2015/01/09

Post #1374

Pashpatinath,Nepal
ここんとこ何日か、むかしの投稿の写真を大きくし、レイアウトを微調整していた。
1000回を超えるくらいまでは、写真が小さかったのだ。スマホや携帯のブラウザーではあんまり違いは分からないかもしれないが、PC版だと違いは歴然だ。
思い返せば足かけ五年もやっている。ご苦労なことだ。自分でも阿呆じゃないかっておもうぜ。飽きもせず、同じようなことばかり言ってるのさ。
気が付けばもう9日だ。早い、早すぎる。
今年は税務署さんのお陰様で、早々に正月気分は吹っ飛ばされたし、仕事も年始から加速している。別にそれは構わないけれど、書いておきたいこともあったのだ。

諸君の中には、正月にお稲荷さんにお参りした人も多かろう。
一口に稲荷と言っても、宇迦之御魂神を祀る伏見稲荷の系列と、仏教系の荼枳尼天(以下、漢字が面倒なんでダキニ天って表記で統一)を祀る系列に分かれるんだ。
俺は、伏見稲荷の神様にもかつて不思議と結縁して頂いたことがあるのだが、しばしば参るのは後者のダキニ天の方だ。
いずれも商売繁盛の神様とされているんだが、このダキニ天の方は、もともとインドの土着の女神だった。
ダキニ天は豊川稲荷のお札を見ればわかるのだが、白い狐に乗った唐装束の美しい女性で描かれている。
かつては、白辰狐王菩薩とも呼ばれ、中世の天皇の即位儀礼にも関わっていたというし、平清盛が一代でなりあがったのは、狩りの最中にこの白辰狐王菩薩に会い、それを祀ることで出世し、栄華を得たとされている。
ただし、ダキニ天を祀るのは、非常にヤバい修法が必要で、信仰を怠れば、直ちに没落するという。

本来のダキニ天は、女性や大地の持つ豊穣と、それと一体になった破壊的な原初の荒々しいエネルギーを具現化した地母神にして羅刹女だ。
墓場に住み、人間の心臓や生き胆を食らうとされた魔女のような地母神が、仏教に取り入れられて、人間を加護する代わりに、その人間の死の直後、フレッシュな心臓を食うことを許されたというわけだ。
清盛が死ぬさいに、おおいに苦しんだのは、このためだと言われている。

この荒々しい女神のインドでの本来の姿は、日本人にはとても受け入れられないだろうな。
本来のダキニは三つの目を持ち、素っ裸で右手にはナイフを握り、左手には人間の頭蓋骨で作られた器を持っている。その器には人間の生血がなみなみと湛えられている。両足は、踊るように交差しており、女性器はむき出しにされている。
その表情は怒りに満ちており、逆巻く頭髪の中からは女性の持つ根源的な自然性の象徴というべきイノシシやジャッカルなどの顔が飛び出している。
そして、男たちの作った社会の欲望やシステムをあざ笑うかのように、哄笑しながら飛行する。

底抜けの淫蕩さと、残虐さと、全てを受け止めるような母性を併せ持った女神、それが俺の抱くダキニ天のイメージだ。
本当はどの女性の中にもダキニ天のような地母神に通じていく回路は開かれているんだろうけれど、ほとんどの女性は自分の中に、そんな激しい、自分でも制御できないような『自然力』が備わっているなんて、気が付いていないだろう。そんな力が噴出していても、この現代では単なるセックス依存症として片づけられてしまうかもしれない。だって、普通の人間の中に、そんな力が湧きだしたって、持て余しちまうだろう?周りから色気違い扱いされるのが関の山だ。

しかし、もし現実に、そんな『自然力』への回路の開いた女性に出会うことが出来たなら、どうするだろう。
空を飛ぶように激しく交わったまま、その性器から子宮へとひきずり込まれ、女神のような女性の子供として再生されたいと願っているのさ。真剣にそう思う。
脱線するが、俺は熊野にある伊邪那美を祀った花の窟神社のご神体である岩の前に、土人のように額づいているときも、神の子として、母親の女性器を焼いて生まれる火の御子神として、再生されたいと願っている。
男性の作ったせせこましいものを、遥かに凌駕する自然の雛形である女神に、土人のように跪きたくなる。

幸いにして、うちのカミサンはそんなタイプじゃない。現実的なごく普通の女性だ。おかげで俺は人間として破滅せずにすんでいる。けれど、そんな女神のような破格な女性に出会ってみたいものだと、痛切に願っている。間違いなく身を亡ぼすだろうけど。

俺は狂ってるかい?

