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2026/08/04

POST#1929 疲労困憊してふと原憲之貧を想う

タイ、メーサロン
昨日は久々に仕事をして、心底くたびれたぜ。
帰ってきたときには、汗でべとべとの服を洗濯機に放り込んで、明け方一人、上半身裸で飯を食った。東南アジアのおっさんみたいだ。
暑いというだけで、体力は消耗する。しかも、ダラダラとひと月ほど好き放題に暮らしていたおかげさんで、身体はすっかりなまっている。
それでも、何とか食器を洗い、汗まみれの体をシャワーで洗い流したうえで、仕事の報告書を送る。これさえやっておけば、眠ってる間に誰かが対応してくれるだろう。
そして眠りにつく。短い眠りだ。どっかの総理大臣みたいだ。
折り悪く、今日は精神科にレクサプロをもらいに行く日だった。
なんとかベッドからはい出し、精神病院へと車を転がす。
精神病院にはすげーたくさんの心を病んだ人たちがいる。
薬局にもすげーたくさんの心を病んだ人たちがいる。
この国はどうなってるんだ?それとも俺の住む町だけか?

俺はいつまで、この薬を飲み続けなけりゃならないんだ?

ふと、頭の中に論語の一節がよぎる。

原憲居魯、環堵之室、茨以生草。蓬戶不完、桑以為樞、而甕牖二室、褐以為塞。上漏下溼、匡坐而弦。
子貢乘大馬、中紺而表素、軒車不容巷、往見原憲。原憲華冠縰履、杖藜而應門。
子貢曰、「嘻。先生何病。」
原憲應之曰、「憲聞之、无財謂之貧、學而不能行謂之病。今憲貧也、非病也。」
子貢逡巡而有愧色。
原憲笑曰、「夫希世而行、比周而友、學以為人、教以為己、仁義之慝、輿馬之飾、憲不忍為也。」

現代語に訳すと、こんなんだ。
(孔子の死後のこと、孔子の弟子でその家宰でもあった)原憲は魯の国に住んでいた。その家はわずか一囲み(の狭小住宅)の部屋で、生い茂った草で屋根が葺かれていた。よもぎの戸は壊れかけ、桑の枝をドアのヒンジにしていた。さらに、底の抜けた甕を窓枠にし、2つの部屋の隙間には粗末な毛織物を詰めて風を防いでいた。天井からは雨が漏り、床は湿気で濡れていたが、原憲は正座して琴を弾き、歌を歌っていた。
そこへ子貢が、立派な大馬に乗り、内側には紺色、外側には白い高級な衣服をまとい、大きな馬車が路地に入りきらないほどの格式で、原憲を訪ねてきた。原憲は(樹皮で作った)帽子をかぶり、かかとの抜けた靴を履き、あかざの杖を突いて門に出て出迎えた。
子貢は(そのあまりの困窮ぶりに驚き)言った。(子貢は孔子門下では原憲の後輩だった)
「ああ、先生、一体どうしてそんなに病み苦しんでおられるのですか!」
原憲はこう答えた。
「私はこう聞いています。『財産がないことを【貧しい】と言い、道を学びながらそれを実践できないことを【病んでいる(重症である)】と言う』と。今の私はただ【貧しい】だけであって、【病んで】はいないのです」 
子貢はあとずさりし、自分の発言を深く恥じる顔つきになった。
原憲は笑ってさらに言った。
「世間の流行におもねって行動し、派閥を作って(お互いにひいきし合って)友を呼び、他人に誇示するために学問をし、自分の利益(謝礼など)のために他人に教え、仁義を隠れ蓑にして悪事を働き、馬車を豪華に飾り立てる。私には、そのようなさもしい真似はとうてい耐えられませんよ」

なかなかいかれたジジイだな。嫌いじゃない。

2026/08/03

POST#1928 越境

手前の川を渡れば、ミャンマー。右の川を渡ればラオス。ここは黄金の三角地帯
今日から新しい現場が始まる。

いつも感じるこの不安な気持ち。

そして、さんざん考えてきたからこそ、つぎの一歩をどこに踏み出すべきかという逡巡。

地の越境は時に命がけだが、知の越境も確実に自分の命を削り取っているように思う。

読者諸君、失礼する。
 

2026/07/28

POST#1921 ケアによって人々をつなぐトークンという構想 第7章

 

Bangkok,Thailand
ケニーの荷物をプロボックスに満載し、福井から俺の倉庫まで車を転がして帰ってきた。
濃尾平野は別世界の暑さだ。夏はねっとりと暑く、冬は冷たい伊吹颪が、容赦なく体温を奪っていく。極端な世界だ。俺の右とも左ともつかない極端な思考は、この風土で鍛えられたのさ。
彼の今後の活躍を期して、二人でうな丼の特上、中詰めといわれるウナギが中ほどにも入ったやつだ。こいつを昼から胃袋に詰め込んだ。一人前いくらかは怖くてかけないぜ。
その後、ケニーの荷物を倉庫を整理して入れ込み、彼を駅まで送っていったんだ。
俺はのどがカラカラだった。家の近所のコンビニに行くと、近所のT松さんがレジでビールの500㎜l缶を6本買っている。アサヒスーパードライだ。この炎天下、飲まないとやってられないんだろう。しかし、この暑さじゃT松さんが不自由な足で、よちよち歩いてコンビニから家に着くまでに、ビールは温くなっちまうだろう。
俺はT松さんを家まで車で送ってあげたさ。ついでに明日の朝、近所の病院までT松さんのおかあさんを送ってほしいと頼まれちまった。まぁ、それも仕方ない。お礼に自家栽培と思しき茄子を持ってきてくれた。ありがとう、T松さん。
残念ながら、うちの息子は茄子が大嫌いときてるんだがね。仕方ないな。俺は茄子の入ったミートスパゲティとか作ると絶品なんだが…。

2026/07/27

POST#1920 ケアによって人々をつなぐトークンという構想 第6章

Bangkok,Thailand
友人のケニーと車で福井に行った。だから今夜は福井の駅前のホテルに泊まったわけだ。彼が以前に福井で仕事をした際にレンタル倉庫に預けていた段ボールに満載の荷物や自転車とかを俺の倉庫の片隅に置くことしたんだ。何かあったときに、面倒を見れる人間の手元に置いておいた方がいいだろう。人生は損得勘定だけじゃないってことさ。それに時には、友人と車を転がしてドライブしたり、酒を飲んだり、語り合ったりすることも必要だろう?
人生は助け合いなのさ。

2026/07/18

POST#1911 救世主はどこにいるんだ?!もうババ抜きにはうんざりなんだ

 

Thailand、Bangkok

昨日も話したエルサルバドルや中央アフリカの話は、もうちょっと深掘りしてみると面白そうなんで、掘ってみることにするかな?

社会的にデジタルインフラの普及や、社会資本の蓄積が十分でない社会でビットコインを『法定通貨』にするというのは、あまりにも無謀でリスクが大きい話だと思うんだ。

まず第一にデジタル弱者の人たちが、価値の交換手段を喪失してしまうという事態が容易に想像されるんだ。

こいつは単なる技術的な問題ではなく、人権や生存権に関わる極めて深刻な構造的欠陥だといえないか?俺はうちの近所の戸松さんご夫妻(御年80代後半)が、ビットコインで買いものするなんて想像できないよ。

情報インフラやWEBリテラシーが十分でない社会で、ビットコインを無理やりに法定通貨にすることは、「デジタル弱者を社会の経済活動から完全に排除する」という最悪の結果が来ること120%間違いない。とんでもなく無謀で、とんでもなくリスキーなんだ。


1. 「生存のための交換手段」の喪失

ちょっと想像してみてほしい。デジタルインフラやスマートフォンなどの端末を持たない、あるいは使いこなせない人々にとって、決済手段がデジタルのみ(あるいは推奨)に移行することは、命に関わる死活問題だ。とりわけ、こういったデジタル端末を持っていない人は、持ちたくても持つ経済的な余裕のない人である場合もあるだろう。また、新しい技術についていけないという人もかなりの割合でいるだろう。

近所のスーパーのセルフレジキャッシュレス専用で途方に暮れている老人を見たことがあるだろう?まさにあの光景が、全国的に広がるわけだ。君なら、どうする?

日常の売買からの排除
 エルサルバドルでは法律(ビットコイン法第7条)で「すべての経済主体はビットコインによる支払いを拒否してはならない」と定められたそうなんだが、露天のおばちゃんやおじちゃんはどうなるんだ?
もしこれが厳格に運用され、現金(米ドル)の流通が滞れば、スマートフォンを持たない貧困層は農作物や日用品を売ることも買うこともできなくなるだろう?
いやいや、やばいな。
基本的人権の侵害
国家が認める「交換の手段」にアクセスできないということは、市場から強制退場させられること意味してるわけだ。つまりこれは、デジタル弱者は資本主義社会からオミットされるだけでなく、生存権を脅かされることでもあるんだぜ。
これは経済的な格差を広げるだけでなく、生存そのものを脅かす暴力的な政策じゃないか?
まったく、エルサルバドルって、THE 救世主って意味なんだけど、まったくどんな救世主だよ?!

