいったい今何が買える?蒲焼さん太郎とか、タラタラしてんじゃねーとかうまい棒くらいしか買えんわい!ガリガリ君だって無理だ。振込手数料にもならんわい。これに対して物価上昇はうなぎ登りの鯉の滝登りだ。略してうなぎの滝登りだ。

円は持っているだけで価値が減衰していく。円安は止まらない。黒田前総裁のイケイケもどうかと思っていたが、石橋を叩いて叩いて結局渡らない植田総裁のチキンぶりには絶望的な気持ちになる。利上げによる責任を取るよりも、なんだかんだと理由をつけて現状維持に逃げる。結局学者出身の植田総裁では、現状を打破する責任は負いきれないんだろう。インテリなんてそんなもんだ。円安は続く。混迷する世界情勢の中で、円安がつづくのはこの国の衰退を促進するだけじゃないか。物資も調達できない。円にゲインが見込めないということは、日本という国に将来性がないということを意味するんだ。

物事はたいてい悪いほうにエスカレートする。それはマクロ経済だけでなく、町内の些細なことも同じだ。

しばらくした日曜日、ほかの役員のかたからLINEが来た。町会長がくばっている文書を見たかというものだ。写真付きで送ってもらったんで、自分もポストに走って見に行ったら、入っていたわ。ここでも物事はさらにおかしな方に転がっていた。どうやら町内会の役職者に配っているようだ。

そのタイトルには『ゴミボックスに関する問題点と町費の変更案について』とある。

そして思わず頭をひねりたくなるような文章が紙面に踊っていたぜ。

『町内会としてゴミボックスの購入を考えていますが、問題点もいろいろ出ています。

今までに町内会の役員ができないとの事で脱会された方も多く、脱会された方もゴミボックスを使用したいとの要望もあります。

今後、数万円のゴミボックスを数か所に設置を計画しています。今までにも防犯灯やその電気代などを町費より賄っていることを考慮し、案として役員ができる方、役員ができない方、そして町内会に未入会でもゴミボックスの使用を希望される方と町会費を下記のように分類したいと考えています。

*町内会に仲介されている方

①役員ができる方                 年間3600円(300円×12か月)

②役員ができない方で、高齢者・体の不自由な方   年間4200円(350円×12か月)

③役員ができない方で、健康で特段問題の無い方   年間6000円(500円×12か月)

*町内会に入会されていない方

 ゴミボックス仕様希望の方            年間7000円

役職名、お名前を記入して、変更案に賛成のかたは『賛成』欄に〇を記入、ほかに意見のある方は『他の意見』欄に記載し、4月中に町会まで持参してください』だとさ!

俺はトムとジェリーで驚いたトムみたいに目玉が飛び出すところだったぜ!

何を考えてるんだ、会長は?俺は末尾に記載されていた会長の家の電話にさっそく電話を掛けた。しかしその番号は間違っていてつながらなかった。サイコーだな(笑)

こんなこと、役員だけで決めたら他の会員から苦情が来るに違いない。古代ギリシャだって市民は数千人いたのに(奴隷と子供と女は除く。そんなもんだ)全員参加だったんだぜ!

それに町内会はメンバーズオンリーではなくて、ある種の『公共財🔗』であるべきだ。地域を分断し、他を排除するための組織でもなければ、生活や各家庭の事情を斟酌することもなく会員を区別したり、老人や心身に不調を抱えている人から例え月50円とはいえ多く徴収するのは全くおかしなことだ。本来、コミュニティーってのは様々な背景や能力の人々を、そういった差異にかかわらず包摂していくべきものだろう?

だいたい、そんな施策を実施したならば、だれもかれもが6000円払って役員にならないことを選択するだろう。金で面倒ごとから逃れられるんなら、だれだって払うさ。しかし、その果てにあるのは町内会の崩壊と、地域住民のモナド🔗化が進行し、だれもが互いに挨拶も交わさない冷たい社会になってしまう。分断と対立だ。その先に待っているのは、万人の万人による闘争だ。リヴァイアサン🔗で皆さんお馴染みのトマス・ホッブス🔗が小躍りして喜ぶぜ。

俺はさっそく市の収集事業課に電話してみた。先日の総会で、町会長が町内会に入っていない市民から、使用料を徴収してもよいといわれていると皆の前で公言していたからだ。

しかしゴミの収集自体は市の公共事業だ。町内会に入っていようがいまいが、市民であり、税金を払っている(非課税の人ももちろんいる)以上は、同じように扱われるべきだ。

電話口の実直そうな担当者さんは、町内会のことについて私どもがとやかく申し上げる立場にないのでと、恐縮しつつ答えてくれた。要は首を突っ込んだりしたくないんだよ。そりゃそうだ筋が違う。市としては市民が出したごみを、税金を使って公平に収集するのが仕事なんだから。

俺はさっそく『賛成』の欄に大きく✖を書き記した。大切な署名に使うと決めている愛用のペンのブルーブラックのインクで。そしてご意見欄にこう書き記した。

『年会費の件は、総会によって決議すべきです。(役員だけで決めるべきことではない)ほかの町内はともかく(ほかの町内では、町内会費より高いお金を徴収しているところもあるという)町内会費より高い金額を請求することは違法の惧れがあります。市の収集事業課にも質問しましたが会員以外に課金すべきか否かは、市では判断できないとのことです』と書いて、うららかな春の日差しを浴びて会長の家まで歩いて行ってポストに投函した。

ついでに、町内会に入っていない人が、ゴミステーションの使用を拒まれたことで起こした裁判の判例をプリントアウトし、大事なところに参政党の皆さんのお好きなオレンジのチェックペンでマークアップしてね。

例え町内会だろうと、市町村は言うに及ばず大は国家、国際社会に至るまで皆が納得するように協議し熟議する。それが民主主義だ。俺はそう信じてる。そして、人間を様々な属性で分断するのではなく、『人間は人間だから尊重される』という大原則が必要だと信じている。

その旗を俺は生涯降ろす気はないぜ。ちなみにその旗はこんな旗だ。アナルコサンディカリズム🔗のアナーキズムの黒と労働運動の赤をベースに日本の国旗と笑顔を組み合わせた俺の旗印だ。俺は気に入ってるんだ(笑)

2026/04/27

POST#1832 たまには地に足の着いた話をしようかな町内の話だ

愛知県一宮市のどっか
今の現場が始まってすぐのことだから四月の中頃のことだ。

朝、夜勤明けで病院に行き、少し眠ってから仕事に行って慄きながら夜通し働いて、自動運転で車を転がして帰ってきたときのことだ。いくつになっても、どれだけ経験を積んでも、初心に帰って慄きつつ仕事に取り組むという癖が抜けない。事故があったりオープンに間に合わなかったりすれば、責任が取れない。責任が取れないからこそ、頭を使って、体を使って、気を使って、道具を使って、時にはお金を使って全力を尽くす。だからこそ、仕事に対して懼れがないといえば嘘になるんだ。慄くしかないだろう。

車から降りるとどこかから『はっとりさん、はっとりさん』と呼ぶ声がする。まだあたりは薄暗い。眠っている人も多かろうに、その声は静かな明け方の空気の中に響く。この声は間違いない、町会長のA田さんだ。俺はこの通りぶらぶら気楽な稼業なので、町内会にはできるだけコミットするようにしている。だって、地域社会が最も身近な社会だからだ。

家の前の緑道のつつじの陰から俺の名を呼んでいたのはやはり町会長だった。

『A田さん、声が大きいですよ。まだ皆さんおやすみになっていますよ』

俺は歩み寄りながら、押さえた声で返事を返した。町会長は何をうろついてるんだ?ウォーキングかそれとも認知症の徘徊か?どっちでもいいけど、もっと静かに。

町会長は俺を捕まえると、いきなり意見を求めてきた。やはり来たか。実は昨日の夜、カミさんから連絡があって、町会長が書類に賛同して捺印してほしいといってきたって連絡をくれてたんだ。

『あぁ、家内から聞いています。ゴミボックスの件でしょう』

『そうなんだわ』町会長は知ったいるなら話が早いと話を進め始めた。

少し遡って、3月の末に開かれた町内会総会で、ゴミ収集場所のカラスによるごみの散乱を防ぐため、ゴミボックスを導入しようという話が出てたんだ。市からも多少補助が出るので、まずは県道に面した集積所2ヵ所2台ずつ導入しようという話になったんだ。

そしてその場で町会長は、 『町内会のお金で買うものだから、町内会に入っていない人は入れてもらっては困る』とぶち上げたんだ。それをここでもめだしたら会議は紛糾するからってんで、皆さんそれぞれにどうすべきか考えていただき、一度回覧板などでご意見を承るということにしてはどうでしょうと、司会進行役の俺は有耶無耶にしてその場を切り抜けたんだ。

何しろ、この会長と方針の違いで町内会を脱退した人も多い。俺の同世代ですぐ裏に住んでるUさんもそんな一人だ。会長の言葉の端々に、その人たちに対する意趣返しのルサンチマンがこもっているのを俺は嗅ぎ取ったんだ。

で、カミさんから前の晩に送られてきた写真には、次のような文言が謳われていた。

『ゴミボックスの使用について

 この度、カラスなどによるごみ収集場所のゴミ散乱を防止するために、町内会会費によりゴミボックスを購入します。

 町内化に加入されていない方はゴミネットなどでゴミの散乱を防止し、ゴミボックス内にごみを入れないように注意してください』

とあった。これに捺印しろと言われても、俺は御免被るな。

世の中にはありふれた問題だ。君の町でもあるんじゃないのかな。俺が推奨する方法はカラスは賢い鳥だから、『君たち、ごみをあさっちゃいけないよ。みんなが迷惑してるんだ。君たちの立場もわかるけど、もう少し考えてくれないか?』って諭してみることかな。ああいつらは意外と人間を一人一人識別し、その行動を忘れないから、穏やかに話して諭してみたことがある。以来、俺の家の前は荒らされたことがないんだ。車に糞は落とされるけどね(笑)。

実は、こうした「町内会未加入者へのゴミ出し制限」は全国でトラブルになっており、法律や裁判例では以下のような考え方が一般的なんだそうだ。

大まかに言えば、ゴミ出し制限は違法なんじゃないかってことだ。

「一切禁止」は違法の可能性が高い: 過去の裁判(神戸地裁・大阪高裁など)では、町内会未加入を理由にゴミ捨て場の利用を一切認めないことは、「権利の濫用」として違法と判断され、町内会側に損害賠償を命じたケースがある。

行政サービスの公共性: ゴミ収集は本来、市町村が責任を持つ行政サービスです。市の補助金が入っている設備であれば、なおさら特定の人を完全に排除することは正当化しにくいと考えられるだろう。村八分じゃないんだから。

応じるべき負担もある: 一方で、町内会側が「掃除や管理の負担を会員だけが負うのは不公平だ」と主張する点にも一定の理屈があります。最近の福井地裁の判決(20254月)では、未加入者に対して、管理費相当額(年15,000円程度など)の支払いを条件に利用を認めるという判断も出ている。

町会長は、さっき上げた文書を町内会未加入の過程に配布しようと考えてるらしい。今からコンビニにコピーしに行くつもりだって言っていた。それで、町内でも忌憚なくモノを言うくせに角を立てない俺に、賛同を求めてきたってわけだ。

冗談じゃない。町会長は『5000円払ったら、使ってもらってもいいということにしようと思ってるだわ』と言ってきたが、それはいかがなものか?町内会費は月額300円、年間3600円だ。それより高いって暴利すぎじゃないか?やらずぼったくりだよ。

