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2015/03/05

Post #1429

大昔に金沢で・・・。
朝の5時半まで働いて、家に帰ってすやすやと気持ちよく眠っていたら、銀行からの電話で起こされた。
俺はATMの窓口に通帳を忘れていたらしい。まいったな。
俺は一度起こされると、眠れなくなるので、これは有難迷惑な話だ。
しみったれた金しか入っていない通帳よりも、今日の睡眠の方が大切なのに。

しかも、今日の今日、いつもならまだゴロゴロしているような時間に、急遽現場の手直しをすることになったから行ってくれないかという。
渋りながらOKしたんだが、当然今夜も夜勤だ。そうすると、14時間も拘束されてしまう。そうでなくても、いろいろとやるべきことは山盛りなのに。

畜生め!今日はアマゾンから待ちに待ったノエル・ギャラガーのCDが届くことになっていたんだが、そんなことしていたら今日、そのCDを聴けないじゃないか!
仕事とロックと、どっちが大切だと思ってるんだ?
ロックが大切に決まってるだろう

まったく憤懣やるかたない。

仕方ない。しっかり請求させてもらうぜ。一日いくらで契約してても、一日の作業には限度があるのさ。俺だって、マシンじゃないんだ。
睡眠時間を削って、女の子と遊んでみたり、プリントに没頭してみたりするのは全然苦にならないんだが、こういうのは本当に堪えるぜ。

こんな時、携帯電話を叩き壊したくなる。
実は以前にも一度、現場で電話していて、あんまりにも腹が立ったんで、思わず携帯電話を叩き壊したことがあったな。携帯電話屋がどうやったらこんなふうに壊れるのか、不思議がっていたぜ。

出来る事なら、このひも付きの生活を見直したいものだ。

睡眠が必要なんだ。そうじゃなかったら、ヒロポンとか打たないとやってられないよ。ヒロポンってのは覚醒剤だ。現場で歳食った職人さんなんかと話していると、大昔は突貫工事の時なんか、みんなヒロポンを薬局で買ってきて、打ちまくって仕事していたそうだ。
スゲー時代があったもんだ。癖になったら大変だぜ。
因みに、戦争中の日本軍は、このヒロポンを打ちまくって戦争していたらしい。そりゃ、残虐行為もへっちゃらになっちまうだろうよ。

ザ・ローリング・ストーンズのギタリスト、キース・リチャーズは9日間眠らなかったことがあるそうだ。
そんな不滅な体力が欲しいが、かみさんに話したら、そんなのシャブやってるに決まってるって一蹴されたぜ。
なんといっても、キースは身体から覚醒剤だのコカインだのの成分を抜くために、スイスの血液銀行で血液を総入れ替えしたっていう伝説があるくらいの奴だからな。しかも、その後に言った言葉が振るっていやがる。『これでまたシャブが楽しめる!』ときたもんだ。本当か嘘かわからないけれど、キースならあり得ると思えるところがいいところだ。

クソ!もう今日は眠るのはやめだ。このままシャワーを浴びて起きていることにするぜ。

読者諸君、失礼する。眠らないで済む秘訣は、飯を食わないことさ。道理で最近体重が減りまくるわ、立ちくらみはするわ、白髪は増えるわだ。たまらないぜ。

2015/01/02

Post #1367

八坂神社、京都
平穏安穏に見える元旦で、目を引いたのは京都で58年ぶりだかの大雪で、積雪16センチというものだった。
それくらいの雪なら、俺の棲んでる尾張でも2、3年に一度は降る。驚きはしないさ。つい先日もドカ雪だったしな。今日初詣に行ってきた岐阜の山の中の寺も、まるっきり雪国だった。いつものことだ。
むしろ、京都の冬というと、雪のなかにたたずむ神社仏閣をイメージしていたが、それこそ俺が勝手に思い込んでいた風呂屋の書割的なイメージだったのだなぁと、納得反省する次第だ。
まぁ、そんなことでずいぶん昔にふらりと立ち寄った八坂神社の狛犬の写真で行ってみよう。今見ると、もっと空をググッと焼きこんどけばよかったな。画面が締まるというものだ。締まっていいのはアレばかりじゃないのさ。

