ラベル VietNam の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル VietNam の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2026/05/30

POST#1863 何もかもが転倒した社会に俺たちは生きている

 

河内、越南

俺はつねづね思ってるんだけどさ、経済の拡大(成長)という手段のために、人間や社会、そして地球環境という目的(土台)が従属させられ、使い潰されている現代の構造ってのは、完全に「主客が逆転した病理」ではないかな。

この転倒した世界を180度ひっくり返し、「人間と自然の生存(ウェルビーイング)のためにこそ、経済が従属すべきである」という本来の秩序を取り戻さないと、もうこの世界は持たないぜ。これだけは断言する。こんなのあと百年続けるつもりかい?POST#1774🔗を参照してみてほしい。

いま、俺や君がさっさと取り組まないと手遅れになるだろう思想的・実践的な転換点こんなところだ。よく考えてほしい。

1. 「経済」を最下層の「手段」へと引き戻す

経済思想家のカール・ポランニー🔗が指摘したように、本来の経済は社会や自然の中に「埋め込まれた(Embedded)」一部に過ぎなかったはずだ。しかし現代は、経済が社会のルールを規定する「市場社会」へと暴走している。すでに俺たちは、資本主義経済ってのシステム以外の生き方があることすら想像できない状態に陥ってる。思考停止状態なんだ。

本来あるべき順序(エコロジカル経済学の視点)ってのは、理性的に考えればこうだろう。

地球環境(自然):すべての生命の基盤(有限)

人間・社会:自然の中で営まれる共同体と尊厳

経済:社会を豊かにするための単なる道具・仕組み

しかし、現代世界では、すべてが転倒している。このピラミッドが逆転し、経済(GDPの数値)を維持・拡大するために、自然が破壊され、人間の精神と命が削られている。これって、本末転倒していないか?

2. 「資本の自己増殖」という宗教からの脱却

現在の資本主義システムは、自転車操業のように「前年比プラス」の成長を続けなければ破綻する構造(成長の呪縛)を持っている。しかし、もう『市民』に際限なく『広告』を浴びせ、皆の欲望をあおり、劣等感を刺激し、欠乏感を注ぎこみ、『市民』から『消費者』へと変貌させて、その自尊心を破壊し、不要なものを必要だと思わせ、人生は無限に続くと錯覚させて本当に大切なことを見失わせることで成り立つ経済は、もう限界なんじゃないか?

みんな気が付いていても、もうどうに止まれないってのが正直なところかもしれないがね。

人間を資源とみなす本質とは何か。

資本が自己増殖(投資して利益を得て、さらに再投資する)し続けるためには、自然環境からの収奪と、人間からの果てしない労働搾取(時間と精神の買い叩き)が必要不可欠になる。今から百年も前に、ジョン・メイナード・ケインズ🔗は、今から100年ほどたった自分たちの孫の世代には、労働生産性の向上で、週に15時間働けば生活できる社会が来ると予言していた。POST#1767🔗参照。しかし、そうなっていないのは、なぜか。株価は最高値を更新しても、納税額が史上最高になっても、なぜいつまでも追い立てられるように走り続けないといけないのか。それは、経済システム自体の維持が社会の目的になっているからだ。

「脱成長(Degrowth)」へのシフトが必要なんだ。

経済規模の拡大そのものを目的化するのをやめ、過剰な生産と消費をコントロールし、限られた資源を全員で分かち合う「定常型社会」への移行が、地球にとっても人間の尊厳にとっても唯一の生存戦略だ。実は、人類の社会は有史以前からつい最近の産業革命まで、ずっと定常型経済だった。その状態に戻れとは言わない。けれど、社会システムの維持のために人間が道具のように使い潰される、工場の部品のように教育される、そんな社会でいいのだろうか?スマホから目を離して考えてみるべきじゃないか?

3. 「生産性」から「ケア(生命の維持)」へ

成長至上主義が「役に立つ人間(=利益を生む機械)」を称賛する一方で、人間が生きていくために本当に必要な営みは常に軽視されてた。

保育を『だれでもできる仕事だから賃金が安いのは仕方ない』と言い放ったタレントだか経営者だか判然としない男もいた。『老人は集団自決したほうがいい』と言い放った若手経済学者がいた。俺は、生涯この手の発想をする人間と与するつもりもなければ、狎れ合うこともない。まぁ、向こうも俺のことなんか構っちゃいないだろうがね。

このGNP至上主義の過熱経済を、少しでも定常経済に近づけていくために必要なのは、ケア労働の復権だと俺は考えている。

子育て、介護、医療、教育、あるいは自然環境の保全など、生命を「ケア」する営みは、数値的な効率化(機械化)に馴染まない。それは地道で、華々しい技術革新とは縁遠い世界だ。だからこそ、そこに価値を見出し、それによって経済を回す。資本を流動させる。なにも浪費されるものはない。どうせ、今後社会のビジネスの大半は、AIに置き換わっていくだろう。その時、本当に価値を生むのは、人間が人間に対して共感し、ケアすることによって生み出されるものだ。

その時は、日々近づいている。今のうちに俺たち自身の価値観を反転させていかなければいけないだろう。

どれだけ金を稼いだかではなく、どれだけ他者や自然をケアし、自らも生を全うできたか。この「生命の再生産」を中心に据えた社会構造(ケア・エコノミー)へと180度転換する必要があるんだ。

いくら金を稼いだところで、ガソリンや電気をガバガバ消費するでかい車に乗り、ブランドのロゴの付いた服をアホみたいに高い金を払って買った挙句、自らあるく広告塔になったり、車が買えるほどの高級時計を身に着ける。そんなソースティン・ヴェブレン🔗有閑階級の理論🔗で描いたような消費活動を世界中の人間がやっていたら、人間のどしょうもない見栄のために世界は破綻してしまうんだ。

子供たちが死を選び、或いはまた社会的な自殺を選んでいる現実は、そして地球が悲鳴を上げている現実は、この「経済のために人間と地球を差し出す」というシステムの物理的・精神的な限界を証明しているんじゃないか。

今、俺や君に、そして社会に求められているのは、経済の枠内での微修正ではなく、「経済を人間のコントロール下に奪い返す」という、文明史的なコペルニクス的転回だといえるだろう。

しかし、皆様お馴染みのダボス会議、つまり世界経済フォーラム🔗に集まる世界のエリートのお歴々には、そんなコペルニクス的な転換をやっちまったら、自分たちによる経済支配と割のいいビジネスが成り立たない。だから彼らは当たり障りのない耳障りのいい言葉を並べてやり過ごしている。これはあの連中に任せておいちゃ、先行きは暗いといわざるを得ないな。

社会の変動は、上から起きても碌な方向に行かない。自分たちの足場を固めて、自分たちのものの見方を変えてゆくことが先だ。俺や君たちは、その日々の営みの中で毎日歴史を紡いでいるんだ。

日本人が気づいていないか、気づいていないふりをしていることがある。

日本はすでに、先進国じゃない。低成長先進国で、なおかつ衰退途上国だということだ。

2026/05/22

POST#1855 誰かが社会を変えてくれることを待っていても、何も始まらない

 

河内、越南

22世紀まで生きるであろう今の子どもたちのために、今を生きる俺たち大人ができることは何か?どうすれば、俺たちは グッドアンセスター🔗つまり良き祖先になれるだろうか?

