2011/08/02

Post #262 I Hate

最近よく、うちのつれあいが新聞に広告が載っているある本を指して、俺にゼヒ読むべきだっていうんだ。『激しい怒りが消える本』とかなんとかいう本だ。
自分でもわかる。俺のなかには、自分が人生で関わってきた具体的な人間に対するもの、あるいはまた、実在の人じゃないけれど、虫のように愚かな人々を、激しく憎む気持ちがある。
とりわけ、会社を辞めて独立し、一人で仕事をするようになってから、一人でいる時間が多いので、ふと気が付くと、自分がささくれた暗い目をして、何かに静かに怒りの炎を燃やして虚空をにらんでいることに気が付くことが増えた。
そう、俺は何かが間違った狂った世界に放り込まれたように感じて、いらだっている自分に気が付いている。もし、俺が一人で暮らしていたなら、きっとこの怒りを制御できず、とっくに自滅してしまったんじゃ無いかとも思う。ノルウェーで事件を起こしたあいつのように。つれあいに感謝だ。
HomeTown
 出来る限り正直に言ってしまえば、俺の心が良くて、そんな事を引き起こさないでいる訳じゃない、とも思う。何というか、たまたま、その縁がなかっただけで、未だに何とか危ういバランスをとって、市民社会で曲がりなりにもまっとうに生きているって訳だ。
この辺の事は、親鸞聖人も『歎異抄』のなかで語っている。いささか衝撃的だ。親鸞聖人、並みの坊主じゃないってことがわかる。さわりだけ行ってみようかな。
弟子の唯円に、自分のいうことを信じるかと念を押したうえで、極楽往生するためには人を千人殺さねばならんとしたら、どうする?って意地悪な質問をするんだ。唯円はびっくりしながら、自分の器量じゃ千人どころか人一人だって殺せそうにないって答えるんだ。まぁ、フツーそうだろう。
すると、親鸞は『俺の言うとおりにするって言っただろう‥。これで分かったろう、何事も心のままに出来るんだったら、千人殺せって言ったら殺すべきなんだ。しかし、人一人だって殺すような業縁(=つまり他者との関係性)がないから、一人だって殺せやしないもんだ。つまり、自分の心が善良だからって殺さないわけじゃないってことだ。また、殺そうなんて思っていなくっても、百人千人を殺してしまうことだってあるだろうさ。』ちゅうニュアンスのことをさらりと言ってのける。
そう、つまり決して俺の心が善良で、罪科を負わずに生きてきたわけではないんだろう。たまたま、偶然だ。それは、今この文章を、ふ~んなんて読んでいる君自身にも、もちろんそっくり当てはまることだ。ただ、俺は自分に極力正直に言ってみただけの事なんだぜ。いや、だからほら、俺だけが特別じゃないんじゃないのってこと。俺の事を狂気を秘めた凶暴な危険人物だとか思わないでほしいな。俺は正気だ。ただ、出来る限り正直に、誠実に自分の中を覗いてみているだけだ。
もちろん、この怒りを捨ててしまえば、楽に生きられるのは分かっているけれど、それを捨ててしまったら、自分が自分でなくなってしまうようで、不安だ。そもそも俺に出来ることなんて、気に入らない奴の写真の目に、画鋲を刺してみたりする程度さ。それでどうなるってもんでもないが、なんだか気晴らしにはなるんじゃないか?可愛いもんだろう?
Paris
 愛情の対義語は憎悪じゃない。愛情と憎悪は容易に入れ替わる。何故ってそれは同じエネルギーのベクトルが違うだけだろうから。カードの裏と表のように、不即不離だ。だからこそ、人は誰かを愛しいと思う反面、些細なきっかけで同じ相手を厭わしいと感じてしまう。節操がないが、それが人間だろう。
論語にもある。
『これを愛せばその生きんことを欲し、これを悪めばその死なんことを欲す。既にその生きんことを欲するに、又その死なんことを欲するならば、是れ惑いなり』
いつもこの言葉を思い出しては、人は、いや自分は、惑いながら生きていくしかないもんだとも痛感する。愛情の本当の対義語は、無関心だ。俺にはカンケーねぇって奴だ。俺の心のエンジンはデカい。愛憎の大きさも人一倍だ。

