2015/10/30

Post #1668

Hamburg,Germany
企業の不祥事が続いている。
TVや新聞紙上では、普段偉そうにしているであろうおっさんたちが、神妙な顔つきで深々と頭を下げて、ご迷惑をおかけしましたとかいう姿を度々目にする。

それが今どきの責任を取るということなんだろうか?まぁ、きっとそうなんだろうな。
しかし、やってしまったことは、なかったことにはできない。当たり前のことだ。
それが人の生命にかかわることであったり、かけがえのない環境を、回復不能に汚損してしまうような出来事であったりした場合、いったいお偉いさんが頭を下げることに、どんな意味があるのだろう?
ぬるいなと、思う。

鹿児島県は阿久根市出身だった俺のお婆さんは、もうとっくに亡くなったんだけれど、俺が子供の頃に、いろんな話をしてくれた。それは、幼い頃の俺の心にしっかりと刻まれて、自分の人格形成の核になっている。
その中に、おばあさんのそのまたおじいさんの強烈な話があった。

このおじいさんは、当時村長だかなんだか、とにかく責任ある立場にあった人物だったのだが、自分の部下に当たる村の助役だかが密かに業者と結託し、村有林の木を勝手に切り倒し、売り飛ばし、利益を自分の懐に入れていたことが発覚したそうだ。

そこで、そのおじいさんはどうしただろう。このような不祥事を起こしたことを、深くお詫び申し上げますといって、村人に頭を下げたのだろうか。


薩摩隼人のそのおじいさんは、責任を取って切腹した。


簡単に切腹と書くが、実際にはまず短刀で腹を横に切り、次に刀を腹に刺したまま縦に切る。十文字だ。さらに短刀を引き抜いた後、臓物が飛び出してくるのを防ぐため、さらしまで巻いたというのだ。当然介錯、つまり時代劇なんかでよくあるように、腹に刀を突きさした途端、後ろから他の人間が日本刀で首を一気に切り落とすというのは、なかった。
しばらくの間、苦しみ悶えて死んだことだろう。

俺のおばあさんが生まれたばかりのころというから、それが本当なら大正時代の話だ。本当ならば、時代錯誤も甚だしい気がする。しかし、強烈な話だ。

こうして俺の子供心に、いささかの恐怖心とともに、男の責任の取り方の究極は、切腹であるという考えが、しっかりと叩き込まれた。そしてまた、自分自身のしでかしたことでなくても、自分の部下がしでかしたことの責任から、人は逃れられないということも。
物事がうまくいけば、自分を支えてくれた皆のおかげであり、うまくいかなければ責任者たる自分自身の責任だという考えも。

少し前にも、責任を取らない責任者という話を書いた。
だから俺は、その手のニンゲンが嫌いだ。甘ったれやがってと思う。
減俸?降格?辞任?
君たちはそんなにちょろい仕事しかしていないのかね?それとも、仕事を舐めてるのかね?って思うのさ。

俺にとって、自分の仕事の責任とは、非常に重いもので、期日内に満足のいくものができなかったとしたら、それは金銭的にも多大な迷惑を施主さんにかけることになるし、万一事故など起こしたら、取り返しなどつかない。
申し訳ありませんでしたと、額を地面に擦り付けるようにして謝ったととしても、それがいったいなんになるというのだ。
そんなことになれば、ごく狭い業界で、自分一人の信頼と実績だけで成り立っているチンケな俺の商売は、たちまち行き詰ってしまうだろうよ。
呑気そうに見えて、実は毎日が危うい綱渡りなのさ。

何事もなく、現場をおさめ、お客様に引き渡すこと。当たり前だけれども、それ以上の責任の取り方はない。なにしろ、そうそう切腹するわけにはいかないからな。

だから、企業のお偉いさんたちの振る舞いみていると、謝らないよりはましだとは思うけれど、なんの責任もとっちゃいないだろって思わずにはいられないんだ。

責任を自覚すれば、実はどんな仕事でも、命がけなんだ。俺はそう思ってる。

読者諸君、失礼する。俺は伊賀忍者の血筋に、薩摩隼人のスピリットが隠し味でブレンドされてるのさ。

2015/10/29

Post #1667

Hamburg,Germany
毎日のように、TVのニュースでヨーロッパに押し寄せる難民の姿を目にする。

難民というと、なにか特殊な人のように感じるが、その人たちの姿を目にすると、俺たちと何も変わらない普通の人々だとわかる。

幼子を抱いた母親、家族を気遣う父親、子供たちは無邪気にカメラに向けてピースをしていたりする。容姿は違えど、その振る舞いは俺たちと何も変わらない。
ただ、宗教や民族の相違に起因する様々な争いによって、自分たちの国から命からがら逃げださざるをえなくなったというだけだ。

