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お金がないことは、みじめなことかもしれません。
私自身も、そんなに余裕があるわけではありませんし、心無い人からも、自分一人が食っていくだけで精いっぱいの下衆野郎と面罵されたこともあります。まぁ、根には持ちますが、気にはしていません。それだけのニンゲンだったと思うだけです。
けれど、本当にみじめなのは、誰からも気にかけてもらえない、誰からも愛されていない、ということなんではないかと思います。
コミュニケーションの技術は、かつてないほどに発達しています。しかし、肝心要の人と人の心のつながり、愛情、思いやりということは、かつてないほどに貧しいものになっているんではないでしょうか。よく言われることですが、そんな気がします。
そんなものがどれほどあっても、実際にお金が無ければ、私たちの生活は立ち行かなくなり、みじめな境遇に陥ってしまうことは、十二分に解っています。
けれど、それだからといって、お金さえあれば、心豊かに生きることができるのかというと、そういうもんでもないでしょう?イエス様だって、人はパンのみにて生きるにあらず、って言ってたでしょう。
人は独りで荒野のような世界を生きていくことはできないんだから。
許したり、うちとけあったり、見返りを期待せずに手を差し伸べたり、分かち合ったり、そういうことが必要なんじゃないでしょうか。
それも、抽象的な遠くの誰かではなく、自分たちの手の届くところにいる身近な人々に。イエス様も、『汝の隣人を愛せ』と言ってますよね。誰かの支えになってあげることで、誰かに必要とされる人間となる、それは少しばかり素敵なことじゃないかって思う訳です。
毎日、仕事に忙殺されながら、そんなことを考えています。
先日、祖母の四十九日の法要の際に、和尚さんといろいろと話をしていたんですが、箸にも棒にもかからんような人間に対して、ただあるだけでよいのだと、力の限り生き抜き、浅墓な人間の尺度では価値を見い出すことすら難しい、私たちの人生そのものを、受け容れ、認め、救ってくれるような存在としての仏=超越者が必要なのではないかと、私は調子にのって語っていました。
つまり、死者を弔うだけの教えではなく、実際に生きて悩み苦しんでいるニンゲンに、寄り添い、その人生の価値を担保する様な教えこそが、本来の宗教であるべきだし、これからもっと必要とされる『教え』なのではないかということです。
中上健二の『千年の愉楽』に出たきたオリュウノオバのように、
『ただ、あるがままに生きてあればよい』という、人間存在に対する、絶対的な肯定です。
オリュウノオバは路地と呼ばれる被差別部落の産婆で、自らが取り上げた男たちが、女たらしやシャブ中やヤクザ者といった、卑小極まりない存在となっても、自らの子供のようにいとおしみ続けます。そして、その男たちが、その生を全うしえず、その命の正しい使い方を見い出すことが出来ぬままに、生命の絶頂期に突如として死んでしまうことを、悲しみつつ、愛おしむのです。
どんな有用な人も、有能な人も、時代の流れの中では、いつかその能力は陳腐化してしまいます。
また、ニンゲンである以上、いずれ年老い、自分のこともままならなくなってしまうことでしょう。
そこから思うに、人間とは、根本的には無能でダメダメな存在なんではないでしょうか?
経済的な有能性、合理性を持つ人間がもてはやされていますが、その背後には、それらの人々の何倍もの無能でダメな人間が犇めいています。そして、その多くの人々も、私やあなたと同じように、社会に打ちのめされ、悩み苦しんでいるわけです。
その無能でダメな人間を人間の尺度にしないと、この人間世界は持ちはしません。選民思想が幅を利かすようになってしまうだけではないでしょうか?
厄介ごとを避けるのではなく、厄介ごとを背負いこむこと。独りで悩み苦しむのはなく、誰かと悩みを分かち合うこと。それが、自分の人生に意味を与えることになるではとも、思います。
むろん、無力な一凡夫たる私には『God Bless You!』と祈るくらいしか出来ることはありませんが。つまり、私も役立たずの一人という訳です。
一見、イイことばかり言っていると、つまらない奴になったように感じられるかもしれませんし、偽善者だと思われるかもしれませんが、私も悩みながら書いているわけです。毎日、そんなことを考えて暮らしています。あなたはどうですか?
読者諸君、失礼する。