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2026/08/21

POST#1945 目を背けてはいけない

 








 

かつて、旅先でのある朝、妻子が眠っている間に早朝の熱帯の町を散策した。

共産党の旗の鎌を思わせる、ヤシの実ナイフ。

切り取られたヤシの実の房。

生々しく原形を留めたニワトリの肉、つまり死骸。

そして、排水溝に朽ちかけた猫の死骸。

それは、けっして世の人々の目を惹くものでもなく、視覚的に素晴らしい感銘や驚きを与えるようなものでもない。

けれど、生きていくうえで、自分が生きているという実感の地平から、これらの対象に視線を注ぎ、目をそらすことができない。


世界は美しくない。故に、美しい。

世界は残酷だからこそ故に、どこまでも優しい。


目の前の世界から、片時も目をそらしてはいけない。

2026/08/20

POST#1944 なぜ、眠らないと運転が荒くなるのか?



包丁か、鉈か。
朝まで働いて、家にたどり着いた車の中で小一時間眠ってしまった。
陽はとうに昇り、車内の温度は耐えがたいものになり、吹き出す汗の気持ち悪さに目が覚める。
起きてきた子供や女房の話を聞きながら話をしながら、モソモソと食い物を腹に詰め込む。
話は右から左に抜けていく。俺は眠いのさ。眠くてたまらないんだ、

例によって飯を食った後仕事の写真の整理をする。 これをフォルダーにまとめて クライアントに 毎日送るのさ。 俺のクライアントが現場に来ていなくても、現場の状況が手に取るように分かるようにするんだ。
おかげさまで多い時は、一晩に100枚くらい写真を撮るんだ。実は俺の 写真 趣味 っていうのは 現場の写真を撮ってるうちに 面白そうだなと思って 始めてみたものなのさ。 そうあれは長野オリンピックの頃だった。 二度ともう来ることのないだろう 長野の田舎の神社とか 飲み屋街の写真とかを映るんです を買って撮ったりしてたんだ。そっからが始まりだね。

だから俺の現場写真にはどこか君たちにいつもお見せしてるような写真のエッセンスが入ってる。 それが果たして クライアントにとって 見やすいものなのかどうなのかよくわからない。 ま クレームもないからいいけどね。

写真整理をして Google ドライブにアップしたいメールを作ったところでフローリングの床に伸びて眠ってしまった そりゃまあ そうだろう。 俺だって人間だ。そんなこともあるさ。

椎間板の 縮んでしまっている 疲れ切った体には フローリングの硬い床が心地よかったりするんだ。 しかし そんな眠りはすぐに電話のベルで起こされた。

現場で不具合があったからって言うんですぐに現場に行って対応しろって言うんだ。 あまりに酷だぜ。
まさにどっかの首相が『働いて働いて働いて働いて働いてまいります』とか言ってたけど、責任ある仕事をやってる小市民はとっくに働いて働いて働いて働いて働いて倒れるまでやり抜いて、倒れたら這ってでもやるのさ。

少なくとも俺は自分の先輩からはそうやって叩き込まれてきたね。 まる 今の若者とは生きてきた時代が違うってことだ。 決して嬉しいわけじゃないけどね。

しかし 睡眠不足で高速をぶっ飛ばしていくとどうしてあんなに運転が荒くなったり スピードが出ちゃったりするんだろうな〜。
全く こんなことやってちゃ命がいくつあっても足らないよ。

え、今夜?もちろん仕事だよ。
寝てないアピールは高市総理だけの専売特許じゃないのさ。


ちなみにこの鉈だか 包丁だかよくわからんような 刃物。
バリ島のその辺の町並みの朝 散歩してる時にとったものなんだけどきっと 鶏だか ドリアンだかをかち割ったりするんだろうな。手ズレしたグリップや、研がれていないのに、使うところだけ鈍く光る刃先に、写っていない持ち主の身体性が宿る。写真はイマジネーションへの入口であるべきで、けっして百聞は一見にしかず的な、わかり易いモノであるべきではないんだ。
自分の世界への視力を一段上げる踏み台のような写真。
好きだな。

こういう 全く映えない写真が 俺は好きだ。

2026/08/16

POST#1940 盛夏、百花繚乱その12

Ubud,Bali カトレアの一種か
盆休みも終わる。明日からまた、修羅場だ。

俺たちの祖霊は、俺たちの世界へと帰ってきたのだろうか。

日本では、人は死ぬと山中他界や海上他界に赴き、祖霊となる。

人を神としてまつるのは、そもそも八幡神社に祀られる応神天皇のような、半ば神話的な時代の始祖王のような方々を別にすれば、恨みをのんで不本意に死んだ者たちだった。

御霊神社の早良親王、北野天神の菅原道真などだ。

靖国神社や護国神社が、明治以来の戦死者を英霊と呼び神として祀るのは、俺には国家の権力によって、死地に赴き、命を奪われた者たちの恨みを鎮魂するためにしか思えない。

リトルワールドにて。
水木しげるが片腕を失って彷徨っていたニューギニアで遭遇したのは、こんな祖霊たちだったろうか。

2026/08/14

POST#1938 盛夏、百花繚乱その10


 

Ubud,Bali、俺は悪人だから、死んだら蓮の花の上さ
中上健次の傑作『千年の愉楽』の登場人物のオリュウノオバは、かつて蓮池を埋め立てて造られた路地と呼ばれる被差別部落に住む産婆だ。