八坂神社は明治の廃仏毀釈までは仏教の護法神で疫神でもあった牛頭天王を祀っていた。それが廃仏毀釈で神社に仏教の神様ちゅうのは具合が悪いってんで、牛頭天王=蘇民将来伝説の武塔天神=素戔嗚尊ということになったわけだ。
スサノオ、素戔嗚尊。
俺が神様としてまず思い浮かべるのは素戔嗚尊だ。
母を亡くして泣き叫び、山々の木々を枯渇させる神。
天照大神に反発し、乱暴狼藉し、追放される神。
八岐大蛇を倒し、妻を得て、初めて和歌を作る神。
さまざまな樹木を生み出し、その用途を教え示す神。
俺がしばしば参拝しに行く、熊野本宮の祭神、家都美御子大神も素戔嗚尊と同一だという説もある。
スサノオの神話は広く知られているだろうから割愛するが、俺には、その神話は、漢としての生き様の祖型(アーキタイプ)だと思える。いうなれば元祖男一匹だ。
原哲夫のマンガ『花の慶次』の原作、隆慶一郎の『一夢庵風流記』は、俺の座右の書と言っても過言ではないんだが、漢とは何か、漢らしく生きるとはどういうことかということを、これでもかというほど示してくれる。心が塞いだとき、何度も読み返すのだ。
この本の没頭に、スサノオと傾奇者について触れた一文がある。俺が大好きな文章だ。少し長いが、引用してみよう。休みだから時間があるのさ。



 『かぶき者』はまた『傾き者』、『傾奇者』とも書く。最後の書き方が最も端的に言葉の内容を示しているように思われる。ほかに『傾く』という動詞や、『傾いた』という形容詞もある。
 つまりは異風の姿形を好み、異様な振る舞いで人を驚かすのを愛することを『傾く』と云ったのである。
 久しい以前から、この言葉が、私の胸の中で格別に大きな位置を占めるようになって来ていた。


(中略)


『傾奇者』はいつの世にもいる。
 室町時代の『ばさら』と呼ばれた佐々木道誉、戦国期の織田信長、慶長の大鳥逸兵衛、明暦の水野十郎左衛門。数えあげればきりがない。
 彼らは一様にきらびやかに生き、一抹の悲しさと涼やかさを残して、速やかに死んでいった。ほとんどの男が終りを全うしていない。
 『傾奇者』にとっては、その悲惨さが栄光のあかしだったのではあるまいか。
 彼らはまた一様に、高度の文化的素養の持主だった。時に野蛮とも思われる乱暴狼藉に隠れてはいるが、大方が時代の文化の先端をゆく男たちなのである。田夫野人とは程遠い生きものであり、秘かに繊細な美意識を育てていたように見える。それがまた一様に『滅びの美学』だったのではあるまいか。
 そして最後に、彼等は一様に世人から不当な評価を受けているように思われる。或いは我から望んでそうした評価を受けようとした節さえ見られる。なんとも奇妙な心情であるが、彼等はそこに世の常とは違って、一種の栄光を見ていたような気がする。それこそ滅びの美意識の最たるものではないか。私は彼等の中に正しく『日本書紀』に書かれた素戔嗚尊の後裔を見る。

『故れ天上に住む可からず。亦葦原中国に居る可からず。宜しく急に底根国に適ねといひて、乃ち共に神降去りき(Sparks註。高天原で乱暴狼藉があったので、天上にも地上にも住んではならないとして、速やかに地の底の国に去れと追放されたのである)
 これが神々の素戔嗚尊に下した宣告である。

『時に霖(ながあめ)ふる。素戔嗚尊青草を結ひ束ねて、蓑笠と為し、宿を衆神(かみがみ)に乞ふ。衆神曰さく。汝は此れ躬(み)の行濁悪しく(おこないけがらわしく)して、遂謫め(やらいせめ=追放刑に処される)らるる者なり。如何にぞ宿を我に乞ふぞといひて、遂に同に距ぐ(ともにふせぐ=つまりだれも宿を貸さなかった)。是を以て風雨甚しと雖も、留り休むことを得ず。辛苦(たしな)みつつ降りき』

 私はこの『辛苦みつつ降りき』という言葉が好きだ。学者はここに人間のために苦悩する神、堕ちた神の姿を見るが、私は単に一箇の真の男の姿を見る。それで満足である。『辛苦みつつ降』ることも出来ない奴が、何が男かと思う。そして数多くの『傾奇者』たちは、素戔嗚尊を知ると知らざるに拘らず、揃って一言半句の苦情も云うことなく、霖の中を『辛苦みつつ降』っていった男たちだったように思う。
(隆慶一郎 『一夢庵風流記』新潮文庫版9~13頁)