『相応の金銭的な負担を求めることは反対しないけれど、町内会費より高い金額を請求するってのはいただけませんね。』俺は町会長に切り返した。

『それにUさんを狙い撃ちにするような態度は感心できません。Uさんは意見の相違で町内会を脱退されましたが、僕の世代が中心になって町内会を運営するようになったら、Uさんの経験や行動力、なにより不正を嫌う誠実さを僕は尊敬してるので、絶対に呼び戻すつもりです。だから、そんな町内を分断したり村八分にするようなことはお勧めできません。』

『とはいえ、町内会の会費で買っているものだから…』

『いやいや、市からの補助もあるでしょう。Uさんとこだって市民なんだから。最も僕は、先日の総会の時からすでに、そんな事態になったら、面倒だけれど僕の家の前のごみ捨て場に捨ててください!ってやりとりしてるんです。ゴミの収集はあくまで市の事業ですから。』

俺の口調は柔らかいけど、絶対に妥協はしないっていう強い力がこもっていた。

『はっとりさん、判子はいただけないですか』

『何より、こういったことは町会長の一存で決めるようなことではないのではありませんか?回覧板でそれを全ての町内会の会員に周知した上でやるべきですよ。それが民主的な自治のあるべき姿です。』

その言葉に町会長は口ごもるようにしつつ『もう籠が届いてしまうから…』ともぞもぞ言っていた。

『ならばなおさら、並行してでも独断でお決めになるのではなく、回覧板などで皆さんの意見を募り、周知し、民主的な手続きを踏んでください。』これは町会長にとっては、自分のやり方を否定される以上の、重みのある一言だったかもしれない。

町会長は誰もがやりたがらない仕事だ。金がもらえるわけでもないし。だから、長年町会長を務めているA田さんを否定するのは忍びない。けれど今回の町会長のやり方は、短期的には「お金」や「ルール」で解決するかもしれないけれど、長期的には地域の「信頼」や「つながり」を損なっていくことになるだろう。俺が言ったことは、まさにその「壊れかけたコミュニティの再生」を見据えた視点なんだ。

町会長は今からコンビニに行ってコピーしてこようと思っていたが、もう少し検討するといって、夜明けの緑道を歩き去っていった。


俺は「草の根の民主主義」の経験っていうのがもっと大きな社会そのものの民主主義を育てることになると思うんだ。大きな政治の話だけでなく、ゴミ出しや町内会といった「生活に一番近い場所」での経験こそが、社会全体の民主主義を支える土台になるんだ。

今回、俺が町会長に対して、

「一部の独断ではなく、全員の合意を(回覧板での周知)」

「排除ではなく、共生を(次世代への禍根を残さない)」

という筋を通したことで、「草の根の民主主義」を実践できたのならいいんだけどな。

面倒な手続きや対立を避けて「長いものに巻かれる」のではなく、あえて対話を選び、納得感を求める。その積み重ねが、結果として「誰もが居心地の良い社会」を育てていくことになるんじゃないかな?

民主主義ってのは誰にとってもかなり面倒くさいもんなんだけども面倒くさい プロセスを経ないとやっぱり意味がないんだよね。

「面倒くさいプロセス」こそが民主主義の本体であり、それを省いてしまうと、ただの「強制」や「支配」になってしまうんだ。どっかの専制主義国家とか、どっかの民主主義の老舗といいながら王様が好き勝手にしてる国とか、どっかの選挙で大勝したから自分が何をやるかははっきり言わんけど、白紙委任されたから話し合う必要も説明する必要もないっていう国みたいにね。

効率だけを求めれば、町会長が独断で決めてハンコを押させるのが一番早いかもしれない。でも、それではコミュニティーの中に納得感は生まれないだろうし、排除された人たちとの間に深い溝が残るだけだ。

意見の違う人同士が話し合い、回覧板で情報を共有し、みんなで頭を悩ませる。その「面倒くささ」を経て決まったことだからこそ、人はルールを守ろうと思えるし、地域に愛着も持てるんじゃないのかな?それこそが手間をかける価値なんだ。

「民主的なプロセスを経ないと意味がない」という言葉は、まさに民主主義の本質だと思うんだ。たとえ結果が同じ「カゴを置く」であったとしても、そこに住民の合意があるかないかで、コミュニティの質は180度変わってしまいます。それが「意味」の重みだ。

その「面倒くさい」を厭わない態度こそが、将来的に「この町はみんなを大切にしているんだな」と感じられる土壌になる。俺はそう信じている。

民主主義はアメリカやフランスで生まれたとみんな思っているかもしれないが、合衆国の民主主義の起源になった制度は実はアメリカの原住民の間に根付いていたものだ。

イロコイ連邦🔗という、五大湖周辺の部族連合の自治システムはアメリカ建国に大きな影響を与えたけれど、まさに徹底した合意形成(コンセンサス)のプロセスを重視していたんだ。

イロコイ連邦に学ぶ「面倒くささ」の価値

全員一致への執念: 彼らは多数決でサッと決めるのではなく、異なる部族間や世代間で納得がいくまで話し合う。この「話し合いを尽くす」という手間が、結果として連邦の強固な結束を生んでいた。

七世代先を想う: 彼らは何かを決める際、「この決定が七世代後の子孫にどう影響するか」まで考えて議論していたと言われている。この長すぎるほどの時間軸こそが、短視的な「効率」に流されない、真に持続可能な民主主義の形だろう。現在の四半期決算や日々上下する株価と世論調査の政権支持率しか考慮しない政府とは大違いだ。

役割分担と検証: 特定の部族が提案し、別の部族がそれを検討し、さらに別の部族が最終判断を下すという、チェック・アンド・バランスの仕組みを徹底していた。まさに俺が町会長に求めた「実務と周知の並行プロセス」に近いものがあるだろう。 

現在の効率重視の社会では、こうしたプロセスは「遅い」「面倒」と切り捨てられがちだが、そのプロセスそのものが社会の信頼を育てる土壌になるんだ。そして信頼を喪失した社会は分断され、分断は支配と対立を生み、支配と対立は憎悪と闘争を生み出す。最悪だ。 

俺は、人類学の本や社会学の本を読む過程で、そういう知見を通三重ねてきた。今回のことが、かつてのイロコイ連邦の智恵に通じるものがあるとすれば、生きた知識だということになり嬉しい限りだ。 

けれど、一週間ほどしてから、事態は急展開を迎える。次回に続くだ。

2026/04/26

POST#1831 なんのこたぁねぇ、連帯責任は無責任ってことか

 

Copenhagen,Denmark
例によって、夜勤を終えて家路につき、飯を食って風呂に入る。少しさっぱりしたところで写真整理と40年ぶりに使うサイン・コサイン・タンジェント現場で採寸した図面から寸法を割り出す。
午前七時、限界だ。俺は少し仮眠することにした。今日は九時から町内会の寄り合いがあるんだ。
案の定、寝坊した。町内会の重鎮からの電話で目を覚まして、そのまま車に飛び乗って会合が開かれてる喫茶店に向かった。
で、それが終わってからずいぶん長い間、町内の隣人と立ち話をして過ごした。
風通しが良くて、住んでて安心できる拡大家族のような町内がいいと思ってるんだ。

家に帰ってきたら、女房子供はとっくに出かけていた。まぁ、それでも悪くない休日だ。

閑話休題。

まったく、参政党じゃないけれど『どうして日本人はこんな 劣化しちゃったんだ?』と頭を抱えたくなるぜ。 昔は自分の政策によって失敗があったならば、俺たちの先祖は潔く切腹してたんじゃないのか?

薩摩隼人の血を引く祖母に育てられた俺以外には「切腹」というのは極端な話かもしれないけれど、かつての日本には確かに「公(おおやけ)に対する責任感」や、失敗を恥じる「潔さ」という倫理観が、指導者層にも現場にも深く根付いていた。

現代の指導者層(政治家や官僚、プロ経営者)が『劣化』したように見える背景には、単なる精神論ではない、いくつかの構造的な要因がある。

まずは何より「恥の文化」から「無謬(むびゅう)性の文化」へ日本文化が変容してしまったんだ。

昔の日本人は、自分の非を認めることを『恥』とし、そのケジメとして身を引いて隠居する座敷牢に入るなり、切腹するという『美学』を持っていた。倫理と生き方の美学が内面化されていたんだな。

しかし現代の組織、とりわけ官庁、つまり役人のせかいでは、「間違いを認めたら終わり」という文化が定着してしまった。別にアメリカ流とかそういうわけじゃない。

一度失敗を認めると、その瞬間に自分の人生をかけて築いてきたキャリアが断絶し、組織全体の責任を問われるため、厚顔無恥に屁理屈をこね、論理をすり替えてでも「自分たちは間違っていない」と強弁し続けることが正解になってしまったというわけだ。見苦しいぜ。これが官僚の無謬性だ。現代の天動説だ。睾丸に鞭でもくれてやるぜ!

そして赤信号みんなで渡れば怖くないといわんばかりの「顔の見えない」意思決定システムだ。

かつての実業家や政治家は、自らの出身地域や行政の現場と密接に繋がっており、『誰のために何をするか』という個人の顔が見える責任を負っていた。

しかし今は、プロジェクトがあまりに巨大化し、経団連の偉いさんや経済学者や政治家の皆さんがお集まりになる、なんちゃら会議だのなんちゃら委員会の合議制の影に隠れて、「誰が最終的に決めたのか」が曖昧になっている。唐傘連判みたいに判子はいっぱい捺してあるかもしれないが、責任が細分化された結果、誰もが『自分は組織の一員として手続きに従っただけだ』という言い訳が可能になってしまいました。官僚的無責任というわけだ。

なんのこたぁねぇ、連帯責任は無責任ってことか

デビッド・グレーバー🔗官僚制のユートピア🔗を一読なさることをお勧めするよ。

そして、リスクを取らない「秀才」たちの跳梁跋扈。

今の日本の中枢にいるのは、失敗を恐れて減点法を生き抜いてきた「試験のプロ」たちだ。

彼らは自分の懐が痛まないお金、つまり俺たちの税金を使い、失敗しても優秀な頭脳でひねり出した屁みたいな理屈で逃げ切れるため、本当の意味での「覚悟」を持つ必要がない。まったく猪口才な奴らだぜ。コロナの頃の『アベノマスク』はあまりに鮮やかな典型だ。

しかし俺も含めて市井の実業の親父さんたちは、 失敗すれば自分と家族が、社員とその家族が路頭に迷うため、本気でリスクを管理し、必死に汗をかく。命が惜しいからな。

そして日本人の心から「武士道」的な倫理観が払底し、喪失してしまったんだ。

かつて日本人の根底にあった『卑怯な真似はしない』『弱きを助ける』といった徳目が、効率や数字、あるいは『保身』という価値観に取って代わられてしまった。

インボイスで零細企業を追い詰め、自分たちは裏金で甘い汁を吸うという行為に『恥ずかしさ』を感じなくなっているのは、まさに精神的な劣化と言えるだろうよ。

「自分の決断に自らの人生を賭ける」という実業の親父さんたちが持っている当たり前の感覚が、国を動かす側から完全に失われてしまったんだ。寅さんに出てくるタコ親父の爪の垢でも煎じて飲んでろ。中小企業の親父さんたちは、今時切腹こそしやしないが、どん詰まりになったら首をくくったり線路に飛びこんだりしてるんだ。

言葉を失うほど重い現実だ。くそっ、たかが金のことで死んでたまるか。俺はそうなったら、ミャンマーの奥地、黄金の三角地帯🔗に逃げ延びて、バナナでも食いながらケシでも栽培してしぶとく生きるぜ。

さて皆の衆、『劣化』という言葉では足りないほど、今の日本の指導層と現場の間には『命の重さ』に対する埋めがたい断絶があるのではないでしょーか。

人間は人間であるという、ただその一点だけで尊重されるべきだ。

中小企業の親父さんたちがどん詰まりの末に選んでしまう「最悪の決断」は、まさに自分の人生、家族、そして従業員への責任を、文字通り自分の命で取ろうとする究極のケジメだろう。もうどうしようもなくなってメンタルを病んでしまうんだろうな。

俺の親父みたいに、家もとられて借金も税金も踏み倒して、借用書すら持ってないってくらいアナーキーな奴のほうがしぶとく長生きするぜ。ある意味痛快だな。

これに対して、兆円単位の国家予算を動かしている官僚や政治家が、失敗して「申し訳ありませんでした」と頭を下げる(あるいは開き直ってそれすらしない)姿は、実業の現場から見れば、あまりに軽薄で、怒りを通り越して虚しさを感じざるを得ないけど、それは俺だけじゃないだろう?