なんだか、精神がおかしい人間の妄言のようになってきちまったぞ。読者に大きく誤解されてしまいそうだ。おーい、俺は確かに心の中に愛憎の塊を抱えているけど、そんなに悪い奴じゃないんだぜ!スピード違反くらいしかしない善良な市民の端くれなんだ!
やばい、これから仕事に行かなけりゃならないってのに、ドツボにはまっているぞ。そろそろ切り上げようや。いまどき、ネットで迂闊なことを書くと、危険人物だってレッテルを張られて、犯罪者扱いされかねんからな。
今日はこれで最後だ。最後の最後に、俺の好きな言葉をあげておこう。坂口安吾の『夜長姫と耳男』の最後のセリフだ。いろいろあって、耳男は夜長姫をノミで刺し殺すんだ。そして、死にゆく姫の最後の言葉だ。気になる人は読んでみるとイイ。坂口安吾がとんでもない鬼才だってわかるだろう。講談社文芸文庫の『桜の森の満開の下』に収録されている。これが本当なら、惑いの中からしかゲージュツなんて生まれない。ゲージュツって、苛酷なもんだ。
『好きなものは咒うか殺すか争うかしなければならないのよ。お前のミロクがダメなのもそのせいだし、お前のバケモノがすばらしいのもそのためなのよ。いつも天井に蛇を吊るして、今わたしを殺したように立派な仕事をして・・・・・・』
だからこそ、心の天井に自ら殺した蛇の死骸を吊るようにして、形のない怒りや愛情に身もだえしながら、暗い目をして迷路のような街角で写真を撮り、狂ったような面持ちで光差さぬ暗室のなか写真を焼きたい。
読者諸君、失礼する。俺の中にはマグマのような感情の塊が、胃のあたりでとぐろを巻いている。けど、今日に始まったことじゃない。いつだってそうさ。

2011/08/01

Post #261 Responsibility

悪いけど、今日は何も話したいこともない。
HomeTown
別に、気分が落ち込んでいるとかって訳じゃないんだけどね。体調が悪いわけでもないしね。金を振り込み、客先周りをし、仕事の電話をほうぼうにかける。そんなどうってことのない一日が、ただ過ぎただけのことだ。俺にとっては平和な一日だ。
HomeTown
俺が平々凡々に暮らしている間にも、アメリカの議会で、民主党・政府と共和党の間で妥協が成立し、大方の予想通りデフォルトは回避されたそうだな。それはそれで一安心だ。万一の時は世界恐慌になるかと思っていたんだ。金でも買っておけばよかったって後悔してたくらいさ。とはいえ、そんな銭は昔も今も持っちゃいなんだがね。
しかし、デフォルトを回避するために、政府がもくろんでいた高額所得者に対する増税は見送られたようだ。アメリカ人は、貧乏人に優しくない連中だ。イマイチ好きになれないのはそのせいかもな。しかし、金持ちが税金を出し渋るのは、何処だって同じだ。手取りが860万もある奴でも、子供手当がもらえるってのも、似たような話だ。まったく、俺のよーな貧乏人は、否応なくケツの毛まで抜かれちまうってのにな。
さて、アメリカだが、どうしてこんなに借金が膨らんだのか?
それにはいろいろな理由があるだろうが、大きな要因は、共和党政権時代にアメリカがおっぱじめた戦争のコストが財政運営に重くのしかかってるのは、間違いないだろうな。
まったくもって、戦争ってのはコストがかかるったらないぜ。どこぞの国の原発と同じだ。動き出したら、なかなか引き返せないのさ。なんてったって、それはそれでうまい汁にありつく奴らが大勢いるからな。しかも、そいつらはいつだって自分は安全なところで、偉そうにしてるんだ。間違っても自分の手を汚したり、汗をかいたりはしないんだ。
そうはいっても、民主党政権も財政再建のために突っ張ってみせて、その挙句にデフォルトを引き起こすわけにはいかないってのが正直なところだろう。オバマだって世界に対する責任があるからな。苦渋の決断だったことだろう。
責任があるからこそ、妥協しなけりゃならないってものだ。
責任の無い奴は、何時だって調子のいいことを言うもんだ。
ふむ、日本でも同じような構図があるように感じるぜ。まぁ、俺のような庶民にゃカンケーないが、世の中、難しいもんだねぇ。間違っても偉くなんかなりたかないわな。まぁ、偉い奴になる気遣いなんか、正直サラサラないけどね。それはそれで、男として寂しい限りだが、ココはいっちょう、巻懐孤高を気取ってるってことにしておこうや。カッコいいもんだぜ。ちなみに巻懐ってのは、論語に出てくる言葉だ。世間に道義が行われていないのならば、懐に巻き取っておさめてしまうように、自分が社会の表舞台に立つことなく、ひっそりと隠れるように暮らすってことだ。諸君、ご存じだったかな。
とはいえ、中身のある奴が言えば、それなりに様になろうってもんだが、俺のような道楽者が言ったって、みんなに鼻で笑われちまうのが関の山さ。
さてと今夜はこんなところで、失礼させて頂くぜ。

