2012/04/05

Post #497 On The Road

本日、久々に寸暇を縫ってプリント25枚。
モロッコのマラケシュの写真だ。ただ今乾燥中なんで、明日以降、順次お見せしよう。
写真を撮っていて面白いのは、路上の暮らしだ。トルコでも、ベトナムでも、香港でも、モロッコでも、人々は路上でいろいろとやっていた。
生活の場が、個々人の暮らす住宅の中から、路上にはみ出している。路上で人々が交わり、生活を営んでいる。子供たちが、路地でよれよれのボールでサッカーをしていたりする。屋台のような店が並び、道に商品を広げただけの店とも呼べないような店もある。値段は決まっていない。客と店主の交渉によって、妥当な値段が決められていく。
日本では、路上は単に人々が行きかい、車が走り抜けるだけのものになってしまっているけれど、本来道とは、こんな雑多なものだったんだなと、楽しくなる。昔の日本もこんなようなものだったに違いないが、今は違う。人びとはただ忙しそうに道を行き交うだけだ。無駄がないと言えばそれまでだが、人生ちゅうのは、一見無駄な行為によって奥行きが出てくるんじゃないのかい。街も同じだろう。道路に、人々のプライベートな空間がはみ出している。どこからプライベートで、どこからがパブリックな空間か、混沌として判然としないわけだ。まるで、街の内臓がむき出しになっているように感じる。
まさに路上生活だ。そういってしまうと、今の日本ではホームレスを連想してしまうが、生活の場が路上にあるといったような意味合いでの路上生活だ。
どこに行っても、ただ街をブラブラ歩き、立ちどまることすらなく写真を撮っていく俺には、こういった路上生活は大のご馳走だ。
HongKong
俺は自分が、人間好き、つまりヒューマン・インタレストだと痛感する。どんなに雄大で美しい景色でも、人間の生活感ちゅうか、人間臭さがしない風景は、ことさら写真に撮りたいとも思わないからな。
路上の暮らしは、まさにそんな俺にうってつけなんだ。
確かに日本はどこに行っても整然としていて、キレーだけれど、路上に生活感があるかと言ったら、むしろないわな。強いて言ったら、ホームレスのおっさんの家とか、屋台とかか。しかし、行政はホームレスを公園から締め出し、街から追い出そうとしている。屋台は縁日なんかの得意な場所に限られているのが実情だ。
路上での暮らしが無くなったことで、俺たち日本人が失ったものは多いんじゃないだろーか。
確かに俺たち日本人は、世界的に見ると最も豊かな民族だ。子供たちは、よれよれのサッカーボールを、暗くなるまで追いかけることもない。塾の合間にPSPで遊んでいることだろう。
道端で、人びとが語り合い、笑いあう姿を見ることもまれだ。何といっても、ココ日本では、道は通行するものだからね。そんなことしてちゃ、すぐに車に轢き潰されちまうさ。道に人々がたむろして、集まれば、すぐにオマワリが飛んでくる。道路は、通行するためのもんだからな、仕方ないか。
けど、そんな暮らしが無くなって、俺たち日本人は、おおらかさまでなくしちゃいないかい?
身のまわりは抗菌素材で、ガードされている。マスクなんて、俺のガキの頃は口裂け女くらいしかしちゃいなかっただろう。けれど、今じゃどうだ、どれも彼も、目に見えないものを気にして、マスクをして足早に歩いている。そして俺たちはいつでも些細なことで、目くじらを立てていさかっている。
そういえば、もう14年もの間、自殺者は年間3万人を越えているそうだ。
まぁ、路上の暮らしの有無とは、何の因果関係も見い出せそうにないけれど、俺はそこに何か風が吹けば桶屋が儲かる式のつながりを感じないではいられないぜ。
読者諸君、失礼する。いつかどこかの街角で、君と遭うことがあったら、ぜひそこらの道端で、長話してみたいもんだ。

