2015/05/15

Post #1500

Home Town/Nagoya
先日近所のうどん屋でかつ丼とうどんのセットを注文し、それが出てくるまでの間、俺はある絵本を3回も読んでしまったぜ。それは今は亡き佐野洋子の傑作『百万回生きたねこ』だ。
うちにもあるんだが、退屈だったんでね。カミさんは、その絵本を見ると、悲しい結末が思い出されて、泣けてくるから読めないと言っていたが、俺は何回まで我慢できるか、試してみたんだ。

三回まわり読み切ったところで、うどん大盛りとかつ丼のセットがやってきた。
もちろん、そんな絵本は子供向けっていうんだろうが、週刊文春なんか読んで、世の中のことをわかったようなふりをするよりも、よほど為になるってもんだ。なにしろ、感性がすり減っちまったら、この世の中は無味乾燥な砂漠とかわりゃしないんだぜ。

う~ん、ついにこのブログも1500回だ。
2010年の秋からシコシコやってきた。相も変わらずご覧の通りだ。
一昨年の年末ごろには、いい加減うんざりして1000回めどにやめてしまおうかとも思ったが、意外や意外、やめるなという意見をうけて、のんべんだらりと続けてきた。よくもまぁ、毎日続けてきたものだ。

俺が厭きるよりも、君たちがうんざりしちまうんじゃないかって心配になるよ。

しかし、1500回なんてただの通過点に過ぎないんだぜ。
俺のブログを読んで、笑ったり、泣いたり、勇気づけられたりしてくれるという人が一人でもいる限り、やめる理由なんてどこにもないぜ!
だから、俺が生きてる限り付き合ってもらうさ。

なんてたって、俺はこうして生きてるんだからな。週刊現代や女性自身なんかにのってる芸能人の生活よりも、俺は自分の人生のほうがはるかに面白いんだ。世間の皆様はそうじゃないのか?どっかの芸能人が、どっかの女とやったとか、遺産相続でもめているとか、そんな話のほうが自分の人生よりも面白いのか?
はっきり言って、そんなことはどうでもいいのさ。俺は『百万回生きたねこ』の主人公の猫みたいに自分のことが大好きなんだ。もちろん、君たちのことも大好きだ。嘘じゃないぜ。これは君に向けて書いてるんだ。

そう、君だよ、君!
俺はいつだって、君のことを思いながらこのブログを書いてるのさ。君のことが大切なのさ。
昔学生の頃、授業中に描いた落書きを、昼休みに仲間たちに見せびらかすような気分で、毎日コツコツと書いているのさ。
Home Town/Nagoya
昨日はプリントして、先日の旅行のネガを近所のカメラのキタムラ一宮中島通店に取りに行き、夜中の一時までそのネガをチェックしていた。連日視神経と脳みそをフル回転させているために、くたくただ。仕事よりも、精力を注いでやってるのさ。

俺はもうずいぶん長いこと写真をやってるような気がするが、最近自分の写真が昔とは全然違ってきたって思えてきたよ。昔の写真をまとめてみる機会があったんだが、その時実感したんだ。

昔は、なんだか世の中の人々が、思わず目を背けたくなるような面に、やたらとこだわっていたような気がする。人間の暗部をつかんで、平穏な暮らしをしている人々の鼻先に、ほれって突き付けるような思いがあったのかもしれない。
その頃の写真は、なんだかどこか荒んだような気配が漂っているように思う。
けれど、今はもう少し人々を愛おしむような写真が撮りたいんだ。
実際にはそんなにも変わらないけれど、俺の気持ちが変わってきたんだろう。昔は、ささくれ、やざくれて、どこか人間を馬鹿にしてたんだろう。
それに何より、どんな人も、そう例えるなら、人から決して良くは言われないような生き方をしている人も、決して悪い人なんかではなく、自ら望むと望まざるにかかわらす、何らかの契機で、そう生きざるを得なかっただけの、どこか悲しい人であり、実は愛すべき人なんだと気が付いたことのかもしれない。
もっと端的に言えば、携帯をいじってるケバい女とか、疲れたサラリーマンの親父の写真なんか撮りまくっても、もうなんもおもろないって思ったのさ。とはいえ、ときには撮るだろうけれどね。
それよりも、君が見て心躍るような写真を撮りたいのさ。

