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2015/05/08

Post #1493

Kathmandu,Nepal
ヒマだ暇だ、肥満児だとぼやいてばかりいたら、ポツポツと仕事がネギ背負ってやって来た。今ごろ、俺はせっせと急な仕事をやっつけている頃だ。世の中、こうでなくちゃな。
写真を撮ることは、俺自身にとって、正直楽しいといったものでは、ない。
君にとっては意外かもしれないけれど。
むしろ、神経をすり減らし、毎日ふくらはぎが痛くなるまで歩き続けるようなこの営みは、どこか後ろめたく、すっぱり止めてしまえるものなら、やめてしまいたい。これで生計を立てているわけでもないんだから。
今回の旅行でも、フィルムで40本ほど撮影してきた。
けれど、カミさんとのこともあるし、寒いし、物価が高くておいそれとカフェでお茶でもって気分になれないしで、何度も止めたくなった。それでも、やめなかったのは、俺の貧乏性、つまりここにはこの先、二度とやってくることはないかもしれない、その路地を曲がれば、何かがあるかもしれないという、しみったれた根性のなせる業だ。

けれど、報道で今回のネパールの地震による被害を目にするごとに、こういった何気ない日常的な風景の断片を、無造作に切り取って残しておくことは、実は深い意味があるのではなかろうかと、俺は自分自身に語り掛けるように言い聞かせ、この苦行のような営みから、逃げ出したくなる心をねじ伏せるんだ。

何気ない風景や生活の大切さは、失われて初めて身に染みるものだ。
それは人間関係や愛情でも同じかもしれないな。

今回のネパールの地震で、ひょっとしたら崩れた建物の下敷きになっていたのは、俺だったかもしれない。たまたま、俺があそこに行った時期が半年ほど早かっただけで、この宇宙の時間の流れから見れば、間一髪だ。
それは偶然なんだけど、おかげで君たちに、その時の写真を届けることができる。ありがたいことだ。
だから俺は、この偶然の中に、揺るぎのない必然を読み取るのさ。

人と人との出会いも、これまた偶然のようでいて、そこには必然がある。
それが縁ってもんだろうよ。

読者諸君、失礼する。

2015/04/25

Post #1480

Nepal
今日もまた旅の途中さ。世知辛い日本で頑張る諸君のために、写真をお送りしよう。

ネパールの山々を縫うようにして延びるハイウェイを、砂塵を巻き上げて走る長距離バスの窓から、ほんの一瞬目にした少年たち。
兄弟だろうか?友人だろうか?
獣道のような小道を辿り、何処に行くのだろうか?


俺は、いつも自分の写真について考える。
あるいはまた、自分の文章について考える。

俺の写真が、そしてこの下らない駄文が、君にささやかな驚きや歓びをもたらすことができるだろうかと。
見たことのない世界に暮らす人々のことについて思いを馳せる契機になりうるだろうかと。
君が悩んだりしているときに、違う視点でものを考えてみる契機になりうるだろうかと。
君が何らかの理由で悲しんでいるときに、元気づけることができるだろうかと。
そして君が、見たことのない世界や俺たちの生きているこの社会、そしてかけがえのない各々の人生のあり方について、もう少し踏み込んで考えてみるきっかけになりうるだろうかと。

大それた願いかもしれない。
けど、自分のギリギリのところで、そう願わずにはいられない。

写真の価値というのは、そう言った思いとは、何ら関わりはない。
いいものはイイし、ダメなものはダメなのは言うまでもない。
難しい言葉はいらない。
君がイイ写真だなと思えば、それはイイ写真なのさ。
君がつまらない写真だと思えば、それはダメな写真なんだ。
写真なんて、それしかない。
誰しもが批評家になる必要はないだろう?
それはあたりまえのことなんだけど、それでもなお、俺は自分のこの営みが、君に何かを無形のものを贈ることができたならと願っている。
もちろん、なんら見返りなんか望んじゃいないけどね。

それができないなら、単なる自己満足だ。
サルのせんずりだ。
阿呆らしいからとっととやめたほうがイイだろう。お互い時間の無駄って奴だ。

読者諸君、失礼する。ごきげんよう。

2015/04/15

Post #1470

Kathmandu,Nepal
俺の写真ってのは、要は盗み撮りみたいなもので、いろいろと皆の衆の権利意識が盛んになってきた現代では、非常に大きな問題をはらんでいるのは、自分でも承知しているんだ。
実際に、かつては写真の中でも一つの大きなジャンルを形成していたストリート・スナップってのは、最近ではめっきり低調だそうだ。
そりゃそうだろう、俺だって写真を撮ってて、職質されたり、警察に突き出されたり、黒人に絡まれたりしたことがたくさんある。いや、撮ってる枚数からしたら少ないくらいだろうが、実際に多々ある。
それどころか、大好きな人からすっかり嫌われて、拒絶されてしまったこともある。
写真の道は、険しいのさ。

もう10日もすれば、俺はバルセロナで、街をぶらぶら歩き回りながら、道行く人々を風のように素早くフィルムに収めていることだろう。
ごく普通の人々の、ごく普通の暮らしを、営みを、姿を、モノクロフィルムに定着させるんだ。
それは、君たちが本屋で手に入れることができるガイドブックには、決して載っていない類のものなんだ。
観光名所なんかは、もっと他の写真の上手な人に任せよう。
俺は、俺にしかできないことをやるんだ。

俺のこの営みは、今どきの常識からしたら、どうにも後ろめたいことなのかもしれないし、それを暗室で焼き付け、スキャンして、こうしてブログにUPしているってのは、決してほめられたことじゃないのかもしれない。
むしろ、犯罪者のような卑しい所業だと、君には感じられるかもしれない。
そもそも写真には、とても暴力的なところがある。暴力的でなければ、世界の本当の姿を切り取ることなんかできないのかもしれない。いやぁ、もっと考えるとすべての芸術ってのは、暴力的な要素をふうんでいるんだと思う。究極は、見る人間の意識に、暴行を加えるように揺さぶるものだから。
そもそも、カメラと銃器はとてもよく似ている。兄弟のようだ。
その証拠に写真を撮ることも、銃で撃つことも、英語では同じシュートだ。

残念ながら、さすがの俺も、この日本国内では、不審な犯罪者だと思われるのが嫌で、あまり写真を撮っていないくらいだ。もっとも、店舗工事の現場監督という男の仕事が忙しいので、のんびり写真を撮ってる余裕なんてないってのもある。
また、どうにもこうにも、日本の風景や人物が、日本全国どこに行っても驚くほどに均質化しているので、写真を撮っても、最早さほど面白くも感じられないってこともある。
これはある意味で俺の感性が鈍っているということでもあるな。

しかし、社会の変遷の激しい今の時代、実はこのストリート・スナップというのは、とても重要なことなんじゃないかと思ってるんだ。

かつて、このブログに頻繁にコメントを書き込んでくれていた若者から、あなたの写真は、きっと将来、貴重なものになるはずだっておだてられたことがあったけれど、俺もひそかにそうあってほしいと思っているんだ。

命が必ず失われるように、俺の目の前に現れた全てのものが、街並みも、かぐわしい花々も、そして何より、精一杯生きている名もない人々も、時間の流れという巨大な虚無に、いずれ飲み込まれていって、跡形も残さず消え去ってしまうんだ。もちろん、道行く美しい女性も含めてね。アンチエイジングにいくら金を使っても、すべて消え去ってしまうんだ。なんて悲しいんだ。

それを思うと、ある種の悲しみを感じないではいられない。

だから、俺は、それを惜しむのだ。
この世にある何もかもが、いとおしいのさ。

いちど失われたものは、二度とこの世に顕現することはない。
お前に、それをどうこうする責務もなければ、権限もないはずだと言われたら、もちろんそれまでなんだけど、けど、俺は自分が世界と切り結び、確かにこの人々の生きていることを見届けたという思いで、必死の思いで写真を撮っているんだ。そこには、その日そこに吹いていた風も、においも、音も、そして何より光も、ぐっと凝縮されてこめられているはずだ。

俺は決して、単なる楽しみに淫しているだけではないんだぜ。
至って真剣なんだ。ある意味、身勝手ながら、ミッション=使命とすら思っているのさ。

このためだけに、働いているといっても過言ではないし、そのためにこの自分に向いていない世の中で、恥を忍んで生きていると言ってもいいくらいだ。
できることなら、俺の目玉そのものがカメラになって、目に映った人の全てを、8インチ×10インチの印画紙に焼き付けたいくらいだ。半永久的な命を、印画紙の中に吹き込むのさ。

それよりなにより、俺は人間の顔を細部まで思い出せないという、悲しい欠陥がある。
前にも話したことがあると思うけど、どんなに大切な人も、どんなに親しい友人も、どれだけ愛している相手でも、はっきり顔が思い出せないんだ。
もちろん、その顔を見れば、瞬時に名前もどこで会ったかも思い出せるんだけど、普段はまるっきりダメなんだ。印象に残ったパーツしか思い出せないんだ。目とか、口元とか、ほくろとか、そんなものばかりさ。
だから、俺の記憶の中に出てくる人々の顔は、モザイクがかかってるみたいにはっきりしない。顔出し禁止なんだ。

それが俺には、とても悲しく、辛い。
思い出したいのに思い出せないのは、大切なものが指の隙間から流れ去ってしまったように、切ないことなんだ。わかってくれるかい?

