2015/03/03

Post #1427

Bhaktapur,Nepal
ネパールの古都、バクタプル。
路地裏を歩くと、子供たちがぼろぼろの三輪トラックの荷台に乗って遊んでいる。
夕暮れ時で、ぶれてしまったが、子供たちは異邦人の俺を見て微笑んでいる。
俺もニコニコしていたことだろう。

まるで、昭和30年代の日本のような風情だ。
一様にみな貧しいが、明るく元気だ。

俺の家のすぐそばには、学習塾があり、親に送られた子供たちが、夜遅くまで勉強している。
どちらが幸せなのだろうか?

俺はこの日本が、世界で最も豊かな社会を実現しているのは間違いないと思うのだが、その見返りに、失ったものは多いようにも思えるのさ。

世界は広がった。その代わりに空虚になった。そんな感じだ。

俺は、空き地の土管の中や、雑木林の木の上に、友人と基地を作って楽しんだ遠い日のことを、ぼんやりと思い出す。夕方には、近所のおばあさんが畑で採れた大根なんか持ってきて、分けてくれたりしていたっけ。
もう、ぼんやりとしか思い出せないけれど。その頃は、まだ日本はもう少し貧しかったし、もう少しのんびりしていたんじゃないだろうか?なにしろ、もう40年近く昔のことだ。
君はどう思うだろう。

しかし、しかしですねぇ、今更地域の共同体に抱かれ、貧しさに肩を寄せ合いながらも、濃密な人間関係のなかで幸福感にひたるには、俺たちはみな、すれっからしになりすぎているんじゃないかな。
なにしろ、俺たち人間の欲望ってのは、後戻りが効かないものだからな。

自分から手を差し伸べなければ、手をつなぐことはできない。そんな考えが、脳裏をよぎる。
求めよ、されば与えられん、か。
人間関係ってはのは、まずは求めることからすべて始まるんだが、俺たちは既にそういうのが、ある意味ウザったいと思うようになってるんだから始末が悪いぜ。
けれど俺は、どこか濃密で火傷するんじゃないっかってほどの、濃密な人間と人間の交わりに憧れる。君たちとも、もっといろいろと話し合ったりしたいのさ。うざい奴なんだ。

だからあえてもう一度、俺は自らに問いかけたいのさ。
あの貧しい世界に暮らす彼らと、俺たちの豊かでどこか荒んだ社会(異論はあるだろうが、18歳の若者が、13歳の少年をいたぶり殺すような社会が、荒んでいないとは俺には思えない)に暮らす俺たちと、いったいどちらが幸福を感じているのだろうか?

幸福というのは、以前にも言ったけれど、人間と人間のつながりのなかにしか見いだせない、淡い蜃気楼のようなもののように、俺には思えるのさ。
しょせん俺たち人間は、独りで生まれ、独りで死んでゆくしかない寂しい存在なんだからな。
人生は意外と短いんだぜ。立場や宗教や民族で、憎みあったり、いがみ合ったりしてるような暇は、実はどこにもないんだ。

ゲラゲラと腹の底から笑いあっていたいんだよ、俺は。

読者諸君、失礼する。教えてくれないか?君は、幸せかい?

2015/03/02

Post #1426

Fes,Morocco
昨日は仕事が休みだったので、美容院に行って髪をきった以外は、ひたすら眠って暮らした。
こう見えても、俺は疲れ果ててるんだ。くたくたなのさ。
だから、何も言うべきことはありゃしない俺なのさ。

よって、今夜はこの写真だけ、そっと君に届けよう。

読者諸君、失礼する。顔パックしたいからとっとと止めてくれと言われてるんだ。

2015/03/01

Post #1425

Rabat,Morocco
イスラム国に捕らえられた人質を、ナイフで処刑し、世界中を震え上がらせたジハーディ・ジョンの身元が公表された。後藤健二さんや湯川遥菜さんを殺した黒づくめのアイツのことだ。まさか君、忘れちゃいないだろう?