彼女は、現在と過去を自在に行き来し、マジックリアリズム的に重層的な過去を今ここにあるかのように思い返す。自ら取り上げ、淀んだ高貴な血の宿命を背負って、卑小な生をいき、非業の死を迎えた中本の一党の男たちのことを、年老いて不自由な体で想い返す。

時にその精神は寝たきりに衰えた肉体を抜け出し、時空を自在に飛翔する。

そして自らが世に生を享ける前の蓮池に咲いていた蓮の花が朝日を浴びて開く音すら幻のように耳にする。

このイマジネーションという能力こそが、人間の知覚を拓く。

やたらめったら丈夫なだけが取り柄の父を墓参りに連れて行ったあと、俺は帰りの車で父に、『おい親父よ、死んだ(俺の母親の)淑子さんや(俺の祖母の)ノブちゃんが、息子たちの迷惑にならんように早くこっちにおいで』って言ってなかったか?とブラックジョークを飛ばしまくった。父は車の後部座席の居心地が悪そうな顔をしながら、しれっと『いや、いってなかったなぁ…』と小声でつぶやいていた。冗談じゃないぜ。

おかしいな。俺にはそういう声が聞こえたように感じたんだがな。

2026/08/13

POST#1937 盛夏、百花繚乱その9

ウブド、バリ 蓮
美しい蓮の花は、仏教でもヒンドゥー教でも宗教的な象徴である。
そして、蓮の花は泥の中からしか咲かない。
人間のどろどろとした醜悪な側面、際限のない欲望、そして、あらゆる不適切な表現として今日退けられているような様々な事柄から目を背けるだけならば、人間性ってのは蓮の花のように開花しないんじゃないだろうか。
南方熊楠🔗が、なにかに書いていた話をふと思い出した。
昔、インドか西域の商人が交易に行くときに、日ごろから身持ちの悪いことで評判だった妻女が不貞を働いたらすぐにわかるように、その下腹部に蓮の絵を描いたという。半年ほど交易に出てかえってきて、真っ先に身持ちの悪い妻女の下腹部を検めるとあに計らんや、やはり密通していたようで蓮の絵が乱れていた。
さて、商人が妻女を問い詰めると、妻女は『蓮のもとには蓮根があるもの。誰かが蓮根を取りに来たのでしょう』ととぼけたという話だ。
どこに書いてあったのか、何十年も前に読んだ話だからすでに記憶があやふやで申し訳ないが、大意は間違っていないはず。何せ、読んで盛大に笑った記憶があるからね。

ふと、親鸞聖人🔗の『善人なおもて往生を遂ぐ。いわんや悪人をや』という言葉を思い出す。 いわゆる悪人正機🔗だ。俺は自分が善人か悪人か選ぶように言われれば、即座に悪人だと答えるだろう。心の中でよこしまなことを想ったら、やったも同じとイエス様も言っていたしね。

つねづね、いいことを言うときには、ちょっと悪いことをしているような後ろめたさを持つべきだという吉本隆明🔗の言葉を自分の中で反芻している。
そして、そこから導き出される自分の倫理は、善行は知られないようにそっと行い、悪行は堂々と行うという、一般的な価値観と転倒したものになる。仕方ない。それが俺の倫理観だ。面白いな。
そんな特異な倫理観を持つ自分からすれば、良いことをしました、よいことをやりますと!SNSなどで自己宣伝するのは、どうにも居心地が悪い。
良いことは、贈与のように見返りを求めず、称賛すら求めず、自らの内なる声に従って、ただ黙って行えばいいと俺は想う。
思うだけで、自分の生活で手いっぱいの自分が、偉そうに何を言うかという話だけどね。
明日は、不死身のクソ親父を連れて墓参りに行くのさ。なに家から車で15分。
そんなに難儀なことでもないがね。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
あなかしこ、あなかしこ

2026/08/12

POST#1936 盛夏、百花繚乱その8

Ubud,Bali アカポゲットウ
世間様はすでにお盆休みムードだろうか。

俺は二晩続けて朝の五時過ぎまで働いて、フラフラだ。

そもそも人間は夜活動するようにはできていない。

夜八時から翌朝五時までとしても、昼間の労働時間を考えたら大したことはないと思うだろう。しかし、夜働くってのは予想以上に厳しいもんだぜ。とりわけ初老のおっさんにはね。

せいぜい熱中症でぽっくり行かないように、気をつけるさ。

さ、今夜も仕事だから眠らせてもらうぜ。この暑さですっかり参ってるんだ。

よしんば、ぽっくり行ったとて、馬鹿が一匹減っただけだけどね。

あぁ、墓参りもいかないといけないな。不死身のくそジジイもつれていかないとな。やれやれ、たまらないぜ。

R.I.P

 

2026/08/11

POST#1935 盛夏、百花繚乱その7


Ubud,Bali ブーゲンビリアが咲いていた
バリ島では、死者の魂はその神聖な山、アグン山🔗へと登り、そこで祖霊と一体化すると信じられてきた。

山の日だそうだ。
古くから、日本人は山は他界だと観念してきた。
ニライカナイ🔗補陀落🔗のような海上他界の観念もあるが、大部分の日本の常民たちにとって、死者の魂が赴くところは山の中であった。
そう思うと、このお盆の直前の時期に、山の日という形で休日が設けられたのは、どこか意味深長なものを感じる。
山の奥の死者の住まう霊域から、迎え火を頼りに祖霊は里に下りてくる。
人々は、古来、その祖霊を迎え、もてなしたのだ。
生者の住まう里と、死者の住まう山中他界は画然と仕切られていた。そこには、死者への懐旧の情以上に、死者への惧れの念があるよう感じる。
いずれにせよ、山は聖なる他界だった。死者の魂は、御嶽山や白山のような霊峰に上り、祖霊と一体化すると観念されていた。