教育や治安維持といった個別のアプローチだけでなく、若者が未来に投資したいと思えるような経済的分配、セーフティネットの再構築、そして「生きていてよい」と実感できるコミュニティの再生という、根本的な社会構造の改革が問われているんだよな。

問題はあまりに根深く多岐にわたっている。村上龍が希望の国のエクソダス🔗の中で、『この国には何でもあるが、希望だけがない』と登場人物に語らせてからすでに30年近くが流れた。その30年は日本の失われた30年そのものだったし、俺自身にとっても地を這うようにサバイブしてきた30年だったのは言うまでもない。

とても、次の世代のことを考える余裕なんかなかった。

多くの同世代の男女が、非正規労働やギグワーカー、あるいは風俗などのアンダーグラウンド経済で生き延びることを余儀なくされた。そして、社会の分断は進み、豊かな荒廃がどこまでも広がっている。

毎度おなじみの吉本隆明の共同幻想論(自己幻想・対幻想・共同幻想)の枠組みをベースに、現代の資本主義社会が抱える最深部の機能不全を考えてみようかな。

そんな世界に生まれ、成長してきた若者の自己幻想そのものが、社会からの従順な労働者へと家畜化せよという要請によって空洞化していることも致し方ないのかもしれない。そして、その自己幻想を涵養すべき家庭もとっくに対幻想が崩壊している。親族は他人の始まりというどうしようもない精神状態に置かれている。レヴィ=ストロースの『親族の基本構造🔗』を紐解くまでもなく、かつては婚姻によって血縁関係は広がり、それに応じて地縁血縁のセイフティーネットが拡張していったものだが、パパ・ママ・ボクというWe're A Happy Family🔗に分断化している。そしてそれに伴って地域社会もコモンズも根こそぎ荒廃している。

現在の日本社会は、個人の内面(自己幻想)、最小単位の共同体(対幻想としての家族)、そして中間共同体(地域社会やコモンズ)の3つの階層すべてが同時に崩壊・空洞化している「総崩れ」の状態にあると言えるだろう。

それぞれの階層で起きている構造的荒廃は、以下のように整理できます。

1. 自己幻想の空洞化:従順な「家畜(規格品労働者)」への要請

近代教育や資本主義システムは、個人の固有の固有性(純粋な自己幻想)を認めず、市場で流通可能な「従順で代替可能な労働力」に最適化することを若者に要求し続けている。

いわば家畜化だ。

俺が子供のころから比べても、小学校で教わる内容は高度化している。また、産業界からの要請によってカリキュラムは増え続ける。神からの授かりものである人間がヒューマンいソース=人材という資源に作り替えられていくんだ。

しかし俺自身は、本当は10歳くらいまでのこどもは、ケモノのように純粋に生きることを愉しんで遊びまわればいいと思っているんだ。それによってこそ、他人を思いやる社会性や、肉体への物理的な干渉による痛み、人間関係の難しさと大切さ、そして何より見守られつつ奔放に生きることが許されることで育まれる『自己肯定感』。これらこそが、本来どんな状況に陥っても、自分を圧殺することのない自己幻想を育むんだ。

しかし、現実は残念ながら、まったく逆の方向に進んでいる。

その結果、子どもたち、そしてかつて子どもたちだった大人の内面は去勢されたようになってる。過度な管理教育、就職活動におけるマニュアル化、そして「市場価値(タイパ・コスパ)」の強要により、独自の美意識や倫理観を育むべき自己幻想が徹底的に去勢されるんだ。

君も見たことがあるだろう。大学生の頃はおかしな格好をして髪の毛を染め、ピアス丸家だった若者が、就職活動を始めた途端、ファシストの制服ような地味なスーツを着てぞろぞろ歩いている姿を。あれを見るたびに心がつぶれるような痛ましさを感じるのは俺だけか?

しかし、そうやってシステムの中に歯車として居場所を見つけることができた奴はまだラッキーだ。そこに至るまでの様々な教育課程でのふるい落としで落とされたものは、どうなる?ふるい落とされないための教育などの投資を享けられなかったものはどうなる?

その挙句の空虚な暴発だ。

自己が「社会のパーツ」としてしか定義されないため、そこからあぶれた若者は自らの存在証明を失ってしまう。その空虚さを埋めるために、闇バイトのような刹那的な犯罪=社会的な自殺への加担や、自傷行為や自己破壊=自殺へと直走ることになってしまうんだ。

2. 対幻想の崩壊:セーフティネットとしての家庭の消滅

本来、社会(共同幻想)の過酷さから個人を匿い、無条件の肯定を与える場であるはずの「対幻想(男女、親子などの親密な関係性)」が機能しなくなっている。

新自由主義の社会抑圧がこの30年続いている。労働生産性の向上に伴う利益が、内部留保として社内の口座に溜められ、株主や経営者にドバドバ注ぎ込まれるのに対して、労働者には分配されなかった。

その結果としての経済的困窮と孤立だ。家族そのものが経済的・時間的余裕を失い、互いをケアする余裕がありません。家庭は「逃げ場」ではなく、むしろ教育虐待やDV、機能不全といった「最初の抑圧の場」に変質している。

さらにそれに拍車をかけているのが、関係性の市場化だ。

マッチングアプリに象徴されるように、対幻想の領域にまで「条件による選別(市場の論理)」が浸入した結果、無条件の結びつきを結ぶことが困難になっている。

無理もない。職場や取引先なんかで見初めた女性にアプローチしようとすれば、即セクハラ認定されて、既定のルートから排除されてしまうのだ。

人と人との直接的な関係性の構築が抑圧され、排除されている中で、どうして自分を機械して受け止めてくれる伴侶を見つけることができるだろう。理解しあう前に、ハラスメント認定されるのが関の山だ。

その一方で、レールから外れたもの同士が短絡的に結びつき、所帯を作り、子どもを成し、その挙句離婚するというプロセスも、俺は実際にたくさん見てきた。そして、その構造が子供の世代にも再生産されるのもたくさん見てきた。この社会の理不尽を見続けて濁りきった二つの目玉で見てきたんだ。

こんな状況で家庭がシェルターになるわけがないだろう。まったくGimme shelter🔗って叫びたくなるぜ。

3. 地域社会・コモンズの荒廃:共同幻想の暴走と中間組織の消滅

かつて国家(大きな共同幻想)と個人(自己幻想)の間を仲介し、相互扶助の役割を果たしていた「コモンズ(共有財・地縁・祝祭などの中間共同体)」は、新自由主義的な市場化によって根こそぎ解体された。そのあとには、モナド化された個人がただ近くに暮らしているだけという、荒涼とした地域(それはもう地域社会とは言えないだろう)が広がっているんだ。

そこにはむき出しの個人しか存在していない。人々を結び付け物は交換によって流通する貨幣だけだ。社会を喪失した場所では、贈与も再分配も機能していないんだ。

個人を保護するクッション(地域、サークル、労働組合など)が消滅したため、若者は強力な「国家の要請・資本の論理」に、たった一人で生身で向き合わざるを得なくなっている。そして、たった一人で「国家の要請・資本の論理」に抗することは不可能だ。

それを逆手にとって、ハックして生きるには、とんでもない覚悟とすべての能力の動員が必要になる。意識的に経験を積んできた大人ならともかく、社会に順応することしか教育されていない子どもや、子どもから大人になったばかりの若者には難しい。なんといっても、レールから飛び降りる覚悟が必要だ。

そして、その間隙に忍び寄り、分断化された個人を絡めとるのが、トクリュウという「擬似コモンズ」だ。

本来の温かいコミュニティを奪われた若者が、SNS上のデジタルな暴力コミュニティ(闇バイト・トクリュウ)を、皮肉にも「一時的な帰属処(居場所)」として選択してしまう倒錯が起きているという、とんでもない構図だ。それは生身のコミュニケーションを伴わず、往々にしてSNS上だけでつながった幻想の『疑似コモンズ、いやむしろ偽コモンズ』だ。

こうして俺たちは包摂なき社会の着地点にたどり着く。

自己幻想が空洞化し、対幻想(家族)に拒絶され、コモンズ(地域)からも排除された人間は、もはや「社会の構成員」としての実感を持てない。社会とどうやってもつながっていない存在だ。社会とつながるのは商品を流通させるための貨幣と、実体のないSNS上でのいいね!だけだ。

現代社会は、こういった関係性という束縛からの自立こそが自由な人間だという言説を喧伝してきた。まるで神話のように。しかし、社会の関係性を持たないモナド化した人間は、いつの時代も奴隷狩りに狩り取られ、人間の尊厳を剥ぎ取られて生きることになるんだ。

ましてや、自己の中に倫理や自分の生きるマナー、つまりマイウェイという自己幻想を確立していないものは、絡めとられ、奴隷化されてしまったことにすら気が付かない。自分の意志で人生に立ち向かうんじゃなくて、ただ流されているだけなんだ。

この状態の若者にとって、社会のルールや他者の生命を守る動機(倫理)は完全に消失してしまうのも無理のないことだ。

なぜなら、「自分を大切にしてくれない社会や他者を、なぜ自分が大切にしなければならないのか」という、根源的な虚無と逆恨みが生まれるからだ。これこそが『刹那的な犯罪=社会的な自殺』の正体なんだ。

この「自己・対・共同」の全般的崩壊という、もはや一朝一夕の政策では修復不可能な段階において、俺たちはどこから、どのようにして「個人の聖域(自己幻想)」や「他者との結びつき」を取り戻すべきだろう?