男なら、斯くの如くありたいというものだ。
きっとそういう馬鹿野郎は、少数派なんだろう。
まず、まっとうな勤め人には傾くことは許されないのが、この日本の社会だ。けれど、俺は今まで自分の趣味を貫き通すためだけに、仕事に打ち込んできた。その挙句、事なかれ主義の連中からは、理解不能な変人とされてきた。おかげさまで今では性質の悪い一匹狼だ。
凶暴性と知性教養を同居させ、秘かに独自の美意識を育みたい。そして、自分の生き様によって招いた困難を、自らの宿命として黙って受け入れていきたい。
俺の写真も言うまでもなく、自分の持つ美意識の発露以外の何物でもない。
また、俺が奇抜な風体を好むのも、自ら傾奇者の系譜に繋がるものでありたいとの願いの現れだ。
万人に理解されなくても致し方、ござらぬ。
今更自分を曲げる訳にはまいらぬでな。
艱難辛苦、かかってこいやぁ!だ。
それこそが男の生きる道だろう?まったくロックンロールだ。

読者諸君、失礼する。京都の雪の話から、ずいぶん脱線してしまったなぁ。しかし、俺の頭の中はいつもこんな調子でグルグル回転してるのさ。

2014/09/27

Post #1270

木曽福島 御嶽教教会にて
子供のころから見慣れている御岳山が噴火した。
俺の育った濃尾平野から、少し小高いところに登れば、東北方面に御岳山や恵那山が、西北方面には伊吹山が遠望できた。だから、何となく親しみを持っている。
御岳山の噴火自体は、俺の人生で何回か起こっているが、今回は規模も大きそうだ。死者や行方不明者も出ているようだ。折からの登山ブームで多くの人々が山頂付近にとり遺されているという。速やかに救出されるよう、願うばかりだ。

写真は、ずいぶん昔にリバーサルフィルムで撮ったもので、御岳山のふもと木曽福島にある御嶽教の教会に祀られている神々の像だ。
中央に鎮座し、目が三つあるのが國常立尊、左右が大己貴命、少彦名命だろう。そして全面中央に杖を突いて座っているのは、御岳登拝を拓いた覚明行者であろう。

國常立尊は、日本書紀では最も初めに現れた神だと言われている。
大本教では開祖出口なおに神懸った『艮の金神』こそが、この國常立尊とされている。それによれば、かつて神界を治めていたのだが、その統治に不満を持つ神々に、鬼門の方角である艮に封印されていた神であるされている。
いずれにしても、古い荒ぶる神なのだ。
それは、この像のどことなく不気味で威圧感のある容貌からも、なんとなく伺えるような気がする。
荒ぶる自然のエッセンスが込められているようだ。そう、八百万の神々は、ほとんどが自然現象の擬人化された姿なのだ。

読者諸君、失礼する。自然の力は、人間には抗うことなんか出来やしない。

2014/09/21

Post #1264

加古川
久々に家に帰ってみると、市役所から市県民税の督促状が届いていた。
33000円。
がっくりだ。
俺の棲む町の収税課の小役人は、いつも言うように、納税者が首をつろうがどうしようがお構いなしっていう、酷薄な奴らなんだ。それを思うと、むかっ腹が立ってくる。しかし、仕方ない。いまから銀行に行って金を引き出して、コンビニで払ってくるとするか。

読者諸君、失礼する。俺はいつも、役人をぎゃふんと言わせてやりたいと思ってるんだけどな。

2014/08/06

Post #1218

Hiroshima
ロング・タイム・アゴー、69年前

 原子爆弾が落ちてきて

 何十万人もの人が死んでいったのさ


ロング・タイム・アゴー 69年前

 8月6日の朝 8時15分

 何の罪もない人が死んでいったのさ


ロング・タイム・アゴー 69年前

 人間の歴史で初めてのことさ

 この日本の国に、原子爆弾が落ちたのさ


知ってるだろ?

美少女も美男子も

たった一発

顔は焼け爛れ髪の毛抜け

血を吐きながら死んでいくのさ


ロング・タイム・アゴー 69年経った今

 まだ苦しんでる人がいるのに

 どうして原子力がそんなに大事なんだろう?