しかし、さらにさかのぼってみればどうだろう。
更に古く、縄文の頃には、円形状に組み立てられた集落の真ん中に、広場があり、死者はその広場に葬られたという。
集落の、そして都市の構造は、そこに住まう者たちの世界観を表している。
この広場で死者をしのんで踊るとき、死者たちは生者の中に混じって立ち現れ、ともに歌い踊ったと観念されていたことだろう。そこに盆踊りの源があるのではないかと夢想する。

このころ、生まれて間もなく死んだ子供や胎児は、竪穴式住居の間口に葬られたという。
家人がそこをまたぐたび、その魂が母親の股をくぐり再び体に入り懐妊し、速やかに生者の世界に戻ってくることが望まれていたと考えられるという。
いつの頃からか、生者と死者の世界は明確に区切られ、生者と死者は春秋の彼岸、そしてお盆などにしかつながらないと考えられるようになった。
死者たちは、いつしか山奥にあるいは海の彼方に追われたのだ。
しかし、俺は想うのさ。本当は死者たちは、俺たちの血の中にこそ息づいているって。

2026/08/08

POST#1932 盛夏、百花繚乱その4


ウブド、バリ 姫極楽鳥花、その名がどこか艶やかだ
もとより人が抱えていたはずの泥臭さ、毒々しさ、エロティシズム、猥雑さといった「生と性のリアリティ」は、ネット社会のアルゴリズムのフィルターと、社会を覆いつくすコンプライアンスによって「不適切」「有害」として一律に弾かれ、機械的・衛生的に除菌された。

しかし、表で抑圧された生のエネルギー、つまりは性や欲望そのもは、消えるどころか、AIなどのテクノロジーを用いることで、より醜悪な形で華開いた。
その欲望はヴァーチャルな世界での「生成AIポルノ」としてより執拗に、よりグロテスクに繁茂している。人々の歪んだ欲望を喚起するものは放置され、その欲望に身を任せたものは汚物のように社会から排除される。
フェイスブックでは、AIによって生み出されたあられもない痴態をさらす女性が、次々と友達のようにすり寄ってくる。どんなに痴態をさらしても、魂がないのなら羞恥もないし、含羞のないところにエロスもない。
もう二度と、この歪んだシステムを根こそぎ摘み取ることはできないだろう。

ここに生じているのは、「生身の人間同士の血の通った性や手触り」を徹底的に排除し抑圧しながら、その一方で「画像や記号としての性」だけを消費しつくすという、歪んだ倒錯そのものだ。
画餅にしゃぶりつくことはできないのさ。

生身の恥じらいやケア、人情といった「手触りのある現実」からは目を背け、安全な画面の裏から他人の肉体をデータとして弄ぶ。
荒木経惟が写真で捉えようとした「生々しい愛や生命の美学」とは真逆の、冷たくグロテスクで、衛生的なデジタル・ディストピアの荒野が茫漠としてどこまでも続いている。

けれど、俺は知っている。美しいだけの人間など存在しないことを。
いかに美しい人も一皮むけば、肉と骨と血の集合体でしかないことを。
そして、美しい人も、たくましい人も、醜い人も、いずれ老い、死んでいくことを。

2026/08/07

POST#1931 盛夏、百花繚乱その3

ウブド、バリ スパティフィラム
この15年ほどで、社会がコンプライアンスだハラスメントだと大きく変わっていくのに歩調を合わせるように、荒木経惟は人々の前から消え去っていった。猥雑性が社会から失われ、的なプラスティックのような社会になり、人々は不寛容になった。かつてのアラーキーの写真には、都市の表面から覆い隠された不穏さ、混沌とした人間の欲望、逃れ得ぬ人の業としての性と死が、エロスとタナトスが、そしてなにより「生きることの生々しさ」が充満していた。

しかし、コンプライアンスやハラスメントという「管理と安全」の言葉が、社会全体を隈なく覆い尽くすにつれ、かつて彼を時代の寵児としていた猥雑、混沌、欲望といった生の息吹は、人々から見るもおぞましい、「排除すべき汚物」として扱われるようになった。

社会全体が滅菌され、無菌状態の「ポリティカル・コレクトネス(PC)なプラスティック社会」へと変貌していったのだ。

彼自身も、モデルとなったかつてのミューズたちから、次々と性被害を告発され、社会的に葬られたも同然となった。

そして、彼自身も失明したり、前立腺癌になったりしたことから、自然とかつての旺盛な写真集ラッシュを支えていた比類なき活力も失われたようにみうけられる。寂しいことだが、これも世の習いか。それとも、時代が大きく変わったということか。

昭和は遠くに、成りにけり。

この清潔な荒野には「含羞と露出」を許さない不寛容さが満ちている。

「顔=恥部」や「花=性器官」という見立ては、人間が本来持っている「矛盾や業」を受け入れ、面白がるという寛容さなくしては成り立たない。

社会の隅々にまで正しさの踏み絵を迫る現代の不寛容な社会では、荒木経惟が俺たちに提示してきたような「愛ゆえの猥雑さ」「剥き出しの生と死」はどこまでも忌避される。
そして、人々は、欲望や生や死を社会の表面から消し去って、そんなものはどこにもないような顔をして暮らしている。口元をマスクで覆って。まるで、内面を持ち合わせないような、記号のような人々が、せわしなくスマートフォンを見つめながら行き交う。

