2026/01/15

POST#1731 気の滅入る話を書くのは俺自身のサイコセラピーさ

二十年前の匂やかだった女たちのやうに
二十年後は、若いあなたも老いてゐるか
金子光晴『女たちへのいたみうた』より

 どこまで話したっけ?

そうだ、2025年1月5日の親父は病院で赤黒い肉汁のような小便を垂れ流すリビングデッドになっていた。

遡った別の時空では(それは今から17,8年も前だろうか?)、長年同棲していた女性と別れ、住処を失い、資産家の未亡人の持つアパートの一室に転がり込んだところまでだ。

時間軸とエピソードが行ったり来たりするんで、混乱するかもね。仕方ないさ、俺は自分の世界をそんな重層的なミルフィーユみたいなものとしてとらえてるんだから。

因果応報する多元時空だ。


その資産家の女とは、女が犬の散歩をしているときに出会ったらしい。

父は、性懲りもなく自分は息子を4人も私立の中高一貫校に入れて、京大だの東工大だのに通わせた(俺は地元の私立大学を中退だったがね)と自慢にもならない自慢で彼女の気を惹いたようだ。あほな息子を四人も私立の中高一貫校に通わせ、そこそこの大学を卒業させるには、それ相応の資本力が必要だからな。父にとっては、子供は自分の過ぎ去った経済力のトロフィーみたいなものだったんだ。だからドロップアウトして自力で人生をはいずるようにして生きてきた俺は、まさに鬼子、不肖の息子だったのさ。

ちなみに父は社会人になった息子を保証人して、何千万円も借金をしたりしたこともある。さすがに二度目にそれをたくらんだときは、俺が親父のところに出向いて、自分の子供にそんな負債を背負わせるようなことをするなら、この場で殴り殺すと宣言して止めたこともある。借金の保証人になれない不肖の息子は、暴力的なのさ。

親父は若いころから社長社長とおだてられて来たせいで、少しでも自分に利益になりそうな人、うまい儲け話を持ってくる人、甘言を弄して近づいてくる人のことは、すぐにいい人だ、いい人だと信用し、毎度裏切られてきた。

その一方で自分より貧しい人、生活のために懸命に働く人を軽蔑し見下すことが大好きだった。しかしですよ、地に足をつけて、本当に相手のことを思ってモノを言ってくれるのは、貧しさの中でも節を曲げず、懸命に生きている人たちだろ。

その資産家の未亡人は、父と同棲していた女性が、父より二回りほど若かったことから、まだ将来のある方だからとか何とか言って別れさせた。親父自身も、方々に土地やアパートをもってる資産家の未亡人のほうが、年はいってても魅力的だったんだろう。

本人たちは否定していたが、俺を含めた子供たちは、この資産家の未亡人と親父ができていると確信していた。俺は父がその未亡人の持つアパートに暮らしだしてしばらくしたころ、父の部屋で、その未亡人の娘の結婚式の写真にまるで彼女の父親のように相好を崩してだらしなく微笑む父の写真を見て、「あぁ、こいつはあれだ、俺たち血のつながった息子たちより、この未亡人の家族を選んだんだな」と思って妙に納得した覚えがある。

しかし、金の切れ目が縁の切れ目だ。太宰治先生もおっしゃっていたぜ。

苦労知らずの親父は、周囲の人間にそそのかされて建築関係の会社を立ち上げ、ブローカーのようなことを始めた。建築業のしょっぱさを骨の髄まで味わっている俺は、建築のケの字も知らない親父がそんなことを始めたと聞いて、あぜんとした。その会社の役員には例の未亡人がおさまり、彼女の持ってるアパートの内装現状復旧などをやっていたようだ。

しかし、そんな商売が長続きするわけもなく、未亡人との関係は冷えてゆき、残ったのは滞納した家賃、夜逃げしないように押し付けられた雑種の猫、未亡人への借金と、彼女からの軽蔑だった。

年金、どこかから見つけてきた信州みその販売代理人の仕事のささやかな収入、京大を出て上場企業に就職した独り身の息子からの仕送り、借金、そんなものでやりくりする危うい生活が続いていた。

