2011/09/12

Post #303 ふと、頭をよぎること

誰かを幸せにしようというのは、難しいことです。
自分自身が幸せなのかと、正面切って問われたなら、幸せなのだという気もしますし、不幸ではないが、幸せでもないという気もします。
Bruxelles,Belgique
世間一般に言う幸せというのは、とても漠然とした概念で、相対的なものですからね。
ギリギリの状況に置かれた人なら、生きているだけで幸せという場合もありますし、物質的に恵まれていても、不幸せだという場合も多々見受けられます。
客観的な計量尺度で最も手っ取りはやいのは、金の額ですが、資産一億の人と、一億一万円の人とでは、後者の方が一万円分幸せということになるのでしょうか?しかし、幸せは精神的な尺度でもあるので、このようにすっぱり計量できるものではないと考えます。携帯もネットもTVもコンビニもなかった昔の人々が、幸せを感じることがなかったのかといえば、そんなことは無いでしょうから。しかし、この不思議に対する一つの鍵は人間と人間の関係性にあるように思います。

つまり、人は一人では幸せにはなかなかなれないってことです。

溺れているニンゲンが、他の溺れている人を助けるのは、無理というものでしょう。しかし、幸せという観点においては、それはある意味成立しうるものではないのかとも思っています。
これは、不思議なことです。
しかし、精神的な世界では、経済原理や物理法則を超えたことが起こりえる、ということです。そもそも、精神的な幸せというのは、客観的に計量しうるものじゃないからねぇ。
誰かを幸せにしたいと、ある意味分不相応な、おこがましい願いにとりつかれて、そのように動いていくことで、相手も自分もなんとなく幸せになったりすることもあり得るということです。
そこから気が付くのは、幸せというのは、人間と人間の関係性に深い関係を持つものなのではなかろーかということでしょう。
人間が幸せを感じるのは、どこか自他の境目が融けあっている時なんじゃないかとも思います。ですから、性的なエクスタシーちゅうのもその一つの形だろうし、俺の嫌いな全体主義ちゅうのも、ひょっとしたらその一つの形なのかもしれません。何かの組織に属したり、ボランティアをすることで遣り甲斐を感じたりするのも近いものがあるかもしれません。

その一方、人間は誰かを不幸に陥れるのは、実に得意です。
先ほども、24歳の男が、19歳の女子大生から金品を奪い、車で連れ回して強姦し、挙句ビニール袋を頭にかぶせて窒息死させ、山林に死体を捨てたということで逮捕されたというニュースを見て、暗澹たる気持ちになってしまいました。余りにあさましく、あまりに痛ましい。
うむ、若い男と女、もし状況が違えば、互いに幸せを与え合うこともできたかもしれないのに、と思うと、人間の愚かしさにホトホト嫌気がさし、そしてまた、自分自身もそんな愚かな人間の端くれであり、そんな酷い行いをなしうるものなのだとも気が付き、悲しくもなります。いっそ、野の獣となって、人外境をオオカミのように一人往きたいと思うくらいです。
Bruxelles,Belgique
幸せについて考えると、何かの本で読んだ言葉が、いつも心に浮かんできます。
自分以外の人間を幸せにしようなどということは、そもそも人にとって過ぎた願いであり、もしそれを成し遂げようと思うならば、一生涯をその相手に尽くす覚悟が必要だろう、というような意味合いの言葉です。
普段何気なく使っている幸せという言葉が、とんでもなく重い意味を持つものだと思い知らされ、いつも思い出すたびに、心密かに戦慄を覚えるほどです。
愛というのは、お互いに共食いしなくてはならなくなった時に、この相手になら食われてやってもいいな、というのが突き詰めたところなんだということを、半村良のある小説の中で見つけて、人間の幸福の不可思議に、気が遠くなるような思いをしたこともありましたね。

読者諸君、夜勤明けだと、いろんなことが頭をよぎるが、頭の中が星雲のようにぐるぐる回って、考えがまとまらないもんだねぇ。こんなとりとめのないことを、頭の片隅でダラダラ考えていたりしますわ。さて、今夜も朝まで大仕事。こんな俺は幸せなのかどうなのか、よくわからんが、まぁ、迷うところ敵なしってもんだ。出たとこ勝負で乗り切ろう。
では、また会おう。それがどんなものかはわからないけれど、読者諸君の幸せを願っているぜ。

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