2014/01/09

Post #1014

Budapest,Hungary
東京都知事選に、細川元首相出馬を検討・・・。背後に小泉純一郎元首相か。
これは面白くなってきたな。
この動きから目が離せないぜ。
読者諸君、失礼する。今日はちょっと忙しい。しかし、日々の忙しさにかまけて、この社会の行く末を考えなくなってしまうようでは、それは君、ちょっと本末転倒だぜ。

2014/01/08

Post #1013

Budapest.Hungary
およそこの世界には、現実の物しか存在していない。
しかし、私たちは現実を現実そのものとして認識するわけではなく、自らのうちにある様々な幻想を通じて、受け入れているといえる。
幻想こそ、物事に意味を与え、価値をもたらす源泉だということだ。

昨年、『国のために戦って死ぬことは、大変な美徳』とか言ったような趣旨のことを名古屋弁で言った市長がいたが、俺に言わせれば、国すら幻想の産物である以上、美徳だなんだというのは、それこそ幻想に過ぎないということだ。
犬死も名誉の戦死もない。ただ、国家という強烈な幻想によって、死地に赴くよう促され、帰ってこなかったというだけだ。
神の名のもとによる争いも、まったく同じことだ。神のために戦うことで、死後、楽園なり浄土なりに赴くことができるなどという幻想によって、無謀な戦いに意味を見出すことは、死後の世界という幻想を持たない者にとっては、噴飯ものでしかないが、果たして神なり死後の世界なりのほうが、国家だの法だのという、よりスマートな幻想より無知蒙昧なものなのかといえば、そうとも言い切れない。
人は国家という幻想のもとに殺戮をする者のほうが神という幻想に基づいて殺戮する者より、理性的かつ現代的であると考えがちだが、どちらも巨大な幻想であるという視点で見るなら、いずれも愚かしいことに変わりはない。

極力、幻想を排して、目の前の事物をそのままに捉えること。
しかし、人間という幻想的な生き物にとって、幻想を排した世界は、味気ないものだ。


読者諸君、失礼する。写真は現実を捉えるものだけれど、俺はこっそり、暗室の中で、俺自身の持つ幻想をブレンドする。人はそうしてできた写真をそれぞれの幻想で解釈するわけさ。

2014/01/07

Post #1012

Budapest,Hungary
ふと、この時期に、折に触れて俺の脳裏によぎり、木霊のように響いては離れない言葉を記しておくことにする。

『国家は幻想の共同体だというかんがえを、わたしははじめにマルクスから知った。だがこのかんがえは西欧的思考にふかく根ざしていて、もっと源泉がたどれるかもしれない。この考えにはじめて接したときわたしは衝撃をうけた。それまでわたしが漠然ともっていたイメージでは、国家は国民のすべてを足もとまで包み込んでいる袋みたいなもので、人間はひとつの袋からべつのひとつの袋へ移ったり、旅行したり、国籍をかえたりできても、いずれこの世界に存在しているかぎり、人間は誰でも袋の外に出ることできないとおもっていた。わたしはこういう国家概念が日本を含むアジア的な特質で、西欧的な概念とまったくちがうことを知った。
 まずわたしが驚いたのは、人間は社会のなかに社会をつくりながら、じっさいの生活をやっており、国家は共同の幻想としてこの社会のうえに聳えているという西欧的なイメージであった。西欧ではどんなに国家主義的な傾向になったり、民族本位の主張がなされるばあいでも、国家が国民の全体をすっぽり包んでいる袋のようなものだというイメージで考えられてはいない。
いつでも国家は社会の上に聳えた幻想の共同体であり、わたしたちがじっさいに生活している社会よりも小さくて、しかも社会から分離した概念とみなされている。
 ある時期この国家のイメージのちがいに気づいたとき、わたしは蒼ざめるほどの衝撃をうけたのを覚えている。
 (中略)
 国家は共同の幻想である。風俗や宗教や法もまた共同の幻想である。人間が共同のし組みやシステムをつくって、それが守られたり流布されたり、慣行となったりしているところでは、どこでも共同の幻想が存在している。』

(吉本隆明 改訂新版 共同幻想論 「角川文庫版のための序」より)

はるか昔、まだ高校生の頃、この文章を読んで、ぶん殴られたような衝撃を感じた。
そしてそれ以来、この国家も法も宗教も共同の幻想であるというテーゼこそが、社会を見る俺自身の視点の中心になった。
この北東アジアで、国家の利害と歴史に基づく相互不信が奔流のように社会の空気を歪ませているような今だからこそ、俺自身が忘れないために、ここに書いておく。

読者諸君、失礼する。天国もない。ただ空があるだけ。国境もない、ただ地面があるだけ。みんながそう思えば、簡単なことさ。