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| Copenhagen,Denmark |
俺のせいじゃないんだぜ。下らない政治が続いているからさ。俺はそんな政治の話なんかよりも、素敵な女性のことを思い出したり、夢見たりしているほうが、圧倒的に好きだ。そんな下らない政治の話を聞いてると、耳がけがれちまうぜ。
素敵な女性のことを夢見て愉しく暮らすには、少々のお金と不滅の体力と、世の中が明るくて平和なことが絶対に必要だと、俺は思うぜ。
さて、今日で6月も終わる。
俺にとって、女性のことを考えるとき、もうすべてなにもかもを、金子光晴がその詩のなかで言い尽くしている気がする。もしくは忌野清志郎?
久しぶりに、俺の座右の書『愛情69』から、お気に入りの詩をいくつか引用してみよう。
『愛情3
むかし、炎帝の娘たちには
まだ、ながい尻尾があつた。
好きになつたしるしには
しつぽとしつぽを巻きつけた。
しつぽにしつぽを巻きつければ
ふたりはなにもかもわかりあへた。
しつぽが、だんだん短くなり
男と女とはわかりあへなくなつた。
千萬愛してゐるといつてみても
ことばは、風にふきとんでしまふ。
千日、からだで契りあつても
肉体の記憶はその場ぎりだ。
な
しつぽとしつぽを繩に綯つて
繩が朽ちるまではなれまい。
しつぽのある女をおれがさがしてゐる
そのことわけはざつと、こんなところ。』
(金子光晴 講談社文芸文庫「女たちへのエレジー」P125より)
どんなに素敵な女性でも、俺のことをわかって受け入れてくれないんなら、俺はなんの興味もありゃしないさ。もちろん、俺は相手の女性のことを、できるだけ受け入れて、できる限り理解したい。いつも、そう思う。けれど、言葉も肉体の交わりも、すべてを受け入れ理解するには、ほど遠いって思うよ。この詩を初めて読んだ時には、すとんと腑に落ちるものを感じたね。
『愛情32
いくたび首をひねつてみても、
男と、女がゐるだけだ。
その女と、男の思案が
ながい歴史をつくつてきた。
男の箸と
女の箸とで
世の仕合せを
はさむといふ。
ふたりの愛が
泥のだんごを米のだんごに
かへるといふ。
男と女の一対は、
まがりなりにもたのもしい。
女のゐないしあはせや
女ひとりのしあはせは、
誠実と涙の露のふりかかる
胸いつぱいの花束が、折角の
おくるあひてがないのとおなじ。』
(金子光晴 前掲書P177)
単身世帯が増えている。
それはそれ、個々のお考えだから他人の俺がとやかく言う筋でもない。けれど、こんな素敵な女性がどうして?とか、こんな気立てのよい好男子がなぜ?と思うことはしばしばだ。
なんとなく、残念だ。
もちろん、単身で暮らしているのは構わないが、やっぱりどこかに心の通じ合う異性がいないのは、最後のセンテンスのように、ものさびしいものだと思う。独りで生きていけるなんて思えるのは、若いうちだけかもしれないぜ。ニンゲンは、そんなに強いものじゃないと思う。
歴史に残る名アルバムを、若いリスナーに紹介するDJのように、もう一発行ってみよう!
『愛情53
女をひとりあつかふのは、
水のうへの丸太乗りよりむづかしく
生涯かけても、足のさばきが
のみこめぬ不器用ものが多い。
よう
むかしは、媵といふ制度があつて
ひとりの娘御を嫁にむかへると、
姉妹たちもそろつてついてきた。
さあ、それはよいやら、悪いやら。
束にして女どもをかはいがるのはいいが、
食はせて、着せるだけでも大仕事だ。
かと言つて、ひとりの女をまもる
しみつたれた習慣はいつ頃からか。
どうやら今日の『文明の貧困』は、
女さばきのまづさに原因がありさうな。』
(金子光晴 前掲書 P219)
俺は、現代的な、父系の一夫一妻制ってのが、唯一の性の形とは思えないんだ。母系社会のように、女のもとに男が通ってくる形でも全然いいと思えるし、むしろ古事記のオオクニヌシの説話や、伊勢物語や古今和歌集に見える平安時代の男女関係からすると、そっちのほうが自然なんじゃないかって思えるよ。そもそも、子供ってのは、俺の感覚じゃ母親のものだしな。
読者諸君、失礼する。明日から東京銀座で大仕事だ。この機会に、首都圏の知人友人に会いたいもんだが、そんな余裕が果たしてあるかな?もちろん、逢ったことのない君にも、あう機会があれば、そりゃ嬉しいものさ。


