体重は4キロほどおち、子供が生まれる前に、タバコを吸っていた頃に近づいてきたようだ。しかし、かつて持っていたスーツは、ウエストがしんどくなって捨ててしまったことを思い出し、卒園式、入学式が近いので、ふと悔やまれる。
とっくに熱も下がって咳も出ない。しかしやることもないので、ゴロゴロしながら本を読んで暮らしている。
昨日まで読んでいたのは、先年亡くなられた人類学者マーシャル・サーリンズの『石器時代の経済学』という古典的な人類学のテキストだが、これがとても面白かった。
こういう本は、しっかり腰を落ち着けて読まないと、ちっとも理解できない。車の信号待ちや、仕事の休憩時間で読むような本ではないのだ。
20世紀もなお石器時代(狩猟採集だけの旧石器時代と農耕も始めている新石器時代)を生きている人々への人類学者のフィールドワークを丹念に分析することで、石器時代の人たちは生きるのに必死で、朝から晩まで食料を得るために駆けずり回り這い回っていたわけではなく、毎日平均2、3時間働くことで、生活の要求を満たしており、石器時代とは『始原のあふれる社会』だったということを論じる内容だ。
それが第一章の論旨なんだが、二十世紀初頭の人類学者マルセル・モース(岡本太郎パリ留学中の先生)の古典的な名著、『贈与論』の核心部分の解釈を掘り下げ、ルソーやホッブズ が考察していた始原の社会の社会契約と比較する第四章が、難しいけんどスリリングで、めちゃめちゃ面白かった。
万人の万人に対する闘争を回避するため、コモンウェルス(=共同の富)即ち国家を持たない人々は、贈与によって相互に社会契約を生み出したということを、モースを素材に、リヴァイアサンのホッブズを8分に、不平等起源論のルソーを2分ほど絡めて述べられ、仕上げのスパイスにレヴィ・ストロースの『交換とは平和的に解決された戦争であり、そして戦争とは、互換活動が不首尾に終わった結果にほかならない』という有名な一節をさらりとあしらわれ総括される。
そして最後にブッシュマンの次のような言葉で締めくくられるのだ
『一番悪いことは、贈物をしないことです。おたがいに好感をもっていなくても、一人が贈物をあたえたら、もう一人はうけとらねばなりません。こうして人々のあいだに、平和がもたらされるのです。私たちは、自分がもっているものを与えます。これが、みんな一緒に暮らしてゆく、私たちのやり方なのです』
僕は性魯鈍にして愚物ではあるが、こういう文章を読むのが楽しくて仕方ない。
そして、人間と社会に対する見識が深まる。細かいことは学者ではないから、サクッと忘れても構わない。自分の中に、気持ち良い風に吹かれたような感覚が残る。
法が蔑ろにされ、戦争が起こっているまさにいまこそ、これを読んでよかったと思える。
そして、その後ネットで原一男の不滅のドキュメンタリー映画『ゆきゆきて、神軍』を見て暮らした。
神戸のバッテリー商 奥崎謙三は、かつてニューギニアで戦った。日本に帰って来てからは、悪徳不動産屋を殺し、服役後、天皇に対して戦争責任を叫びながらパチンコ球を投擲した。天皇の顔写真をコラージュしたポルノを印刷したビラを撒き、また服役。
昭和の怪人だった。あまりに堂々と自分の信じた正義のために、国法などあっさり無視して行動する、今日で言う『無敵の人』だった。
ニューギニア戦線で奥崎がしょぞくしていた部隊で、戦争は終わっていたのに、二人の兵士が上官の命令で射殺された。
時は流れ、バブル真っ盛りの80年代、元帰還兵の奥崎謙三は、田中角栄を殺すと大書きしたマークⅡで、かつての上官を訪ねまわり、その真相を、執拗な尋問と発作的な暴力で解明してゆこうとする。
その処刑の裏には、極限の飢餓状態に追い込まれた日本兵が、階級の低い者を撃ち殺して食べたのではないか?という今日では考えられないような戦争の実態が潜んでいる。
誰もが、戦争中の出来事は思い出したくない。生きて帰ってこれたことに満足し、善良な市民として生きてきた。子供や孫のいる前で絶対に話したくない。そして、誰もが自分は撃っていない、自分は命令していないという。
そして最後には、奥崎謙三は元上官の家に改造拳銃を持って乗り込み、上官の息子を狙撃、逮捕されてしまう。
もう、完全に狂っている。けれど、アイヒマンの裁判を通じて、戦争責任を追求したハンナ・アーレントにも通じるなにかを感じる。
これもまた、戦争が起こっている今だから、あえて観てみたかったものだ。
そして、見終わってから奥崎謙三とどことなく風貌が似ていた吉本隆明の本を引っ張り出して、今日も一日本を読んで暮らした。コロナのお陰で優雅なことさ。
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