写真を撮ったり、文章を書き綴っているうちに、自分の中で何かが変わったんだろう。
大人になったってことなのか?
けれど俺は、そんじょそこいらの並の大人ではいたくないんだ。君はもうわかってると思うけどね。君をワクワクさせ続け、君を愉しませたり、君を考えこませたりするような、困った大人でいたいんだ。
俺の家の食卓で
もう一つ、話をしてもイイだろうか?1500回だ、いい区切りだから許してほしい。

俺は、君たちが寄せてくれるコメントを、とても大切に思ってる。これがあるから、このブログが、俺の一方的な垂れ流し、押し付けになろうとするのを、何とか水際で押しとどめてるんだと思う。
他にも、ブログの内容に関して直接メールやフェイスブックなんかでコメントしてくれる人もいる。
また、その一方で俺の持ってる思想や、政治信条に対して感情的にいちゃもんをつけたり、論戦、批判をしてくれる人もいる。それもまた一興だとは思う。もちろん、ある程度のレベルまでは。

俺はそのすべてに、出来る限り丁寧に、可能な限り素早く返信したいと思ってる。
そのやり取りが、俺と君たちをつなぐ縁を、強くしてくれると思っているから。

かつて、俺には黒田さんという20歳ほど年上の友人がいた。
彼は身寄りがなく、しかも病気で働けなくなってしまい、生活保護で暮らしていた。
俺とは、俺がバイクの事故で足の骨を折って入院しているときに、喫煙室で出会ったんだ。人懐っこいおじさんで、何年か俺の家に遊びに来てはコーヒーを飲み、ロックを聴き、文学や思想について語り合ったものだ。
そして、彼は何度か俺に、わざわざ本を買って送ってくれたりするようになった。
俺は、そんな好意をうけるいわれはないので、それを断ったり、しぶしぶ受け取ったりしていた。
それに、生活保護をもらっているような人から、贈り物をされても、申し訳ないってもんだろう?恐縮しちゃうぜ。
今にして思えば、身寄りや親しい友人のなかった黒田さんは、俺との付き合いが純粋にうれしかったんだろうし、それを感謝していたんだろうし、その感謝の気持ちをなんとか形に表したかったんだろう。
そんな気持ちをくみとることができなかったのは、俺がまだどうしようもない若僧だったからだ。
そんなんで、お互いの空気がギクシャクしてきてしばらく経った頃、黒田さんはこの街に見切りをつけて、九州に流れていった。
俺のもとには何度か手紙が来た。俺はそれを受け取るだけ受け取っておきながら、返事を出さなかった。そして、いつしか便りは絶えた。いま、黒田さんは生きているのか、死んでいるのか、俺には知るすべはない。

俺は酷い男だ。俺は孤独なおじさんが精一杯伸ばしてきた手を、無視するように振り払ってしまったんだからな。せっかく結んだ縁を、太くすることなく、断ち切ってしまったんだ。

その後悔が、俺の胸の中には確かにある。時折、思い出しては若い頃の自分の頑なさに、腹が立つ。二度とそんな思いはしたくない。人生は一度きりなんだからな。

だから、君たちと結んだ縁を大切にしたい。
あらためて言わせてもらうよ。
いつもありがとう。

もちろん、昔コメントをくれていたけど、いつの間にか消えてしまった人もいる。
けれど、その人たちのことも忘れたことはない。
また、まったくの匿名で言葉をかけてくれる人もいる。
きっと、ハンドルネームすら明かせない事情があるんだろう。
いつか、そんな人とも、もっと親しく接してみたい。
なにしろ、人生は一度きりなんだからな。

読者諸君、失礼する。俺はこれからも、いつだってここにいる。君が呼んでくれるなら、いつだって応えるさ。君がいなけりゃ、俺のやることなすことには何の意味もないのさ。
さて、今日はヨーロッパ旅行の写真でも、少しプリントしてみようかな?お楽しみに!

