2013/03/01

Post #740 小説を読み始めると、何も手につかない

Osaka
小説を読み始めると、いつも何も手につかなくなる。
今は、小嵐九八郎の『天のお父っと なぜに見捨てる』を読みふけってる。500ページ余りの長編だ。おととい買ってきたんだが、こればっかり読んでいる。そうじゃなかったら、眠ってる。
今日もおきたら正午をとっくにまわっていた。そして小説を読み、溜まりに溜まった伝票をつけて・・・。
他愛もない一日だ。
この小説は、滅法面白い。勘のイイ読者諸兄諸姉ならば、『天のお父っと なぜに見捨てる』とは、十字架にかけられたイエス・キリストの最後の叫び、『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』つまり、『神よ、なに故に我を見捨て給うや』だ。
近年エジプトでたまたま見つかった古代の写本を翻訳したという体裁を取っている。そして、それはイエスを裏切ったとされるユダの手記と、十二使徒の中でもあまり詳しく語られていない熱心党のシモンが、ひそかに教団の内情を報告する手紙とで、視点を変えつつも、イエスの伝道の日々と、その死と再生が語られる。
そして、当時のイスラエルでもど田舎扱いされていたガリラヤ地方の方言を、あえて日本の秋田弁で現して、今までにない、人間臭いイエスの生涯を描いているんだ。
誰が父親ともしれぬ不義の子として生を受けたイエス、大酒呑みで、金銭に無頓着で、女に弱いイエス、それでいて、人びとの生活の細部まで規定する律法に反発し、病人、貧者、売春婦、徴税人、罪人、役立たずといった、社会から疎外されている人々のために、必死に秋田弁で祈るイエス。その姿は、う~ん、なんつうか、2000年前の話しでありながら、現代もまったく変わらない切実な課題として、私どもの前にそびえている。俺にはそう思える。そこに描かれているさまざまな人間の姿ってのは、実に、今日的な問題で、人が生きている限り、逃れることのできない普遍的な問題なのだって思えるよ。

ひさびさに、読み応えのある小説を読んだって気がするよ。
読者諸君、失礼する。 

2013/02/28

Post #739 今年もすでに6分の1終わったのか・・

Kuta,Bali,Indonesia
心身をすり減らして働いている間に、もう2月も終わりだ。日中の日差しにも春の気配が感じられるような暖かさだった。季節は着実に移ろっていくのだ。しかし、もう2月も終わりとは・・・。俺、今年に入って、何やっとったんじゃ?ただ、仕事してただけだねぇ。
こんなペースで生きていくのは、激流に流されながら生きているようなもんだ。
考えれば、仕事なんて所詮仕事、つまり金儲けでしかないんだから、飯を食っていくためにはこれは至極重要なんだけれど、生きていく意味という観点から考えれば、どこか枝葉末節にしか過ぎない気がする。
俺達は、いつも枝葉末節にこだわり、肝心なモノゴトの本質を見落としているんじゃなかろうーか?
仕事ができるできない、有能無能、そんなことは本来、人間の価値(人間の価値という言葉には、思わず不愉快になる。人材って言葉も、人間様を何かの材料のように扱っているようで、不愉快になる。そんなの俺だけかもしれないけどな)とは何のかかわりもないはずなのに、実際の世の中は、そんな冷酷非情な評価基準で成り立っている。
しかし、そこには重大な落とし穴がある。人間は誰しも年老い、経済的には、いずれは例外なく無能で無用な存在になりうる、不安定な存在なのだ。
そこんところを、むんずと捕まえておいたうえで、人生の歩き方ってのを考えておかないと、いつか後悔することになる。そして、まだこの先にチャンスが巡ってくるのかもと一縷の望みを託し、病気を抱えて、年老いて肉体の機能が衰えてなお、心穏やかに来たるべき日を迎えられんということになりかねん。これは、大きな問題だ。俺のライフワークだと言ってもいい。