まずは自分自身を社会に対して開いてゆこう。

それしかない。

誰かが社会を変えてくれることを待っていても、何も始まらない。

2026/03/19

POST#1793 20世紀型の軍事的ゾーンと21世紀型の経済的ゾーン

ベトナム、フエ
毎度おなじみレヴィストロースの本を一冊やっつけたので、クィン・スロボディアンという歴史学者の破壊系資本主義🔗(原題=Crack Up Capitalism)という本を読み始めた。みんな大好きみすず書房だ。
新自由主義が、1980年代からどのようにして国家の規制をかいくぐり、治外法権のような経済特区 ― 本文中では『ZONE(ゾーン)』と呼ばれている ― が生み出され、富裕層をひきつけ、税制や規制をかいくぐり、富裕層の投資のための開発が行われる。どこかで聞いたことのあるような話だ。スロボディアンの言う「ゾーン」は、国家の主権の中にありながら、通常の法律や民主的な手続きが「バイパス(回避)」され、特定の目的(軍事、経済、監視など)のために例外的なルールが適用される空間だ。
同じ名前のエナジードリンクとは一緒にしてはいけない。もっとも、刺激的だが、多量に服用するとよろしくないというのは一脈通じているかもしれないが。

まだ読み始めて間もないのだが、これがなかなか面白い。というかむしろ、恐ろしいシステムが富を生み出すために生み出されてしまったものだという危機感が募る。
社会の公共財=コモンズが一部の富裕層に大盤振る舞いされ、人々の生活の場はいつのまにか富裕層の底引き網漁場となってしまうという、ぞっとする現実がそこにはある。格安で富裕層に与えれる土地、投資を目的とした大規模な開発、タックスヘブンとの密接な結びつき。投資用の壮麗巨大な建築物はまるでゴーストタウン。極めつけはその特区からの民主主義の排除!

読み始めてふと思ったのだが、日本が(とりわけ沖縄が)抱えている米軍基地も、一種の軍事的なゾーンそのものだと気づいた。

スロボディアンが『破壊系資本主義』で提唱した「ゾーン(Zone)」という概念は、まさに日本の米軍基地の法的・空間的なあり方と強く響き合っている。
日本の米軍基地がその「ゾーン」と見なせる理由は、主に以下の3点に集約されるんだ。
①法的な「穴」: 
日米地位協定により、基地内は日本の国内法(労働法、環境法、航空法など)が完全には適用されない「治外法権」的な空間になってるのは皆様ご存じの通りだ。おかげさまで、アメリカ軍人のがひき逃げしようが強姦しようが、日本の法では裁けない。
これはスロボディアンが描く、国家から切り離された「特区」の構造そのものだ。

②民主主義の遮断: 
周辺住民や地方自治体が基地の運用(騒音、環境汚染、事故など)に対して異議を唱えても、国家間の合意が優先され、通常の民主的プロセスが機能しない。この「民意が届かない設計」もゾーンの特徴だ

③グローバルな結節点:
米軍基地は日本という領土にありながら、物理的には米国の戦略ネットワークに組み込まれている。アメリカの世界戦略に必要不可欠だ。今ホットな話題に事欠かないイランにも出向いてる。アメリカの最大のライバル、中華人民共和国の目の前に不沈空母のように配置されている。有刺鉄線の境界線で区切られ、外部とは異なる論理で動く「カプセル化された空間」である点は、まさに現代の破壊系資本主義が求める効率的な空間管理のあり方そのものだ。

米軍基地は、単なる軍事施設という以上に、国家主権が意図的に「割れ目(Crack)」を作らされている、日本におけるもっとも巨大で永続的な「ゾーン」であるという解釈ができる。
というか沖縄そのものが、アメリカの軍事特区にされているといっても過言じゃないだろう。
これは恐ろしく強固なもので、かつてこの流れに異を唱えた政治家はすべてつぶされた。
沖縄県の人々の民意は、ほかならぬ日本の官僚と政府によって無視されている。

さて、目を大阪に転じてみよう。
万博跡地の夢洲に計画されているIR(統合型リゾート)は、スロボディアンの定義する「ゾーン」の現代的な典型例と言えるだろう。
スロボディアンは『破壊系資本主義』の中で、国家が特定の区画を「特区(ゾーン)」として切り出し、通常の法規制や民主的手続きを停止させる現象を分析しています。夢洲のIR計画には、その特徴が色濃く現れているようだ。

夢洲IRが「ゾーン」である理由はざっと次のようなものだ。

①法の「例外状態」の創出
本来、日本の刑法では賭博は禁止されています。
しかし、IR整備法という「例外の法」を設けることで、特定の民間事業者が特定の場所(ゾーン)でだけ、本来違法であるカジノを運営することを可能にしています。これはまさに、国家が自ら法に「穴」を開けてゾーンを作る行為です。
大阪府はギャンブル中毒を啓発する動画を作っているけれど、その主人公がギャン太郎って、人間の屑感満載で絶賛炎上中だ。

②民主主義のバイパス(回避)
スロボディアンは、ゾーンの特徴として「住民の意志よりも投資家の利益が優先されること」を挙げている。結構なことだ。夢洲のIRを巡っても、公金投入(土壌汚染対策費など)や賃料の算定プロセス、依存症対策などについて多くの反対意見や住民訴訟が起きているが、計画は「国際競争力」や「経済効果」を大義名分として強力に進められている。
官僚の無謬神話か、それとも日本維新の会(大阪維新の会)のイケイケ体質なのか、どうにも止まらない。

③「島(アイランド)」という物理的隔離
都合のよろしいことに、夢洲は人工島であり、物理的に本土から切り離されている。
スロボディアンが論じるゾーンの多くも、物理的・法的に境界線が明確な「島」のような空間だ。香港やシンガポール、聞いたこともないような何とか諸島...。
一般の市民生活から切り離された場所に、独自のルールで動く巨大なエンターテインメント・経済空間が誕生する構図は、彼が描く「資本主義の割れ目(クラック)」そのものだ。

④グローバル資本による統治
大阪のIR事業主体である「大阪IR株式会社」は、米国のカジノ大手MGMリゾーツとオリックスが中心となっている。

やれやれ
日本の国内法よりも、グローバル企業の利益や国際的な投資契約が優先される空間になるという点でも、米軍基地(米国の軍事ロジック)とIR(グローバル資本のロジック)は、同じ「ゾーン」というコインの表裏に見える。気に入らないぜ。 

スロボディアンの視点から見れば、米軍基地が「20世紀型の軍事的ゾーン」であるのに対し、IRは「21世紀型の経済的ゾーン」として、日本の主権を内側から「穿孔(穴あけ)」している存在と捉えることができそうだ…。 

ふーむ、本当にこの国は独立国家なのか?
一人一人の市民からなる社会の公共財を、一部の富裕層のために使っていていいものだろうか?それとも日本が生き残る道は、こんな狭隘で卑屈な道しか残されていないのか?
俺自身は、一部の富裕層やどこかのわがままな王様のために切り売りされることを良しとする政府よりも、そしてその中で互いの権力闘争に明け暮れる政府よりも、国民の生活の向上と安寧をこそ目的として方策を尽くす政府であってほしいものだ。
そう、金を持ったろくでなしが他の人間の尊厳を踏みにじる「ゾーン」なんてまっぴらごめんなのさ。