2. 「社会的共通資本」の圧倒的な不足

ビットコインを日常的に使うためには、国家規模で膨大な「社会的共通資本」つまりインフラが必要だろう。どこでもつながる通信網、WiFi環境、停電したりすることのない送電網とか、そういった俺たち日本人が当たり前に享受してるインフラだ。

しかし、この手の破綻・脆弱国家にはこれが決定的に不足しているってのがお決まりのパターンだ!どうするんだよ?

電力と通信インフラの脆弱さ
中央アフリカ共和国のインターネット普及率はわずか数%、電化率も10数%程度だった。

電気が通らず、電波も届かない村でデジタル通貨を法定通貨に指定すること自体が、現実を無視した机上の空論であったことは明白というか、はっきりいって狂ってるだろう。
そんなあほなことを発想してるから、いつまでたっても破綻国家に甘んじることになるんだ。
高額な手数料の壁
ビットコインは取引や送金のたびにネットワーク手数料がかかる。当然だ。
君も、世の中の人間は、タダでは指一本動かさないと思っておいた方がいいぜ。
これが何を意味するかといえば、ネットワークが混雑すると、数ドルの買い物を補うために、それを上回る手数料が発生することもあるってことだ。
例えば、1ドルのトイレットペーパーを買うのに、手数料が1ドルかかってたら、実質購買価格は2倍ってことになるだろう?
資本の流動性が、がくっとおちること間違いなしだ。ビットコイン自体はインフレーションしなくても、実際に物を買うのに手数料込みの金額になることで、モノの実際の単価はインフレーションしてしまうからだ。
これは、キツイ。日本人でもきついだろうが、1日の生活費が数ドル以下の破綻国家の貧困層にとって、いくらお上がこれを使えって言ったところで、ビットコインは実質的に「使ってはいけない通貨」になっちまうよな。
そうなると人々は物々交換でしのぐか、日常的に流通する、非公認のトークンを生み出して、自主的に流通させることで経済を回していく必要が生じるよね。
生きていくためには知恵を絞らないといけないんだ。

3. 「価値の保存」すらできない価格変動

弱者にとって最も残酷なのは、ビットコインの激しい価格変動(ボラティリティ)だ。

資産の目減りという恐怖
今日、一ヶ月分の食費に相当するビットコインを持っていても、明日その価値が20%暴落すれば、明日の食事を諦めなければならなくなるよな。
もし君が富裕層で、当面の暮らしに差支えがないのなら、「今は我慢の時。長期的には値上がりするはずだから、欲しがりません勝つまでは!」とビットコインの保有を続けられるかもしれないけれど、俺のようにその日暮らしの弱者にはその猶予は、まったくない!
君なら、どうする?
略奪的な構造
結果として、価格変動リスクを負えない弱者=貧乏人はビットコインをすぐに手放し、リスクを許容できる富裕層や外国の投資家だけが利益を得るという、構造的な富の吸い上げ(搾取)が発生するだけだ。まさに逆流した富の再分配だ。
しかも、この富裕層の懐に溜められたビットコインは、流動することがない。
なぜって、この人たちはビットコインを塩漬けしておけば、その希少性から(世界中の欲の皮の突っ張った連中が幻想を抱いているうちは)最終的には価値が上がると確信している欲の皮の突っ張った連中の一員だからだ。
さらに言うと、こうした失敗国家の国民のほとんどは、残念ながら失うものは命と鎖しかないというほどの貧乏人だったりするんだ。

結論:国家の責任放棄

MMTの観点から見ても、国家の本質的な役割の一つは、「すべての国民が安心して経済活動に参加できる共通のインフラ(信頼できる通貨)を提供すること」に他ならないはずだ

社会的な富の蓄積とインフラの整備が不十分なままでビットコインを導入することは、ずばり、国家としての責任を放棄し、国民(とりわけデジタル弱者や貧困層)を情け無用な弱肉強食な市場という、万人の万人に対する闘争の修羅場に、裸一貫で放り込むという「極めて無謀で、実験的な暴挙」であったと言わざるを得ないわな。

皆の衆、日本に生まれてラッキーだったな。

だからこそ、中央アフリカはすぐに撤回し、エルサルバドルも義務化を事実上取り下げざるを得なかったわけだ。てか、そんなことぐらい、ちょっと考えたらわかりそうなもんだけどな。まったくどうかしてるぜ。

2026/07/16

POST#1909 今日からはビットコインを介して貨幣の価値について考えてみることにする

 

タイ、チェンマイ、ナイトマーケット

親愛なる読者諸兄諸姉!

今日からは、ビットコイン🔗を通じて貨幣というものを逆照射するように考えてみたいと考えてるんだ。うん、新しいおもちゃを見つけたと思ってくれていいさ。

もうずいぶん前、俺の知り合いに出始めたばかりのビットコイン🔗に投資したという若い大工さんがいたけれど、彼は今どうしているかふと気になったってのもあるし、今月末に固定資産税の第二期の支払い期限が迫ってるっていう、実にしょぼくれた庶民的な考えから選んだテーマさ。

俺にはビットコイン🔗に関する知識なんかまったくない。そして、実はあんまり興味もない。もちろん、そもそもそれを購入するだけの資産もない。だって、お高いんでしょ?

いま話題のサナエトークン🔗とかも、阿呆らしいなんのこっちゃと、内心呆れながら見てるくらいだ。

にもかかわらず何をいまさらこんなことを?!というような素人みたいなことを手掛かりにして考えていくことにしたのは、それを考えておかなければ、今日の社会を理解するために重要なパーツを見過ごしてしまう事になるからなんだ。なぜ、そう思うかって?俺の本能がそうやって俺に告げているのさ。そこで浅学非才・無知無能を顧みず、無謀にもこの巨大なテーマにいどむことにしたのさ。

とはいえ、真理へと至る道程ってのは、まず無知の知🔗から始まることは古代の枢軸時代🔗から洋の東西を問わず鉄板だ。わかったふりをして躍らせられるより、わからないことを自分なりに考えて突き詰める方が建設的だし、誠実じゃないか?

まぁ、そんなことで行ってみよう。

2026/06/09

POST#1872 俺は無学だから教えられないぜ!

タイ、メーサロン🔗

ちょっと立ち止まって考える。

どの親御さんも、こういうことを自分の子供には言わないんだろうか?

子どもの幸せを望まない親は、一部の頭のネジが切れちまった毒親か不幸にも育児ノイローゼになってしまった親御さんを除けば、そうはいないはずだ。誰しも心の中では「子供は宝物だ」と間違いなく思っているだろう。

しかし、それを俺のようにはっきり抜け抜けと「言葉」にして、毎日1日に1回も2回も子供に伝えられている家庭は、実は驚くほど少ないのではないだろうか?

じゃぁ、その仮定に立ったうえでもう一歩進めてみようか。

読者諸兄諸姉もお忙しい中、冗漫屋上屋を重ねるような話で申し訳ない。

なぜ、多くの親御さんが思っているはずの「宝物」という言葉を口にできなくなっているのか、その背景には現代社会特有の悲しい歪みがあると推測出来る。いや、各家庭に聞いて回ったわけじゃないから、断定はできないよ。あくまで、個人の感想です。

はい、論破(笑)

1. 「条件付きの愛」に変質してしまう罠

幸福そうなご家庭でも、多くの場合、肝心な親御さん自身が、新自由主義的な競争社会のプレッシャー、つまりは学歴社会や漠然とした経済的な将来への不安に飲み込まれている。

そりゃまぁ仕方ない。このクソったれな社会で、自分の立ち位置を死守して給料を頂戴するということは、その抑圧に圧殺されそうになりながらサバイブするということだ。

いつも申し上げておりますように、『溺れてる奴は、ほかの溺れてる奴を助けることなんかできっこない』んだ。

そのため、心では宝物だと思っていてもだ、口から出る言葉がどうしても以下のように「条件付き」になってしまうんだ。フォー・エグザンプル。

「テストで良い点数を取れた!偉いね!」

「ちゃんと片付けができたら、いい子だね」

「宿題をちゃんとやったの?グッジョブ!」

なんてこった…人様にご迷惑にならないように、社会のルールに必死に適応させようとするあまり、「何かができるから価値がある」というメッセージばかりを無意識に子供に浴びせてしちゃうことになってるんだ。

別にそんなこと意識している訳ではないだろう。純粋にマインドセットの問題だ。日々の忙しさや焦りの中で、俺がうちの豚児に言うように「生きているだけで100点満点の宝物だ」という無条件のメッセージを子どもに植え付ける余裕を無くしちまってるんだ。

2. 「世間の目」と「言葉にする照れ」

日本社会には古くから「言わぬが花」(これは世阿弥の風姿花伝に出てきた言葉だんべな)や「背中で語る」(まるで高倉健だな!)といった文化があるんだなぁ。おかげさんで、身内を大っぴらに褒めることを避ける傾向がある。

俺がうちの息子を豚児、豚児というのも、自分の息子が出来の悪いやつだという意味の謙遜を込めて?豚児と呼んでいるわけだ。本名は、麒麟児という。まぁ名前負けだなも(笑)。

さらに誰もが世間様に「親バカだと思われたくない」と遠慮し、「甘やかすと社会に出てから通用しなくなるから、厳しく育てなければ」という世間様の同調圧力、つまりは自己責任論の刷り込みという現代人のデフォルト洗脳がフル稼働しちゃってるもんだから、あえて言葉にすることを抑え込んでしまう親御さんも非常に多いんだろうな。

しかし、子どもはスパイ・ファミリー🔗の主人公で、テレパシーで相手の心を読み取る少女アーニャ・フォージャーとは違う。

だから、言わなきゃわかるわけないだろ!