けれど、自分がプリントした写真に写っている顔は、いつでもくっきり思い出せるんだ。
不思議なものだ。
印画紙と一緒に、自分の脳の中のある領域に、しっかりと焼き付けることが出来るみたいなんだ。
都合のいいことを言うなって思うかもしれないけど、本当さ。きっと、人間の顔を記憶する領域と、自分の写真を記憶する領域は、まったく別のものなんだろう。
できることなら、今すぐにでも君の写真を撮って、この手でプリントしたいくらいだ。

俺にとって、写真ってのは、一種の愛情表現だと思えるぜ。

だから、俺をあまり責めないでほしい。俺の一見身勝手な営みを、受け入れてほしい。できたら、君の写真を撮らせてほしい。それはきっと俺の人生の宝物になるだろう。そして、もしもいつか君が年老い、この世界からおさらばするときが来ても、それは君がこの世に確かに存在した、確固たる証となるだろう。俺は、そう信じている。そして、信じているがゆえに、反社会的だとか、非常識だとか思われても、悩みつつも写真に取り組み続けていくに違いない。この命のある限りね。

読者諸君、失礼する。俺は、自分の写真に写っているすべての人が、この世に確かに存在したという証を残したいんだ。そして、俺自身もね。

2013/03/16

Post #754 雑踏が俺を呼んでいる

HongKong
マシンのように働いているうちに、温かくなってきた。俺は上半身裸で窓を開けたままこのブログを書いている。少し前までは震え上がっていたのに、今は快適だ。

上半身裸ってのは、レッドホットチリペッパーズみたいで、ロックな体臭が漂うので、好きだ。もう少し胸板が厚けりゃ言うことなしだ。
ただし、胸毛ボーボボは勘弁して欲しいぜ。イタリア人男性のようなフェロモンが発散されそうじゃないか?ボーボボは髪の毛だけで充分だ。
こう暖かくなってくると、カメラを持って雑踏に繰り出したくなる。
俺の住んでる名古屋の町の連中も、温かくなりゃ自然と地下街からはい出してくるだろう。
昔から名古屋人は地底人みたいなもんだからな。
大昔、アラーキーも名著『写真への旅』のなかで名古屋のアマチュア写真家のグループの人々を『モグマン』つまり、モグラ人間と呼んでいたっけ。

俺は正月以来、ある会社の専属みたいにして働いているんだが、これにはもういい加減飽きてきた。会社員みたいに毎日事務所に通って働いていちゃ、いったいぜんたい何時写真を撮ったり、プリントしたりできるんだよ。俺は鎖のついた飼い犬じゃないんだぜ。野良根性が染みついているのさ。そんな風に俺を囲い込んだって、所詮社員じゃないんだから、何の保証もしちゃくれないんだろう。使い捨てさ。都合のいいようにこき使われるのが関の山さ。
冗談じゃない。そろそろトンズラしたいぜ。
雑踏が俺を呼んでいるんだ。
欲望と打算とが渦巻く街が。統一性の無い醜悪な建物と、購買欲を刺激する看板だらけの街が。ネオンと着飾った女たち。疲れ切ったサラリーマン、将来の見えない若者たち、どんな悩みとも関わりなさそうに見える子供たち。

そう、そういった有象無象の老若男女を写真に収めること、それこそが、俺の本当にやりたい仕事だ。俺のコンタックスが泣いているぜ。トライXは冷蔵庫のなかで、震え上がりながら出番を待っているんだ。Ok,もう少し待ってろよ、可愛いガラクタども!腹筋でもしてベストコンディションを保っておいてくれや!

読者諸君、失礼する。そんな思いを抱きつつも、今夜もまた夜の百貨店で、不毛な戦いを繰り広げるのさ。

2013/01/08

Post #691 カメラを持った男の怪しさに関する考察

Amsterdam
街中で仕事をしていると、昼休みなんかにカメラを持って歩いている男を見かける。
女の子がPENなんかを持って歩いていても、気にもならない。風景の中に馴化しているんだ。全然異様な感じがしない。写真が好きなの?そう、素敵ですね、とか言ってあげたくなる。どんな写真を撮っているのか、少しだけ興味が湧くが、きっと俺の好みではないと思う。
白いキャノンのズームだか328だかをカメラに取り付けている男も散見する。
俺は、あの手の存在を主張しまくるカメラは好きではない。白いデカいレンズが、撮ってます、撮ってますって自己主張を、街中にまき散らしているように感じる。風俗街の真ん中で、あんなカメラを振り回していたら、直ぐに強面のアンチャンに事務所まで引っ張られていくことになっちまうだろう。野生動物なんかどこにもいないコンクリートだらけの町中で、あんなデカいレンズを使って、いったい何を撮っているんだろう?うんと離れたところから、スナップのような写真を撮っているのだろうか?俺にはよくわからない。使ったことが無いからな?まず第一に、重くて疲れちまうぜ。
ブレッソンは、カメラを目立たせたくないので、黒いライカばかり使っていたという。ファインダーや採光窓すら黒いライカがあったら最高だと言っていてという話しすら、なんかで見たことがある。
そうだろう、そうだろうとも。
ブレッソンはきっと、写真を撮ることの中に、窃視狂的な後ろめたさが潜んでいることをわきまえていたに違いない。
デカいデジカメを持ち歩いている人のなかには、中国人も多く見かける。彼らはあからさまに観光客といったオーラを発散している。だから、何故カメラを持っているのか理解しやすい。
人は、理解できないモノには、胡散臭さを感じてしまうのかもしれない。

最近俺が見た中で最もノイジーだったのは、エプソンのRD-1だかに、Mマウントのレンズをつけて写真を撮り歩いていた男だった。彼はせわしなくせこせこ歩き回り、ふと立ち止まったかと思うと、カメラを構えて難しい顔をして、ビルの上のほうだとかを、アングルを変えながら何枚も撮っていた。
すごく変だ。
表情は真剣そのもので、その眼はどこか狂ったような真剣さに溢れている。しかし、そのレンズの狙うほうを見ても、俺にはなんもピンとは来ないんだがね。まぁ、人間の価値観や興味関心は様々だから、仕方ないか。けれど、俺ですらよくわからんのなら、世間一般ピープルに、何が面白いのかわかるわけもないんじゃぁなかろーか。分からないモノを怪しく感じるのは、世の常だ。一概に彼が間違っているわけではない。間違っているのは世間のほうだ。
しかし、そうは言ってもこの男、どうにも周りが見えていないように見受けられた。善男善女の群れの中に、静かな狂人を放り込んだようにすら感じる。
そりゃ、職質されたって仕方がない。そんな気がする。
おい、ヤバイな。俺も写真を撮って歩いている時には、そんな風に見えているんだろうか?
だとしたら、こりゃ職質されても、致し方あるまい。もっとも、俺の場合、シャブの売人かなんかと間違えられて職質されたようにも思える節もあるんだが。
しかし、不思議なことに女性(たいては俺の内縁のカミさんだけど)と一緒だと、職質されない。
男が、独りで、カメラを持って、そこいらをうろついている。そして、カメラを構えて写真を撮っている。
やはりそれがどうにも不審者とみなされ、何らかの(軽)犯罪者というか、(性)犯罪者予備軍のような印象を与えてしまうのかもしれない
どうして、写真を撮っていると、職質されるのだろうか?その答えの一端が、そこにある。
狂ったように集中して写真を撮っていると、何かしら犯罪者めいた狂気を身に纏ってしまうからなのだ。その証拠に、俺は観光客候の中国人が写真を撮っていて職質されたという話を、聴いたことが無い。いや、実際にはあるのかもしれないけれど、寡聞にして俺は聴いたことが無いぜ。
そして、もう一つ。PENとかぶら下げたカメラ女子が、写真を撮っていて、職質されたという話も、これまた聞いたことが無い。どうしてだ?
写真というのは、あくまで光学的かつ科学的(アナログ派の俺は化学的と書きたい。この違い、解ってもらえるかな?)な技術の結晶なので、男が撮ろうが、女が撮ろうが、何ら変わりない、はずだ。
しかしながら、いったい俺達ちんのついた人間がカメラを持つと、どうしてもオマワリ達を刺激してしまうのは、何故なんだ?
純粋に写真に対する狂気のなせる技なのか、それともカメラを持った男は、こっそり女性のスカートの中を撮ったりするモノだという偏見があるのか?みんながみんな植草教授じゃないんだぜ。
(もっとも俺はスカートの中の布きれよりも、そのまた中のほうに興味津々だがね。ダッハッハ!そういうこと言うから、これまた職質のフラグが経つのか?勘弁してくれよ。軽いジョーク、アメリカンジョークさ。セクハラで訴えるってのは、頼むから無しだぜ。)

そこで俺は考えた。ゲージュツなんか1ミリも理解する能力の無い、オマワリどもの職質攻撃からみをまもり、のびのび写真を撮る方法をだ。

そう、女装してカメラを持って歩いてみるってのはどうかな?