2026/01/23

POST#1738 ノブちゃんの13回忌

世界の街角から 今日はヴェトナム、ホイアンの街角から
さて、話の続きだ。
回復著しいからとっとと退院してほしいという病院側を、包括ケアという名目で、住処を見つけるまで何とかもう少し置いてほしいという、両者のつばぜり合いをしていたら、ありがたいことに親父が菌血症になってくれたおかげで、住処を探す時間ができた。二月の半ばごろまで入院することになるということだ。
あの病気は面倒なんだ。症状が治まったと思って退院しても、横着するとすぐ発熱する。つまり、血液の中で菌が増殖してぶり返してしまうのさ。
この時点で去年2025年の1月20日。
俺としては、猫を保健所送りにするか、誰かに押し付けるかして、今の資産家の未亡人の部屋をとっとと引き払いたいんだ。一月中に。
これが他人事だとみんな思っているだろう。
だけど、人間は誰だって老い、衰えて、死ぬ。
そうすると膨大な量のガラクタが生じる。生きてる頃は生活必需品だったり、衣服だったりしたものがガラクタになるんだ。俺たちの人生は、直言すれば苦労して働いて、ガラクタをため込んでるようなもんだ。
こいつを片付けるってのは、残されたものの務めになってしまう。
他人事ではないんだ。
美しい人も、勇ましい人も、抜け目ない人も、いつかは老いくたばる。世の中死と税金からは逃れられんのよ。
俺は自分の会社の名義でレオパレスでも近所に借りてそこに放り込むことも考えた。しかし、それは単なる問題の先送りに他ならない。
弟は、損害保険の仕事のつてで、家財などの処理業者に渡りをつけてくれた。月予備の朝、来てくれることになった。よし、絶対に一月中、いやこの週末にけりをつけてやる。
あとは猫だ。
その問題が解決しないまま、1月25日の土曜日にノブちゃんの13回忌があったんだ。

信行寺という馬次郎さんのころからのお寺で法事は行われた。なんせ、仏壇はゴミ屋敷のなかだ。しかも、創価学会の仏壇があり、俺は母親の淑子さんが死ぬ前に創価学会にすがっていたので、創価学会が嫌いだった。当時は折伏とか言って彼らは熱心に布教していたし、母親を亡くしたばかりの中学生の俺に、母親の遺志を継いで学会員になるように家に押しかけえ来たりもされた。

俺は親父の家から救い出しておいた繰出し位牌と写真を持っていくことにした。あと、京都で買った牛骨を髑髏に彫って連ねた数珠とね。こいつは傾いてる。イカすぜ。

今回は俺を長男とした4人の兄弟のうち、3人がそろう。この三人が中心になって今回の一連の父の問題に取り組んできた。
俺の親父は法事が大好きだった。法事を行うといえば、親族が集まる。その中心で気分よく振舞うことができる。で、そのたびに料理屋で一席設け、皆にふるまう。ご機嫌だ。孤独な老人の楽しみだ。
俺は、そんな大盤振る舞いする余裕なんかないことを知っていたから、もう死んで何十年もたつような人の法要を行うのはやめようと父に言い続けてきた。
で、十年ほど前に一度、これからは法事はお前に任せるといって、俺が取り仕切ったことがあったのだが、この時には裏があった。
お寺から檀家に、本堂修復のために一口10万円也の寄付を求められていたのだ。たしかノブちゃんの三回忌だったんじゃないかな。
仕方ない。俺は金を工面して金封に包み、おっさま(俺の住んでいるあたりじゃ、浄土真宗のお坊様をおっさまと呼ぶんだ)に渡した。
そして父には、以後、法事はすべてお前に取り仕切ってもらうということを約束したんだ。
そう、何十年もたった人の法事はしない。法事の後に会食はしない。そもそも今時、車で来る人ばかりだから酒も飲めないし、親戚同士とはいっても、いろいろな確執もあって、責を共にしたくない人もいる。質素倹約、死者を想い出して悼む心をもちよれば十分だ。
しかし、そののち親父は、俺に黙って俺の母の淑子さんの三十三回忌をやりやがった。
すぐ下の弟にだけ告げて、お寺で俺の母親の法要をやりやがったんだ。
以来、親父とは断絶していたんだが・・・。
しかし今回は、親父は入院中でいない。あらためておっさまにあいさつし、今後とも良しなにおつきあいくださるようにお願いしてきたわけだ。

さて、自分が自分がという親父がいないと、あっさり終わる。
あっさり会食もする気もなかったので、遠方の叔父さんには、自分がしっかり務めるからお任せくださいと言って、来なくても大丈夫なように計らっておいた。年金暮らしなのに、新幹線に乗ってきて、わざわざ寒い思いをしてお経を聴き、お布施も出しておきながら、会食も無しなんて申し訳なさすぎる。
叔母たちの中には、物足りなさそうにしている者もいたけれど、久々に盛り上がりたい人たちはめいめいでやってくれたらいいんだ。
こっちは、親父の病院代がいくらかかるかわからないし(高額医療費請求があるからそこまでひどくはならないだろうけどね)、どこか住むところも探さないといけない。家財道具を処分するのもそこそこ金がかかる。どんどんノブちゃんに似てくる叔母たちに大盤振る舞いすることはできないんだ。
終わった後は、埼玉の奥地からやってきた弟もつれて、兄弟で親父のアパートに行った。
この時だ、弟が猫を埼玉の自分の家に引き取ってもいいと言ってくれたんだ。
素晴らしい!君こそMVPだ。
それともノブちゃんの13回忌をやったことで、あの世からノブちゃんが計らってくれたのか?
俺はさっそく、弟と近所のホームセンターに向かい、肩から下げられる移動用のケージをカードで買い、二人で猫を捕まえに行ったんだ。

2021/09/11

Post #1721 あの日から20年たった

あの頃、俺は当時住んでたアパートの近所の通信工事屋で働いていた。 線路わきで通信ケーブルを引っ張ったり、天井裏に潜ってLANケーブルを引っ張ったり、地下鉄や高速道路の監視カメラを点検したりしていた。 今と変わらずあくせく働いていた。
その経験は、まったくもって今も無駄になっちゃいない。
今目の前にあることに、一生懸命に取り組まない限り、自分の道は拓けないんだ。
自由になるのに簡単な道はないのさ。
Hue、VietNam

しかし、そんな話は別の機会だ。
その日は、俺の住んでいる町から60キロくらい離れた町に行って、市の駐車場管理システムの点検をしていた。ほら、街中を走っているとどこそこの駐車場は空車で、どこそこは満車とかって表示してくれるのがあるでしょう、あれだよ。
町中を車で走り回っては、表示装置の脇に陣取って、制御装置のふたを開けて、電圧測定したり、点灯確認したり、なんやかんやするんだ。センターに詰めている奴らもいる。電話でやり取りしながら、テスト表示を確認したりしなけりゃならないんだ。
安い割に骨の折れる仕事だ。
仕事を終えて事務所に戻り、歩いて家に帰るころには、すっかり暗くなっていた。
家に入ろうと俺はポケットの中から鍵を出そうとしたんだが、鍵がない。
俺はかみさん(当時はまだ籍は入っていない)が仕事から帰ってくるのをぼさっと待っていたんだ。
当時の家は、新しく建ったばかりの2DKのアパートで、引っ越してそれほどの時間が過ぎたわけではなかったはずだ。鍵交換とかで、相場より割高な費用を請求されるのも癪だ。
かみさんが帰ってくると、仕事中に鍵を落としたことを伝え、当時乗っていた青いミニクーパーを転がして、遠路はるばる探しに行ったんだ。
記憶を掘り起こし、その日仕事で回った場所を一か所づつしらみつぶしに探してみた。
しかし、どこにも見つけられない。
諦めた帰り道、高速の手前の裏道の信号待ちで、後続の車に何かを手渡しに降りたことを思い出した。
そこに鍵はあった。
信号が変わる前に戻らなけりゃって、焦っていたんだろう。
俺はほっとして、満足感に浸りながら夜道を飛ばした。腹が減っていたんだ。
携帯電話が鳴った。かみさんからだった。
「どうした?鍵ならあったよ」
「いや、そんなことはいいけど、いまTVでやってるけどニューヨークで高層ビルに飛行機が突っ込んで大変なことになってるみたい」
なんだそりゃ?いったい何が起こってる?
「こわい・・・」
「いや、そんなのきっとなんか映画のワンシーンとかじゃないの?そんな馬鹿な事あるわけないだろ」
「あ、いま二機目が突っ込んだって。怖いから早く帰ってきて」
「わかった、急いで帰るよ」
俺は電話を切った。ハンドルを握りながら、何が起こっているのかさっぱりわからねぇ、まずは自分が電柱とかに突っ込まないようにするべきだと考えた。

