2012/05/03

Post #522 ダメ押しのようにつまらない写真をお送りしよう

うぅ、疲れた。世間様は休日を愉しんでいるというのに、俺は男の仕事が山場だった。立ち続けて、足が重い。勢い眠りたくもなってくるというもんだ。読者諸君、分かってくれるかな?
にもかかわらず、つまらない写真を今日もお送りしよう。
HomeTown/Nagoya
仕事に倦み疲れた俺の手元に、アマゾンから一冊の写真集が届いた。
中平卓馬『Circuration Date,Place,Events』(OSIRIS刊)だ。
これは凄い。まさに写真の極北だ。
この写真集の概要は、既にこの写真集のカバーに日本語と英語で以下のように併記されている。
『1971年、パリ。世界各国から若い芸術家たちが参加したビエンナーレを舞台に、中平卓馬は『表現とは何か」を問う実験的なプロジェクトを敢行する。「日付」と「場所」に限定された現実を無差別に記録し、ただちに再び現実へと「循環」させるその試みは、自身の写真の方法論を初めて具現化するものだった。』(Circuration カバーより)
若き日の中平は、日本代表の一人として参加したこのビエンナーレの期間中、毎日パリの町中を歩き回り、無差別にシャッターをきり、毎日200枚もの写真を現像プリントし、展示し続けた。そして、その写真を見ている人々もまた、写真におさめられ、新たな展示物として、一連の写真の中に循環されていったのだ。そして、最終的には1500枚に及んだ写真は、さまざまな事情により、中平自身の手によって、会期の終了を待たずにすべて剥ぎ取られたという。その行為自体がいかなるいきさつによるものであれ、それは写真が双方向的なメディアであり、なおかつコンセプチュアルアートにすらなりうるものだと示しているように俺には思える。

写真とは、なにか。表現とは、何か。
その根源を突き詰めていくような写真の集積。

ここには無論のこと、キレイな女の裸も、可愛らしい猫も、絵葉書のように気の利いた風景も、決定的な瞬間も、何も写されてはいない。そんなもんが何も写っていない、ただ日常目にする風景のシーケンスの集積といっても過言ではない。世間一般の写真好きの中でも、この写真集に対する評価は、ある種の踏み絵のように別れることだろう。仕方ない、可愛らしい動物の写真集やアイドルの写真集ばかりが売れる日本だ。

疲れた体を引きずるようにして帰ってきた俺は、何をさておき、この写真集をまじまじしみじみと眺め、味わった。詳しいことは近いうちにまた話そう。いや、話さないかもしれないけれど、これは凄い写真集だ。君が写真に興味があるんなら、ぜひ一度見て見て欲しい。つまらない写真がたくさん並んでいる。写真に意味などないことを、そして、何かに意味があるのなら、あらゆるものに意味があるという逆説的な何かを訴えかけてくる。語れば語るほどに、迷宮に迷い込んでいくような感覚に陥る。確かに写真の極北だ。
まぁ、ムツカシーことを抜きにして、俺はここにある意味でパンクな写真の在り方を見てしまうんだけどね。そんなの俺だけだろうけども。
さぁ、俺は風呂にゆっくりつかって疲れた体を癒やすんだ。そして、深夜もう一度、この写真集を開いてみるんだ。写真の極北は遠い。しかし、それは確かに存在する。
読者諸君、失礼するぜ。しかし、一晩に200枚もの写真を現像・プリントするなんて驚異の体力だなぁ。疲れたなんて言ってられないぜ、きっと。