原子爆弾ブルース!



ロング・タイム・アゴー 69年前

 原子爆弾が落ちてきたことを

 日本のお偉い人は

 いったいどう考えてるんだろう?

ロング・タイム・アゴー 69年経った今

 原子爆弾と同じようなものが

 おんなじこの国に

 つぎつぎとできている。
(The Timers 『LONG TIME AGO』)


今日は広島の原爆忌。
忌野清志郎が、こう歌ってから25年。本来は44年前だ。そのころは俺も浮ついた若者だった。
そして、4分の1世紀がたったいま、世の中ますますとんでもないことになってる。広島だけじゃなく、福島だって今でも苦しんでる人がたくさんいる。どうして原子力がそんなに大事なんだろう?
いったいぜんたい、にっぽんのお偉い人は、どう考えてるんだろう?
いったいぜんたい、にっぽんの庶民の皆さんは、どう考えてるんだろう?

読者諸君、失礼する。二度とそういうことが起こらないように、戦争のできる軍隊を持とうって考えてるんだろうか?もちろん、あの時も疲弊し切ってはいたが、軍隊はあったよ。

2014/07/19

Post #1200

加古川、兵庫県
最近、ずっと心の中に響いている、忌野清志郎の言葉

『Yeah、熱いぜ Baby!

Woo,Alright 渋谷公会堂Baby、Alright

今日はこんなにビシビシ盛り上がってくれて、どうもありがとう!どうもありがとう!

Got!OK,感謝します!

Got 感謝 For You!

Got 感謝 For You You You YOU!

Got 感謝 For You!Baby

Got 感謝 感謝、もう、二階で見てるBaby!

Oh,Yeah!後ろで見てるBaby!

前のほうで騒いでるBaby Baby Baby!

Ok,Baby 今日はどうもありがとう!

もう俺たち最後の曲になっちゃいました!

Got!もう俺たち最後の曲になっちゃいました!

三拍子でやると、もう、最後の曲に、なっちゃった!

みたいな?みたいな?みたいなみたいな?

Ok,Baby、今日はどうもありがとう。ゴキゲンだぜ、こんなに盛り上がってくれて。

Alright! 


じゃぁもう、もう、みんなに訊きたいことがあるんだ。

今夜みんなに訊きたいことがあるんだ。Yeah!

今、この国はおかしくなってる。

世界中がおかしくなってる。

戦争ばっかりだ。

21世紀になったら平和な世界が来ると信じていたのに、前より酷くなってる。

この国もおかしくなってる。

戦争に加担して、いずれ軍事政権を作ろうとしてるんだ。

いずれ軍隊を持とうとしてるんだ、Yeah!

世の中物騒だ、不景気だ!不景気だ、不況だ。

すっと続いてる。ずっと不景気が続いてると、政治家の奴らは必ず戦争をやりたがるんだ。

Alright、Yeah !

殺伐としてる。

世の中殺伐としてる!

政治家は戦争をやろうとしてる!

Yeah!

だから今夜、みんなに訊きたいことがあるんだ。



愛・し・合・っ・て・る・か・い


愛し合ってるかい!

愛し合ってるかぁーい!?



Oh Yeah! 

Oh  Yeah! 

Alright!

Woo!

OK Baby,OK Baby ゴキゲンだぜ!Yeah

ゴキゲンだぜ!Yeah

俺の目に狂いはなかった。愛し合ってる奴らがこんなに来てる。

愛し合ってる奴らがこんな集まってるんだ!

OK Baby!

じゃぁ、もう最後に、特別なラブソングをやります!

そりゃもう、そりゃもう熱いラブソング、ビシビシ熱いラブソング!

熱い、熱い、熱い、熱い、ラァーアァーブソング!

ドシドシぶあつい、ラァーアーブソング!

ドシドシ熱い ラブソング!

Yeah! 

For My Baby!

Got LOVE SONG For My Baby !

For My Sweet Little Baby!

For My Sweet Little 渋谷 Baby!

Alright!

お送りしよう!

それは、熱いラブソング、“Baby 何もかも!”』

読者諸君、失礼する。殺しあうよりも、憎みあうよりも、けなしあうよりも、愛し合う方が絶対に大切だ。ロックが俺たちに教えてくれる。愛し合ってるかい?

