2015/03/09

Post #1433

Istanbul,Turk
イスラム国の蛮行が続いている。
今度はシリアやイラクで、紀元前の世界遺産の遺跡を完膚なきまでに破壊しているのだそうだ。
イスラム教成立以前には、今日中近東と呼ばれる地域には、セム族系諸族(現在もあの辺に住んでいる中近東の諸民族の大きなグループだと解釈してね)の間にひろくみられた、多神教文化が根付いていた。
イスラム教が好戦的な性格を持っているのも、この多神教文化の地域に、多神教の伝統を否定する形で突如として出現し、短期間にそれぞれの神々を奉じる部族や民族、国家を戦闘によってのみ込む形で成立していったからだ。不信仰者たちの改宗を目的としたその戦いは『聖戦』つまり『ジハード』と呼ばれる。
それによって部族や民族を超えて形成されるイスラーム教を基盤とする共同体をウンマ(イスラーム共同体)と呼ぶわけです。

イスラーム教、そしてそれに先行するセム族の宗教、つまりユダヤ教、キリスト教は偶像崇拝を認めていない一神教だ。
インドから東に住む俺たちは、神の具体的な姿を形に表し、それを崇拝するということが大好きなんだが、彼等一神教の人々は、とりわけユダヤ教徒とムスリムには、神聖なものを人間が形に表すことは許されないと考えているんだ。

だから、フランスのシャルリー・エブド襲撃事件のような事態が起こる。

全能の神が遣わした最高の預言者、ムハンマドをいささか滑稽な容姿の人物として描くことは、ムスリムにとっては、その神聖さを否定する蛮行以外の何物でもないわけだ。
俺もかつて、翼の生えた牝馬に乗って天上に上ったムハンマドを描いた宗教画を見たことがあるけれど、ムハンマドの顔は何も描かれてはいなかった。
のっぺらぼうなのだ。
この宗教的な主題は、ムハンマドの宗教的正当性を示す非常に重要な場面なんだけれど、それでも決して顔は描かれていない。何しろ、ムハンマドは西暦567年から572年ごろにメッカで生まれた人物で、その経歴は他の世界宗教の開祖(キリストやモーゼやお釈迦様)と違って、はっきりわかっているにもかかわらず、その肖像画は一切伝えられていないのです。

今日まで続く一般的なイスラーム根本的なテーゼの第一には、タウヒード、つまり『神の一性』といことがあります。これを手元にあるミルチア・エリアーデの世界宗教史Ⅲ第35章『イスラームの神学と神秘主義』(P139)から引用してみますか。

『神は唯一であり、神に似るものは何もない。神は物体ではなく、実体ではなく、偶有でもない。神は時間を超越している。神は或る場所とか或る存在者のなかにすまわれることはありえない。神は被造物がもついかなる属性や性質の対象ともならない。神は条件づけられることも限定されることもない。産むことも産まれることもない。〔・・・・〕神は先在する原型も助力者もなしに世界を想像された」

うむ、これでは神の似姿など作りようもない。
イスラーム教においては、神の存在は極限まで抽象的なレベルに押し上げられている。
その代り、モスクの中に入るとタイルによって無限を感じさせるように複雑に構成されたアラベスクや、天蓋から差し込む美しい光によって、否が応でも神の聖性や無限性を感じることが出来る。
俺は、イスタンブールのブルーモスクなどに足を踏み入れ、何度かそれを感じたものだ。

このように、日本人の宗教観からはかなり隔たっているのでいろいろと分かりにくい。この違いはどこから生じたのか?