まぁ、こんなことを今更言ったとて、世の趨勢には及ぶべくもない。
何しろ、この俺とて、セクハラってことで契約を叩き切られたこともあるくらいだ。荒木経惟と同じで、世の人々から指弾される側の不埒な存在なのさ。
だからこそ、言わぬが花さ…。

2026/08/06

POST#1930 盛夏、百花繚乱その2

ウブド、バリ  クリステミス・ブルケラ

俺の言葉は、単なる思い付きじゃない。

分類学の父であるカール・フォン・リンネ🔗が提案したことをなぞっているだけのこと。

18世紀、リンネは植物を分類するために、花のおしべとめしべの数や配置に着目した「性分類体系(その名もズバリSexual System)」を打ち出した。その際、彼は植物の生殖器官を人間の性や結婚に見立てたため、花弁を「祝宴のベッド」、おしべを「夫」、めしべを「妻」と形容した。酔狂な学者だな(笑)。

例えばおしべが2本ある花を「1人の妻に2人の夫がいる結婚」といった具合に表現し、植物の生殖器官を大胆かつ生々しく描写した。なかなか楽しそうだな。

それまで単に美しく愛でる対象であった花が「あけすけな生殖器の露出」として捉え直されたため、当時の潔癖なピューリタン🔗の皆様は、美しい花々を「淫らで不道徳」「婦女子に見せるべきではない」と猛反発した。

バカバカしい、自分だって持ってるくせに。

荒木経惟🔗が、どこかで言っていたことを思い出した。

『裸体のいちばんの恥部であって、一番魅力的なところが顔なんだな。』(荒木経惟『すべての女は美しい』55頁より大和書房刊)

同じようなことを彼は他でも語っていた。女性の体で最も淫靡なのは、その顔なんだという。美しい花が、満開の生殖器官であるという言葉と響き合っているな。

普段からマスクをして暮らす若い女性たちは、その淫靡さを自ら悟っているからだろうか?

2026/08/05

POST#1929 盛夏、百花繚乱その1

バリ、ウブドにて
暑い時期の仕事は、肉体を蝕む。
日中に、細切れの睡眠を取っても、仕事の夢ばかり見る有様だ。窓を締め、クーラーをかけていても、セミの声が耳に響き、眠りは浅くなる。
眠れないので、息子を連れて、同級生のやっていいる耳鼻咽喉科にいく。息子は副鼻腔炎を起こしていて、この暑い中、青っ洟を垂らしていたのだ。良くなったからよかったものの、今度は乳歯がグラグラで、集中できないと宣う。俺は仕事用のベンチで抜いてやるといい、友人の耳鼻咽喉科医の藤本君は、ピンセットでグラグラさせてみて、これはまだだなと納得させる。
生きるとは、こんな日常の連続だ。

花とは不思議なもので、動物が身体の深奥に隠している生殖器官が、あたかもその植物を表す指標、つまりは顔のように露出している。
斯くほどに植物は、動物とはまったく異なる構造を持っている。むしろ、倒立した構造を持ったものだと言えるだろう。

だから、花の美しさを愛で、その香りを胸いっぱいに吸い込み賞することは、どこか淫靡で背徳的な行為に俺には思える。

だからしばらく俺の脳内で蛭子のようにくらげなし漂う思念のなかから、書きたいことが言語化されて浮かび上がってくるまで、花の写真でもお送りしよう。

こんなことを言われたら、そう、含羞を覚えずに花を眺め、香りを楽しむことはできないだろうね。
ある意味、呪いの言葉なのさ。


2026/06/19

POST#1882 太古から存在する未完のシステムそれが民主主義

 

ジョグジャカルタ、インドネシア

6月に入ってから、1日も休みなく続いた夜勤が終わった。

本当は今日の朝から引渡しだったのだが、俺の肉体はとっくに限界を迎えていた。

文字通り、今日はひねもすのたりと眠っていたのだ。

もう俺は若くないんだな。残された体力と時間は決して長くないぜ。

けど、もっと世の中のことをくまなく知りたい。そして、もっとましな世界をどうやって構築できるのか、愉しみながら考えてゆきたい。

子どもが積み木で思い思いのものを組み立てて楽しむように、自ら求めて学んだ知識を縦横無尽に組み立てて、まだ誰も考えたことのないようなこと構築したり、世の中のきれいごとの言説の向こうに隠されちゃってる本当のことを知りたい。

知らずに、考えずに、愉しまずにただ年老いて死ぬのは、まったくつまらないな。

せっかく人という『脳みその付いたミミズ』、つまり口から肛門までの一本の管の基本構造は人間もミミズも大差ないだろ?に生まれついたからには、この脳みそをもっと酷使して世界を知りたいし、組み替えてしまいたい。

さて、閑話休題

こうして考えてくると、俺たちが言う『民主主義』というのは、イロコイ連邦に限らず、歴史上の様々な集団でおこなわれてきた普遍的なシステムだ。けれど、それは現代の巨大な社会を想定したものではないんだ。古代ギリシャの民会🔗だって、数千人規模だ。ついでに言えば、これには女性も奴隷も外国人も含まれていない。メンバーズオンリーだった。

