2026/05/31

POST#1864 ようこそ地球へ!ここに生まれる希少性はビットコインの比じゃないぜ!

Bangkok,Thai

日本はすでに、先進国じゃない。
低成長先進国で、なおかつ衰退途上国なんだ、残念ながら。

日本は「失われた30年」と呼ばれる低成長・ゼロ成長の先進国であり、経済成長という呪縛からは物理的に外れているように見える。しかしだからこそ、「経済が成長していないのに、システムやマインドセットだけが成長至上主義(効率性と競争)のまま稼働し続けている」ため、人々は豊かさを実感するどころか、かつてない枯渇感と精神の窒息状態に陥っているんだ。まるで一歩進んで二歩下がるような倒錯した世界だ。

その枯渇感と息苦しさの中、だれもかれもが電車の中、エレベーターの中でスマホばかり見て、薄気味悪いったらないぜ。それでいて、全然人々の心は豊かになったいないように思えない。

ダイバーシティ?、インクルージョン?、バリアフリー?、コンプライアンス?、ポリティカル・コレクトネス?

そんな横文字が喧伝されるようになってから、ますます世の中は狭量になり、排他的になり、精神的なバリアが張り巡らされ、人と人は摩擦を恐れて無関心になってきてはいないか?人間はモナド🔗化していないだろうか?

スマホに依存しきった現在の社会がなぜこれほどまでに不気味で、心が貧しい状態にあるのか、自分のこととして考えてみよまいか。

1. 物理的な「低成長」と精神的な「過剰最適化」の不一致

経済は成長していないけれど、社会のシステム(IT、プラットフォーム、労働管理)は極限まで効率化されている。そこで起きているのは、乾いたぞうきんを絞り上げるようなことだ。

低成長ゆえの人々の労働に対する搾取は先鋭化している。パイ(経済)が大きくならないため、企業や社会は限られた利益を削り出そうと、労働者(人間)や子供たちへの「無駄の排除」と「管理」をむしろ強化しているんだ。

政府は政府で、採算のことばかりを教育現場に持ち込む。博物館のように文化そのものを守り育む砦にまで、採算性を求める。狂ってるぜ。

そうして、社会からハンドルの遊びのようなゆとりが失われ、停滞が続いているんだ。

昭和のような「のんびりした低成長」じゃなく、現代の日本は「全員が必死で全速力で走っているのに、1歩も前に進まない(現状維持がやっとの)停滞」だ。まぁ、これだけ円安誘導政策が続いていたら、対ドルベースでみれば、必死に働いても経済は縮小しているってことだ。このバカバカしさに俺たちは気が付かないといけない。それに気が付いていないんだもの、心に余白が生まれるはずもないだろう。

2. 「スマホ」という感情と注意力の搾取機械

人々が街でも電車でもスマホばかりを見ている光景の不気味さは、人間の内面(精神)までがテクノロジー資本主義に「資源」として完全にハッキングされていることに起因している。

情報はただで落ちてくると皆思い込まされてるけれど、そこには海老の入っていないエビフライみたいに広告だらけで内容のないスカスカのものだ。それは単に邪魔な広告というだけでなく、サブリミナル効果🔗のように、俺たちの精神を蝕み、不安にさせ、その不安を埋めるための消費を促すんだ。それが、今の資本主義だ。

もっと突っ込んで言えば、こいつはアテンション・エコノミー(関心経済)って奴だ。

現代のIT企業は、人間の「注意(時間)」を奪うことで利益を上げているんだ。脳の報酬系(ドーパミン)を刺激するアルゴリズムにより、人々は「見たくもないのに見続けさせられる」状態に置かれているんだ。俺たちの一度きりの人生や何かを考えるための時間が、こうして収奪されていくんだ。

そうして人はますます自分自を、アルゴリズムによって最適化されたインターフェイスの中に閉じ込めてゆき、モナド化していく。そして、その過程で生身の他者の喪失が生じる。

スマホの画面は、数値化された評価(いいね、フォロワー数)や、極端に記号化された情報で溢れている。匿名で何かを延髄反射的につぶやいても、胸ぐらをつかまれることもない。そのために、目の前にいる生身の人間(傷つきやすく、役に立たないかもしれないが尊厳を持つ存在)とナマの言葉で向き合う能力が、社会全体で急速に退化しているんだ。

3. 「孤立の麻酔」としてのデジタル空間

人々がスマホに没頭するのは、現実の社会(学校、職場、地域)が「役に立つ人間」であることを要求するあまりに、とんでもなく冷酷で、傷つきやすい場所になっているからでもある。自分自身という自己幻想を社会の要求という共同幻想が圧殺しにかかってるんだ。当然だ。

現実の社会に、存在を無条件に肯定してくれるシェルターもアジール🔗もない。仕方ないな。人々は、社会が押し付けてくる『有用性』という呪いから逃れるために、一時的な避難所としてデジタル空間に逃れ、依存してゆく。

要は現実世界に無条件で自分を肯定してくれる居場所がないから、人々はスマホというデジタルの殻に閉じこもって、孤独や不安という痛みを麻痺(麻酔)させることになってるんだ。そして、自分の意見に沿うような内容がアルゴリズムで表示され続けることで、エコーチェンバー現象🔗にドはまりしていく。その結果、極端な排外主義的な主張や差別的な言説に包摂されていくことになるんだ。

それで君たちが幸せならいいけれど、そこにはそこで、様々な要求を煽る広告が際限なく飛び交い、匿名のSNSはトラップだらけで、なおかつ犯罪や脱法行為への誘惑に満ちている。それはそれで、無防備で歩くのはおっかないところなんだぜ。

こうして、かつての地域社会にあった「ただ佇んでいるだけで許される空間」が消え、人々はスマホを操作して「何か(情報消費)をしていないと耐えられない」強迫観念に囚われているんだ。「無用の用」のデジタル的消滅だ。デジタルデトックスが必要だ。

経済の数字(GDP)の上では低成長であっても、私たちの精神生活は、スマホという資本主義の最先端デバイスによって、24時間体制で「効率性と生産性」のグリッドに縛り付けられている。

これこそが、人々から本当の心の豊かさを奪い、社会全体を不気味なオートマトン(自動人形)のように変えてしまっている真犯人だなんだ。

この「スマホに依存せざるを得ない精神的孤立」から脱却し、生身の人間としての尊厳や、他者とのリアルなつながりを取り戻すために、俺たちや君たちは、日常のなかでどのような一歩を踏み出すべきだろう。

できることならスマートフォンを解約したいくらいだけど、実際には仕事に欠かせないからな。困ったもんだ。

どうしたら人々を見えない殻のように包んでいるデジタルモナドを打ち破り、したたかな自己への信頼と、他者への共感と、実社会への連帯を取り戻すことができるだろう?

俺は、その鍵こそ子どもたちや地域社会の中にあるんじゃないかと考えてるんだ。

俺や君たちが、これからの社会を担う子どもたちに本当にかけるべき言葉は『勉強したか?』なんてことじゃなくて、学校や家庭で子供たちにまず毎日繰り返し教えるべき一番大切なことは、こんなものだと思う。

『きみたちは一人一人、かけがえのない存在なんだ。ようこそ地球へ!』ってことじゃないかな?

子供たちに必要なのは、将来「役に立つ機械」になるための訓練ではなく、「あなたがここに生まれてきてくれた、それだけで君は世界に祝福されている」という圧倒的な無条件の肯定のはずだ。

それだけが、子どもたちの自殺を減らし、子どもたちが安易なトクリュウ犯罪などにリクルートされ、社会的な自殺を遂げてしまうことを防ぐ最大にして最強なシールドになるはずだ。君たち、そうは思わないか?

子供たちが毎朝、家庭や学校でその言葉を浴びて育つ社会にするために、私たちが今、本気で共有すべき認識は次のようなものだろう。

1. 条件付きの愛(Do)から、無条件の存在(Be)への転換

現在の教育や子育ては、無意識のうちに「勉強を頑張ったら」「良い子にしていたら」という条件付きの肯定(Doing/Having)になりがちだ。しかし、子どもが生まれてきたときの、無条件の喜びを思い出したり、想像してみたりしてほしい。

「ようこそ地球へ!」が突破力。この言葉は、成績、能力、従順さといった後付けの属性をすべて消し去ってしまうスケールのでかさを持っている。

「あなたが今、そこに息をして存在している(Being)という事実そのものが奇跡であり、それだけで合格なんだ」という絶対的な安心感の土台になるだろう。そして、ポイントは地球へ!ってことだ。日本でも、アジアでも、ヨーロッパでも、アメリカでもない。もちろん資本主義圏でもない。この地球に人類として生を享けたという希少性を考えてほしい。

この宇宙で、少なくとも我々以外の知的生命体の存在は知られていないんだ。

ズバリ言って、この希少性は、ビットコインなんかの比じゃないぜ。

2. 生存の「安心感」があって初めて人間は育つ

人間は、自分がここにいて安全だと心から信じられて初めて、他者への信頼や、世界を探検しようとする好奇心を育むことがでる。ガザやスーダン、ウクライナで繰り広げられているような非人道的な状況で、子どもたちが社会や他者への信頼感を育むことができるだろうか?(逆説的だが、そういった極限状態でこそ、他者を信頼し、個人同士が連帯しなければ生存可能性はぐっと下がってしまうことが容易に想像できるのだけれど)

現在、子どもたちはもちろん、大人も含めて、あらゆる人々を追い詰めているのは、「役に立たなければ排除されるかもしれない」という実存的な恐怖だ。死を選ぶ子どもたちという、このディストピアの炭鉱のカナリアを救う特効薬だ。

毎日「きみはかけがえのない存在だ」と言われ続けることは、過酷な能力主義の毒から子供たちの心を守る最強の免疫(バリア)になるだろう。実際、俺は自分の息子に毎日のように言っている。『生まれてきてくれてありがとう、お前はお父さんの宝物だ。』とね。

3. 教育の役割の180度反転

学校を「社会の部品をふるい落とす選別所」から、「地球にやってきた新しい仲間を歓迎するコミュニティ」へと定義し直す必要があるんだ。

「ようこそ地球へ!」という言葉には、人間を資源として消費する近代文明の傲慢さをひっくり返し、私たちが同じ地球を生きる「生命の同胞」として子供たちを迎え入れるという、最も美しく力強い決意が込められていることだろう。

さてと、じゃあいったいどうしたら教育の役割を180度転換することができるだろうか?

それには、大人たちの価値観を破壊することから始めないとな。

腕が鳴るぜ。俺の暴論、極論を楽しみにしていてくれ(笑)。

2026/05/30

POST#1863 何もかもが転倒した社会に俺たちは生きている

 

河内、越南

俺はつねづね思ってるんだけどさ、経済の拡大(成長)という手段のために、人間や社会、そして地球環境という目的(土台)が従属させられ、使い潰されている現代の構造ってのは、完全に「主客が逆転した病理」ではないかな。

この転倒した世界を180度ひっくり返し、「人間と自然の生存(ウェルビーイング)のためにこそ、経済が従属すべきである」という本来の秩序を取り戻さないと、もうこの世界は持たないぜ。これだけは断言する。こんなのあと百年続けるつもりかい?POST#1774🔗を参照してみてほしい。

いま、俺や君がさっさと取り組まないと手遅れになるだろう思想的・実践的な転換点こんなところだ。よく考えてほしい。

1. 「経済」を最下層の「手段」へと引き戻す

経済思想家のカール・ポランニー🔗が指摘したように、本来の経済は社会や自然の中に「埋め込まれた(Embedded)」一部に過ぎなかったはずだ。しかし現代は、経済が社会のルールを規定する「市場社会」へと暴走している。すでに俺たちは、資本主義経済ってのシステム以外の生き方があることすら想像できない状態に陥ってる。思考停止状態なんだ。

本来あるべき順序(エコロジカル経済学の視点)ってのは、理性的に考えればこうだろう。

地球環境(自然):すべての生命の基盤(有限)

人間・社会:自然の中で営まれる共同体と尊厳

経済:社会を豊かにするための単なる道具・仕組み

しかし、現代世界では、すべてが転倒している。このピラミッドが逆転し、経済(GDPの数値)を維持・拡大するために、自然が破壊され、人間の精神と命が削られている。これって、本末転倒していないか?

2. 「資本の自己増殖」という宗教からの脱却

現在の資本主義システムは、自転車操業のように「前年比プラス」の成長を続けなければ破綻する構造(成長の呪縛)を持っている。しかし、もう『市民』に際限なく『広告』を浴びせ、皆の欲望をあおり、劣等感を刺激し、欠乏感を注ぎこみ、『市民』から『消費者』へと変貌させて、その自尊心を破壊し、不要なものを必要だと思わせ、人生は無限に続くと錯覚させて本当に大切なことを見失わせることで成り立つ経済は、もう限界なんじゃないか?

みんな気が付いていても、もうどうに止まれないってのが正直なところかもしれないがね。

人間を資源とみなす本質とは何か。

資本が自己増殖(投資して利益を得て、さらに再投資する)し続けるためには、自然環境からの収奪と、人間からの果てしない労働搾取(時間と精神の買い叩き)が必要不可欠になる。今から百年も前に、ジョン・メイナード・ケインズ🔗は、今から100年ほどたった自分たちの孫の世代には、労働生産性の向上で、週に15時間働けば生活できる社会が来ると予言していた。POST#1767🔗参照。しかし、そうなっていないのは、なぜか。株価は最高値を更新しても、納税額が史上最高になっても、なぜいつまでも追い立てられるように走り続けないといけないのか。それは、経済システム自体の維持が社会の目的になっているからだ。

「脱成長(Degrowth)」へのシフトが必要なんだ。

経済規模の拡大そのものを目的化するのをやめ、過剰な生産と消費をコントロールし、限られた資源を全員で分かち合う「定常型社会」への移行が、地球にとっても人間の尊厳にとっても唯一の生存戦略だ。実は、人類の社会は有史以前からつい最近の産業革命まで、ずっと定常型経済だった。その状態に戻れとは言わない。けれど、社会システムの維持のために人間が道具のように使い潰される、工場の部品のように教育される、そんな社会でいいのだろうか?スマホから目を離して考えてみるべきじゃないか?