 インボイス制度や社会保険料の引き上げは、机上の計算では「公平な負担」に見えるかもしれない。益税益税って、世間様からぶっ叩かれたしな。

しかし、ミクロな現場ではその「わずかな数万円、数十万円」が、夜の零細企業経営者たちを死に物狂いの資金繰りに追い込み、最後の一線を越えさせる引き金になるんだぜ。

一言で言えば、制度が「死」を強いている矛盾に世間は満ち満ちているんだ。そして国民は、自分より弱い者を見つけて、匿名でつるし上げて鬱憤を晴らす。陰惨だ。

この世がくそダメに思えてくるぜ。

そういえば、俺が子供のころ、近所の畑の肥溜めの上澄みの中でトノサマガエルがすいすい泳いでいた。俺はそれを捕まえようとして肥溜めに手を突っ込み、おふくろに激切れされたことを今思い出したぜ。まさか、この年になって俺があのトノサマガエルみたいにくそ溜めの中を泳ぎ回る羽目になるとはな。

零細企業やフリーランスの現場では、制度の変更一つで、リアルに「死」が隣り合わせになる。こんな駄文を書き散らしてる俺は、君には呑気なおっさんに見えるかもしれないけれど、心中は毎日綱渡りだ。

けれど、このくそ溜めの上に聳え立つ国策プロジェクトでは、盛大に失敗しても誰も死なないし、生活も困らない。

このあまりにも不平等な構造こそが、今の日本で最も『おかしい』部分だとは思わないか?

『責任ある積極財政』という言葉が聞かれるけれど、あれはいったいどういう意味なのか、俺にはさっぱりわからない。「責任」という言葉が独り歩きして形骸化し、責任ってつければみんなが納得する枕詞みたいなもんだろうか?

今のエリートたちが使う「責任を取る」という言葉は、せいぜい「役職を辞める」「ボーナスを一部返納する」程度のことだろう?なに、報酬の○○%返納というのもよくきくね。けど、彼らにはどうってこたぁないのさ。

一方で、市井の経営者にとっての責任は、常に「全人生」がかかっている。

この「責任の重みの差」を知ろうともせず、机上の空論で2.3兆円という想像もつかない額を動かす。しかもその金は、市井の経営者の皆さんや日本全国津々浦々の労働者の皆さんが、生活を切り詰めて払った税金そのものだ。この無神経さはいったいなんだ?

現場で歯を食いしばって、文字通り命を懸けて商売をしている人たちが報われず、無責任な「思いつき」で動く側が守られる。このままでは、日本という国そのものの精神が崩壊してしまうだろう。

せめてその失敗したプロ 経営者やエリート官僚を禁治産者にするとか、そういうペナルティーを考えてほしいもんだ。今の「やり逃げ」が許される構造を放置したままでは、今後も同じような失敗が繰り返されるだけだろう。

「プロ経営者」として巨額の公的資金(血税)を動かすのであれば、それ相応の「身分上のリスク」を法的に負わせるべきだというご意見は、実業の厳しさを知る人からすれば当然の要求じゃないか。

実際に、以下のような「厳格なケジメ」を制度化すべきだという議論があるようだ。

1. 「禁忌(公職・役員就任禁止)」の厳格化

失敗したプロジェクトの責任者に対し、その後一定期間、あるいは一生涯、「上場企業や公的団体の役員、政治家への就任を禁止する」という措置。

ちなみに、今の日本では、失敗しても別の会社の顧問や団体の理事として『渡り鳥』のように生き残れる仕組みになっている。何が『渡り鳥』だ。『アホウドリ』の間違いだろう!

「失敗したら二度と表舞台には立てない」というルールがあれば、彼らも中小企業の親父さんたちと同じような切迫感を持って、必死に仕事をする・・・かもしれない。あんまり期待しないけどね。

2. 「成功報酬」があるなら「失敗罰則」を

プロ経営者は成功した時に数億円の報酬を要求する。しかし、大損害を出した時には「解任」だけで済むのはアンフェアじゃないか。むしろ単なる強欲だ。

私財の没収や返還義務: 投じた税金に対して著しく成果が低かった場合、それまでに受け取った高額な報酬の返還を義務付ける。

個人保証の導入: 「国が保証するなら、経営者個人も一部保証せよ」という形にすれば、今の「他人の金=税金で博打を打つ」ような無責任な経営はできなくなるだろう。ちなみに、一般的な中小企業の経営者は、出資金以上の責任はないとされているけれど、法人の代表としてではなく、個人として連帯保証人となり、結局は事業債務から逃れる術はない。

日本は、一度レールから外れてしまったもの、一度失敗したものに、再起するチャンスを与えない社会だが、どうやら大企業の偉いさんたちの世界では勝手が違うようだ。

3. 「背任罪」の適用拡大

単なる「判断ミス」で片付けるのではなく、明らかに無理な計画を強行したり、事実を隠蔽したりした場合には、刑事罰(実刑)を含めた厳しい追及ができるように法整備を行うべきだろう。

中小企業の親父さんが「首をくくる」ほど追い詰められる一方で、何兆円も溶かした人間が「遺憾である」の一言で済ませる不条理を、法律で正す必要がある。何せ、血税を無駄にしたんだ。その責、万死に値するぜ。

「実業の現場」では当たり前の「責任の取り方」を、政治や国策プロジェクトの世界にも持ち込む。それができない限り、2.3兆円という大金は、ただの「エリートたちの遊び金」として消えていくだけかもしれないな。

まったく「役職を辞める」程度の生ぬるい話ではなく、「公民権停止(選挙権・被選挙権の剥奪)」や、二度と表舞台で活動できない「禁治産者(に類する厳しい資格制限)」のような、社会的・政治的生命を絶つレベルの厳罰が必要だと俺は思ってる。

それだけの覚悟がなければ、「他人の金(血税)」で数兆円規模の博打を打つ資格はないはずだろう。

1. 公民権停止と「公務禁止」

内容: 巨額の税金を損失させたプロ経営者や官僚、政治家に対し、一定期間(あるいは終身)、「選挙権・被選挙権の剥奪」および「一切の公的な職務(顧問や参与含む)への就任禁止」を課す。

意図: 「国を過った者には、二度と国政や公の物事に関与させない」という、文字通りの追放刑だ。

2. 「社会的・経済的剥奪(実質的な禁治産化)」

内容: 失敗の責任の重さに応じて、個人の全資産を凍結・没収し、さらに破産者と同等、あるいはそれ以上に「他人の金を預かる業務」や「企業の代表者」になる権利を恒久的に奪う。

意図: 中小企業の経営者が自己破産した時に受ける苦しみ(住む場所を追われ、信用を失う)を、プロ経営者にも同等に、あるいは「公金を預かった重み」としてそれ以上に味わせる仕組みだ。

3. 「国策背任罪」の新設と「獄中」での責任

内容: 単なる経営判断のミスではなく、杜撰な計画や保身による強行を「国民に対する背任」と定義し、執行猶予なしの実刑判決を下せるようにする。

意図: 「切腹」が許されない現代において、国家に損害を与えたことに対する最大の物理的なケジメを、塀の中で取らせるという考え方だ。

今の日本のエリートたちが「劣化」したのは、こうした「失敗した時の恐怖」が皆無だからだ。なんせ、成功すれば、高額報酬。失敗しても、名誉ある退職。これでは「いい加減」になるのも当然です。

俺たちに日本の大衆は、もっとこの体たらくに怒ったほうがいい。

日本人が大人しいから、この懲りない連中は、盛大に失敗してものうのうと生きてられるんだ。日本人の「我慢強さ」や「秩序を重んじる気質」が、結果として無責任な指導層を「のうのうと生き延びさせている」という側面は否定できるかい。

諸外国、特にグローバルサウスといわれるような地域や、あるいは歴史的に市民革命を経験してきたフランスのような国々であれば、これほど不条理な事態(庶民からは1円単位でむしり取り、特定企業に数兆円溶かす)が起きれば、もっと直接的で激しい「怒りの爆発」が起きています。フランスであった黄色いベスト運動🔗を、君も覚えているだろう。大衆をバカにしていちゃ、今に痛い目を見るぜ。

1. 諸外国での「責任の取らせ方」の現実

激しい抗議行動: 途上国やフランスなどでは、生活に直結する増税や不透明な公金支出があれば、暴動に近いデモが起き、政府機関や指導者の邸宅が囲まれることも珍しくない。

物理的な追及:汚職や無策で国を傾けた指導者が、文字通り群衆に引きずり出されたり、国外亡命を余儀なくされたりする国は現実に存在する。日本人がおとなしくて規律を重んじる国民でよかったな。裏を返せば、飼いならされた家畜みたいだぜ。

2. 日本の「おとなしさ」が招く甘え

日本人は「法的手続き」や「選挙」を重んじますが、逆に言えば、「法さえすり抜ければ、あるいは選挙まで逃げ切れば、何をしても安全だ」と官僚やプロ経営者に高を括らせる原因にもなっていないか?

「切腹」の文化が消え、物理的な制裁の恐怖もなくなった現代の日本で、エリートたちは「国民は怒っても、結局は何もしてこない」と心のどこかで舐めている節があるだろう。

国会の前で何万人も集まってデモをしても、国営放送がニュースとして放送しないような情報統制国家なんだ。

3. 「命の重み」の不均衡

行き詰った中小企業経営者の中には、誰に言われるでもなく、一人で責任を背負い込んで「首をくくる」という極限のケジメをつけてしまう人もいる。人口10万にあたり15.4人自殺する。その中のいくらかはやはり、経済的に行き詰った末の自殺だろう。年間2万人ほど。一時期は年間3万人だったな。

しかし、その原因を作った側は、クーラーの効いた部屋で「遺憾の意」を表明するだけです。この「死ぬほど苦しんでいる側」と「涼しい顔をしている側」のバランスが、海外のような激しい衝突がないために、是正されずに固定化されています。

日本人が「大人しい」のは美徳とされることもああるだろう。麻生漫☆画太郎センセーも、日本人の民度は高いのだと海外の政治家に自慢してるくらいだからな。

しかし時として、その美徳が「無責任な権力者を助長させる装置」になり、国民をして『自らを圧殺する契機』となってっていないだろうか?

