2011/08/27

Post #287 Buterfly

Sometime, Somewhere
蝶が飛んでいるのを見ると、不思議な感覚にしばしば襲われる。
何やらこの世のものではないような気すらする。
蛾はもっとリアルでそんなカンジはしないんだけれど。見かけると、カメラを持ってファインダー越しにその姿を追ってはみるのだが、なかなかうまくは撮れないんだ。変なところにピントが合ってしまったりしてね。何といっても、ひらひらと舞っては、ひとところに留まってはくれない。それが蝶というものだろう。
蝶や鳥など、空を飛ぶモノたちを見ていると、いつもそれが、死んでしまった誰かの魂のような気がしてくる。それが誰だか、心当たりが多すぎて、誰とは言えないけれどね。そう、この年にもなれば、周囲の人が死んでしまったことなんて、いちいち数えきれないくらいだ。
そんな不思議な感覚にトリップしてしまうのは、俺だけかと思うかもしれないけれど、アルカイックな世界観では、鳥や蝶はやはり死者の魂を象徴するものと考えられていたようだ。
反対に、多くの卵を産む魚は、生の象徴だとされていたようだ。生命が海からやってきたことを、記憶以前の本能的な記憶として感じているのかも知れない。そういえば、お寺なんかに魚の姿を象ったレリーフを見ることもあった。何だかんだとこじつけたような教理があるんだろうが、きっとその奥底には、作物の豊かならんことと、命の永からんことへの祈りがあるんだろう。

蝶を見ていると、不思議な感覚に陥るんだ。
まるでこの世のものではない世界から来たもののように、感じるのさ。
俺もずいぶん生きた。生き過ぎたりや42歳だ。きっとそう遠くないいつか、この世界からいなくなるに違いない。それが、明日かもしれないし、30年後かもしれないが、必ずやこの世界からいなくなる時が来るだろう。
そうしたら、蝶に姿を変えて、縁ある人の様子でも見に来るかな。
Sometime,Somewhere
夏の激しい日差しの季節もじきに終わる。日が沈めば、秋の虫たちの鳴き交わす音すら聞こえる。
夏の日差しは、俺たちの生きるこの世界をくっきりと照らし出す。しかし、光が強ければ、影もまた深い淵のように黒々としていることだろう。
写真は、目に見えるモノしか映らない。当然のことだ。けれども、自らの中に世界を読み解く感受性があれば、何気ない風景は異界への扉となり、花に戯れる蝶は、もう二度とまみえることのかなわない人の面影を宿す。
時には、そんな写真を撮りたいもんだね。ただ生きるために、生き抜くために、仕事ばかりしていると、そんな感性は萎えてしまう。忙しいってのも、ほどほどにしないといけないな。

2011/08/26

Post #286 Speak Like A Child #6

Speak Like a Childは、言わずと知れた新約聖書の一節だ。
そういえば、The Style Councilの曲にも、あったな。しかし、俺が好きなのは聖書のほうだ。コリント人への第一の手紙の第13節だ。これはとても有名。愛について語っている一節だ。これを俺に教えてくれたのは、数年前に癌で死んだ俺のオジサンだ。愛介という名前だけのことはあった。
少しばかり長いが引用してみよう。
『愛はいつまでも絶えることがない。しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。なぜなら、私たちの知るところは一部分であり、預言するところも一部分にすぎない。全きものが来る時には、部分的なものはすたれる。私たちが幼な子であった時には、幼な子らしく語り、幼な子らしく感じ、また、幼な子らしく考えていた。しかし、大人となった今は、幼な子らしいことを捨ててしまった。(中略)わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかし、その時には、私が完全に知られているように、完全に知るであろう。このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。』
この文脈で言えば、本来は幼子らしく語ったり、感じたり、考えたりすることは、不完全さの比喩になっているけれど、俺は当初から誤読していた。つまり、大人になって幼子のように、世間的な常識や固定観念によって思考や感情を曇らされることなく、ある種無垢で純粋な存在として語り、感じ、思うことを肯定するように考えていたんだ。だいたい常識的な、つまり世間慣れした大人なんて、これ以上につまらないものは無いからねぇ。これはこれで致し方なかろう。しかし、なんでこんなに思いっきり誤読してしまったもんだろうかね?
Paris
その原因の一つには、俺の好きなThe Whoの曲の歌詞にあるかもしれない。
『僕は若者 僕は多くをやらない 昔どうやって戦ったか思い出せ 子供のように僕は夢だけを見てる 僕は混乱しているけれど、何が正しいか知っている』(The Who /Dirty Jobs)という歌詞の影響がありそうだ。ロックの引力によって、解釈が曲げられているんだ。うむ、これはこれで俺らしいもんだ。
うむ、明らかな誤読だ。しかしですね、歴史的に誤読によって新たなものが生み出されるというのは、多々あるのだよ。孔子だって、親鸞だって、道元だって、みんな誤読誤解して、自己流の解釈を生み出してきたんだからね。