ふむ、これは新しい切り口のような気もするが・・・、どうだろう。うまく行けばするりとピンチを切り抜けられそうだが・・・、あまりに怪しすぎて、職質どころか速攻逮捕されそうだな。それはそれでなかなか面白いぜ。やれやれ・・・。

本音の話をするならば、俺としては気になるのは、やはりフィルムカメラを持っている男だ。
それも、ニコンF3みたいな一眼じゃなくて、レンジファインダーだ。あれは東京写真専門学校の学生が実習で使ってるようにも見えるから、却下。
やはり俺の好みはレンジだよ。軽やかで、如何にもスナッパーという感じがするだろう。首からぶら下げるのはダメだ。いつでも構えてシュートできるように、右手一本でホールドして、しかも人差し指はいつもシャッターにかかってる。俺の引き金は軽いんだぜってカンジさ。
そう、レンジファインダーさ。カッコよく歩き、滑らかに写真を撮り、さっと風に翻るようにすぐに歩き出す。そんなカンジがしないかい?
インドネシアであった中華系シンガポール人の男性はミノルタCLEだった。
その時、俺が手にしていたのはコンタックスG2だ。ちなみに、俺のG2はチタンカラーだ。限定盤のブラックはヒジョーに高価だったので、手に入れる気にはならなかった。いや、正直に言うと21㎜のビオゴンや、16㎜のホロゴンのブラック仕様がなかったので、買う気にならなかったのだ。パンダみたいなカメラなんて、俺の美学には合わない。
そんなことはともかく、俺達はお互いのカメラをたたえあった。デジタル全盛の今だからこそ、通じ合う心と心だ。
アムステルダムであった写真の男性は、ライカM3だった。
もちろん俺はコンタックスT3だった。日本で出会うライカのユーザーが、どことなくこれ見よがしなカンジがしてしまうのに、アムステルダムの彼は、かなりのマニアっぽい雰囲気をかもしながらも、爽やかに自然なカンジでライカを使いこなしていた。出来ることならまたどこかで会ってみたいものだ。
写真を撮ってたら職質される。夜中にクラブで踊ったら検挙される。
まったく、ケツの穴の小さいしょぼくれた世の中になったもんだぜ。
俺達はお上に家畜のように管理されて暮らすのは、まっぴらごめんさ。その役どころは、自民党LOVEな愛国主義者の皆さんにお譲りするぜ。

読者諸君、失礼する。今日は疲れてるのさ。風呂に入って体を休めたいのさ。

2012/09/20

Post #631 意味という病

HomeTown
そんなタイトルの本があったような気がするが、浅学非才な俺はそれ以上のことは思い出せない。
昔の話だ、どうでもイイだろう。
今日、うちの連れ合いと話していたら、彼女の同僚で子供の頃、不安神経症というか凄い強迫観念に縛られていたという人の話しをきいた。たとえば、横断歩道の白いところしか歩けないとか、そんな他の人から見たら全く意味の無いことにこだわってしまって、どうにも生活が成り立たないというのだ。
なかなかにそれは大変なことだ。しかし、それは実は、人間のやることには意味がある、つまり何らかの合理的な説明がつくというコモンセンスによって成り立っているという前提があっての話しだ。
意味にこだわるのは人間だけだ。無意味なことをするのも人間だけだ。
大概の動物は、大脳が発達していないので、本能というか遺伝子に刻みつけられたコードに基づいた行動しかしない。だからさ、意味の無いことなんかしないわけだ。意味の無いことをやってると、すぐにほかの生き物のエサになっちまうんだからな、そんな余裕はこれっぽちもありはしないってことだろう。
大事なことなので、もう一度言おう。意味にこだわるのは、人間だけだ。意味の無いことをするのも人間だけだ。
しかし、それはその人間自身や、周囲の人間がその行いに意味を見い出すことができないだけっちゅうことなのかもしれない。
意味から逸脱するのは、人間が人間たる証しともいえるだろう。また、行動の持つ意味に執着するのも、これまた人間の人間たる証しというモノかもしれない。だからこそ、人間であるというのは、どこか意味という病にとらわれた一種の強迫観念を生きていることなのかもしれないぞとすら、俺には思えてくる。
俺は、意味の無いと思えるようなことに、熱中しこだわる人を見ると、ある意味、その人間らしさを羨ましく思うことすらある。それどころか、逆に俺たちの生の営みの全てとは言わないが、その大部分に、大した意味も価値もないんじゃないかって思えるときもある。意味の無い会議、意味の無い書類、意味の無い商品、意味の無いプレゼン、新商品の意味の無い機能、いい人生とか、有意義な人生なんて言葉に、疑念を生じているんだよ。
それどころか、意味の無いことをすると、評価が下がり、収入の減少につながるからやらないなどというセコい料簡で生きているのなら、餌をもらうために芸をする動物と変わらないのではないかといぶかしく思うことすらある俺なのさ。
そんな時、意味などなくてよい、ただここに在るだけでよいのだと、自らのうちに風のように吹き渡る虚しさを鎮めるように、言い聞かせるようにして一人小さく呟いてみたりもする。
有能でなくともよい、むしろ無能で無価値なほうが、より人間としてあるべき姿なのではないかとすら思えてくる。有能で組織の中で価値があると評価されているような人間なんて、意味という病にすっかり冒されている小賢しいだけのまやかしの存在なのではないか、ただここに在るだけで、俺達は既に尊く、この世界そのものから祝福されているのではないかという思いが頭をかすめ、自らの中で、意味と無意味が転倒し、自分の日々の生業すらも、つくづく意味の無いことのように思え、全てが色あせてしまったように思えてならず、独りため息をつく。

さて、写真だ。
出来うれば、意味や意図から自由な写真を撮りたく思っている。
目をつぶり、めくら滅法にカメラのシャッターを押す。そうして図らずも写ってしまった写真こそ、俺は面白いと思っているんだ。
撮影した俺の気持ちや思いなんか、クソ喰らえってもんだ。
もちろん、構図だの露出だの、被写界深度だの、シャッターチャンスだの、決定的瞬間だのはとっくに忘れ去ってしまった。どうでもイイだろう、そんなこと。
まぁ、そんな世間的に意味の無いような写真を撮ることにことにこだわり続けるなんて、まったく意味なんかないんだけどね。強いて言うなら自己満足さ。光と影によって浮かびあがる印画紙の粒子にとりつかれているんだよ、俺は。
俺はいつか、まったく真っ黒に焼き潰した写真を撮るに違いない。
いや、それとは反対に強い光で真っ白に飛んでしまい、何も写っていないような写真を、君たちに届けるかもしれない。
そのとき君たちは、いったい全体、この人は何を写したんだろうかって思うに違いない。
しかし、それは今まで君たちに見せてきた写真とまったく同じものが写っているにすぎないんだ。
そう、光と影。それが写真の全てだ。
そこにはこじつけたような意味も、持って回ったような思想も何かを告発したり、宣伝したりするようなものは、何もない。無いッたら、無い。光と影が在るだけだ。あとは何もいらない。
読者諸君、失礼する。また会おう。 

2012/09/04

Post #617 自画自賛、そして俺の好きなトーン

Bruxelles
かつての森山大道や中藤毅彦のような、増感してざらりと荒れたような粒子感のある写真が好きだった。いや、今でも好きだ。どこか絵画のようですらあるそんな銀塩写真に憧れていた。
随分長いこと写真をやってきたが、結局そういう写真のトーンを自分のものにすることはできなかった。それは自分の技量の無さもあるし、自分の臆病さからきているのかもしれない。
その代りに、硬調でぬっぺりと黒がのっている写真が自分のスタイルになったんじゃないかなって思う。仕方ない。俺は森山大道の映画『≒森山大道』を見て、プリントのやり方を学んだというくらいテキトーな男なんだ。
それが結果的に、好むと好まざるとに関わらず、自分のスタイル、自分のトーンになってしまったという訳だ。
おかげさんで、最近のデジカメについている、アートモノクロモードみたいな、やたらとざらりとした写真とは、少し方向性が違うわけで、今思えばよかったんじゃないかなと思う。
俺の写真を特徴づけるものがあるとしたら、俺はこのシングルグレード印画紙4号を使い、黒っぽく焼きこんだトーンに最大の特徴があると思う。
たまに反動のように白っぽいハイキーなものも出現するが、先日も言ったようにそれはそれで好きだ。矛盾しているようだが、黒と白の両極端に振幅のデカいカンジこそが、如何にも自分らしくて好感が持てる。
両極端を抑えていれば、その中間のどこかにあるはずの中庸もしっかりそこに内包されているはずだからな。もし自分に偏ったところがあると思うなら、真逆のことをやってみればいい。周囲はあきれてあいつは両極端でよくわからないというかもしれないが、自分の中ではバランスを取ることができるだろう。
俺はそれをロックから、もっと端的に言うとThe Whoから教わった。繊細さと凶暴さ、知性と暴力性、そんな正反対のものが奏でるハーモニーちゅうやつを。余談ながらね。
俺の写真を特徴づけるモノの中には、もちろん、トーン以外にも被写体との距離感や適当なフレーミングちゅうのもあるだろう。けれど、やはり自分の写真の特徴は、このぬめっと黒っぽいトーンだと思う。
このブログを読んでくれている人の中には、俺の写真が好きだという人もいるかもしれない。(もちろん、いてくれると有難いが。)けど、一番俺の写真を好きだってのは、間違いなく俺だと思うよ。言うたらまぁ、自画自賛ってところだな。

