2012/09/10

Post #622 重力について考える夜

昨日は遅くまで働いた。
本来は今日は朝のうちに打ち合わせに行くだけにして、午後はプリントする気満々だったのだが、仕事が入ってしまったんだ。いったいぜんたい、何時になったらゆっくりプリントできるのか。きっとすっかり涼しくなってからだろう。
Barcelona
夕方、家に帰ると、ふと気になって中上健二の小説『地の果て 至上の時』を本棚から引っ張り出し、読み始めた。没後20年、既に中上健二は過去の人も過去の人だ。しかし、彼の突きつけた課題に堪えることなく、時代はかる~く過ぎ去ってしまった。
人びとから畏れられる男の子として生まれた主人公・秋幸は、本作に先行する『岬』で異母妹を犯し、それに続く『枯木灘』で異母弟を石で殴り殺す。そして、3年間の服役の後、故郷(そこは路地と呼ばれる紀伊半島の被差別部落だ)に還り、自らの服役中にすっかり様変わりした故郷の路地を見る。そこから、物語が始まるのだ。うう、まるで現代を舞台にした神話か英雄譚のようだ。
硬質で美しい文章だ。こんな文章を読むのは、久しぶりだ。眠さも疲労も忘れてぐいぐい引き込まれる。心が硬質な結晶に純化するように感じるほどだ。
扱うテーマ、主人公と彼を巡る登場人物たちの葛藤、どこを切ってもヘヴィーだ。文章に、ズシリとした重力を感じる。
そう、重力だ。軽やかさなどとは無縁。泥臭い方言を語る登場人物たちは、誰も皆心の奥底に狂気を秘めているようにすら感じる。その狂気の源は、むろん主人公たちに流れる路地の血、即ち非人として差別され続けてきた被差別民の血に起因することがわかる。
今時の小説が、ちゃちな安物にしか見えなくなってくるような重さが、文字の羅列から立ち昇ってくる。当節流行のライトノベルなど、文学に値しないということがよくわかる。
しばらくは、久々に中上健二を読んでみるか。なに、俺は中上健二の全集を持ってるんだ。チョイと持ち運ぶのには重たくて不便だが、なに構うものか。そこに描かれる世界のほうがはるかに重たい世界なのだ。
そして重たい=質量を持つ者は、その重力によって周囲のものを惹きつける。
鬼才・若松孝二監督によって、中上健二の絶頂ともいえる『千年の愉楽』の映画化が進んでいるという。これも、路地を舞台にし、オリュウノオバという産婆の老婆を語り手に、自らに流れる路地の血に翻弄されるように、激しい人生を送り、しかも生命の絶頂期に命を絶たれていった路地の男たちを描いた現代の神話のような作品だ。楽しみだ。ぜひとも見てみたいものだ。
うう、そしてこれもまた無性に読みたい。
意外なことに、写真にも、重力がある。ブラウザーの上を軽やかに飛び交うデータとしての写真ではなく、実際のモノとして数百枚の写真を手にすると、ズシリと重たいものがある。そして、それを一挙に何十枚、何百枚とめくってみてみた時、写真のはなちゅ重力を感じることだろう。写真は、プリントしてなんぼなのだ。
俺の写真を見てくれる君が、もしも俺の写真から、俺の暗く沈んだトーンの黒々とした写真から、重力のようなものを感じてくれたなら、これに過ぎる幸せはないだろう。魂は決して見えないが、それには重さがあるのだから。そしてそれはお金で買うことはできないんだ。
読者諸君、失礼する。 