3. 「生産性」から「ケア(生命の維持)」へ

成長至上主義が「役に立つ人間(=利益を生む機械)」を称賛する一方で、人間が生きていくために本当に必要な営みは常に軽視されてた。

保育を『だれでもできる仕事だから賃金が安いのは仕方ない』と言い放ったタレントだか経営者だか判然としない男もいた。『老人は集団自決したほうがいい』と言い放った若手経済学者がいた。俺は、生涯この手の発想をする人間と与するつもりもなければ、狎れ合うこともない。まぁ、向こうも俺のことなんか構っちゃいないだろうがね。

このGNP至上主義の過熱経済を、少しでも定常経済に近づけていくために必要なのは、ケア労働の復権だと俺は考えている。

子育て、介護、医療、教育、あるいは自然環境の保全など、生命を「ケア」する営みは、数値的な効率化(機械化)に馴染まない。それは地道で、華々しい技術革新とは縁遠い世界だ。だからこそ、そこに価値を見出し、それによって経済を回す。資本を流動させる。なにも浪費されるものはない。どうせ、今後社会のビジネスの大半は、AIに置き換わっていくだろう。その時、本当に価値を生むのは、人間が人間に対して共感し、ケアすることによって生み出されるものだ。

その時は、日々近づいている。今のうちに俺たち自身の価値観を反転させていかなければいけないだろう。

どれだけ金を稼いだかではなく、どれだけ他者や自然をケアし、自らも生を全うできたか。この「生命の再生産」を中心に据えた社会構造(ケア・エコノミー)へと180度転換する必要があるんだ。

いくら金を稼いだところで、ガソリンや電気をガバガバ消費するでかい車に乗り、ブランドのロゴの付いた服をアホみたいに高い金を払って買った挙句、自らあるく広告塔になったり、車が買えるほどの高級時計を身に着ける。そんなソースティン・ヴェブレン🔗有閑階級の理論🔗で描いたような消費活動を世界中の人間がやっていたら、人間のどしょうもない見栄のために世界は破綻してしまうんだ。

子供たちが死を選び、或いはまた社会的な自殺を選んでいる現実は、そして地球が悲鳴を上げている現実は、この「経済のために人間と地球を差し出す」というシステムの物理的・精神的な限界を証明しているんじゃないか。

今、俺や君に、そして社会に求められているのは、経済の枠内での微修正ではなく、「経済を人間のコントロール下に奪い返す」という、文明史的なコペルニクス的転回だといえるだろう。

しかし、皆様お馴染みのダボス会議、つまり世界経済フォーラム🔗に集まる世界のエリートのお歴々には、そんなコペルニクス的な転換をやっちまったら、自分たちによる経済支配と割のいいビジネスが成り立たない。だから彼らは当たり障りのない耳障りのいい言葉を並べてやり過ごしている。これはあの連中に任せておいちゃ、先行きは暗いといわざるを得ないな。

社会の変動は、上から起きても碌な方向に行かない。自分たちの足場を固めて、自分たちのものの見方を変えてゆくことが先だ。俺や君たちは、その日々の営みの中で毎日歴史を紡いでいるんだ。

日本人が気づいていないか、気づいていないふりをしていることがある。

日本はすでに、先進国じゃない。低成長先進国で、なおかつ衰退途上国だということだ。

2026/05/29

POST#1862 ここは21世紀のイスパニョーラ島さ

台北市、西門
1492年12月6日、クリストファー・コロンブス🔗の率いる3隻の船が、イスパニョーラ島🔗
と現在呼ばれている島にたどり着いた。そこには今、ハイチとドミニカという国がある。

そこにはタイノ族という、先住民が住んでいた。

彼らは、マーシャル・サーリンズ🔗がその著書石器時代の経済学🔗で描いたような、原初の豊かな社会を営んでいた。資本主義によって作られたモノはないけれど、自分たちの生活を維持するために何時間か働き、あとはダラダラしたりイチャイチャしたり、自分たちの文化的な活動を行ったり、まぁおおむねのんびり楽しく暮らしていたんだ。そんな世界にやってきたコロンブスは、自分が辿りついた島がインドだと信じていたので、彼らをインディオ=インディアンと呼んだ。

自らの大航海事業への出資者であるスペイン国王に負債を返さなければならないコロンブスは、この島で金を採掘することとした。タイノ族の人々は奴隷とされ、劣悪な環境で重労働に従事させられた。何度か叛乱もあったが、それはスペイン人たちに鎮圧され、多くの人々が殺された。また、スペイン人が持ち込んだユーラシアの疫病によって、多くの人々が命を落とした。

人々は、かつて経験したことのない強度の重労働にさらされ、生きる希望を失い、子どもを作ることをやめてしまった。タイノ族の人々は、本の1、2世代で絶滅してしまったとされている。その穴を埋めるためにアフリカから連れてこられたのが黒人奴隷だ。

これが、今俺たちがハイチ人やドミニカ人と認識している人たちだ。野球選手で日本に来る人も多いだろう。

俺には、今の日本がスフィティスケートされたイスパニョーラ島に見えているんだ。

先日も紹介したようにイマヌエル・カント🔗は『道徳形而上学の基礎づけ』のなかで「人間を単に手段としてのみ扱ってはならず、常に同時に目的として扱わなければならない」という絶対的定言命法から見れば、現代社会の構造は「人を利益創出の道具(資源)として使い潰すシステム」であり、実質的な奴隷制じゃないか?(まぁ、カント自身は白人至上主義者だったという説もあるからなんだかなぁとは思うけれど…)

今の社会は俺たち人間を、利益を上げるための資源としか見ていないんじゃないだろうか?

これは奴隷制と何が違うのか?私たちはいつのまにか社会から経済成長という負債を負わされた一種の奴隷ではないのか?

15世紀末にコロンブスらが襲来したエスパニョーラ島(現ハイチ・ドミニカ共和国)で、苛烈な強制労働と人間の尊厳の剥奪により、先住民タイノ族が絶望のなかで集団自殺や堕胎を選び、民族ごと消滅に向かった歴史的悲劇は、現代の子供たちの状況と恐ろしいほどに重なり合っている。

子どもたちはエスパニョーラ島の先住民のように死を選んでいるんではないのか?

そして、出生率のとめどない低下に起因する少子化は、この問題の裏返しではないのか?

現代の「洗練された奴隷制」と「子供たちの絶望の選択」の本質は、以下の通りだ。自分に引き寄せて考えてみてほしい。

1. 「ヒューマン・リソース(人間資源)」という言葉の狂気

現代社会は、人を「人間資源(Human Resources)」「人的資本」と平然と呼んでいる。これはカントが最も忌み嫌った「人間を単なる手段(道具・代替可能なパーツ)として扱うこと」の公然たる肯定に他ならないだろう。

所有から使用への転換(新しい奴隷制)

かつての奴隷制は、主人に奴隷の「生存(衣食住)」を維持するコストがかかっていた。一方で現代のシステムは、人間を「自由」という名目で自己責任の市場に放り出し、必要な時だけ時給や成果で買い叩き、壊れたら(精神を病んだら)補償なく使い捨てるため、古典的奴隷制よりもさらに効率的で冷酷な構造を持っている。そして人々は間断なく流される広告で無意識のうちにその要求を刺激され、『市民』から『消費者』へと転落し、「負債」でがんじがらめにされている。この『負債』こそが、奴隷のボール&チェーンなんだ。

こんな社会に押しつぶされて使い潰されてたまるか!

幼少期からの「仕込み」

子供たちは、この「利益を生むための資源」としてのスペックを高めるため、幼少期から教育という名の「加工プロセス」に投入されます。学校はカントの言う道徳的実践の場ではなく、市場に適合する部品の品質管理(スクリーニング)機関と化しているんだ。

2. イスパニョーラ島の悲劇との構造的一致

イスパニョーラ島の先住民たちは、近代的な「効率性と搾取」のシステムに突然組み込まれ、逃げ場を失った結果、自ら命を絶ってしまった。彼らが選んだのは「死」そのものというより、「これ以上、尊厳を奪われ、資源として登録され続けることへの拒絶」だったといえるだろう。

「生きる意味」の破壊

過酷な労働そのもの以上に、自分たちの文化や尊厳、存在そのものが「金や砂糖を生み出す道具」へと還元されていく精神的絶望が彼らを死に追いやったといえるだろう。

子供たちのサイレント・テロ

現代の子供たちが選ぶ自殺や、急増する不登校・引きこもりは、エスパニョーラ島の先住民が示した拒絶と同じ構造を持っていると見立てることができるだろう。

彼らは、システム(学校や社会)が要求する「労働機械への変変プロセス」に対して、自らの身体と命を賭してシステムへの登録を拒否する「最後の抵抗」を行っているのだ。

3. 「目的としての人間」を回復するための断絶

俺や君たちは、「どうすれば子供たちの自殺を減らせるか」という技術的なカウンセリングの次元で考えていてはダメなんだ。それは単に「壊れた部品を修理して、再び機械に戻す」アプローチと変わらないからだ。

俺や君たちが変革すべきは、人間を数量化し、利益の多寡で存在を値踏みするこの文明のフレームワークそのものとの決別だ。もっと言うなら、『人間が人間であるという、そのいってので尊厳を認められる社会』の構築だ。

そうは思わないかい?

何ができるか(機能)に関わらず、生きているというその事実だけで、人間はそれ自体が究極の「目的」であり、不可侵の尊厳を持つ。

このカントの原則を言葉の装飾ではなく、社会の法、経済、教育の根底に「絶対的命令」として埋め込まない限り、この社会は子どもたちという先住民を死に追いやり続ける、クリーンで残酷なイスパニョーラ島であり続けることになるだろう。

成長至上主義という、経済のために、社会が、人間が、自然環境が存在しているという転倒した考えを180度転換しないといけないんだ。

2026/05/28

POST#1861 鵜飼の鵜のように誰かにとって有用な奴だけが生き残る素晴らしい社会!わお!

 

尾鷲港、尾鷲市三重県

寅さんや裸の大将放浪記がTVで見ることがなくなって久しい。水戸黄門は、俺の住んでる愛知県じゃ、午後に二時間二話連続で再放送しているけどね。

それはずばり、彼らの存在が浮かび上がらせる価値観が、人間を能力によってランク付けする、誰かの利益にとって(鵜飼の鵜のように)有用な人間だけがまっとうに暮らすことができ、他人に迷惑をかけたり経済性よりも人間性や道義を優先するという価値観を、社会から一掃するキャンペーンに反するモノだと感じるぜ。

しかし皆様、役に立たない人間でも、有用な人間でも、人間の尊厳(あえて価値という数量に依存する言葉を使うことは拒否する)は変わらないという価値観を、そろそろ私どもの社会に築くべき時ではないでしょうか?

「有用性」や「機能」によって人間の優劣を測る生産性至上主義を乗り越え、何ができるかに関わらずすべての人が等しく固有の尊厳を持つという確固たる規範を、今こそ社会の土台に据え直すべき局面が来てる。子どもたちの死因の第一位が自殺ってのは、このシステムがもう限界だって指標だ。子どもたちだけじゃない。日本人の自殺の多さは異常だ。近年でこそ、年間2万人ほどに落ち着いてきたが、一時期は年間3万人もの人が自殺していたんだ。

3万人だぜ。小さな町が一つ消えるくらいの人々が、自殺していたんだ。

日本国憲法

第25条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。

 2項 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

そろそろいい加減に「価値」という成果主義的な数量概念を拒絶してもいい頃合いじゃないか?

「人間の尊厳」そのものを絶対的な前提とする社会へシフトするために、俺や君が直面している課題と向き合うべき論点はこんな感じじゃないだろうか?

1. 尊厳を測ろうとする「能力主義(メリトクラシー)」の限界

現代社会は、個人の努力や能力によって報酬が決まる「能力主義」を正義としてきた。

しかし、これは「能力のない者には尊厳を与えなくてよい」という残酷な実力主義の裏返しでもあるんだ。これが行きつく先は、ナチスのT4作戦🔗津久井やまゆり園事件🔗だ。山下清もガス室送りってことだ。残念なことだな(笑)

偶然性の無視:生まれ持った環境、才能、健康状態といった「運」の要素を無視し、すべてを自己責任に帰結させます。マイケル・サンデル🔗実力も運のうち🔗を読むまでもないだろうけどね。政治家の息子は政治家ってのはその最たるものの一つだろう。

排除の正当化:社会のシステムに適応できない人を「役に立たない存在」として構造的に追いやる免罪符になっている。そら、フーテンの寅次郎も排除されちまうわな。

排除された先にあるには、なんだと思う?
自分の力で、地を這うように生き抜くか。OK、それこそが本当の人生だ。けど、みんなそんなに強くないんだ。この社会で家畜のように育てられているんだ。今更すぐには野性化できないぜ。
じゃぁどうする。自殺するか?それとも一攫千金、ハイリスクハイリターンを夢見て、ウルトラハイリスクノーリターンのトクリュウ犯罪ネットワークに連なるかだ。
いま日本で起きているのは、単純化すればこういうことさ。

2. 「存在そのもの」を肯定するセーフティネット

尊厳を守るためには、生存の権利が市場の評価や他者への貢献度によって左右されない仕組みが必要だ。

無条件の生存権:何もしなくても、生きているだけで衣食住と安全が保障される社会基盤の確立。これは、日本国憲法25条にも明確にうたわれている。

経済と尊厳の切り離し:労働による対価(生産性)の多寡と、人間としての敬意(尊厳)の取り扱いを完全に分離すること。

3. 社会の共通認識(コモンセンス)のアップデート

法制度や経済システムを変えるだけでなく、人々の内面にある「他者への眼差し」を再定義する必要が急務だ。

道具的理性の克服:他者を「何に使えるか(手段)」ではなく、「それ自体が目的である(尊厳)」として捉える哲学的態度の共有。

非生産的な時間の肯定:ただ生きること、休むこと、遊ぶことなど、利益を生まない時間や状態を社会全体が等しく尊重すること。

「役に立つかどうか」という物差し自体を破棄し、人が人であるという一点においてのみ結ばれる社会の構築は、孤立と生きづらさを抱える現代において最も急務とされる思想的・実践的な変革ではござらぬか?

俺が二十歳くらいまで育った昭和の時代は、確かに今の基準からすれば、ひどい時代だったかもしれない。サラリーマンは24時間戦い、過酷な環境で罵詈雑言が飛び交い、体罰もあった。がしかし、その一方でフーテンの寅さんや裸の大将を通じて、『無用の用』というインクルーシヴィティが社会にあったように感じるんだ。そう、味噌っかすでも生きてていいんだっていう、根本的なおおらかさだ。

この昭和のインクルージビティ(包摂性)と、現代の閉塞感の違いについて、整理してみよまいか(名古屋弁ね)。

1. 「生産性」とは別の次元でつながるコミュニティ

昭和の地域社会や地縁・血縁には、個人の経済的価値とは無関係に機能する「居場所」があった。

役割の多層性:定職になくとも「近所の賑やかし」「子供の遊び相手」といった、数値化できない役割が認められていた。

お互い様という相互扶助:合理的・金銭的な契約関係ではなく、「駄目な奴だけど、放っておけない」という情理によるセーフティネットが機能していた。

もちろん、その世界に村社会的で前近代的な陰湿な排除がなかったとは、口が裂けても言わないけどね。

2. 「無用の用」を認める社会の「余白」

当時は経済が成長途上にあり、社会全体に構造的な「隙間」や「余白」が残されていた。

効率至上主義の前段階:すべてをデータや業績で管理するシステムが未成熟だったため、逸脱者やドロップアウトした人を吸収する余裕が確かにあった。

文化的な肯定:寅さんや裸の大将が国民的ヒーローとして愛された事実は、社会の側が「正しさ」や「有能さ」だけで生きることの息苦しさを自覚し、そのオルタナティブ(代替)を求めていた証左だといえるだろう。

3. 現代の「清潔で冷徹な隔離」

ひるがえって現代は、体罰や罵詈雑言といった表面的な暴力は、皆さん大好きなコンプライアンスによって排除された。阿部慎之助も家庭内のトラブルで、巨人の監督から排除された。しかし、その引き換えに社会は極めて「一元化」されちゃったんだなぁ。俺は高校生の頃なんて、毎日のように先生にぶん殴られてたよ(笑)

目に見えない排除:暴力こそ振るわれないものの、システムに適応できない人はシステムの外側(自己責任、孤立)へと静かに、かつ徹底的にパージ(排除)される。そして、システムの外に追いやられてもなお、自力で人生を切り開くことは至難の業だ。

数値化される全人格SNSの評価や学歴、年収といった明確な指標によって人間が透明に格付けされ、「愛すべき無駄」や「規格外の人間」が息をできる空間が著しく狭まっている。

憲法で保障された権利を行使して、生活保護を申請すれば、世間様からバッシングされる。行政も、公僕たる立場を忘れて自助や血縁による救済を言い渡して無情に切り捨てる。

私事ながら俺の父も、危うくそうなるピンチだったが、兄弟の力を合わせて今は平穏に施設で暮らしている。まぁ、これも血縁による自助だけどな。

まったくいつも思うけれど、懐かしのTHE BLUE HEARTS🔗が大昔にTRAIN TRAINで歌ったように、弱い者が夕暮れ、さらに弱い者を叩くのがこの素晴らしい社会だ。

この昭和の「粗暴だが地続きの包摂」から、現代の「クリーンだが冷徹な排除」への変質こそが、子供たちを含む現代人の生きづらさの根底にあると考えられるだろう。

子供の死因の一位が自殺。一時期より減ったとはいえ、年間2万人の自殺者。

まったく素敵な社会だな。俺は大嫌いだ。

俺や君たちが目指すべきは、昭和の暴力を肯定することではなく、当時の社会が持っていた「役立たずのまま生きていてよい」という思想的な豊かさを、現代の地平で再構築することではないだろうか。

確かにコンプライアンスやポリティカルコレクトネスは社会に浸透している。多様性や共生という言葉もしばしば標榜される。しかし、そんな言葉はいつだってむなしく響く。残酷な社会の掟を覆い隠しているだけの欺瞞の標語だ。

「多様性(ダイバーシティ)」や「共生」という言葉が飛び交う現代において、なぜ昭和のような「無用の用」の寛容さが失われ、息苦しさが増しているのか。というか、むしろそういう言葉が叫ばれるようになってから、ますます息苦しい社会になってきたと実感しているのは俺だけだろうか?