読者諸君、失礼する。今日は仕事の最終決戦、いうたらハルマゲドンか関ヶ原みたいな日だからね。しっかり眠っておかないとね。夜中に後味の悪い夢を見て目を覚ましたからって、こんなことばかりやっていてはいけない。人間、深い休息が無ければ、フルで活動することなんてできはしないんだ。もう一度言おう、失礼する。

2012/08/26

Post #609 写真×パンクロック もしくは写真の金玉

Kyoto
お盆を過ぎても、クソ暑い。海じゃクラゲが湧いてくる頃だというのに、いったいどうなってるんだ?
赤道直下のシンガポールのほうが、よほど涼しかったぜ。
俺はちびまる子ちゃんの舞台になった清水に仕事で来ている。例によってビジネスホテル暮らしだ。日本のいわゆるビジネスホテルってのは、つまらないこと限りない。どこも同じだ。記憶にサッパリ残らない。そんなもんさ。
で、明日は現場が休工日なんで、俺は暇を持て余していた。写真を撮りに出歩こうか?いい雰囲気の飲み屋があったら、久々に一杯、キンキンに冷えたジンなんかにありつくのもいいかもしれないなぁ。イカシタおねーさんが怪しい瞳で俺に微笑みかけたりするのさ。きっとケツの毛まで抜かれちまうだろう。たまらないぜ。
が、ココ清水にはそんな雰囲気もない。とっくに現地調査済みだ。さすがは日本中の子供たちを魅了してやまない『ちびまる子ちゃん』の舞台だけある。そこら辺の爺さんが友蔵に見えてくるってもんだ。健全だ。健全きわまる。人間が人間らしく生きるためには、多少の悪徳も必要だというのに。
致し方あるまい。
最近余りの反響の無さになんだか情熱を陰らせているブログでも久々に更新してみるとするか。
今日もクソ暑かった。俺の働く工事現場には、当然クーラーなんて気の利いたものはありはしない。それどころか、風の通るような窓すらない。劣悪な労働環境だ。昭和なカンジだ。しかも、今日は思いっきりの肉体労働だった。疲労困憊だ。若いときに怠けていた報いを、今こうして受けているのだ。ざまぁみろ。
あぁ、脱いだ衣服から悲しくなってくるような臭いが漂ってくる。しかし、写真のような女性の場合は、そんな臭いどころか、きっと甘やかな匂いが漂ってくることだろう。素晴らしい・・・。俺はいくつになっても女性には幻想を抱いていたい。真実が残酷だとしてもね。
強い光が、輪郭を溶解させるような写真は、それはそれで好きだ。
その瞬間の光の強さが、生理的に感じることができる。光の熱さすら、思い出してしまう。それは遠赤外線だろうか。モノクロ印画紙は赤色光線には感光しないはずだがなぁ。
色彩豊かで、上手でキレーな写真に興味のある方は、納得いかないどころか、ご不満かもしれないな。いや、その手の向きは、はなっから俺のことはスルーだろう。いや、スルーちゅうのは、目には留まってるということなので、俺のような映像的クズ拾いのことは、見つけることすらできないだろう。写真の世界のアリですらない、水虫菌のようなものだ、クソっ!
まぁ、このあたりに、俺のやる気を減衰させる要因が潜んでいるのだが、今それをぐだぐだいっても始まらない。今は、このハイキーな写真の話しだ。
時折出現するハイキーな写真は、俺自身も最初はどうにも納得がいかなかったんだが、何時しかそれはそれとして受け入れることにした。
自分の暗室技術の未熟さと根気の無さによる結果を、むしろ一つの個性として俺は受容したんだ。
そこに、写真におけるパンクロック魂が見え隠れするわけだ。
つまり、3コードしか弾けなくても、OK。
音痴でも、がなってるだけでもゼンゼンOK。
ルールや世間の価値観なんか無視してやりたいようにやってOK!
欠点を受け入れることで、自分の個性とするという大胆な発想の転換。ポジティブシンキングだ。
フレーミング、テキトーでOK!
アレ、ブレ、ピンボケ、全然OK!
プリント、下手糞で真っ黒、真っ白でOK!
肖像権、無視でOK!
色?コダックのリバーサルが無くなった時点で、無くてもOK!
カメラ、ホントのところは写るんですで充分!しかし、それでは舐められるのでもうちょっとまともなものを使っておくことにするか。
むしろ、誰が撮ってもお上手に写真が撮れるようなカメラがジャンジャン市場に出回っている今だからこそ、天邪鬼な俺にはこのスタイルが似合ってるというものさ。
そう、誰が撮っても撮れるんなら、俺じゃなくってもイイんだからな。
俺がそんな写真を撮ってみたって、まったくのところ去勢された馬みたいなもんだ。物足りないったらありゃしないぜ。
正直言って、俺は俺の写真が大好きなんだ。毎日見ていても飽きることが無い。
去勢どころか、写真に金玉がぶら下がってるように感じるぜ。
それはどんな感じかって?
頭の中で、ウィリアム・クラインとジョニー・ロットンという二つのタマタマがブラブラ揺れながら、一つの袋に入ってセッションしているような感じだよう!
そういえば、ストーンズの『メインストリートのならず者』のジャケ写真はロバート・フランクだったなぁ。あれもよかったな。いかん、また脱線だ。

写真×パンクロック

ふとそれこそが、自分の原点だと思いつくわけだ。だから、巧くなくていいのさ。そういうのが好きな人には、もっと上手い人たちがキレーな写真を撮っているだろう。ブブ漬けでも食って、さっさとそっちに行っておくれやす。そもそも俺は女子供が喜ぶような写真を撮る気ははなからありゃしねぇんだ。はなからちょうちんさ。
思い出した。俺は俺の好きな写真を撮りたいだけなんだ!はなから自己満足じゃないか?まいったなぁ。

読者諸君、余りの暑さと反響の無さにすっかりやる気を喪失しているこの俺に、励ましのコメントでもくれないか?あぁ、ただしいつものホモはくれなくっていいぜ。俺のケツを貸してやる気はサラサラないんだ。俺はこの写真を見ても分かるように、女好きで通ってるんだ。
明日は暇潰しに静岡にでも行ってみるかな。失礼する。

2012/07/14

Post #594 フィルム写真への挽歌

Bruxelles
仕事でデジカメは使っている。そりゃもう便利この上ない。
しかし、毎度毎度言っているように、こういった写真をデジタルでやってみようとは思わないねぇ。こんな夜景を撮ったって明るくキレイに写り過ぎちまうだろう。手振れ補正なんてしてほしくないしな。気に入らなけりゃすぐに修正出来てしまうなんて、どうにも居心地が悪い。
俺は常々、イメージと違っていようが、不都合なものが写っていようが、ありのままに受け入れるものが写真だと思っているんだ。
思えば、俺がこうして拙いながらも毎日のように写真をUPし続けているのは、ある意味で日々先細り、消え去って行こうとしているフィルム写真への挽歌を詠っているようなものだ。
写真はいずれ死んで消えてゆく人々を写したものなので、どんな写真も遺影になっていく。同時に、そのフィルム写真そのものが、アマゾンの奥地に暮らす少数民族の話す言葉のように、消えていこうとしているなんて・・・。まったく挽歌そのものだ。
出来ることなら、若い人たちにフィルム写真の面白さを感じてもらうことができ、少しでもフィルム写真に取り組んでくれる仲間が増えてくれることが望みだが、俺の拙劣きわまる写真と文章じゃ、この流れに抗うどころか、一石を投じることにもならないだろう。残念なことだ。
一時期、ロモとかホルガとかのトイカメラが流行ったこともあったが、あれを入り口にしてフィルムカメラの奥の細道に踏み出していった若者など、とんと聞いたこともない。残念だ。
フィルムカメラ全盛期に、やれフィルムの粒状性がどうしたの、レンズの描写力がどうしたのと講釈を垂れていた年寄りたちも、今じゃすっかりデジタルに鞍替えしている。それどころか、新しい機種が出ると、すぐに買い替えたりする有様だ。カメラと嫁さんは新しいのに限るとか思ってるんだろうか?カメラメーカーに踊らされてるだけだって気が付けよ。
俺の近所のカメラ屋で、印画紙なんぞ注文しているのは、街中で俺一人だ。どうにもやりきれない。聞くところによれば、その店でもフィルムの集配が無くなり、俺のような物好きが出すフィルムは、宅急便でラボに送ることになったそうだ。価格に転嫁されないことを祈るぜ。なんせ、こちとら忙しくって、プリントするのが精いっぱい。フィルムの自家現像なんてとても手が回らないんだからな。
それどころか、フィルム用の現像プリント機を撤去してデジタル写真しか扱わなくなった店すらあるとも聞く。高校の写真部すら、最近じゃデジタルだ。俺に言わせてもらえば、モノクロフィルム写真こそ、写真のアルファにしてオメガ、つまり入門編にして究極なのに・・・。
俺はモノクロを自分でプリントするようになって、はじめて写真=Photographとは、光画、即ち光(=Photo)によって描かれる絵画(=graph)だと実感したんだ。こうなったら、いけるところまで俺一人でも突き詰めてやろうじゃないか。勝ち戦に加担するようなみっともない真似は傾奇者としては出来かねるというもんだ。先日もお盆の旅行に向けてトライXを注文したところだ。近い将来フィルムが無くなっちまったら、写真なんてきっとやめちまうだろう。引伸機は粗大ゴミの日に出してしまうことになるだろう。そして、フィルム写真が消えた時、写真は消え、イメージと呼ばれる画像のみが残る。それでいいのか?
まったく気分としては孤軍奮闘だ。奮闘努力の甲斐もなく、今日も涙の陽が落ちるだ。おっとこれじゃ、フーテンの寅さんだな。
読者諸君、失礼する。