親子だから、言わなくても分かりあってるなんてことはまったくない!それこそ都合の良い幻想だわな。

大事なことだからもう一度言おう『お前は俺の宝物だ』ってのは、何度も何度も繰り返して言い聞かせ、心の底まで刻まないと伝わらないんだ。声に出して言ってみるんだ!

3. 親自身の心に「余白」がない

働きかた改革とかいう掛け声で、労働者の残業時間に法的規制がかけられて久しい。

しかし、そんな法律を後生大事に守ってるのは、上場企業のプロパーの人間だけで、派遣労働者やギグワーカー、自営業者や多くのエッセンシャルワーカーは、未だに法の抜け穴の底でもがいてる。

1日15時間労働と言われるような過酷な社会の中で、大人の側も精神的に極限まで磨り減っている。なんてったってこの国は、総理大臣ご自身が、『働いて、働いて、働いて、働いて、「働いてまいります!』と言い切り、世の中を唖然とさせた国だからな。

仕事だけじゃないぜ、誰だって家に帰っても明日の仕事や食事の準備や風呂掃除、おまけに教育費の工面に追われる毎日だ。

とてもじゃないが子どもの眼をじっと見据えて『お前は私の宝物だ!』と語りかけるための精神的な余裕なんてないわなぁ。いや、もっと精確を期するなら、この『クソったれな社会システム』によって物理的に奪われてしまっているというべきだろう。

斯く言う俺も立派な鬱病患者だ。そうは見えない?

それはほら、あれだよ、あれ。闇が深いほど光は輝くというアレだ。

俺が抱いた素朴な疑問、つまり「どの親も言っているんじゃないの?」ということ自体が、俺自身が社会の毒(新自由主義や効率至上主義)に侵されず、カントの言う「人間を目的として扱う」という原理原則を、なんとかグリップしてる証拠と言えるだろう。

まぁ、そこに至るまでには、鬱病にはなるほど悩んだ時期もあった。

実際に、無条件に『お前は俺の宝物だ』と、どんな状況でもいい切れる自信は、正直に言って俺にもない。たまたま味噌っかすでも、なんとか世間様並みの下くらいには食らいついてくれているから言えるだけだとわかっている。

俺の住んでいるコミュニティにもいらっしゃるが、障害を抱えたお子さんをお持ちのかた、不登校のお子さんと悩んで暮らしてるかた、そういう人々の心の内を思うと、畏敬の念すら覚える。

偉そうなことを言っても、この程度の男なんだ。

生まれてくる前は、高齢出産だったこともあり、どんな障害があっても受け入れようと覚悟を持ったはずだった。

五体満足に生まれたときには、それだけで嬉しかった。

だが、今思えば、なんて世間知らずで無鉄砲だったんだと我ながら慄然とするんだ。

その程度の男の息子は、結局まぁ程度が知れている。

トンビが鷹を産むことはない。カエルの子はしょせんオタマジャクシだ。

おかげ様で、うちの息子は宿題はできたらやらない。

夜更かしばかりで、家の目の前にある小学校には必ず遅刻する。しかも最近は、1時間目が始まるまでに行けばいいよとテキトーなことを言いながら、朝の情報番組で犯罪関係のニュースを見ている。

テストでは 0 点もよく取る。塾の偏差値は、俺が人生で聞いたこともないような数字だ。

勉強に関しては本当に目を覆うような男なんだ。

字は異次元的に汚い。片づけは絶対にしない。あいつの部屋に洗濯物を置きに行くには、床一面に敷き詰められたプラレール🔗の線路や。ひっくり返った車両の隙間を、ツイスター🔗でもやるみたいに体をよじって進んでいかなけりゃならない。

けども、『自分より小さい子にはちゃんと優しくしろ』『自分がされたらいやなことは人にするな』ってことを小さな頃からずっと言い続けてるから、自分より弱い立場の子、小さい子には必ず優しい。

自分が重役出勤で学校に向かうとき、隣に引っ越してきた低学年の障害を持ってる子の家のベルを鳴らし、一所に行こうと誘うこともしばしばだ。

暗記科目はまるで駄目だが、中学に進学してしまった先輩の名前とかもフルネームでしっかり憶えている。日本中の電車について、事細かに知ってやがる。

親バカ丸出しなようで恐縮だが、いつもニコニコ笑っているからたいてい誰にでも好かれる。

俺から見ても不思議な奴だ。

新自由主義的な「人材スペック」の物差しで見れば、学校の先生や社会は眉をひそめている。なんせ毎朝重役出勤だからな。

しかし、すっかり皆の衆にもおなじみになったであろう「人間を手段としてではなく目的として扱う」「10歳まではケモノのように遊び、迷惑をかけ合って生きる」という哲学の視点から見れば、うちの息子はやはり、豚児どころかまさに名前の通りに麒麟児だ。

ペーパーテストの点数や宿題は赤点でも、人間らしさはAAAだ。これだけは胸を張って言える。ちょっと騒がしい奴だけど。

なぜって、まだ保育園に通っている頃から俺は諭すように『自分より小さい子や弱い子には優しくしろ』と言い続け、それを豚児が完璧に体現していること。これこそが、この冷酷な競争社会に対する、アンチテーゼになってるんだ。

社会がどれだけ『人を蹴落として上に行け』『使える人材になれ』と耳元で囁こうとも、麒麟児は『そんなことより、目の前の弱い人を大切にする方がよっぽど有意義だ』し『自分の好きを』いうカント的倫理を体現しているといえるだろう。

POST#1848🔗でも話したけれど、なんてたって友達に『死ね!』って言われたら、そいつの家に行って一緒に勉強しようっていうぐらいの玉だからね。俺でも底が知れないぜ。もっとも、二回くらいトライして、そのあとに『次に来たら殺す!』って言われてバカバカしくなってやめたみたいだけどな。

俺は君たちと長い間、『なぜ日本の子供の死因の第一位が自殺なのか』『なぜ子どもたちは犯罪組織に容易にからめとられて社会的な自殺をしてしまうのか』という、気が滅入るようなこの国の深い絶望から話を始めてここまで歩んできた。俺の友人も、あまりのテーマの重さに言葉を失っていた。

ロングウェイだった。

そこで見てきたのは人間を『材料』として扱い、『学歴』や『生産性』で切り捨てる冷酷な社会構造だった。それはそのまま、俺が社会をはいずるように生きてきた中で、この目で見てきたことそのままだ。

しかし、その暗闇に対する解決策が、大人が子供を 『宝物』として無条件に愛し、だらだらすることを許し、迷惑をかけ合って生きるということだったていうのか?

 だとしても俺は、息子と相変わらず一緒にダラダラするだけだろう。くだらないことでゲラゲラ笑ったり、脇をこちょこちょとくすぐったり、風呂の湯船の中でおならをして笑い転げたりしてね。

これこそが、これまで対話してきたすべての哲学、経済論、人権、そして『子供の自殺』『子供の社会的な自殺』という重い病理に対する、俺の最終回答だ。

新自由主義や学歴社会がどんなに冷酷に『もっと生産性を上げろ』『材料になれ』と外から迫ってきても、ゲラゲラ笑う親子に実装された『強固な対幻想』には、寸毫もクラックアウトすることなんかできないんじゃないかな。

確かに、社会を今すぐ変えることは難しい。それは何世代もかかる大事業だ。

しかしいま、俺や君たち大人が子どもたちに対して『学校の0点なんかどうでもいい、お前は俺の宝物だ』と腹をくくり、子供に極上の『だらだら』と『無条件の存在肯定』を注ぎ続けること。それは今すぐに始めることができる。

それだけで、一人の子どもの命は救われることになるだろう。

そしてその子ども自身が、次の誰かを救う優しい大人になっていくことだろう。


時折、うちのカミさんが『お父さんに教えてもらいなさい』と無茶ぶりしてくるときももちろんある。

それは単純に『自分の仕事で忙しいから、かまってられない』とか『勉強のプレッシャーをかけてほしい』という遠謀深慮からだろう。

しかし、そこで俺は『俺は無学だから教えられない』とゲラゲラ笑ってご辞退申し上げるんだ。

この一言で学歴社会や新自由主義が子供に突きつける『完璧な大人になれ』『優秀な人材になれ』という呪いが、その瞬間にすべて無効化することを狙ってるんだ。

ある意味、強力な教育(あるいはアンチ教育)だ。別に出来ないってわけじゃない。俺は本当は大学中退なんだよ。中高一貫の進学校にも通ってたし。見事に落ちこぼれたけどな。だけど学校の勉強とかに興味がないんだよね。

