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| 三重県尾鷲 |
承前
親父は病院のHCUで半死半生、棺桶に足を突っ込んでる。
病状を説明してくれた医師によれば、筋肉や脳の組織からアミノ酸が分解されて流れ出し、通常190くらいのクレアチンの値が20000超えているんだとさ。人工透析必須で、この溶け出した筋肉とかの成分が赤黒い肉汁のような尿の正体だ。
今回は死ぬかもな、助かってもどのみち今のアパートに独りで住み続けることはできないだろう。病院のケースワーカーさんに相談しなくちゃな。市役所の老人福祉課にもいかなきゃいけないだろう。いや、もしかしたら月末に予定しているおばあさんの13回忌と親父の葬式が一緒にできるかもしれないな。こいつは手間が省けていいこった。
それよりも猫だ。猫は生き物なので、餌をやらないと死んじまう。まぁ、死んでくれたほうが親父もあっさり転居できるってもんだ。この年取った猫の存在が、親父の転居のハードルを上げていたんだ。ちなみに俺は猫上皮、ダニのアレルギーがあるので、親父の家に入るだけで目がかゆくなる。しかし、どうにかしないといけないな。
俺は親父のアパートに向かった。
カギは空いていた。俺はあまりの散らかりようにうんざりし、土足のまま上がり込んだ。
埃と油、猫の毛なんかが複合した汚れが、あらゆるものにこびりついていた。
臆病で人になれない猫は、押し入れの中に逃げ込み、気配を断っている。猫のトイレの便臭が鼻を衝く。
台所のシンクには、洗っていない食器が山のように積まれ、何もかものが油っぽくべたべたしている。男所帯に蛆がわくというのは本当なんだなとおもったよ。
猫の餌と水を新しいものに取り換え、様々ながらくたでいっぱいで歩く場所もないようなリビングを見渡しため息をつく。
母が死んだときに何百万もかけて買い替えた浄土真宗特有の金箔ギラギラの仏壇の扉は閉ざされたままだ。親父は一人暮らしの寂しさに耐えかね、いつのまにか創価学会に入信していたから、仏壇は締め切られたままなんだ。死んだ祖母や母の遺影は、顔向けできないのか仏壇の横の狭い隙間に押し込められている。
みすぼらしく擦り切れた下着。
長年着古してよれよれになった時代遅れの服。
かかとがすり減りつま先の皮がはげちょろになった革靴。
熟女ヌードのカレンダー。
壁のあちこちに張られた新聞の切り抜きやメモ、名刺、写真。
今年届いた年賀状は机の上にトランプのカードのように散らかっている。
食べきれないほどの食料品や甘いお菓子。
そして、このとっ散らかった部屋の中に、いったいいくらあるのかわからない借金の手がかりや、一体いくらもらえてるのかわからない年金の振り込まれている通帳があるはずだ。
とりあえず俺は、心配して様子を見に来た近所のかたに猫の餌を定期的にあげてもらえるようにお願いし、仏壇の横に突っ込まれた母や祖母の写真(あぁ、この人たちについても語るべきことはたくさんある。しかし、俺はもう母のことはほとんど覚えていない。というか、詳しく知らなかったんだ。ひでぇもんだ)と仏壇のなかの繰出位牌、阿弥陀様のご本尊と親鸞聖人、蓮如上人の掛け軸を家に持ち帰ることにした。
そこに、例の大家のおばはんが現れたんだ。
彼女は、父の容態を一応心配するようなことを言いつつも、こうなった以上は早く出て行ってほしいという雰囲気を全身から放射しまくっていた。
「服部さん、昨年中に出て行行くって約束だったので、もう私は三か月もお家賃いただいてませんの」
「知りませんよ、僕は別人格なんだから」
「今日も息子さんとアパートの契約に行くって言ってましたけど、どうなったのかご存じ」
「そんな話、今初めて聞きましたよ」
大家は思った通りという表情をして、「私もビジネスとしてこのアパートを持っているんですから、私がまだ元気なうちにこの部屋をリフォームして資産価値を維持したいと考えておりますの」
そりゃそうだろう。脱衣所の引き戸の扉枠は腐ってるし、洗濯機の前の床は根太が腐っているのかトランポリンみたいだ。親父に大家として金をとって貸しているってんなら、大家としてすぐに直すべきだと俺は思うぜ。ダンスは二人じゃないと踊れないように、ビジネスも相手がいないと成立しないんだからな。自分の都合だけで物を言ってもらっても困るぜ。
「まぁ、おっしゃることもごもっともの状況ですが、なにぶん急にこんなことになってしまったので、一月末までご容赦いただきたい。」
「…わかりました。」
「つきましては、お宅様から頂いた猫ですがお引き取り願えませんか」俺はダメもとで聞いてみた。
そうすると途端に上品ぶった慇懃無礼な態度が豹変した。
実はその猫は彼女の大きな田舎の資産家風な家の納屋で野良猫が産み落としたものだったんだが、彼女はそんなことは棚に上げて、その猫は決してじぶんが親父に押し付けたわけではなく、親父が寂しさを紛らわすために自発的にもらっていったものだとか、自分の家にも90歳の母親が一緒に住むことになって、そのわがままな婆さんの世話も大変なので、とてもじゃないが無理だとまくし立てた。
いるんだよ、人に無理難題を押し付けて身動きできないようにしてタコ殴りにして愉しむような人間性の歪んだ奴が。ビンゴ!ここにもいたぜ。
その話を聞きながら俺は、はるかむかし御幼少のみぎりに、ネズミ捕りにかかったネズミがキーキー鳴くのもお構いなしに、家の前の側溝の淀んだ水の中に、籠ごとネズミを沈めて殺していた、まだ若かった母の無表情で端正な顔を思い出していた。そうだよね、母さん。
「じゃぁ仕方ない。保健所で殺処分ですな。何なら僕がこの手で殺してもいい。猫の一匹くらい、ひねり殺してあなたの家に放り込んでおくくらい、僕には造作もないことですから」
大家は呆気に取られ多様な顔をして、早々に帰っていった。
俺は時折、狂ったようなことを言う。マッドマンセオリーなのか、本当に狂っているのか。それとも単に性根が悪党なのか。この年で誰かに好かれたいわけじゃない。悪党で十分さ。