けれど、一人前の男として認められるために、一度は自然をあらわす神様なり怪物に儀礼的に食われ、儀礼的に再生するっていうのは、人類の思考のなかの非常に古い部分に根差していて、ある意味普遍的なものなんだぜ。俺は民族学が大好きだからな。よく知ってるのさ。

だから俺は、いつも豊川稲荷の別院を見つけると、いそいそとダキニ天の前に手を合わせる。
そして『僕の死後、フレッシュな心臓や肝臓を差し上げますので、僕をお守りください。僕を豊かにしてください。おいしく召し上がっていただけるように、健康には注意しますので、なにとぞお願いします。』と、小声に出して祈るのだ。まわりでお詣りしている善男善女はぎょっとするわな。
百円や千円の賽銭で、荒ぶる自然力の女神ダキニ天の加護が得られるわけがない。
心臓や肝臓くらいはかけないとな。
因みに、今年参った名古屋は大須の万松寺稲荷は、巫女さんがそこらの巫女カフェから引っ張ってきたような、清楚さのかけらもないような奴で、笑っちまったがね。

おかげさんで、そこそこ儲かった。そこそこ利益は出たが、それはごっそり税務署さんに持ってかれちまった。さすがのダキニ天も税務署さんには通用しないんだろうよ。

読者諸君、失礼する。この日本の風土は、大陸から渡ってきたものを、なんでもマイルドに、こじんまりとさせてしまう不思議な場所だ。けれど、その奥には脈々と大陸独特の強烈なエッセンスが潜んでいるし、ユーラシアの風がふきわたっていたりするのさ。

2015/01/08

Post #1373

Paris
昨晩、仕事をしているとカミサンからメールが入ってきて、パリの新聞社で銃乱射で多数の死者が出ていると教えられた。
まだ、事件の背景はよくはわかっていないようだが、どうにもイスラム教過激派の犯行であるらしい。
近年、頻発するこの手のニュースには、いささか食傷気味ではあるけれど、これが同じ人数のイスラム教徒の皆さんが、アメリカ軍の無人飛行機による誤爆でぶち殺されたとしても、何のニュースにもなりはしないさという、穿った考えが思い浮かび、人間の命の非対称性、つまり不平等ということに思い至り、悲しいような気分になる。

『君の意見には反対だが、君が意見を述べる権利は命にかけても護る』というヴォルテールの言葉にもあるように、フランスは自由という価値観に重きを置いている社会だ。
なんと、フランスの民法には『人間は、自分の意思に基づいて、道徳的に堕落する権利を有する』という、驚きの文言すらあるらしい。ヴァタイユの『眼球譚』か何かを読んでいた時に見つけて、笑い転げたものだ。
この底抜けな自由に、平等と博愛を加えて今日、俺たちが暮らす先進的な社会の基本的な価値観が形成されている。
俺自身は、『自由、平等、博愛』というフランス人の最大の発明が大好きだし、世界都市パリに行って感じる、風通しの良さ(もっとも、中に入ればそこには厳然たる格差や階級間の軋轢があるのは解かる)には憧れにも似た親近感を感じてきた。
それは、日本社会で俺が感じる息苦しさの裏返しのようなものかもしれない。

そのパリで、今回のような事件が起きた。
これについて思うことをいくつか挙げてみよう。

まず、何を言うのも自由ではあるが、それにはリアクションが伴い、時には命がけでそれを受け止めねばならないというものだ。
また、何を言うのも自由ではあるが、そこには謙虚さと相手に対するある種の敬意がなければならないのではなかろうか。自由の旗のもとに、自分たちの属する集団の成員以外を貶めることは、単なる傲慢でしかないではなかろうか。
つまり、自由だからなにをしてもイイのではなく、自由だからこそ、相手のことを尊重したうえで慎重に発言しなければならないのではないかということだ。自由だからこそ、何を言うべきで、何を言うべきでないかを、峻別しなければならないということだ。

