2014/12/09

Post #1343

Boudhanath,Nepal
自分の写真の在り方が、物足りなくなってきた。
気の向くままに旅をして、目についたものを片っ端からフィルムに収め、小さな暗室で現像し、このブログでごく少数の読者の皆の衆に見てもらう。
悪くない。
けど、フツーだ。
どっちにしても、さほど反響もない。手ごたえのなさが物足りない。
俺は今、自分の写真を世界に還流させたいと考えているんだ。
俺の写真は、自分の目にした世界を、ある瞬間で切り取ったものだ。
いうなれば、世界の断片だ。
それを暗室の中で再生させ、スキャンして、君たちに見てもらっているんだけど、もう一歩進めてみたい。

自分の撮った写真をできるだけ大きく出力して、自分がその写真を撮った場所に掲げてみたいんだ。

写真に全く興味のない人も、その写真を目にするだろう。
同じ場所でも、瞬間瞬間によって表情は全く違う。
同じ場所でも、何時までも同じ人が佇んでいるはずもない。
同じ場所でも、かつてあった建物は打ち壊され、風景は一変しているかもしれない。
その一瞬は、絶対的に一回こっきりなんだ。

その思いの一環として、このブログには可能な限り、撮影箇所をマッピングしているんだ。PC版で見ると、下の方に場所が明示されていることを、目ざとい読者諸兄諸姉は気が付いていることだろう。
たとえば、今日の写真なら『場所 ネパール〒44600カトマンズ ブーダ』とか記されていることだろう。そこをクリックすれば、グーグルマップにリンクしているので、その場所を地図で見ることができる。写真が掲載されている場所なら、写真を見ることもできるだろうし、ストリートヴューが記録されている場所なら、それも見ることができるだろう。

それをさらに一歩進めて、その場所そのものに、俺の写真を還してみたいのさ。
そう、フィードバックって奴だ。ロックのフィードバック奏法みたいなものか。つまり、スピーカーの真ん前でエレキギターの音をスピーカーから出し、その出力された音自体をギターのピックアップで拾って再出力すると、わけの判らない音が出るというあれだ。
どんなことが起こるのか、俺にも予想がつかない。
それが面白いとは思わないか?

出来得るならば、写真という表現の枠を少し逸脱して、モダンアートの方に踏み出したい。
こじんまりとした閉じた世界から、俺の写真を解き放ってやりたい。
かつて俺がカメラを携えて、世界と対峙していたそこにこそ、モノクロで再構築された、かつての風景を還してあげたいのさ。

普段何気なく目にしている風景が、四角いフレームに収められるとどう見えるのか?

見慣れた景色や色彩が、モノクロになるとどう見えるのか?

レンズを通すと、この光が、この空が、いったいどう見えるのだろうか?

何気なく見落としているもののなかに、思わぬ美しさや面白さが潜んでいるのが見えるだろうか?

まったく写真に興味のない、そこいらのおっちゃん、おばちゃん、おにいちゃん、お嬢ちゃんに、俺の写真の持ってる力をゴリゴリと押し付けてみたいんだ。
それには、見過ごすことのできない巨大なサイズが必要だ。

いったいそれをどうやって実現するのか?
そんなことを可能にする機材を、どうやって入手するのか?
そして、そのプロジェクトを実行するための資金を、どうやって調達捻出したものか?
そんなことをして、行政や地域住民から苦情は来ないだろうか?

いろいろと具体的に形にしようと思うと、困難なことが山ほどある。
けれど、少しづつ課題をクリアして、この夢想に形を与えてみたいんだ。

俺の自己満足を越えて、俺の写真をこの世界に送り出してやりたいんだ。


読者諸君、失礼する。君たちも、何かいいアドバイスがあれば教えてくれないかい?君と一緒にワクワクしてみたいのさ。何しろ俺は正直に言えば、自分の人生に退屈してるんだ。

2014/12/08

Post #1342

Pashupatinath,Nepal
例年になく、雪が早くから降っている。
しかし、俺は陽光照り付けるパシュパティナートを想い出す。

燃えている。
燃えているのは、人間だ。
正しくは人間だったもの、亡骸だ。

獣の王(つまりパシュパティ)シヴァ神を祀るパシュパティナートは、ヒンドゥー教の聖地にして、火葬場だ。真ん中を流れるバグマディ川は、ガンジス川の支流であり、ここで火葬され、遺灰を川に流すと、その流れによって母なる川ガンジスに流れゆき、輪廻から脱することができるという。
ヒンドゥー教徒が8割を占めるネパールでは、最大にして至高の聖地とされており、人々はここで葬られることを願っている。

川岸に張り出して設けられた石の壇の上で、亡骸は焼かれる。
白い煙を上げて、人が焼けていく様を、対岸から俺はじっと眺めていた。
壇の端から、川のなかに向けて何かが滴り落ちている。
ニンゲンの脂だろうか。石の上に黒々とした筋を描いて流れ落ちていく。
俺の額からは、汗が流れ落ちる。

遺体をオレンジ色の布で幾重にも覆って焼くのだが、覆っているまわりで激しく泣いていた六親眷属も、巨大なキャンプファイヤーのような炎にその人が包まれてしまうと、観念したかのように静かになる。