2012/06/29

Post #579 Just A Woman

俺がリスペクトしてやまない偉大なる写真家、天才アラーキーこと荒木経惟は、常々、『あたしにいわせりゃ、女を撮らない写真家は一流にはなれないね』とおっしゃっている。確かに、うんざりするほどあるアラーキーの写真集には、女性を扱ったものがこれまたうんざりするほどある。21世紀の世之助だ。そう、好色一代男ね。
しかし、単なるポルノグラフィではない。それは世にあまたあるその手の雑誌や、一般的に美しいモデルをことさらに官能的に撮影した写真集とは違って、女性の本質的なところに突き刺さっている。
例をあげればきりもないが、決して美しいとは言い難い体の線の崩れた人妻を、ライフワークのように撮り続ける『人妻エロス』や、乳がんで乳房を切除した歌人の宮田みどりのヌードを撮った(彼女はその後、癌を再発させ死んでしまった)『乳房、花なり』。ストリッパーの女性の日常風景を写した『東京旅日記』、腐るほどある。
そして何より妻陽子との結婚と死別を正面から撮りきった『センチメンタルな旅・冬の旅』。これらを見ているだけで、女性の本質とは何か、考え込んでしまう。

見えるものを撮るものが写真だが、見えるものを通じて、見えないものに思いを馳せることができるのも、これまた写真なのだ。

大事なことなので、大きく書いといた。
それにあやかろうって訳ではないが、俺は女を撮るのが好きだ。

むしろ、街を行き交う女性以上に撮るべきものなんかないような気すらする。

蛇足ながら、ここ最近、出張に出てから、このブログにアップされるのは、女性の写真ばかりだと、賢明な諸君は気が付いているだろうか?別に、人恋しかったりするわけでもないが、まぁ、そんな気分って訳だ。
おっと、ホモの人は気を悪くしないでくれよな。
何故って、人間に興味があるのだが、人間には大きく分けて二通りある。一つのグループは男で、もう一つのグループは女だ。そして、神様が念入りに形作ったのは、間違いなく女だ。俺は神様のゲージュツ的な営みを素直に賛美したい。もちろん、中には里芋の煮っ転がしのような手合いもいるのは確かだが・・・。
あの美しい曲線的なフォルム。実に魅力的だ。まるで人生を駆け抜けるエアロフォルムのスポーツカーのようだ。思わず乗り回したくなってくる。
残りのもう一つのグループの皆さんは、残念ながら、余り美しくない。ごつごつしていてたり、骨ばっていたりして、どうにもいただけない。昔のボルボや冴えない営業車や実用一点張りのトラックみたいだ。あまり乗りたいとは思えないぜ。きっとサスもシートも堅くって、乗り心地もイマイチだろうよ。神様は、女を造形するのに疲れて、テキトーに捏ね上げたんじゃないかって思えてくるぜ。
あぁ、こんな事を書くと、また一部のホモの人が食って掛かってくるんだろうか。
仕方ない。
俺はホントーにそう思っているんだから。外野が何を言おうが、カンケーないぜ。
Osaka
俺はホテル帰って、シャワーを浴び、給油同然の食事をしに夜の町に出る。
外では、二人のキャバ嬢が、時代遅れの安っぽいドレスにカーディガンを羽織って、酔っ払ったようにふらふら歩いている。そして、ふざけあってお互いのミュールを、相手に蹴り飛ばしてぶつけている。呼び込みの強面のおっさんたちがそれを見てへらへら笑っている。
そして、俺はその間を悠然と歩く。
しまった。カメラをベルトに通したケースに入れておかずに、手に持っているべきだったと内心悔しがりながら、そんな嬌声などまるで聞こえていないような超然とした顔で大股に歩く。
ふと、そのうちの一人と目が合う。彼女の表情には、思わぬところを見ず知らずの男に見られたという驚きの色が浮かぶ。俺は、安っぽいネオンに照らされた女の、まだあどけなさが残る顔を、一瞬で脳裏に刻みこむ。
そんな時、俺はいつも思うんだ。

そう、彼女がどんな人生を歩み、これからどう年を重ねていくのか?どんなささやかな喜びとちっぽけな悲しみを抱えているのか?

その一瞬で、イエス様のように読み取れたならいいのにと思う。

それが出来ないから、写真を撮りたくなる。

写真は、目に見えるものを写すモノだけれど、それを通じて、写真には写らないモノに思いを馳せたい。俺はそう思う。
そういえば、大昔、俺がまだモヒカン生徒会副会長だったころ、ブルーハーツのヒロトはこう歌っていたっけな。

♫ドブネズミ みたいに 美しくなりたい
写真には 写らない 美しさが ある
だったっけ?
写真には写らない、その美しさを撮ることが出来たなら。その方法さえあれば・・・。

読者諸君、失礼する。明日も朝早い。いつもながら、こんなことをしてる場合じゃないんだ。俺は疲れ切ってるのさ。

2012/06/27

Post #577 写真は熱くならないモノさ

うぅ、つかれはてた。肉体精神ともに疲労困憊だ。今時は、身体使って、頭使って、気も使って、金は使うなってもんだ。勢い疲れもするってもんだ。だったらとっとと眠ればいいようなものだが、そうはイカン。俺にも矜持がある。そうは言っても、いくら出張してるからといって、朝昼晩とセブンイレブンのお世話になっているってのは、どうんなもんだろう。いただけないねぇ。
で、昨日の夜のことだ。もそもそと宿でTVを見ながら、肉団子弁当を詰め込んでいた。TVではNHKのクローズアップ現代がやっていたんだ。俺はほとんどNHKしか見ない。芸人と呼ばれる連中が内輪ネタで笑い転げたりするようなものを見ているほど、俺は暇じゃない。俺はもっと真剣なコメディーが好きなんだ。真剣に馬鹿なことをやるという姿勢に好感が持てる。人間、そうでありたい。
で、現代社会の様々な問題に焦点を当てる硬派な報道番組が取り上げていたのは、脱法ドラッグだった。
Tokyo
こんなに浮浪困憊すると、ユンケルとかを通り越して、そんなものに頼りたくもなるのは気持ちとしては分かるが、酒もドラッグも、いかなる問題も解決はしてくれない。むしろ、問題の原因になりがちだ。俺は問題が生じると、宇宙から見れば、取るに足らない問題だし、俺にとって大問題でも、いずれは死んでゆく身だから、まぁ、なるようになればいいと自分に言い聞かせる。
もし俺がロックミュージシャンだったら、アシッドをキメテ、フルテンでギターを鳴らすと、スゲーもんができるような気がするかもしれない。
しかし、俺は写真を選んだんだ。残念ながら、写真に選ばれた訳ではないがね。
写真は、らりぱっぱーになってちゃ、撮ることもできない。モチロン、プリントすることもできない。集中力と持続力、空間認識力と空間構成力が求められる。訳の分からん化学物質によって脳みそをかき回された状態で、そんなアビリティーは発揮できないってもんだぜ。
若い頃さんざんクスリをやりまくっていた忌野清志郎も、イイおっさんになった後には、『ドラッグでできるもんなんかたかが知れている』とおっしゃっておいでだった。Ok、俺もイイおっさんの年齢だ。本当にそう思うよ。ゲージュツ家には丑三つ時が大切だなんてことも言っていたな。一人夜中にプリントしていると、ビシバシに冴えわたって、自分が天才になった気がしてくるほどだ。まったく丑三つ時サイコーってカンジだぜ。
天才アラーキーはカッコいいことを言っていた。記憶によって再現すれば、『写真は熱くならないんだ。どんなに熱くなっても、シャッターの音でさめちゃうんだよね』そんな様な事を言っていたっけな。確かにそうかもしれないと思う。
まったく今更、脱法ドラッグなんてアホらしくて付き合っちゃいられないぜ。そんなもんで浮かれてちゃ、写真道楽はできっこないんだ。善人ぶって言ってるんじゃない。熱い心と冷静な頭脳と、俊敏且つ持久力の備わった身体。俺の思い描く写真にはそれらが全て必要なんだ。とはいえ、パイプでタバコを吸ってると、そういう人に見られがちな俺なんだが・・・、まったくいやになっちまうぜ。