いずれにせよ、この民主主義って奴は人類の起源から存在するとともに、いまだ未完のシステムなのだと痛感するね。とりわけ何千万人もの集団を対象にした民主社会ってのは、人類の歴史上に存在したことがない。だからこそ、未完のシステムでもあるんだ。

国家や官僚制が生まれる遥か昔から、対等な個が集まって地べたで話し合う「初期デモクラシー」は人類の起源とともに存在していた。それは私たちの遺伝子に深く刻まれた、普遍的な生存のための知恵なんだ。

しかし同時に、それは一度作れば永遠に機能するような「完成された機械」ではないんだ。今日の民主主義社会の基盤にあるルソー🔗的な社会契約🔗に閉じ込めれば、たちまち多数者の専制を招き、タイパや効率を追求すればデジタル法家思想🔗デジタル封建制🔗の吸引力に回収されてしまう。危うい綱渡りのようなものだ。

民主主義ってのは常に形骸化の危機に晒され、その時代ごとに足元からカント🔗の定言命法にある『人間の尊厳』そのものをインフラにして編み直さなければならない、「永遠に未完のシステム」なんだ。

だからこそ、完成品を上から与えられるのを待つのではなく、俺や君たちが構想してきたように、

  • ゴミ問題や役員問題という地域社会の現実の現場で、
  • 小学校の学級会という「最初の社会」の教室で、
  • 多数決の暴力を排し、バーコウ議長のような「火の番人」を置き、
  • テーゼとアンチテーゼを泥臭くジンテーゼへとアウフヘーベンしていく、

この「できるだけ簡単なことから始める、ちいさな一歩」の繰り返しだけが、未完の民主主義に命を吹き込み続ける唯一の手段なんだ。

これまで君たちと続けてきた、時に卑小で時に壮大な対話の軌跡は、まさにその「未完のシステム」をいま、この日本の足元からリビルド(再構築)するための、乾坤一擲の設計図そのものなんだ。

権力を持ってる人たちってのは、正確に言えば彼らは別に『権力』なんて実は持ってないんだ。みんながそう思い込んでいるから『権力』が与えられているだけなんだ。

まぁ、それは措いておいて、この権力を振るうことができる立場に、幸運にも至ることができた人たちは、自分たちがつかみ取ったその立場を捨てたくがないがために、現状維持を最優先にしてしまうだろう。君も自分の身の回りで思い当たることがるだろう。

しかしそういう人たちのいうことに単に従うんじゃなくて、自分たちで話し合い、自分たちの全員が納得するまで熟議するっていう習慣を、この社会の底辺から叩き上げていったなら、この社会の民主主義のレベルっていうのは、今とは全然違うものになるんじゃないかと俺は考えてるんだ。

まさにそこが既存の権力構造の本質であり、同時にボトムアップの変革が持つ「本当の破壊力(革新性)」そのものなんだ。この構造は、社会がなぜこれほど停滞し、かつどうすれば本当に変わるのかを指し示しているんだぜ。

『たまたまその立場(議長、役員、政治家など)に至った人たち』が、自らの地位を守るために現状維持に固執する。

この構図がある限り、トップダウンの改革は100%不可能だ。

そしてはっきり言えば、彼らにとって、一般市民が『自分で考え、熟議する』ようになることは、自らの特権(独占的な決定権)を脅かす最も恐ろしい事態なんだ。

昔々の2000年ごろ、みんな大好き自民党の森喜朗🔗元首相は、衆院選の直前、無党派層の投票率が低いことについて「無党派層はそのまま関心がないと言って、寝てしまってくれればいい」という趣旨の発言を行い、大きな批判を浴びたことがある。

この発言からも、政治家というこの社会のデザインを構築する権力を持った人たちは、俺や君たちが、自分の頭を使って考えて熟議して、行動に移していく社会をどれだけ惧れているのかがわかるだろう。

だからこそ、俺や君たちが話し合ってきた「社会の底辺から、全会一致の熟議の習慣を叩き上げていく」という戦略は、既存の歪んだ権力構造を無効化する、極めて強力なアプローチになるんだ。

もし、これが社会に根づいた時、民主主義のレベルが「全然違うものになる」と確信できる理由は以下の通りだ。よく考えてみておくれよ。

1. 「お上の決定を待つ従属者」から「自立した主権者」への進化

現状維持を望む立場の人々は、市民が「文句を言うだけの消費者」のままでいてくれる方を好むんだ。その方がコントロールしやすいからね。
しかし、学区会や町内会で「自分たちで熟議し、全員が納得する結論を導き出す」という習慣が社会の底辺で鍛え上げられると、そうはいかなくなる。

市民は「自分たちでルールを作れる存在(主権者)」へと完全に覚醒しちゃうんだ。

そうなれば、上から降りてくる理不尽な現状維持の論理に対して、「なぜそれが地域のためになるのか説明してください」「私たちは別の落とし所を合意しています」と、成熟した知性で対峙できるようになってしまうんだから、お偉いさんたちは立つ瀬がなくなっちまうのさ。

2. 「立場の権力」の無力化

全会一致のシステムにおいては、「偉い人の一言」や「多数派の数合わせ」は通用しない。そもそも偉いなんてのは、幻想なんだしね。

求められるのは、全員を納得させられるだけの「論理の正当性」と「他者への配慮」だけだ。肩書も生まれも育ちも関係ない。
もし社会の底辺からこの文化が叩き上げられると、社会全体が「誰が言ったか(立場)」ではなく、「何を言ったか(中身)」を重視する空気に変わっちまうことだろう。