家に帰って、TVを見ると、ニューヨークのワールドトレードセンターに二機の飛行機が突っ込み、ペンタゴンにもハイジャックされた飛行機が向かっているということだった。
冷戦は10年も前に終わり、アメリカは当時世界唯一のスーパーパワーだった。ソビエト崩壊後の混乱が続いていたロシア、今日ほどには国力を蓄えていなかった中国。誰も、アメリカには手出しできないはずだった。
イラクのサダム・フセインなんかが威勢よく吠えてみたところで、アメリカ本土にどんなダメージも与えることはできないことは、わかりきっていた。
アメリカの経済力と軍事力に対して、正面切って戦いを挑めるものはないと思っていた。
21世紀は始まったばかりで、戦争の20世紀は過去のものになり、人類は希望に満ちた時代を迎えたはずだった。
しかし、そうじゃなかった。アメリカの敵は、国家ですらなかった。

俺は思った。『世界がその凶暴で残酷な姿を、はっきりと現し始めたんだ。時代は変わったんだ』

あの日から20年たった。その日のことを忘れたくなくて記した。
以来、今日まで混乱は続いている。地獄の釜の蓋が開いたかのように。

2021/08/26

Post #1720

偉大なるドラマー、チャーリー・ワッツが死んだ。俺がストーンズのメンバーのなかで、一番好きなのはチャーリーワッツだった。強烈キャラの持ち主が多い印象のドラマーの中で、誰よりもジェントルでスマートだった。

御年80歳。病気療養のためにツアーに参加しないというニュースを先日目にしたばかりだったが・・・。心から冥福を祈るばかりだ。

しかし、ロックはとっくの昔に死んでいた。The Whoが、奴らはロックなんて終わってるっていうけど、構うもんか、ロック万歳だ、長生きするんだ!と歌ったのは、もう50年も前だ。ロック界のレジェンド超人たちは、みんな年老いたか死んでしまった。

VietNam中部のどこか

非難囂々のフジロックで、MISIAが君が代を歌ったことが、世間様の中では賛否両論だったらしい。それについて特に俺がどうこう言う立場にない。

ロック(なのかどうかは俺としてはよくわからないけど)が国家という体制に迎合したことへの失望の声、感動したという声。それに対して、ロックに対して反抗的だとか反骨だとかいうのがすでに時代遅れだという声。

あー、ロックはもうとっくに終わってるのさ。

次々に生み出されて、一般大衆に熱烈に受け入れら、ガツガツと消費され、すぐに忘れられてしまう商品ばかりだ。CDショップにはすでにろくなCDが売っていない。アルバムを作っても、もう利益が出ないんだそうだ。そう、ロックどころかロックビジネスもくたばりつつあるのさ。

どうせ商品だろ。いまどき反骨だとか反体制なんて言ったって、商品にはならないぜ。聞くほうもやるほうも、爺さんばっかりだしな。マイジェネレーションなんていっても、年金世代さ。

少年のころ、おじさんたちが50’sとか聴いているのを見て、どうしてこんな時代遅れの音楽をいつまでも聴いていやがるんだと思ったが、今じゃ俺の世代の連中はどいつもこいつも80年代のベストヒットとか聴いている。それと全く同じだったんだと、この年になって気が付く。うちのかみさんも、車の中でSpotifyでよく聴いている。懐かしくってセンチメンタルになるぜ。

ロックが反体制だ、反骨だというイメージを勝ち得たのは、その黎明期から黄金時代にかけてが、世代交代と価値観が刷新されていく時期に当たっていたからではないだろうか。

第二次大戦後に生まれたベビーブーマーが、人口の規模拡張に伴う経済成長と、その人口に物を言わせた圧力で、先行世代への異議申し立てと新たな価値観の提示を行っていく中で、ユースカルチャー自体が、旧来の文化や社会に対して、反体制で破壊的だと感じられたからなんじゃないかと、50を過ぎた私にはわかる。まぁ、若さとは、そーいうもんでありたい。

いずれにせよ、ロックはとっくに死んでいる。でなきゃ、デイサービスとかに通っている。

俺が私淑し続けている吉本隆明は、詩なんてものは自分の心に響いた一節を刻み、生きていく糧にすればいいようなものというようなことを言っていた。

出張中なので、きちんとした引用ができないが、吉本隆明の詩の一節を心に刻んで生きてきた人間がここにもいる。たとえばこんなんだ。


ぼくの孤独はほとんど極限に耐えられる

ぼくの肉体はほとんど苛酷に耐えられる

ぼくがたおれたらひとつの直接性がたおれる

もたれあうことをきらった反抗がたおれる


これも、おれのなかではロックそのものだ。反抗だの反骨だの時代遅れとかいいたければ、言えばいい。俺は穏やかな家畜じゃないのさ。

ロックもそう、自分が気に入った曲を、心に刻み、逆境にある時、苦難の時、ひとり自分の心の中で反芻し、生きる糧としてあればいい。

偉大なるチャーリー・ワッツよ、やすらかに。

2019/02/06

Post #1714

Vietnam
世の中に満ち溢れる言説の大半は、ある意味、(あくまでも個人の感想です)に過ぎない。
最近、それがわかってきた。

もちろん、これも個人の感想だよ。

客観的に物事を記しているように見えても、大抵の言説は、論者の立ち位置によって偏ってしまう。光が恒星の引力によって屈曲するように。

あったことのない誰かの個人的感想より、自分が見たこと、聴いたこと、触れたこと、そしてそこから考えたことこそが、自分には大切なのではなかろうか。
さらには、その個人的に体験を敷衍し、万人にとって普遍的な何物かを見いだしてゆくという、自分自身の経験に立脚した地に足のついた思考こそが、僕には必要だということだ。

まぁ、50にもなって、なにを今更だけどね。

2019/02/05

Post #1713

Vietnam
12年ぶりにベトナムに行った。
決して短くはないこの時間のなか、彼の地がどう変わったのか、興味があった。

誰もがスマートフォンを持って、画面にみいっていた。それが、一番大きな変化だと感じ、うんざりした。

携帯電話という鎖から自由になった生活を夢想した。
その途端、人混みのなかで、僕の携帯電話はすられた。

世の中、うまくできてやがる。

2015/09/02

Post #1611

VietNam
贅沢な話だけれど、自分の趣味の時間が欲しい。
確かに仕事は今までになかったくらい充実している。日に日に自分が成長してゆくのを感じる。
手ごたえがあるんだ。結構なこった。もちろん、それに比例して肉体はボロボロになっていく。それも、鈍かったり鋭かったりする様々な痛みで、痛感する。

仕事は好きし、楽しい。自分が自分の思い描く男として存分に振る舞えるのが、心地よい。自分にまだまだ伸びしろがあり、一日一日成長するごとに、その伸びしろはどんどん大きくなっていくのがわかる。つまり、昨日まで見えていなかったことが、今日は見えるようになっているってことだ。

けど、そんなことはどうでもいい。

暗室に独り閉じこもり、赤い暗室照明に照らされながら、白黒反転した死後の世界の様なネガを見つめていたい。そして、それを印画紙の上に焼き付けて、新しい写真を生み出したい。

いままで撮りためてきた写真が、どれもつまらなく見えて仕方ない。

自分でつまらなく見えるのなら、君たちにつまらなく見えてしまったとしても、仕方ないだろう?