読者諸君、失礼する。明日も俺にはキツイ男の仕事が待ち受けている。たまらないぜ。

2012/06/22

Post #572 Print It Black

何やら、猛烈に眠い。ならばこんなことしてないで、とっとと眠ればいいだけの話しなのだが。しかし、夜が明けたら雨の中、車を飛ばして出張しなけりゃならないというのに、まだ何の準備もしちゃいないんだ。図面だって、しっかり見ておきたいしな。けれど眠い。眠ってしまったら、全てが水泡に帰してしまう予感がする。マズい。
そもそもどうしてこんなに眠いのかと言えば、昨日の夜というか今朝だなほとんど、朝の5時までプリントをしていたからだ。で、一日ダラダラしていたわけではなく、朝から税務署に行き、書類を書かされ他のを皮切りに、激しー雨の中を走り回って金にもならん仕事のようなものをしていたためだ。
自業自得だ。阿呆らしい。しかし、手元に印画紙が20枚ちょっとだけ残っていたんだよ、使い切ってしまいたくなるだろう?たったの20枚だぜ?それくらいあっという間に片が付くと思って、始めたのが午前1時、で、終わったのは午前5時ってことだ。そこからシャワーを浴びて3時間ほど眠ってたわけだ。道楽門を一人にしておくと、自滅するまで、紙が無くなるまで終わらないんだ。サルのせんずり状態だ。やれやれ、道理で眠いわけだ。
HomeTown
ここんとこ、ヒマだったのでプリントばかりしている。ここ最近で、400枚以上の印画紙を使ったことになるだろう。本当に阿呆らしい。金と暇がいくらあっても足りないぜ。
しかも、どれもこれも真っ黒だ。最近、今まで以上に焼きが濃くなっている。時には白っぽくハイキーになったものもあるが、多くはご覧のように真っ黒だ。さすが、かつて師匠から『印画紙の無駄!』と総括されただけのことはある。大いなる無駄=過剰な蕩尽こそ文化だと信じている俺からすると、ある意味褒め言葉だけどね。
黒い写真が好きだ。
白い部分があると、写真のリアリティーが損なわれているような気がする。最近、以前にもまして執拗に焼きこんでいる。以前よりも愛用のローデンシュトックの銘玉ロダゴン50㎜(念のために言っておくけれど、引伸ばしレンズだよ)ちゃんの絞りを一段開けることもしばしばだ。チキンランのように、印画紙に光を当て続けている。真っ黒になってしまうとビビったら、負けだ。
そして、一見つぶれてるような黒が、よく見ると微妙につぶれてないってのが、イイんだよなぁ。
この黒っぽさ。まるで、大昔の汗と唾がしぶきとなって飛び散る、ギトギトのソウルミュージックのような黒さ。これがイイのさ、これがサイコーなのさ。
とはいえ、読者の皆様に生のプリントをお見せできないのは、実に残念だ。残念きわまる。
しっかり焼きこんだプリントそのものの放つ、独特のヌメッとした光沢と質感の大半は、プリントをスキャンした時点で取りこぼされてしまう、ように感じる。その意味では、毎日毎晩飽きもせず、君たちにお見せしている写真は、実は俺の写真の抜け殻だということもできるだろう。それはどこか、中国産のうなぎのように味気ない。哀しいことだが、それはイカンともしがたいんだよ。
天才アラーキーも、『写真と女には湿り気がないといけない』みたいなことを言っていた・・・気がする。どうだったっけなぁ、あの人スグにセクハラまがいの発言をするんで、俺が勝手に思い込んでいるだけかもしれへんけどね。まぁ、要はそういうこった。蛇足ながら、開高健は『女と釣り師は濡れたがる』と言ってたっけ。

デジタルでモノクロも結構ですが、うちではやってません。他所に行っておくれやす。だって、濡れてないんだもん。
くっさい臭いのする薬品が綾なす化学反応の力を使って、えいやっ!ってプリントするのが好きなんだ。分かってくれ。一見するとデジタルのモノクロもアナログのモノクロも、同じように見えて、実はあれはまったく違う別物なんだ。クリケットと野球ほどは違わないが、野球とベースボールほどには違う。
俺は最近モノクロアナログ写真は、写真という言葉よりも光画(つまりPhotGraphの直訳だわね)と読んだ方がしっくりくるくらいだ。あぁ、最近はデジタルはイメージっていうのか?じゃぁ、写真でもイイか。
赤い暗室電球の灯りの下、現像液の中に素早くぶち込んだ印画紙に、ジワリと像が浮かび上がり、ちょいと目を離したすきに、グングン黒くなって、何が何だか分からないぜ!ってくらい黒い写真が出来上がるテキトーな感覚。
たまらん。魔術的な時間だ。むらむらしてくるくらいだ。変態と誤解されてしまいそうだ。まぁ、いいけど。
暗闇の中でものを見るという、一見矛盾した行為を通じて、写真は形を与えられる。
まるで錬金術だ。
つまらないモノでも、四角い枠に切り取ってしまえば、写真となってしまうこの錬金術のような営み。
まさに錬金術だ。
ふむ、触れたものが次から次に黄金に代わる古代ギリシャの王様のようだ。これこそが俺の行きついたスタイルだし、これこそが写真のアルファにしてオメガなんだって思えてくるぜ。ヤバい薬をやってるんじゃない、コレクトールと酢酸と、スーパーフジフィックスを使ってるだけだ。おかしくなってるのは、脳内麻薬の所為だろう。
いかん、眠いと支離滅裂なことを際限なく垂れ流してしまう。眠った方がいい。脳を休めるんだ。
よし、最後にひとつだけ。ストーンズの名曲、Paint It Blackをもじって、君たちに大きな声で言おう。『Print It Black! 黒く焼け!!』

読者諸君、失礼する。合言葉はもちろん『Print It Black』だ。さて、ひと眠りしたらシャワーでも浴びて、出張の準備しよう!

2012/06/01

Post #551 今日も飽きずにプリント三昧

今日もヒマに任せてプリント三昧だ。フィルム2本、34カットプリント。服にも髪にも指にも、酢酸だか定着液だか、現像液だか、何だかよくわからんにおいが染みついている。大変なこった。
制作意欲が旺盛なんだ。高校の写真部の若造一個小隊にも引けを取ることはないだろう。いや、もしかしたら、今時の高校の写真部には暗室なんて面倒臭いもん無いに違いない。デジカメのほうが、手間もコストもかからないからな。時代は変わったぜ。俺がモヒカン高校生の頃は、かび臭い旧校舎の一角にもうけられた写真部の暗室に、ちょくちょく遊びに行っていたもんだが・・・。今ではそんな暗室すらないのかもしれないな。デジタル暗室という奴か。21世紀はなんだってデジタルだ。昔ながらのアナログな手法には、ケミカルならではの味わいちゅうもんがあると思ってるんだが・・・・。
もっと多くの人々がケミカルな写真に興味を持ってくれれば、印画紙の値段もフィルムの値段も、少しは下がってくれることだろう。しかし、それは無理というものか・・・。
そんなことはまぁイイ。今言っても始まらない。そんなことより、我が家は毎晩、印画紙を乾燥させるために、床が大変なことになっているんだ。
いつも24枚までは、以前イギリスの写真用品メーカーであるパターソンに直接発注して買ったラピッド・プリント・ドライ・ラックってのを2個使って、少ない面積で印画紙を乾燥させることができるのだが、最近、どうにもそれでは足りないこともしばしばだ。そんな時は、新聞紙を広げて、その上に写真を並べておくんだ。重ならないように気を付けろ、重なっちまうと印画紙同士でくっついてしまうんだ。厄介なことになる。これには細心の注意が必要だ。もちろん、夜中にトイレに行くときには、寝ぼけてうっかり踏ん付けたりしないようにしないとな。まったく気苦労が絶えないんだ。その点、このパターソンのラックは、そんな気苦労も必要ない。便利なもんだ。もし君がプリントをする人なら、一度使ってみることを勧めるよ。

そんなわけで仕方無く、ビックカメラの通販サイトでこれをもう一つ注文してしまった。
いや、これはホントーに便利なラックなんだ。要はプラスチックのパーツを連結しただけの簡単なものなんだが、これが実際使ってみると、非常に便利なんだ。こんなもん、その辺の町工場でも作れそうなもんだが、どうにも日本では、こんな物作っても、誰も欲しがる奴がいないと見えて、類似するような商品はない。それどころか、店頭で扱ってるのも見たことが無い。いや、正直言って、ビックカメラのオンラインショップが扱っていたと知って、素直に驚いたぜ。ただし、入荷次第発送ということなんで、いったいぜんたい、何時俺の手元に届くことやら・・・。まぁ、イイか。
Osaka
しかし、ホントーに引きこもり状態だ。今日のお出掛けと言えば、クリーニングやに行ったついでに、近所のカメラ屋に印画紙の注文をしに行ったくらいだ。そんな勢いでプリントし続けなければ、まだまだプリントしたいネガは、何十本とある。印画紙だって、千枚、二千枚とかいう単位で必要だろう。
いったい、いつになったらすべてカタをつけて心安らかに暮らせるんだろうか。これはこれで、結構金もかかるんだがな・・・。まぁ、何とかなるだろう。