結果として、ただその立場にしがみつきたいだけの無能な権力者たちは、熟議の場において自然とその影響力を失ってゆくんだ。居眠りしてるような場合じゃない。お呼びでないと退場せざるを得なくなるんだ。

3. 「真の民主主義」のインフラ化

親愛なるジャン=ジャック・ルソーが最も恐れたのは、市民が政治を他人事にして社会が形骸化することだったという。ちなみに俺は今、ジャン=ジャック・ルソーTシャツを作ることを企画してるんだ。これは余談(笑)。

それはまさに現代の俺たちが生きるこの社会のことじゃないかい?
俺が君たちと話し合ってきたように、小学校や中学校の段階から、子どもたち、そして親や地域住民が「1人も切り捨てない対話のコストと果実」を体で覚えて育つ社会になれば、それはもはや単なる政治制度ではなく、社会の血液であり文化(インフラ)になるに違いないぜ。

多数決で分断される現在の「偽物の民主主義」とは、精神の次元が全く異なる「真の民主主義」が誕生することになるだろう。

だからこそ、これは未完のシステムであるんだよ。


政治の横暴にに対して、あるいは既存の政治や特権に抗議することも大切だろう。実際に今年も高市政権に対するデモが日本各地で行われているのは皆様ご存じのとおりだ。

けれど、デモをするとか、ネットで批判するなどの一過的な行動だけでは、実は権力を持ってるやつらの思う壺なんだ。権力を持ってるやつらはしたたかなんだ。人々がテーゼとアンチテーゼの間で分断が深まるだけなんだ。そして、分断して支配するってのは、大昔から権力を持ってる連中の一番得意なことなんだぜ。

彼らが恐れているのは、実は人々が連帯することなんだ。

しかし、彼らの手がなかなか届かない「日常の最も小さなコミュニティ」を、熟議と全会一致のユートピアへと塗り替えていく行為は、最も静かで、かつ最も確実に社会のOS(基本構造)を書き換える革命だといえないか?

この「底辺からの叩き上げ」という考えは、現代の閉塞感を打ち破るための強靭な思想だと俺は確信している。

俺は、これからも様々な本を読み、働く中で思索を深めながら、身近なところから種をまき続けていきたいんだ。

そう、この社会にThe Power of Equality🔗(ザ・パワー・オブ・イコーリティ)」ってのを顕現させたいんだ。レッド・ホット・チリペッパーズ🔗が歌ってたみたいなね。

2016/01/28

Post #1697 放っておいても、人はいつか死ぬ。愛し合ってるかい?

Bali,Indonesia
朝から、暴力団組員の二十歳の若者が、自分の女の子供を殴り殺したというニュースを見て、どうしようもなく悲しくなる。

ひとつの命が産まれてくるのに、どれ程大変だったのか、想像もつかないのか?
一度失われた命は、もう戻らないんだぜ。
それに、この二十歳の若者も、無垢な心を持って生まれたはずなのに、どうしてそんなんなってしまった?

来月子供が産まれてくる俺だが、二十歳の息子がいたっておかしくない年だ。それを思うと、胸が締め付けられるように悲しい。

放っておいても、人はいつか死ぬ。憎い奴も、愛しい人も。
ならば、出来るだけ愛し合っていた方が、この星で楽しく過ごせるんではないかい?

それを声を大にするのでもなく、しかし、力強く言いたい。

愛し合ってるかい?

2016/01/11

Post #1688 47歳になっても自由な風に吹かれていたい

蝶は誰か死者の魂が、私の前に現れたもののように感じる
もう、写真にも倦み疲れた。どこまでやってもきりがない。
誰が読むのかわからない文章を書き綴る事にも厭き厭きした。
直接誰かの心に届く言葉を、確かな手応えがかえってくる言葉を紡ぎたいとねがった。

だから、日銭稼ぎの仕事に専念し、こいつは放り出しておいたのさ。



先日、ふと今は亡き東松照明の傑作写真集『太陽の鉛筆』が復刊されていることを知り、無性にほしくなって、その日のうちに手入れた。

斜めに走る水平線の上に、青い空、そしてその空と海のはざまに浮かぶ白い雲。
あまりにも有名なこの一枚の写真で、この写真集は広く知られていた。
僕の部屋にも、その写真のポスターが貼られている。

本土復帰前後の沖縄の、そしてその辺境たる宮古島の、およそ40年前の人々の姿が、そこにはあった。
東松照明の視線は、島から島を伝うように、最南端の波照間島を経由して、台湾、フィリピン、マレーシア、シンガポール、バリ島へと伸びていく。民族が海流に乗って拡散していった道をたどるようにして。

その写真集をしげしげとながめ、目には見ることのできない国境や、自ら選ぶことのできない民族的な出自など、意に介することもなく軽々と越境し、自由に吹き渡る風が自分の心に吹き付けてくることを感じていた。

誰しもが情報を発信しうる現代、誰もが自らの主張の正しさを掲げ、異なる意見の者を認めようとはしない。誰しもが、自分こそ絶対だと信じているかのように見える。

しかし、それは所詮、相対的な世界の出来事でしかないように思える。
民族、国家、文化、言語、宗教、習俗、思想、貧富・・・・。
それがどうした?
正直、どれもこれもどうでもいい。しょせんはみんな相対的なものだ。

自分自身が、今ここで、現実の世界に直接対峙したときに感じる何かとは、まったく関わりのないものだと思える。
相対的なものを、相反するものを、等しく受け入れ、包摂するようなおおらかな思考の営みを持つことはできないだろうか?