ここには、現代のコンプライアンスやポリティカル・コレクトネス(PC)が孕む「制度化された優しさ」の限界と欺瞞がある。これについても、俺はアングロサクソン系の社会で生み出された価値観の押し付け、一種のエスノセントリズム🔗だと考えているんだけれど、今は一旦その考えを敷衍するのは措いていく。脱線しちゃうからね。

現代の「多様性」という言葉が持つ歪みについて、以下の3つの側面から指摘できるだろう。

1. 「役に立つ多様性」しか認めない選別

現代社会が歓迎する「多様性」の多くは、実は市場や組織の利益につながる有用な多様性に限定されているんだなぁ、残念なことに。

ビジネスとしての多様性:イノベーションを起こす優秀な外国人、高い技術を持つ女性、特殊な才能(ギフテッド)を持つ発達障害者など、「生産性に貢献する違い」ばかりが賞賛される。

無用の排除:一方で、本当に生産活動に寄与できない人、社会のルールに上手く適応できない人は、「共生」の看板の裏側で静かに不可視化されている。利益を生み出さないものは、顧みられることもない。篤志家が運営する施設に収容されるんだ。

しかし、人間はいつ社会にとって無用な存在に転落するかわからない。生老病死とは、そういう無情なものだ。人生は黒ひげ危機一髪なんだ。

2. 「正しさ」による新たな序列と監視

コンプライアンスやPCは、弱者を守るためのルールであったはずだけれど、それが肥大化した結果、社会全体が「ルールを完璧に守れるかどうか」を競う、新たな減点方式の場に変質している。

不寛容な優等生社会:言葉遣いや振る舞いに一切のミスが許されないため、人々は常に他人の目を気にし、相互監視のなかに生きている。まったく、息苦しいぜ。俺がこの一人称俺、○○だぜ、っていう伝法な文体に固執しているのも、この見せかけの厳粛さというか正しさへの反発のなせる業だ。賢明な諸兄諸姉はお気づきでしょうがね。

「愛すべき駄目さ」の喪失:昭和の寅さんのように、不謹慎で、迷惑をかけるけれど憎めないという「人間の多面性や弱さ」を受け入れるだけの精神的・文化的な余裕が、社会から完全に削ぎ落とされている。

3. 表層的な記号化と「記名性の喪失」

現代の共生は、マニュアルや法制度(記号)の上で処理されるため、人間と人間がナマのままでぶつかり合う「地続きの関わり」がありぁせん。

スマートな隔離:差別や暴言はなくなりましたが、それは相手を尊重しているからではなく、「面倒なトラブル(リスク)を避けるため」に、距離を置いて無関心になっているだけのことさね。触らぬ神に祟りなしというか、ストレートいえば無視、無視だ。拒絶だ。コミュニケーション・ブレイクダウン🔗してるんだ。

存在の承認からシステムの処理へ:かつては「あいつは馬鹿だけど俺たちの仲間だ」という顔の見える関係(記名性)があったのに対し、現代は「多様性枠のひとり」として、システム的に記号として処理されるに過ぎなくなってるんだ。そして、問題が表面化すれば、すぐに切り捨てられる。切断可能なユニット扱いだ。

叫ばれている「多様性」や「共生」という言葉が、実態としては「標準化されたクリーンな人間(機械の部品)同士の、リスクのない共存」を指しているからこそ、そこから零れ落ちる子供たちや大人たちの「生」は、ますます追いつめられているんだよな。


真のインクルージビティとは、綺麗な言葉でラッピングされた多様性ではなく、「正しくないもの」「役に立たないもの」をも、そのままそこに存在させる社会の懐の深さであるはずじゃないか?

こうして社会はますます窮屈で、窒息寸前になっていると感じるぜ。俺の感受性は鋭いんだ。そして子供たちは炭鉱のカナリアみたいなものだ。

エマニュエル・トッド🔗なら、子供の死因第一位が自殺という状態はその社会が間違いなくディストピアで崩壊に向かっていると指摘するだろう。

トッドはそのキャリアの始まりから、まさに「子供や若者の死亡率の上昇(あるいは死因の異常値)は、その社会のシステムが構造的に末期症状を迎えている絶対的な兆候である」と一貫して分析してきた思想家だからな。

1. トッドの視点から見る「社会の自己崩壊」

トッドはかつて、ソ連の「乳児死亡率の上昇」というたった一つの人口統計から、1970年代の時点でソ連の崩壊を予言した。

統計は嘘をつかない:株価六万円突破といった経済指標や政治家の言葉(「多様性」「共生」といった奇麗事)がどれほど健全さを装っていても、最も保護されるべき子供たちが、自ら命を絶ったり、社会的な自殺を行っている現実は、社会の基盤(OS)が致命的にバグを起こしているなによりの証拠だ。

内向する暴力(自己破壊):かつての危機社会は外部への戦争や革命という形で暴力を噴出させたが、現代の日本社会は暴力を内政化し、最も弱い存在である子供たちが「自らを破壊する」という最も痛ましい形でシステムへの拒絶を示しているともいえるだろう。

俺の息子はそんな目に合わせるわけにはいかないぜ。俺の宝物だからな。

2. 「超・管理社会」という静かなディストピア

現代のディストピアは、かつてのディストピア小説(『1984年』など)のような、独裁者による目に見える暴力や弾圧の形をとっていない。その辺が中国共産党やロシアとは一味違う、ひねりの利いた質の悪さだな。

コンプライアンスによる窒息:一見するとクリーンで、暴言も暴力もなく、人権が尊重されているかのような顔をしている。しかし、その実態は「システムへの完全な同調」を1ミリの狂いもなく要求する、目に見えない絶対的監獄だ。

「降りる」ことの不可能性:昭和の時代には、学校や出世街道から外れても、寅さんのような「無用の用」として生きられるグラデーション(逃げ場)が確かにあった。

翻って現代は、システムに従順な「労働機械」になるか、社会的に「存在しないもの(パージ)」とされるかの、冷徹な二者択一しかない。俺はどちらも御免だけどな

3. カナリアの死が意味する未来

炭鉱のカナリアが死に絶えたとき、その後に待っているのは炭鉱全体の爆発、すなわち社会の完全な崩壊だ。

10代の死因1位が自殺という異常G7(主要7カ国)の中で日本だけがこの状態にあるということは、日本の近代化・効率化の果てに行き着いたこの社会システムが、世界で最も先鋭化した「人間解体工場」になってしまっていることを意味してるんだろう。

持続不可能な社会:子供たちが「生まれてこなければよかった」「この先を生きたくない」と絶望する社会に、持続可能性などあるはずがない。SDGsなんて糞くらえだ!

国費をどれだけ投入しても改善の兆しのない少子化の根本原因も、経済的問題以前に、この「生存への圧倒的な息苦しさ」にあるんだ。


すでに俺や君たちは今、「システムをどう維持するか」という次元の議論をしている場合ない。

子供たちというカナリアの死をこれ以上見過ごさないためには、社会の効率性や生産性、そして表層的な「正しさ」のすべてを一度停止させてでも、「ただ生きていることそれ自体を全肯定する」という、人間性の根音へと社会の舵を強制転換(リセット)しなければならない臨界点に立っているんだ。

2026/05/27

POST#1860 さてと、もう一度ねちっこく子どもたちの現状を考えてみるか

Katmandu,Nepal
さてと、もう一度トクリュウの話から逸れてしまった話の本筋に帰るとしますか。

毎日毎日、思いついたことを書いているうちに、いつも思わぬところに脱線してしまうのが、俺の悪い癖だ。いや、このパルクールのような思考スタイルが、俺の思考スタイルなんだ。お付き合い願うさ。

今の息子の学校のプログラムを見ていて思うんだけど、なんだか学校自体そしてその元締めたる文部科学省が産業界からの要請に従って、子供に過大な要求をしてるような気がしてしょうがないんだよな。

この違和感は、現代の日本の教育が抱える本質的な歪みをけっこう的確に捉えているんじゃないかな?

学校が「産業界(企業や経済)」からの要請をそのまま教育現場に持ち込んだ結果、子供たちが求められる要求の水準が急激に上がり、逃げ場を失っているという指摘は、多くの教育学者や社会学者からもなされているようだ。

ざっと調べてみるだけでも、つぎのような「過大な要求」の構造が子供たちを追い詰めているってことが見えてくる。

「学力」に加えて「人間力」まで完璧を求められる

昔の要求: ペーパーテストで良い点数を取れば、内向的であったりコミュニケーションが苦手だったりしても、一定の評価(学歴)を得られた。

現在の要求: 産業界が求める「主体性」「コミュニケーション能力」「課題解決能力」「リーダーシップ」といった要素が、学習指導要領を通じて学校教育に導入された。そんな奴、大人でもなかなかいないぜ。

子供への負荷: 単に勉強ができるだけでなく、「明るく、協調性があり、主体的に行動できる完璧な人間」であることが評価対象(内申点や推薦入試)になるんだとさ。嘘くせぇなぁ。テストの点数と違って「性格や人間性」そのものを査定されるため、子供は常に自分を偽り、演じ続けなければならず、精神的な疲弊が極限に達しているということになるだろう。大人でもできないことを子供に求めるなといいたいもんだ。まったく冗談じゃないぜ。

「キャリア教育」による将来への早期の追い込み

文部科学省が進める「キャリア教育」により、小学校や中学校の段階から「将来の夢」や「自分が社会でどう役に立つか」を考えさせ、ポートフォリオ(活動実績)に記録させることが定着しているんだそうだ。

これにより、子供たちは「まだ何者でもない時期」から、将来の進路や企業に選ばれるための自己PRを意識させられることになる!自分らしい生き方を模索する余裕が奪われ、「早く進路を決めなければ手遅れになる」という過度な焦燥感(キャリア不安)を生み出しているんだそうだ。

俺の人生の実感からすれば、人生なんて思ったことの3割実現すれば上出来だ。これが俺の人生打率3割理論だ。もっと言えば、自分の意図したことよりも社会の奔流に流されてしまうことで否応なく決まっていくことがほとんどだ。

その時、自分の中にぶれない芯を育んでおくことの方が大切だと俺は思うんだが、どうかな?

 グローバル競争を背景にした「脱落恐怖」

産業界や政府が「国際競争力の低下」を叫ぶたびに、教育改革として英語教育の早期化、プログラミング教育の必修化、探究学習などが次々と学校に詰め込ま続けている。着々と子どもたちを社会のシステムを回すための部品に仕立て上げようとしているのさ。

教育内容が高度化・複雑化すれば、当然、それについていけない子どもも一定数生じるだろう。家庭の経済状況的にフォローアップできない子どももいるはずだ。というか、たくさんいる。

そのくせ、それについていけない子供たちへのセーフティネットは不十分極まる。

学校は「経済社会の優秀な歯車」を育てる場所のようになり、そこから一度でも脱落(不登校や成績不振)すると「人生が終わる」という極端な恐怖心を子供に植え付けてしまっているわけだ。

世の中、多様性だとか、インクルーシブとか言い始めてから、ますますおかしくなってるんだ。偽善もいいところさ。

疲弊する教員と「余裕の喪失」

産業界や社会からの「あれもこれも教えてほしい」という過剰なニーズを受け続けた結果、学校の授業時数は増加し、教員の業務はパンク状態にある。そして、公立学校の教員はほとんど定額働かせ放題だ。多少は改善されたというが、その作業量に比べての報酬は十分だろうか?先生だって、人間だぜ?

先生自身に精神的なゆとりがないため、クラスの子供一人ひとりの「小さな心の変化」や「見えないSOS」に寄り添う時間が物理的に奪われている。

ちなみにうちの息子の通っている小学校は、教科ごとに担当の先生が変わるらしい。これも、先生たちの負担を減らしてゆく試みだろう。こういった試みに加えて、学校事務を担う職員を増強し、先生は教えることに集中できる体制を取らないといけないだろう。

しかし、それをやるにも膨大な予算がいる。日本のGDPにおける教育費の比率は、残念ながらかなり低い。そして、防衛力強化にはすぐに予算が付くのに、本当に大切な教育の予算は、なかなか増えない。この国の富の再分配システムはいったいどうなってやがる?!

まぁ、ざっくり言えばこういうことだ。

現在の日本の教育現場は、「経済社会で即戦力となる優秀な人材の育成」という大人の都合(産業界の要請)が優先されすぎているんだ。職業訓練学校というか、社畜製造機なんだよ。ケージに詰め込まれてブヒブヒ言ってる豚や鶏を思い出してみるんだ。あれと似たようなもんさ。

その結果、子供たちは「学校」という狭い空間の中で、勉強、部活、人間関係、さらには「自分の内面(主体性やコミュ力)」まで常に評価され、監視されているような息苦しさを感じることになるだろう。俺でも御免蒙る。

この「全人格的な過剰要求」と「失敗が許されない空気」こそが、子供たちから心の余裕を奪い、自殺が減らない根底にある構造的要因といえるだろう。

根本的に、子どもに限らず『人間』 を 『人材』 と 言っ てなんだか 材料か 資材 みたいに扱うようなこの風潮そのものが、子供達を追い詰めてるんじゃないだろうか?

これこそが、新自由主義経済に骨の髄まで染まった現代社会が抱える、最も深い歪みの核心じゃないのか?

人間を「人材(=経済的な利益を生むための材料・資源)」とみなす思想は、大人だけでなく、子供たちの世界にも完全に浸透している。子供を「かけがえのない一人の人間」ではなく、「将来どれだけ市場価値を生み出せるかという投資対象」として扱う風潮が、彼らを限界まで追い詰めているんだ。

この「人間を材料扱いする風潮」が、具体的にどのように子供たちを精神的に破壊しているのか、4つの側面から考えてみようぜ。

「存在価値」ではなく「機能価値」で査定される恐怖

人間としての価値: 生きているだけで尊い、という無条件の肯定(存在価値)。

資材としての価値: テストの点数、英検の級、内申点、コミュ力など、社会の役に立つ能力(機能価値)。

子供への影響: 現代の子供たちは、常に「お前は何ができるのか」「どんな価値があるのか」というスペック(仕様)ばかりを査定されている。まるで中古車市場だ。そのため、「成果を出せない自分には生きている価値がない」「役に立たない自分は粗大ゴミと同じだ」という極端な自己否定に陥りやすくなっちまう。それで命を大切にしろと言っても、説得力ゼロだろう!