そうして、暗く小さな一人きりの部屋のなかで、自分がこの目で見てきた世界そのものに対峙したいんだ。

それは愉しくもあり、苦しくもある営みだ。
けれど、そんな時間こそ、ほんとうに自分が自分に向き合っていられる時間なんだ。そこには、君だって立ち入ることはできないさ。何しろ、とんでもなく狭いからね。

読者諸君、失礼する。いったいいつになったら、そんな孤独で豊穣な時間をもつことができるのかしら?

2013/03/04

Post #743 Midnight Bikers

VietNam
南の国に行きたいな。

おおらかに、のびのびと生きられるところに行きたいな。

どうにも最近、ケツの穴の小さな奴ばかりが、俺のまわりに現れるんで、すっかり嫌気がさしているのさ。
失礼する。

2013/01/19

Post #702 Wires and Wired

VietNam
今まで泊まったたいていのビジネスホテルには、たいてい無難なカンジの水色のUTPケーブルが伸びていて、それでLANにつながっている。モロッコやバリ島では、たいてい無線LANだったのに。だから、ノートパソコンはOKだけど、Wi-Fiモデルのタブレットはつながらない。サミシーことだ。
で、その水色のケーブルを見ながら、ぼんやり考えたのさ。
日本の景気回復のために、行政は電線地中化というのをよくやっている。
ヨーロッパなんか行くと、街の景観を守るために、たいてい電線は地下に埋められていて、職人さんはまず、敷石を剥がして、穴掘りから始めている。御苦労なこった。
しかし、日本の空は、電線がないと、物足りない。
アジアじゃ、町の美観なんてこと考えずに、ガンガン電線をひきまわしている。
極東アジアの日本の町の景観の重要にして欠かすべからざるポイントだ。俺はそう思っている。
電線地中化工事の終わった後の、スカスカした景色を見ると、そこからは人間の営みの痕跡がかき消されてしまったように味気なく感じる。
ヨーロッパは石造りの建物に刻まれた歳月の重みが、人間の営みを感じさせるけれど、ニッポンの新建材とガラスで出来た清潔で安っぽい建物から電線を消し去ると、なんだか現実感というか生活感が失われ、風景そのものが舞台の書割のように感じられる。
いや、俺だけだろうか。
駅前から電線を消し去り、喫煙者を締め出し、明るく清潔なだけで深みの無い街が増えているように俺には思えるんだ。どうだろう、君の街はどうだい。
薄暗い小路に時代遅れの小さな飲み屋が並んだような、生活感が腋臭のように匂い立つ横丁はは残っているかい?
駅前の電線に、夕暮れ時に集まり、ネオンに惑っていつまでも鳴きやまない雀の群れはいるかい?
薄暗い高架脇の電柱に、痴漢に注意の看板が張り付けられているかい?
どこの駅前も、同じようなロータリー、同じようなチェーン店の居酒屋、そしてマクドナルド。
退屈しちまうぜ。
俺が写真に撮りたいのは、人間の気配がムンムン漂う景色。それはいつかはなくなってしまうような景色だ。俺は清潔なだけで人間臭さの無い街は物足りないのさ。
少なくとも、写真を撮るとき、電線がないと少し物足りないってものさ。

読者諸君、失礼する。よい週末の夜を過ごしてくれ。俺は今夜もビジネスホテルで一人さ。退屈だよ、まったく。

2012/09/07

Post #620 どうしてこうも小忙しいのか

VietNam
歯医者に打ち合わせに、夜は夜とて浜松まで車を飛ばしてひと仕事。明日も明後日も仕事。俺には日曜日も何もカンケーないのさ。家庭サービスがおろそかになっちまうぜ。
まったく、プリントする時間なんてないッたらない。ネガをまじまじ見る時間すらない。どうなってるんだ?まいっちゃうぜ。
まぁ、正直言って、次々予定をぶっこみ過ぎる自分自身の不徳の致すところなんだけれどね。
ベトナムののんびりした男たちのように、日がな一日ぼーっとして暮らす日は来るのだろうか?
読者諸君、忙しいから失礼する。

2011/06/24

Post #223 ジンジャーエールはウィルキンソンに限るぜ

まだ6月だというのに、暑い日が続いている。本来なら、昨日で仕事がひと段落して、4日ほどうっくりできるはずだったのに、甘かった。プリントでもしながら、優雅に暮らしたかったが、それは7月の上旬までお預けだ。しかし、もし、俺のもくろみ通り何日か仕事から開放されたとしても、この暑さだ。締め切った暗室でプリントなんかしていたら、熱中症で救急車を呼ぶ羽目になってしまううだろう。俺の家は、連れ合いがクーラー嫌いなこともあって、よほどの暑さでもない限り、クーラーをかけない。こうしていても、熱をはらんだねっとりとした空気が体にまとわりつく。冷えたビールでも九いっとやるのがイイんだろうが、生憎俺は痛風もちだ。調子に乗ってビールを飲むと、痛みに転げまわることになる。それはゴメンこうむる。
VietNam
だから俺は、ビールの代わりにジンジャーエールを飲むんだ。カナダドライの甘いジンジャーエールよりも、ウィルキンソンのあの辛い奴だ。独特のガラスのビンもイイ味を醸してやがる。なかなか売っていないのが、難点だが、この夏はコンビニでウィルキンソンのジンジャーエールが売られている。
いい時代になったもんだ。もっとも、あの印象的なガラス瓶ではなく、ごく一般的なペットボトルに入っているのが残念だが、ビンを飲むわけじゃないから良しとしておこうぜ。銀行と税務署に行った帰り道、行きつけのコンビニでこいつを見つけた俺は、思わず『おお!ウィルキンソン!』と叫んでしまった。行きつけだから、お店の人もさして驚きもしないぜ。俺は近所で評判の愉快な男なんだ。
俺の友人の伊佐地の話によれば、炭酸飲料は、炭酸の働きで体の中の熱をとってくれるらしい、本当かどうかは知らないが、ジンジャーエールやコカコーラは、やはり暑いときのほうが旨く感じるもんな、一理あるのかもしれないぜ。

VietNam
この暑さは俺に、以前訪れたベトナムを思い出させる。
暑さの厳しい日中、男たちは木陰で、よれたランニング一枚で椅子に座り、涼を求めている。
日が暮れてくると、心地よい風が街路を吹き渡る。たとえその風に原付の排気の匂いが混じっていたとしても、何とも言えない気持ちの良さだ。
人々は、決して清潔とは言い難いような屋台で、楽しげに食事をとりはじめる。
男も女も、バイクに乗って夜の繁華街をクルージングしている。狭い家の中でじっとしているよりも、バイクで走り回ったほうが涼しいのだろうか?そうかもしれないな、ベトナムの庶民の家にクーラーがついてるとも思えないしな。ベトナムの皆さんのご家庭にクーラーをつけるとしたら、ベトナムに原子力発電所をガンガンおっ建てないといけないんだろう。それは、いかがなモノかな。それくらいなら、原付ナイトクルージングも悪くないんじゃないかな。
日本じゃヤンキーしかやらないような、原付2人乗りは当たり前、なかには3人乗りなんて強者もいる。繁華街のメインストリートは、あまりにたくさんのバイクが走っているため、歩いたほうが早いくらいだ。それでも、老若男女問わず、誰もかれもが夜の道をバイクで走っているようだ。そして、ヤモリも街路樹の、なぜだか白く塗られた根元を駆け回るんだ。
VietNam
また、行きたいもんだぜ。あのユルさがたまらないのさ。日本人も少しはあんなユルサを持った方がいいかもしれないな。俺はいつもそう思ってるんだ。どうにも俺たち日本人は、生真面目すぎるんだ。どうしてこんなに生真面目な国民性になっちまったんだろう…。
まぁ、そんなことはどうでもイイ。熱くて頭がぼうっとして、そんなことは考えたくもないぜ。さっぱりと風呂にでも入って眠るとするかな。
読者諸君、ごきげんよう。失礼させてもらうぜ。