2012/05/02

Post #521 今夜も調子にのってつまらない写真をお送りしよう

HomeTown/Nagoya
いや~、調子にのってこれまたつまらない写真をお送りしよう。
なんだかわかるかね?
これはまぁ、エレベーターだ。名古屋の老舗百貨店のエレベーターだ。ちなみに、俺はこの百貨店で、この2月3月死ぬほど現場をこなした。いや、マジで死ぬかと思ったぜ。観光バスを運転していたら、間違いなく乗客を道連れにして死んでいただろう。地獄への道連れは、一人でも多い方がいいというのは、白戸三平先生のカムイ外伝に出てくる言葉だが、俺としてはそんなのゴメン蒙る。仕事も遊びもほどほどが大切だ。身に沁みるぜ。
大事なことなので、今夜も言わせてもらうけれど、俺はこの写真がつまらないとは、これっぽっちも思っちゃいないんだけどね、写真の面白さなんて、見る人次第だ。俺が面白いと思うものを、他人が面白いと思うかどうかは、何とも言えないぜ。なにしろ、俺はしばしば面白い事を言ったつもりで、まわりの連中をどっ白けさせてしまったり、ユーモアが伝わらなくて、何が面白いのか説明しなけりゃならないという野暮なことになったりするんだ。要は世間とずれているということだ。どんとこいだ。よく、訳の分からないところでクスクスゲラゲラ笑っては、おかしい人と思われているのさ。お目出度い話だ。
まぁ、親愛なる読者の皆さんは、この写真に俺が感じているカッコ良さが、なんとなく伝わってるんじゃないかと思うぜ。うん、俺は勝手に信じてる。信じるくらい俺の自由だろう。憲法で保障されてるはずだ。覚めない夢を見させておいて欲しーもんだ。
それはそうと、昨日の出来事だ。車を運転していた時のこと。信号が変わって、解き放たれた野生馬のように走り出した俺の前に、客を降ろしたばかりのタクシーが強引に車線変更してかぶせてきたんだ。危うくぶつかるところだった。頭に来た俺は、そのタクシーを回避した流れで、クラクションを鳴らし続けながら、自分の車をタクシーの前にねじ込み、次の交差点の左折車線を占有するようにして車を停め、運転手を引きずり出した。
『お前、どこの会社だ!名前は!』日頃からタクシーの無法な運転にうんざりしきっている俺の怒りの形相は、さぞ荒まじいものだったことだろう。俺は普段から人相が悪いと言われてるんだ。怒った顔はなかなか友人知人にお見せできるようなものじゃない。スワロータクシー(仮名)の加糖(仮名)という、まだ若く小柄な運転手は、完全にビビってしまっていた。声が裏返っている。蚊の鳴くような声とはこういうものかと43年生きてきて初めて実感したぜ。
奴は平謝りなんだが、いきなり会社の上司に連絡しますと言って、自分の携帯で上司に連絡し、俺に電話を替わったんだ。俺は、なんとなくその場の流れで、この上司にさんざん苦情を述べ、いったいあんたんところじゃ、運転手にどんな指導をしているんだと息巻いたんだが、よく考えたらこれはおかしなことだ。
だって、そうだろう?周囲を確認せずに無謀な運転をして、俺の怒りを買ってるのは、運転手本人なのに、なぜか俺は電話で運転手本人ではなく、その場にいないその上司と称する人間に怒ってるわけだ。その間、加糖本人は恐縮してるんだけれど、本来なら、この加糖(仮名)という運転手自身が、自分の行いの報いとして、俺にこんこんと説教されるべきじゃないのか?
自分のケツは自分で拭くことを、ママに教わってこなかったのかい?どうなんだい?自分のケツも自分で拭けないような奴が、横着な運転をするんじゃない!とっとと家に帰って、ママのおっぱいでもしゃぶってろ、この野郎!と言いたいところだが、ぐっとこらえて、あんたもプロならプロらしく、安全でマナーを守った運転しろよ!と吐き捨てるのにとどめたんだ。
読者諸君、何かおかしくないかい?まったくいつの間にかこの国は、上は政治家から下はタクシーの運転手まで、自分の行いに全く責任を取らないようになってるんだ。一体俺達はどこで道を間違ったんだ?そういえば、どこかの原子力発電所から吐き出された放射性物質は、
所有するものがいないということで、その原子力発電所で金儲けしていた奴らには、放射性物質の除去とかの責任は無いんだそうだ。
冗談じゃないぜ。これが、俺や君の暮らす国、事勿れ無責任主義国家・日本の姿なのか。
読者諸君、失礼する。連休中の車の運転には、注意した方がいいだろう。たまらないぜ、まったく。