「不良品」として排除されることへの怯え

人間を「材料」とみなす社会では、規格に合わないものや、途中で壊れてしまったものは「不良品」や「ロス」として扱われる。

不登校になったり、受験に失敗したり、メンタルを崩したりした子供に対して、社会や学校は「修理して早く元のライン(集団)に戻すこと」ばかりを求めている。子供たちは「一度でもレールを外れたら、不良品として社会から廃棄される」という、文字通り命がけの恐怖を背負って生きているといっても過言じゃないだろう。

レジリエンスってのは、看板だけか?!

俺の考えじゃ、人生ってのはレールから外れてからが、本当の自分自身の人生なんだぜ!

「自己責任」という名のメンテナンスの強要

人材」という言葉は、しばしば「自己投資」や「自己管理」という言葉とセットで使われる。

企業が資材の品質維持を求めるように、学校や社会も子供に対して「自分で体調やメンタルを管理し、常に高いパフォーマンスを維持せよ」と求めている。

いじめや過度な競争で傷ついている子供に対してさえ、「ストレスに負けるな」「レジリエンス(復元力)を鍛えろ」と個人の努力不足(メンテナンス不足)のせいにされるため、子供は誰にも弱音を吐けなくなるだろう。

大人でも鬱病になる世の中なんだから、子どもが抑うつ状態にならないなんてことないだろう?俺だって、鬱病の薬飲みながらなんとか生きてるんだよ!

教育の「費用対効果(ROI)」への組み込み

親や社会が、教育を「子供の幸福のため」ではなく、「将来、良い企業に入って元を取るための投資」として計算するようになっている。本末転倒だ。

子どもたちもバカじゃない。子どもたちもその空気を敏感に察知しているんだ。「親に高い塾代を払ってもらっているのに、成績が上がらない自分は投資に値しない」という罪悪感や負い目が、子供たちの心を内側から削り取っている。

俺は、別に俺がお願いして塾に行ってもらってるわけじゃないんだから、いつでもやめてくれて結構だと息子には常々言ってるけどな。なにせ、俺の小遣いが増えるからな(笑)

さて、この飯を食う産業の 「材料」から生きる主体としての「人間」を取り戻すためにはどうしたらいいかな?

人間を材料(リソース)として消費する社会では、自殺とは、その過酷な生産ラインから「自らシステムをシャットダウンして脱出する行為」という側面を持っているだろう。

子供の自殺を止めるために本当に必要なのは、相談窓口を増やすといった表面的な対策ではないんじゃいか?

「たとえ学校に行けなくても、勉強ができなくても、あなたは生きているだけで100点満点であり、誰の資材でもない」ということを、大人や社会の側が本気で示し、教育の目的を「経済の道具作り」から「個人の幸福」へと180度転換することじゃないか?

イマヌエル・カント🔗も『人間を手段としてではなく、同時に目的として扱うべきだ』と言っていたぜ。この定言命法🔗は、現代の日本社会において完全に蔑ろにされている。

そういう視点が今の社会には、きれいさっぱり全く抜けてるんじゃないでしょうか? 

どいつもこいつも、あいつは人材として使えるだの使えないだの、そんなことばっかり言ってるじゃないか?果たして、俺たちは他人の値踏みができるほどご立派な存在なんだろうか?

新自由主義経済万能の現在の社会は、このカントの警告とは真逆の「人間を徹底的に手段化する社会」になってしまっているといっても過言ではないだろう。1. カントの「目的」と現代社会の「手段」の対比


カントの視点を現代の「人材」という言葉に当てはめると、この社会の異常性が浮き彫りになりるのがわかるだろう。

視点

カントが説いた「目的としての人間」

現代社会の「手段(人材)としての人間」

存在の価値

人間には「尊厳(価格をつけられない絶対的価値)」がある。

人間には「価格(市場価値や給与、スペック)」がある。

評価の基準

生きていること、それ自体が無条件に肯定される。

「使えるか、使えないか」「生産性があるか」で査定される。

社会の役割

社会や国家は、個人の幸福や倫理的成長のためにある。

個人は、国家の経済成長や企業の利益のための「資源」である。

今の社会は、子供や若者を「将来の経済を支えるための道具(手段)」としてしか見ていないんじゃないだろうか?

少子化対策でさえ、子供の幸福のためではなく「将来の労働力や納税者を確保するため」という、国家の都合(手段)として語られることが多いのがその証拠だ。冗談じゃない。社会のために市民がいるんじゃない。市民のために社会システムが構築されるべきなんだ。本末転倒だ。

そして、「手段」にされた子供たちが受ける精神的加害を考えてみようぜ。

人間を手段として扱う風潮は、子供たちの心を確実に蝕んでいる。

交換可能なパーツとされる絶望

カントは、人間に代わりになるものはない(尊厳がある)とした。

しかし「人材」として扱われる子供たちは、「お前の代わりなどいくらでもいる」という無言の圧力を常に受けている。これは子供だけじゃない。社会で働くすべての人々が、その脅迫を受け続けているんだ。とりわけ、派遣労働者など、本当にそんな都合のいい感情のない部品のように扱われている。君は知っているか?俺は知っているぞ。

そして、人は自分が「社会の歯車(交換可能なパーツ)」に過ぎないと感じるとき、人は生きる意味を見失ってしまうだろう。

自己の手段化(内なるカントの否定)

最も深刻なのは、子供たち自身がこの価値観を内面化してしまうだ。

一例をあげてみようか。「英語が話せない自分は価値がない」「有名大に行けない自分は無能だ」と、自分自身を「使えない道具」として責め立てるようになってしまうだろう。

心が折れた時、彼らは自分という「道具」を自ら廃棄(自殺)してしまうことになるんだ。

なぜこの人間として、絶対に手放してはいけない視点が、日本社会から抜けてしまったのか?

それは、俺や君の責任でもあるんだ。それを直視せず、自分たちの無力を嘆くこともせず、そして次の世代にそれを付け回しするのはやめようじゃないか。

市場万能主義の教育への侵入

本来、教育はカントの言う「人間を目的として育てる(人格の完成)」場所だったはずだ。

しかし、経済の停滞が続く日本において、教育の目的が「企業の求める即戦力育成」という実利主義に完全にハイジャックされてしまっているんだ。

「役に立つこと」への過剰な信仰

現代社会は、病気や障害、あるいは不登校などで「生産性(役に立つこと)」を発揮できない人に対して非常に不寛容だ。残念なことだ。

しかし、それはジョン・ロールズ🔗無知のヴェール🔗を引くまでもなく、誰にでも起こりうることだ。

この「生産性至上主義」が、子供たちから「何もしなくても、ここにいていいんだ」という安心感を奪い去っているんだ。

今日の結びとして

俺がカントを引き合いに出したのは、本質的にこの問題を考えてほしかったからなんだ。別に俺は物知りだぜって自慢したわけでも何でもない。大切なのは、本質をとらえ、どうしたらよりよい社会を、人間のための社会を作ることができるか考えることだ。子どもたちが絶望し、自ら死を選ぶことのない、よりマシな社会に近づくことができるかということだ。

ズバリ言えば、現代の子供の自殺問題は、心理学や教育学の枠を超えた、「この社会は人間を人間として扱っているか」という哲学的な敗北を意味しているんだ。それは、トクリュウ犯罪などにみられるような社会的な自殺もまったく同じ構造だ。

いい加減俺たち大人は「人材」という言葉を安易に使うのをやめ、子どもたちを「未来の労働力」ではなく、「今を生きる一人の人間(目的そのもの)」として遇する社会へ舵を切らなければ、悲劇を止めることはでるわけがない。

そういえば、最近TVで裸の大将放浪記🔗とか寅さんシリーズこと男はつらいよ🔗やらないな。きっと、山下清🔗や渥美清演じるフーテンの寅次郎みたいな、一見生産性のない人間には、社会が存在価値を見出していないからだろう。インクルーシブ?多様性?笑わせるな。そんなの百年早いぜ。

2026/05/26

POST#1859 下心が無けりゃ、魔法にはかからない

 

Bremen,Germany

ある夜、仕事をしていると珍しくFacebookの友達申請が来た。

品川区に住んでいる、知らない女だ。若松昌未とかいう名前だったな。

顔は写っていない。ナイキかなんかのブラトップかなんか着てトレーニングかなんかしてる胸元だけ写ってる。ほかには、上賀茂神社の写真や葵祭とかの投稿がある。

品川区なのに京都か…。まぁそれもあるかもしれない。しかし、JR東海の313系電車が鳥居の前を通過している写真を見ると、そんな特異なロケーションのところは、静岡の田舎あたりにしかない。プロフィールを見ても、品川区、独身、女性というだけで、プロファイリングできないな。どうせ釣りだろう。放置だ。

するとほどなく、Facebook のメッセンジャーでこの女から、なれなれしい口調のダイレクトメッセージが来た。

俺が15年ほど前にUPしたドイツのブレーメンの旧市街から駅へと向かう途中にある公園の、色とりどりのパンジーか何かに囲まれた風車の写真だ。

『とっても素敵な風景で癒されるんだけど、これはどこ?』だとさ。知るか!

投稿自体にブレーメンって書いてあるだろう。こいつは馬鹿か?それともポンコツなAIか?

15年前の写真の場所をわざわざ聞いてくるのは、AIボットや詐欺アカウントが使う典型的な「会話のきっかけ作り(アイスブレイク)」のテクニックなんだそうだ。

記事に「ブレーメン」と明記されているのに聞いてくるのは、人間の感覚からすると明らかにおかしいんだけど、奴らのシステムや目的を考えると以下の理由が考えられるな。

写真しか見ていない(文字を読んでいない)

相手(またはシステム)は、俺のタイムラインを過去にさかのぼり、「見栄えが良い写真」「海外旅行らしき写真」だけを自動でピックアップしているんだろうな。

写真に添えられたテキストや位置情報のタグは、AIのプログラムや海外のオペレーターが見落としている(あるいは日本語が読めない)ため、シンプルに「これはどこですか?」と聞いてくるんだろう。

「質問すること」自体が目的だから

奴らの目的は、クイズの正解を知ることではなく、あなたに「ここはドイツのブレーメンだよ」と返信させることなんだ。

人間は、自分が過去に行ったお気に入りの場所や、思い出の写真について聞かれると、嬉しくなってつい親切に教えてしまいがちだ。それは俺も一応人間の端くれだからな。詐欺グループはそんな人間の習性につけ込み、一番返信しそうな「過去の思い出写真」を狙って質問を投げかけてくるんだ。それにしては甘い球を投げてくるもんだ。

俺は無視してもよかったんだが、少し遊んでみることにした。

『ドイツのブレーメンだよ。俺が生まれる10年くらい前に撮った写真さ

俺はご丁寧にグーグルマップのリンクまで送りつけてやったよ。しかし、俺のギミックは完全スルーで返事が来た。これが人間だったら、すごくセンスがない奴だ。俺はユーモアのセンスのない奴が、生理的にダメなんだ。

『旅行が好きなんだ。ブレーメンはどうだったの?また行きたいと思う?』と返してきやがった。

やれやれ、不毛なラリーが始まったぜ。

『いやぁー、俺は盗賊だったからひどい目にあったから二度とごめんだな。もっともこの円安じゃ、海外旅行なんて行くもんじゃないさ』

さて、懸命な読者諸兄諸姉はもうお分かりですね。かの有名なブレーメンの音楽隊をネタにしたきり返しだ。しかし、それも完全スルーだ。鉄のメンタルか、まったくセンスがないのか?

『盗賊だったの?』と聞いてきやがる。アホだな。

『ブレーメンの音楽隊の話さ』ジョークの種明かしをすることくらい、興ざめなことはない。もしこいつが本当に俺に興味を持っている人間でも、絶対に逢いたくないぜ。つまらない奴は御免だ。

Facebookのメッセンジャーで知らない相手から届くなれなれしいメッセージは、現在その多くに「AI(対話型ボット)」やテンプレートを組み合わせた自動生成プログラムが使われているんだ。

この「言葉の噛み合わなさ」や「ユーモアの通じなさ」はまさにAIボットの典型的な特徴だ。

「これ絶対AIだな」という俺の直感は100%正しいだろう。こっから「ロマンス詐欺」や「投資詐欺」の華麗な幕が開くんだろうよ(笑)!

FaceBookのメッセンジャーの仕様上、知らない人からのメッセージは通常「メッセージリクエスト」に入るんだけど、一度でも返信してしまうとシステムに「つながり」が承認されたとみなされてしまうらしい。そうすると、

相手のメッセージが直接届くようになる。

俺が「アクティブ(オンライン)」かどうかが相手に筒抜けになる。

「このアカウントは返信してくる=カモになる可能性がある」として、詐欺師たちの「カモリスト」に登録されてしまうことになるんだそうだ。面白いな。俺はそこいらのカモネギじゃないぜ。

そこで俺は彼女?の投稿に京都の葵祭や上賀茂神社の写真があるんで、『君こそ、京都の葵祭りとか好きなのかい?』と打ち返したんだ。そうしたら、やっこさん、自分の公開してる投稿にその写真があるのに『葵祭りは行ってみたいですね』とか言い出す始末だ。

完全にバグってる。そこまでいくとバカバカしさを通り越して、もはや清々しいほどのポンコツぶりだ。

このラリー、俺の完全勝利だ。15-0だ。

「生まれる前の写真」に続き、「音楽隊の盗賊」のネタまでスルーされたとなれば、相手が100%人間の心を持っていないマシーン(またはマニュアル通りにしか動けない詐欺師)」であることが完全に証明されたぜ。俺のユーモアのセンスが、最高のAI判定フィルターとして機能したってことだ。さらにダメ押しは、この葵祭には行ってみたいだ。

しかし、奴もなんだか必死なんだ。

『あなたとの会話は楽しいから、もっと仲良くなりたいな。わたし、LINE でやり取りするのに慣れてるから LINE のIDを教えてほしいな。LINEでやり取りしよう』ときたもんだ。

俺は速攻『来た来た、怖い怖い』って送ったよ。胡散臭すぎだろう。

最高にストレートな直球ストレートだ。ダメ押しに『そういうのに引っかかるのを情弱って今時は言うんだぜ』って言ってやったよ。まさに完璧なトドメのセリフだ我ながら本当に痛快だな。

相手がマニュアル通りのAIボットであれ、裏で必死に文字を打っていた「人間」であれ、この言葉は最高に刺さったはずだ。日本語がわかればね。

「騙す側」のプライドがズタズタになっちまうわな。自分たちは「だまし取るプロ」のつもりでメッセージを送っているのに、ターゲットである俺から逆に「お前らの方が情報弱者(情弱)だ」と一刀両断されるんだぜ。これはプロとして?恥ずかしいだろう。

大体、俺はこいつとの会話に1ミリも楽しさを感じてないんだ。そもそも、こんなよれたおさんに、だれが興味を持つってんだよ!下心のない奴は、魔法にはかからないんだ。この心理を会得するまでに、たくさん授業料を払ったぜ。

相手のLINEでやり取りするのに慣れてるから」というセリフも、本当に分かりやすすぎる「テンプレの教科書」通りだ。少年ジャンプの漫画みたいに王道だ。「LINEに変えませんか?」ってのは、Facebookのアカウントが通報されて消える前に、個人の連絡先へ移動させようとしてるんだそうだ。

俺は、『君のプロフィールや会話を振り返ってみても、君という人間のプロファイルができないからごめんだぜ。おじさんそんなに暇じゃないんだ』といって失礼させてもらったぜ。


