久しぶりに、髪を切ってきた。モジャモジャだったからな。仕事の大変さをアピールするには、もってこいだったんだが、ご飯を食べてると、モジャモジャした髪の毛まで一緒に口に入ってくるのにはいい加減うんざりしていたんだ。
行きつけの美容院、栄美容室(どこの街にもありそうな名前だが・・、これは俺の住む町に実在する。スタッフの皆さんには、いつも歓迎してもらっている。感謝してるぜ。)に行き、髪を切ってきたんだ。相変わらずのくるくるパーマだが、これはくせ毛だから仕方ない。日本を代表するお騒がせ女優沢尻エリカも、天然パーマだそうだ。まぁ、俺にはカンケーないか。
栄美容室さん、いつもありがとう。とはいえ、年に3、4回しか行かないけどね。
それはともあれ、今日は写真だ。昨日水揚げしたばかりのぴちぴちだ。禅の用語を使ってみれば、活潑潑地という奴だ。なんだかよくわからんが、字面だけ見ているだけでも躍動感が伝わってくるというもんだ。
話はそれるが、俺は実は臨済録とか読むのが好きなんだ。岩波文庫の入矢義高センセーの訳注の奴なんだが、この現代語訳がすこぶる痛快なカンジだ。脱線を承知で少し引用してみよう。なに構うもんか、エリートビジネスマンじゃないんだ、好きにやらせてもらうよ。
『(前略)君たちの生ま身の肉体は説法も聴法もできない。君たちの五臓六腑は説法も聴法もできない。また虚空も説法も聴法もできない。では、いったい何が説法聴法できるのか。今わしの面前にはっきりと在り、肉身の形体なしに独自の輝きを発している君たちそのもの、それこそが説法聴法できるのだ。こう見て取ったならば、君たちは祖仏と同じで、朝から晩までとぎれることなく、見るものすべてがピタリと決まる。ただ想念が起こると知慧は遠ざかり、思念が変移すれば本体が様がわりするから、迷いの世界に輪廻して、さまざまな苦を受けることになる。しかし、わしの見地に立ったなら、〔このままで〕極りなく深遠、どこででもスパリと解脱だ。』(岩波文庫臨済録 示衆 P39より)
どこででもスパリと解脱だってのが、サイコーに格好Eわ。己とは何かちゅうことさえばっちりと押さえとけば、見るものすべてがピタリと決まる。これは写真にも通じるようにも思うが、どーだろうか、諸君?
臨済宗は、一休さんでおなじみの『怎(そもさん)!、説破!』でおなじみで、臨済はその開祖の中国の坊さんだ。理屈を突き抜けて、こまごました理論を蹴散らしといて、それを直感的に止揚するパワーが、読んでて堪らないんだけど、文章だけ読んでると、これは酔っぱらいのオヤジの妄言にしか思えないところがサイコーだ。すぐに、弟子とか自分の師匠を棒でぶん殴ってるしな。
他にも、仏なんてカチカチの糞の棒だ!とか、閻魔に飯代を請求されるぞ!とか、思わず笑い転げるような言い回しがてんこ盛りだ。こんなもんを読んでるから、ロクでもないおっさんになってしまったという訳だ。
あ、そうそう、マラケシュの写真だ。出し惜しみして今日はまず一枚だけだよ。
モロッコのあたりの先住民族、ベルベル人の言葉でで神の国に由来するマラケッシュのスークの一角にて。
スークとは、アラブ世界で言うところの市場だ。人びとは、買い物が無くても、暇潰しや、唯座って時を過ごすために、スークに集まってくる。路上の屋台で飯を食い、路上で世間話に花を咲かせ、路上で遊んでいる。人間の生活が路上で繰り広げられている。
路上の暮らしだ。狭い路地に人が、車が、原付が、ロバが、馬車が縦横無尽勝手気儘に入り乱れる。竹で組んだ屋根から、アフリカの強い日差しがスポットライトの様に差し込む。荷車を引く馬が嘶く、人々は押し合うようにして馬車に道を譲る。馬車を操るおっさんは、何だか得意げだ。
どう、カッコいいだろう?俺は自分でこのカッコ良さに我ながらちびったぜ。
藤原新也の言葉(名著、印度放浪だよ!)をひくまでもなく、世界は良かった。
