2018/04/06

Post #1707

斎場御嶽にて
かつて、ポール・ウェラーは少年の頃、初めてThe Whoのデビューアルバムを聞いた時に、過去から未来がやってくる!と思ったと語っていた。
『過去から未来がやってくる』とは、なんて素敵な話だ!
二度と戻っては来ないご幼少のみぎり、考古学者に憧れていた僕には、その言葉はグッとくる。
問題は、その過去がどれくらい昔かってことだ。
吉本隆明は、過去を知れば知るほど、未来が分かるようになるというようなことを言っていた。

学生の頃、同級生に明子というのがいた。
明治百年に因んで、明子としたらしい。治子でも良さそうなもんだが、まぁ、それは良しとしよう。名前なんざ、所詮は記号だ。

そして、今年は明治維新百五十年だそうな。やれやれ、俺も歳を食うわけだ!

右派的な主張の方々や、自民党およびその支持者の皆さんは、折に触れて、日本の伝統ということを口にするが、僕にはそれは、明治以来、たかだか150年の伝統に過ぎないように見受けられる。

だいたい、伝統伝統とか言う御仁で、ちょんまげ結って紋付き着てたり、みずらを結って、勾玉ぶら下げてたりする人を、僕は見たことがない。
ついでに言うと、伝統伝統といいながら、対米追従の輩ばかりで、尊皇攘夷とか言う人もいない。
僕が見たことないだけで、世の中にはけっこういるのかも知れないが。

昨今では、教育勅語が大好きで、子供達にこれを暗唱させて、感涙するという高尚な趣味の方もおいでになるようだが、僕にはあの教育勅語って代物は、そういった洗練された趣味の皆様が毛嫌いする中国から伝えられた孝悌忠信礼儀廉恥の儒教道徳と家父長制的な国家主義がブレンドされた代物に見える。
まぁ、他人の趣味をくさすのは、あまり良い趣味とは言い難いので、これ以上とやかく言うつもりもないが、それを我が国固有の文化だの伝統だの言うのは、いささか近視眼的であるなとは思っていた。

我がクニには、縄文草創期以来、15,000年の文化がある。
本当に、我がクニの伝統ということを考えて見るならば、そこまでの射程を持つべきだと、僕は考える。

そこまでの射程を持った時、初めてこのユーラシア大陸の端に太平洋に面して浮かぶこの列島の文化が、環太平洋に展開するさまざまな民族や文化と通じあっていることが解るはずだ。
そして、パスポート(それこそまさに近代的な国家の誕生によって生み出されたシステムだ!)などもたず、海流に乗ってこの列島にやって来た、さまざまなルーツを持った人々を受け入れてゆくことで、このクニの文化や伝統というものが、織り上げられている。

明治150年など、15,000年の歴史からすれば、ほんの一過性のブームでしかないのではなかろうか?

まぁ、そんな事とやかく言う俺も、ええ加減野暮ってもんだわさ。

2018/04/05

Post #1706


この人生のなかで、あと何回、満開の桜を楽しんで眺めることが出来るだろうか?

マンガの神様手塚治虫は、常々、あと10年しか生きられないとして、今なにをするべきかを自分に問いかけながら、マンガを描いていたという。

そう思えば、誰かと下らない意見の相違や、主義主張などで声高に争っている暇など、ありはしないことが、よく分かる。
黙ってやるべきことを、するだけだ。
せめて、生きている間は、美しいものをみていたい。

桜の次は、ツツジだな。

2018/03/26

Post #1705

2001年12月、どこかで。
人の一生は、それは短く儚いもので、如何様に成功し、あるいは失敗したとしても、それは単なる局地戦でしかありえないものだとも思える。
仮令、人類史上に燦然たる足跡を遺そうとも、それとても時間の流れの前では瞬く間に陳腐なものとなり、ほどなく忘却されるのは、論を待たないであろう。
ピラミッドのように、数千年遺る仕事を成し遂げたとて、悠久なる時間の流れは、個々の人間の存在など、大河の一滴のように押し流していってしまう。
いわんや、一人の人間の運命と決断が、この銀河系宇宙の趨勢を決するなど、スターウォーズの中くらいしか、あり得ないだろう。

この世の中を基準にしている限り、自分の人生は、虚しい局地戦でしかない。

『マッチ擦る つかのま海に 霧深し 身捨つるほどの 祖国はありや』寺山修司

ふと、そんな短歌を口ずさむ。

自分自身は、自分にとって、国家よりも社会よりも大きな存在だ。

これは僕にとって、自明の理だ。しかし、そう思っていない人たちも、たくさんおいでなんだと思う。OK、それはそれでノー・プロブレムだ。しかし、自分を棚上げして、地に足のつかない言説を弄する様を見ているのは、気が滅入る。どうせ、本気なわけでもあるまいに。

僕は、自分自身のために、この人生という泥沼の局地戦を戦っていきたい。