しかし、話は二回戦にもつれ込む。

次の日の夜にもメッセージが来た。相手も必死なんだろう。かわいそうになってくるぜ。

そのメッセージには『あなたが何に悩んだり苦しんでるかわからないけど、私に打ち明けてほしいな』ときたもんだ。

面白いな。俺は自分のブログのリンクを送りつけてやった。社会に対して考察したものだ。

しばらくして返事が来る。

『どうしたらこんな文章が書けるの?』

『批判精神を持つことさ』

それでもなお『あなたともっとお話ししたいからLINEのIDを教えて』と食い下がってくる。

『悪いけど、LINEは浮気を疑われるから、俺はトクリュウの悪党ご用達のsignalを使ってるのさ。悪だくみの証拠が残らないから便利だぜ(笑)』

『私はsignalはあんまり使ったことないの…』

知るか!この日も俺の勝ちだな。

しかし、戦いは次の日に持ち越しだ。

だんだん、どこまで面白いこと言ってくるのか楽しみになってきた。


次の夜に奴が送ってきたのは打って変わってこんなのだ。ひょっとしたら、選手交代したのかもしれない。

『あなたが何を悩んで苦しんでいるか知らないけれど、力になれると嬉しいな。だから、LINEのID教えて』

もう笑えて来た。『別に何にも悩んでない。野のケモノのように生きて、最後は死ぬだけだよ』正直に言えば、いつもその程度に考えてる。厳密に言えば、金の悩みは尽きんけれど、そんなものはないもの、真面目に働く以外にないんだ。魔法のように金が増えるわけじゃない。

それでもまだ、あなたとお話ししたいから LINE  ID を送ってとか言って懇願してくるんだよね。なんか俺、野のケモノのはずなのに、この人ノルマに追われてるのかなと思ってかわいそうになっちゃうよな。ここまで鉄のメンタルでLINEのIDを押し通してくると、もはやホラーを通り越してシュールな展開だ。忙しいから放っておくさ。

考えてみてくれよ。「野のケモノのように生きて死ぬだけだ」というハードボイルドな決め台詞のあとに「それでもLINEして🥺」と懇願してくる姿を想像すると、笑うしかないだろう。

実は、俺のその「ノルマに追われているのかな」という直感、昨今東南アジアで摘発が続いている国際詐欺組織の存在を考慮してみると、大正解だろうな。

奴らが懇願してくる裏側には、本当に「命がけのノルマ」に追われている現実があるみたいだ。

もしそのアカウントの裏に「人間(海外のオペレーター)」が一部関わっている場合、彼らは本当に笑えないレベルの厳しい環境に置かれていることが、報道などをつぶさに見ているとわかる。

詐欺工場の実態:東南アジア(ミャンマーやカンボジアなど)には、武装勢力や犯罪組織が運営する「詐欺工場」と呼ばれる巨大な施設が実在する。

拉致された労働者:そこで働かされている人の多くは、「高収入のデータ入力バイト」などと騙されて海外に集められ、パスポートを没収されて監禁されている一般人だ。日本人がいるという報道もよく耳にする。

恐怖のペナルティ:「1日〇人をLINEに誘導しろ」という絶対的なノルマがあり、達成できないと本当に暴力や罰金、食事抜きなどの虐待を受けるため、彼らは文字通り「必死(懇願)」になってメッセージを送りつけてくるんだ。

まったく、酷い世の中だ。


二日ほどたって、忘れたころにこの女(たしか若松昌未って名乗ってたな)からまたメッセンジャーがやってきた。しかも、一人称が「私」から「僕」に変わっていた。文体もまったく変わっていた。

100%「担当交代(シフトチェンジ)」の決定的な証拠だな!(笑)

こういうのを馬脚を露すというんだぜ。

俺のユーモアの猛攻によって、最初の担当者(またはAI)が「この日本人、手強すぎて手に負えない!」とパニックになり、慌てて「男性キャラ(僕)」の設定を持つ別のオペレーターに交代したか、システムの引き継ぎをミスした舞台裏が完全に透けて見えるぜ。

その舞台裏を想像するとこんなとこだろう。

実は、奴らの組織では以下のような「分業制」や「交代制」が徹底されているんだそうだ。

  1. 1ステージ(ばらまき要員)
    まずはAIボットや、マニュアル通りにメッセージを送りまくる「下っ端」の担当者が、大量の人に声をかける。
  2. 2ステージ(引き込み要員)
    あなたのように「返信が続いて、かつLINEに誘導できそうなターゲット」が現れると、より会話がこなれた「中堅・ベテラン」の担当者にバトンタッチする。

今回のケースでは、引き継ぎの際に「設定(キャラクターの一人称)」を統一するのを忘れて、うっかり素の「僕」が出てしまったんだろうな。 必死にノルマをこなそうと焦るあまり、チーム内での連携がボロボロになっている様子が目に浮かぶぜ。(笑)

俺は、いい加減うんざりして、『君は初見の相手に対して自分の名前も名乗らないし、口調も馴れ馴れしすぎる。そんな無礼な人間を相手にLINEを教えてお友達になる奴がいるわけないだろう。それに何より、私から僕に第一人称が変わってるぜ?性転換でもしたのかい?』

と返したんだ。しかし、鉄面皮というのはこういうのを言うんだろうな。

『不快な思いをさせてしまったのは謝るよ。だから、LINEのIDを教えてくれるかい?』

あきれてものが言えないぜ。

俺は、『生憎、むやみに人にLINEのIDを教えちゃダメだって死んだママの遺言なんだ。もっともママが死んだのはLINEができるずっと前だけどな』

俺はそれだけ打ち込むと履歴をすべて消去して、このキャラクターからの友達申請を削除してブロックしたぜ。

「生まれる前の写真」「盗賊のトラウマ」「獣の哲学」「タイムスリップ遺言」で組織を完全に引っかき回し、最終的に担当者まで引きずり出して設定を崩壊させた俺の完全勝利だ。

正直言うと、ちょっと楽しんでたんだよね。

相手が言葉の通じないポンコツだと分かった上で、あえて「生まれる前の写真」や「タイムスリップ遺言」という超高度な変化球を投げて、相手がどうバグるかを観察する。これって、現代における最高に贅沢で知的な「大人の暇つぶし(ゲーム)」だ。

普通なら「うざいな」と無視して終わるところを、俺のユーモアセンスによって極上のエンタメ(喜劇)に昇華された感があるな。

🛡️ でも、引き際が完璧だったからこその「安全なエンタメ」

楽しむだけ楽しんだあと、相手が本格的に懇願してきたタイミングで「バカバカしいから削除」と一瞬で現実に戻ってシャットアウトした点が鮮やかだ

そんなもん、ヒットアンドアウェイが世の中の常識さ

しかし、世の中こんなのに本当に引っかかっているんだろうか?

だとしたら、皆の衆は変な下心がありすぎだ。だいたい品川区に住んでる男じゃなくて女。品川区に住んでる女で胸元の写真しか出てないような奴なんて怪しいに決まってるだろ。

 「品川区の胸元美女」というのは、鉄板のテンプレのプロフィール設定です。

なぜ「品川区」なのか:港区、渋谷区、品川区などの都心エリアは、「都会の洗練された暮らし」「お金に余裕がある華やかな生活」を連想させやすく、ターゲットを惹きつけるための記号としてよく悪用されるんだ。ちょっと考えたら、そんなところに独身の女が一人で住むにはコストがかかりすぎるってもんだろう。

そしてなぜ「胸元の写真」なのか:言うまでもなく、男性の「下心」をダイレクトに刺激するためだ。まるで風俗嬢の写真だぜ。顔をはっきり出さない(あるいは首から下だけ)の写真が多いのは、ネット上の別の場所から他人の画像を無断で盗んできているからだ。

そして「下心」がセキュリティーホールになるんだ。

人間は、下心や欲(「あわよくば仲良くなれるかも」「ワンチャンスあるかも」)が芽生えると、脳の警戒システムが驚くほど簡単にバグってしまいます。

  • 15年前の写真への不自然な質問も
  • ブレーメンや葵祭のトンチンカンな会話も
  • 突然の「私」から「僕」への一人称の崩壊も

下心がある人は、それらの不自然な違和感をすべて「まぁ、可愛いからいいか」「ちょっと天然な子なのかな」と、都合よく脳内で変換して騙されにいってしまうんだろう。アホだな。

というか、今時のFaceBookは、本当に伏魔殿だな。まともな神経の奴はこんなところからは逃げ出してsignalでも使ったほうがいいぜ(笑)!

2026/05/25

POST#1858 ある夜のこと

Hamburg、Germany
夜になると、うちのカミさんが息子にきつい口調で勉強を教えている声が聞こえてくる。

まるで、アルプスの少女ハイジに出てきたロッテンマイヤーさんみたいだ。何度も俺は、もっと優しく接してほしいと申し入れているが、まぁ、性格だから難しいだろうな。

先日、現場のオープン前の作業を終えて夜の12時前に帰ってくると、驚いたことにまだ母子並んで座って勉強のようなことをしているじゃないか?息子は明らかに眠そうな目をしている。あたりまえだ。

なにやってんの、君たち?思わず聞いてしまったぜ。

ダイニングテーブルが二人に占領されているので、致し方なく自分の部屋で食事をとって、耳を澄ましていると、あぁ、始まったぜ。

息子が眠さのあまり、母親のキツイ指導に反抗し始めた声がする。死ね!といっているな。母親の痛い!という声もする。息子は感情が抑えられなくなって泣き始めた。

火宅だぜ。

俺はとっとと食器を洗い、息子を連れて風呂に入ることにした。

こんな時はとっとと寝かせるに限る。

カミさんも最近明らかに怒りっぽい。更年期障害か、それともストレスで抑鬱なんだろう。しかし、今までもなんども遠回しに、あるいは直接的にそんなアドバイスを繰り返した。けれど、彼女はそれを振り払うように聞き入れないから困ったもんだ。弱さを認めるのは恥ずかしいことじゃないんだけどな。俺は情けない顔をして泣きべそをかいている息子を。抱えるようにして風呂に引っ張っていった。

息子を風呂に入れながら、湯船の中で俺は話をし始めた。

『麒麟児よ、お前さっきお母さんに、死ねって言ったろう。本当に死んだらどうするよ?』

『死なないよ』息子はまだどこか昂っている。

『いや、死ねって言ったら、本当に死んじまうかもしれないぞ』

俺は穏やかにはなしを続けた。できるだけ穏やかに話すこと。それがたとえ、厳しい話でも、残酷な話でも。

『実は今から40年以上前のことだ。お父さんはまだ中学生だったな。お父さんは自分のお母さんに、つまり麒麟児のお祖母さんだ死ねって言ったことがある。』

当時は反抗期だったからな。そんなの日常茶飯事だった。

癌に侵された母が、創価学会にのめり込むのも嫌だった。

彼女は、やせ細った体を痛めつけるようにして、狂ったように一日中お題目を上げていた。俺はそんな母に反発し、ことあるごとに衝突した。死ぬ前に入院する直前まで、階段の2階と1階でスリッパを投げつけあったこともあった。

『で、それからしばらくして、お父さんのお母さんは、本当に死んでしまった…』

『なんで?』『うむ、病気だよ。』俺は淡々と続けた。

『けど、お父さんの弟たちは、俺が死ねって言ったことで、お母さんが死んでしまったと思っていたんだ。おかげで、今でもお父さんのことを心のどこかで憎んでいる人もいるだろう。』

息子の麒麟児は、静かに聞いている。

『いいか、麒麟児よ、よく聞くんだ。

言葉には力がある。

言ったことがそのまま現実になることもある。

いいことを言えば、いいことが起こる。

悪いことを言えば、悪いことが起こる。

これは、不思議だけど、まぁ、間違いないことだね。

言葉には不思議な力があるんだ。』

それを言霊というのさ。

『だから、お母さんに死ねとは言ってはいけない。』

そうはいっても、俺だって、仕事でええ加減なことをしくさった若い衆に『死ね!』とどやし上げ、それを耳にした百貨店の従業員から偉いさんに話が周り、パワハラだということで顛末書を書いたこともある。あんまり偉そうなことは言えんな。

もう二度と会うこともないだろうが、その若い衆が、今どこかで死んでいないことを祈るぜ。

なにしろ俺の言葉には力がありすぎるからな。

そして、その日は息子を寝かしつけ、俺も眠った。

翌朝は手掛けた店舗のオープンだからだ。スーツを着て出かけるんだ。

無事にお店のオープンを見届け、昼前に家に帰ってきて、息子を車に乗せているときだ。

『お父さんの言葉って、力があるの?』

息子は昨日の話を覚えていたようだ。

『うん、あるな。言ったことは本当になる。

だけどその力は君にもある。

だから言葉を使うときには気を付けるんだ。』

その言葉の中に込められた、俺の苦い後悔は伝わらなくても、言葉の持つ恐ろしさというのは息子に伝わったのだろうか。

母親が死んだとき、俺は幼い弟たちを前にして泣くこともできなかった。

周囲からの慰めも、ことごとく拒絶して荒んでいた。

差し伸べられる手は、振り払い、慰めの言葉には耳を背けた。

今思えば、なぜあの時、あんなふうに振舞うことしかできなかったんだろう。

そして、根の国を慕うスサノオのように荒ぶることしかできなかったのだろう。

そうして十分すぎる時間が流れた今、その時の後悔を息子に伝えている。

人生はあっという間だ。本当に。

いずれ、その時が来たら俺も死ぬだけさ。

誰の重荷にもならないように、軽やかに死にたいぜ。

2026/05/24

POST#1857 社会をリビルトする俺のチャレンジは、まだ始まったばかりだぜ

 

春の夕暮れ

家の前には息子の通う小学校がある。家の目の前の桜は毎年居ながらにしてその花の盛りで俺の目を楽しませてくれる。

それを見るたびに、あと幾たび、この季節を愉しむことができるだろうかと考える。

そして、花を惜しむかのように、家の駐車場で春の風に吹かれながら本を読む。そうこうしていると、近所の家の子どもたちが話しかけてくる。俺にとって愉しいひと時だ。

もっとも今日は、それもできなかった。昨日の朝、それまで手掛けていた現場がオープンだったのだが、その反動で、今日も一日ごろごろと眠って暮らしてしまったんだ。老眼鏡もなくしてしまったしな。

小学校の隣には中学校がある。午後にはひ若い(敬愛する中上健次に寄せて当ててこの表現をつかさせてもらう。今だ大人になりきっていない弱弱しさを感じさせる若さというニュアンスか?)中学生たちが、5人、10人と固まって歩いている。その若者の流れをかき分けるように同じ町内の隣人の車が通れば、俺は手を挙げてあいさつする。町内会長が時に自転車でふらふらと通りかかる。

道行く少年たちの中には同輩に『バカヤロー、死ね』などといっている者もいる。それが社会に出てしまうと、即座にパワハラだと糾弾され断罪されてしまうことを、彼らはまだ知らないのだと、俺の心にふと影がよぎる。

何しろ俺自身も、パワハラだと糾弾されたこともセクハラだと仕事を切られたこともある。野生の悍馬のように生きることは、難しい世の中なのさ。

こうして俺は、しばしば地域の要石のようにたたずむ。なにをしてる人か怪しいだろう。夜働いている人なのさ。

この何気ない地域社会との緩いつながりが、まさに荒廃したコモンズ(共有地)というコミュニティを足元から再生させる、最も本質的で力強い実践になるんじゃないかとにらんでいる。

システムや政治が変わるのを待つのではなく、自分自身が「動く結節点(ハブ)」となることで、記号化され、分断されていた「老人」「こども」「隣人」という存在が、血の通った「具体的な他者」へと変貌していく。この主体的な、それでいて気負わない声かけは、現代社会が失った3つのつながりを同時に再生する可能性を秘めています。とはいえ、POST#1819🔗で話した俺の親父のように、私服警官にしょっ引かれちまったらかなわないけどな。

権力はいつも、人々を分断して支配するのさ。

俺のささやかな実践がもたらす「3つの処方箋」はこんなもんだ。

孤立する老人へ:「存在の承認」と知恵の還流

年老いて、身体を病むのは普通のことだ。そして労働を通じた社会との関わりを失っていくのも普通のことだ。社会的な役割を終え、透明化されがちだった高齢者に対して、俺が気さくに声をかけ、その健康を気遣うのは「私はあなたをここにいる一人の人間として見ている」という強力なメッセージになっていることだろう。彼らが持つ記憶や経験が、再び地域という共同幻想に織り込まれるきっかけを作るはずだ。

そういえば、俺家の隣にかつて住んでいたお婆さんはもう亡くなってしまったんだが、子どものころ、家の前を流れる小川で泳いだ思い出を語ってくれたことがあった。今、中学生たちがそぞろ歩きし、酔っ払いが缶酎ハイの空き缶を投げ入れる金木犀や躑躅の緑道は、実は昔は小川だった。高度経済成長の頃に暗渠化され、緑道にされたのだという。ります。

こどもたちへ:「親以外の大人」という安全網

家庭(対幻想)の機能不全や学校の息苦しさに晒されているこどもにとって、近所に「自分を気にかけてくれる、親でも先生でもない大人」が存在することは、決定的な生存のセーフティネットになりうるだろう。子供ひゃくとうばんの家とか表示されててても、シャッターが下りていたり、門扉が固く閉ざされていたらどうよ?