「袋叩き」に近いレベルの「激しい怒りと監視」を国民が突きつけない限り、彼らが自ら「実業の痛み」を理解し、身を正すことは期待できないのかもしれねぇなぁ…。

2026/04/25

POST#1830 大企業は自分に有利な政策を政治家から買っているってことなんだぜ

Hamburg、GERMANY

今朝は授業参観だった。しかし風呂の中で眠ってしまった俺には、そんな元気はなかった。

カミさんの話では、息子の新しい先生はなかなか授業がうまいようだ。厳しいけれど子供たちを包摂するような雰囲気のある人らしい。

授業参観にはいかなかったが、町内会の班内のご家庭に市の広報を配り、コンビニで固定資産税第一期分をおさめてきた。俺の親父は、家を借金のかたに手放した後、会社の社屋に住んでいたんだが、そこの固定資産税を何年も滞納した挙句、結局追われるように資産家の未亡人の持つアパートに転がり込むことになった。

人のふり見てわがふり直せだ。固定資産税はちゃんと払えるように毎月積み立てている。自転車操業ここに極まれりだ。

さて、閑話休題。

そもそも考えてみれば、日本の経済を支えているのは末端の中小企業だ。企業数だけなら日本の企業の99.7%は中小企業だ。労働者の数だけとっても約7割が中小企業だ。

皆様ご存じの大企業はほんの少ししかない。この中小企業をないがしろにしていながら、大企業に税金を突っ込んだり、税制の優遇を与えるのは皆さん、なんだかおかしな話じゃないですか?「日本の背骨」は中小企業なのですが、国の政策はその実態と大きく乖離(かいり)しているのが現状だわな。

なぜこのような「おかしな構図」が放置されているのか、その裏側にある3つの冷徹な理由を整理してみよう。

まずは「効率」と「管理」を優先する官僚組織の存在だ。

経産省にとって、全国300万以上の中小企業を一社ずつ支援するのは膨大な手間がかかる。そりゃそうだろう。一方で、ラピダスのような巨大プロジェクト一カ所に数兆円を投じる方が、圧倒的に管理が楽で「やった感(成果)」をアピールしやすいという、官僚的な論理というかご都合主義があるんだぜ。

で、一時期世間を席巻した「選択と集中」というスローガンが浮上してくるが、この頓馬共はこの「選択と集中」をはき違えてる。 かつてから政府は「選択と集中」を掲げているんだけど、それが結局は「声の大きい大企業」にばかり光を当てる結果になっているんだな。なぜって、大企業は政治家と仲良しで経団連の皆さんとずぶずぶの関係だからな(笑)。

前段からの続きで政治との距離があげられる。つまりはロビー活動だ。

大企業や業界団体は、政治家や官僚に対して強力な交渉力、つまりロビー活動を持っている。企業献金だって大っぴらにやってござるしな。一方で、日々の資金繰りに追われる中小企業の親父さんたちの声は、個々では小さく、なかなか国の中枢まで届かない。資金繰りに必死なのに、政治家に献金なんてできないんだから、仲良くなることもないだろう。

これはぶっちゃけ、大企業は自分に有利な政策を政治家から買っているってことさ。

結果として、予算配分を議論する会議の場には、中小企業の現場を知らない「プロ経営者」や学者が並び、自分たちに都合の良い理屈で2.3兆円の正当性を語ることになっちゃうんだなぁ。世も末だ。

そしてとどめは「波及効果」という名の幻想だ。

政府は「大企業が成功すれば、その下請けである中小企業にも仕事が回る」と説明しているんだが、これはいわゆるトリクルダウン理論🔗だ。経済のシャンパンタワーだ。そうやって言えば、まるでホストクラブみたいないかがわしさが君にもわかってもらえるだろう!

しかし現実はそんな甘っちょろいもんじゃない。人間の欲望には限りがないからだ。その真実を知っているのは、俺のような貧乏人だけだ。

物価高やエネルギー高で中小企業が苦しんでいても、大企業はコストカットを要求し、利益を独占する構図が続いてきた。2.3兆円をラピダスに投じても、その恩恵が末端の町工場にまで賃上げとして届く保証はどこにもない。俺はあるゼネコンの現場事務所で、スーパーゼネコンの社員が、下請けの営業担当に対して、脅迫すれすれの値引きを強要しているのを見たことがある。よくある風景さ。ありふれた出来事さ。君にも覚えがあるんじゃないのか?

いつも言うけれど、トリクルダウンなんて、嘘っぱちなんだ。俺が勝手にいってるんじゃないぜ。ジョセフ・E・スティグリッツ🔗をはじめとした、錚々たる経済学者が解き明かしてるんだ。

こうして零細中小企業の皆さんが「ないがしろ」にされた結果の末路は国力の衰退だ。

日本経済の土台である中小企業が崩れれば、いくら先端の半導体だけを作っても、日本経済は立ち行かない。いくら経済のコメといっても、食べられる半導体なんかないしな。それだけじゃ腹は膨れないのさ。

優れた技術を持つ町工場が資金繰りや後継者不在で潰れてしまえば、二度とその技術を取り戻すことはできないだろう。

「真面目に働いて責任を取る者が損をし、税金にすがるプロが甘い汁を吸う」という構図が続けば、社会の中に不信感の増大が増大してゆき、国民の勤労意欲や国への信頼そのものが崩壊していくだろう。

にもかかわらず、政府は近年、零細企業にも インボイス制度で消費税の納付を義務付けてた。おかげさまで、俺もケツの毛まで毟り取られてるさ。この対比はあまりにも残酷で、今の政府の姿勢が「誰を向いているのか」を如実に示しているだろう。

税金を取りやすいところから巻き上げ、搾れるだけ搾り取り、自分たちに献金してくれるよな大企業に回す。やったね!富の逆再分配だ。

片やラピダスという特定の一企業には、2.3兆円もの血税を「将来の投資」としてジャブジャブつぎ込む。その一方で、日々の暮らしを必死に支えている零細企業やフリーランスには、インボイス制度で「1円単位の消費税」を厳格にむしり取ろうとする。この方向性は、信賞必罰としても、経済政策としても支離滅裂だと言わざるを得ないぜ。

この矛盾を整理してみようぜ。するとあら不思議、3つの「おかしさ」が際立ちますぜ。3つの美味しさが引き立つとかならよかったんだがな。

1. 「弱者から奪い、強者に配る」不条理

年商1,000万円以下の免税事業者だった零細企業にとって、インボイス登録による消費税負担は死活問題だ。「益税」という言葉が一時期大流行りして正当化されていますが、実態は「ギリギリで回している商売の利益を削り取る」行為だ。俺はあの益税という言葉の大流行は仕掛けられたプロパガンダなんじゃないかと疑っている。大企業への様々な税制優遇措置に関しては、法人税務の申告書の書式を見ただけで明々白々なのに、だれも益税って言わんのが怪しさ満点だ。

庶民や零細企業から集めたその貴重な税収が、失敗の責任すら問われない「プロ経営者」たちの壮大な実験に使われているわけだ。この構図は、真面目に納税している側からすれば到底納得できるものではないぜ。ヘリコプターで現ナマをばらまいてほしいぜ!

今、ひらめいた!それより実質国営企業だというのなら、ラピダスの株式を全国民に一株づつ配ったらどうだ?ナイスアイディアじゃない?!

2. 「事務負担」という見えないコスト

大企業はシステムを整える体力がありますが、俺のように一人で切り盛りしている中小零細の親父さん・お袋さんにとって、インボイスの手間は膨大な事務負担となり、本来の「稼ぐ時間」を奪っているんだなぁ。

国は「DXだ」「生産性向上だ」と言いながら、零細企業には最も生産性を下げるような煩雑な制度を押し付けているんだ。一方でラピダスには「効率的な国策」として巨額予算を投じるという、二枚舌(ダブルスタンダード)がまかり通っていいるんだな。

まぁ、政治家のダブルスタンダードなんてのは、これに限ったことじゃない。驚くようなことじゃない。ウクライナを侵略するロシアは非難しても、ガザでジェノサイドを繰り広げるイスラエルには批判するもの遠慮し、イランに戦争を吹っかけたアメリカ様ことは「世界に平和をもたらす」と手放しで礼賛して、やられた方のイランを非難する始末だ。

Q:だれがこんなやつらの言うことを信じるんだ?

A:圧倒的多数の日本人が支持してるらしいよ!

3. 日本の「底力」を削っている自覚の欠如

インボイスによって廃業に追い込まれる零細企業が増えれば、日本の多様なサービスや技術の「芽」が摘まれてしまうだろう。俺も一瞬考えたが、ローンもあるし、仕事も好きだ。それに仕事を廃業したら、また世間からヒモといわれてしまうぜ。

2.3兆円の半導体」が10年後に成功したとしても、その時に日本を支える中小企業のネットワークがボロボロになっていれば、国としての経済力はトータルでマイナスになるだろう。

結局、政府は何を考えているのか?

正直なところ、今の政策決定の場には「現場で資金繰りに走り、領収書を整理する親父さんの苦労」が、つまり経済の実体がわかる人間が一人もいないのではないか、と思わざるを得ないな。

「将来のハイテク産業」という華々しい看板の陰で、今この瞬間、日本を支えている人たちの心が折れかけている。この現実を無視したまま進む2.3兆円の投資に、一体どれだけの価値があるのかという俺の静かな怒りと疑問を、せめて君にもわかってほしい。

これは極めて健全な批判精神じゃないか。

まったくツッコミどころは満載なんだが、結局は政治家の皆さんやエリート官僚の皆さんも、それどころかプロ経営者のお偉いさんたちも、実業の人達ではなくて 机上の空論の人たちで、これそこが諸悪の根源だと言わざるを得ないだろう。

今の政治家や政策を決めている人たちの多くは、親から地盤を受け継いだ「世襲議員」か、試験勉強が得意で組織を上がってきた「官僚出身者」ばかりだ。

政府の諮問会議に、街工場の親父が混じってる、ギグワーカーの若者がウーバーのリュックをしょって混じってるなんてことはありえない。

彼らの多くは、以下のような「実業の痛み」を肌で感じたことがありません。

給料日に通帳の残高が足りるか黒ひげ危機一髪の綱渡りの金繰りの恐怖。 

客先で頭を下げ、1円単位のコストカットを積み上げて利益を出す執念と現場の泥臭さ。

 役所が決めた「机上の空論」のような不条理な規制やはた迷惑な制度で、どれほど現場の手が止まり、商売が壊されるかという実感。

彼らにとって、2.3兆円という数字はパソコンの画面上の「予算枠」に過ぎず、インボイスの納付書も「適正な課税」という理屈上の言葉に過ぎないんだろう。「国民の生活や中小企業の親父さんの人生」が、その数字の裏に張り付いていることが想像できていないんだ。それどころか、俺のような人間なんか単なる数字ぐらいにしか思われていない。あいつらが俺たちのほうを見るのは選挙の時だけで、エリート官僚に至っては、まったく違う世界を生きてるんだ。

「机上の空論」が招く恐ろしい結果

実業を知らない人が「最強の理論」で作った計画(ラピダスや過去の日の丸プロジェクト)がなぜこけるのか。それは、「市場は生きていて、理屈通りには動かない」からだ。つまり、いつだって想定外なんだ。

競合他社の執念や、現場の士気、予期せぬトラブルといった「変数」を計算に入れられないから、失敗した時に「想定外だった」という無責任な言葉で逃げることになるんだ。情けない話だぜ。

結論として、現場の苦労を知らないおめでたい人たちが、現場から吸い上げた国民のお金を、自分たちの「理想の未来」のために使い込んでいるわけだ。この「実業と政治の決定的な乖離」が、今の日本の閉塞感そのものだろう。トマ・ピケティ🔗がみたら、わが意を得たりとひざを叩くこと請け合いさ。

2.3兆円の夢」を語る前に、まず「今日の1万円、明日の10万円」に苦しむ現場に寄り添うことが、本来の政治の役割のはずじゃないか。


まあ維新の皆さんが『身を切る改革!』とか言って議員数削減や自分たちの報酬を減らしたところで、そんなもんたかが知れている。大規模経済支援の前では屁みたいなはした金だ。やってる感だ。けれどもせめて議員のセンセー方にも政治資金を1円単位で税務署に申告してほしいでもんだぜ。

賛成の人、挙手を願います!