また、襲撃され死亡した編集長は、『我々はコーランのもとに暮らしているのではなく、フランスの法のもとに暮らしているのだ』と語っていたそうだ。それはそうだろう。
対して、襲撃した犯人たちは『神は偉大なり』と叫んでいたという。それも分からなくはない。
しかし、それはそれぞれにまったく異なる領域の概念だと俺には思える。そして、それが同じ地平で比較されていることに、互いを認めることの難しさが現れているように考えるわけだ。

どういうことかと言えば、襲撃されたフランスの言論人と、襲撃したイスラム教徒の両者は、そもそも、自己が立脚する幻想の基盤が根本的に異なっていたということだ。
人間は、宗教なり法なり国家なり、何らかの個を超えた共同の幻想を自らの基盤として生きている存在だ。
その基盤となる大本が、根本的に異なっているのだ。かたや世界で最も先進的な自由思想のもとに打ち建てられた観念体系があり、もう一方には、宗教的な権威を絶対視する古代あるいは中世的な観念体系があるように察せられる。
歴史は一方向に進んでいくというような、単純な理解では世界は捕らえられない。中世的な観念を内包しながら、現代の文明を享受する、異質な社会だって、十二分にあり得るし、現に存在するのだ。卑近な例を取って見れば、現代の中国は、かつて皇帝によっておさめられていた巨大帝国的システムの今日的な展開であるし、北朝鮮なんか三国志に出てくる地方軍閥の独立地帯と同じようなものだ。
それを反動的だの、時代に合っていないだの批判しても、何も解決しないんじゃないか。

どうしたら、解決の糸口が見つかるのか、俺にもわからない。なにしろ俺は馬鹿野郎だからな。

ただ、お互いの最小公倍数を見出していくしかないんじゃないかって思えるぜ。

今のところそれは、あらゆる幻想を排除したうえで、『俺もアイツも、突き詰めれば同じニンゲンだ。』というところしかないように思える。すべては、そこからだ。

読者諸君、失礼する。今回もまたまた難しい話になっちまってすまん。俺だって、小難しい話はしたくないんだ。女の子のことでも考えてムラムラ悶々していたいんだ。

2015/01/07

Post #1372

Kathmandu,Nepal
何故か、眠い。
昨日の真夜中に仕事から帰ってきて、飯食って眠ったはいいけれど、朝の光で目が覚めちまって、もう眠れない。2時30分から客先で打合せがあるというのに、そのあとも打合せだの現場だのと今日も仕事が目白押しだというのに、眠りたくて仕方ない。

後頭部にどんよりとした倦怠感が取りついている。

仕方ないんで、銀行に行って税金を払ってきた。払いたくて払うわけではないんだが、これが世の中の仕組みだ。法人税、法人復興特別税、法人事業税、地方法人税、法人住民税、すべて合わせて337,900円だ。
経費を惜しむようにして、こつこつ働いた揚句がこのざまだ。
そんな金があったら、海外旅行でも行きたかったよ。
泣きそうだ。
けれど、まぁ、そんな事はイイ。もう終わったことだ。

世の中には、俺が思うに2種類の人間がいる。
誰しも、そんな線を自分の中に持っていて、人間を振り分けている。

俺の線はこうだ。
『人間には、魂のある人間と、魂のない人間がいる。』
えっ、魂のない人間って、ゾンビみたいな奴かよ?って思うだろう。
もう少し補足していっておこう。格好良く言い切ると、言葉が足らず、思いもよらぬ誤解を招くことになるからな。

『人間には、自分の魂の存在を自覚している人間と、それを自覚していない、あることに気が付いてない人間がいる。』
こういう言い方が正しいだろう。もちろん俺には、魂が、ソウルがある。それこそが、自分の主体だ。脳科学や遺伝子工学が進んでも、それは捕まえられないだろう。けれど、それは明確にある。なければ、俺たちの生は、まるっきり意味も尊厳もない。歩く肉の塊だ。
俺は、魂のある人間でいたい。
ブルースを抱え込んで、なおかつ歩むことのできるソウルのある人間でいたい。

女性に限って言えば、俺はもう一つ線を持っている。

それは『惚れるか、惚れないか』だ。それだけ。


読者諸君、失礼する。どうでもいいけど、少し眠りたいな。