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| Budapest,Hungary |
ふと、PCに向かって何も書くことが無いことに思い至り、俺は考え込んでしまう。
何も書くことが無いってのは、フツーなことなんじゃないの。
通信技術の進歩で、世間様皆、世界に対して何事かを発信できるようになっておりますが、その挙句が、今日は何を喰っただの、ペットの猫の写真だの、そんなことばかり。どれも、どうだっていいさ。
しかし、結婚し、子を生み育て、日々の糧のために働き、いずれ年老い、死んでいくという通常のニンゲンにとって、世界に対して声高に主張すべきことなどあるはずもないだろう。何にも言うことなんてないのは、しごく真っ当、当り前さ。
いくら科学と技術が進歩したって、人間の脳みそはここんとこ3万年くらいは大きく変化しちゃいないんだぜ。家族を最小単位とする小規模の集団での狩猟採集の時代のまんま、身近な人々との濃密なコミュニケーションによる小さな世界の充足に幸せを感じるようにできているんだから。
そうさ、写真が上手いとか、文章が味があるなんて世間に言われるよりも、恋人といちゃついていた方が、幸せってもんだ。まぁ、世の中孤独な奴が多いのかもな。
芸術だの思想だの、桁外れな金儲けなんだのって世迷いごとに精を出すってのは、うむ、そいつは言ってみりゃ、人間の脳みそにインプットされた道筋からの逸脱に過ぎないってことだ。電車で言ったら脱線なんだけど、ニンゲンってのはよくしたもんで、多少脱線したって生きていけるってんで、そのままずんずん見当違いのほうに突っ走り、たった一度の人生を棒に振るって仕組みさ。
けれど、人ってのは、このフツーの幸せという回路からの大なり小なりの逸脱をしないことには、自分を掴むことは、できない。つまり、『自分自身』として、生きられないわけだ。
ふむ、お釈迦様が自我を否定し、自分という存在をどうして認めなかったのか、なんとなくわかるようになってきた。
てことは、こんなブログを続けて、訳の分からん写真を撮り続けて、ごく少数の世間の皆様からの失笑を買っている俺など、人として病んでいるに違いないぜ。
俺は、自分が知らない世界を見てみたいだけだし、自分がいた証しをこの世に遺したいだけなんだけど、それがそもそも病気ってことなのさ。
しかし、ふと考えてみれば、この無限に続いていく世界のなかで、自らの存在の爪痕を遺したいなど、これほど大それた望みなど、あるだろうか?
『昔の賢明な皇帝は、
本といふ本をたきつけにした。
千年ものこってゐる言葉なんて
それこそ 妖怪だ!
不在の女のぬぎすてた
美しい衣装のうつり香や
のこってゐるぬくもりを
しのぶのは、わずかひとときのこと。
友も、恋人も死にはて
じぶんもゐなくなったあと、
心のあとを刻んだ書物だけが
生きのこってゐることは凄まじすぎる。
いづれはみえすいた虚栄のさもしさで
わが名、わがしごとを
かぎりなく生きのびさせる望ほど
苛酷な誘惑はほかにあるまい。』
金子光晴 人間の悲劇 №4より
読者諸君、失礼する。何も考えていない時、俺の中ではこんなカンジに思考がダダ漏れているのさ。