砂漠だからか。

イスラーム教が生まれたのが、見渡す限りの砂漠と空しかないような苛烈な土地であったからではないか。川が流れ、森が人々を抱くようにして存在するインド以東の土地では、宗教は自然の似姿で、川には川の、森には森の、山には山の神々が宿っていた。
すでに神は、具体的なモノとしてまず俺たち人間の前に存在する者だった。

しかし、苛烈な砂漠で生まれたイスラームの神は、あらゆる具体性を否定する。
そして、偶像は否定される。
それを原理主義的に解釈した結果、イスラム国は世界遺産の遺跡を偶像崇拝者の遺物として破壊する。タリバンの皆さんは、バーミヤンの石仏を爆破した。まさか君、忘れちゃいないだろう?
そのことの是非は、ここでは問わない。
しかし、一度失われたものは、二度とは戻らない。
もちろん、すべての善きムスリムが、彼らの原理主義的な蛮行を認めないのは俺にははっきりわかっている。
しかし、俺たちはもっとムスリムの人々がどのような宗教観を持っているのかくらいは知る必要があると思う。

読者諸君、失礼する。もう少し、俺と一緒に学んでみようぜ。

2015/03/08

Post #1432

Moulay Idriss,Morocco
しばらく前、静岡の御殿場市で、かつて中東に仕事で長いこと住んでいたおじさんが「日本イスラ―ム圏友好協会」なる任意団体を作り、ムスリムの人々との相互理解を進める活動をしようとして、近所の信用金庫に口座を作りに行ったら、なんとその沼津信用金庫の担当者さんは、この団体がイスラムってついてることから、イスラム国に将来資金を送るパイプに使用される恐れがあるからと、口座の開設を断ったのだという。凄い事なかれ主義だ。

酷い。噴飯ものだ!その程度の認識で、この現代社会を生きていけるものだ。
田舎者と言われても仕方がないぞ!

無知から、無理解が生じ、無理解から反目が生じ、反目から争いが生まれる。

ならば、争いを避けるには、まずは謙虚に知ることから始めよう。

誤解が解けたら、理解を深めよう!

まずはここから。

イスラームというのは、アラビア語で『神への帰依』を意味する。

開祖の名前とか、神の名前とかじゃないのよ。神への態度そのものが宗教の名前なの。
だから、イスラームがついているからって、別にイスラム国とは何らかかわりのねぇことでござんす。
日本とついていたら、日本赤軍と関係あると言って、口座開設が許されなかったら、あなた、むかつくでしょう?同じことですよ。

ムスリムという言葉もあります。これも同じくアラビア語で、『神に帰依する者』を意味します。このムスリムは世界中に約16億人いると推測されています。キリスト教に次いで大きな宗教グループです。つまり、先の沼津信用金庫は、日本国内でしか通用しない事なかれ主義によって、世界中の16億人のムスリムの皆さんから、反感を買ったということになるでしょう。
この21世紀という、情報ボーダレスの時代に、なんという見識の無さ、なんという思慮の足りなさ。
同じ日本人として悲しくなります。

イスラム教の経典はコーランと呼ばれていますが、より正確には『クルアーン』と発音したほうがよいようです。
このコーランは、本来神の言葉なので翻訳するべきものではないとされています。
だから、世界中イスラム教徒の多く住む街に行くと、一日五回の礼拝の時間を告げるアザーンが、有線放送やモスクのスピーカーから流れてくるのですが、それはどこに行ってもアラビア語です。
これを聞くと、あぁ、イスラムの土地にきたなぁ・・・としみじみ思います。
異国情緒とともに、もういい加減慣れっこになって異国なのに安堵するというのでしょうか。
独特の美しい響きも大好きです。

神の言葉を、勝手に変えることは許されないから、ムスリムはアラビア語でコーランを読まねばならないのです。
だから、NHKのアラビア語講座を見て、簡単な会話をマスターしておけば、イスラム教圏に旅行した時に、けっこう役に立つはずです。

読者諸君、失礼する。俺はイスラム教徒ではないけれど、しばらくイスラム教について、君たちと一緒に理解を深めようとおもうのさ。なぜって、俺が旅先であったムスリムの人々は、誰もみな、気さくな良い人たちだったからな。