2014/06/12

Post #1164


根尾村水鳥
誰だって、最後は煙突から立ち上る煙となって消えてしまう。
もちろん、俺も、君も、どいつもこいつも。
なんだか憂鬱になってきたぜ。
ここんところ、何もやる気がしないのは、このせいか。それとも一年続いた夜勤のおかげさんで、身体の芯まで疲れ切っているのか。
プリントすらやる気にならねぇよ。どうしちまったんだ、まったく。

俺がいつか死んだら、まぁ、そん時はちょいとそこらに棄てといてくれ。あっと、それじゃ死体遺棄でお縄になっちまうのか。面倒くせぇ世の中だなぁ。
根尾村水鳥
人間が一人死んだことを、知ってか知らずか、ネコはのんきなものさ。

読者諸君、失礼する。このシリーズはもう今日でやめるぜ。辛気臭くなっちまうってもんだ。しかし、一体ぜんたい、俺たちの人生ってのには、どんな意味があるんだ?

2014/06/11

Post #1163

根尾村水鳥
根尾村水鳥
今日は仕事が休みだったのに、何をするというわけでもなく、無為に過ぎてしまった。
読者諸君、失礼する。

2014/06/10

Post #1162

根尾村水鳥
火葬場は、駅に隣接している。
初めて見たときは、俺はそれが火葬場とは気が付かず、ごみ焼却施設か何かなのかと思っていたほどだ。
写真でも、奥の方にローカル線のホームが見えるだろう。
このローカル線は、30年ほど前に開通した第三セクターで、樽見鉄道という。
ローカル線のご多分に漏れず、経営は苦しそうだが、毎年桜の時期には、花見客でにぎわう。
この駅のもう一つ奥の終点、樽見から歩いて15分ほどのところに、有名な淡墨桜があるのだ。
大昔、越前から大和に入り、皇統を継いだ継体天皇がお植えになった桜だと伝えられている。
すっかり忘れられ、荒んでいたのを、作家の宇野千代が保存運動を呼びかけ、桜は息を吹き返した。
この葬儀もちょうどそんな季節に行われていた。
駅に電車が停まると、小さな電車にぎっしりとつまった善男善女が、一体この喪服の一団は何をしているんだといった表情を浮かべて、俺たちのほうを見ていたものだ。
まさか、駅のすぐ横が火葬場だとは、誰も思うまい。
ついでに言えば、駅のホームのすぐ横には、墓地が設けられている。
コンパクトな都市計画だ。
火葬場から直行っといった風情だ。
そして何より、生と死が無造作に隣り合っているような雰囲気がたまらない。
本来、生きるってそういうもんだ。縄文時代の集落は、真ん中に墓地があり、そこで人々は、祭りを行っていたと考えられている。どことなく、そんなことを思い起こさせて、愉快な気持ちになる。
根尾村水鳥
スレート葺きの屋根の下には、臨時の祭壇が設けられる。
ここでまた俺は驚いたのだが、実際に焼き場の窯を操作するのは、市の職員とか穏亡さん(これは差別用語なんだそうだ)とかではなく、部落の住民自身だった。
隣のおじさんが、窯に火をともし、火力調整を行うわけだ。
どこまでいっても、Do It Myself 精神が満ち溢れている。
それは、素敵な事のように俺には思える。
俺だって、死んだとき、親しくしてきた人の手で葬られたほうが、きっとうれしいだろうとおもう。まぁ、死んじまってから、嬉しいもへったくれもないか。
窯のくちの前には、『往相門』と『還相門』という額がかかっている。
往相、還相とは、浄土真宗に特有の概念だ。
往相門はもちろん、極楽往生する門を意味している。
そして、還相門は、極楽往生しながら、再び仏の化身として、この世に帰ってきて、未だ救われていない人々を浄土に導き救うという、レイヤーが一段上がった再生を意味するのだ。

かつて親鸞聖人は『道端で苦しんでるやつがいて、それを助けたかったら助ければいいし、助けたくなかったら、放っておけばいい。なぜなら、そこで助けたとしても、それは限定的な救済でしかなくって、救われていない自分たち凡人には、限定的な救いしか与えることはできないからだ。』という意味のことを言っていたそうだ。
そして、それに続けて、『だからこそ、念仏を唱え、阿弥陀仏の本願力にすがって往生し、自ら仏となり、そうして再度この世に還ってきて完全な救済を施すのがいいんだ。』というようなことを語ったそうだ。
壌土真宗は、一般に言われているように単なる他力本願ではない。人間の努力や能力など、しょせんたかが知れているということを、酷烈に認めているわけだ。