そして何年もの間、早く出て行ってくれ、金を返してくれと催促される日々が続いていた。本来なら居住権という権利があるので、一方的に退去を迫ることはできないはずだが、そもそも賃貸契約すら交わしていない、男女間の馴れ合いから間借りすることになった手前、法を盾に争う気も、父には全くなかった。去勢された駄馬みたいなもんさ。夜中に電話がかかってきて、とっとと出ていけ!と罵られることもあったという。やれやれ・・・

父はその苦境を、近くの公園でラジオ体操をする仲間と出会い、彼らと損得抜きの関係を、おそらく人生で初めて結ぶことで何とかやり過ごしていたんだろう。

そして、2025年1月5日、父は大家である未亡人に、息子、つまり俺とともにアパートを借りに行く予定だとその場しのぎのウソをついていたのその日に、ラジオ体操から帰った後、インフルエンザによる横紋筋融解症で、足腰の筋肉組織が崩壊して倒れ、動くこともできなくなり、そのまま行けばお陀仏さんだったところを、たまたま訪ねてきたラジオ体操仲間に助けられ、救急搬送されたのだった。

やれやれ、やっと一本にまとまってきたぞ。気の滅入る話は読むほうも書くほうもつかれるもんだ。今日はもうやめるぜ。

俺の経験からすれば、怖くない女なんて地球には生息していない。君たちも変な希望も幻想も持たないことだ。

2026/01/14

POST #1730 我が心の善くて悪を犯さぬにはあらぬなり

ずっと昔の名古屋駅西 あかひげ薬局 こんなセンスは今やアウトだな…嫌いじゃないぜ

承前

知らせを受けておっとり刀で向かった病院では、親父はHCUに入っていた。
一人しか立ち入ることが許されていなかったので、かみさんと子供は家で待っていたんじゃないかな。
で、そこで見た親父は、ひどいもんだった。
おそらく顔面から倒れこみ、そのままの姿勢で何時間も倒れていたので、顔面が鬱血して紫色にはれ上がっていた。
口元の固まった血が、もうすでに死んでいるかのような雰囲気を漂わせている。
1940年生まれの元気なだけが取り柄のこの老人には、死が近づているとしか思えなかった。
年貢の納め時ってやつか。
病院に付き添ってきてくれた近所の方は、今朝もラジオ体操を元気にやっていたという。ろうそくは消える前が一番明るくなるっていうアレだな。
挿管された管につながったパックの中には、横紋筋組織が溶けてしまったことで煮汁のような赤黒く濁った小便がたまっている。筋肉の赤みが溶けだしているんだからそんな色にもなるだろう。


これはもう、死ぬな。俺は思った。


万一助かっても、一人では生活できないだろうし、寝たきりになる可能性だってあるな。俺は思ったのさ。
やれやれ、いつかこんな時が来るって思っていたけれど、それが今日だったとはな。
前の日まで、家族旅行で世間様並みの楽しみを味わっていたというのに、人生は残酷だ。
今の状態で、ここにいてもできることはない。とっととと引き上げよう。
俺は家に帰ると、すぐに弟たちに連絡を取った。とはいえ、連絡されたほうもできることは何もない。俺たちは医者じゃないんだし、人が老いて死ぬのは自然の摂理だからだ。
問題は、親父の今までの生活にかかわることだ。

その前の年から、住んでるアパートを早く立ち退けと大家から言われていた。
俺は長年、親父とは距離をとって暮らしてきた。いちいちむかつくからだ。
しかし、2024年の春に叔母の一人に二十万円もの金を無心したと聞いて、これは不味いな、俺がコミットしないと、とんでもないことになるぜと確信したんだ。


俺の心が善良だから、俺が悪事をしないわけじゃない。
けど、今回は俺がやらなきゃならないだろうな。残念ながら。


俺の悪い予想は、いつだって当たる。いい予想は当たらない。今回も大当たりだった。
その連絡を受けて、俺はすぐ市役所に行き、高齢福祉課で様々な手続きをした。
民生委員さんにも巡回してもらえるように手配した。市営住宅や県営住宅にも応募した。
そして、何件かアパートを借りたいというので、何度か同行したりしたけれど、その都度収入証明がない、保証人がいない(そもそも俺は最初からアパートなんてはなっから反対だった)とかいうくだらない理由で、毎回話は流れていた。
そりゃそうだろう。俺が大家だったら、80超えたじいさんに家なんか貸さないよ。
大家は俺にも電話をかけてきて、くどくど文句を垂れ流した。