2012/04/04

Post #496 春の嵐は、家の中にも吹き荒れる

日本全国を爆弾低気圧による嵐が駆け巡った。俺も午前中から客先に行っていたんだが、不穏な空気を感じて、さっさと家に帰ってきた。今日はうちの連れ合いも有給休暇をもらって家にいるからな。
凄い雨風だ。車の運転をしていても、思わず目を瞠り、危険を感じるほどだと言いたいが、実際の俺は昼にコンビニで買ったチャーシュービーフンが腹の中で膨れ、なおかつ、急激な気圧の低下で眠くて眠くて仕方なかった。まだ完全に俺の体は復調していないんだろう。のんびり運転して帰ってきたんだ。
家に帰ってくると、すりゃスゲー雨だ。ホースで窓ガラスにジャバジャバ水をぶっ掛けているような勢いだ。これは仕事なんてしていないで、家でのんびり楽しむに限るな。大けがをしたり死んだりする人もいるのは承知しているが、俺は、こんな台風や嵐を家の中から楽しむのが好きだ。とはいえ、そのうちに飽きてきて、昼寝していたりするのが通例なんだが。
Bruxelles
で、夕方にはすっかり嵐はどこかに去ってしまったんだが、家庭内の嵐はそのあとで吹き荒れる。
うちの連れ合いは、俺が低気圧と腹の中のビーフンの余韻に浸ってまどろんでいる間、ずっと写真の整理をしていたみたいなんだが、夜になって、出来上がったアルバムに貼るタイトルを、テプラで作ってくれと言ってきた。面倒臭い。自分でやればいいものを・・・。
俺は、こう見えて神経質だから、テプラに文字を入力しながら、文字のサイズや字体を確認し、設定を変更したりしていたんだ。以前のものと整合性がとれていないのは嫌だからな、自分のものじゃなくても。しかし、女ってのは大抵そんなことは気にしない。男と女では気になるポイントが、全く違う。
俺は、年に3回くらいしか使わないテプラの入力に手間取っていた。あれはなんだか使いにくいもんなんだよ。分かって欲しいね。
うちの連れ合いは、そのうちに、遅いとか言って文句をいいだした。小バカにした雰囲気すら漂う。
俺は、かなりイラッときた。そんなことを抜かすんなら、自分でやってみろよと、すべての設定をクリアしてテプラを渡すと、なんでそんなことを自分がやらねばならないのかと、ブー垂れる始末。それでもやらせてみると、10分以上かかっているじゃないか。まぁ、それをストップウォッチで測る俺もかなりねちっこいが。
で、小ばかにしやがって謝れ、なんで自分が謝らなけりゃならないの、それこそ馬鹿じゃない?というまったく以て下らん応酬の末、俺は頭に来てテプラを不燃ゴミのゴミ箱に叩き捨てた。これさえなければ、今後二度と作ってくれと頼まれる事もないし、所詮は貰いもんだ、叩き棄てたところで、惜しくもないわ、内心少し惜しいけど。
で、俺はプリプリしながらも、気持ちを切り替えて仕事の電話をかけはじめたら、うちの連れ合いは、ゴミ箱のテプラを拾って、食器棚の扉に叩き付けている。『何やってんだ!やめろ』俺は怒鳴った。
俺は仕事の電話を切ると、いい加減にしろよ!と声を荒げて詰め寄ったが、当の本人は全く反省する風もなく、『いつもあんたがモノにあたるから、どんな気分がするかわからせようとしてやった』とかビミョウに位相のずれた事を言うばかり。
謝れっていっても、ゴメンとはいうが、何を謝ってるのか自分で分かってるかと聞くと、『あんたがゴメンって言えっていうから言った』と抜けしゃあしゃあと答える始末だ。連れ合いとは、もう18年くらいになるけど、実はこいつはとんでもなく強情だ。いつだってこうだ。挙句の果てに、すぐにもう出ていくとか、別れるとかいうんだぜ。こんなんじゃ、何を言っても仕方ない。疲れるだけだ。
以来、バカらしくって口もきいていない。昔のソヴィエトとアメリカの冷戦状態を思い出したくらいだ。バカバカしいと思っても、若い頃と違って、いろいろと抜き差しならないものもあるしな。若い頃なら、家を飛び出して友人の家に転がり込んだりもしただろうが、さすがに40越えてそんなことをすれば、転がり込まれた方も、大概メーワクきわまるってもんだろう。だから今夜も居間のホットカーペットの上で、毛布一枚で眠るのさ。なに、これも人生さ、ロックンロールさ。それにしても、とんでもない春の嵐だぜ。