読者諸君、失礼する。結構な週末を過ごしてくれたまえ。

2012/05/21

Post #540 プリントをすると心が落ち着くんだ

Marrakech,Morocco
今日は仕事の予定もなかったんで、久々にみっちり腰を落ち着けてプリントに取り組んだ。モロッコの写真がネガ一本分、そして長いこと放置されていた大阪の写真をネガ一本分合わせて35枚。
そういえば、この大阪の写真を撮影したころに、俺はこのブログをはじめたんだった。感慨深いな。いや、自分の無精を反省すべきか。
プリントをするのは、いつも始めるまではおっくうだ。なにしろ貧乏所帯なんで専用の暗室なんかがあるわけでもない。とにかく準備に手間がかかるんだ。掃除だってしておかないとな。ホコリは大敵なんだ。やってみればわかるさ。ホコリが舞って、ネガに付着するとだねぇ、ホコリも引伸ばされてしまうんだ。どうなると思う?そう、せっかくのプリントに陰毛が乗っかってるような筋が入るんだ。これにはいつもとうんざりだ。それに、部屋の片づけもしておかないと、水洗した印画紙を乾かすスペースも無い。とにかく手間がかかるんだ。
しかし、始めるといろんな心の中のモヤモヤも忘れて没頭できる。暗くて狭いあの環境が良いのか。確かにそれもあるだろう。しかし、俺はいつも焦燥感を感じているんだ。仕事をしていても、ホントーに自分がやるべきことはこれじゃないと感じている。そう、本当にやるべき事、それはプリントだ。
何より、今までに撮影したネガの中には、まだまったくプリントしていないものがゴマンとある。こんなことじゃ、死ぬに死ねないってもんだ。
ぶっちゃけて言えば、これをすべて片付けようと思うと、時間も金もべらぼうに必要なんだ。金は稼げばいいだろう。しかし、時間は?俺の人生、何時唐突に終わるかどうか分かったもんじゃないんだぜ。もちろんそれは、俺だけに限ったことじゃないがね。だから、いつも焦ってる。暇を見つけてプリントすればいいだけの話しなんだが、なかなかその暇がねぇ・・・、大きな問題なんだよ。そんなことだから、何時だって心穏やかでいられないんだ。
だから今日は、充実した時間を過ごすことが出来て、非常に満足だ。
出来のほうはまぁまぁだ。しかし、俺はプロじゃないから、つまりコレで飯を食ってるわけじゃないから、出来不出来なんて、自分が良ければ何でもイイんだ。それでこそ、芸術家っぽいというもんだろう?そもそも、写真の良し悪しなんか、見る人間が決めることで、俺がプリントする時には、何ら関わりないだろう。
まぁ、要はあれだ、俺はプリントをすると心の中のわだかまりも忘れて、充実した時間を過ごすことができるってことがいいたいんだ。まったく以て結構なことだ。君も試してみるがいい。何かを自分でつくりだすこと、それが大切なんだ。本当に生きてるって思えてくるぜ。

読者諸君、失礼する。例によって今日の写真はまた明日以降お届けしよう。なにしろ乾燥中だからな。

2012/05/05

Post #524 疲労のどん底からつまらない写真を送ろう

何やら悲壮感が漂ってくる。疲れているのは確かだが、死ぬようなことはない。死ぬにはまだ早い。どうせいつか死ぬんだ。しかし、それは今日じゃない。死にそうだぜ、とか言ってるたびに死んでいたら、それこそ命がいくつあっても足らないぜ。
しかし、その疲労で転がっている俺から、今日もつまらない写真を皆の衆にお見舞いするぜ。
Someday,Somewhere
久々に、森山大道の本を読むでもなく、つまむようにして眺めていたら、写真を撮る量と欲望の量は比例するというようなことが書いてあった。
まさしくその通りだと思う。とすると、写真をガンガン撮ってるような奴は、とんでもなく欲求不満なのか?うむ、あながち間違ってもいない気がするぞ。
俺がおねーさんをよく撮るのは、年頃のキレイなおねーさんにちやほやしてもらいたいっていう切実な欲望の表れなのか?しかし、そんなおねーさんたちにだけは、仲よくしてもらえないんだなぁ・・・。偏屈な年寄り、好奇心いっぱいの子供、とっくに盛りを過ぎたおばはん、金の無い若者。そんなのばかりが俺に声を掛けてくる。どうなってるんだ、いったい全体?
読者諸君、俺は寝る。夢で逢いましょう!

2012/05/04

Post #523 つまらない写真至上主義

などと、大きく振りカブってしまったが、今日は別段力みもしないさ。
なんて言ったって、仕事が長引いて、さっき帰ってきたばかりだ。お疲れなのさ。年齢を感じるぜ。マカか凄十でも飲んだ方がイイのか?冗談じゃないぜ、笑わせるぜ。
HomeTown/Gifu
俺はよく女性の写真を撮る。女好きだと思われている。結構なことだ。
ココ日本では、好色は人間臭さをUPさせる要素の一つと捉えられている。俺も死んだら道楽院好色居士とか気の利いた戒名を付けて欲しーくらいだ。とはいえ、写真はモノクロばかりで好色には程遠いか?
俺が女性を好んで撮るわけは、女性こそ、俺の想像力(妄想力ではないはずだ・・・)をかきたててくれる存在だからだ。ということにしておいてくれないか?それに比べて、男ってのは面白みのない奴らが多いもんだねぇ。
とはいえ、極上のモデルを雇って自分のイメージに合わせた写真を撮るのは、ゴメン蒙る。俺からすると、それはそんなに面白い事とは思えない。もちろん知り合いには、そういう道楽が高じて、自宅にスタジオまで作ってしまった重病人もいるし、それを非難も批判もするつもりはない。むしろ楽しそうでいいなぁとおもっているんだ。しかし、俺向きではないのさ。俺の街では、モデル撮影をすると称して、派遣された女の子をやっちまおうとした挙句、拒まれて本当にぶっ殺しちまった変態もいたっけな。
だから、そこいらで写真を撮っているわけだ。すると、誰でもどこかで見たこのあるような、つまらない写真が出来上がる。しかし、心配ご無用、構うもんか。俺はつまらない写真至上主義者なんだ。

読者諸君、失礼する。俺には休息が必要さ。ついでに言うと潤沢な資金もね。

2012/05/03

Post #522 ダメ押しのようにつまらない写真をお送りしよう

うぅ、疲れた。世間様は休日を愉しんでいるというのに、俺は男の仕事が山場だった。立ち続けて、足が重い。勢い眠りたくもなってくるというもんだ。読者諸君、分かってくれるかな?
にもかかわらず、つまらない写真を今日もお送りしよう。
HomeTown/Nagoya
仕事に倦み疲れた俺の手元に、アマゾンから一冊の写真集が届いた。
中平卓馬『Circuration Date,Place,Events』(OSIRIS刊)だ。
これは凄い。まさに写真の極北だ。
この写真集の概要は、既にこの写真集のカバーに日本語と英語で以下のように併記されている。
『1971年、パリ。世界各国から若い芸術家たちが参加したビエンナーレを舞台に、中平卓馬は『表現とは何か」を問う実験的なプロジェクトを敢行する。「日付」と「場所」に限定された現実を無差別に記録し、ただちに再び現実へと「循環」させるその試みは、自身の写真の方法論を初めて具現化するものだった。』(Circuration カバーより)
若き日の中平は、日本代表の一人として参加したこのビエンナーレの期間中、毎日パリの町中を歩き回り、無差別にシャッターをきり、毎日200枚もの写真を現像プリントし、展示し続けた。そして、その写真を見ている人々もまた、写真におさめられ、新たな展示物として、一連の写真の中に循環されていったのだ。そして、最終的には1500枚に及んだ写真は、さまざまな事情により、中平自身の手によって、会期の終了を待たずにすべて剥ぎ取られたという。その行為自体がいかなるいきさつによるものであれ、それは写真が双方向的なメディアであり、なおかつコンセプチュアルアートにすらなりうるものだと示しているように俺には思える。

写真とは、なにか。表現とは、何か。
その根源を突き詰めていくような写真の集積。

ここには無論のこと、キレイな女の裸も、可愛らしい猫も、絵葉書のように気の利いた風景も、決定的な瞬間も、何も写されてはいない。そんなもんが何も写っていない、ただ日常目にする風景のシーケンスの集積といっても過言ではない。世間一般の写真好きの中でも、この写真集に対する評価は、ある種の踏み絵のように別れることだろう。仕方ない、可愛らしい動物の写真集やアイドルの写真集ばかりが売れる日本だ。

