2014/01/03

Post #1008

Budapest,Hungary
昨日の夜、TVでやってた西田敏行主演の『影武者 徳川家康』を見ていたら、無性に隆慶一郎の原作本を読みたくなって、本棚を漁って引っ張り出してきた。
この話は、関ヶ原の合戦で本物の徳川家康は、石田三成配下の忍びによって暗殺されており、そののちに徳川家康として世にあったのは、かつて一揆衆の一人として、織田信長を狙撃したこともある世良田二郎三郎という風来坊だったという話だ。二郎三郎は、自らの命を護るために、徳川家康の息子秀忠と、陰に陽に暗闘を繰り広げ、徳川家による一極支配の確立を阻み続けるという話だ。
これがまた、面白いんだよなぁ。
今夜から仕事も始まるし、今月は税務署に提出する書類も作っていかねばならないのに、困ったもんだ。
隆慶一郎の小説には、歴史家網野善彦の影響が背骨のように貫かれている。
物語を紡いでゆくのは、誰にも縛られず、時には差別さえされる非農耕、非定住の民、『道々の輩』だ。
彼らは既成のいかなる権力にも屈服することを良しとせず、家も持たず、農地も持たず、自らの技術技芸だけを頼りに、世を渡ってゆく。
そして、決して歴史の表舞台に出ることなく、ひっそりと死んでゆく。そのあたりが、世間一般で信奉者が多い、司馬遼太郎の作品とは大きく肌合いを異にしている。司馬遼太郎の作品では、主人公は、史書に特筆されるようなものばかりだからだ。
誰かに支配されることも、誰かを支配することもなく、自らの力のみで生きてく行く。
隆慶一郎の小説でもっとも有名なのは、もちろん『一夢庵風流記』、つまりマンガでおなじみの花の慶次であろう。あの前田慶次郎にしても、ある意味、武勇無双を表す朱槍一本を武器に世を渡り歩いた、道々の輩なのだ。
生きて、死ぬだけだよ。
ロマンだなぁ・・・。
しかし、江戸幕府の確立によって、一所不定の道々の輩の多くは、部落に押し込められ、被差別民として、歴史の暗部に追いやられることになる。
若いころから、俺はそんな自由さに憧れていた。
あるとき、その血筋を持つ知人の女性に、もし仮に君と結婚したとしたら、俺もその仲間になれるのか?と訊いてみたところ、それは無理だと言われたことがある。もうずいぶんと昔のことだ。
あくまでそれは血統なんだという意味合いのことを言われたように記憶している。
今でも、ヨーロッパに行った折に、ジプシーの写真を撮ってしまうのは、自分の中に一所不定の自由さに(もちろんそれは、物質的な不自由さと裏腹だ)憧れ魅かれる心性があるからだ。

俺は、隆慶一郎の決して長くはない作家生活で残した小説群を読むとき、もしかしたらありえたかもしれない日本を、夢想する。

さて、今から夕方まで、何をして時間を潰そうか?
プリントしようか、読書をしようか、税務申告の書類を作ろうか。
それともやっぱり『影武者 徳川家康』を読みふけってしまおうか。
読者諸君、失礼する。とりあえず小腹がすいたんで、餅でも喰らうとするぜ。まずはそこからだ。

2014/01/02

Post #1007

Budapest,Hungary
郵便局のPRをするつもりはないけれど、年賀状が来ると、何となく嬉しいものだ。
日頃忙しさにかまけて疎遠になっている友人から、近況が届くのは、やはりうれしい。
なかでも、とりわけ新居に移転しました、子供が生まれましたといった便りは、正月早々おめでたい気分で読むことができるんで、いいもんだな。とはいえ、家買いましたとかは、できれば俺が年賀状を出す前に教えてほしかった。毎年、何通かは居所不明で戻ってきたりする。ひどいときには、自分の親族でそれだからな。嫌になっちまうぜ。

俺は、子供を儲けたり、ローンを組んで家を買ったりといった、ごく普通の人々が当たり前のようにとおってくる道筋をズルして通らずに、この年まで来てしまった。
そう、もう45歳になろうというのだ。びっくりだ。もう20年近く一緒に暮らしている内縁のカミさんも、あくまで内縁で籍なんか入ってない。この日本の社会では、決してスタンダードな生き方ではないだろう。

だから、こういう年賀状を読むと、吉本隆明の次のような言葉が脳裏をかすめる。

『結婚して子供を生み、そして、子供に背かれ、老いてくたばって死ぬ、そういう生活者をもしも想定できるならば、そういう生活の仕方をして生涯を終える者が、いちばん価値がある存在なんだ。』
(吉本隆明「自己とはなにか」『敗北の構造』弓立社)

そうなのだ、俺のような生き方は、逸脱なのだ。もちろん、それを悔いても始まらないんだが。
けれど、吉本隆明は、それをさらに一歩進める。

『そういう生き方をもっとも価値ある生き方とすれば、大なり小なりそれからの逸脱でしか人間は生きられない。
しかしそれは逸脱だから価値のより少ない生き方なんだ。だけれども価値のより少ない生き方が人間に可能なのはなぜか、あるいは赦されるのはなぜかと言えば、もし価値の少ない生き方、つまり逸脱のなかに必然があれば、必然があればというのは意志があればじゃなくて、向こうからどうしてもそうなちゃったんだという必然があるならば、それはいいだろう、仕方ないじゃないか、肯定すべきであるというふうに僕は思うわけです。』
(吉本隆明、小川国男との対話「家、隣人、故郷」『どこに思想の根拠をおくか』筑摩書房)

というわけで、大いなる逸脱なのか、ささやかなる逸脱なのか、現時点では判然とはしないけれど、価値のすくない人生を、もう少しの間歩んでいくしかないと、俺は今年も自分を納得させるわけだ。

中上健二の絶頂ともいうべき『千年の愉楽』の主人公オリュウノオバは、自分が産婆として取り上げた色事師やばくち打ち、山師や荒くれ者など、卑小なる逸脱者に対して、『ただ、この世にあるだけで良いのだ』と、この世にあるだけで、その存在をカミとも仏とも自然ともとれる世界そのものから無限に赦されていることを謳いあげた。
是非善悪は、人の社会の中だけにある。
必然の世界は、自ずからそうなっているのであって、それはどんなに無惨に見えようが、善も悪もない。

読者諸君、失礼する。逸脱こそ人生の華だよ。そう自分の境遇を慰め、受け入れるしかないではないか?今更、世間様並なんて、できっこないよ。逸脱こそ、生きているということだ。

2014/01/01

Post #1006

Budapest,Hungary

読者諸君、あけましておめでとう。
皆さんのおかげで、このブログも新しい年を迎えることができました。誇張じゃなくて、マジで。
俺はずっと、たった一人で世界の片隅で喚いてるだけかと思っていたんだが、実は大勢の読者諸君に、支えられていることがわかってきた。いやほんとに実感してるんだ。
ありがとう。
今年も、解き放たれた野生の種馬のように突っ走るぜ!
しっかり手綱を握って、鐙に踏ん張っていてくれたまえ。

読者諸君、失礼する。今年もよろしくご指導ご鞭撻のほどを、お願いいたします。