読者諸君、また会おう。
行きつけの美容院、栄美容室(どこの街にもありそうな名前だが・・、これは俺の住む町に実在する。スタッフの皆さんには、いつも歓迎してもらっている。感謝してるぜ。)に行き、髪を切ってきたんだ。相変わらずのくるくるパーマだが、これはくせ毛だから仕方ない。日本を代表するお騒がせ女優沢尻エリカも、天然パーマだそうだ。まぁ、俺にはカンケーないか。
栄美容室さん、いつもありがとう。とはいえ、年に3、4回しか行かないけどね。
それはともあれ、今日は写真だ。昨日水揚げしたばかりのぴちぴちだ。禅の用語を使ってみれば、活潑潑地という奴だ。なんだかよくわからんが、字面だけ見ているだけでも躍動感が伝わってくるというもんだ。
話はそれるが、俺は実は臨済録とか読むのが好きなんだ。岩波文庫の入矢義高センセーの訳注の奴なんだが、この現代語訳がすこぶる痛快なカンジだ。脱線を承知で少し引用してみよう。なに構うもんか、エリートビジネスマンじゃないんだ、好きにやらせてもらうよ。
『(前略)君たちの生ま身の肉体は説法も聴法もできない。君たちの五臓六腑は説法も聴法もできない。また虚空も説法も聴法もできない。では、いったい何が説法聴法できるのか。今わしの面前にはっきりと在り、肉身の形体なしに独自の輝きを発している君たちそのもの、それこそが説法聴法できるのだ。こう見て取ったならば、君たちは祖仏と同じで、朝から晩までとぎれることなく、見るものすべてがピタリと決まる。ただ想念が起こると知慧は遠ざかり、思念が変移すれば本体が様がわりするから、迷いの世界に輪廻して、さまざまな苦を受けることになる。しかし、わしの見地に立ったなら、〔このままで〕極りなく深遠、どこででもスパリと解脱だ。』(岩波文庫臨済録 示衆 P39より)
どこででもスパリと解脱だってのが、サイコーに格好Eわ。己とは何かちゅうことさえばっちりと押さえとけば、見るものすべてがピタリと決まる。これは写真にも通じるようにも思うが、どーだろうか、諸君?
臨済宗は、一休さんでおなじみの『怎(そもさん)!、説破!』でおなじみで、臨済はその開祖の中国の坊さんだ。理屈を突き抜けて、こまごました理論を蹴散らしといて、それを直感的に止揚するパワーが、読んでて堪らないんだけど、文章だけ読んでると、これは酔っぱらいのオヤジの妄言にしか思えないところがサイコーだ。すぐに、弟子とか自分の師匠を棒でぶん殴ってるしな。
他にも、仏なんてカチカチの糞の棒だ!とか、閻魔に飯代を請求されるぞ!とか、思わず笑い転げるような言い回しがてんこ盛りだ。こんなもんを読んでるから、ロクでもないおっさんになってしまったという訳だ。
あ、そうそう、マラケシュの写真だ。出し惜しみして今日はまず一枚だけだよ。
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| Marrakech,Morocco |
スークとは、アラブ世界で言うところの市場だ。人びとは、買い物が無くても、暇潰しや、唯座って時を過ごすために、スークに集まってくる。路上の屋台で飯を食い、路上で世間話に花を咲かせ、路上で遊んでいる。人間の生活が路上で繰り広げられている。
路上の暮らしだ。狭い路地に人が、車が、原付が、ロバが、馬車が縦横無尽勝手気儘に入り乱れる。竹で組んだ屋根から、アフリカの強い日差しがスポットライトの様に差し込む。荷車を引く馬が嘶く、人々は押し合うようにして馬車に道を譲る。馬車を操るおっさんは、何だか得意げだ。
どう、カッコいいだろう?俺は自分でこのカッコ良さに我ながらちびったぜ。
藤原新也の言葉(名著、印度放浪だよ!)をひくまでもなく、世界は良かった。
読者諸君、また会おう。
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