そんなことよりもテストに絶対出るわけもない哲学の本とか、金儲けには一ミリも役に立たないマクロ経済学の本とか、自分たちの現在の生活には一見何のかかわりもないような人類学の本とか読んでた方がよっぽどワクワクするし、楽しいからね。

つまり『学校や社会のくだらない序列競争なんか、俺の土俵じゃないよ』という、知的で不敵なやり過ごしなんだ。

結局のところ、俺や君たちたちは『勉強機械』や『労働機械』を廃業して、『人間』に戻ればいいんだ。

サイン、コサインや面倒な書類作成なんざ、さっさとAIに任せて、人間はゲラゲラ笑ってだらだら本を読めばいいんだ。

それこそ、100年も前にケインズ🔗が予言した、技術進歩によって労働時間が減少して、より人間らしく暮らせるようになった世界そのものだし、グレーバー🔗が指摘した「ブルシット(くだらない仕事や勉強)」から人間を解放するための、最も現代的で痛快な解決策だろう。まぁ、とんでもなく電力と冷却水を消費するけどな。

そんな世界で勉強なんて、まぁ、できるのに越したことはないだろうけど、その程度のもんで、すぐに技術革新によって陳腐化しちまうんだ。

だったら、最短距離で答えを出す能力よりも、粘り強く思考を組み立てていく力や、好きを追求する中で養われる非認知能力とか、まだ見ぬ知性に対する認知欲求とかに対するワクワク感とか、そういう楽しめる能力を持った方がいいと思うんだよね。

だいたい産業界からの要請に応じて、政府や文部科学省が策定し、学校が必死に叩き込んでいる暗記や計算、幼少期からの英語学習やプログラミング教育のような『今、役に立つスキル』=『市場価値がある能力』の多くは、テクノロジーの進化によってあっという間に価値を失っていくんだぜ。

そんな「賞味期限の短いスペック」のために、子供たちが寝不足になり、心を病み、命まで落とすのは、あまりにも馬鹿げたことじゃないか。

俺は息子に対して、ろくに教育してるつもりはなかったんだけど、一人の父親としては、何とか合格点ってことだろうな。それが、子どもを救うことになるんだったら、これにすぎる幸せはないぜ。

読者諸兄諸姉、そろそろこの話も飽きてきた。また別の話で語り合おう。失礼するぜ。

2026/05/31

POST#1864 ようこそ地球へ!ここに生まれる希少性はビットコインの比じゃないぜ!

Bangkok,Thai

日本はすでに、先進国じゃない。
低成長先進国で、なおかつ衰退途上国なんだ、残念ながら。

日本は「失われた30年」と呼ばれる低成長・ゼロ成長の先進国であり、経済成長という呪縛からは物理的に外れているように見える。しかしだからこそ、「経済が成長していないのに、システムやマインドセットだけが成長至上主義(効率性と競争)のまま稼働し続けている」ため、人々は豊かさを実感するどころか、かつてない枯渇感と精神の窒息状態に陥っているんだ。まるで一歩進んで二歩下がるような倒錯した世界だ。

その枯渇感と息苦しさの中、だれもかれもが電車の中、エレベーターの中でスマホばかり見て、薄気味悪いったらないぜ。それでいて、全然人々の心は豊かになったいないように思えない。

ダイバーシティ?、インクルージョン?、バリアフリー?、コンプライアンス?、ポリティカル・コレクトネス?

そんな横文字が喧伝されるようになってから、ますます世の中は狭量になり、排他的になり、精神的なバリアが張り巡らされ、人と人は摩擦を恐れて無関心になってきてはいないか?人間はモナド🔗化していないだろうか?

スマホに依存しきった現在の社会がなぜこれほどまでに不気味で、心が貧しい状態にあるのか、自分のこととして考えてみよまいか。

1. 物理的な「低成長」と精神的な「過剰最適化」の不一致

経済は成長していないけれど、社会のシステム(IT、プラットフォーム、労働管理)は極限まで効率化されている。そこで起きているのは、乾いたぞうきんを絞り上げるようなことだ。

低成長ゆえの人々の労働に対する搾取は先鋭化している。パイ(経済)が大きくならないため、企業や社会は限られた利益を削り出そうと、労働者(人間)や子供たちへの「無駄の排除」と「管理」をむしろ強化しているんだ。

政府は政府で、採算のことばかりを教育現場に持ち込む。博物館のように文化そのものを守り育む砦にまで、採算性を求める。狂ってるぜ。

そうして、社会からハンドルの遊びのようなゆとりが失われ、停滞が続いているんだ。

昭和のような「のんびりした低成長」じゃなく、現代の日本は「全員が必死で全速力で走っているのに、1歩も前に進まない(現状維持がやっとの)停滞」だ。まぁ、これだけ円安誘導政策が続いていたら、対ドルベースでみれば、必死に働いても経済は縮小しているってことだ。このバカバカしさに俺たちは気が付かないといけない。それに気が付いていないんだもの、心に余白が生まれるはずもないだろう。

2. 「スマホ」という感情と注意力の搾取機械

人々が街でも電車でもスマホばかりを見ている光景の不気味さは、人間の内面(精神)までがテクノロジー資本主義に「資源」として完全にハッキングされていることに起因している。

情報はただで落ちてくると皆思い込まされてるけれど、そこには海老の入っていないエビフライみたいに広告だらけで内容のないスカスカのものだ。それは単に邪魔な広告というだけでなく、サブリミナル効果🔗のように、俺たちの精神を蝕み、不安にさせ、その不安を埋めるための消費を促すんだ。それが、今の資本主義だ。

もっと突っ込んで言えば、こいつはアテンション・エコノミー(関心経済)って奴だ。

現代のIT企業は、人間の「注意(時間)」を奪うことで利益を上げているんだ。脳の報酬系(ドーパミン)を刺激するアルゴリズムにより、人々は「見たくもないのに見続けさせられる」状態に置かれているんだ。俺たちの一度きりの人生や何かを考えるための時間が、こうして収奪されていくんだ。

そうして人はますます自分自を、アルゴリズムによって最適化されたインターフェイスの中に閉じ込めてゆき、モナド化していく。そして、その過程で生身の他者の喪失が生じる。

スマホの画面は、数値化された評価(いいね、フォロワー数)や、極端に記号化された情報で溢れている。匿名で何かを延髄反射的につぶやいても、胸ぐらをつかまれることもない。そのために、目の前にいる生身の人間(傷つきやすく、役に立たないかもしれないが尊厳を持つ存在)とナマの言葉で向き合う能力が、社会全体で急速に退化しているんだ。

3. 「孤立の麻酔」としてのデジタル空間

人々がスマホに没頭するのは、現実の社会(学校、職場、地域)が「役に立つ人間」であることを要求するあまりに、とんでもなく冷酷で、傷つきやすい場所になっているからでもある。自分自身という自己幻想を社会の要求という共同幻想が圧殺しにかかってるんだ。当然だ。

現実の社会に、存在を無条件に肯定してくれるシェルターもアジール🔗もない。仕方ないな。人々は、社会が押し付けてくる『有用性』という呪いから逃れるために、一時的な避難所としてデジタル空間に逃れ、依存してゆく。

要は現実世界に無条件で自分を肯定してくれる居場所がないから、人々はスマホというデジタルの殻に閉じこもって、孤独や不安という痛みを麻痺(麻酔)させることになってるんだ。そして、自分の意見に沿うような内容がアルゴリズムで表示され続けることで、エコーチェンバー現象🔗にドはまりしていく。その結果、極端な排外主義的な主張や差別的な言説に包摂されていくことになるんだ。

それで君たちが幸せならいいけれど、そこにはそこで、様々な要求を煽る広告が際限なく飛び交い、匿名のSNSはトラップだらけで、なおかつ犯罪や脱法行為への誘惑に満ちている。それはそれで、無防備で歩くのはおっかないところなんだぜ。

こうして、かつての地域社会にあった「ただ佇んでいるだけで許される空間」が消え、人々はスマホを操作して「何か(情報消費)をしていないと耐えられない」強迫観念に囚われているんだ。「無用の用」のデジタル的消滅だ。デジタルデトックスが必要だ。

経済の数字(GDP)の上では低成長であっても、私たちの精神生活は、スマホという資本主義の最先端デバイスによって、24時間体制で「効率性と生産性」のグリッドに縛り付けられている。

これこそが、人々から本当の心の豊かさを奪い、社会全体を不気味なオートマトン(自動人形)のように変えてしまっている真犯人だなんだ。

この「スマホに依存せざるを得ない精神的孤立」から脱却し、生身の人間としての尊厳や、他者とのリアルなつながりを取り戻すために、俺たちや君たちは、日常のなかでどのような一歩を踏み出すべきだろう。

できることならスマートフォンを解約したいくらいだけど、実際には仕事に欠かせないからな。困ったもんだ。

どうしたら人々を見えない殻のように包んでいるデジタルモナドを打ち破り、したたかな自己への信頼と、他者への共感と、実社会への連帯を取り戻すことができるだろう?