どうにも最近、意気消沈するような内容に偏っている気もする。
おかげさんで、PVはうなぎ降りだ。うなぎ上りじゃない。
そらそうだろう、誰が好き好んで、冴えない暮らしぶりの中年のおっさんのボヤキを聴きたいもんかねぇ、うちのカミさん(内縁)だって、真正面から取りあってはくれないよ。
しかし、致し方ないんだぜ。読者諸君の若い衆は、人生の先行きが大方見えてきてしまった年齢の人間の焦りや不安は分かるまいて。
そして、それがわかるような微妙なお年頃になれば、その時には既に遅い。人生の趨勢は見えている。将棋で言えば、詰んでいるという訳だ。
俺もいつの間にか44歳だ。誰憚ることなく中年だ。昔は壮年というもうちょっとカッコいい言葉もあったような気がするが。中年というのは、どうにも宙ぶらりんなカンジで、落ち着きが悪いし、その中くらいの先は下り坂一辺倒という、物悲しい響きを感じてしまうわな。
いかんいかん、春は近い、はずだ。花粉も黄砂もジャンジャン飛んでくるだろうが、いつまでも冬のままじゃないはずだ。もっと働き方を考えよう。でないと44歳の春もまた、ただ働いて終わりってことになっちまうぜ。冗談じゃないぜ。
失礼する。 

2013/02/27

Post #738 ある猫の死

Istanbul,Turk
今日の昼下がり、本屋で小嵐九八郎の『天のお父っと なぜに見捨てる』を購入し、車で家に戻る道すがら、前の車が大きく迂回して通るので、ふと見ると一匹の猫が死んでいた。
猫がはねられて死んでいることなんて、よくあることだ。しかし、俺はいつもそのたびにどうしようもない憤りが湧いてくる。
かつては、そんな猫の写真を、怒りとともに撮っていたものだ。その写真は今日は出さない。きっと、君たちはショックを受けるだろうから。
俺はいつも、状況が許す限り、道のどまんなかに横たわっている猫の死骸を、そっと抱き上げて道の端に寄せることにしている。もちろん、状況の許す限りにおいてだ。俺がはねられて死んでは、元も子もない。
けれど、たとえもうすでに死んでいたとしても、何度も何度も車に踏みつけられ、汚い絨毯のようになっては欲しくない。
俺は、今回も車を停め、後続の車が行き過ぎるのを待って車を降りて、猫を道端に寄せた。
大きくて立派なトラ猫だ。毛並みもよいし、よく太っている。きっと誰かに大切に飼われていたに違いない。飼い主の悲しみを思うと、何とも言いようがない。
そっと持ってみると、まだ温かい。まだほんの少し前にはねられたのがわかる。
瞳孔の開き切った瞳は、まるでガラス球のようだ。
俺は、その猫を歩道の植え込みの中に横たえてやった。冷たいアスファルトよりも、土の上の方がイイだろう?いつだって、何の罪科もないものが、命を断ち切られるのを見るのは、心が張り裂けそうに痛む。あぁ、この世は悪無限だなぁ。

俺は、ふと何年も前、まだ薄暗い朝早く高速に乗って現場に向かうために、片側三車線の国道を走っていた時のことを思い出す。車線の真ん中に、まだ生きている猫が、はねられ足をやられたのか、うずくまり、じっとこちらを見ていた。時速60キロで走る俺の目には、それは一瞬のことだったかもしれない。けれど、俺には、その一瞬に確かに猫と目があったように感じられた。
猫は、自分のみにこれから起きることを、まったく予測していなかったのかもしれない。いや、ひょっとしたら、全て理解していたうえで、受け入れていたのか?それは俺には解からない。けれど、その視線は、明らかに俺に対して何かを強く訴えかけてきたのだ。
生きることとは、何なのか?
俺たち人間も、この猫が自らの身にほどなく悲惨な最期が訪れるであろうことを、知ってか知らずにいるように、一寸先は闇の道を手探りで歩くしかない、弱く儚い生き物だということを、その猫は俺に伝えていたように感じたのだ。
それはもう何年も前の話しだ。

今日死んでいた猫が、佐野洋子の絵本『百万回生きたねこ』の主人公のように、今頃むっくり生き返り、次の人生を生きはじめることを夢想する。そして猫は言うのさ、『バカらしくってぇ!』ってね。

読者諸君、失礼する。俺は実は猫アレルギーもあるんだが、猫は大好きだよ。