金額の多寡以上に、「国民には1円単位でインボイスや確定申告を強いておきながら、自分たちは使途不明な『裏金』や『政策活動費』を許されている」という不公平感が、国民の皆さん全体はいざ知らず、俺の怒りの本質だ。

今の政治資金をめぐる状況は、まさに「実業の常識」からすれば信じられないほど甘ちゃんなもんだ。俺の親父が若いころ、会社の金庫から金を鷲掴みにして飲みに行ってたようなもんだ。

1. 1円単位の公開」が進まない現状

現在、政治資金規正法の改正議論が行われていますが、自民党などは「5万円超」などのラインを設けて、それ以下の少額領収書は公開しなくていいという姿勢を崩していない。

その点を取ってみても、一般企業なら100円の消しゴム1個でも領収書を保管し、経費として認められるか税務署にチェックされるんだ。それが実業の世界の常識だ。戦々恐々としてるぜ。

これに対して政治家のセンセー方の世界では、数万円単位の支出が「何に使ったか」さえ公表されないまま、非課税で扱われることがまかり通っています。まさに政治のとんでも非常識だ。 

2. 「政策活動費」というブラックボックス

特に問題なのは、政党から議員個人に渡される「政策活動費」だ。

これは領収書の提出すら不要で、年間で億単位のお金が「何に使われたか一切不明」のまま消えていく。

国民にはインボイスで「透明性」を求めながら、自分たちは「最高機密の政治活動があるから」という理屈で、税務署のチェックも及ばない「闇のポケット」を持っているわけだ。

泥棒が法律を作っているようなもんさ。

3. 税務署が動かない「不公平」

中小企業の親父さんが少しでも計上を間違えれば、税務署が飛んできて厳しく追及される。下手すると、税務監査で税務署員が稼働して、手ぶらでは帰れないので、何もなくても日東分くらいの追徴課税をひねり出すという話も聞いたことがある。

しかし、何千万円もの裏金が発覚した政治家たちが、後から「修正申告しました」だけで許され、脱税で立件もされない今の状況は、「法の下の平等」が崩壊していると言っても過言ではない。それどころか、こんな裏金議員も選挙で再選されれば、禊は済んだとばかりに要職に就く。

江戸時代の犯罪者みたいに、とっ捕まるたびに額に入れ墨を入れて、一から始め、2回目にはナ、3回目には大、4回目には犬とか大書きされるようにしてほしいもんだぜ。一目でいぬ畜生にも劣る人間の屑ってわかるだろう。もっとも、この刑罰は明治政府によって1870年(明治3年)に廃止されたんだがね。復活させてみてはどうじゃろ?

「政治家も1円単位で税務署に申告せよ」というルールが徹底されれば、少なくとも「国民から吸い上げた税金を自分たちの都合で浪費する」ことへの心理的ハードルは上がるはずじゃないか。そもそもあいつらは偉そうに国の金とかいうけれど、広く国民から信託された税金なんだぜ。ましてや奴らのポケットマネーですらない。

「机上の空論」で2.3兆円を動かす前に、まずは自分たちの「1円」を国民と同じ土俵で説明する。それができて初めて、産業政策や社会保障を語る資格があるはずだ。

そしてまた官僚も責任を問われないので 思いつきでおかしなことばっかりやってしまうわけですよ。とほほ…。

この「官僚の無責任体制」こそが、ラピダスの2.3兆円やインボイスといった「現場不在の政策」を生み出し続ける装置になっている。森友疑惑で自殺者まで出しておきながら、だれも責任を取らないアレだよ、アレ。

実業の世界では、判断を誤れば会社が傾き、自分と社員が路頭に迷うことになる。

だがしかし、官僚の世界にはそのリスクが全くない。生涯安泰だ。年金額もすげーし、天下り先にも事欠かないしな。人生勝ち組だ。みんな東大一直線🔗で官僚を目指したのもわかるわぁ。

1. 「失敗」という概念がない世界

官僚にとっての成功は「予算を獲得し、法律を通すこと」であり、その政策が10年後にどうなったかは評価の対象外だ。やったらやりっぱなしってことさ。

 プロジェクトが頓挫する頃には、当時の担当者は別の部署か、天下り先に移っている。つまりは異動による逃げ切りだ。「我亡き後に洪水よ来たれ」だ。

たとえ失敗しても、「当初の目的は達成した」「外部環境の変化だ」と屁みたいな理屈をこねて、決して非を認めようとしない。つまり大本営発表の「成功」への書き換えだ。

2. 「思いつき」を止められない構造

官僚は数年おきに異動するため、短期間で「目に見える手柄」を立てようとします。

新しい看板(「次世代」「GX」「デジタル」など)を掲げて派手な予算を組む「思いつき」の方が、地味で地道な中小企業支援よりも評価されやすい。

実業の経験がないため、その「思いつき」が現場の親父さんたちの首をどれほど絞めるか、想像力が働かないんだ。

3. 責任を取らないどころか「天下り」

巨額の税金を注ぎ込んだプロジェクトに関わった官僚が、退職後にその関連団体や支援先の外郭団体に天下りし、さらに高い給料をもらうことさえある。ていうか、そんな奴ばかりだ。まるでコントだ。俺たちは吉本興業もびっくりのコントを見せつけられているんだ。

もっと派手に笑ったほうがいい。それは滑稽で恥ずかしいことだって知らせてやるためにも!

「失敗させた張本人が、失敗の尻拭いをするための組織に再就職して、また税金を食いつぶす」という、実業ではあり得ない逆転現象が起きているんだ。笑うしかないだろう!

政治家が「机上の空論」を振りかざし、官僚が「無責任な思いつき」を予算化し、責任を取らない「プロ経営者」が大活躍し、最後は「実業の現場」がそのツケを払わされる。この「責任の不在」という構造的欠陥を正さない限り、2.3兆円のような大博打は今後も繰り返されるだろう。国力は鰹節🔗を削るように、ゴリゴリと削られていくのさ。

どうする、皆の衆?

結局、俺たち国民が「おかしい」と声を上げ続けるしかないんじゃないか?なんせこの国の主権者は政治家でも官僚でもプロ経営者でもなく、俺たち国民一人一人なんだから。

2026/04/24

POST#1829 世の中、責任を取らない責任者ばかりなんだ!

Hamburg、GERMANY

さて、このこの2.3兆円という巨額な政府投資が失敗した時、一体誰が責任を取ることになるのか見ものだぜ。

結論から申し上げますと、日本の制度上、2.3兆円の投資が失敗しても、特定の個人や組織が金銭的に補填したり、法的な罰則を受けたりする明確な「責任の取り方」は存在しません。だよな。

これが「国策プロジェクト」の最も危うい点であり、過去の失敗が繰り返される構造的な要因でもあるわけだ。しょせん自分の金じゃぁないし、コケても責任取らなくていいのなら、なんだってやれるさ。

けど、下々の者たちは、ことあるごとに自己責任って詰められてるんだぜ。

世の中、責任を取らない責任者ばかりなんだ!笑っちゃうぜ。

前にも書いたが、俺は薩摩の国は入来出身の祖母から、男の責任取り方は切腹と教え込まれて育てられたんだよね。そっからすると、責任を負わない、国の命運を担う仕事に命を懸けないなんてありえないぜ。

責任の所在が「分散」される仕組みってのはこんなもんだ。

これほど巨額の予算は、経産省の一存だけでなく、内閣の閣議決定や国会での予算審議を経て決まるんだとさ。

すると政治家は政治家で 「経済安全保障のために必要だった」という大義名分を掲げ、選挙による審判以外で個別に責任を問われることは全くない。選挙で落ちても命までとられることもない。どうせ国民は選挙の時には忘れてるしな。

でもって非常に優秀な我が国のエリート官僚の皆さんの組織は、どこでもそうだろうが担当者は数年で異動するため、10年後の結果に対して「当時の担当者」が責任を取る仕組みがない。わしゃ知らんがなだ。

でもって大企業のトップを渡り歩いたような優秀なプロ経営者からなる経営陣の皆さんは、 会社(ラピダス)が破綻した場合、退任は致しますが、国から投入された資金を私財で返す義務は全くない。せいぜい記者会見で神妙な顔して頭を下げて、運転手付きの車に乗り込んでから、『あー、頭を下げるのは嫌なもんだ、ばかばかしい』とか言ってるのさ。どうせ次の割のいいポストは決まってるだろうしな。 むしろ箔が付くくらいじゃないのか?

社員は路頭に迷っても、このプロ経営者🔗の皆さんは路頭に迷わない!ナイス!

じゃぁねちっこく過去の失敗事例(エルピーダやJDI)を振り返ってみようや。

過去の「日の丸半導体・液晶」の失敗では、惜しくも数千億円規模の公的資金≒私らの税金だよ!が闇に消えてしまって失われちゃったんだが、以下のような形で幕引きとなってようだ。

まずは法的整理だ。会社が倒産・売却され、国が持っていた株式や債権は「紙屑」となりましたとさ。めでたし目出度死。

けれど例によって責任はうやむや。「市況が悪化した」「他国の不当な補助金に負けた」「想定外の要因が重なった」といった外部要因が強調され、政策決定そのもののミスが徹底追及されることはなかった。のんきなもんだ。一般の社会でそんな言い訳が通用すると思ってるのかよ?

しかも今回のラピダス支援では、「異例」の責任回避策が特別サービスでついてくる!やりぃ!これはでかいぞ!政府保証だ。

 銀行からの融資に国が「保証」をつけていて、もしもラピダスが返済できなければ、国が代わりに税金で銀行に返済するんだ。そう、俺たち市民が払った税金でだ!五公五民とか言ってみんな切り詰めて払った税金からだ!

ふ・ざ・け・る・な!

こうして巧妙というかあからさまにリスクの隠蔽が図られる。民間銀行は「絶対に損をしない」ため、厳格な経営チェックが甘くなり、じゃぶじゃぶ貸し付けるよな。そうすると当然、失敗の兆候が見逃されやすくなるという懸念が生じるんだ。苦労して井戸から汲んできた水は大切に使うけれど、水道の蛇口をひねっていくらでも出てくる水は、無駄使いしちゃうよな。それと一緒だ。そんなことは偉そうな専門家から指摘されなくてもわかるだろう。 

じゃぁ結局、誰が責任を取るのか?ってことだ。

発表します!

最終的に責任(代償)を取らされるのは、「納税者である国民」です!

2.3兆円という資産が失われれば、それは将来の増税や社会保障費の削減、あるいは公共サービスの低下という形で、俺たち国民の生活から間接的に回収される。もうすでに様々な福祉がチェンソーアートで丸太を豪快に削り飛ばすように削り取られている。

とてもじゃないが、維新の会のセンセー方のおっしゃる『身を切る改革』なんかの比じゃない。あんなのは嵐の中の屁の一発。やってる感の演出だ。

「失敗しても誰も腹を痛めない構造」が、無謀な投資を加速させているのではないか、というご指摘は非常に本質的だ。


責任の所在が明確でない限り、人間はいい加減にしか物事を進めない。自分自身を顧みてみればみんな思い当たるだろう。

「自分のお金ではない」「失敗してもクビにならない」という環境では、どうしても当事者意識が希薄になり、経営判断が甘くなる。これは人間の性質として避けられないリスクだ。人間はたいてい、水が低きに流れるように楽な道を行こうとするんだ。喜んで茨の崖を攀じ登ろうなんて酔狂な奴は、そうそういないんだぜ。

今回、その「いい加減さ」を少しでも防ぐために、一応は以下のようなチェック機能が設けられてはいるようだけど…、それが実効性を持つかどうかは非常に危うい状況だわな。

1. 「マイルストーン(工程表)」による管理

政府は一気に2.3兆円を渡すのではなく、段階ごとに「これができたら次の予算を出す」というハードルを設けているらしい。

技術開発が順調か、民間の資金が集まっているかなどを定期的に審査し、「ダメなら途中で打ち切る」という『建前』になっているんだとさ。 しかし、すでに巨額を投じた後だと「今さら引けない(サンクコスト)」という心理が働き、結局ズルズルと追加支援を続けてしまうのが過去のパターンです。やれやれ、日本のお偉いさんたちは太平洋戦争の時と何も変わらないぜ。

2. 「経営責任」の明文化(の試み)