太陽が照り付ける。
肉の焼ける臭いがする。それに髪や爪が焼けるような、あのなんとも言えない臭いが混じっている。
そこでは、否応なしに『俺たちは、一人の例外もなく、いつかこのように、死んでしまうのだ』という絶対の事実が突きつけられる。
俺の生きている日本では、死は巧妙に隠されている。自分の親族以外では、滅多に死体に接する機会はない。いつしか、俺たちは死を忘れている。
死を忘れているから、生が弛緩する。
俺は、母親が死んでから、もう30年も死にとらわれているように感じるよ。

じっと見ていると、自分が焼かれている様を、もう一人の自分が見ているような、不思議な感覚に襲われる。
死があるから、生は尊いのだ。

読者諸君、失礼する。こんな葬式だけれど、町のセレモニーホールで行われる葬式よりも、ずっといい感じだぜ。俺ならこっちがありがたいぜ。

2014/12/07

Post #1341

Bhaktapur,Nepal
俺の住む街から、そんなに遠くない街で、8月の台風の夜、2匹のヤギが盗まれた。
俺の住んでるあたりでは、新聞でも報道されていたので、知っている人も多いかもしれない。先日、その犯人が捕まったそうだ。
ヤギが盗まれた町、美濃加茂市では、除草費用を半減させる実験のため、岐阜大学と農業法人と協力して、約20匹のヤギを里山に放ち、セイタカアワダチソウなどの雑草をモリモリ食わせていたそうだ。
このヤギ、子供たちとのふれあい体験を通じて、市民にも親しまれていたそうだ。
それが台風の夜に首輪だけを残して、2匹消えてしまったのだという。
市はメディアを通じて、犯人に返還を呼びかけていたのだが、それは叶わなかった。
なぜなら、そんなころにはヤギはとっくにさばかれて、犯人たちの胃袋に収まっていたのだから。

ヤギを盗んだのは、3人のベトナム人で、車で仲間の家に運び、自分たちで解体して食っちまったのだという。ベトナムではヤギは普通に食されているそうな。
因みに、世界中でヤギは食われているらしい。

さて、この3人は留学とか技能実習生とかで入国したらしいが、現在は無職やアルバイトとのこと。
ここになんとなく俺は引っかかる。
留学で来た人ってのは、就学ビザで入国しているはずだろう?世界でも指折り排他的な日本の入国管理局が、就学ビザで来たものが、無職でぶらぶらしているのを看過していたのだろうか?
日本人でも無職でぶらぶらして暮らしているのは、自分の経験上、心細いことこの上ないというのに、世界的にも生活コストの高いこの日本で、無職でぶらぶらしていたら、ヤギでも盗んで食ってやろうかと思ってしまうのも、イイとは言えないが、無理のないことよのぉとも思えてくる。
実際、俺も失業していた時は、川を泳いでいるカモを見て、うまそうだなぁ・・という思いが脳裏をよぎったことがある。
まぁ、小人閑居して不善を為すといったところだ。

そして、世界的にも悪名高い日本の技能実習生制度。
俺も現場で中国人やベトナム人の技能実習生を見かけることがある。若いころに働いていた工場では、インドネシア人の技能実習生ってのがカレーの香りのむんむんするタコ部屋に押し込まれるようにして働いていた。俺の住んでる町にも、中国人の技能実習生がたくさんいて、驚くような低賃金で、日本人の若者がやりたがらないような仕事を担っているという。
そして、この技能実習生というのは、いわゆる出稼ぎではなく、あくまで技能の習得に来ているという名目なので、びっくりするほど賃金が安い。なかには、パスポートを取り上げられているケースもあるという。
研修期間中は厳密には『労働者』ではないので、労働関連法案は適応されない、つまり残業代も、労使契約もあったもんでないというのに、受け入れ企業さんは、安価な『労働者』としてこき使う。あまりに批判が多かったので、一応今では『労働者』扱いされることとなったが、転職の自由もないし、賃金不払い、人権侵害、過労死と思われる突然死も相次いでいるという。

ひどいもんだ。国際的にもこの制度は問題視されているという。日弁連は2013年6月、実習制度の早急な廃止を求める意見書を政府に提出し、米国国務省も、2014年人身売買に関する年次報告書で、劣悪な強制労働の温床となっていると批判したという、とんでもない代物だ。ベトナム人のあんちゃんたちが、うんざりしてドロップアウトした挙句、生活に困窮して、一丁ヤギでも捕まえて、腹いっぱいっ食ってやろうぜとなっても、ある意味仕方ないんじゃないかとも思えてくる。

日本の生産現場ってのは、農業から工場まで、この技能実習生といういかがわしい制度を使わないと成り立たないらしい。まるで年季奉公だ。いまどき丁稚や奴隷はないんじゃないのか?

日本人自身がやりたがらない、やれないような仕事を、研修生という名目の外国人の若者に押し付けておいて、使い捨てるような制度は、問題だと俺はずっと思ってきた。
同一労働、同一賃金というルールは、現在の日本にはない。
女性の賃金は低いままだし、派遣社員と正社員が、同じ作業をしていても、給料は全然違う。ましてや、技能実習生の賃金は驚くほど低いのだ。
そして、そのような奴隷制まがいの制度を使わないと存続できないような産業は、小手先の延命策ではなく、抜本的な改革が必要なんじゃないのか?それは痛みを伴うだろうけれど、何時までも避けて通れる問題ではないんじゃないのか?
この日本社会に渦巻く根深い矛盾が、今回のヤギ盗難事件の奥には横たわっているように、俺には思える。

読者諸君、失礼する。俺は果たして考えすぎだろうか?けれども、俺はこの日本が、奴隷制度の上に豊かさを享受するような国であっては欲しくないな。