2011/06/12

Post #212 Naked Eye #5

最近、つまらん!という評価が多いので、今日は写真だけ。
写真だけと言ったら写真だけ。
それじゃ、行くぜ。
Barcelona
HomeTown
HongKong
Amsterdam
Osaka
Paris
Tokyo
Turk
VietNam

Fukuoka
どうだった?つまんなかったかな?
俺は自分ではいつも面白おかしく書いているんだけどね。
それでは、読者諸君、そのうちにまた会おう。

2011/05/14

Post #182 Fragment Of Fragments #17

読者諸君、昨日はBloggerの不具合で更新できなかったんだ。今年になって毎日忙しくても更新という目標を自分自身に課していたんだが、どうしようもない。しかし、読者諸君のおかげで、ささやかながら5,000PVを達成することができたんだ。どーもありがとう!これからもどーぞよろしく!
VietNam
とはいえ、昨日は久々に早朝から仕事だったおかげさんで、夜、家に帰って来たときにはふらふらに疲れきっていたんだ。とてもブログなんて作っていられない程、疲れきっていたんだ。倒れそうだ。そう、ある意味好都合だ。こんなんじゃいずれ死んじまうぜ。俺も原子力とかで身体が動くよーな不滅のボディーがほしーぜ。鉄腕アトムみたいでイカすだろう?しこたま水を飲んでメルトダウンを防がないとな。そうすりゃ、痛風や結石の発作もおこりにくいだろうよ。
そう、俺はすっかり夜行性になっているんだ。最近じゃ、どうも午前中はチョーシが悪い。きっと血圧も低いことだろう。ますますゲージュツ家のようだ。明るい太陽たまに見るっていきおいだ。身体を壊して技に磨きがかかるってもんか。クールビズだのサマータイムだの世間は大騒ぎだというのに、困ったもんだ。
今回の震災がおこる少し前に、日本政府が産業界とタッグを組んでベトナムに原子力発電所を売り付けたそうなんだが、ベトナム人もクーラーのガンガン効いた部屋で暮らすようになるのだろうか?
それを彼の国の人々が望んでいるのなら、我々には、そんなの資源が足らなくなるから、ガマンしろよだの、日本の原発は危険だからお止めなさいなんて言う資格はないんだなぁ。まずは、自分たちのムダだらけのセーカツをリストラクションしねーと、そんな一見ごもっともだが、自分たちさえ快適なら他の連中は、どーだっていいんだって偽善まるだしの態度は人としていかがなもんだろうか?
暑い日中だからこそ、日が傾いてきたころ、街を吹き抜ける風は、涼しく感じられ心地よいのさ。たとえその風にブンブン走り回るバイクの排ガス臭が混じっていてもね。
俺はホーチミンの黄昏時を思い出す。
日が暮れ、街に夜が訪れると、メインストリートというメインストリートは二人乗りのバイクで埋まる。凄まじい排ガスと、エンジン音だ。
VietNam
熱気ムンムンだ。しかし、家の中にいても、糞っ垂れな我が国のようにクーラーがガンガン効いてて快適に眠れないんだろう。きっと下らないバラエティーなんてやってないんだろう。
凄い台数のバイクが濁流のように大通りを流れている。とてもソーカイにバイクを飛ばしているとは言い難いぜ。たいていみんなノーヘルだ。しかし、どいつもこいつも、イキイキした顔でバイクを転がしている。
そんな夏の夜の過ごし方も、たまには面白いぜ。とは言え、この世知辛い日本でやったら、スグにヤンキーと間違えられて、お巡りに追いかけられちまうぜ。
読者諸君、また会おう。よい週末を過ごしてくれ。

2011/05/08

Post #177 Fragment Of Fragments #16

本日、これといって、事も無し。
VietNam
次の旅行はインドにするのか?インド旅行は危険ではないのか?それともベトナムにした方がいいんではないのか?と家庭内で会議。呑気なものといえば呑気なものだ。しかし、これは俺と連れ合いにとっては、ヒジョーに重要な議題なんだ。ここ何日も、それに関して討議されているんだ。今夜の食事は近所のインド料理屋に行って、カレーとナンを食ってみて、もし印度旅行に行ってたとして、約1週間、朝昼晩カレーでも大丈夫かどーか検証してみたりしたんだ。何しろ俺はこう見えて、辛いものが苦手なんだ。俺の住んでる街には、カレーチェーン店ココ壱番屋の本社があるんだが、ココ壱に行けば、必ず甘口を注文する。とにかく汗がドバドバ出てきて大変なのさ。

HongKong
それはそうと、昨日の夜、闇の中車を飛ばして帰ってきたら、フロントガラスが虫の死骸だらけになっちまった。仕方がない、スタンドに行って洗車するかってんで、洗車機に車を突っ込み、連日の黄砂ですっかり薄汚れた車を小奇麗にした。車がキレーになると気分がイイってことに、自分が日本人だなぁと実感するぜ。俺の見た限り、日本人ほど車をピカピカにしたがる民族はいない。水も豊富だしな。世界には車をキレーにしたくても、おいそれとはできないところがたくさんある。車なんて単に道具だから、汚くっても気にしないってところもあるだろう。それ以前に、車そのものを以てない国のほうが、実は圧倒的に多い。
俺達日本人は、なんだかんだ言って世界で最もゼータクな暮らしをしているのさ。アメリカほどじゃないかもしれないけどね。世界中が車を持ちたがり、毎週車を洗車しようもんなら、地球の資源も水も、あっという間に底をついちまうぜ。とはいえ、車なしじゃ、今更商売できないしな。困ったもんだ。
読者諸君、また会おう。いずれにせよ俺の中では、次はアジア方面に行ってみようという流れが出来ているんだ。どこか君たちがお勧めの場所があったら、俺に教えてくれないか?

2011/05/07

Post #176 Tales from Riverside Of Mekong

総理が浜岡原発の停止を要請し、俺の住む中部地方の連中は戸惑っている。俺は賛成だが、中には景気に影響するとか心配する声もある。首都圏はとっくに計画停電を経験し、すっかり薄暗いというのに、自分たちさえよけりゃいいのか?少し暗くなったくらいで、財布のひもが固くなるなんて、まるで家畜や電照菊みたいだな。光合成でもしてんのかい?そろそろ俺たちのライフスタイルを見直す時期が来たってのが、分かってないなぁ。だいたい真夏にネクタイをするなんて、正気の沙汰とも思えないぜ。昔は開襟シャツとかあったんだけどな。パリッと糊のきいた開襟シャツに、扇子ってのも、粋なもんだぜ。
そもそも、世界中の人々が日本やアメリカの生活レベルを求めだしたなら、どうやってもエネルギーは資源は、喰いもんは足らないんだ。地球が5つはいるくらいだって言われてる。

俺は、何年も前に行ったベトナムを思い出す。
Mekong River,VietNam
ホーチミンの街の真ん中を流れるメコン川。
その西岸には、結構な都市化が進んでおり、高層ビルも立ち並び、かつてフランスによって植民地にされていた頃に、ヨーロッパのような都市計画がされていたこともあり、異国情緒が漂う。
しかし、メコン川の川端では、子供がフルチンで泳いでいたりする。カメラを向けるとにっこり笑って、飛び込んでくれたりしたっけ。
VietNam
船着き場で、フェリーに乗って、東岸にわたってみるとイイ。一回5円ほどで乗れるフェリーには、エンジンをかけたままのカブやスクーターが満載だ。排気ガスとアイドリングの音で、むせ返っている。
これが船の上だなんて、信じられないくらいだ。
徒歩の俺たちは、細い階段を上って、2階席に乗るんだ。バイクを見下ろして、川面を渡る風に、暑さを忘れるんだ。
俺は、のんびりと時間が過ぎていく感じがして、船は好きなんだ。特に渡し船ってのはいいもんだ。

