2015/11/18

Post #1680

Bruxelles
人生にウンザリしたら、日々の単調な暮らしに倦み疲れたら、旅に出るべきだ。
もしくは、誰かと恋におちるか?

どちらも、ある意味で未知との遭遇だ。

お互いに片言の英語を使って、何とか意志を通じ合わせるのは、愉しい。見知らぬ街の普通の人々がやってくるような飯屋で、なんとか注文し、うまいものにありついたあの瞬間の充実感!

今までの生きてきた道程も、人生観も違う異性と、心をより合わせていくのも愉しい。そういえば、男と女の間では、言葉が通じない国に行ったかのように、思いを伝えあうのは難しいしね。
言ってくれなきゃわかんないとか言いながら、言ってみたって本気にされなかったりもするしな!

そういえば、俺のことを『港みなとに女がいるタイプ』と評した人がいたけれど、いったい俺の何処がそう見えるのか?自分じゃぜんぜんピンとこない。まったくの謎だ。

どちらも、指先と心の乾ききった中年男性たる俺の心を、少年の頃のように瑞々しくさせるだろうよ。これ以上にワクワクすることなんか、世の中にあるとは思えないね。

ブラジル、ニューヨーク、インド、シベリア、ボルネオ、チベット、サハラ砂漠・・・。
俺は行ってみたい場所を次々思い浮かべる。

あぁ、本だのCDだの家財道具の一切を始末して、帰ってこない旅に出るのも、悪くないかもな。
おっと、冥途の旅路は御免蒙るぜ。
こればっかりはいつか必ず行く道だからな。急ぐこたぁねえのさ。

読者諸君、失礼する。旅行に行きたい。カメラをもって。できうればカミさん以外の素敵な女性と!(笑)

2015/11/17

Post #1679


もし、今日という日が、人生最後の一日だとしたら、僕はどう生きるだろう?

朝、仕事に向かう道すがら、毎日眺める風景を見ながら、ふとそんな事を思う。
このいつでも目にしている風景が、今日で見納めだとしたら?
愛している人たちとも、今日でお別れだとしたら?
手掛けている仕事も、将来に抱いている夢も、すべて途中で放り出さなければならないとしたら?

くだらないことで、いさかったりしている訳にはいかない。つまらない意地をはって、自分自身の気持ちを偽る訳にはいかない。
人生最後の仕事を、適当に流す訳にもいかない。
大切なひとに、誠意と愛情を注がずに過ごす訳にはいかない。
たとえ、身も心もガタガタでも、唇を噛みしめて、すくっと立って最後の一日を生き抜かない訳にはいかない。

人生最後の日は、いつくるかわからない。それは今日かもしれない。
だから、この何気ない毎日を自分自身のかけがえのない人生として、考えないと本当に生きていることにはならないと思える。

読者諸君、失礼する。何時だって、死ぬにはもってこいの日だ。

2015/11/16

Post #1678

Paris
ISによるパリでのテロについては、思うことは実はたくさんある。
しかし、今日は言うまい。

俺が今日考えているのは、人間の救済ということだ。
というのも、昨日親戚の家に赴いて、法事に参加してきたのだが、その時ふと思ったことだ。

その親戚の家は、臨済宗だったので、普段俺が親しんでいる浄土真宗とはずいぶん勝手が違う。
お経だの和讃だの読んでいても、行いを正して、成仏するべしといったことが書いてある。
しかし、それでみんな救われるのか?

行いをただし、殺生せず、盗みもせず、嘘もつかず、淫欲にふけることもない。

それは理念としては結構だ。そうあるべきだろう?
しかし、そもそも人間は、そうは生きられない存在なんじゃないのか?
だれだって、そんな風に生きる事が出来るのなら、そもそも苦労はしないだろうよ。
そして、そうでなければ、成仏できない、つまり救済されないのなら、そもそもほとんどの人間は、救われない存在だということになるのではないか?

人が生きることは、そもそも苦しいものであるというのが、仏教の思想の根幹にはある。
生まれてきたことも、老いることも、病むことも、そして当然ながら死ぬことも、これらはすべて苦しみだととらえられている。
無限の時のなかを、生まれ変わり死に変わりしながら、未来永劫にわたって苦しみ続ける。それが人間に限らず、この世に存在するあらゆる生命の存在様式だ。
その救いのない生死観が、仏教の根幹にどす黒く広がっている。つまり、無明といことだ。
そこでは、現代を生きる私たちが、無条件に肯定する愛情すらも、苦を生み出す元として、否定されている。

その中で救済とはいったい何を意味しているのか。

救済とは、成仏とは、二度と再びこの世に生まれ変わってこなくてもよくなるということだ。世間の皆さんが、よく意味も分からず唱えている般若心経も、この世の中の存在には、確固たるものなど何もないことに気付いて、とっとと二度と生まれ変わらない境地に至ることを説いている。

その救済を得るために、人々は、現世的なしがらみの一切合切を捨て去り、自分に関わるあらゆる縁を断ち切って、出家して修行し、二度と生まれ変わることのない境地を目指したのだ。それを幸せだと感じる現代人は、まずもって少数派だろう。

けれど、そんな生き方は、万人にできる様な類のものではない。
人は、生きていくうえで、必ず他の生命を損ない、倫理を逸脱してしか生きていくことはできないからだ。愛欲の果てに、次の世代を生みだし、苦しみの連鎖を続けていかざるを得ないのだ。

これでは、どうにも救われない。

『善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや』

この一節を含む歎異抄を聖典とする浄土真宗門徒の俺は、ふと悪人こそが救われるべき存在であると唱えた親鸞聖人のことを想う。そしてまた、その異端ともいえる思想が、それまで救済される可能性など皆無と信じられていた当時の一般大衆に対しておよぼした衝撃のすさまじさをおもい、唖然とする。

現代の生活は、親鸞の生きた1000年まえとは、比べることが阿呆らしくなるほどに便利になり、また豊かになった。その結果として、生きることそのものが持つ苦しみは、見えにくくなっている。
けれど、実際には、昔も今も変わらず、人は悪を内包した存在としてしか、生きることはできないことに変わりない。
もし君が、そんなことはないというのなら、自分の行いを静かに振り返ってみればいい。一点の瑕疵もない人間など、どこにもいないだろう。

その事実の前に、俺は独り立ちすくむ。

そもそも、この神も仏もない、つまり目に見えない超越的な存在を信じえない私たちには、救済ということそのものがあり得るのか。
一時の快楽?老後の資金?社会福祉?金銭的な援助や保証?一億総活躍社会?
いや、そういうことを言っているんじゃない。もっと、人間の存在の根幹にかかわることだ。分かってほしい。

一人のニンゲンが、この世に存在していることそのものが肯定され、苦しみながらも自らの生を全うすることができるには、なにが必要かということだ。

すでに来世だの死後の浄福などを、微塵も信じることのできなくなっている末世の衆生たる私たちにとって、救済とはなにを意味するのか?
俺はそれが知りたい。
いかにしたならば、倫理に背きながらも生き続け、苦しみにまみれて生きるしかない私たちが、この生の中で安らぎを得て、自らの生とその先にある死を、肯定し受け入れることができるのか?
俺はそれを考えていきたい。

読者諸君、失礼する。小難しい話ですまん。けれど、もし誰かこの答えを知っているのなら、頼む俺に教えてくれないか。