2011/06/17

Post #217 I See

俺が思うに、写真に関しては本来的に言葉は不要だ。
Tokyo
理解することなく、一瞬で了解する。
I See, But I Can't Understand. 
つまりは、百聞は一見に如かずだ。
その視覚情報の意味するものは、了解した個々人が、写真を仲立ちにして、自らの中から生起して来るイメージから、そしてそのあとからそれぞれの脳裏に浮かびあがるイメージの残滓ともいうべき言葉から、汲み取り、見出すべき類のもので、決して撮影者の意図を十全に、いやむしろまったくと言っていいほど、反映するものではない。

Tokyo
その文脈で考えると、写真はコミュニケーションのツールであると同時に、撮影者と鑑賞者の間に、いかんともしがたい齟齬を生み出しうるディスコミュニケーションのツールでもありうる。
その過程では、醜いものが美しく見えることもある。倫理に反する行為が美しく見えるときもありうるだろう。
理解することなく、了解するという地平においてこそ、この意味の転倒は生じうると考えている。
ゆえにこそ、意味を逸脱した、いわゆる決定的瞬間ではない、ありふれた光景を写真に写す事に対する意味の比重が生じ得るし、そういった写真に、ある種のこだわりを抱いている。

Amsterdam
正直に言えば、写真はどこか後ろめたい行為だと、俺はいつも感じている。どこか反社会的で非人間的な行為だと、俺には感じられる。
カメラを右手におさめ、シャッターには常に指をかけ、何時でも動物的に、瞬間的にシャッターをきりつつ、雑踏を歩むとき、俺は自分がすっ裸で、道行く人々にさらされ、対峙しているように感じるのだ。俺はふと何とも形容しがたい不安に襲われる。しかし、武器は右手にしっかりと握った一台のカメラしか、無い。心を奮い立たせ、シャッターをきり続ける他、不安を乗り越える術を俺は知らない。

読者諸君、今日は疲労困憊した。率直に言って、俺は眠りたいのさ。だから今日はこれで失礼する。諸兄諸姉が、有意義な週末をお送り下さることを、仕事に明け暮れながらも祈っている。

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