2015/05/14

Post #1499

ネパール、カトマンズ郊外の町、パタンを夕暮れ時にそぞろ歩きしていると、旧王宮だった博物館の隣の大きく古い建物の入り口に人だかりがしている。
ふと、興味をもって覗き込むと、人の好さそうなおじいさんがネパール語だと思うが、ニコニコと笑いながら何事かを語り掛けつつ、身振りで入れ入れと言っている。
俺は、一体何事があるのやらと思ってなかに入ってっ見ると、そこにはクマリがいた。
Patan,Nepal
クマリとは、生身の神とされる少女だ。
ちなみにサンスクリット語つまりインドの古語でクマラは童子を意味する。日本の仏教で不動明王のわきに立っているコンガラ童子やセイタカ童子の童子というのが、このクマラの訳語だ。
クマリはその女性形になる。
つまり、生身の穢れなき女神ということだ。

特定の部族の特定のカーストから選ばれる幼女で、その言葉や振る舞いから人々は予言を受け取り、また神として人々を祝福するという。
クマリは基本的に初潮を迎えるとクマリを引退することになる。中には、初潮がこずに50歳くらいまでクマリを務めた女性もあったという。
しかし、クマリとして選ばれた間は、薄暗いクマリの館の中から出ることはなく、もちろん学校に通ったり、外で友達と遊ぶことなど一切できない。
今日の社会通念に照らし合わせれば、幼児虐待と訴えられかねない文化だが、ここネパールの大半の人々は、今日の日本人や欧米人には想像もできないほど信心深い人々なので、そういうものだと考え、彼女を尊崇しているのだ。

この日本にも、同じような生神様がおいでになる。
天皇陛下だ。
また、かつては日本各地にそのような祭司王=生神様がいた。古い神社をつかさどっている家柄は、その末裔だ。魏志倭人伝に見える卑弥呼も、クマリと同じ系譜に属すると考えていいだろう。
これは、インドあたりから東アジアまで広がる、アジア人の古層に属する信仰形態なんではと俺は考えている。というか、吉本隆明の受け売りだけどね。
だから長い間、実際にクマリをこの目で見たかったのだ。

カトマンズのダルバール広場には、かつてネパール王室と密接な関係を持っていたナショナル・クマリがいる。クマリの館に行き、団体で結構な額のお布施をすれば、窓から顔を出してくれるくらいはなさるという。もちろん、写真撮影はご法度だ。
戦争前の我が国の天皇陛下と同じで、イキガミ様なんだから。
お付きのおじいさん。
パタンは、カトマンズ、バクタプルと並んで、かつて三王国分立時代に栄えた町なので、ナショナル・クマリとは別にパタン・クマリがいるのだ。俺たちが招き入れられた館こそが、クマリの館だったのだ。
中に入るとそこは中庭になっており、その通りに面した面にクマリは大人たちにかしずかれて座っている。
クマリの前には人々がその祝福を受けるために、列をなしている。
その傍らに、いったいどれくらいの年月、クマリに仕えてきたのかというようなおじいさんたちが、風の谷のナウシカに出てくるミト爺のような風情で、和やかに座り、杖のような松明であたりを照らしている。
この中には、水銀灯みたいな無粋なものはありゃしないし、あったとしても電力事情の悪いネパールでは、使い物になりゃしないだろう。一日の半分くらい停電してるんだからな。
マリファナみたいなぶっといお香がたかれる。
お付きのおじいさんの持つ松明に、もう一人のおじいさんがボブ・マーリーが吸ってたマリファナみたいな太い香をのようなものを近づけ、火をつける。暗がりの中、煙とともに香りが漂う。
人々は、どうやらクマリによって額にティッカと呼ばれる赤い染料をつけられ、祝福を授かっているようだ。
祝福を授けるクマリ
人々はクマリの前にひざまずき、クマリはお付きの女性が差し出す器に入った染料を、その小さな指に無造作につけて、人々の額にティッカを施してゆく。
どうやらそのあと、人々はお布施をクマリの足元に置かれた金属の鉢のなかに入れていく習わしであるようだ。
そして、このお付きの女性から、植物の若芽のような柔らかい茎を一つまみ頂戴し、帽子の縁や耳につけるのだそうだ。
聞けばこの時期は、ネパールの暦では新年にあたるダサインという時期に当たるので、人々は一年の無事を祈って、クマリに祝福を授けてもらうのだという。