もともと親父は、若くして独立して、べらぼうに羽振りのいい時期もあったんだ。
商売っ気のない祖父を反面教師に、中卒で働いて高度経済成長の波に乗り、二十歳で土地を買い、程なく家を建て、弟や妹を学校に通わせた。
仕事の合間に見初めた女性が自分になびかないので、躍起になってアタックし、とうとう間に人を立ててねじ伏せるようにして結婚した。
それが俺の早逝した母だった。
けど、程なく釣った魚に餌はやらないというひどい男だということが明らかになった。
おしゃれな服を着て、化粧も整えた母が、玄関でブーツを履いたまま腰掛け、約束した時間に帰ってこない父を待ち続ける姿を覚えている。
洗面所で泣いていた母を覚えている。子どもだった俺は、母になぜ泣いてるの?と尋ね、母が歯が痛いからだと言ったか答えに納得していた。
子どもには言えない辛い思いをしたのだろう。
金遣いは荒く、使ってもまた稼げばいいという楽天的というかどんぶり勘定の男だった。女出入りも激しかったようだ。
しかし、どんな羽振りのいい奴でも、時代の流れには勝てない。
もう40年も前から、父の凋落は始まっていた。


まず、母が死んだ。
一時的に父の商売が傾いたために家計のためにとはじめた縫製の内職をしつつ、母は胃がんを患っていた。単なる腹痛だと思い、医者にもいかず薬売りのおじさんが売りに来る常備薬のなんだか胡散臭い緑色をした胃薬を飲んで、痛みを紛らわしていたんだ。
癌だと分かった時には、もう手術をしても当時の医学では完治は望めず、どこかに転移したらおしまいだった。案の定胃を全摘したあげく、全身に癌が転移して痩せおとえて死んだ。
母は病床に父が見舞いにくると、他の女の香りがすると嫌がり、早く部屋から出てほしいと言ったものだった。
俺は部活の帰り道、家から自転車で走ってきた弟から、母が死んだことを告げられた。

母の葬儀はお寺を借り切り行われたんだが、そりゃ盛大なものだった。家族葬なんでもんじゃない。
弔問1千人余りだった。
ずいぶん多くの人が弔問に来たものだが、白い和服を来て喪主として相対した自分には、誰も悲しんでこの場に来ているわけではないとわかっていた。

しばらくすると、派手な化粧の女が家に出入りするようになり、そのうちに消えていき、また違う女が現れるようになった。いろんな女がいた。バーのマダムみたいなのもいたし、ゴルフのキャディーをやっている女もいた。ゴルフ場で知り合ったんだろうよ。
大枚はたいて手に入れたゴルフの会員権は、いつの間にか価値が減り、二束三文になってしまった。
目先の利く同業者は、事業を整理し、負債を清算し、つましく暮らしてゆくことのできる道を選んだり、他のビジネスを始めたりした。
しかし、父は借金も財産のうちと方々から金を借り、生活を維持し、子供を学校にやり、自転車操業のように斜陽産業と化した自分の仕事にしがみついていたんだ。


いつの間にか、俺が暮らした家は借金のかたに取られ、今ではその敷地に二軒の家が建っている。
父は足の不自由な祖母(つまり、自分の継母)を連れて、自分の会社の二階に住み始めた。
長年父と二人三脚で父の会社の金庫番を務めていた叔母が病気になり、資金繰りは一挙に悪化した。
いつの間にか、父はどこで知り合ったのか、俺とさして年齢の違わない女性と、足の不自由な高齢の祖母と三人で、古い事務所の二階で暮らし始めた。
それが父が60くらいのころだろうか?お盛んなことだ。
きっと精力剤とか飲みまくていたに違いない。
祖母はその女性と気が合ったようで、しばしば一緒に酒を飲んで楽しんで暮らしていた。
しかし、その暮らしは長く続かなかった。
祖母は施設で暮らすようになり、父は他の資産家の女に心変わりした。
それが今、父の住んでるアパートの持ち主、大家さんというわけだ。
いつしか、固定資産税の滞納と借金の清算のために、家代わりに住んでいた会社社屋も人手に渡った。宿なしになった父は、橋の下に暮らしたわけでもなく、その資産家の未亡人の持つアパート一室に住み着いた。