そうして、風に吹かれていると、人間は、きっと温かいところで生まれたに違いないぜって思えてくる。ダラダラ汗をかきながらも、リラックスして生きていけそうだ。大昔の人間はその辺になっている果物でも食いながら、結構楽しくやっていたんだろうなんて、想像してしまうぜ。
実際に、ヨーロッパ人が、大航海時代にカリブ海だかで見つけた現地人たちには、労働という概念がなかった。
あこぎな文明人たちがそんな彼らに規律を教え、労働を仕込んで、奴隷にしようとたくらんだところ、その人々はうんざりして、子供を作るのをやめちまったり、原因不明の病気になったりして、一人残らず死に絶えてしまってて話を聞いたことがあったな。

フェリーが東岸につくや否や、エンジンをかけたままのバイクやスクーターは、一斉に飛び出してゆく。ほとんど舗装もされていないような道を、砂埃を巻き上げながら、爆走していくんだ。まるで、オートレースのスタートのフラッグが振り下ろされた瞬間のようだ。
うろうろ歩いていると轢かれてしまうぜ。
Leftbank of Mekong,VietNam
そこは、本当にタイムスリップしたんじゃないかって疑いたくなるような、素敵な村だった。
未舗装の道の両側に、粗末なバラック建てのような商店や住宅が並び、そのすぐ裏手には、緑豊かな森が横たわっている。ところどころに、南国特有のとぷんとした小川が流れている。川面には棕櫚のような木々の葉が影を落とし、その隙間から差し込んだ光が、きらきらと反射している。
時折、極彩色に彩られた小さな寺院が目に入る。
道端では、よれたランニングシャツを着たおじさんが、椅子を出して座っている。俺達の姿を見ると、何故だか軍隊式の敬礼してくれたっけ。ひょっとしたらこのおじさんはベトナム戦争の時の戦士だったのかもしれない。

子供たちの歓声が聞こえてくるので、ふと目をやると、何もないような空き地で、小学生くらいの子供たちがバトミントンをしている。
幸せそうだ。俺達からしたらとんでもなく貧乏なんだろうけど、スゲー幸せそうだ。こんなに幸せそうに遊ぶ子供を、日本ではすっかり見なくなったような気がするぜ。
俺は、なんだか涙が出てくるほどに感動してしまったのさ。その、幸せな風景に。何もないけれど、ここには幸せに暮らしている人がたくさんいるってね。
俺達は、なんでも欲しがる。1億2千万人の日本人が、飯を食っていくために、あくせく働き、必要ないものも必要だと思い込み、稼いだ金でそのガラクタを買うために、必死になって働いてる。真面目なふりを装うために、真夏でもネクタイを締めてみたりする。そして、そのために電気をガンガン使って、冷房をガンガンに効かせるんだ。OK、原発は必要なんだろう?そうやって俺たちが暮らしていくためには。けれど、そうして、死ぬほど働いて手に入れた快適な暮らし、その先にあるのは幸せなのかい?それとも、さらに何かを求める欠乏感なのかい?人間の欲望には、まったく限りがないんだぜ。バラックに住めとは言わないが、もう少し俺たちは自分自身のライフスタイルを見直してもいいんじゃないのかい?
おっと、もうこんな時間だ。さっさと飯を食って、仕事に出かけなけりゃな。そんなことほざいてる俺自身が、風邪気味の体に鞭打って働かなきゃならないとは、まったく因果なもんだぜ。
それでは読者諸君、また会おう。君たちがこれを目にする頃、俺は真っ暗な道で、車を飛ばしているだろうか?

2011/03/05

Post #111 Allergy

VietNam
本日もアレルギーと悪寒で、大事をとらせていただきます。
皆さんには、よい週末を過ごして貰いたいぜ。

2011/01/25

Post #68 世界の中心、世界の涯

君は世界の中心がどこか知っているだろうか?

別にそこで愛を叫びたいわけではないんだぜ。ただ、ちょっと聞いてみただけさ。

VietNam
どうだろう?君の頭の中には、ニューヨークとかトーキョーとかパリとか、世界中のコスモポリスの名前が浮かんでくるのだろうか?きらびやかで、富と名声に溢れた人々が、世界の行く末を議論しているようなイメージだろうか?そして、自分たちの日々の営みは、世界の中心から遠く隔たった、いわゆるヘンキョーで、どことなく卑小で、しみったれて、なんとなくみすぼらしく感じられてしまうのだろうか?もしそうだとしたら、それはとてもさみしーこったな。
それとも、この宇宙で、かつてビックバンが起こった時空を思い浮かべるのだろうか?

では、世界の涯は?

南極とか、北極とか、リスボンとかイースター島とかが浮かぶのだろうか。人の姿もないような、荒涼としたさみしー世界を思い浮かべるのだろうか。荒れ果てた大地に、高い波が打ち寄せるような、冷たい風が吹き付けるようなところをイメージするのだろうか?
それとも、光の速さで膨張してゆく宇宙の涯を想うのだろうか?

俺は世界の中心がどこにあるのか、実は気が付いているのさ。何年も前からね。必然的に世界の涯もどこにあるのか知っているのさ。

俺は写真を撮りながら、何時だって世界の中心を、世界の涯を意識しているんだ。そう、ビンビンに意識しているんだ。どうだい、スゲーだろ?

君は知っているかい?世界の中心がどこか、世界の涯がどこにあるのかを?

世界の中心は、俺が立っているまさにここなのさ。俺にとってはね。
モスクワや上海でどんな事件が起こっていようと、ニューヨークやパリで世界の行く末や最先端の文化についての議論されていたとしても、ロンドンやトーキョーで世界を揺るがすような経済取引が行われた板としても、俺にはゼンゼン関係ない。

ホント、どこ吹く風さ。カンケーないぜってカンジだぜ。
AirPort
そして、君にとっては、君が今立っているまさにそここそが、君の世界の中心、ド真ん中だ!
いいかい、どんなに世界が広大でも、俺や君の限定された意識が接することのできる世界は、君や俺の周囲にしかないんだぜ。今、ここにリアリティーを持って生きていなかったら、俺たちは世界の片隅で、パンくずでも拾ってカツカツ生きているような気分になっちまうぜ。
大事なことだから、もう一度、言わせてもらうぜ。
世界の中心は、俺や君が立っている、まさにここなんだ。

そして、世界の涯は?

賢明な諸君はもう気づいているだろう?
世界の涯とは、君や俺のすぐ横に立っている、俺や君なんだ。手を伸ばせば触れることができるすぐ身近な人々だ。どうしてかって?わかってるだろう?俺たちの住んでるこの地球は、スイカみたいに丸いんだぜ。君の気の向いた方角に向かってずっと歩いて行ってみなよ。もう気が付いたかい?
世界の涯は、地球をくるりと回った君のすぐ隣なのさ。君の大切な人が立っている君のすぐ隣こそ、世界の涯なんだ。

俺たちは、かつてないほどの情報の海に漂っているんだ。だけれど、この世界の、つまりこの人生で、実際に認識可能な世界の主人公は、いつだって自分自身だってことを、忘れちゃいけないぜ。そして、探求に値する世界の涯は、君のすぐそばにいるはずだ。声をかけてみようぜ。その人のことをもっと知ってみようぜ。心の中まで、しっかりすっかり探検してみようぜ。

OK、世界の中心から、世界の涯に向けて、レンズを向けよう。

俺たちの探求には、宇宙船もジェット機も必要ないのさ。世界の中心で、しっかり立ってる自分自身と、周囲の人や物に対する好奇心があればいいのさ。
世界はきっと驚きに満ちているぜ。

2011/01/24

Post #67 Fragment Of Fragments #11

本日、またもや多忙に付き、写真のUPのみ。
手抜きではないんだけどね…。
眠る暇すらないくらいなんで、勘弁願いたいもんだぜ。全て寝る間も惜しんで働かざるを得ない、俺の中途半端な貧しさが悪いんだ!赤貧とまではいかない。ピンク貧くらいの中途半端な貧しさだよ!
VietNam
誰か教えてくれ!この貧しさは罪なのか?
それとも何かの罰なのか?
それとも、これで俺に金がガバガバあったなら、ドバドバ使っちまって、自分も周囲も大変なことになっちまうに違いないから、これはこれで、ある種の救いなのか?
天国のお母さん、あなたからはこんな働き蜂のような僕が、どんな風に見えているのでしょうか?