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| 根尾村水鳥 |
幡に記された文字から、それが何を意味しているのか俺にはよくわかる。
そこに記されているのは、みな阿弥陀如来の別名だ。
かつて親鸞聖人が記したといわれる正信偈と、それに続く浄土和讃にその名は現れる。
『佛光照曜最第一
光炎王佛となづけたり
三塗の黒闇ひらくなり
大應供を帰命せよ』
炎王光佛ってなってるのは、ご愛嬌か。まだまだ続く。
『道光明朗超絶せり
清浄光佛とまふすなり
ひとたび光照かふるもの
業垢をのぞき解脱をう』
『無明の闇を破するゆへ
智慧光佛となづけたり
一切諸佛 三乗衆
ともに嘆譽したまへり』
『光明てらしてたへざれば
不断光佛となづけたり
聞光力のゆへなれば
心不断にて往生す』
『光明月日に勝過して
超日月光となづけたり
釈迦嘆じてなをつきず
無等等を帰命せよ』
俺は、象徴ってのが好きだ。
象徴ってのは、人生を奥深く立体的なものにしてくれる。
ともすれば無意味と虚無に流れがちな人生に、象徴は意味を与えてくれる。
象徴を見失うと、人は世界を計測可能な効率や資産価値でしか測れなくなる。
薄っぺらな世界だ。
仏の名を記した幡を立てれば、その時空には上に記したような和讃が、声無くして響き渡る。
寂れた田舎の寒村が、春の日差しに晒されて色のかすんだような山村が、それによって仏の浄土へ真っ直ぐつながる土地へと清められる。
すくなくとも、それを見た真宗信徒の胸中には、阿弥陀如来を讃えた和讃の文言が、その独特のメロディーとともに立ち上がってくることだろう。
それだけでもイイのだ。それは、仏の実在を人々に指し示す符牒のようなものだ。
そして、善でも悪でもなかった死者は阿弥陀如来の光によって、極楽往生すると思う事が出来るのだ。
その荒唐無稽なことを信じることが、信仰を持つということだと俺には思える。
では、信仰を持たない人々の死には、どんな意味があるのか。
そこにはいったいどんな救いがあるのか?
君も何度か参列したことがあるだろう、何とか会館の葬儀の、無味乾燥なこと。
人の死すら、消費されている。
出来る事なら、俺自身も、この村のような葬儀で、この世とおさらばしたいもんだ。
読者諸君、失礼する。願以此功徳、平等施一切、同發菩提心、往生安楽國

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