やれやれ、こうやって思い返すだけでも気が滅入ってくるぜ。
失敗した人生という言葉が時折頭をよぎる。俺の親父の人生はまさしくそれだった。そしてそれはこの時点では、もういつ終わってもおかしくない、グランドフィナーレ間近という雲行きだったんだ。
次回に続く。悪夢のような人生ってのは、そう簡単に終わらないのさ。

2026/01/12

Post#1729 去年は正月早々ついてなかったんだ

2024年1月 飛騨古川から飛騨高山へ至る高山線の車窓から

今朝、起きたら雪が積もっていた。

雪を見るといろんなことを思い出す。生まれた日に静かに降っていた雪や、雪という名のあの忘れられない女性・・・(あー、宇宙戦艦ヤマトの森雪だと勝手に思っていてください。いろいろ詮索すると厄介なのでね。)

そして、一年前の正月に一人、雪に白く染まった飛騨古川の町を、寒さに凍えながら歩いたあの日を思い出す。

去年の一月、正月休みに飛騨高山まで家族で一泊旅行した時だ。

飛騨高山、風情のある小さな町だ。電車好きな息子がJR東海のハイブリッド特急HC85に乗りたいってんで、高山に行ったんだ。

高山は小さな町だ。子供と一緒に街をぶらついても知れている。それに思ったほど雪も積もっていなかったしな。で、バスに乗って隣町の飛騨古川まで行ったんだ。

女房子供は少し人気のない街を歩いただけで、寒さに音を上げて帰ってしまった。

仕方ない。俺は一人で白い息を吐きながら雪を踏みしめながら、写真を撮って歩き続けた。

デジタルだ。ボタン一つでせっかく撮った写真が消えてしまうデジタルは使わないと豪語していたセバスチャン・サルガドだって、晩年の大作Amazoniaはちゃっかりデジタルだった。

下々の俺がSONYのコンデジで写真を撮ってても、おかしくないだろう。フィルムが高くて子供の教育費やらローンやらで汲々としている俺には、フィルムはCoCo壱番屋なんだ。

飛騨古川 2025 01 
そんな俺の横を、女房子供の乗ったバスは通り過ぎて行った。OK、君たちは快適なホテルの部屋の中でまったりリラックスしてくれ。俺はいつだって向かい風の中吹きっさらしなのさ。
で、一通り町をうろつき回り、電車に乗って高山に戻っても、一人凍てつく寒さの中、写真を撮って歩いた。
飛騨高山

あまりの寒さに、観光客の一人も歩いていない。日が暮れると古風な街並みの商家はすぐにしまってしまうからな。どんとこいだ。何時間もそうして歩き続け、腹も減ったので俺はホテルに戻り、女房子供と合流したんだ。
そして次の日には宮川沿いの朝市に行ったり、息子と一緒にスタンプラリーをして歩き回ったりして、夕方にはなんとかその景品の湯の花なんかもらって帰途についたのさ。
飛騨高山 宮川
こうしてささやかな家族旅行を楽しんだ小市民のもとに、一夜明けた1月5日、一人で暮らしている父親が救急搬送され入院したという知らせがもたらされたんだ。
インフルエンザのくせに、朝、ラジオ体操にいき、そのあと筋肉の成分が血液中に溶け出す横紋筋融解症という症状を起こし、廊下で何時間もぶっ倒れていたのが見つかり、救急搬送されたのだという。そう、庄六じいさんが死に、俺が生まれた市民病院へ。

それが、2025年のけちのつけはじめだった。
やれやれ、人間そこそこの年になると、こんな目に合うものさ。君たちもまだなら楽しみにしておくんだな。楽しいときは続かないが、憂鬱な話は続くったら続く。