2011/07/31

Post #260 I Thank You

いきなりのっけから、サム&デイブの歌みたいだが、この寝言のようなブログもついに10,000PVを達成したんだ。どうもありがとう!
分かりにくい写真と、独断と偏見に満ち満ちた長ったらしい文章の二本立てだ。他所のブログのように、素敵な写真ですねなんてコメントもほとんどない。素敵な写真じゃないから、しょうがない。むしろ、ノイジーで違和感を与えるような写真だ。けれど、ようやくここまでたどり着いたんだ。大した数字じゃ無いさ、けれど数少ない読者の皆さんに支えられて、ここまでやってきた。どうもありがとう、辛抱強く付き合ってくれた読者の皆さんのおかげだ。今後もよろしくお付き合いくださることを、厚かましくもお願いさせてもらうぜ。いや、ホント、どうもありがとう。
Paris
プリントをしている時、暗室につかっている洗面所を出て、飲み物を飲みながら一息ついたりする。そんなとき、本棚から任意に写真集を取り出しては、ながめてみるんだ。
アウグスト・ザンダー、ウィリアム・クライン、ロバート、フランク、エド・ヴァン・デル・エルスケン、東松照明、森山大道、荒木経惟などなど・・・。
俺は、正規に写真を習ったことはないけれど、自分の写真が、出来ることならそれらの偉大な写真家の、偉大な仕事の系譜に繋がっていてほしいと、プリントの合間にいつも願っているんだ。おこがましい事だけれど、そう願わずにいられない。
モノクロ写真こそ、写真のαにしてΩだと俺は思っている。出来ることなら、これからも、ジジイになってもこのやり方を変えずに、ほっつき歩いて写真を撮ってはプリントしていきたいと思う。
そして、難しい事だけれど、モノクロ写真を楽しむ人が、出来ることなら若い人が、増えてくれるとうれしい。そして、お互いの写真について、語り合ったりできたら、きっと楽しい時間を過ごすことができるだろう。いつか、そんな日が来てほしい。しかし、難しいだろうな。あんまりにもモノクロ写真は手間と時間とコストがかかるからね。
Paris
スーツで決めて、ムーランルージュに向かう俺
俺の愛するロックバンド The Whoのギタリスト、ピート・タウンゼントは、生まれながらに鼻がデカかった。子供の頃からデカい鼻のおかげでさんざん周りから馬鹿にされてきた。そのコンプレックスを跳ね返すために、ひたすらピートはギターに打ち込み、バンドを成功させて世界的なロックバンドのギタリストになった。いい話だと、俺はいつも思う。
真夏のクソ熱い暗室で、汗をぬぐいながら、あるいは真冬の厳しい寒さに震えあがりながら、それでもプリントをはじめるとやめられないのは、どうしてだろう。
足を靴擦れだらけにして歩き回り、時にはトラブルになりながらも、写真を撮り続けるのは、どうしてだろう。
いつも、心のどこかで疑問に思っていた。そして、先日暗室の赤い灯の下、現像液に浸された印画紙に、徐々に像が浮かび上がってくるのを見ながら気が付いた。
俺の中には、きっと何か欠けたところがあって、それを埋めるために、必死にやっているに違いないんだろうって。言い換えれば、それは果たされる事のない復讐のようなものかもしれない。
何かに狂ったように打ち込む人間は、きっと心の中に、満たされない欠損を抱えているに違いない。
そんな欠損など、無いにこしたことはない。けれど、何らかの欠損を抱え込み、それを埋めようと足掻いてもがいて行くことで、本当の人生ってもんが始まる気がする。その挙句、ゴッホみたいに耳を切り取ったり、太宰治のように女と心中したりすることになるのかもしれないが。

なんだか、不吉な話になってしまったな。しかし、誰しも心の中に欠損を持たない人はいないだろう。俺はその欠損を埋める手立てとして、写真を選び取ったってことだろう。
人生は短いようで長い。だから人生には暇潰しが必要だ。その暇潰しによって、自らのなかにぽかりと開いた暗くて深い穴が埋まるのなら、結構なことだと思はないか?
そう、それはそれは切実な暇潰しなんだ。
OK、今夜は久々に仕事なんだ。こんなところで失礼するぜ。
読者諸君、いつもありがとう。そして、これからもよろしく。