そしてそれはどこか、古いアジアの生死観、つまり何度も生まれ変わり死に変わりして、先祖の霊が子孫に宿って再生し、命をつないでゆくという永劫回帰のような世界観とも響きあっているように思える。

読者諸君、失礼する。そこでは、生者の世界と死者の世界が、重なり合っているように思える。あなかしこ、あなかしこ。

2014/06/09

Post #1161

根尾村水鳥
葬列という言葉があるけれど、実際に葬列に出くわすことってのは、あまりないんじゃないかな。
だって、今じゃみんななんとか会館のホールで葬式で、火葬場までは霊柩車だろう?
棺桶を担いでみんなが列をなして歩くっていうのは、21世紀の日本じゃなかなかお目にかかれないよね。
しかし、俺はここでそれを目の当たりにした。

棺桶は、2本の角材の上に載せられ、男たちが担ってゆく。

このあたりの部落には、かならず火葬場がある。
火葬場まで、300メートルくらいだろう。細い路地のような道を、ゆっくりと歩み、棺桶を運ぶ。
ここでは、もう何百年も、こんな営みが続けられてきたことだろう。

けれど、その伝統も、もうすぐ消えてしまうに違いない。
伝統的な生活は手間暇かかるし煩わしい。それに、その営みを支える信仰心が失われてしまったら、何の意味もないのさ。

根尾村水鳥
読者諸君、失礼する。今日はこう見えて忙しいんだ。まぁ、くだらない用事だけれどね。

2014/06/08

Post #1160

根尾村水鳥、ご出棺です

根尾村水鳥、霊柩車は使わない。若い男は棺桶運びだ。
本日、日曜日 なので写真のみ。
読者諸君、失礼させてもらうぜ。

2014/06/07

Post #1159

根尾村水鳥
田舎の葬式は、なんとか会館じゃなくて自宅で行われるんで、参列者は田んぼの横の道に並んでいる。

根尾村水鳥
参列の皆さんは、部落の序列や死者との縁の深さによって定められた、さまざまな供物をもって、もうすぐ始まる野辺送りを待っている。うちのカミサンは、そうめん持ちだった。
俺はもちろん、カメラ持ちさ。

根尾村水鳥
もうすぐ、出棺だ。この細い道を、焼き場まで歩いてゆくのさ。

俺たちは、誰もみな、生まれながらに不完全な死体だ。徐々に時間をかけて、毎日少しづつ死んでいっているのさ。

読者諸君、失礼する。死を自分の人生から切り離して考えるのではなくて、自分の人生に繰り込んで生きる事。それによって、生きる意味が初めて浮き彫りになる。闇がなければ、星は輝けないんだぜ。

2014/06/06

Post #1158

根尾村水鳥
昨日は爆睡してしまったというのに、今日はまた携帯用に新しく用立てたSDカードに音楽を5,000曲くらいぶちこむなんて、しょうもないことをしていたおかげで、睡眠不足だ。生欠伸が止まらないぜ。
これから朝まで男の仕事だというのに。困ったもんだ。

しかし、ロックがなければ男の仕事ははかどらないしな。

まぁ、そんなことはイイんだ。
今日もまた、君に見てほしい、岐阜県の山の中の部落の葬儀の断片を。
民俗学者、宮本常一のとった写真のように、もうすでに俺たち21世紀の日本人には、異国としか思えない風景だ。
根尾村水鳥
読者諸君、失礼する。それ、およそはかなきものは、この世の始中終さ。どんなに時代が変わっても、人が死ぬことからは逃れられないぜ。

2014/06/05

Post #1157

根尾村水鳥
梅雨入りが近い。
先日の異常な暑さはすっかりおさまり、雨模様だ。
気圧のせいなのか、日ごろの仕事の睡眠不足がたたっているのか、どうにも眠くて仕方ない。
涼しいので夕方仕事に出かけるまでに、プリントでもしようかなんて下心もあったのだが、どうにもそんな気にもなれないほど眠い。
そういう時は、眠るに限る。