俺も、クマリに祝福されてみた。まだ5、6歳の小さな女の子だ。しかし、とてつもない威厳と高貴さが漂っている。それが神威を纏うということか。
クマリはその細く小さな指で、俺の額に染料を擦り付けるようにして祝福を施してくれた。
そして、俺がもぞもぞとポケットからお布施を出している間、さも退屈そうにあくびをし、真っ赤に染まった指を、お付きの女性の差し出す布で、少し不機嫌そうに拭いていた。
Patan,Nepal
ナショナル・クマリは写真を撮ることが禁じられているが、ローカル・クマリであるパタンのクマリは、どうやらその辺は寛大なようだった。最初はためらっていたのだが、中国人と思しき観光客の一団が、じゃんじゃんフラッシュを焚いて撮影しているので、俺もお付きのおじいさんに写真を撮っても大丈夫かと聞いたうえで、控えめに写真を撮ってみた。それを君たちにお届けしているのさ。

読者諸君、失礼する。世界はまだ、俺たちの知らないことばかりだ。俺はもっといろんなところに行って、この目で世界を見てみたい。そして、自分の体験したことをもとにして、この世界のことを理解していきたいんだ。君も一緒にどうだい?

2015/05/13

Post #1498

Patan,Nepal
今日は朝から昨日仕上げたプリントをスキャンしていた。枚数は知れている。26枚ほどだ。
本当は、もう少しプリントしていたんだが、昨日はなんだか調子が出なくて、印画紙を水洗いして明るいところで見てみると、ダメダメなのが何枚かあったので、すっかり落胆してしまったってわけさ。
モノクロの巨匠と言われる俺も、焼きが回ったな。

やはり、心に引っ掛かることがあると、どうにもうまくいかないもんだ。

そんなんで、台風一過の五月晴れのなか、家に閉じこもっていたんだが、かといってプリントする気にもなれなかった。

何が引っ掛かってるかって?
そりゃ第一に仕事のこと。
ぽつぽつと引き合いの電話が入ってくるようになったんだが、まだまだ弱いな。俺は何かと金のかかる男だから、ガンガン入ってきてくれることを祈ってるのさ。
次はやはり、カミさんが授かってるかどうかってことだ。
生理が遅れているだけなのか、それとも今0.5ミリくらいの受精卵が宿っているのか?何ともはっきりしないのだ。
これは気にかかる。
もう一つは、3月にパソコンがご臨終してしまったので、溜まりにたまったモノクロ写真のスキャンデータのうち、どれがこのブログにUPされてて、どれがされていないのかよくわからなくなっていたのが、ずっと気にかかっていた。
そりゃ、自分でUPしてるんだからわかりそうなもんだけど、さすがに1800枚以上あるとですねぇ、何が何だかよくわからないわけですよ。
で、今日は一日家に引きこもってパソコンと、プリントアウトしたサムネイルを一日中注視して、確定作業をしていたんだ。これが骨が折れる。複雑骨折だ。頭がウニのようなってる。眼精疲労と肩こりだ。やはり、俺はフィールドの人間だと実感するよ。しかし、それでもまだ終わらない。明日もこれをやるのかよ。ウンザリするぜ。
Patan,Nepal
本当はものすごく最近気になってることがあるんだけど、それはここには書かないよ。
途中まで書いたんだけど、消してしまったのさ。
いやいや、べつに君たちに何か隠し立てしてるわけじゃないんぜ。けど、このブログにかかわることで、俺が気になってることをここに書くことで、なんだか君と気まずくなりそうな気がするんだ。
そう、俺と君たちの問題なのさ。それは実は、ずっと何か月ものあいだ、俺の心に引っ掛かってることなんだけどね。
君がいつも俺の屁のような文章を読んで、俺のことを見守ってくれていたりするのはわかってる。君の毎日のささやかな息抜きになればと願ってるんだ。そのためならどんな滑稽な役回りでも演じてみせるよ。
そうさ、君は俺にとって、とても大切な人なんだ。
俺が感じてることをここに書いて、君にそっぽ向かれたり、君を不安な気持ちにするのは、俺の望むところじゃないんだ。OK、だからそれは俺の胸にしまっておこう。そのほうが美しい。気にしないでくれ。
ひょっとすると、君は頭もよくって、感受性も豊かだから、俺が何に引っ掛かってるか、もう気が付いてるかもしれない。けど、お互いに言いっこなしだ。
思わせぶりなことを言って悪かった。けど、喉元まで上がってきてる言葉を、俺はやっと飲み込んだのさ。

読者諸君、失礼する。俺はいつだって、書けることは正直に書いてるんだ。くだらないことが大半だけどね。そうさ、俺は君を信じているのさ。