疲れた体を引きずるようにして帰ってきた俺は、何をさておき、この写真集をまじまじしみじみと眺め、味わった。詳しいことは近いうちにまた話そう。いや、話さないかもしれないけれど、これは凄い写真集だ。君が写真に興味があるんなら、ぜひ一度見て見て欲しい。つまらない写真がたくさん並んでいる。写真に意味などないことを、そして、何かに意味があるのなら、あらゆるものに意味があるという逆説的な何かを訴えかけてくる。語れば語るほどに、迷宮に迷い込んでいくような感覚に陥る。確かに写真の極北だ。
まぁ、ムツカシーことを抜きにして、俺はここにある意味でパンクな写真の在り方を見てしまうんだけどね。そんなの俺だけだろうけども。
さぁ、俺は風呂にゆっくりつかって疲れた体を癒やすんだ。そして、深夜もう一度、この写真集を開いてみるんだ。写真の極北は遠い。しかし、それは確かに存在する。
読者諸君、失礼するぜ。しかし、一晩に200枚もの写真を現像・プリントするなんて驚異の体力だなぁ。疲れたなんて言ってられないぜ、きっと。

2012/04/30

Post #519 今日もまたつまらない写真をお送りしよう

HomeTown
今日もまた、つまらない写真をお送りしよう。
道端に転がる、壊れたサンダルだ。世間一般の常識に照らせば、これはまぁ、ゴミだろう。
こんなゴミを、写真に撮る意味を云々するのは、言うなれば野暮というものだ。気になったんだから仕方ないだろう。
昨日に続いて、俺自身はこの写真がつまらない写真だなんて、これっぽっちも思っちゃいないんだがな。君はどう思う?俺が気に入っているのは、地面を覆うブロックの、粟立つような質感だ。
今日で四月も終わりだ。早いもんだ。俺はこの歳月の流れゆく速さが、まったく以てつまらない。子供の頃は、もっと時間が濃密に流れていたような気がするんだが・・・。それだけ年をくっちまったってことか。歳月は無情なものだ。写真は、その無情さに抗う手段の一つだ。
読者諸君、失礼する。お風呂に入って、とっとと眠るさ。なにせ明日も仕事だからな。我ながら、御苦労なこった。

2012/04/29

Post #518 つまらない写真を君に送ろう

ひょんなことから休みをとることができた。ゆっくり眠ったり、夕暮れの道をコウモリを追いかけながら散歩したりして、人間らしく暮らしたぜ。
さて、今日は君たちにつまらない写真をお送りしよう。とはいえ、俺自身はこれっぽっちもつまらない写真とは思っちゃいないんだがね。
HomeTown うちの近所、だったと思う。
この写真がつまらないと感じる方は、多いんじゃないだろうかと思うんだ。他人のアルバムにのっているどうということのない写真よりも、さらにどうということが無い風景だ。特に思い入れが無ければ、こんな風景、つまらないだろう。もちろん、俺自身にも、この家に対して何の思い入れもないけどね。この写真を撮った時のことなど、かれこれ一年ほど前のことだし、つい先日プリントするときまで、こんな写真を撮っていたとことすら忘れていた。もちろん、プリントする候補にも挙げていなかったカットだったんだが、ふと気になってプリントしてみた。
何が気になったかって?
まったく特別人の気をひくようなものが写っていないって事が気になったんだ。
しかし、にも関わらず、俺はこれをフィルムにおさめた。そこに何か引っかかるものを感じてプリントしたって訳だ。
その時の気持ちなんてまったく覚えていない。つまり、他者なる自分が撮った、意図不明のカットに魅かれて、プリントしてみたわけだ。そして、出来上がったプリントを見て、大いに気に入った。
写真には意味なんてないということを、所詮写真なんて俺たちの周囲の空間を四角く切り取るだけのものだということを、如実に雄弁に語っているように感じて、俺は面白く思ったんだ。なかなかに味わい深い。ぜひ君たちにも見せてあげたいと思ったのさ。
けど、この風景がいったいどうだっていうんだ?まったくつまらない写真だって思われるかも知れないなとは、覚悟はしていたんだよ。けど、それがどーした?撮ってプリントした本人の俺神が面白く感じてるんだ。それでいいだろう?
だいたい、写真には何か劇的なモノや決定的な瞬間が写っている必要があるのかい?俺はモチーフ主義者じゃないんだぜ。何もない、ただ普段無意識に眺めているような風景を、忠実に再現することも写真の持つ大きな役割の一つだと思うんだが、どーだろうか?
俺はこういう写真も、結構お好きなんだが、やっぱりつまらないかな?
俺の思惑を暴露しちまえば、この写真は一種の挑戦なんだ。そう、何かが写っている限り、その被写体の持つ意味や意義に関わりなく、写真は成立するんじゃないかっていう、俺の挑戦なんだ。
写真に意味なんかない。ただ、かつて、それが、あった、ということだけを証しだてるものでしかない。
かつて、その光の中、俺は、カメラを持って、この家の前に立ちどまった。それだけだ。
そして、そんなことすらもとっくに忘れ果てていた時、それは忘却の中から写真として顕現してくることになるんだ。
つまらない写真だと思うかい?俺は結構面白い写真だと思ってるんだけどね・・・。
もし君が、この写真に何らかの面白味を感じてくれるんなら、結構嬉しいよ。
読者諸君、失礼する。これだから写真は面白くって止められないぜ。

2012/04/24

Post #514 自惚れなのか自信過剰なのか

今日はこれまた、フィルム2本分、30カットプリントした。
まだプリントしていないネガの束から、テキトーに抜き出してプリントしたのだ。セレクトもテキトーなら、焼きもテキトーだ。しかし、それで飯を食っているわけじゃないから、自分さえ満足いくものが出来たらそれでOKだ。なんの問題もない。今日の分はまたおいおいお見せしよう。
よく、写真を見てくれた人に、芸大とか行ってたんですかとか、写真学校に行っていたんですか、もしくは写真部とかやっていたんですかと訊かれるが、そんなことはない。俺は、某私立大学経営学部中退だ。箸にも棒にもかからぬ。才能のない奴は大学に行けとは、忌野清志郎先生のお言葉だが、あの頃の俺は、いやいや大学に行っていたようなもんで、贅沢な話だが、これまた止めるのも早かった。とはいえ、俺には何か才能の片鱗が煌めいていたわけでもないんだがね。
Marrakech,Morocco
考えてみれば、俺の没落はこのころから始まっていたんだろう。しかし、気にすることはない。人生において、皆の衆が大騒ぎしている生涯年収だの羽振りのいい職業だのなんだのかんだのは、人間の生きる本質には、全然カンケーない。聡明な俺は、高校生の時にはそれを悟ってしまったので、あえて没落して好きに生きる道を選んだんだろう。

さて閑話休題。
もし俺の写真がいささかでも巧く見えるとすれば、それは一つには持って生まれたセンスというものもあるだろうが、俺はそれだけとは思わない。それだけだとしたら、それはそれでかなりの自惚れ屋か、自信過剰の馬鹿野郎だろう。
俺は、何時だって自分の写真をプリントしながら、自分の好きな写真家の写真からの影響を強く感じる。森山大道や、中平卓馬、荒木経惟、ウィリアムクライン、ブラッサイ等々だ。
もし君が素敵な写真を撮りたいと思うだったら、そういった先人の写真をじっくりみることが一番の早道だと思うぜ。温故知新という奴だ。真似しろとは言わないが、毎日飽きずに見ていることで、写真的な目が養われてくるというもんだ。
どんなものが写真として成立するのか?
こんなものまで写真として成立するのか?
実は、どんなものでも写真として成立しうるんじゃないか?とかね。
絵葉書や風呂屋の書き割りのような予定調和の写真は、撮りたくない。まぁ、撮ろうっていっても俺にはもともと無理なのかもしれないけどね。
一見、それは美しくまとまった写真に見えるかもしれないが、俺には何とはなしにつまらない。偶然と必然の間で、危うく成立するような写真、ようわからんけど、そんなもんが、俺の目指してる写真の在り方なんですけどねぇ。君はここんところの言葉にし難いニュアンスがわかってくれるだろーか?解ってくれれば、それでいいのだ。そして、分からなくっても、別にいいのだ。俺の意図とは関係なく、俺の写真を見て、カッコいい写真だと思ってくれたらそれでいいのさ。いやそれどころか、その反対に下手糞な写真だ、こんなのでいい気になるなって思ってくれても、それはそれでいいのさ。なにしろ、それはもう君の心の中で起こっていることだから、君の自由だからね。もちろん俺も、好きにやらせてもらってるんだ。お互い非難しあうのは、つまらないからやめておこうよ。
OK、今日のおしゃべりはこのくらいにしておこう。なんだか今日はドジョウのように掴みどころのない文章になってしまった。切り上げるのも潮時ってもんがあろうよ。
しかし、いったい俺は何を根拠に、こんなに偉そうに分かったような分からないようなことを毎日ほざいているのか?それこそ、自惚れなのか、自信過剰なのか?まぁ、どっちだっておんなじことさ。気にもしてないけどね。
読者諸君、失礼する。また会おう。