新聞その他の報道によれば、クェート生まれ、ロンドン西部郊外で、裕福な家庭に育ったコンピューター・プログラマー、『ムハンマド・エムワジ』がその正体だという。イギリスの諜報機関MI5は以前から彼をマークしていたのだという。
毎度おなじみ朝日新聞で知ったのだが、関連ニュースをいろいろと見ていると、一番興味深かったのは、下にリンクを貼ったテレグラフ紙のものだ。
telegraph.co.uk/Jihadi John From ordinary schoolboy to worlds most wanted man.html
この記事の中で、エムワジの学生時代の友人が、彼のことを想い出して『彼は典型的な北西ロンドンの少年だった。彼は分別のある、謙虚な人柄だった。サッカーが好きで誰とでも友人だった。そう、インド人やパキスタン人など、宗教の違う人々とも仲が良かった・・。』と言う趣旨の発言していることが目を引いた。
それが今や、世界一のお尋ね者だ。解からないものだ。彼を非難するのは容易いが、俺はむしろ、その解からなさに目を向けてみたい。心の闇というのは簡単だが、それでは、自分には闇は微塵もないかのように、仮想の線を引いてしまうことになりかねない。

人間は、閉じた環境の中に飛び込んでしまうと、どんどん先鋭化してしまう。

若いころ、カルトな宗教に飛び込んで、行者として人にはあんまり言えないことを散々してきた俺が言うのだから、間違いない。
市民社会の常識も、法も倫理も、自分が属する閉じた社会特有の考え方が優先されるのだ。そして、そこから抜けるという選択肢がない(イスラム国は脱退は死刑だと聴いたことがある)のなら、より先鋭化した考えを持ち、より過激な行動に出たものが、称賛され、組織内での地位を確立してゆくというのは、十二分に理解できる気がする。
そして、そういう状況は、何もイスラム国のような狂信的な集団だけに見られるものではなく、往々にして熱狂的な興奮に包まれた国家から、そこいらの宗教団体、政治団体、果ては一般的な企業に到るまで、程度の違いはあれ、容易に起こりうる、いや、今もおこっている事柄なのだ。

俺が、組織というのもに馴染めず、どこかそれは俺自身を絡め取ろうとするものだと感じるのは、そこなんだ。
社会一般の常識よりも、組織内の常識の方が優先される不思議な状況が、いつだって生み出される。気が付くと、イイことをしてるつもりで、とんでもないことの片棒を担いでいたり、自分自身を抑圧圧殺する方向に、自分から自分を追いやったりすることになるものだ。

では、どうするか。

一つには、インディペンデントに生きるということが必要になってくる。あくまで、個として社会に対峙するという確固たる意思を持つべきなんだ。
もう一つには、閉じた社会の非常識を常識と思いこまされることのないような知性、教養、思想、信条を身に着ける必要があるということだ。
もちろん、この二つはコインの裏と表のようなもので、意思だけでは偏固になり、教養だけでは高慢に陥るというもんだ。

俺は、25歳で宗教団体から命からがら夜逃げして、いまの暮らしを始めたときから、もう二度と無知蒙昧に陥るまいとして、さまざまな本を読んできた。歴史、経済、民族学、宗教学、哲学、文学などなどだ。時にはこっそりエッチな本も読んできた。バランス感覚は必要だ。そして、自分なりに世界というものに対するイメージとスタンスを確立しようとして努めてきたつもりだ。
だからどうした、自慢かよ?って訊かれると、そうじゃないって言うしかないんだが。
つまり、自分なりの社会に対する確固たるスタンスを持たねば、容易にあやふやな自己など、大義名分に飲み込まれてしまうことになるっていうはなしだ。
だからと言って、社会と対峙するのに、より小さく過激な集団によって行うのは、ある意味で個としての弱さに他ならないようにも思える。

俺は思うのさ。
俺たちは誰だって、後藤健二さんになりかねなかったし、湯川遥菜さんにもなりかねなかった。
そしてまた、ジハーディ・ジョンにだって、なっていたかもしれなかったんだって。全ては機会と縁の問題で、たまたま俺にはその縁も機会もなかっただけのことに過ぎないって。

親鸞聖人は歎異抄のなかで『俺の心がよくって、人を殺さないって訳じゃないんだ。ただ、その縁がたまたま無いから殺さないだけなんだ』って言っているけれど、人間なんてのは、まったくその通りのもので、ジハーディ・ジョンを俺たちとは全く違った怪物か化け物のように思ってはいけない。
彼もまた、一人の人間に過ぎないってことが、俺にはよくわかった。
彼を冷酷で非情なモンスターだと認識することは、ある意味で思考停止だと俺には思えるのさ。もちろん、彼を擁護したり称賛したりする気はさらさらありゃしないんだがね。

読者諸君、失礼する。今夜ももちろん仕事をしてるのさ。