2012/09/08

Post #621 富と国家の根深い関係について

Marrakech,Morocco
私に対して、妄執のような敵愾心を燃やす人間から、心無い事を言われてしまった。
曰く、『あんた一人生きるだけでせーいっぱいの奴が偉そうに国家語るんじゃねーよ!!!』
ハッハッハ、こう見えても私は筋金入りのプロレタリアートなんでね、働いても働いても、わが暮らし楽にならずだ。From Hand To Mouth だ。
彼の言うことはもっともだが、失礼極まりない。そういう事を言う人間の人間性を疑うというものだ。まぁ、イイ。言いたい奴には言わせておくがいい。カエルの面に小便だ。ブログのネタにして笑い転げてやるぜ。
では仮に、金がドバドバあったなら、国家を語ってもイイってことか。確かにワタミの会長とか、古いところなら松下幸之助とかそんなところだろう。けっこうなことだ。
私のような貧乏人は、奴隷のように何も考えず、蟻のように働いて、カツカツ生きて、自分のことだけ考えていればいいということだろう。
しかし、私は政府の諮問機関などに名を連ねる、金持ちの方々に、敬服感服したことが無い。所詮私とは趣味が違うということか。

さて、彼の言うことは一理ある。けっこうな考えだ。いっそ、戦前のように、高額納税者以外は選挙権がないとかいうことにしてくれとかまで、踏み込んで言及して欲しかったものだ。社会の底辺で働く人間は、家畜のように与えられる娯楽に酔い痴れ、国家や社会の行く末など、微塵も考える必要はないということだろう。それはイイ、俺もそうすりゃ、もっと小金持ちになれるだろう。結構なことだ。笑いが止まらない。マセラティでも転がして、高そうな時計をさりげなく見せびらかすのさ。そして、権力を持った奴等にせっせと贈り物でもして、金持ちの税金を減らして、何も考えちゃいない虫のような貧乏人から、効率的に税金をむしり取ってもらうようにそれとなく話を持ちかけるのさ。
金持ち連中は、そんな素敵なアイディアのことを、自由主義と命名しているようだ。
きっと、彼らの旗にがあったなら、それは黒地に骸骨が染め抜かれ、その下には二本のぶっちがいの大腿骨があしらわれていることだろう。
OK、素晴らしい人生だ。素晴らしすぎて、屁が漏れちまうぜ。
さて、資本家と呼ばれる金持ちが、国家と相性がいいのは、彼らの生きがいにして、目標たる富=資本というものが、国家によって担保されているからだ。
私も君も大好きなお金というのは、国家の信用によって、単なる紙切れが、いやさらに言うと通帳に並んだ数字が、あらゆるものと交換可能な価値を持つ、不思議なマジックの賜物だ。マジックなので、種も仕掛けもある。国家が、その価値を担保して降り、さらには国の信用の度合いによって、その価値が相対的に変動するというものだ。
もし、万が一、国家が解体してしまったならば、資本家もしくは資本家予備軍の皆様の資産は、まったく意味の無い、陳腐なものと化す。魔法が解ける瞬間だ。もっとも、彼らは目ざとく鼻が利くから、とっとと資産を海外に移転していることだろう。それが国家財政の破たんを加速させるということを知りながら。まったく、笑わせるぜ。
ちなみに、私には資産らしい資産もありゃしないので、そうなってもさほど困らない。大好きなCDが消えるわけでもないし、俺の写真が消えてしまうわけでもない。先々を心配してやるような子供もいない。気楽なものさ。
そうなってしまっては、資本家もしくは資本家予備軍の皆様の大切きわまる資産は、雲散霧消してしまうので、彼らは常に国家権力を擁護する。つまりは、保守化するのだ。
その一方で、高額所得者の税金を上げると、高額職者の皆さんは、資産を海外に移転してしまうと脅しをかけている。大企業の経営者の皆さんも、しばしばそういうことをおっしゃる。
彼らの愛国心など、たかが知れたものだ。それどころか、高額所得者の税金を下げれば、高額商品の需要が高まり、その生産流通に従事して働く貧乏人にも好影響が出るという。ハッハッハ!それはイイや、私たちは中世ヨーロッパの食卓の下をうろつきまわる犬のように、高額所得者の食べこぼしをいただいて、生きてゆけばいいっていうことか!せいぜい頑張って、無駄遣いしてくれよ。