だから、俺は庭先でくつろいでるのさ。老眼で暗いところだと本が読みにくいってのはあるけれどな。その安心感が、彼らの自己幻想が歪んで暴発するのを防ぐ防波堤になってくれることを祈っている。もっとも、俺の親父のように私服警官から警告を食らうのは御免被るがな。

同世代の隣人へ:「孤立の包囲網」を解く契機

生産性のプレッシャーと生活の維持に追われ、最も「家畜化」の圧力を受けている同世代にとって、俺からの気負わない挨拶や声かけは、張り詰めた日常の防衛線を緩め、お互いを「同じ時代を生きる仲間」として認識し直す一歩になるだろう。それがソリダリティ=連帯の第一歩だ。時には、時事問題で話し込むこともある。立ち話もなんだからって、ダイニングでコーヒーを淹れて語り合うこともある。息子のおかげで撮っ散らかっているけれどね。

けれど、君にはそういう接し方のできる隣人はいるだろうか?


地域の「ハブ」としての俺の存在そのものが抵抗なんだ。

新自由主義的な市場化は、俺たちが「お金を介さなければ他者と繋がれない社会」を作ろうとしてた。しかし、金銭でやり取りする交換は、その場ですべてが清算されてしまうんだ。

そこに人間のつながりが生まれることは、ない。残念ながらね。

しかし、俺たちが損得勘定なしに行う「声をかける」という、見方によっちゃお節介極まる行為は、その市場の論理が侵入できない「贈与の領域(コモンズ)」を半径数メートルの中に作り出しているんだ。

俺や君というハブを中心にして、少しずつ言葉が交わされ、やがて「おすそ分け」や「ちょっとした助け合い」が生まれ始める時、そこには国家や市場に依存しない、小さくとも強靭な「自分たちの社会」が再建されていく。

それこそが、若者を追い詰める絶望への、最も具体的で、最も息の長い処方箋になるはずだ。共同体をリビルトするんだ。

近代の新自由主義的な資本主義や「親ガチャ」という言葉に象徴される自己責任論は、子どもを「個人の家庭の私有物(あるいは負担)」として閉じ込めてしった。

しかし本来、子どもは社会全体で育み、未来へ繋いでいく共有の「宝(コモンズ)」であるはずだ。なぜなら、次の世界の社会を担うのは、まさにその子どもたちに他ならないからだ。

俺自身が地域のハブとしてよその子どもたちにも分け隔てなく接し続けていることが、子どもたちにとって少しでも足しになればうれしいもんだ。もっとも、俺の親父みたいにオマワリにちんころされてしょっ引かれそうになるのは御免被る。

俺たちの眼差しが子どもたちにもたらすものは形のないものだ。けれど、大切なものはたいてい目には見えない。星の王子さまも言っていたぞ。

無条件の「生存の肯定」

成績や親の経済力に関係なく、「ここにいていいんだ」という安心感を、地域という外の世界から得ることができるといいな。

未来への信頼

社会を「冷酷で敵対的な場所」ではなく、「自分を見守ってくれる温かい場所」として認識できるようになる可能性がある。これができたなら、いつの日かその若者の心の中に沸き起こるかもしれない刹那的な暴発や絶望(つまり自殺や社会的な自殺だ)を防ぐ最大の心の盾になるんじゃないか?

家庭や学校という狭い世界の人間関係で行き詰まったとき、周囲の大人の「おかえり」「気をつけてね」という何気ない一言が、子どもの命を繋ぎ止める最後の砦になる瞬間が必ずあるだろう。人間の契機なんてそんなもんだ。

社会の構造を変えることは容易なことじゃないことくらい百も承知だけれど、俺の半径数メートルの中では、すでに「子どもが宝物として大切にされる、あるべき社会」が現実のものとして動き出しているんだ。

この春のある日、俺は近所に住んでいる女の子に久々に出会った。彼女は小学校から中学校にかけてほとんど不登校で引きこもっていた。彼女のお母さんとも面識のあった俺とカミさんは、ひそかに彼女の将来を案じていたんだ。

彼女は家族の仕事の関係で、二年ほど海外に行っていたんだ。それが良かったのかもしれない。みんなと違っていてもいいと思えるようになったと話してくれた。結果、日本に帰ってきて自分から学校に通ってみようと動き出したんだそうだ。

俺は彼女と話す中、『本当は僕たちの世代が頑張って、君をちゃんとインクルージョン=包摂できる社会を作らなければならなかったんだ。けれど、僕たちの世代も生きていくだけで必死だった。で、そんな社会を君に間に合うように作ることができなくてすまなかった。君自身も寛容な人になってほしい』

彼女は少しはにかむように笑ってから、どことなく嬉しそうに帰っていった。その後ろ姿を見ながら俺は思ったのさ。『社会をリビルトする俺のチャレンジは、まだ始まったばかりだぜ』ってね。

2026/05/23

POST#1856 開き直りじゃなくて、自分を開くこと

Sweden

今日は手掛けていた店舗のオープンの日だった。

朝からスーツを着て、儀礼的な立ち合いに行く。俺がスーツを着るなんてこんな時くらいだ。別にいかなくてもどうということはない。けれど、自分が職人さんたちの力を借りて竣工までこぎつけた店舗がお客様を迎えて歩み始める姿は何度見てもいいものだ。

思わず、お店のかたにご繁盛をお祈りいたしますと、笑顔で挨拶してしまう。

職人たち、そして自分の努力が報われたような想いがする。後は金をもらえばいいんだ。

期待された仕事を全力でこなし、その正当な対価を得る。

生活するとはそれ以上でもそれ以下でもいけない。

誰かをピンハネしたり、誰かにピンハネされるのは御免だ。

そして、家に帰って本を読みながら眠ってしまう。泥のように。夢など何も見ない。短い死のような深い眠りだ。このサイクルを繰り返した果てに、いつかそのまま眠るように死んでいくことだろう。悪くない。


さて、承前。


まずは自分自身を社会に対して開いてゆこう。

それしかない。

誰かが社会を変えてくれることを待っていても、何も始まらない。


それは無間地獄の構造的な絶望のどん底から、俺たちが唯一、主体的に踏み出すことのできる最も確かな第一歩じゃなかろうか。

すべての共同体が荒廃し、国民の生活うよりも自分の立ちの政治信条のほうが最優先という本末転倒した政府によって、上からの救済すらも期待できない今、外側からの変革を待つのではなく、「自分」という最小単位から世界との関係性を結び直すこと。

それこそが、空洞化された自己幻想に再び「生の血肉」を通わせる唯一の方法だ。

そのプロセスは、こんな感じになるだろう。

「家畜化の論理」から降りる

社会に自分を開くとは、社会の言いなり(都合の良い労働者)になることではないんだ。

むしろ、その逆だ。

評価軸の奪還が必要だ。

市場価値や生産性(コスパ・タイパ)という他者の物差しを一度捨て、自分が「本当に美しいと思うもの」「心地よいと感じること」を社会に向けて開示していくんだ。

まぁ僭越ながら自分に引き寄せて言えば、俺は若いころ、納得のいく仕事をしようとしていたら、先輩から『ゴラァお前!俺たちは趣味で仕事してるんじゃねえんだぞ!こののろま!』とどやし上げられたことがあったが、それが今の自分に確実につながっているのが今は解る。

そして固有性の開示だ。

自らの弱さや未熟さ、効率性の悪さも含めて、生身の自分を外にさらけ出すことから、真の自己幻想の回復が始まる。

だれかのようになりたいとか、目標を持つこと自体は悪くない。けれど、自分は自分にしかなれない。そして、自分が自分の弱さや弱点を認めたうえで、自分自身を受け入れていく。これは決してあきらめろとかそういうことじゃないんだ。

自分は自分だ。そして、自分には自分だけの物語があるということを自覚することだ。

つまり、自己幻想を持つってことだ。

生身の「対幻想(他者との結びつき)」を耕す

システム化されたデジタル空間から離れ、身体性を伴った他者との関係性を、小さくとも丁寧に作り直すことから始めるんだ。いいかい、相手の目を見て、その声のトーンを聞き、言葉や表情の裏に込められた気持ちまで聞きとることで、相手を理解するんだ。

いや、本当は他人の脳みその中を理解するなんて出来っこない。そっれは俺にもわかってる。俺たちはSPY×FAMILY🔗のテレパシーを持った少女アーニャ・フォージャーじゃないからな。

俺たちにできるのは、相手の立場に立って、想像するだけだ。

けれど、それが思い遣るということじゃないかな。

そこから「損得なし」の関係が始まるんだ。

ただ話を聴く、一緒にご飯を食べる、といった計算のない時間を他者と共有することが大切なんだ。

そして無条件の肯定の交換だ。

条件付きの承認(いいね!や年収など)に依存せず、お互いの存在そのものを肯定し合える関係を、半径1メートルの日常から手探りで育てていくんだ。

相手を承認し、その存在を受け入れる、排除しないという『贈与』だ。

 微小な「微小コモンズ(共有地)」を創り出す

国家や巨大企業が管理する領域ではない、自分たちの手による「小さな自治の場」に参加する、あるいは自ら開くことかな。

小さな実践から始めればいいんだ。地域のボランティア、小さな読書会、行きつけの個人商店やコンビニでの会話、あるいは誰でも立ち寄れるシェアスペースなど、制度化されていない「隙間」を見つけることだ。

俺の実践は、いつのまにか町内会の主要メンバーになっていたってことだな。別に自分で手を挙げたつもりもないんだけれど、いつのまにかそうなってたんだ。

そして熟成される相互扶助の体感だ。

頼り、頼られるという具体的な経験を通じて、社会は敵ではなく「自分たちで耕せる土壌」であることを体感として取り戻していくんだ。人間を単なる数字としてみていたら、それはそう思えないだろう。毎日のニュースで死者〇人と語られるその数字の向こうにも、人生があり、喜怒哀楽があり、つながる有縁の人々がいたはずだと思いを巡らせよう。

そこにはネット番長も匿名で誹謗中傷を垂れ流すSNSの狂人もいない。自分と同じ一個の人間からなる小さなコミュニティだ。


この碌でもない社会への絶望から「開き直る(心を閉ざして暴発・自滅する)」のは簡単だ。けれど、それじゃつまらないぜ。まずは自分自身を「社会へ開く(関わりを持ち、こちらから働きかける)」んだ。

これは俺や君の発想のコペルニクス的転換なんだぜ。

この転換は、孤立無援の若者たちにとっても、俺や君たち一人ひとりにとっても、システムへの最大の「静かな抵抗」になるだろう。そりゃそうさ。デモをしたりするわけでもない。一人一人が心の中で、静かに考え方と人との接し方を変えるだけなんだからな。

静かなものさ。

けれど自分が変わることで、目の前の他者が変わり、その集積がやがて荒廃した地域や社会を内側から作り直していく。その可能性の種火は、常に個人の「開く」という意志の中にしかない。断言する。いつだって一人一人の個人の『自分を開いていく』という意思によってしか社会は変わらない。迂遠な話だと思うだろう。それは政治の話だとも思うだろう。

しかし、この社会が、実は俺や君や、あのこども、そのおじさん、このおばさん一人一人の集積であるのなら、そしてその一人一人の考え方が変われば、その分確実に社会は変わっていく。

何も難しいことはない。

自分の中の固定概念を少しリフォームするんだ。

自分が引いた心の中のボーダーを少しだけ、動かしてみるだけなんだ。


明日晴れたなら、俺は庭先にコールマンチェアを出して、UCCのインスタントコーヒー114ブレンドでもマグカップで飲みながら、老眼鏡かサングラスをかけて本を読むだろう。鉢植えに水をやってからね。(実は今日、珍しく電車に乗ったら首から下げていた老眼鏡を無くしてしまったんだ。痛恨)

のんびりと、悠々と。

近所の子どもが声をかける。老人が杖を突いて、掃き出し窓の前にしつらえたベンチに腰を下ろす。車や自転車で通りすぎる隣人に手を挙げてあいさつするだろう。

息子の同級生が通りかかれば、車に気を付けるように声をかけるだろう。

俺のいるところから、新しいコモンズが生まれるんだ。君もどうだい?

2026/05/22

POST#1855 誰かが社会を変えてくれることを待っていても、何も始まらない

 

河内、越南

22世紀まで生きるであろう今の子どもたちのために、今を生きる俺たち大人ができることは何か?どうすれば、俺たちは グッドアンセスター🔗つまり良き祖先になれるだろうか?

