2014/12/30

Post #1364

Budapest,Hungary
年賀状も作ったし、今年最後の入金も確認した。なんとか年も越せそうだ。帳簿や青色申告の書類、来年の現場の図面のチェックなんかは年を越してからでも、なぁにかまやしねぇさ。
しかし、まだ明日の夜に今年最後の仕事が控えている。きっと、現場で愉快な仲間たちと新しい年を迎えてしまうのだろう。
それも、面白いぜ。年越しライブみたいなものさ。観客はいないがね。

独りで家にいると、どうしようもない寂しさのようなものを感じてしまう。
胸の奥から、ありったけの力を振り絞って、すげーシャウトを絞り出したいのだ。胸の奥、肺のあたりに赤黒い溶岩の塊のようなものが、煮えたぎりながら回転し、その表面から時折鋭い刃が瞬間飛び出して、自分自身を責め苛むような、極上の気分だ。
こんな機会に誰か久しくあっていない人と語り合ったりしたいものだが、人と話しても、何かが伝わりきらないもどかしさが残る。きっと俺には何か精神的な問題があるんだろう。そもそも、そんな塊を他人に押し付けるわけにもいかないし、その塊を言語化する術すらない。
それはひょっとしたら、昨日俺が言っていた、昏い情念のようなものかもしれない。
おかしいなぁ、俺にはそんなもの、無いはずなのに・・・。

俺はただ、太い火柱が空に向かって立ち昇るようにして、自分の生命を燃やし尽くしたいだけなのに。
その願いを『狂気』というのなら、俺は『狂気』にとらわれているんだろう。

どうやって、その『狂気』を宥めるのか。
俺には分かってるんだ。とても億劫だけれど。
今から薬品を調合して、暗室に籠ってプリントするしかないんだ。

俺の居場所は、そもそも路上か、暗室の中にしかないんだ。
くそっ、素敵なお姉さんの胸の奥とかにも、ささやかな居場所が欲しかったぜ。
しかし、素敵なお姉さんなんて、今はどうだってイイ。
早くしないと、唐突に絶叫して、精神病院に放り込まれるようなことになっちまうぜ。

こうしちゃいられない。

今年最後のプリント祭りだ。
暗室の外で、何が起こったって知ったことか。死後の世界のような、白と黒のイメージと、生まれる前の胎内のような赤い光が、俺の魂の居所だ。とても安らぐんだ。

読者諸君、失礼する。来年も俺は路上の狩人、暗室の哲学者でいたい。ついてこれない奴なんて、かまいやしないぜ。走り続けていないと、俺は自分の中の狂気に焼き尽くされちまうんだ。

2014/12/29

Post #1363

Budapest,Hungary
俺は、いつもヒトが抱えている過剰や欠落に目が行ってしまう。そして、出来る事なら写真に収めたいと思っているんだ。しかし、その行いには、往々にして反社会的なにおいが纏わりついてしまう。正直に言って、犯罪とすれすれだ。いや、人間の(臭いものには蓋というか、問題から目を背けたいという心性に由来する)倫理観からすれば、明確に犯罪かもしれない。

それは、別に手足や目鼻が欠損していたり、多指症の人の手だとかというわけではないんだ。

人間が、内に秘めた昏い情熱の塊のようなものが、マグマが地殻を突き破って出てくるように、その人間の行動や考え方や姿かたちに、現れる。その過剰は俺の考えでは、何らかの欠落、そう心のなかにぽっかり空いた空隙を埋めるために生み出され、しかし、その空隙を埋めることはできないままに、表面に噴出しているのではないかと思う。

そうだとすれば、何か抜け殻になってしまったような人も、周囲に異様な存在感を放射している人も、根本的には同じカテゴリーの存在なんじゃないかと思っている。

例えば、ほら過剰なピアっシングをしていたり、リストカットを繰り返していたり、あるいは飽くことなく性交を求め続けるセックス依存症の人とか、服装やしぐさに過剰な自己表出が現れている人とか。