2012/04/02

Post #495 I Just Believe In Me

俺は常日頃、自分自身が一番使用できないんだと言って、まわりの連中から失笑を買っている。
自分自身が、自分の希望や理想を裏切っている、もしくは、さまざまな事情によって自分自身に課した目標を達成できないことを、よく知っているんだ。
それには能力の問題や、さまざまな諸事情もあるだろう。体力的や事や時間的なこともあるだろう。俺はいつだって、マトモな人間になりたいと思っているんだが、往々にして、さまざまな要因によって、自分自身を裏切ってしまうんだ。急に仕事が入ったりとかね。
一番わかりやすいのは、アレだよ、アレ。プリントしようと思っていたんだが、どうしてもやらなけらやならない仕事が入っちまって、出来なかったんだぁ~とか、腰が痛くってプリントどころじゃなかったんだぁ~とかいうアレだよ。
この意志の弱さによって、俺は自分の人生の時間を無駄使いしてるんだ。
いつだって、半ば不可抗力といってもいい力の作用によって、俺の意志と希望はその軌跡を曲げていくことになってしまうんだ。そう、ブラックホールの近所を通る光が、その強力な重力によって、捻じ曲げられてしまうようにね。
もしそうじゃなかったら、俺は今頃は凄いことになっていることだろう。こんな少数精鋭主義の読者さんだけに寝言のようなブログを書いてるんじゃなくて、大手出版社のオファーで、パンピーが有難がるような自伝でも書いたりしてるだろう。いや、ああいうのはテキトーにあることないこと喋ってふくらまして、あとはゴーストライターが上手いこと仕上げるってもんだろう。気楽なもんだ。
Bruxelles
しかし、俺はそんな自分を納得させる、人生の法則を会得しているんだ。普段は、なかなかに教えない。授業料は高いんだ。おねーちゃんのいる飲み屋とかに連れて行ってもらわないと、決して言わない。しかし、読者諸君は特別だ。俺の上得意様だ。日頃の感謝をこめて、こっそりとお教えしよう。行くぞ!
人生、打率3割!
これだ。つまり、人生のうちで、3割ほど自分の思い通りになるんだったら、それはかなりのものだってことだ。
どんなバッターだって、3割くらいの打率があったなら、かなりの強打者とみなされるだろう。違うかい?中にはイチローの様にずば抜けた打率の奴もいるにはいるがね。しかし、3割ほども自分の理想に沿って行けたり、希望通りの人生を歩むことができたなら、これはうむ、もう人生の達人と言ってもいいんじゃないだろうか。何もかも自分の希望通り進むと思ってるのは、よほどの阿呆だろう。悔し涙で毎晩枕を濡らすがいいさ。
いいかい、人生打率3割理論ってのは、ある意味、せせこましくって、そのくせなんでも自分の思い通りになると勘違いして、勝手に悩んでいる現代人のみなさんに、大きな光明になる考えだと思うんだ。例えばだ、希望の学校や会社に入れなくても、それは人生のからぶってる7割の部分だと思えば、何も鬱病になったりする必要もないわけだ。
自分の好みの女の子とは上手くいかず、何故か自分の好みとはゼンゼン違う女性と所帯を持つことになっても、それは本当に自分の人生にとって、重要な、そう、外すことのできない3割の中には入っていないんだって思えばいいんじゃないのか?ひょっとすると3割1分くらいのところではあったかもしれないが。まぁ、なんだ、人生、7割くらいの諦めが肝心だ。
つまり、もっとわかりやすく言うとだね、河を泳いで渡ると、自分の目論見としては、まっすぐ最短距離で対岸に渡ってしまいたいが、怒涛の流れによって下流に流されながら、何とか対岸にたどり着くというもんだろう。
俺は高校生の頃、木曽川の対岸を目指してみたことがあるが、さすが一級河川だ、とても渡りきれるようなチョロイもんじゃない。危なく死ぬところだった。この喩えをスムーズに理解してもらえるとウレシーぜ。そんな抗うことのできない流れの中で、自分の願いのうち、3割を達成できたなら、これは大したものさ。3割じゃ不満かい?確かに、3割なんて赤点追試ギリギリかもしれないけどな。けど、世の中には、打率3割になんてとても届かない、貧打の方々も大勢いらっしゃるんじゃないのかい?中日ドラゴンズの打線のようにね。
俺自身は、七転八倒四面楚歌、自らの不徳の致すところで不如意な人生を送ってきたんだが、この人生打率3割ってのを見極めて以来、悩みが減ったぜ。貯えも減ったけどな。考え方によっちゃ、なかなか面白く生きているから、打率3割3分くらいのかなりお幸せな野郎じゃなかろうかとも思うんだ。なに、モノは考えようってことさ。
人生打率3割を標榜している俺は、自分のことを表面的には信用していない。
していないんだけれど、自分の人生は自分自身で切り開いていくしかないって意味で、俺は自分を誰よりも信頼してるのさ。矛盾してるようだけれど、ココをきっちり押さえておかなけりゃ、3割なんて夢のまた夢なのさ。
ジョン・レノン先生だって、I Just Believe In Me って歌っていたしな。
読者諸君、失礼する。いつもながら、寝言のような話にお付き合いいただき、申し訳ない。また会おう。