眠りは一回ごとの小さな死だというような文言を、どこかで読んだ。
どこで読んだのか全く思い出せないけれど。
ならばこそ、一日一日をよく生き、よく死ぬことが必要だ。

読者諸君、失礼する。人生はなんだか夢のように過ぎていきます。

根尾村水鳥

2014/06/04

Post #1156

根尾村水鳥
葬儀の写真を撮ることには、誰しも抵抗があるだろう。
実際に、俺もそこまで縁の深い人ではなかったので、ずけずけと上がり込んで、葬儀の一部始終を撮ることは憚られたってもんだ。
俺だって、人の子だ。
けれど、君はこんな葬式見たことあるかい?
きっと、たいていの奴は死んでも見ることはできないはずだぜ。
そして、ここでももう次の世代には、見られなくなっているに違いない。
ならば、撮って撮って撮りまくるしかねぇだろう。
それが俺のできる供養ってもんだ。違うかい?
実際に、土地の人々には、しっかり撮っておいてほしいと言われたぜ。
全貌を伝えることはできないけれど、そのエッセンスは君にも届くはずだ。
田舎もんだと笑いたい奴は、笑えばイイさ。
けれど、俺たちは皆、どれだけスカシテいたって、ついこの間まで、そう君の爺さんくらいの頃まで、たいていの奴らがこんなようなことをしていたんだ。

根尾村水鳥
読者諸君、失礼する。まだまだ続くんで、ちょっとペース配分してみたよ。

2014/06/03

Post #1155

根尾村水鳥
部落の人々は、誰かが死ぬたびに、極楽浄土への往生を願いつつ、切り紙や幡を作り、この娑婆を荘厳してきたに違いない。
幡に記された文字から、それが何を意味しているのか俺にはよくわかる。
そこに記されているのは、みな阿弥陀如来の別名だ。
かつて親鸞聖人が記したといわれる正信偈と、それに続く浄土和讃にその名は現れる。

『佛光照曜最第一
 光炎王佛となづけたり
 三塗の黒闇ひらくなり
 大應供を帰命せよ』

炎王光佛ってなってるのは、ご愛嬌か。まだまだ続く。

『道光明朗超絶せり
 清浄光佛とまふすなり
 ひとたび光照かふるもの
 業垢をのぞき解脱をう』

『無明の闇を破するゆへ
 智慧光佛となづけたり
 一切諸佛 三乗衆
 ともに嘆譽したまへり』

『光明てらしてたへざれば
 不断光佛となづけたり
 聞光力のゆへなれば
 心不断にて往生す』

『光明月日に勝過して
 超日月光となづけたり
 釈迦嘆じてなをつきず
 無等等を帰命せよ』

俺は、象徴ってのが好きだ。
象徴ってのは、人生を奥深く立体的なものにしてくれる。
ともすれば無意味と虚無に流れがちな人生に、象徴は意味を与えてくれる。
象徴を見失うと、人は世界を計測可能な効率や資産価値でしか測れなくなる。
薄っぺらな世界だ。

仏の名を記した幡を立てれば、その時空には上に記したような和讃が、声無くして響き渡る。
寂れた田舎の寒村が、春の日差しに晒されて色のかすんだような山村が、それによって仏の浄土へ真っ直ぐつながる土地へと清められる。
すくなくとも、それを見た真宗信徒の胸中には、阿弥陀如来を讃えた和讃の文言が、その独特のメロディーとともに立ち上がってくることだろう。
それだけでもイイのだ。それは、仏の実在を人々に指し示す符牒のようなものだ。
そして、善でも悪でもなかった死者は阿弥陀如来の光によって、極楽往生すると思う事が出来るのだ。
その荒唐無稽なことを信じることが、信仰を持つということだと俺には思える。
では、信仰を持たない人々の死には、どんな意味があるのか。
そこにはいったいどんな救いがあるのか?