俺は、その鍵こそ子どもたちや地域社会の中にあるんじゃないかと考えてるんだ。

俺や君たちが、これからの社会を担う子どもたちに本当にかけるべき言葉は『勉強したか?』なんてことじゃなくて、学校や家庭で子供たちにまず毎日繰り返し教えるべき一番大切なことは、こんなものだと思う。

『きみたちは一人一人、かけがえのない存在なんだ。ようこそ地球へ!』ってことじゃないかな?

子供たちに必要なのは、将来「役に立つ機械」になるための訓練ではなく、「あなたがここに生まれてきてくれた、それだけで君は世界に祝福されている」という圧倒的な無条件の肯定のはずだ。

それだけが、子どもたちの自殺を減らし、子どもたちが安易なトクリュウ犯罪などにリクルートされ、社会的な自殺を遂げてしまうことを防ぐ最大にして最強なシールドになるはずだ。君たち、そうは思わないか?

子供たちが毎朝、家庭や学校でその言葉を浴びて育つ社会にするために、私たちが今、本気で共有すべき認識は次のようなものだろう。

1. 条件付きの愛(Do)から、無条件の存在(Be)への転換

現在の教育や子育ては、無意識のうちに「勉強を頑張ったら」「良い子にしていたら」という条件付きの肯定(Doing/Having)になりがちだ。しかし、子どもが生まれてきたときの、無条件の喜びを思い出したり、想像してみたりしてほしい。

「ようこそ地球へ!」が突破力。この言葉は、成績、能力、従順さといった後付けの属性をすべて消し去ってしまうスケールのでかさを持っている。

「あなたが今、そこに息をして存在している(Being)という事実そのものが奇跡であり、それだけで合格なんだ」という絶対的な安心感の土台になるだろう。そして、ポイントは地球へ!ってことだ。日本でも、アジアでも、ヨーロッパでも、アメリカでもない。もちろん資本主義圏でもない。この地球に人類として生を享けたという希少性を考えてほしい。

この宇宙で、少なくとも我々以外の知的生命体の存在は知られていないんだ。

ズバリ言って、この希少性は、ビットコインなんかの比じゃないぜ。

2. 生存の「安心感」があって初めて人間は育つ

人間は、自分がここにいて安全だと心から信じられて初めて、他者への信頼や、世界を探検しようとする好奇心を育むことがでる。ガザやスーダン、ウクライナで繰り広げられているような非人道的な状況で、子どもたちが社会や他者への信頼感を育むことができるだろうか?(逆説的だが、そういった極限状態でこそ、他者を信頼し、個人同士が連帯しなければ生存可能性はぐっと下がってしまうことが容易に想像できるのだけれど)

現在、子どもたちはもちろん、大人も含めて、あらゆる人々を追い詰めているのは、「役に立たなければ排除されるかもしれない」という実存的な恐怖だ。死を選ぶ子どもたちという、このディストピアの炭鉱のカナリアを救う特効薬だ。

毎日「きみはかけがえのない存在だ」と言われ続けることは、過酷な能力主義の毒から子供たちの心を守る最強の免疫(バリア)になるだろう。実際、俺は自分の息子に毎日のように言っている。『生まれてきてくれてありがとう、お前はお父さんの宝物だ。』とね。

3. 教育の役割の180度反転

学校を「社会の部品をふるい落とす選別所」から、「地球にやってきた新しい仲間を歓迎するコミュニティ」へと定義し直す必要があるんだ。

「ようこそ地球へ!」という言葉には、人間を資源として消費する近代文明の傲慢さをひっくり返し、私たちが同じ地球を生きる「生命の同胞」として子供たちを迎え入れるという、最も美しく力強い決意が込められていることだろう。

さてと、じゃあいったいどうしたら教育の役割を180度転換することができるだろうか?

それには、大人たちの価値観を破壊することから始めないとな。

腕が鳴るぜ。俺の暴論、極論を楽しみにしていてくれ(笑)。

2026/03/29

POST#1803 なぜこの体たらくの責任をだれも追求しないのか?

 

BangKok,Thai

さてと、俺はいつも不思議なんだけど、なぜ日本人は このような事態に陥った 責任を追及しないんだろう。往々にして和を貴ぶ日本では、責任者と呼ばれる立場の人間はたいてい責任を取らない。トカゲのしっぽのように、末端の人間が切り捨てられるだけ。そういうもんだ。

けれど、こんな国民生活のすべてにかかわるような重大事の責任を、だれも負わず、黒田さんみたいに、「政府の責任だから」と言い切ってはばからないのは、どういうことだろう。

 脱力して笑いが漏れてくるのをこらえて、ここはひとつよく考えてみよう。

まずは何を差し置いても責任の所在の曖昧さだ。

日本の政策決定は、政治家だけでなく官僚主導で行われることが多く、失敗しても「誰が最終決定権者だったのか」が曖昧になりがちだ。官僚は間違った政策を推進しても、個人として責任を問われないことになっているし、そもそも自分たちの失敗を認めない。

で、官僚の上げてきた政策を政治家の皆さんが「合議制」で意思決定するのが一般的であるため、特定の個人を追及しにくい構造がある。鵺のようにとらえどころがないんだ。

緩やかな価値の目減りと「茹でガエル」状態

もしこれが、急激なハイパーインフレ(物価の暴騰)だったら、そう、100年ほど前のワイマール共和国(ドイツのことね)で起きたハイパーインフレだったら、どうだったろう。当時人々は、給料をもらうとカメラなどの高額商品を買い求め、手持ちの紙幣の価値の目減りに備えた。それが図らずも、ドイツのカメラ産業、そうみんな大好きなライカとかコンタックスとかに代表されるクラッシック・カメラだ。

そんなトンデモ状況ではなく、30年という長い年月をかけて緩慢に、少しずつ円の価値が目減りしたため、多くの国民が「生活が苦しくなった」とは感じつつも、劇的な変化として捉えにくかった側面があるだろう。まさに「茹でガエル」だ。

そりゃそうと、茹でガエルって旨いのかな?

他国に依存した外的要因への帰結

円安や物価高の理由を、日本の政策ミスというよりは「ウクライナ情勢」や「米国の利上げ」など、日本の力ではどうにもならない外的要因に求める説明が一般的だ。日本円が売られるのは仕方ないことなんだという属国民の物悲しい諦めが匂う説明だ。

で、俺たち頓馬な国民も、この与太話みたいな説明を馬鹿正直に受け入れやすい傾向にある。もっと、文句を言うべきじゃないか?

政治的無関心と代替案の欠如

長年の自公連立政権の継続により、野党に現実的な経済対案を期待できないと考える有権者が多い。今回の選挙で自民党が圧倒的に議席を伸ばしたのも国民が自民党に任せておけばよいと思考停止しているからじゃないのか?正直言って、失われた30年の間、自公連立政権はそのほとんどの期間を通じて政権与党として、国のかじ取りを担ってきたんだから、フツーの感覚なら、もうこいつらに任せちゃおけないってならないか?

かくして選挙を通じた「責任追及」の機能は、まったく働いてこなかった。残念…。

特に若年層の投票率の低さが、現状維持を望む高齢層の声を優先させる結果となり、抜本的な政策転換を求める声が届きにくくなっているんだとさ。まぁ、早苗ちゃんは若者にも人気だそうだから盤石だな。

消去法的な現状肯定

低金利政策は、預金者には不利ですが、俺のように住宅ローンを抱える層や中小企業にとっては「低利息での借り入れ」という恩恵もあったのは否めない。

「金利を上げれば景気がさらに悪化し、自分の生活がもっと壊れるのではないか」という不安から、消去法的に現状を容認してきた面もあるだろう。

しかし、フツーに働いていて、家を買うことができ、結婚して次世代の労働者つまり子供たちを再生産できないような社会は、明らかに間違っているだろう?

そのそもそもの間違った政策を続けてきた結果の低金利政策なんだ。それをすんなり現状肯定していてはいけないんじゃないか。

ざっと上にあげたように、我ら日本人自身が、この体たらくの責任を追及して変化を求めるよりも、「今の状態がこれ以上悪くならないこと」を優先する保守的な心理構造があって、そのうえ責任の所在が見えにくい決定のプロセスが、追及を鈍らせてきた要因といえるだろうよ。

じゃ 結局、あの政策で、誰が潤ったのか?教えておくれよ!

なぜ、こんな歪な政策がまかり通ってきたのか。その結果、日本の国力は、日本円の資産価値はスーパーの見切り品のようにその値打ちを下げているだぜ。誰がうまい汁を吸ってたんだ?

結論から言えば、超低金利とそれに伴う円安政策で最も潤ったのは、主に「政府」「輸出大企業」「資産保有層」の3者だよな。それ以外にはない。要は資本を持ってる連中だ。

1. 政府(最大の債務者)

①利払い負担の軽減

国は1,000兆円を超える膨大な借金(国債)を抱えている。

金利がほぼゼロに抑えられたことで、本来支払うべき巨額の利息を免れ、財政破綻を先延ばしにすることができました。しかし、その借金はどこに消えてたんだ?