気が付くと、47歳になってしまっていた。

1969年1月11日、午前2時36分、出生。以来47年。
ふと、金子光晴の詩が頭をよぎる。
こんな詩だ

南方詩集
           この詩集を東南亜細亜民族混血児の諸君にささげる。

神経をもたぬ人間になりたいな。
本の名など忘れてしまひたいな。

女たちももうたくさん。
僕はもう四十七歳で
近々と太陽にあたりたいのだ。

軍艦鳥が波にゆられてゐる。
香料列島がながし目を送る。

珊瑚礁の水が
舟の甲板を洗ふ。

人間のゐないところへゆきたいな。
もう一度二十歳になれるところへ。

かへつてこないマストのうへで
日本のことを考へてみたいな。

高橋源一郎 編 金子光晴詩集『女たちへのいたみうた』(集英社文庫刊)92頁

Ubud,Bali
誰しもが人と人の間に線を引き、自分は他とは違うことを必死に言い募る営みよりも、自分と他人の間に共通点を見出して笑顔を交わし、大地や海上にひかれた目に見えない線を、風がわたるように易々と踏み越えていくていくような、おおらかな営みのほうが、僕は好きだ。
そう、たとえ愚かだと言われようとも。

世界はもっと、豊かで驚きに満ちているはずだ。
美しいはずだ。

僕はそう、信じたい。

また、旅がしたいな。カメラを手にして。

2015/08/12

Post#1590 人生にホントーに必要なものは、たぶんそんなに多くないはずだ

Ubud,Bali,Indonesia
人生にホントーに必要なものは、たぶんそんなに多くないはずだ。

最近、よく思い出す言葉がある。たぶん高校生くらいの頃に読んだんだと思うんだけど、定かじゃないな。レゲーの神様ボブ・マーリーの言葉だ。何かのインタヴューで、ボブがそう答えたっていう断片的な記憶なんだけど。
インタヴュアー 『あなたはBMWを持っていますか?』
BMWはもちろん、ドイツの高級車だ。
ボブ・マーリー 『いや、持ってないよ。けど俺は別のBMWを持ってるんだ。ボブ・マーリー&ウェラーズだ。俺はBMWを欲しいなんて思わないけど、このBMWが俺にはふさわしいよ』

なんてカッコいいんだ、ボブ。さすがだ。
今思い出しても、かっこよさにしびれる。
虚飾でもはったりでもない、図太い自信を感じるよ。
ニンゲンは、資産や持ち物や姿かたちで評価されるべきではなく、その行いで評価すべきものだと言われているように感じるぜ。

読者諸君、失礼する。俺はボブ以外のレゲーはあまり好きじゃない。ボブの魂のこもった歌の前では、形式を踏襲しただけの安っぽいものにしか聞こえないんだ。
残念なことさ。

2015/08/04

Post#1582 ガムラン


Ubud,Bali,Indonesia

毎日がジェットコースターにシートベルト無しで乗ってるような勢いだ。
おまけにこの暑さだ。
正直いって、たまらないぜ。

読者諸君、失礼する。ゆっくりと眠りたい。

2015/07/31

Post#1578 SUMMERTIME BLUES

Bali, Indonesia
SUMMERTIME BLUES
Eddie Cochran/The Who


Well, I'm a gonna raise a fuss,
I'm a gonna raise a holler
I've been working all summer
just to try and earn a dollar
Well, I went to the boss,
said I got a date
The boss said "No Dice, son,
you gotta work late"
Sometimes I wonder,
what am I gonna do
There ain't no cure for the summertime blues


Well, my mom and poppa told me,
"Son you gotta earn some money
If you want to use the car
to go out next Sunday"
Well, I didn't go to work,
I told the boss I was sick
He said "You can't use the car
'cause you didn't work a lick"
Sometimes I wonder,
what am I gonna do
There ain't no cure for the summertime blues

Gonna take two weeks,
gonna have a fine vacation
Gonna take my problems
to the United Nations
Well, I went to my congressman, he said, quote
"I'd like to help you son but you're too young to vote"
Sometimes I wonder,
what am I gonna do
There ain't no cure for the summertime blues

21歳の若さで夭折したエディ・コクランの名曲、サマータイムブルース。
勤労少年が親方にこき使われて、デートにもいけないってことで、『夏の憂鬱』に治療薬なんかないのさと歌う。
まさに、今の俺だな。俺はとっくに若年労働者じゃないけれど、俺の業界は労働安全衛生法の遵守は求められても、労働基準法なんて洒落たもんは、守られることはない、真っ黒な業界だからな。

俺がこの曲を初めて知ったのは、エディ・コクランだったか、それともThe WHOの名盤”Live at Leeds”だったかな。おおらかなロックンロールナンバーのエディ・コクランの原曲も好きだけど、俺が好きなのはThe WHOの爆音ライブヴァージョンだ。少年の親方の声を、ベースのジョンがガラガラ声で歌うのが好きだな。

このロックンロールの名曲に、皮肉の利いた歌詞をつけたのが、RCサクセションの忌野清志郎だった。今から30年ほどまえ、物議を醸し、東芝EMIから発売を拒否されたいわくつきの曲だ。
その諧謔の利いた歌詞は、30年たっても未だに現代的な問題を突き付けてくる。