なにも特別な人たちじゃない。自分と自分の大切な人の命を守りたいと願う普通の人々だ。そう、俺たちと何も変わらないんだ。
けれど、生きていくためには故郷も家も、仕事もなにもかも捨てて、見も知らぬ国に、命がけで逃げ出さねばならなかったというだけだ。

シリアを脱出した難民は、すでに400万人をこえたという。

この日本に暮らしていると、大方の人にとっては、そんな話は他人事というか、対岸の火事かもしれない。けれど、ほんの少し想像力を働かせてみて、それがどれほど辛くて困難なことなのか、想像してみてほしい。
それは別段難しい事じゃない。
自分が彼らの立場だったらどんな気分だろうかって考えてみるだけだ。
もし、少しでも興味があるのなら、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)のホームページを見てほしい。(リンク➩UNHCR) なにが起きているか知ることは、何事においても大切な第一歩だ。そうじゃないかい?

いいかい君たち、戦争は不幸しか生み出さないんだぜ。
戦争で酷い目にあうのは、いつだって俺や君と同じような普通の人々だ。人を殺して英雄呼ばわりされるのなんて、恥ずかしいことだぜ。殺し合いに参加するんではなく、自分の家族を守るために、命がけで故郷を捨てた人々を、俺は尊敬せずにはいられないよ。
自分たちはカンケーないわけじゃない。この世界に生きている全てのニンゲンが、等しく考えていくべき問題だと、俺には思えてならないんだ。

どんなことも、もし自分が当事者だったら?って考えること。
それが俺の考えの基本方針なんだ。
なにが正しくて、誰が悪いのかなんて、興味はない。ただ、自分がその立場だったら、どう感じ、どう行動するだろうかって思うことが、大切なんじゃないかな?

読者諸君、失礼する。いい加減みんな平和に暮らそう。自分と違う人々を、受け入れよう。
俺はけっして、綺麗事を言ってるんじゃないんだぜ。

2015/10/28

Post #1666

Hamburg,Germany
久々に雨が降っている。
前にも書いたことがあるけれど、俺は傘がさすのが好きじゃない。手に何かを持つのが好きじゃないからってだけではないんだ。
人からなぜいつも傘を差さないのかって訊かれると、『ほら、ヨーロッパ人ってあんまりか差さないじゃない?肌が潤っていいんだよ』ってはぐらかしている。
けど、どうもそれだけじゃないんだ。カバンの中に折り畳み傘が入っていても、よほどの雨じゃないと傘は差さない俺なのさ。

自分でも何故だろうって考えて、思い至ったのはシーナ&ロケッツの歌だ。
作詞は今は亡き日本歌謡界の巨匠、阿久 悠。作曲はもちろん鮎川 誠だ。
それはこんな歌だった。


RAIN<突然雨が降ると>


突然雨が降ると 
人間の正体がわかる
突然雨が降ると 
人間の正体がわかる

恋人だって 先ず走り出し
それから慌てて手を差しのべて
急げという

濡れるから 濡れるから 
僕と同じスピードで走れという
ご親切に ご親切に 
あんたは心優しい人なのね

でもわたし あの一瞬 
あんたが一人で逃げ出したことを 
忘れやしない

雨だもの 濡れてあたりまえ
びっしょり濡れてしまおうと 
わたし言ってほしかった

突然雨が降ると 
人間の正体がわかる
突然雨が降ると 
人間の正体がわかる

しあわせだって転がり始め
話のつづきが見つからなくて 
またねという

傘がない 傘がない
なぜに傘がないか ぼやいて言う

運がない 運がない
あんたはいつもそういう人なのね

でもわたし 雨のまえ
あんたが言おうと思ってたこと
知りたくない

雨だもの 濡れて当たりまえ
一緒に濡れてしまおうと 
わたし言ってほしかった

はじめてこの曲を聴いたとき、ちょっとした衝撃だったのを覚えている。
このおれが、にわか雨で自分の恋人を置き去りにして、一目散に駆けだすような屁たれであっていいわけがない。そんなんじゃ、素敵な恋人に愛想を尽かされちまうだろう。冗談じゃない。たかがにわか雨くらいで、そんな目にあってたまるか!

そこで、俺は考えた。考えて考え抜いて、普段から傘をさす習慣をなくせば、そんな無様なことにはならないという結論に達したわけだ。
そう、雨だもの、濡れて当たり前。一緒に濡れてしまおうと言える男でありたいのさ。

もちろん、それは雨だけの話じゃない。避けられない人生のあれやこれやの話でもあるのは当然だ。そう思わないかい?

ロックンロールは時に、大切なことを教えてくれる。クレバーじゃなくても、人間味のある男でいるにはどうしたらいいかってことも。

読者諸君、失礼する。おかげでしばしば風邪をひく俺さ。