2015/03/07

Post #1431

HomeTown/Nagoya
最近、このブログにロシアからアクセスが多い。
どうにも半分以上がロシアからのアクセスだ。
別にロシアで大人気なわけじゃない。
訳の判らんスパムかなんかが、連日ドバドバ送り付けられているだけのことさ。
ひょっとしたらプーチンが次に暗殺しようと考えてるのは、俺なのかもしれないがね。
おかげさんで、PVカウンターの数字だけは水増しされて伸びている。
まぁ、実際にコメントくれたり何らかのリアクションがない限り、君が辛抱強く読んでくれていても、ロシアからスパムが送られてきていようが、俺にとっては同じようなものさ。
だから、さみしい中年スパークスに、コメントでもくれてやって楽しませてやってくれ!
いつだって、迅速かつ誠実に対応させてもらうぜ。

先日、俺が憤慨していたブロガーの新しいアダルトコンテンツポリシーは、実施されないことになったそうだ。
よかった、よかった。これで俺のこのブログもしばらく安泰だ。相変わらず読者は少ないけどね。

ざまぁ見ろ!

きっと俺のように、各々の表現の自由を守りたい奴らが、ブースカ不満の声を上げたんで、グーグルも方針を見直すことにしたんだろう。
よかったな。どいつもこいつも型苦しいことばっかり言いやがって。
All Good Thing Is NASTYなんだ。憶えとけよ!

俺ははっきりここで言っておきたいのだけれど、いいかなぁ?

どんな物事にも、人間が絡むことには大なり小なり性的な要素が含まれている、ってことだ。

そして、もう一点。

充実したセックスくらい、多幸感を人間に与えてくれるものは、他にないんじゃないの?ってことだ。
それを、不謹慎だの、セクハラだの何だのって抑圧ばっかりするもんだから、世の中なんだか息苦しくなっちまうんだよ。
確かに、多幸感があるから、習慣性強いのは間違いないわなぁ。しゃあないわ。
しかし、性的なことが罪深いってのは、そもそもどっから来た考えなんだ?

江戸時代までの日本人は、性的にあけすけで、スケベなことに関しては、世界トップクラスだったはずだが。
やはり、明治維新以降、ヨーロッパからキリスト教を基盤とする欧米の文化が入ったことからだな。
ヨーロッパの文化ってのは、キリスト教が基礎になってるんだけど、そいつがいろいろと抑圧するもんだからな、いろいろとビザールな文化が発達してるのさ。SMだってその一つだろう。いろいろと考え出すとそれはそれでおもしろそうだが、長くなるのでやめる。ただ、キリスト教の禁欲的な宗教態度空の影響で、あんまりストレートに性を愉しむってカンジじゃなくって、背徳的で淫靡なカンジになってるわけだ。

ニーチェは、『ツァラトゥストラは斯く語りき』のなかで、ツァラトゥストラをして、『イエスがもう少し長生きしたなら、大地を愛すること、笑うことを憶えたはずだ』みたいなことを言っていたけれど、そうかもしれないな。
天上の清浄さよりも、大地の混沌と豊穣を愛することは、相手のむさくるしさを受け入れて、それをいとおしむことと何ら変わりないだろう?
そして、その果てに、笑いと喜びがあふれてくるものさ。
十字架の上のイエス様の像には、確かにそういった世界への肯定と、その末の哄笑は見当たらないな。
いかがわしさの欠片もない。
しかし、世界はいやらしく、いかがわしいものだと思う。そしてそのまま同時に、崇高で美しい。
いいセックスをすれば、その意味が分かるだろうよ。
どんなに気取ってみても、親父とおふくろが二人なかよくおめこして生まれて来たってのは、人類みな共通だろ?
そこには宗教も民族も関係なけりゃ、貧乏人も金持ちもなんら違いはない。

大昔の都都逸にもこんなのがあるぞ。

楽は苦の種 苦は楽の種 ふたりしてする人の種

OK、それが解かったらみんなお互い仲良くしようじゃないか。

読者諸君、失礼する。だいたい、そういうことをやかましく言う奴に限って、むっつりスケベだったりするもんだろ。嫌になっちまうぜ!