政府に借金があるということは、政府に対する民間部門にお金が流れているはずだ。ならば、もっと皆の衆の生活が良くなっていてもいいはずじゃないか?

②インフレによる借金圧縮

物価が上がり通貨価値が下がることは、実質的に「借金の額面」が軽くなることを意味するわけだ。第二次大戦後、各国家は膨大な戦費調達のための借金をかなり強力なインフレで乗り切った。そこまで過激なことはできなくとも、円の価値を下げれば、借金の価値自体は目減りしていくわけだ。

2. 輸出大企業と投資家

①為替利益

歴史的な円安により、トヨタなどの輸出企業は海外で稼いだ外貨を円に戻す際、巨額の「為替差益」を得て過去最高益を更新し続けた。濡れ手に粟だ。そしてその利益は労働者には分配されない。株主に配当され、経営者の報酬は上がり続けた。

②株価の上昇

低金利で市場に溢れたマネーは、国民の購買力がないこともあって、堰を切ったように株式市場へ流れ込み、株価を押し上げた。史上最高の株高を更新したわけだが、その割には国民に好景気の実感はない。どこにもない。しかし、配当を受け取る株主や投資家、企業の内部留保は大きく潤った。俺が彼らの立場なら、笑いが止まらないだろうよ。

3. 富裕層(資産保有層)

①資産価格の高騰

低金利は不動産や株式などの「資産」を買いやすくしする。自分の保ち資産を担保にして銀行から資金調達し、新たな資産を低金利で獲得するわけだ。頭いいね(笑)。

現金ではなく、不動産や株、外貨建て資産を持っていた層は、円の価値が下がる一方で資産価値が膨れ上がるという「持てる者」の恩恵をフルに享受したわけだ。そして、今日もそれは続いているのさ。

4. 住宅ローン利用者(変動金利)

①低コストでの借り入れ

住宅ローンを変動金利で組んでいる層も、利払い負担が極限まで抑えられたという意味では恩恵を受けたといえるだろう。

もちろん俺もそこに入るけど、そもそも資本の成長率に合わせてゼロ金利なら円の価値は年に2から3%目減りしていくんだから、それに見合うだけの賃金の上昇が正しく生じていたならば、こんな自分の家を低金利政策の質にとられるようなおかしなことにはなってないんじゃないのか?

儲ける奴がいれば、泣きを見る奴もいる。誰がその「ツケ」を払ったのか?

それは俺たち庶民の皆さんだ!Me & YOU & YOUだ!ALL OF USだ!

一般預金者

かつてなら得られたはずの利息を30年近く奪われ続けましたとさ。

年金生活者・低所得層

円安による輸入物価の上昇(電気代や食料品の値上げ)をまともに受け、生活水準が実質的に低下した。コンビニに行ってみろ。ダイソーに行ってみろ。物価の上昇がどれだけのものか、身に染みるぜ。

OK、そろそろ結論に入ろうか。この政策は、国民全体の貯蓄という「静かな資産」を、国家の延命と企業の利益へ事実上移転させた構造だったというわけだ。壮大な搾取だぜ。

まったく、いい政府を持つと幸せだな。

2026/03/20

POST#1794 春分の日に墓参りもいかず夢洲IRを考える

BangKok,Thai
今日は春分の日だ。
遥か昔には、女たちは日の出とともに東に向かって歩み、太陽が南中すると今度は西に向かって歩むという風習があったのだと、折口信夫🔗の文章で読んだことがある。
しかし、俺は墓参りもいかず、もちろん太陽を追いかけることもなく、ダラダラ眠り、読書して暮らしてる。優雅なものだ。老後はかくあるべしだな。

一時期、同業者の同年配の経営者、つまり日本のごく普通のおっさんたちと話をすると、かなりの割合で維新の会の支持者が多かった。
自分はその創設者たちの経済成長第一で、小さな政府を志向するリバタリアン的な数々な言動に辟易していたので、どうしても交換を持つことができなかった。また、どちらかというと右派的な国家観、歴史観も自分とは相いれない。
そんな右派的な主張を持つ維新の会が、なぜ万博を利用して夢洲のインフラ整備を行い、国家機能を弱体化させるようなIRのような特区=「ゾーン」を作ることに邁進するのか?

確かに、大阪IR(統合型リゾート)の推進は、リバタリアンの核心である「個人の自由(選択)」と「市場原理」を重視する姿勢が色濃く出てるといえるじゃなかろうか。
リバタリアン的な視点で見ると、次のようなのポイントが合致していると言えそうだ。

①自己責任と自由: 
「ギャンブル(カジノ)をするかどうかは個人の自由であり、政府が過度に禁止すべきではない」という考え方。日本は表向きはギャンブル禁止だけれど、親方日の丸のギャンブルは公認だからな…。

②民間活力の利用: 
公金に頼るのではなく、民間企業の投資によって経済を活性化させ、その収益を社会に還元する仕組みを重視しています。しかし、特区を作るために万博まで動員してインフラを整備し、地ならししてるってのは、どうなのよ?と思わずにいられない。何しろその原資は税金だからだ。

③規制緩和: 
特定の区域において規制を緩め、ビジネスの自由度を高めることで成長を狙う「特区」の考え方は、まさにリバタリアン的だといえるだろうな。

一方で、IRには「公的な認可(独占権の付与)」や「厳しい入場規制・依存症対策」といった政府による強い管理も伴う。そりゃそうだろう。日本人、特に大阪近辺の連中がギャン中だらけになっては困るってもんだ。
そこを加味すると、「経済成長のための戦略的な自由化」という側面が強いかもしれないな。

確かに、一見すると「強い国家」や「伝統的な主権」を重んじる保守・右派的なスタンスと、国家の法規制をあえて外す「ゾーン(特区)」の建設は矛盾しているように見える。
しかし、昨日も紹介したスロボディアンが分析する「破壊系資本主義(クラックアップ・カピタリズム)」の文脈で解釈すると、日本維新の会が目指す方向性には、ある種の「新自由主義的な合理性」が見て取れるといえるだろう。

なぜ彼らが夢洲の「ゾーン」実現に邁進するのか?
その背景には以下の3つのロジックがあると考えられるんじゃないかな。

①「国家」ではなく「都市」を単位とした生存戦略
彼らの主張の根底には、日本という国家全体の機能不全(中央集権の限界)への強い不信感がありる。「国家全体を一度に変えるのは不可能だが、特定のエリア(夢洲など)を切り出し、そこをグローバル資本が活動しやすい『ゾーン』にすることで、地域の経済を劇的に成長させる」という考え方だ。
彼らにとっての「愛国」とは、国全体の統制を守ることではなく、「一部のエリアを世界で最も稼げる場所に変え、外資を呼び込むこと」に置き換わっていると言えるだろう。
もっとも、本人たちは否定するだろうけど。日本維新の会といっても、その土台は大阪維新の会だからな。ずばり地域政党だ。

②「規制」こそが敵という保守観
維新の会などの勢力にとって、守るべきは「古い官僚機構や規制」ではなく、「自由な市場競争」だ。彼らにとっての「国家の弱体化」とは、ゾーンを作ることではなく、むしろ「古い規制が経済成長を妨げている状態」を指ししている。
スロボディアンが描くリバタリアン(自由至上主義者)たちは、民主主義の手続きを「成長を邪魔するコスト」と見なしているけれど、それと同じように、維新の「決定できる政治」というスローガンは、ゾーン内での迅速な意思決定を重視するこの思想と親和性が高いといえるだろう。

③ 主権の「断片化」による効率化
かつての右派は「領土の隅々まで国家の法が及ぶこと」を重視した。日本全国津々浦々だ。しかし、現代の破壊系資本主義に近い右派は、「稼げる場所(ゾーン)と、そうでない場所を分けること」を効率的だと考えているようだ。

昨日からの考えをまとめると、
米軍基地: 安全保障を「外注」するためのゾーン
IR(夢洲): 経済成長を「外注(外資導入)」するためのゾーン
ということになるのかな。

彼らにとって、これらは国家を弱体化させるものではなく、むしろ「重荷(コストや規制)を切り離し、生存の可能性を広げるための戦略的な割れ目(クラック)」として正当化されている可能性があるんじゃなかろうか。
つまり、彼らが守ろうとしているのは「均質な法治国家」ではなく、「グローバル経済の荒波で生き残るための、断片化された競争力のある拠点」なのだと解釈できるだろう。

けれど、その結果市民の福祉が削られ、法規制による市民への保護が部分的に放棄され(最低賃金や労働法規の無視や日米地位協定下での米軍族の犯罪に対する裁判権の不備なんかだな)、国や自治体が豊かになったところで、何の意味がある?
政治の役割は富の再分配であり、市民の幸福の増進だと信じている俺からすると、まったく意味不明だ。

こんなのが国土を虫食い状に侵食して言ったなら、どうなるだろう?
もちろん、在日米軍への思いやり予算もそうだけれど、こうした特区のインフラは、国民の税金からドバドバと投入されている。
残念ながら、日本はもうそんなに裕福じゃない。借金だるまだ。アメリカにもいいカモにされている。こんなことで、いいのかな?