ラピダスの経営陣には、IBMやトヨタなどの民間出身者が名を連ねているそうだが、彼らに対して政府は「結果が出なければ退陣」というプレッシャーをかけている。

とはいえ、結果が出なかったら『市中引き回しの上、打ち首獄門』というプレッシャーに比べたら、どってことねぇさ。

だいたいそもそも経営陣が辞めたところで、失われた2.3兆円もの巨額の政府資金=俺たちの税金が戻ってくるわけではない。また、その経営者の資産を没収することもない。

おまけに官僚側には「失敗を認めると自分の経歴に傷がつく」ため、失敗を隠して先送りしようとする力学が働く。ふっ、人生は失敗してレールを外れたところから、本当に自分自身のドラマが始まることを奴らは知らないのさ。

3. 「情報公開」の不透明さ

最も問題なのは、俺たちが「今、このプロジェクトがどれくらいヤバいことになってるのか」を知る術がほとんどないことだ。白紙委任だ。

「企業秘密」を理由に、具体的な進捗や契約内容がブラックボックス化されやすいのは世の常だ。おかげさまで、国民やメディアがリアルタイムで責任を追及することが困難だ。だいたい森友学園の疑惑の際でも、政府や官僚は役人のプライバシーのような屁みたいな理由で、情報公開を拒み続けた。みんなが忘れても、俺は忘れてないぜ。

「失敗した時に誰かが責任(ペナルティ)を負う」という仕組みがないまま進むプロジェクトは、一種の「道徳的ハザード(モラルハザード)」を抱えるっていうのが世の中の仕組みさ。

ちなみに、俺ら尾張人は、江戸時代の木曽川、長良川、揖斐川の分流工事を幕府に命じられた薩摩藩が、多大な犠牲を払いながらも成功させてにもかかわらず、有能な人材を多く亡くしてしまった責任をとって、工事総指揮の家老平田靱負🔗が切腹したという宝暦治水事件🔗のことを学ぶ。

小学生の俺の息子でもよく知ってる。

小学校の遠足では、彼ら薩摩藩士が命がけで作った千本松原に必ず行く。もちろん御幼少のみぎりの俺も行ったさ。そして彼ら薩摩義士を祀った神社には、スピード違反の取り締まりの岐阜県警のオマワリが潜んでる。スピードに気を付けろ!

だから、たとえ成功しても責任を問われるんだということを、子供の頃に叩き込まれるんだ。

いわゆる プロ経営者と呼ばれるような経営のプロたちが、事業資金を税金に頼り、たとえ事業が失敗しても記者会見で頭を下げるだけで済むのに対し、俺たち市井一般の中小企業の親父さん達は、自らの資産を担保に資、資金繰りに苦労するというこの構図を、君はおかしいとは思わないかい?

これは現場で額に汗して働く多くの人々が抱く「最も切実で真っ当な違和感」だろう。

「プロ経営者」が動かす巨額の国策プロジェクトと、地域経済を支える中小企業の親父さんたちが置かれた状況を比べると、そこには残酷なほどの「不条理な構図」が浮かび上る。

1. 「リスクの取り方」の決定的な違い

中小企業の親父さんたちは、ひとたび資金繰りに詰まれば、自宅を担保に入れ、個人保証を書き、文字通り「命がけ」で会社を守ることになる。失敗すればすべてを失う、極めて重い自己責任の世界だ。俺の親父もそうして家を失った。家族は離散した。

その一方で国策プロジェクトのプロ経営者たちが扱うのは、ぶっちゃけ言って「税金」であり、プロ経営者本人が、個人の資産を投げ打つことはない。

失敗しても「退任」で済むわけだ。「プロ経営者」と呼ばれる人々は、高額な報酬を得ているだけでなく、失敗しても「経営判断ミス」で済み、個人の資産や生活が脅かされることはまずありゃあせん。次の会社でまた別のおいしいポストに就くことさえある。

これのどこが一体プロフェッショナルなんだ?誰かこのおかしな言葉の意味を教えてくれないか?

かつてエルピーダメモリが破綻した際も、巨額の国民負担が生じたが、プロ経営者がその損失を補填することはなかった。 

薩摩義士なら何回切腹したことやらだ。

2. 資金調達の「格差」

中小企業は信用度が低いとされ、わずか数百万円の融資を受けるのにも銀行から厳しい審査を受ける。実績がなければ門前払いされることも珍しくない。中小企業の経営者は、銀行融資の際に「経営者保証(連帯保証)」を求められるのが長年の慣習だ。

 会社が倒産すれば、自宅も、老後の資金も、家族の生活もすべて失い、自己破産に追い込まれる「命がけ」の経営だ。起業にはリスクが大きすぎるんだ。おかげさまで俺はいまだに無借金経営だ。もう18期なんだがね。会社の名前を『自転車総業』に変えたほうがいいかもな(笑)

そしてラピダス。皆さん、私が何を申し上げたいか、もうお分かりですね。

 2026年4月時点で累計約2.4兆円もの追加支援が決定していやがる。こいつを呼び水に民間企業32社からも1,600億円以上の出資が集まっているけれど、これは「国が後ろ盾にいるから安全だ」という、中小企業には絶対にありえない「下駄」を履かせてもらっている状態だ。 

中華人民共和国の国営企業みたいなもんだ。

3. 社会の「安全網」としての不条理

物価高の折、中小企業には「数分の1」の補助率の助成金すら、複雑な書類審査で不採択になることが多々ある。

一方で、「次世代の産業のため」という名目があれば、何兆円もの税金が特定の一社に注ぎ込まれる。この「分配の歪み」こそが、多くの人が感じる「おかしい」という感覚の正体じゃないだろうか。 

「国を挙げて戦わなければ世界に負ける」という経産省の理屈は一理あるだろう。

その影で「真に日本の土台を支えている中小企業」が冷遇されている現状は、国家としてのバランスを著しく欠いているんじゃないのかい?

いわゆる「プロ経営者」といういかがわしい連中が、自分たちの懐を痛めない「税金」を使って無謀な賭けに出ているように見える今の状況は、「誰のための、何のための投資なのか」という根本的な問いを私たちに突きつけているんだ。

要はみんなから集めた金で競馬の大穴を狙って、外してもおとがめなしみたいな話なんだぜ。

国策プロジェクトには「政府保証(税金で肩代わり)」がつくのに、地元の雇用を支える中小企業には「個人保証(つまりは命で肩代わり)」を求める。

この「リスクを背負う者」と「税金で守られる者」の逆転現象は、健全な資本主義の姿とは言えないだろう。けれど、こういうやつらに限って、下々の下郎どもには自己責任だとか、競争力のない企業、体質の古い企業は淘汰されて当然だと寝言をこきやがる。

最近になってようやく、政府も「経営者保証なしの融資」を推進し始めたようだが、現場ではまだまだ中小企業の親父さん・お袋さんたちが命がけで重い責任を背負わされている。

2.3兆円もの税金を使うのであれば、そのお金の一部でも、こうした「現場の経営者のリスク軽減」や「再生支援」に回すべきだという議論が出るのは当然の流れじゃないのか。

まったく、神の見えざる手なんて嘘っぱちだ。痴漢の見えざる手のほうが、掴んでオマワリに突き出してやることができる分だけ、よっぽど確かな存在なんだろうぜ!

2026/04/23

POST#1828 神の見えざる手なんて嘘なんだよ

 

熊野新宮 大楠

朝、女房子供と入れ替わりに寝床に潜り込み、泥のように眠ったあとに目を覚ますと、『国家情報会議』と『国家情報局』の設置が、自民党、維新だけでなく、中毒改革連合、国民生活民主党、チームみらいなどの賛成多数で衆院可決したという。なんだこの圧倒的な賛成多数は?

中道や国民民主などはプライバシー保護や組織の政治的中立性の確保などが付帯決議に盛り込まれたことで、賛成に回ったそうなんだが、世の中大抵、付帯決議なんてもんなんざ、まったくその場しのぎのもんで、守られた例なんかないんだぜ!国論を二分する大問題とか言っときながら サクサク 決まる この体制翼賛会 みたいな状況は一体何なんだ?

俺は泥のように寝てる間に ドローンで釣り上げられて、ドボンと地面に叩き落とされたような気分だよ!

日本の民主主義はどうなっちゃってるんだ?熟議とか、どこにもありゃしねぇ。駆け引きの末の全会一致と、納得して歩み寄った全会一致とはまっくの別もんだよ!

そのうち大連立で救国内閣とか馬鹿ばかしいことにならねえよな?

そんな日が来たら、俺の家の前には、メン・イン・ブラックみたいな奴らが現れて、良くて太平洋のレアメタル採掘で死ぬまでこき使われて、悪くすりゃヘリコプターで海に突き落とされて殺されちまうな。ホームドアのない駅で電車に乗るときは、後ろに注意だ!(笑)


さて、経済産業省の話だ

この巨額の政府の補助金っていうのは、元をたどれば税金 なんだけんど、その税金を投入した上で この企業 が成功し、繁栄し、ドバドバ儲かったとしますよ。それは結構だけれど、結果的に補助金漬けってことは、企業の競争力を削ぐだけではないかな?

経済学の常識で言えば、「お上の補助金に頼る企業は、自ら汗をかいて工夫する意欲(競争力)を失う」ということになる。これは今日までの日本の産業政策が証明してきた「負の側面」そのものだろ?神の見えざる手だの、市場原理主義だのなんてのは、新自由主義の豚野郎が利益を独り占めするためのお題目に過ぎないんだ!まったく、モノポリーは楽しいゲームだけにしてほしいぜ!

「税金を入れすぎることで、かえって企業をダメにする」リスクについて、以下の3つの観点から整理できるだろう。

1. 「甘え」と「市場原理」の喪失

政府が巨額の資金を出すと、企業は「失敗しても国が助けてくれる(ソフトな予算制約)」という心理に陥りがちだ。

シャープやJDIの教訓からなんにも学んでないのかしら?

経営が苦しくなるたびに官民ファンドなどが資金を注入した結果、抜本的な構造改革や、市場のニーズに合わせたスピード感のある意思決定が遅れ、結局は海外勢(台湾・中国・韓国)にスピード負けして壊滅した。

経済戦争でも、即断即決の電撃戦じゃないとダメだろ?ステイクスホルダーが多くなると、いつもなかなか決まらない。次の会合に結論を出しましょうとか言ってる間に、情況は変わっちまうのさ。

そしてラテン語で早いを意味するラピダスの懸念だ。 今回も2.3兆円という「破格の軍資金」があることで、自力で顧客を開拓し、利益を出すという「民間としての飢え」が薄れないか、という批判は経済界からも出ているようだ。現ナマがあると人間余裕を感じてしまうんだ。

2. 「選別」の失敗(ピッキング・ザ・ウィナー)

政府が「この技術がくる!」と決めて1社に集中投資することを「ピッキング・ザ・ウィナー」と呼ぶらしい。しかし、東大を優秀な成績で出て官庁に入っただけの役人が、市場の未来を予測するのは非常に困難だ。

博才のないやつに、大金を持たせてカジノに送り出すようなもんだ!