君も何度か参列したことがあるだろう、何とか会館の葬儀の、無味乾燥なこと。
人の死すら、消費されている。
出来る事なら、俺自身も、この村のような葬儀で、この世とおさらばしたいもんだ。

読者諸君、失礼する。願以此功徳、平等施一切、同發菩提心、往生安楽國

2014/06/02

Post #1154

根尾村水鳥
昨今の日本では、葬儀はなんとか会館とかいう葬儀屋の斎場で行われるのがフツーだが、そこは全然違っていた。
部落中が親戚同然のその一帯では、葬儀はそれぞれの家で行われる。
葬儀屋は、司会進行と棺桶と祭壇を用意するくらいだ。霊柩車すら使わない。
死者の家は、近隣の皆さんが夜通し作った切り紙で荘厳される。
どの家も皆、部落にある浄土真宗の檀家なのだ。きっと何百年もそういうしきたりが続いてきたのだろう。
かつて、日本には村八分という言葉があった。つまり火事と葬式だけは除いて、部落内の付き合いをしないという断絶状態だ。つまり、一種の差別だな。
ここにきて、火事はともかく、どうして葬式が除かれていたのかが、俺にはなんとなくわかった。
とんでもなく、手間がかかるのだ。
そして、死は、現代日本の大抵の暮らしのなかでは、極力目に触れないように慎重に扱われているが、そこでは、日常の延長にポンと置かれているように思える。
読者諸君、失礼する。俺も君も、いつかは死んでしまう。これだけは確かなことだぜ。

2014/06/01

Post #1153

根尾村水鳥地区
今回から、ある山村の葬儀をドキュメント風にお送りしよう。
うちのカミサンのおじさんが死んだという連絡が入り、俺たちはその山村に向かった。

読者諸君、失礼する。体調を崩しており、長々文章を書く気力がないのだ。

2014/05/29

Post #1150

奥伊勢
さて、どうしてまた伊勢の山のなかにこんなダチョウがいるのか、ねちこく考察してみることにする。
ダチョウは伊勢はもちろん、我が国には生息していない外来種である。
ということは、このダチョウを柵に囲った人物が、何らかの意図をもってここに飼育しているものと考えるのが、妥当だ。
ではなぜ、田舎で土地があるからってダチョウなんぞを飼わねばならないのか?

①ペットとして

しかし、ペットなら一羽いれば十分だろうとも思うがいかがなものか?

②農耕に供するとして

飼い主はダチョウ農法なるものを考案し、合鴨農法みたいに普及を企んでいるという、ロマンある推理。しかし、そんな話は、きいたことないよね。

③乗り物として

ほら、ナウシカでクイとカイって出て来たでしょ、馬の代わりにナウシカとかユパ様とかが乗ってるやつ。トリウマって言ったっけ?しかし、ダチョウって乗れるのかねぇ。

④いろいろ考えるふりをしてみたが、やはり食う為

たまに、ゲテモノ料理の店に行くとワニの肉とかダチョウの肉とかあるでしょう。あれがどこから供給されるのか、考えてみたこともなかったが、やはりこういうところから供給されているのだろう。
ということは、どこかにワニを飼育して、程よく育ったところでさばいてゲテモノ料理屋に卸してるところもあるはずだ。

まぁ、結果どっちでもいいんだけど、いつか車で走り回ってて、思わぬところでワニの養殖池なんかに出くわしたら、また写真撮っちまうんだろうな。楽しみなこった。

読者諸君、失礼する。国会ではくだらない、議論とも言えないような議論が続いている。扱っているテーマは重要なのに、理論的な議論はどこにもない。くだらないったらないぜ。

2014/05/28

Post #1149

奥伊勢
この写真を友人に見せたところ、友人は高村光太郎の詩を教えてくれた。
『ぼろぼろの駝鳥』という詩だそうだ。
こんな詩だ。

何が面白くて駝鳥を飼ふのだ。
動物園の四坪半のぬかるみの中では、
脚が大股過ぎるぢやないか。
頸があんまり長過ぎるぢやないか。
雪の降る国にこれでは羽がぼろぼろ過ぎるぢやないか。
腹がへるから堅パンも食ふだらうが、
駝鳥の眼は遠くばかり見てゐるぢやないか。
身も世もない様に燃えてゐるぢやないか。
瑠璃色の風が今にも吹いて来るのを待ちかまへてゐるぢやないか。
あの小さな素朴な頭が無辺代の夢で逆まいてゐるぢやないか。
これはもう駝鳥ぢやないぢやないか。
人間よ、
もう止せ、こんな事は。

読者諸君、失礼する。しかし、どうしていったいこんな三重県の山のなかに、ダチョウがひょこひょこ歩いていたのか。俺には、今でも謎だ。