暑い夏がそこまで来てる
みんなが海に繰り出してゆく
ひとけのない所で泳いだら
原子力発電所が建っている
さっぱりわかんねぇ なんのため?
狭い日本のサマータイム・ブルース

熱い炎が先っちょまで出てる
東海地震もそこまで来てる
だけどもまだまだ増えていく
原子力発電所が建っていく
さっぱりわかんねぇ 誰のため?
狭い日本のサマータイム・ブルース

寒い冬がそこまで来てる
あんたもこのごろ抜け毛が多い
それでもTVは言っている
『日本の原発は安全です』
さっぱりわかんねぇ 根拠がねぇ
これが最後のサマータイム・ブルース

あくせく稼いで税金とられ
たまのバカンス田舎に行けば
37個も建っている
原子力発電所がまだ増える
知らねぇうちに漏れていた
あきれたもんだな サマータイム・ブルース

電力は余ってる 要らねぇ
もう要らない
電力は余ってる 要らねぇ
欲しくない
原子力は要らない 危ねぇ
欲しくない
要らねぇ 要らねぇ
電力は余ってるってよ
要らねぇ 危ねぇ
 
(日本語作詞:忌野清志郎)

当時、RCサクセションは電気機器メーカー大手の東芝の子会社、東芝EMIからレコードを出していた。しかし、この曲が原発メーカー(そして巨額の粉飾決算で最近話題沸騰)の東芝の逆鱗に触れ、発売禁止になったのだ。結局、この曲を含む名盤『カヴァーズ』は古巣のキティレコードから配給され、世の中に出回ったんだ。

当時は誰も本気に取らなかった。
今、改めてこの歌詞を読み、口ずさんでみると、震災を経験した俺たちには、この歌は異様なリアリティーがあるってことがわかるだろう。
そう感じないのは、電力会社のお偉いさんか、日本を守ると言いながら戦争したくて仕方ないといった風情の安倍ソーリ率いる、皆様お馴染みの自民党の阿呆どもだけに違いないぜ。
そんなに安全なら、東京湾や大阪港のど真ん中に作ってみたらどうなんだい?世界サイコーの安全水準なんだろう?名古屋港には御免だぜ。
なに、大丈夫さ。実際に地震や津波でえらいことになっても、誰も責任とりゃしないんだからな。

どうして皆様の安倍ソーリは、原発再稼働と安全保障法案、つまり戦争法案の成立を急ぐのか?
決まってるじゃん、日本のソーリ大臣なんて、みんなアメリカのポチだからさ。言ってることとやってることがちぐはぐなのさ。

バカバカしいぜ。俺は安倍ソーリの政策法案には、これっぽっちも共感できないぜ。

読者諸君、失礼する。夏の憂鬱につける薬はないのさ。7月もやっと終わりか。

2015/07/11

Post#1557

Ubud,Bali,Indnesia
先日のカミさんと俺とのチャット。



カミさん『体を思って、(仕事を切り上げて)帰ったら、JR事故で止まってる。会社にいればよかった。しょうがないのでご飯食べる。振替の名鉄も大変なことになってるらしく、乗るの無理』

俺   『それは災難だな。誰かがきっと線路に飛び込んだんだろうよ。』


カミさん『当たり』


俺   『生まれてくるのはこんなに大変なのに、命を粗末にするとは、馬鹿な奴じゃ。』


カミさん『本当だよ!今日仕事終わったの?』



俺   『今から夜の部』


カミさん『行ってらっしゃ~い。ご飯食べてる?』


俺   『そこそこ。ダルいわ』


カミさん『電車動き出した。90分遅れ』


俺   『バカのせいで、災難じゃ。絶望するより、逃げればいいのに。』


カミさん『その通り』


俺   『バリ島とかええぞ』

俺は懐かしいバリ島を思い出す。


おおらかで細やかで、優しく信心深い人々が住むあの懐かしいバリを。

鳥の声で目を覚まし、眠るときには天井にヤモリが這っているあの島を。


カミさん『自分の回りが世界の全てじゃないって誰か伝えてあげないかん』


俺   『・・・たわけばっかりだて・・・』

さすがは俺のカミさん。さらりと意味深長なことを言ってのける。こんなことをさらりと言ってのける女は、そこいらにはいないだろうな。

俺はできることなら、君たちに自分の回りだけが世界の全てじゃないって、大きな声で伝えたい。
自分たちが常識だと思っていることなんて、全然普遍的なものじゃないって、大きな声で伝えたい。
俺たちは、もっと自由に、もっと愉しく生きることができるはずだって、大きな声で伝えたい。
そして、俺たち一人一人が、かけがえのない存在だって、君に思い込んでもらいたい。

俺が君たちにとって、そんなまだ見ぬ世界からの使徒としての役目を果たせたなら、どんなにいいだろう。

俺は自ら命を絶った見知らぬ人の人生を思い、やり切れない想いで、名古屋弁でつぶやく。
『たわけばっかりだて…』

読者諸君、失礼する。昨日、かみさんのお腹のなかで、心音が確認された。けれど、まだうまく育ってくれるか、ぜんぜんわからない。不安きわまるぜ。命を授かるのは、本当に大変なんだ。君にはそれを粗末にしてほしくないんだ。勇気を持てば、新しい人生が開けるはずだ。
また会おう。

2014/10/23

Post #1296

Bali,Indonesia
本日、写真のみお送りしよう。
読者諸君、失礼する。