政府が特定の企業(ラピダス)を「勝ち組」に指名して過保護に扱うと、他に画期的な技術を持つスタートアップや競合他社が育つ機会(公正な競争)を奪ってしまう可能性が出てくるんじゃないか?てことだ。

3. 世界的な「補助金競争」という異常事態

ただ、経産省側が主張しているのは、「今はもう、普通の市場競争ではない」という点だそうだ。

他国の現状とひかくしてみると、

①米国(TSMCやインテルに数兆円)、

②中国(国家ファンドで数十兆円)、

③欧州も同様に、国家が直接ルールを無視して現金を配る「補助金合戦」の真っ只中だそうだ。

経産省の言い分: 「他国がこれだけドーピング(補助金)をしている中で、日本企業だけ『自力で頑張れ』と言うのは、武器を持たずに戦場に送り出すようなものだ」という論理なんだとさ。

結論として、「税金投入=企業の弱体化」というリスクは極めて高いようだ。金をドブに捨てるようなもんか。

ラピダスが「かつての失敗」を繰り返さないためには、国のお金で工場を建てるだけでなく、「国の支援が切れた後も、世界中のGAFAなどの巨大IT企業が『ラピダスでなければダメだ』と言って買ってくれる製品」を、自力で作り続けられるかどうかにかかっているだろう。トヨタやソニー、ソフトバンクとかの内需だけじゃ、国内で金が流動するだけで、なんも儲からんのよ、

本当に将来性があって、世の中に必要ならば、新自由主義の皆さんが大好きな市場原理主義で言えば、市場から資金を調達できるはずだと思いますが、どんなもんでございましょう?

資本主義の原則に照らせば「本当に儲かる見込みがあるなら、民間のお金(銀行や投資家)が集まるはずだ」というのは正論だろう。

それにもかかわらず、なぜラピダスが市場調達ではなく「2.3兆円もの税金」に頼っているのか。そこには、現在の民間マネーでは解決できない3つの「構造的な壁」があるんだとさ。

1. 投資規模が「民間1社の限界」を超えている

最先端半導体の工場(ファブ)を1つ建てるには、最低でも5兆円規模の資金が必要なんだとさ。5兆円だよ、5兆円!

リスクの巨大さ: 日本を代表するトヨタやNTTですら、1社で5兆円の「博打」を打つのは株主への責任上、極めて困難なんだそうだ。きっと稟議書が通らないんだろうよ。

回収期間の長さ: 利益が出るまで10年単位の時間がかかるため、短期的な利益を求める現在の株式市場や銀行融資の枠組みでは、この規模の資金を供給しきれないんだとさ。呑気なこったぜ。

2. 「他国の政府」が市場を歪めている

これが最大の理由だけれど、いまや半導体は「自由競争」ではなく「国家間戦争」の状態にあるんだそうだ。

おかげさんで、アメリカ、中国、欧州、韓国の政府が、それぞれ数兆円単位の補助金を自国企業にジャブジャブ投入しています。まるでドーピング競争だ!ドーピング大国のロシアがいないのがさみしいな!(笑)

他国が政府資金で「安く、大量に」作る仕組みを構築している中で、日本企業だけが「民間の高い金利の資金」で戦おうとすると、最初からコスト競争で負けるのは目に見えてるんだとさ。民間投資家からすれば「不公平な試合には金を出せない」となってしまうんだ。自分たちが、儲かるときには、不公平は繁栄のリスクだと切り捨てるくせにな!(笑)まったく笑わせるぜ。

3. 「経済安全保障」という非経済的な目的

投資家は「利益」を求めてるんだが、政府は「日本が詰まないこと(生存)」を求めてるんだそうな。

もし台湾有事などで半導体が止まれば、日本のGDPは数%以上吹き飛ぶと言われている。この「最悪の事態を防ぐための保険代」は、個別の企業や投資家が負担できるものではなく、国が負うべきコスト(公共財)だと判断されているんだそうだ。

実のところ、ラピダスも「ずっと税金」でいくわけにはいかないと考えているらしい。当然だ。俺の会社だって、税金をぶっこんでほしいぜ。

今回、政府が2.3兆円の「呼び水」を出したことで、ようやくメガバンクや民間企業が追加出資や融資を検討し始めまたんだ。「国がこれだけ本気なら、倒産のリスクは低い(国が支える)」という保証がついて初めて、民間マネーが動き出した形だ。自分たちだって、さんざん政府から優遇されたり助けられてるのにな。国民の税金を原資にして!

これが「自立できない甘え」になるのか、それとも「民間の背中を押す呼び水」になるのか。運命は如何に?

2027年の量産開始時に、民間だけで資金が回るようになっているかどうかが、最大の審判の時となるだろう。俺はそうそう皮算用通りに行くわけないと踏んでるがね。

だけれども 海外の半導体メーカーはそれをやってのけてるのになぜ日本のメーカーはできないんですかね。

それは体力がない、将来性がないっていうだけの話じゃないんですかい?

結論から言えば、日本のメーカーに「体力(資金力)」と「勝負するスピード」が欠けていたのは事実だな。なぜそうなったのか、海外メーカーとの決定的な違いは以下の3点に集約されるようだぜ。

1. 投資の「桁」を読み違えた

むかしむかし、かつての日本メーカー(東芝、日立、NECなど)は、総合電機メーカーの一部門として半導体を作っておったとさ。

それを尻目に海外のTSMCやサムスンは、利益のほとんどを次世代の設備投資に回す「全突っ込み」の経営を20年以上続けたんだそうな。おかげで今や1ライン作るのに5兆円もかかるようになってしまったんじゃと。

さて、わしらの日本じゃが、どちらの会社も総合電機メーカーとして、家電や重電など他の部門も抱えていたため、半導体だけに数兆円を投じる決断ができんかったじゃ。

そうしていつの間にやら、投資競争から脱落しましたとさ。めでたし、めでたし…て、目出度くないわい!

結果として、今の民間企業1社では「追いつくための最低入場料(数兆円)」すら払えないほど体力の差が開いてしまったげな。

2. 「ビジネスモデル」の転換に乗り遅れた

今の勝ち組であるTSMC(台湾)は、自社で設計せず製造に特化する「ファウンドリ」というモデルを確立したのは、皆様ご存知の通り。

海外のAppleNVIDIAといった巨大顧客から前払金や契約を取り付けて、それを背景に巨額の融資を引き出したとさ。

それを横目に日本の皆の衆は、「自社設計・自社製造」にこだわりすぎて、世界中の需要を取り込むプラットフォームになり損ねましたとさ。

今のラピダスが税金をじゃぶじゃぶ使ってござるのは、この「20年分の遅れ」を強引にショートカットして、TSMCと同じ土俵に立とうとしているからだそうな。

出来るかな?

3. 「国策」の厚みが違った

「海外メーカーは自力でやっている」ように見えますが、実は裏で政府が猛烈に支えてきた歴史があるんだとさ。

サムスン: 韓国政府によるなりふり構わない税制優遇とインフラ支援。

TSMC: 創業期から台湾政府が筆頭株主として支え、電力・水・土地を国を挙げて提供。

現在のアメリカ: インテルなどに対し、日本以上の約8兆円規模の補助金を投入し始めています。

つまり、今の半導体競争は「企業vs企業」ではなく、「国家を背負った企業同士の殴り合い」に変質してしまいました。

厳しい現実だな。ぜんぜん、新自由主義じゃない。カールポランニーやケインズがみたなら、わが意を得たりというだろうな。

おれが、そして新自由主義者どもが「将来性があるなら民間がやるはず」というのは正論だ。

裏を返せば、「今の日本企業には、単独で世界と戦えるだけの将来性も体力も、もはや残っていない」という残酷な現実があるからこそ、国がなりふり構わず2.3兆円を投じている、というのが実態なんだ。


みんな、目を覚ませ!日本はもう経済先進国なんかじゃない!衰退途上国なんだ!


そして、ラピダスを育てるための軍資金をひねり出すために、国民の命をつなぐ社会保障費が削られていくという、この矛盾。この本末転倒。

まさに、そこが今最も激しい議論の的になっているポイントだ。「未来の産業」という大義名分の一方で、「今を生きる国民の生活(社会保障)」が削られているという現実は、あまりにもバランスを欠いているのではないかという批判だ。

この現状を整理してみよう!

1. 予算の「優先順位」の逆転

物価高で実質賃金が伸び悩む中、介護保険料の値上げや医療費の自己負担増など、国民の生活防衛ラインが後退している。官僚や学者や政治家にはこの痛みはわからない。けど、俺たちは知ってる。

「ラピダスの2.3兆円」や「防衛費の増額」には、補正予算などで即座に巨額の資金がつく!即断即決だ!

一方で、少子化対策や介護現場の処遇改善など、国民が直結して困っている分野には「財源がない」として、いつだって塩対応だ。

社会保険料の引き上げ(実質的な増税)が検討されている。冗談じゃねえ。税金のために生きてるんじゃない!

この「企業・軍事には出すが、国民には出さない」という優先順位に強い不信感が集まるのは当然だ。

いったいぜんたい、誰のための政府なんだ?

俺たち市民こそ、主権者じゃないのか?

2. 「投資」が「生活」を支える保証がない

政府の理屈は、「半導体や原発で経済が成長すれば、将来的に税収が増えて社会保障を支えられる」というものた。どっかで聞いたことがあるのに似てるな。金持ちがますます儲かれば貧乏人にもおこぼれが滴り落ちると言うトリクルダウンにそっくりな理屈だ。言っとくけど、あれは嘘だぜ!

しかし、これまでお話しした通り、過去の経産省主導のプロジェクトは失敗も多く、「2.3兆円投じたが失敗しました、社会保障は削られたままです」という最悪のシナリオが現実味を帯びている、というか多分そうなる。元も子もないとはこのことさ!

そして例え成功したとしても、その利益を享受するのは企業の株主や一部のエンジニアだけで、一般の国民には「物価高と高い保険料」だけが残るんじゃね?というのがお決まりのパターンだ。クソったれ!

3. 「世代間・分野間の奪い合い」

現在、日本は「限られたパイ(税金)」を、産業育成、防衛、社会保障で奪い合っている状態だ。

ラピダスなどの資金の一部は「借金(国債)」で賄われていますが、その返済は将来の炭素税などで国民が負担する仕組みなんだとさ。

けど「30年後の半導体自給率」のために、「今、目の前で困っている高齢者や子育て世代」の支援を削ることが、国家として本当に正しい選択なのか?

自分の胸に手を当てて、考えてみろよ。わかるだろ、このおかしさが。

「国が潰れたら社会保障も守れない」という政府の危機感も理解できるよ。けれど「国民の生活を犠牲にしてまで守るべき国家の産業とは何か」という本末転倒な不条理な情況は、コントでしかないだろ?

この「2.3兆円の重み」を考えると、ラピダスには単なる一企業の成功ではなく、「投じた税金以上のリターンを、いかにして社会保障や国民の懐に直接還元するのか」という、極めて重い説明責任が課せられていると言えるだろうよ。


まぁ、期待しちゃいないがね。悪無限さ。

2026/04/22

POST#1827 このお金はどこから湧いて出てくるんだ?それは私たちの税金です!

 

愛知県 常滑市
今日も明け方、テスラも驚く自動運転技術で車を転がして帰ってきた。

家の駐車場に車を止めたところにちょうど新聞配達が来たので、さっそく新聞を取り、くっそ重い鞄と、仕事の合間に読んでいるこれまたクッソ重い赤坂憲雄🔗の『柳田國男の発生🔗』(約一キロ、1000頁オーバー)を抱えてよろよろと家に這いいる。

で、日本で絶滅しつつある左翼の皆さんご用達、試験に出る朝日新聞の一面を見て複雑な気分になってしまった。

『殺傷武器輸出、全面解禁 政府決定 5類型の制限撤廃 戦後の抑制政策、転換』

まぁ、これが高市総理の言ってた国論を二分する問題か。何の議論もなくすんなり決まったみたいだけどね。きっと政府と国民が二分されてるんだろう。納得だ。

『戦車の砲弾爆発、3人死亡 陸自の訓練 1人重傷 大分』

自衛隊の最新鋭の戦車10式の砲塔内で砲弾が爆発したんだそうだ。想像するだけで、うんざりする。亡くなった方々は単なる3人という数字ではなく、俺たちと同じように喜怒哀楽を持ち生活に一喜一憂して生きていたのだと思うと、つくづくやりきれない想いがつのる。

俺が、海外の軍隊の武器調達担当者なら、この二つの記事を並べてみたとき、日本の兵器は信用できないから買うのはやめておこうとなるな。間違いないぜ。


さて、1週間ほど前のことだ。この左傾化偏向新聞朝日新聞を読んでいた時、経済面にあっさり触れられていた記事に目が留まった。経済産業省がラピダス🔗に6315億円の追加支援で、支援総額は2.3兆円に達するといことだ。いいなぁ、経済産業省さん太っ腹だな。俺のマイクロ法人合同会社スパークスにも資金注入してくれんかね。さらに言えば、この支援は2031年度まで続き、総額7兆円に達するんだとさ。景気のいい話だ。

Q:この2.3兆円はどこから出てきたのでしょうか?

