2011/10/01

Post #322 ココが思案のしどころだ

昨日の件があって、俺は悩んでいる。
この道をこのまま進み続けるべきか、大人しく立ちどまり、権力や世間の皆さんの肖像権とやらを尊重すべきか。
見ることと、写真を撮ることの間には、一体どんな違いがあるのか?
カメラを持って歩かないようにとは、いったいどういう意味なのか?誰もがケータイ電話を持ち、それにはまず間違いなくカメラがついている時代に、何故、スナップシューターだけがカメラを持つことを禁じられねばならないのか。
警察官の言葉が、呪縛のように俺の中に響いている。
俺にぶつけられた憎悪の塊が、俺を揺さぶる。
ココが思案のしどころだ。
かつて、アンリ・カルティエ・ブレッソンは目立たないカメラを切望していたという。なので、彼はブラックペイントのライカを愛用していたという。
ブレッソンが、ウィリアム・クラインが、北島敬三が、森山大道が、荒木経惟が、同じような状況に陥った時、どうするだろうか?
写真評論家の飯沢耕太郎氏も、ここ十年ほどの間、肖像権の問題によってスナップ写真の衰えが激しいと嘆いていた。そしてそれが将来、この時代の風俗習慣流行を検証することを難しくしていくだろうと予見していた。
俺達は、いつの間にか、ジョージ・オーウェルの『1984』のような、奇妙な世界に、ビッグブラザーなる権力に常に監視され、自由のない世界に生きているようになってしまったようだ。
権力の手のひらの上にのっている限りは、自由に生きているように錯覚しているが、ひとたび、自律的に何かを始めると、すぐに向こうからオマワリが二人連れでやってきて、俺を職務質問する。
全く嫌な世の中だ。
不正義と退廃がはびこっているというのに、それらはプライバシーや肖像権の名のもとに権力によって擁護され、記録として残すことは許されないことだろう。そういった人間の姿こそ、もっとも生々しく、もっとも俺を惹きつけるものなに。
Paris
権力にとって、カメラは拳銃のように危険なものなのか。
英語では、撃つのも撮るのも同じShootだ。オマワリが目を光らせるのも解かる。
俺は、夜勤明けの睡眠不足の身体一つで、都会の群衆に対峙するとき、まるで素っ裸で対峙しているように感じる。何を見ても、俺にはそれがモノクロの写真になって見える。拳銃一丁も持たずに戦場に放り出されたような気分だ。
ココが思案のしどころだ。
親愛なる読者諸君、とりわけコメントをよせてくれたたけはらさん、M社さん、Aria_msさん、ありがとう。心から感謝しています。
俺は独房のようなビジネスホテルの部屋で、一人自分の行方を模索している。

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