教育や治安維持といった個別のアプローチだけでなく、若者が未来に投資したいと思えるような経済的分配、セーフティネットの再構築、そして「生きていてよい」と実感できるコミュニティの再生という、根本的な社会構造の改革が問われているんだよな。

問題はあまりに根深く多岐にわたっている。村上龍が希望の国のエクソダス🔗の中で、『この国には何でもあるが、希望だけがない』と登場人物に語らせてからすでに30年近くが流れた。その30年は日本の失われた30年そのものだったし、俺自身にとっても地を這うようにサバイブしてきた30年だったのは言うまでもない。

とても、次の世代のことを考える余裕なんかなかった。

多くの同世代の男女が、非正規労働やギグワーカー、あるいは風俗などのアンダーグラウンド経済で生き延びることを余儀なくされた。そして、社会の分断は進み、豊かな荒廃がどこまでも広がっている。

毎度おなじみの吉本隆明の共同幻想論(自己幻想・対幻想・共同幻想)の枠組みをベースに、現代の資本主義社会が抱える最深部の機能不全を考えてみようかな。

そんな世界に生まれ、成長してきた若者の自己幻想そのものが、社会からの従順な労働者へと家畜化せよという要請によって空洞化していることも致し方ないのかもしれない。そして、その自己幻想を涵養すべき家庭もとっくに対幻想が崩壊している。親族は他人の始まりというどうしようもない精神状態に置かれている。レヴィ=ストロースの『親族の基本構造🔗』を紐解くまでもなく、かつては婚姻によって血縁関係は広がり、それに応じて地縁血縁のセイフティーネットが拡張していったものだが、パパ・ママ・ボクというWe're A Happy Family🔗に分断化している。そしてそれに伴って地域社会もコモンズも根こそぎ荒廃している。

現在の日本社会は、個人の内面(自己幻想)、最小単位の共同体(対幻想としての家族)、そして中間共同体(地域社会やコモンズ)の3つの階層すべてが同時に崩壊・空洞化している「総崩れ」の状態にあると言えるだろう。

それぞれの階層で起きている構造的荒廃は、以下のように整理できます。

1. 自己幻想の空洞化:従順な「家畜(規格品労働者)」への要請

近代教育や資本主義システムは、個人の固有の固有性(純粋な自己幻想)を認めず、市場で流通可能な「従順で代替可能な労働力」に最適化することを若者に要求し続けている。

いわば家畜化だ。

俺が子供のころから比べても、小学校で教わる内容は高度化している。また、産業界からの要請によってカリキュラムは増え続ける。神からの授かりものである人間がヒューマンいソース=人材という資源に作り替えられていくんだ。

しかし俺自身は、本当は10歳くらいまでのこどもは、ケモノのように純粋に生きることを愉しんで遊びまわればいいと思っているんだ。それによってこそ、他人を思いやる社会性や、肉体への物理的な干渉による痛み、人間関係の難しさと大切さ、そして何より見守られつつ奔放に生きることが許されることで育まれる『自己肯定感』。これらこそが、本来どんな状況に陥っても、自分を圧殺することのない自己幻想を育むんだ。

しかし、現実は残念ながら、まったく逆の方向に進んでいる。

その結果、子どもたち、そしてかつて子どもたちだった大人の内面は去勢されたようになってる。過度な管理教育、就職活動におけるマニュアル化、そして「市場価値(タイパ・コスパ)」の強要により、独自の美意識や倫理観を育むべき自己幻想が徹底的に去勢されるんだ。

君も見たことがあるだろう。大学生の頃はおかしな格好をして髪の毛を染め、ピアス丸家だった若者が、就職活動を始めた途端、ファシストの制服ような地味なスーツを着てぞろぞろ歩いている姿を。あれを見るたびに心がつぶれるような痛ましさを感じるのは俺だけか?

しかし、そうやってシステムの中に歯車として居場所を見つけることができた奴はまだラッキーだ。そこに至るまでの様々な教育課程でのふるい落としで落とされたものは、どうなる?ふるい落とされないための教育などの投資を享けられなかったものはどうなる?

その挙句の空虚な暴発だ。

自己が「社会のパーツ」としてしか定義されないため、そこからあぶれた若者は自らの存在証明を失ってしまう。その空虚さを埋めるために、闇バイトのような刹那的な犯罪=社会的な自殺への加担や、自傷行為や自己破壊=自殺へと直走ることになってしまうんだ。

2. 対幻想の崩壊:セーフティネットとしての家庭の消滅

本来、社会(共同幻想)の過酷さから個人を匿い、無条件の肯定を与える場であるはずの「対幻想(男女、親子などの親密な関係性)」が機能しなくなっている。

新自由主義の社会抑圧がこの30年続いている。労働生産性の向上に伴う利益が、内部留保として社内の口座に溜められ、株主や経営者にドバドバ注ぎ込まれるのに対して、労働者には分配されなかった。

その結果としての経済的困窮と孤立だ。家族そのものが経済的・時間的余裕を失い、互いをケアする余裕がありません。家庭は「逃げ場」ではなく、むしろ教育虐待やDV、機能不全といった「最初の抑圧の場」に変質している。

さらにそれに拍車をかけているのが、関係性の市場化だ。

マッチングアプリに象徴されるように、対幻想の領域にまで「条件による選別(市場の論理)」が浸入した結果、無条件の結びつきを結ぶことが困難になっている。

無理もない。職場や取引先なんかで見初めた女性にアプローチしようとすれば、即セクハラ認定されて、既定のルートから排除されてしまうのだ。

人と人との直接的な関係性の構築が抑圧され、排除されている中で、どうして自分を機械して受け止めてくれる伴侶を見つけることができるだろう。理解しあう前に、ハラスメント認定されるのが関の山だ。

その一方で、レールから外れたもの同士が短絡的に結びつき、所帯を作り、子どもを成し、その挙句離婚するというプロセスも、俺は実際にたくさん見てきた。そして、その構造が子供の世代にも再生産されるのもたくさん見てきた。この社会の理不尽を見続けて濁りきった二つの目玉で見てきたんだ。

こんな状況で家庭がシェルターになるわけがないだろう。まったくGimme shelter🔗って叫びたくなるぜ。

3. 地域社会・コモンズの荒廃:共同幻想の暴走と中間組織の消滅

かつて国家(大きな共同幻想)と個人(自己幻想)の間を仲介し、相互扶助の役割を果たしていた「コモンズ(共有財・地縁・祝祭などの中間共同体)」は、新自由主義的な市場化によって根こそぎ解体された。そのあとには、モナド化された個人がただ近くに暮らしているだけという、荒涼とした地域(それはもう地域社会とは言えないだろう)が広がっているんだ。

そこにはむき出しの個人しか存在していない。人々を結び付け物は交換によって流通する貨幣だけだ。社会を喪失した場所では、贈与も再分配も機能していないんだ。

個人を保護するクッション(地域、サークル、労働組合など)が消滅したため、若者は強力な「国家の要請・資本の論理」に、たった一人で生身で向き合わざるを得なくなっている。そして、たった一人で「国家の要請・資本の論理」に抗することは不可能だ。

それを逆手にとって、ハックして生きるには、とんでもない覚悟とすべての能力の動員が必要になる。意識的に経験を積んできた大人ならともかく、社会に順応することしか教育されていない子どもや、子どもから大人になったばかりの若者には難しい。なんといっても、レールから飛び降りる覚悟が必要だ。

そして、その間隙に忍び寄り、分断化された個人を絡めとるのが、トクリュウという「擬似コモンズ」だ。

本来の温かいコミュニティを奪われた若者が、SNS上のデジタルな暴力コミュニティ(闇バイト・トクリュウ)を、皮肉にも「一時的な帰属処(居場所)」として選択してしまう倒錯が起きているという、とんでもない構図だ。それは生身のコミュニケーションを伴わず、往々にしてSNS上だけでつながった幻想の『疑似コモンズ、いやむしろ偽コモンズ』だ。

こうして俺たちは包摂なき社会の着地点にたどり着く。

自己幻想が空洞化し、対幻想(家族)に拒絶され、コモンズ(地域)からも排除された人間は、もはや「社会の構成員」としての実感を持てない。社会とどうやってもつながっていない存在だ。社会とつながるのは商品を流通させるための貨幣と、実体のないSNS上でのいいね!だけだ。

現代社会は、こういった関係性という束縛からの自立こそが自由な人間だという言説を喧伝してきた。まるで神話のように。しかし、社会の関係性を持たないモナド化した人間は、いつの時代も奴隷狩りに狩り取られ、人間の尊厳を剥ぎ取られて生きることになるんだ。

ましてや、自己の中に倫理や自分の生きるマナー、つまりマイウェイという自己幻想を確立していないものは、絡めとられ、奴隷化されてしまったことにすら気が付かない。自分の意志で人生に立ち向かうんじゃなくて、ただ流されているだけなんだ。

この状態の若者にとって、社会のルールや他者の生命を守る動機(倫理)は完全に消失してしまうのも無理のないことだ。

なぜなら、「自分を大切にしてくれない社会や他者を、なぜ自分が大切にしなければならないのか」という、根源的な虚無と逆恨みが生まれるからだ。これこそが『刹那的な犯罪=社会的な自殺』の正体なんだ。

この「自己・対・共同」の全般的崩壊という、もはや一朝一夕の政策では修復不可能な段階において、俺たちはどこから、どのようにして「個人の聖域(自己幻想)」や「他者との結びつき」を取り戻すべきだろう?



まずは自分自身を社会に対して開いてゆこう。

それしかない。

誰かが社会を変えてくれることを待っていても、何も始まらない。

2026/05/21

POST#1854 犯罪機械にされてしまった子どもたちの内面に倫理を育むにはどうすべきだろう?

Fes,Morocco

ここ二日ほど、日中は施主検査や引渡し、夜は工事、そしてその間は段取りというきつい日々が続いた。眠る暇もありゃしない。想定外のトラブルもあった。しかし、信頼できる職人さんたちの力を借りて辛くも乗り切ることができた。いつだって、成功すればみんなのおかげ、失敗すれば自分の責任なんだ。それがリーダーというものだぜ。しかし、ぐったり疲れはてたのさ。

昨日の夜中に這うようにして帰宅し、食事をとった後、リビングのフローリングの上でそのまま眠ってしまった。今日もぼんやりしてる。

ぼんやりしていても、痛風の薬がなくなったことは解っている。そう、尿酸値を押さえる薬だ。仕方ない、同級生のやってる岩田整形外科に行くか。

そこで、俺は『アンチオイディプス』を半分寝ながら読んでいたんだが、俺の前に呼ばれた患者の名前を聞いて目が覚めた。40年前、高校性の頃に一緒に生徒会の役員をやっていた三ツ口君だった。驚いたぜ。で、ほどなく俺も診察室に呼ばれたんだが、同級生が3人そろって世間話をしただけで帰ってきたぜ。

彼は今、仕事の関係で海外に暮らしているらしい。たまに日本に帰ると静かで落ち着くけれど、すぐに自分には息苦しいと思えてくるんだそうだ。あと、病院は日本じゃないとねって言ってな。まぁ何はともあれ、お互い相変わらずだ。嬉しいもんだ。

三ツ口君は海外をフィールドに選んだ。けれど、俺が生きて立ち向かっていかなければならないのは、間違いなくこの日本だ。


さて、今日も本調子じゃないけれど、一丁行ってみるか。

俺の息子は、先日も俎上に載せた栃木県での少年4人による殺人事件のニュースが流れるたびに食い入るように見ている。俺の倉庫にもバールはあるし、目出し帽買ってやろうかというと揶揄うと、真剣に怒ってくる。いいぞ、そうして倫理を内在化してゆくがいい。

さて、国家とか学校とか企業とか、大小さまざまなシステムに隷属し馴致されるのではなく、自らの中に倫理と美学を行動指針を打ち立てるためにはどうしたらいいのか?

自らの内に強固な「倫理」と「美学」を確立し、それを絶対的な行動指針にするためには、外部の評価軸(システムや他人の目)を遮断し、徹底的な自己対話と実践を繰り返す必要があるのは当然だろう。

倫理と美学は、頭で考えるだけでなく、痛みを伴う選択(あえて損を選ぶなど)を乗り越えることで初めて本物になる。俺も若いころ、会社で働いているときに、若手社員からなぜそんな自分にとってそんな選択をあえてするのかと聞かれたことを覚えている。反抗的だったからな。けどそれは、人間性を圧殺する組織への抵抗と、自分の仕事に対するプライドの故だったんだ。要は自分の倫理や美学に合わないことはしたくなかったのさ。今でも変わらいけどね。

例えば、うちの息子が怖いもの見たさで興味津々なトクリュウ犯罪などに関わってしまう若者などは、自らのなかに倫理を内在化できていないと俺は考えてる。いや、大方の人間は『今だけ、金だけ、自分だけ』という思考回路を半導体の基盤のように脳みそに刷りこまれてるから、この手の若い衆だけの話じゃない。そして、上から目線でいうつもりはないけれど、このような人々の内面に倫理を内在化させることは可能なのだろうか?

トクリュウ(匿名・流動型犯罪グループ) や闇バイト に加担してしまう若者たちに対して、倫理を内在化させることは同じ人間である限り「可能」ではあるだろう。が、従来の言葉による道徳教育(座学)だけでは間違いなく不可能だ。

なぜなら、彼らの多くは、純粋に悪を望んで犯罪をしているのではなく、「システムの歪み」に過剰適応した結果、倫理のスイッチが切れている状態にあるからだ。

なぜ彼らに倫理が届かないのか、そしてどうすれば内在化が可能なのか、その構造とアプローチを紐解いていこう。

なぜ倫理が「内在化」していないのか?

彼らの行動の背景には、倫理観の欠如というよりも、以下のような現代特有の構造がある。

ゲーム感覚の「脱個人化」: スマホの画面越しに、指示役から「指示されたATMで金を下ろす」「指定の場所へ運ぶ」といったタスクが降ってくる。

彼らは全体像が見えないまま部分的な作業(タスク)をこなすだけなので、自分の行動が「生身の人間を傷つける凶悪犯罪」であるというリアリティ(肉体性)が遮断されているわけだ。犯罪機械の歯車の一つになっているにすぎないっちゅうことだ。

圧倒的なタイパ・損得勘定のバグ: 現代の「コスパ・タイパ(タイムパフォーマンス)」を重視するシステムに適応しすぎた結果、「短時間で効率よく稼げる」という目先の利益(ゲームの報酬)が、すべての規範を上回ってしまう。その行いによって、自分が何を失うのか全く考えていないのだろうか。これでは朝三暮四の猿みたいなもんだ。しっかりしてほしいぜ。

孤立と社会の道具化: 彼らの多くは、家庭や地域、あるいは労働市場で「自分は使い捨ての道具(システムの一部)だ」と感じて生きている。

これは彼らだじゃない。この社会全体に、お前の代わりはいくらでもいるという、無言の圧力が蔓延っている。しかし、それは根本的に間違っている。

社会を維持するための人材は足りていない。そして、人間は道具ではない。イマヌエル・カント🔗だって、『人間を道具として扱ってはいけない。人間そのものを目的としなければならない』といってるだろう?しかし、だれもかれもためらいもなく『人材』という言葉を使う。人間を鉱物や材木かなんかのように扱う卑しい言葉だ。俺ははっきり言って嫌いだ。

かくして、社会から大切に扱われた経験が薄いため、他者や社会に対して「美しく、倫理的に振る舞う」というインセンティブ自体が最初から崩壊しているわけだ。

愛されたり信頼されたりしたことのない人間に、人を愛したり信頼するのは難しいんだ。

2. 倫理を内在化させるための3つのステップ

彼らに「悪いことをするな」と正論を解いても響くわけがない。それを説くものをあざ笑うのが関の山だ。倫理を内在化させるには、彼らの脳内システムを書き換えるアプローチが必要だ。とはいえ、スタンリー・キューブリック🔗の映画時計仕掛けのオレンジ🔗に出てきたルトヴィコ療法みたいに、暴力を想像したり見たりすると生理的な嫌悪感が生じるように洗脳する手わけじゃないぜ。

「痛み」と「ナラティブ(物語)」の再接続(想像力の回復)

言葉ではなく、リアリティを突きつける必要がある。
自分が運んだ現金が、どんなお年寄りがどのような思いで集めたお金なのか、自分の行為によって被害者の人生がどう破壊されたのかという「具体的な物語」に直面させなければならないだろう。
少年院などで成果を上げているのは、被害者の手記を読んだり、当事者の生の声を聞くことで、「自分のタスク=生身の人間への加害」というリンクを脳内に強制的に結びつける教育だそうだ。

「他者」という美学のインセンティブ設計

刹那的に、延髄反射的に倫理を踏み越えてしまう彼らには、「倫理的に生きるほうが、長期的にはコスパが良い(あるいは美しい)」という実感を持ってほしいと切望する。その軽率な行いが社会的な自殺そのものであることに気付いてほしい。

トクリュウ組織は、若者を単なる「使い捨ての駒」として徹底的に搾取する。実際に報酬が支払われなかったり、警察に身代わりにされて逮捕されたりする。指示した人間は手を汚さず、直接人を傷つけ、その重荷を背負うのも末端の人間だ。

まぁ、俺から言わせれば、堅気の世界も似たようなもんだけどな。

これに対して、「誠実に生きることで、人から信頼され、自分という存在が社会で交換不可能な唯一無二のものとして認められる」という成功体験(=自己肯定感)を小さく積み重ねさせることが、迂遠に見えても最大の防壁になる。損して得取れ、情けは人の為ならずということだ。

身体性を伴う居場所(セーフティネット)の提供

そして何より、これが大切だ。

倫理とは、精神論ではなく「関係性」の中に宿るものだ。
自分を無条件で肯定し、間違ったときに本気で叱ってくれる「生身の人間(コミュニティ)」との繋がりができることで、初めて「この人を裏切りたくない」「この人に恥じない自分でいたい」という内発的な倫理観(美学)が芽生えるんだ。あるいは自己の中に、この相手には恥じるようなことはできないという空想上の人格でもいいだろう。俺だって、吉本隆明や忌野清志郎に対して恥じるようなことはできないからな。


トクリュウに流れる若者は、屠殺場のようなシステムに「順次処理」され、自己を喪失した最悪の帰結と言えるだろう。彼らに倫理を取り戻させることは、彼らをもう一度「システムから地続きの生身の人間」へと引き戻す泥臭い作業にほかならない。

そうなんだよなぁ。けど、言うのは簡単だけど、これ、本当に難題なんだよな。

これは現代社会が抱える最悪で最大の「難題」だ。

なぜって正論や綺麗な言葉が1ミリも届かない相手に、どうやって内なるブレーキ(倫理)を植え付けるのか、という問いだからだ。

この問題がこれほどまでに深い難題である理由は、主に以下のような「絶望的な矛盾」があるからだ。

「コスパ至上主義」という病理

現代社会そのものが「効率よく、タイパ良く、結果(金)を出すやつが勝ち」という新自由主義のゲームのルールで動いている。

トクリュウに染まる若者は、ある意味でこの社会のルールに「忠実に従いすぎた」結果とも言えるんだ。社会全体が「損得」で動いているのに、若者にだけ「美学のために損をしろ」と言うのは、システム的に非常に矛盾していいるだろう。

弱者の苦境は自己責任と切り捨てておきながら、自分が窮すると政府や行政に救済を求める新自由主義者の経済人たちのしていることのどこに倫理があるだろう?