まぁ、俺はそんな歴史上の巨人とは程遠いバカヤローだけれど、大人のくだらなさにヘキエキしていた反抗的な少年だった俺は、このSpeak Like A Childという言葉を、いささか感傷的なカンジもするけれど、肯定的に受け取っていたんだ。子供のように、虚飾なく、ストレートに、思ったままに語り、振る舞い、生きることができたなら・・・。
ニーチェだって、名著『ツァラトゥストラはかく語りき』の中で、人間が歩むべき修行と闘争と、それを経たうえで初めて花開く自由な創造の時期をそれぞれ、駱駝、獅子、小児に例えているんだぜ。『小児は無垢である、忘却である。新しい開始、遊戯、おのれの力で回る車輪、始原の運動、「然り」という聖なる発語である。』(手塚富雄訳 中公文庫版『ツァラトゥストラ』第一部より)と述べているんだぜ。
幼子のように、世界そのものを肯定的に受け入れ、そして自由に創造していく。それこそがまさに、俺がSpeak Like A Childという言葉から思い浮かべるイメージなんだ。もちろん、幼子のままという訳っではなくって、それは修行と闘争という過程を踏んで、360度(180度ではないよ)まわって、レイヤーが上がった状態ってことなんだけれどね。
Paris
あ~、調子にのって学のあるところを披露してしまったな。
まいった、まいった、まいったな。いささか反省だ。
反省ついでにもう一丁行っておこうか。
俺は子供は結構好きだ。自分自身は子供を持つタイミングは逃してしまったが、これまた実に残念なことだ。俺はともかく、連れ合いだって少し難しい年頃になってきちまった。世間の皆様のように、我慢して辛抱強く働くことが出来ない性分だったからなぁ。とても子供なんて、養っていけなかっただろうよ。
そう、子供がいないからといって、子供が嫌いなわけじゃないんだ。子供の遊ぶ声をきくと、心がほぐれるような心持がするぜ。思わずニンマリしてしまう。そう、梁塵秘抄にもあったっけ。
『遊びをせんとや生まれけむ、戯れせんとや生まれけん、遊ぶ子供の声きけば、わが身さえこそ動がるれ』
読者諸君、失礼するぜ。このシリーズは今日で終わりさ。

2011/08/25

Post #285 Speak Like A Child #5 Ship

今日も超忙しい。忙しいたらありゃあしないんだ。
午前中に打ち合わせを一件こなし、夕方から現場が2件。しかも、これから銀行に振込みに行かなけりゃならないんだ。しかも、またたった今、仕事のオファーが舞い込んできやがった。たまらないぜ。よって、例によって写真のみ。
Paris
この忙しい毎日の、寸暇を縫ってブログってるわけなんだけど、どうも俺の調査によれば、ながなが文章を書いていないとPVが伸びないのは、何故だろう?不思議なもんだ。俺が忙しいときには、世間の皆さんも忙しいんだろうか、それとも俺はみんなから、飽きられてきているんだろうか?
忙しい中にも、そんな疑問が頭にこびりついて離れない俺なのさ。
読者諸君、失礼させて頂くぜ。冗談抜きで忙しいのさ。明日には、一息つけるだろうか?