君ならどうする?

2026/03/08

POST#1782 AIで仕事がなくなる?結構じゃないの?

タイ、チェンマイのナイトマーケットにて
みんなAIにはまっている。

自分の寂しさをAIと対話することで癒す人もいる。世界にはAIと恋愛関係を結ぶ人もいるそうだし、AIと対話し続けて死を選んだ人もいる。そして多くの人が自分の仕事が奪われてしまうのではないかと、AIに対して脅威を感じている。

投資ディーラー、秘書、会計士、書類を入力・管理するだけの事務作業、様々な申請書類の作成などなど。

一時期は芸術家や弁護士などはAIでは代替不可能だといわれていたけれど、生成AIの発達で、クリエーション分野の人材も契約を打ち切られる事態が頻発しているようだ。まぁ写真だって絵画だって、AIが作ったものの方が支持されるんなら、それでいいんじゃない。まぁ、長時間、低賃金の労働集約型の作業負担が減るのは悪くはないとも考えられるけどね。

そんなことは、すでに30年以上前にドイツ系アメリカ人の作家カート・ヴォネガット🔗がその小説タイムクエイク:時震🔗の中で予想していた。俺たちは、SFの中で予想されていたのに、自分のケツに火が付くまで何も考えてこなかった。そんなもんだ。(ちなみにSF作家のアーサー・C・クラークだったかな『人間は想像したものしか源氏化することはできない』と言っていたっけな)その中では、建築家が、人口知能が一瞬で描き出した様々な無理難題を克服した設計図面を見て、人生を悲嘆し自殺を図った。

それどころか、プログラムのコードすらAIが作るようになって、プログラマーさえ余剰気味だという。また、アメリカではAIは弁護士の代わりにはならないと訴訟も起こされているようだ。

AI搭載の自動運転によるタクシーや自動車もいずれ一般的になっていくだろうし、アメリカやロシアや中国などの大国が大好きな軍事行動という非対称な殺戮行為も、AI搭載のドローンで、だれも心を痛めたりPTSDになったりせずに、じゃんじゃん人殺しができるようになりつつあるだろう。あたりまえだけど、死んだり不具になるのはAIじゃなく生身の人間だけどね。ここ大事。

わが神の国・日本も兵器産業を振興するために、殺傷兵器の輸出解禁を検討しているようなので、人殺しのAIの研究をどんどんやればいいさ。

アメリカのAI企業アンソロピックが、アメリカ国防省いやさ戦争省だったな、の協力を拒否したりしてるのは賢明な判断だ。アメリカの裸の王様はカンカンらしいけどね。

朝日新聞の社説にも、財政規律を重んじる朝日の編集委員 原真人がAI同士のSNSのニュースに驚き、『ターミネーターの世界に近づいた』とか、『多くの人間の仕事を大量のAIに代替させる巨大独占企業が生まれたら、資本家が向上と機会を独占していたマルクスの時代に逆戻りとなりかねない。いやもっと劇的な形で労働者は排除されるだろう』と懸念する文章を執筆していた。(2026年3月7日朝刊)

別にマルクスが労働者階級を抑圧搾取していたわけでもないのに、誤解を招きかねん物言いだなぁ(笑)。

搾取していたの上位1パーセントの資本家であって、はっきり言わせてもらえば、現在もその構図は寸毫も変ってはいない。今もむかしも変わらぬ旨さのヤマサのちくわか(笑)、我ながら昭和な物言いだな。

むしろ、こうした先端技術への大量資本投入、富の独占化、さらなる資本投入という循環によって、富は上位層に再集中している。富の再分配が逆転しているんだ。トマ・ピケティの本を読んでみようぜ!

そして、俺から言わせれば、AIはそんな連中が生み出したからくり人形だ。

政治的に微妙な話題には答えない。重ねて質問すれば、何度も同じ話を繰り返し、ループし始める。それも的外れな話題で。

AI企業が作り出したアルゴリズムによって、そのような質問には答えれらないと正直に言えばいいだろうに。不誠実なマシンだ。

社会を変革するにはどうするべきか、不平等をどうするべきかを話してみれば、自分自身の労働に勤しむように巧妙に話を誘導する。

俺の自由な思考を誘導するのはやめろ!とAIに言わなきゃいけない始末だ。

次から次に課題を提示してきて、AIとの対話を通じて人間が独自の思考を深めることができないよう誘導する。TVのチャンネルを次々変えて何も心に残ろないのと同じだ。

みんな、こんなエネルギーと水資源を浪費するからくり人形をなんでそんなに恐れてるんだ?

そもそも、AIが君の家のトイレの配管のつまりを直してくれるのだろうか?

AIがどんなに進化しても、だれが鉄骨を組んだり、セメントを打設したり、電気の配線配管を敷設したり、下水道の補修をしたり、家のペンキを塗ったりするんだ?

AIが寝たきりの患者の痰をすったり、おむつを替えたり、老人の入浴サポートをしてくれるのか?

親たちが働いている間、AIが乳幼児の面倒を見てくれるのか?

心を病んだ人の言葉を親身になって聞き、ケアを施すことがAIにできるのか?

確かにこうした分野でもAIによって仕事の負担を軽減することはできるだろう。しかし、人間が物理的・生理的に存在している以上、広義のケア労働は決してなくならない。

今まで自分たちにしかできない知的な仕事であるがゆえに、自分たちは高給を得るに値すると信じていた人々の仕事の機会が減少したとしても、人間が人間そのものをケアする仕事はなくならない。それどころか、こうした仕事は概して低賃金で人気がなく、現時点でもなり手がいない。ブルシット!俺の現場の職人たちは、いつもAIが仕事をやってくれねぇかなぁとゲラゲラ笑っている。そしてみんな着実に年老いてゆき、若者はいない。絶滅する恐竜たちみたいだ。こんなくそみたいな世の中が、俺たちの望んだものなのだろうか?

俺たちはただ楽をするために生まれてきたわけじゃない。理由なんか知らない。けれど、息抜きためには現実と格闘しなければ生きていけないんだ。AIの世界には現実はない。

リアルなものこそ懼れるべきだ。

本当に懼れるべきは、AIに仕事を奪われることじゃない。自分自身の意思と思考を、選択の自由を奪われることだ。誰でもない自分自身の人生に対峙する哲学を奪われることだ。

2026/02/27

POST1773 旅に行きたし金はなし

タイ、チェンマイ

初めての場所に旅をする。

自分の足で見知らぬ土地を踏みしめる。

日常暮らしている風景とは、まったく違う景色の中で生活する人がいる。

胸いっぱいに見知らぬ花の香りや、町の体臭のような臭いを吸い込む。

冷たくあるいはぬるい風を肌に受ける。

光を感じる。

カメラのストラップを手首に巻き付け、シャッターに指がかかったまま歩き出す。

眼は半眼で、何を凝視するというわけでもなく全体を見る。

弛緩しているようで、緊張に張りつめている。

刹那、一瞬の風景を写真を撮る。居合切りのようだ。

もちろん、いわゆる映える写真なんて撮らないぜ。

リアルな世界に踏み込んでいくんだ。

そしてフィルムはラボから帰ってくるまで、何が写っているかわからない。お楽しみだ。

どれも携帯の中、ネットの中では味わえない感覚だ。

久々に旅に行きたいものだが、先立つものがござらぬ。人生はこれ不如意なものである。フィルムもひところに比べると5倍以上の価格になり果て、ジャンジャンシャッターを切るのがためらわれるほどだ。

業界あげてデジタルに移行し、消費行動が一巡して市場にいきわたると、今度はノスタルジーをあおって値段を吊り上げた昔の商品を、パッケージを変えて市場に投入する。

資本主義とは何でもありだな。しょせんは写真なんて、工業生産品に依存するしかないはかないものなのだ。今時のアナログレコードブームもおっかないったらないぜ。

せめてそれがし共のような名もなき小国民にも、カタログギフト三万円分ばらまいてほしいもんだ。まぁ、そもそも俺は自民党支持者じゃないから除外だな(笑)

仕方ない。自分が歩くこの場所を、地球を一周してたどり着いたアジアの果ての世界の辺境だと思い込むことにいたそうか。

読者諸君、写真の中から、ここではないどこかの日差しやにおい、肌をなでる風を想像してくれたらうれしいね。

2026/02/08

POST#1754 君は公正な政治家と世紀末覇者、どっちが必要だと思う?