人間の表面に現れる兆しは、その内面に渦巻く昏いパトスの噴出だと考えているんだ。
満たされて幸せそうな人々には、その暗い影は差していない。
そんな欠落や過剰を抱えている人のまなざしは、どこか光が違うのだ。

そんな人間を、写真に収めてゆきたいと、いつも思う。
出来る事なら、その心のなかに空いているだろう暗く湿った穴を、それを埋めようと渦巻く情念の塊を、この手に取って見てみたいのさ。
しかし、そもそもそれは写真に写るものなのだろうか?手に取ることが出来るものなのだろうか?
まぁ、なかなかそんな人間らしい人間は、俺の前には現れてくれないけれどね。


読者諸君、失礼する。俺ですか?俺にはそんな昏い情念なんて、これっぽっちもありゃしないよ。俺はこう見えて、到って退屈な平々凡々たる男でござんす。

2014/12/28

Post #1362

Bhaktapur,Nepal
年賀状を作るつもりが、何故か床のワックスがけをして一日を空費してしまった。それはそれでやり遂げた感は山盛りだったんだが・・・。

ふと、若いころの自分を思い返してみて、その不甲斐なさに、いたたまれない気持ちになって、悲しいような、悔しいような思いがこみ上げてくる。

こいつは性質の悪い胸やけのようだ。
出来る事なら、あの時その時の自分にあって、ぶん殴って説教食らわしてやりたいくらいだ。情けねぇ!

もう少し、あのときに俺に相手を思いやる優しさと、一歩踏み出す勇気があれば、そして下らない意地をはって痩せ我慢なんかしなければ、きっと今とは違う人生を歩んでいたはずなのにと思うと、情けなくって泣けてくる。その時俺の傍らにいてくれた人を、もっと幸せにしてあげることが出来たかもしれないんだ。もっとも、その人の人生を取り返しがつかないくらいぶち壊していた可能性だって否定できないけどな。

過ぎ去った時間は、泣いたところでどうにもなりはしない。

人は、そんなこと忘れて、もっと身軽に生きたらいいのにっていうだろう。きっと、俺が迷惑をかけた人たちも、すっかりそんなの時効だよ、気にしちゃいないよって言ってくれるだろう。
だけど、そんな後悔も過ちも、忘れたくないし、ずっと背負っていきたいんだ。

何故って、その失敗と悔恨の集積こそが、俺自身だと思うからだ。
で、その重りのような荷物を抱えて、しかもなお、全力で力強く、時に無様に走り続けるように、死ぬその日まで生きていきたいんだ。

そんな無様な屁垂れた若い時代があったからこそ、今の自分があるのだと自分に言い聞かせて、奥歯を噛みしめて、今日の自分が人生でサイコーだと言い聞かせるしかない。
事実、昨日の俺より、今日の俺の方が、経験値が上がった分だけ、器はデカくなってるはずだ。俺は信じてる。俺はこのままで、終わる男じゃないんだ。まぁ、このままでもかまわないけどな。

でもって、むかし俺が、ネコの糞を踏んだような気分にさせた人たち(その多くは大切な人だったはずだ)に、恥じることのないような自分でいたいんだ。

自分でも、俺は45歳の皮をかぶった15歳だって分かってるさ。過ぎたことにいつまでもとらわれて、そいつは俺の胸のなかで地団太踏んで哭き叫んでいるんだ。母を亡くした子供みたいにね。自分でも、それって辛くないか?って思うさ。けど、それをあっさり忘れ去ったり、頭の中から放り出したりしたら、それはもう俺であって、俺じゃないんだよ。
そんな阿呆が一人くらい世の中にいたって、悪くないだろう?それが俺のロマンなんだよ!

読者諸君、失礼する。俺だって、自分の人生を振り返って、もんどりうちたい夜もあるのさ、畜生!