私にもしも、遊んでいても生活できるような充分すぎる資産があったなら、きっとガリガリの国家主義者になっていたことだろう。そう、読者諸君が日々読んでくれているようなことなど、微塵も考えない、ごくありふれた小金持ちの中年がいるだけだ。もちろん、旅行もしない。その間にビジネスした方が儲かるってもんだろう。本なんか、利殖と節税テクニックの本しか読まない。坂口安吾や金子光晴なんて人生の敗北者のような連中の本など読んでたまるか。
新聞は反日的と悪名高い朝日新聞ではなく、日経新聞か保守本流の読売新聞を読んでいることだろう。
写真?そんなくだらないことで自分の人生の貴重な時間を潰すことなどないだろう。
そんな自分を想像してみると、なかなかに興味深い。クソくだらなくて、やっていられないほどつまらない。金以外に自分の価値がないと思えてくることだろう。その役割は、つまらなさそうなので、もっとその役回りに適した凡庸なキャストの方に譲りたいというものだ。私はそんな役回りを演じるには、ちょいと個性的すぎる。
しかしながら、幸いにも私は充分すぎるほどに、貧乏なので、日々働き、その寸暇を縫って読書し、社会の成り立ちと、より良い社会とはどんな社会だろうかと思いをめぐらす。現状に絶望しているからこそ、理想を描くことができるのだ。
将来に理想を描くのは、絶望しているニンゲンの特権だ。
現状に満足している豊かな人間は、夢のような理想を思いつくことなんか出来ないだろう。人生の意味を知っているのは、貧しいニンゲンだけだ。金持ちは、それを想像してみることしかできない。俺の愛するアメリカの酔いどれ作家、チャールズ・ブコウスキーは、そんな様な事を語っていた。ごもっともだと思う。
OK、お金の好きな方々は、存分に国家に尽くしてくれ。ただし、その手の方々が国家を大切にするため、もっと税金を払いたいということはなかなか耳にしない。なかなかそれも興味深い。いずれ、ゆっくりと考察してみるに値するだろう。
しかし、今夜は時間がない。私は貧しいので、自分一人が生きてゆくだけでせーいっぱいなので、明日も疲れ切った身体に鞭打つようにして、早朝から労働という刑罰のような営みに従事せねばならない。ハッハッハ!
まったくもって、貧乏というのも楽じゃない。
しかし、そんなのは相対的なもんで、この地球上には一日1ドル以下で生活することを余儀なくされている人々が何億人といる。その人たちからすれば、私はかつての王侯貴族のように豊かで優雅に暮らしている。そんなもんだ。
私たちは、それらの人々を社会のお荷物として考えるのではく、それらの人々をどう幸せにしてゆくのか考えるべき時代に差し掛かっているのだ。まぁ、所詮私のような貧乏人が考えたところで、どうなるもんでもないがね。はっはっは! 
私は、金の多寡で人間の値打ちを計るような人間を、心底軽蔑する。人間はただ人間であるだけで尊重されるべきだと私は思う。そして、出来うれば、その人間の考えていることや人間性を物差しにしてゆきたいと私は思う。所詮は貧乏人の遠吠えですぎないがね。
ちなみに、私の父は常々、『人間腕が2本、足が2本、これで資本(=四本)充実だ』とほざいている。悪くない心掛けだ。さすがに72歳にして自分よりはるかに若い彼女を持っている人は違う。私もそれで行きたいものだ。ハッハッハ!

読者諸君、失礼する。 

2012/09/07

Post #620 どうしてこうも小忙しいのか

VietNam
歯医者に打ち合わせに、夜は夜とて浜松まで車を飛ばしてひと仕事。明日も明後日も仕事。俺には日曜日も何もカンケーないのさ。家庭サービスがおろそかになっちまうぜ。
まったく、プリントする時間なんてないッたらない。ネガをまじまじ見る時間すらない。どうなってるんだ?まいっちゃうぜ。
まぁ、正直言って、次々予定をぶっこみ過ぎる自分自身の不徳の致すところなんだけれどね。
ベトナムののんびりした男たちのように、日がな一日ぼーっとして暮らす日は来るのだろうか?
読者諸君、忙しいから失礼する。