2012/05/01

Post #520 今夜も懲りずにつまらない写真を君に送ろう

HomeTown/Nagoya in Midnight
今夜も懲りずに、つまらない写真を君に送ろう。
車を運転していれば、誰でもこんな光景を目にするだろう。誰でも目にするこんな光景を、写真という枠に切り取って、収めてしまえば、あっという間につまらない写真の出来上がりだ。
もちろん、毎日のように言っているけど、俺自身はこれがつまらない写真だなんて、これっぽっちも思っちゃいないんだがね。これはこれで、カッコいいと思ってるんだけど・・・、君にこのカッコよさは伝わるんだろうか。伝わっていると信じているんだがね。
ぶっちゃけ、ゴールデンウィーク真っただ中に、毎日地道に働いているという鬱屈した心情が、ルサンチマンが、ここ何日かの写真のセレクトの中に込められているのだよ。
つまり、みなさん休日を愉しんでいらっしゃる訳なんですが、そんな時に、マラケッシュだのパリだのイスタンブールだの、異国情緒あふれる写真を載せて、世間の皆さんをさらに愉しませては、相対的に、あくまで相対的なんだが(これ大事ね)、俺がますますつまらなくなっちまうってもんだからね。だから、誰でもその辺で見ているような光景を、選りすぐってお送りしたくなるというものなんだ。
ふふふ・・・、意外と俺もセコイ男だ。人間の器が小さい。PETボトルのキャップほど小さいものよのう。一体どれだけ集めれば、途上国の子供たちにポリオワクチンを接種してやることができるのか、気が遠くなるほどの器の小ささだ。

けれど君はとっくに気づいているだろう。写真の良し悪しは、エキゾティズムの有無で決まるわけではないのだよ。そんな写真は、職業として写真を撮っておいでの皆様にお任せしよう。白紙委任だ。風呂屋の書き割りのような写真を撮るのはゴメンだ。海外の写真が多くあっても、それはあくまで、その瞬間に、自分の周りに繰り広げられている光景を、底引き網で引くように、ザバリと掻き集めてきたにすぎないんだぜ。
我が敬愛・私淑する写真家・中平卓馬は毎日のように同じ場所で、同じモノを撮影しながら、これは初めての場所だよと、おっしゃるそうだ。
はたしてそれは、強烈なボケなのか、かつての記憶喪失の後遺症なのか、それとも人を喰ってるだけなのか・・・。
しかし、見慣れた場所に新鮮さを感じ、シャッターをきることができるというのは、これは実は凄いことなんだぜ。君も毎日カメラを持って歩いてみればわかるだろう。意識することもないほどに見慣れた場所やありふれた光景を写真に撮るには、日常の中に非日常を見い出す何かが必要なんじゃないのかい?もっとも、俺自身もいつもそんな写真を撮ってるわけじゃないさ。フィルムも印画紙も安くはないし、何より、それをプリントする手間を考えると、躊躇して、見過ごしてしまう。
しかし、これは大事なことだ。あえて言わせてもらうぜ。
身近な日常の中に、何かを見い出してシャッターをきるというのは、ある意味、とんでもない写真の跳躍だ。何故なら人は、目新しいモノ、見たことが無いモノ、刺激の強いモノ、類型的に美しい(とされているもの)に強い関心を抱く生き物だからだ。毎日見飽きている何気ない光景には、わざわざ写真にするような意味を、なかなかに見いだせないものだ。つい、見たこともないモノや決定的な瞬間、あるいは誰もが美しいと思うような景色や人物(主に女性)なんかを撮ってしまいたくなるだろう。それらはとても意味ありげだから。
しかし、俺の写真がいつもそんなモノばかり追いかけているわけにはいかない。
俺の写真の起点には、必ず俺がいる。俺が目にしたものだけが、俺の写真になる。
そして、どんなモノでも写真になりうる。俺が見て、シャッターをきりさえすれば、一見つまらない写真が一丁上がりだ。どんなもんだい!自分の眼がカメラだったらと、しばしば思う程だ。前にも話した肉眼レフという奴だ。
その中に封じ込まれた俺が見出した美しさやカッコよさなんて、気が付く奴だけ気が付けばいいのさ。もちろん、いつも俺のブログを見てくれている君たちには、すぐにピンとくるだろう。

今日もまた、仕事の合間を縫って中平卓馬の写真集を、アマゾンに注文してしまった。もう何日かのうちに手元に届くことだろう。今から楽しみだ。

読者諸君、失礼する。写真の極北に至るために、今日もつまらない写真にこだわってみたのさ。一見してつまらない写真の中に、俺は俺の思い描く美しさを見ているんだ。