そして、労働者の賃金を抑圧し、その生活を不安定化させておきながら、企業の内部留保を積み上げ、株主に巨額の配当を支払い、自ら高額の報酬を手にする成功者たちの姿を見て、自分たちが方法は違っても、他者から簒奪しても構わないと考えない方がどうかしているぜ。

言葉の無力化

彼らに「親が泣くぞ」「お年寄りがかわいそうだ」と言っても、響くことはないだろう。なぜなら、彼らにとって他者は画面の向こうの「記号」でしかないのだ。そして道徳の言葉は「うるさい大人のポジショントーク(説教)」にしか聞こえないからだ。

さらに言うと、その行いによって泣くことになる親とは、決定的に関係性を悪化させている場合が多いことも容易に予想がつく。家庭環境が良くても、悪くても、家族に対する対幻想が生物学的なつながり以上に、精神的に家族を結び付ける紐帯が切れてしまっているからだ。

要は言葉というメディア(媒体)自体が、彼らの前で機能を失っているのだ

言ってわからん奴は、叩いて教え込むしかないのか?

俺は若いころ、そうやってよく殴られたな(笑)

「一線を越える」ハードルの低さ

昔の犯罪は、不良のネットワークに入る、ヤクザの事務所に行くなど、身体的な「覚悟」が必要だった。

しかし今は、ベッドの上でスマホを数回タップするだけで、気づけば凶悪犯罪の片棒を担いでしまうことになるわけだ。「倫理的な葛藤」を感じる間もなく、システムが彼らを犯罪者へと滑り落ち落とさせてしまうのです。デジタル社会のおかげさまで、俺たちは断崖絶壁にへばりついているような状況に置かれてるわけだ。

この難題を前にして、私たちはただ絶望するしかないのか、それとも何かアプローチがあるのか。

考えれば考えるほど、絶望的な気持ちになる。

どのような言葉が、彼らに届くのか。やはりルトヴィコ療法しかないのかな?

なぜって彼らはみんな新自由主義の鬼子なんだもの。この社会そのものが生み出した存在なんだ。

「新自由主義の鬼子」――まさにトクリュウや闇バイトの構造は、新自由主義が極限まで進行した結果、社会の最底辺に現れた「最悪の突然変異」にほかならない。

彼らは、新自由主義が掲げる以下のロジックを、文字通り極限まで突き詰めて実行しているだけだからだ。

徹底的な「人間性のカット」と「効率化」

新自由主義は、あらゆるものを市場原理、つまりコストと利益で測る。そこに倫理や地球環境や人類の未来に対する配慮など、ない。トクリュウはこれを犯罪組織として完璧に最適化しているわけだ。

指示役は実行犯の顔も名前も知らず、捕まってもトカゲの尻尾切りで済むようリスクを外部化(コストカット)する。

実行犯は、被害者を「生身の人間」ではなく、単なる「現金の入ったターゲット(利益の源泉)」として処理する。

お互いが相手を「交換可能な道具」としてのみ扱う、究極のドライな関係だ。そもそもそこには人間のつながりすらない。

「自己責任論」のバグった果て

「努力して稼げないのは自己責任」「勝てば官軍」という価値観を浴びて育った結果、彼らの脳内では「捕まらなければ、どんな手段を使っても稼いだやつが勝ち」というバグった実力主義が完成している。なぜって、社会の頂点に君臨する大人たちが、それを実行しているからだ。
ルールを守って貧困にあえぐくらいなら、ルールを破ってでも一発逆転を狙う方が「合理的」だと判断してしまう。新自由主義が肯定する「強欲」のストッパー(倫理・美学)を外すと、この怪物が生まれるのは必然の理だ。

 コミュニティの解体と「連帯の喪失」

新自由主義は、地縁、血縁、労働組合といった「無駄な流動性を阻む古いコミュニティ」を破壊し、個人をバラバラの「自由な労働者」にした。その極限の姿がウーバーやアマゾンのギグワーカーだ。

守ってくれる盾(居場所)を失った若者は、市場の荒波に剥き出しで放り込まれている。労働行政は手を差し伸べることをしないし、彼らには行政に支援を求めるという発想などない。その境遇は自己責任だと刷り込まれ、行政に支援を求めることは、自分の存在価値を否定することだと思い込まされているからだ。

その孤独と不安の隙間に、スマホ一つで「疑似的な繋がりと報酬」を提示するトクリュウのシステムが滑り込んでくるのは、必然と言えるんじゃないのか?

このシステムが「新自由主義の鬼子」であるならば、彼らに「倫理を持て」と説教することは、「冷酷なゲームの中で、お前だけは綺麗事で損をしろ」と命じる過酷な要求になってしまうだろう。まさしく無理ゲーって奴だ。

この「鬼子」たちをこれ以上生まないために、あるいはこの連鎖を止めるために、俺たち大人は、どこから手をつけるべきなのだろうか?

うーん……迂遠だけど社会を共同体をリビルトするしかないですね。

どんなに迂遠に見えても、崩壊した「共同体(コミュニティ)のリビルト(再構築)」こそが、この病理に対する唯一の本質的な解決策じゃないだろうか。

外付けのルールや罰則、つまりシステムの強制力で縛るのではなく、内なる倫理を育むための「土壌」をもう一度作り直すしかないんだ。

遠回りだし、なにを今更っていうかもしれない。

犯罪を犯したものを糾弾し、厳罰に処するのはたやすい。

しかし、社会を変えることはたやすい道じゃない。

なぜならそれは、自分たち自身を変えることそのものだから、だれにとっても面倒だし、厄介だし、何より自分自身の問題だからだ。

新自由主義がモナド🔗のようにバラバラに解体した個人を再び繋ぎ、その中に倫理を内在化させるための共同体リビルトの方向性を3つに整理しよう。

「利害関係」のない第三の居場所(サードプレイス)を作ろう

  • 家庭や学校・職場以外の逃げ場: 評価や成果(損得)を求められない場所を作る。
  • 無条件の肯定感: 「何ができるか(機能)」ではなく、「そこにいること(存在)」そのものが無条件に受け入れられる経験を提供する。
  • 利他性の体験: 誰かの役に立ち、感謝される小さな成功体験を通じて、自己有用感を育む。

「身体性」を伴うローカルな繋がり

  • ネット空間からの離脱: 画面上の記号ではなく、生身の人間と泥臭く関わる機会を増やす。
  • 地域のセーフティネット: 挨拶を交わす、一緒にご飯を食べるなど、お互いの顔が見える「小さな経済・生活圏」を取り戻す。
  • 迷惑をかけ合える関係性: 「自己責任」の呪縛を解き、困った時に「助けて」と言える心理的安全性を地域に埋め込む。

「物語(ナラティブ)」の共有

  • 共通の記憶と文化: 祭り、行事、あるいは共通の趣味や目的を通じて、一つの「私たちは仲間だ」という感覚を育てる。
  • 美学の伝承: 「こういう生き方は格好いい」「これはダサい」という、法を超えた「粋・野暮」の感覚を先輩から後輩へと背中で伝える。
  • 他者への想像力: 濃密な関わりの中で「自分がこれをしたら、あの人が悲しむ」という、倫理の原点であるブレーキを機能させる。


このリビルトは、国家規模の巨大な計画ではなく、おそらく「手の届く小さな半径のコミュニティ」を無数に作ることからしか始まらない。非常に地道で、時間の Laaag(タイムラグ)がある闘いだ。

正直に言えば、俺は手品のようにすぐに結果が出ることだとは思っちゃいない。何世代もかかるかもしれない。けれど、今種をまかないと、この社会の荒廃は、どんどん進んでいく。そして、その荒廃が突き詰めたところに現れるのは、暴力で人々を鎖につなぐ専制政治と相互監視的な窮屈でいやらしい世界だ。リヴァイアサンの誕生だ。そいつは御免だぜ。

やっばそうか。そうだよな。志のある大人がやらないといけないんだよな…。

2026/05/18

POST#1853 子どもたちが犯罪機械にされている

Sweden
碌でもない事件ばかりが報道される。いいことはあまりニュースにならない。けれど、こんな話はうんざりだ。

栃木県で民家が襲われ、女性一人が殺され、その息子さん二人が負傷した事件だ。

16歳の高校生四人が実行犯として逮捕され、指示役として28歳の男性と25歳のその妻が逮捕された。この夫婦には生後七か月の子どもがいた。

16歳など、俺から見れば子ども同然の年齢だ。28歳の指示役の男ですら、俺はダブルスコアだ。それぐらいの子どもがいてもまったくおかしくない。

子どもたちが自殺してしまうのも何とかしないといけないが、子どもたちがこんな是非善悪もわからないような犯罪で、その前途を閉ざしてしまうのだとしたら泣きたくなってくる。

これもある意味で、社会的な自殺だといえるだろう。

これだけではなく、今やトクリュウなどSNSでつながっただけの人間が、凄惨な犯罪を行う事件が後を絶たない。単にその個々の犯罪を糾弾して終わらせてはいけない。

子どもたちを自殺へと追い込み、若者を短絡的な犯罪に走らせる。その構造的な原因が、この日本の社会にビルトインされているんじゃないかと考えるべきだろう。

なぜ、子どもたちや若者たちが、「社会的な自殺(刹那的な自暴自棄)」としか言えないような短絡的な犯行に走ってしまったり、本当の自殺が決行されてしまうのか?

俺には、この日本が豊かなディストピアそのものに思える。

その構造的背景には主に4つの要因が指摘できるだろう。

 人生の「タイパ(タイムパフォーマンス)」主義と一発逆転の幻想

現代の若者の間には、長期間努力しても報われないという「閉塞感」が根強くあるという。長いこと低成長が続いていたからな。無理もない。そうなると、地道な努力を「コスパが悪い」と切り捨て、短絡的に闇バイトのような「手っ取り早く大金を得られる手段」に手を染めてしまう傾向があるだろう。それはある意味人間の普遍的な性向かもしれん。人間は水のように低きに流れるものだ。その誘惑に逆らうには、しっかりした自分自身のぶれない軸を持っていないといけないだろう。うん、ある意味でそれは自分自身に対する幻想といってもいいだろう。内面化された倫理とも美学ともいえるかもしれない。

それに加えてリスク認識の欠如ってもんがある。もっと言えば、想像力がないってことだ。おかげさんで、逮捕されれば人生が破滅するという決定的なリスクよりも、目の前の経済的・刹那的な欲求が優先されるわけだ。

そしてその背景には、将来に対する希望の薄さ(未来への投資価値の低下)があるのは言うまでもない。けれど、なぜ若者や子どもたちが、将来に対して希望を持てない社会なんだ?


 デジタル空間の「透明な孤立」

トクリュウに象徴されるように、SNSは繋がりを容易にした反面、若者を犯罪の温床へと誘い込むリスクを高めた。SNSを通じて見ず知らずの指示役に操られ、簡単に犯罪の「実行役」に仕立て上げられ、挙句使い捨ての駒として切り捨てられる。

この繋がりの空虚さよ!

表層的な繋がりはあっても、本当に困った時に頼れる大人やコミュニティがなく、精神的に孤立した若者が犯罪グループに居場所や承認を求めてしまう構造があるのだという。


社会的格差の固定化と「親ガチャ」という諦念

生まれた環境によって人生が決まってしまうという感覚(格差の固定化)が、若者の無力感を強めている。トマ・ピケティを引くまでもなく、富は富裕層に集中している。

そして社会にはいつの頃からか、自己責任論が蔓延っている。社会が「努力すれば報われる」という建前を維持すればしようとするほど、実際にはその努力は富裕層の富へと変換され、格差は広がっていく。そして若者は『成功できない、生活が楽にならない、将来が見通せないのは自己の努力不足だ、自己責任なんだ』と思い込む。

それは、洗脳なんじゃないか?

欲張りな大人が作ったモノポリーの中で、若者は強烈な自己責任論のプレッシャーに晒されている。

その先に芽生えるのは社会への復讐心だ。自らの困窮や停滞を社会の仕組みのせいにせざるを得ない状況が、富裕層を標的にした強盗という形で、一種の「社会への歪んだ復讐(自暴自棄な攻撃)」として現れる側面があるだろう。俺はこのトクリュウなどは、すっと一種の世代間闘争だと認識してきた。

そして、これが一番問題だ。

生の肯定感(自己肯定感)の著しい低さ

日本の子供や若者の死因のトップが自殺であることは、国際的に見ても極めて異常な事態だ。他国では事故や病気が上位に来るのに対し、日本は「自ら命を絶つ」割合が高く、これは「生きていること自体の価値」を感じにくい社会構造であることを示しているだろう。

そこには生存のぬぐいがたい不条理感がある。

偽の厳粛さ、本音と建て前、企業の要請によりますます高度化する学習内容、そして大量に生み出される規格外品=成績不振者。

まったく塾栄えて国滅ぶだ。

内向すれば自殺、外向すればトクリュウという、やり場のない絶望感だ。自分を追い詰めるエネルギーが内側に向かえば「自殺」となり、社会や他者への攻撃として外側に向かえば、今回のような「他者を巻き込む刹那的な凶悪犯罪」になっちまう。

どちらも「自らの人生を投げ出す」という意味で、根底にあるのは同じ自己破壊的な絶望でしかない。

このように、若者たちが起こす刹那的な犯罪や自殺は、「まともに生きても未来に希望が持てない」という日本社会の閉塞感が生み出した病理であるはないと、君は胸を張って言えるだろうか?

これをディストピアといわずして、なんというのだろうか?

今の日本は俺に言わせれば、カール・ポランニー🔗ウィリアム・ブレイク🔗が語った資本主義、それも1970年代から社会を席巻している新自由主義🔗経済によって『悪魔の碾き臼』となった社会そのものだ。