本日、久々に寸暇を縫ってプリント25枚。
モロッコのマラケシュの写真だ。ただ今乾燥中なんで、明日以降、順次お見せしよう。
写真を撮っていて面白いのは、路上の暮らしだ。トルコでも、ベトナムでも、香港でも、モロッコでも、人々は路上でいろいろとやっていた。
生活の場が、個々人の暮らす住宅の中から、路上にはみ出している。路上で人々が交わり、生活を営んでいる。子供たちが、路地でよれよれのボールでサッカーをしていたりする。屋台のような店が並び、道に商品を広げただけの店とも呼べないような店もある。値段は決まっていない。客と店主の交渉によって、妥当な値段が決められていく。
日本では、路上は単に人々が行きかい、車が走り抜けるだけのものになってしまっているけれど、本来道とは、こんな雑多なものだったんだなと、楽しくなる。昔の日本もこんなようなものだったに違いないが、今は違う。人びとはただ忙しそうに道を行き交うだけだ。無駄がないと言えばそれまでだが、人生ちゅうのは、一見無駄な行為によって奥行きが出てくるんじゃないのかい。街も同じだろう。道路に、人々のプライベートな空間がはみ出している。どこからプライベートで、どこからがパブリックな空間か、混沌として判然としないわけだ。まるで、街の内臓がむき出しになっているように感じる。
まさに路上生活だ。そういってしまうと、今の日本ではホームレスを連想してしまうが、生活の場が路上にあるといったような意味合いでの路上生活だ。
どこに行っても、ただ街をブラブラ歩き、立ちどまることすらなく写真を撮っていく俺には、こういった路上生活は大のご馳走だ。
俺は自分が、人間好き、つまりヒューマン・インタレストだと痛感する。どんなに雄大で美しい景色でも、人間の生活感ちゅうか、人間臭さがしない風景は、ことさら写真に撮りたいとも思わないからな。
路上の暮らしは、まさにそんな俺にうってつけなんだ。
確かに日本はどこに行っても整然としていて、キレーだけれど、路上に生活感があるかと言ったら、むしろないわな。強いて言ったら、ホームレスのおっさんの家とか、屋台とかか。しかし、行政はホームレスを公園から締め出し、街から追い出そうとしている。屋台は縁日なんかの得意な場所に限られているのが実情だ。
路上での暮らしが無くなったことで、俺たち日本人が失ったものは多いんじゃないだろーか。
確かに俺たち日本人は、世界的に見ると最も豊かな民族だ。子供たちは、よれよれのサッカーボールを、暗くなるまで追いかけることもない。塾の合間にPSPで遊んでいることだろう。
道端で、人びとが語り合い、笑いあう姿を見ることもまれだ。何といっても、ココ日本では、道は通行するものだからね。そんなことしてちゃ、すぐに車に轢き潰されちまうさ。道に人々がたむろして、集まれば、すぐにオマワリが飛んでくる。道路は、通行するためのもんだからな、仕方ないか。
けど、そんな暮らしが無くなって、俺たち日本人は、おおらかさまでなくしちゃいないかい?
身のまわりは抗菌素材で、ガードされている。マスクなんて、俺のガキの頃は口裂け女くらいしかしちゃいなかっただろう。けれど、今じゃどうだ、どれも彼も、目に見えないものを気にして、マスクをして足早に歩いている。そして俺たちはいつでも些細なことで、目くじらを立てていさかっている。
そういえば、もう14年もの間、自殺者は年間3万人を越えているそうだ。
まぁ、路上の暮らしの有無とは、何の因果関係も見い出せそうにないけれど、俺はそこに何か風が吹けば桶屋が儲かる式のつながりを感じないではいられないぜ。
読者諸君、失礼する。いつかどこかの街角で、君と遭うことがあったら、ぜひそこらの道端で、長話してみたいもんだ。
モロッコのマラケシュの写真だ。ただ今乾燥中なんで、明日以降、順次お見せしよう。
写真を撮っていて面白いのは、路上の暮らしだ。トルコでも、ベトナムでも、香港でも、モロッコでも、人々は路上でいろいろとやっていた。
生活の場が、個々人の暮らす住宅の中から、路上にはみ出している。路上で人々が交わり、生活を営んでいる。子供たちが、路地でよれよれのボールでサッカーをしていたりする。屋台のような店が並び、道に商品を広げただけの店とも呼べないような店もある。値段は決まっていない。客と店主の交渉によって、妥当な値段が決められていく。
日本では、路上は単に人々が行きかい、車が走り抜けるだけのものになってしまっているけれど、本来道とは、こんな雑多なものだったんだなと、楽しくなる。昔の日本もこんなようなものだったに違いないが、今は違う。人びとはただ忙しそうに道を行き交うだけだ。無駄がないと言えばそれまでだが、人生ちゅうのは、一見無駄な行為によって奥行きが出てくるんじゃないのかい。街も同じだろう。道路に、人々のプライベートな空間がはみ出している。どこからプライベートで、どこからがパブリックな空間か、混沌として判然としないわけだ。まるで、街の内臓がむき出しになっているように感じる。
まさに路上生活だ。そういってしまうと、今の日本ではホームレスを連想してしまうが、生活の場が路上にあるといったような意味合いでの路上生活だ。
どこに行っても、ただ街をブラブラ歩き、立ちどまることすらなく写真を撮っていく俺には、こういった路上生活は大のご馳走だ。
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| HongKong |
路上の暮らしは、まさにそんな俺にうってつけなんだ。
確かに日本はどこに行っても整然としていて、キレーだけれど、路上に生活感があるかと言ったら、むしろないわな。強いて言ったら、ホームレスのおっさんの家とか、屋台とかか。しかし、行政はホームレスを公園から締め出し、街から追い出そうとしている。屋台は縁日なんかの得意な場所に限られているのが実情だ。
路上での暮らしが無くなったことで、俺たち日本人が失ったものは多いんじゃないだろーか。
確かに俺たち日本人は、世界的に見ると最も豊かな民族だ。子供たちは、よれよれのサッカーボールを、暗くなるまで追いかけることもない。塾の合間にPSPで遊んでいることだろう。
道端で、人びとが語り合い、笑いあう姿を見ることもまれだ。何といっても、ココ日本では、道は通行するものだからね。そんなことしてちゃ、すぐに車に轢き潰されちまうさ。道に人々がたむろして、集まれば、すぐにオマワリが飛んでくる。道路は、通行するためのもんだからな、仕方ないか。
けど、そんな暮らしが無くなって、俺たち日本人は、おおらかさまでなくしちゃいないかい?
身のまわりは抗菌素材で、ガードされている。マスクなんて、俺のガキの頃は口裂け女くらいしかしちゃいなかっただろう。けれど、今じゃどうだ、どれも彼も、目に見えないものを気にして、マスクをして足早に歩いている。そして俺たちはいつでも些細なことで、目くじらを立てていさかっている。
そういえば、もう14年もの間、自殺者は年間3万人を越えているそうだ。
まぁ、路上の暮らしの有無とは、何の因果関係も見い出せそうにないけれど、俺はそこに何か風が吹けば桶屋が儲かる式のつながりを感じないではいられないぜ。
読者諸君、失礼する。いつかどこかの街角で、君と遭うことがあったら、ぜひそこらの道端で、長話してみたいもんだ。
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