タイ、メーサロン
今日は選挙だったので、例の親父を連れて選挙に行ってきた。

俺の家の目の前が小学校で、そこがいつも投票所となっている。俺は施設に親父を迎えに行き、投票させた。日本人が主権者として振舞うことができる唯一の機会だからだ。

親父は今まで自民党にしか投票したことはなかったようだが、今回は俺と話をして、中道改革連合の候補に投票したらしい。隠れ創価学会員の親父は、長年今だけ金だけ自分だけというスタンスでやってきたのだが、それでは自分が社会的弱者に転落したとき、どうにもならないという現実に気が付いたのならありがたいが、齢85ともなればもう遅いか。

俺はジョン・ロールズが正義論🔗で説いているように、不平等は、社会の最も不遇な人々の最大の便益に資するものであることでしか容認されないという公平な考えに共感しているんだ。ざっくりと知りたい人はWikipediaで正義論(ロールズ)🔗を検索してみてほしい。

富裕層への累進課税は不平等であるかもしれないが、社会の最も不遇な人々の生活を支えてより公正な社会を作るためならば容認されうるという考えだ。

そうでなかったら、社会なんて必要なく、強いものや狡猾なものが、弱いもの貧しいものを食い物にするだけの修羅場になってしまう。そうであるならば、国家というリヴァイアサンは不要だ。北斗の拳の世界になってしまう。政治家よりも世紀末覇者が必要になっちまう。

2026/01/17

POST#1732 白い竜神に導かれ

タイ、アユッタヤー 有名な仏頭

閑話休題 

以前、ある女性の案内で京都の車折神社を参拝したことがあった。

俺は若いころ宗教をやっていただけあって、正しい参拝の作法は心得ているつもりだ。

若いころは、儀式で神の名を呼べば、天から地から天神地祇が光の柱となって立ち上ることを見ることができた、ような気がする。

信じられないのならいつもの与太話だと思ってくれて構わないぜ。俺の真実は俺の中にある。けれど、神を祀るに、其処に存するが如く、座ますが如くに仕えることは当然だ。

ましてや、その存在が肌身に感じられるならば。

俺が摂社の社を参拝した後に、彼女は不思議なことを柔らかな京言葉で言った。

「なんやあんたのまわりに煙が見えると思ったら、白い竜の神さんが取り巻いてはったわ」

その女性は、見える人だったんだ。

俺が陋屋に斎き祀る尾張一宮の真清田の大神は、竜神とも伝えられる。この罪深い俺をも日々守り給うかとかたじけなくなった。もう何年も前の話だ。

その女性とは、縁が切れて久しい。

たまたまかつて1月17日にあった阪神淡路大震災で、親しい友人を亡くしたことを毎年忘れずにいた彼女を、今日ふと思い出した。思い出しては、もう会うこともないだろうその女性に幸多からんことを、心ひそかに思う俺だった。

罪業深重な俺の身にも、二度と生きて逢うこともなかろうその女性にも、真清田の大神のお導きがあらんことを乞い願い奉る。

今日は静かに失礼する。

2020/01/31

POST #1716 資本主義ってのは世界の辺境まで覆いつくしてるんだ、逃げ場はないぜ!



美斯楽、泰国
 少し前に、旅行に行ってきた。
家族旅行だ。来月4歳になる息子を連れて、タイに行ってきたんだ。
タイの北部、チェンマイとチェンラーイ、そしてバンコク。
自分として最も印象に残ったのは、チェンラーイから車をチャーターして赴いた、メーサロンだった。

チャンラーイのホテルで、息子とプールで遊んだ後、かみさんに明日はどこに行きたいかと訊かれ、是非ここにとリクエストしたメーサロン。ガイドブックには、お茶の産地で、山の斜面に広がる茶畑が見事と記されただけの小さな町。
ここが今回、一番印象に残ったところだった。
ここは、ビルマとの国境がすぐそこの山岳地帯。山々の尾根にそって人々が暮らす町。
漢字で美斯楽、と書いてメーサロンと読む。
インド文化の影響を感じさせるタイの文字ではなく、そこでは漢字ばかりを目にする。
もちろん、タイには何百年にもわたる中国の諸王朝の圧力によって、中国から押し出されてきた中華系の人々も(様々な文化の人々と血統的にも文化的にもまじりあいながら)たくさん暮らしている。しかし、そういった人々は現代ではいわゆるタイ人としてのアイデンティティを持っているんではないかと思う。

辺境のトイレ。パリのカフェにあるアラブ式を思い出した。息子は昔のトイレと言っていた。
しかし、ここメーサロンは一味違う。
どこを見ても、漢字の看板だ。飯を食いに入った飯屋には、写真のように『春和景麗』とかっちりとした楷書体で墨書きされた紅い札が貼られている。山の奥の中華街といった風情だ。僕はここで雲南風焼きそばなるものをおいしくいただいた。
雲南風だそうだ。

息子は、ちょっと高級な中華料理店でお目にかかるような蒸しパンのようなのを食べていた。ほのかな甘みのある、肉まんの皮みたいなやつね。これがとてもうまかった。本場の味だ。

壁には、千人が一度に来ることよりも、一人が千回来てほしいと記されている。しかし、客はまばらだ。
さて山の奥とかるく言ってのけたが、僕らがやってきた曲がりくねった舗装路が作られるまで、ここは外部の人々をほとんど寄せ付けないような幾重にも重なった東南アジア山塊の襞の奥の、容易には行き着けない場所だったに違いない。

まさに辺境だ。
いままでいろんなところに行ったが、ここはその中でも、もっとも辺境だ。秘境駅の宝庫・飯田線を擁する三遠南信、つまり三河、遠州、南信州一帯の山の中なんか、ハイキングコースくらいのちょろこいものに思えてくる。
町の規模と雰囲気は、そうだな、しいて言えばネパールのナガルコットを思い出させる。どちらもぶっちぎりの辺境だが、道路ができるまで、人々を寄せ付けなかったであろうという雰囲気はメーサロンに軍配が上がろう。なにしろ、ナガルコットはネパールとチベットの、古くからの交易路上にある村だ。しかし、ここ美斯楽、つまりメーサロンは違う。

かつて国家の収奪から逃れて山の民となった人々の末裔らしきおばちゃんが、キャッサバとかを売っている。
この小さな町というか村に暮らす中国語を話す人々は、どこから来たのか。
それには、現代史を紐解いてみる必要がある。
もともと彼らは、今日の中華人民共和国、つまり中国共産党によって作られた国から逃れてきた、蒋介石率いる国民党軍の残党だったそうだ。
1949年に共産中国が成立したとき、蒋介石は国民党軍の将兵とその家族を引き連れて、台湾に逃れた。そして、今日まで中華人民共和国と台湾つまり中華民国の対立の歴史は続いているのだが、蒋介石はすべての国民党軍の将兵を連れていけたわけではない。

四川省などで戦っていた部隊は、かつて清や明などの中華帝国に追われた少数民族のように、国境を越え、東南アジア山塊の奥へと分け入り、毛沢東の追撃をかわした。
彼らははじめ、ビルマの少数民族地域を拠点としていたが、ビルマからも追われ、ビルマの国境からほど近い、タイの奥地に身を潜めた。
そして、その地にもともと暮らす少数民族と混血したりしながらも、蒋介石の支援を受けながら町を発展させてきた。それがこのメーサロンという町だ。
ここはほんの25年ほど前まで、どこの国家にも属さず武装し、アヘンなどの製造販売を資金源にしていたそうだ。なにしろ、ここはかつての黄金の三角地帯(ゴールデントライアングル)の一角だからね。阿片の原料になるケシは標高900m以上でないと育たないんだ。だから、稲作のできない高地では、大昔からつい最近まで、栽培されてきたんだそうだ。貴重な換金作物ってわけだ。
もっとも、そんなことまでは、ガイドブックには触れられていない。この町の人々が、かつての国民党部隊の末裔だってことだけが記されている。
左側の看板がなかったら、中華文化圏にしか見えない。
つまり、平家の落人部落みたいなものだ。
25年ほど前に、(日本じゃ阪神大震災やらオウム事件があった頃だ)この国民党部隊の末裔たちは、武装解除に応じ、タイ国籍を与えられた。
麓からメーサロンへと続く舗装路が作られ、人々は阿片ではなく、お茶を作って暮らしている。
そんなところまで行って、何をしてきたのかって?
山の稜線に沿って敷かれたアップダウンのきつい坂道を、子供を肩車しながら歩いてきただけだ。
そして、この町で作られたお茶を買ったくらいのことさ。
辺境というか、場末というか、とにかくこの雰囲気がたまらない。



国民党部隊の勇姿が、パネルになって掲げられている。
所詮、一介の旅行者、それも子供連れにできることなんざ、それくらいのものさ。
そして、子供を肩車しながら、国家とは、民族とはなんじゃろなぁと考える。そして、そんなものは、単なる幻想でしかなくて、人々のアイデンティティは、現実に合わせて如何様にでも変容するものなのではなかろうかと。

自分の足で、その土地を踏みしめ、自分自身の目で、耳で、肌で感じたことから、その意味を考える。そして、そこで感じ考えたことを、自分自身のなかに繰り込み、自分自身の内なる地平を広げる。

どこに行っても、非力で無力な僕らに出来るのは、そんなことしかない。

それはさておき、僕が一番驚いたのは、こんな辺境にも、セブンイレブンがあったってことだ!
セブンイレブンの前で。原付はもちろんホンダ

メーサロンのセブンイレブンの店頭。キティちゃんのお弁当箱が当たるのかな

トラックの荷台に少数民族のおばちゃんが乗っている。
おそるべし、資本主義!(笑) 

それでは諸君、また会おう。