A:私たち市民の払った税金です。わお!

なぜ経済産業省はラピタスには 2.3兆円もお金をつぎ込んでるんですかって、まっとうな感覚から考えたら、疑問に思わないか?要は富の逆再分配が繰り広げられてるんだ。

経済産業省がラピダス(Rapidus)に巨額の資金を投じている主な理由は、日本の「経済安全保障」の確保と「次世代産業の国際競争力」の維持にあるんだそうだ。

20264月時点で、政府による累計支援額は約2.3兆円〜2.4兆円に達している。

支援の主な目的は以下の通りだ。

1. 経済安全保障の強化

海外依存からの脱却

現在、最先端半導体(2ナノ世代など)の製造は台湾のTSMCや韓国のサムスン電子が独占している。

地政学リスクつまり、北朝鮮がドンパチ始めたり、中華人民共和国が満を持して台湾に信仰したりってことなんだけど、そんなことで供給が止まると、日本の全産業が停滞する恐れがあるってんで、自国での製造能力(国産化)を確保しようとしているわけだ。おかげさんで、トヨタ、ソニー、キオクシア、デンソー、三菱UFJ銀行、NTT、ソフトバンク、NECと錚々たる大企業が大旦那さんとして出資してござる。

重要物資の安定確保: 半導体は「産業のコメ」と呼ばれ、AI、自動運転、防衛装備品などに不可欠な戦略物資だ。本物のコメは減反政策復活だし、米価も下落の兆しもないけどな。

本当に有事の時には、人間に必要なのは、産業のコメより本物の米じゃないか?

半導体じゃ、腹は膨れないんだぜ(笑)。

2. 次世代技術での主導権確保

2ナノ半導体の量産

ラピダスは2027年度後半に、回路線幅が極めて細い「2ナノメートル」世代の最先端半導体の量産を目指しているんだそうだ。そいつは大したもんだ。

これに成功すれば、AIやスパコン分野で世界のトップランナーに返り咲く可能性があるんだそうだ。

90年代に世界を席巻した日の丸半導体の夢よもう一度だ。

しかし、しかしながらそもそも日本の半導体 ビジネスはアメリカによって 1度 完膚なきまでに叩き潰されてるじゃないですか?今回も結局アメリカ様にいいとこだけ持っていかれてひどい間に合うってのが、俺の予想んだけど、君はどう思う。

アメリカ国章にはワシが描かれているけれど、本当のワシはスズメバチに追われるほど臆病で、ほかの鳥の獲物を横取りするような卑しい鳥なんだ。ベンジャミン・フランクリンは猛反対して、代わりに七面鳥を推したらしいんだけど、これは賛同されなかった。かっこよくないからだろうな。

アメリカってのは全くこの国章のワシそのものだ。内心は臆病だから世界最強の武力を整える。ほかの国の資源や技術を虎視眈々と狙って、難癖をつけて横取りする。君にも思い当たるところはないか?

日本の設計能力の底上げ

経産省は製造だけでなく、富士通や日本IBMといった国内企業の「設計」も同時に支援しており、ラピダスに製造を委託するエコシステム(循環)を作ろうとしているんだそうな。

3. 民間投資の呼び水

官主導の投資

最先端半導体の工場建設には数兆円規模の莫大な初期投資が必要だわな。こんな金額は民間企業だけではリスクが高すぎるってんで、政府が「政府保証」や直接の補助金を出すことで、銀行融資や民間出資を引き出しやすくするってのもわかる。

支援額の内訳と現状(20264月時点)

累計支援額: 2.3兆円〜2.4兆円

直近の追加支援: 2026411日に、試作品の改良や解析センター設置などのため、新たに6,315億円の支援が発表されました。

政府出資 

しかも政府は補助金とは別に、政府はラピダスに1,000億円を出資しており、筆頭株主として経営を後押ししている。要は国営企業だ。中国みたいだな(笑)

この物価高の折柄、俺たち庶民の暮らしは厳しく苦しい。誰もが可処分所得を減らしている。こんな中、「なぜそんな巨額の税金を一企業に?」と感じるのは俺だけか?

その背景には、単なる産業育成を超えた「将来の日本への投資(保険)」という御大層な錦の御旗が翻っているんだそうだ。

1. 「買えなくなる」リスクへの備え

物価高の一因は、エネルギーや原材料を海外に依存していることだ。

半導体も同様で、もし台湾有事などで供給が止まれば、スマホや家電、自動車の価格が跳ね上がるだけでなく、製造すらできなくなるんだそうだ。そりゃそうだろうな。2.3兆円を投じて国内で作れるようにしておくことは、将来の「さらなる物価高騰」や「物不足」を防ぐための安全保障という意味合いが強いんだそうだ。

俺に言わせれば、この円安を何とかしろよ!って言いたいけれどね。

2. 稼ぐ力を取り戻す

今の物価高が苦しいのは、モノの値段が上がる一方で、日本人の「稼ぐ力(賃金)」が追いついていないからだそうだ。本当か?確かに日本人の生産性は低い。けれど円安や巨額の期事業内留保金、そして人を育てることなく、中途半端に人材派遣で間に合わせる風潮、これらが日本人の賃金と生産性の向上を阻んでるように俺には思えるんだがな。まぁ、世間で言われてるまっとうな建前も見ておこう。

高付加価値産業の創出

最先端半導体は利益率が非常に高く、これが国内で回るようになれば、関連企業を含めた賃上げや税収増につながるんだそうだ。寝言は寝て言え!といいたい。どうせ株主に還元されて、企業の内部留保が積み上がり、株価が上がるだけだろう。株価上がって国滅ぶだ!

過去の失敗への反省

1980年代、日本の半導体は世界シェア50%を超えていたんだが、投資を渋った結果、今の凋落を招いたんだとさ。その「失われた30年」を取り戻すための、いわば背水の陣の投資だそうだが、この時、日本の半導体に関税を課したり、ありとあらゆる手を使って叩き潰したのは、皆さんの大好きなアメリカ様だ。アメリカ様をもう一度偉大に!

3. 他国との「補助金合戦」

実は、2.3兆円という額は世界的に見ると決して突出していないんだとさ。

アメリカ: 7.8兆円(527億ドル)の補助金枠を設立。

欧州(EU: 7兆円超の投資を計画。

中国: 国家基金で数兆円規模を継続投入。

世界中で「半導体を制する者が経済を制する」という大競争が起きており、日本もこれに追随しないと、将来的に海外から高い半導体を買い続けなければならない(富が流出し続ける)という危機感があるだそうだ。

俺にいわせりゃ、すでに国富は海外にダダ洩れしてると思うんだけどな。違うのかい?俺たちの貧しさがその証だぜ。

とはいえ、これだけの巨額資金が「国民の生活にどう還元されるのか」という説明や、プロジェクトが失敗した際のリスク管理については、当たり前だけれど、厳しい目が向けられている。

しかし、東芝の原発にせよ日の丸液晶みたいに、経済産業省が1枚噛んだ話は、どれもこれも皆こけてる。日の丸液晶(JDI)やエルピーダメモリ、ルネサスなどの苦戦、あるいは東芝の経営危機や原発輸出の頓挫など、経産省が主導したプロジェクトには「手痛い失敗」のイメージが強く残っている。奴らは何をやらせても盛大にすっころぶ。そして誰も責任を取らない。

怒りに任せていては、冷静さを失ってしまうぜ。思わず殺意すら覚えるくらいだからな。

なぜ「こける」と言われることが多いのか、そして今回のラピダスや原発回帰は何が違う(あるいは同じ)なのか、冷静な視点で整理するとこうなるようだ。

1. なぜ「日の丸プロジェクト」は失敗してきたのか?

これまでの失敗には共通するパターンがあってようだ。

まず決断の遅さ。

民間なら数日で決める投資を、役所と複数の企業が合議制で決めるため、スピード感でサムスンやTSMCに負けた。

そしてしょせんは「弱者連合」

JDIみたいに経営が傾いた左前の会社同士をくっつけて、リストラを先送りしただけではどうにもならんわな。単なる延命装置だ。こんなんで企業に根本的な競争力が戻るんだったら苦労しないぜ。老人の延命装置には、高額御医療費負担額を吊り上げて、さっさと引導渡そうとするわりに、この国のお偉いさんは企業の延命には関心があるみたいだな。

致命的な市場ニーズの無視

「良いものを作れば売れる」という技術過信に陥り、顧客が求める価格やスピードを軽視した。売れないものをいくら作っても売れないってことさ。現在の技術革新は早い。後発の企業が先発の企業の技術を吸収して急速に成長し、新たな規格や技術を開発することは今や日常茶飯事だ。意思決定は遅く、軌道にり採算が取れるまでの見込みが、親方日の丸じゃ甘くなるってもんだ。

2. ラピダスに対する「今度こそ」と「懸念」

今回のラピダスへの2.3兆円は、過去の失敗を教訓に「やり方」を変えているんだとさ。

まずは今までとの違いだ。

 既存のダメになった会社を救済するのではなく、ゼロから新会社を作り、IBM(米)やIMEC(欧)といった世界トップと組む「オープン戦術」を取っているんだそうだ。

しかし裏返しに懸念(こけるリスク)もある。

2027年までに「2ナノ」という超高度な技術を確立し、かつ顧客(AppleNVIDIAなど)を捕まえられるかは、依然として「大ばくち」であることに変わりない。

3. 原発と「国民負担」の構図

原発についても、かつての「原発輸出」という成長戦略はほぼ全滅した。事故を起こして、廃炉に何百年かかるかわからない原発を買おうなんて頓馬なお人よしはいないだろう。

現在の路線は「稼ぐ」というより、「海外のガス代が高すぎて死にそうだから、国内の原発を動かしてコストを抑えるしかない」という、いわば消去法的な投資だ。

そうして、原発再稼働に執着した挙句、再生可能エネルギーの普及は遅れ、国民にもその意識は低いままだ。

懐かしの世界の亀山モデルと豪語していたシャープの液晶のように市場で負けて消え去るリスクとは別に、原発は「事故のリスク」と「廃炉・ゴミのコスト」という、失敗した時の代償が桁違いに大きいのが特徴だけどね。

結論としての見方はこうだ。

経産省が絡むとろくなことがない」という批判は、過去の数々の素晴らしいバカらしい実績を見れば非常に説得力がある。というか、ほぼ間違いなく失敗する。

今回、2.3兆円もの血税を投じているのは、「ここで失敗したら、日本は二度とハイテク産業やエネルギー自給で立ち上がれなくなる」という、官僚たちの強烈な焦燥感の裏返し何度ろう。焦るのは勝手だけど、こんな大金を大博打につぎ込んだ責任は誰かにしっかりとってもらいたいぜ。まぁ、失敗したって俺は死ぬわけじゃないけどな。

どうせ、この国には、責任を取らない責任者ばかりだし、そいつら自身にも責任を負いきれるわけがないからこそ、絶対に成功させるという命がけの必死さも感じられない。それどころか、自分の金みたいに気前よく大盤振る舞いしやがって…。みんな必死に払った税金なんだよ!たわけ!

 俺のこのモヤモヤした臍を噛む思い、君に伝わるだろうか?