2011/01/27

Post #70 WHY?

Tokyo
なんで写真なのか?
写真でなきゃならないのか?
まぁ、一言で言えば、世界の断片を集めて自分の夢の街を作ってみたいってのがあると思うんだ。とはいっても、そんな素敵な夢を見ている訳でもない。よい子の住んでるよい街は退屈極まる夢の町だからね。
出来ることなら、無造作に箱に手を突っ込んで、掴んだものをテキトウに並べて出来た絵画のような、そんな夢の町が出来るといい。
それぞれに全く異なる極端なイメージばかり、ランダムに並べたような。しかし、並べてみると、それらの異質なモノ同士が、全体として世界の多様性を描き出すよーな、そんな写真=世界の断片を撮りたいもんだぜ。
一口に写真を撮るといっても、その動機は様々だろう。昨日も言ってた記録として写真を撮るってのも、あるだろう。そうさ、誰の写真だって、いつかは残らず遺影になって行くんだからな。ゾッとするけど、ホントの事さ。
一方で、自分自身が思い描くイメージを具現化して写真に撮りたいというタイプもいるだろうさ。
あるいは、写真を撮る事自体がコミュニケーションの手段だって向きもいるんだろうな。
俺は、あくまで、写真を通じてこの現実の世界を把握したいってカンジだろうか?
それは写真でなけりゃいけない訳ではないんだけれど、俺にはやはり写真しか思い付かない。それに俺は、写真なら、撮った瞬間だけでなく、写真を選ぶ時も、プリントする時も、そして写真そのものを見る時も、その瞬間の世界を再体験する事が出来ると感じているんだ。
写真を撮る事で、この世界に自分の爪跡を遺したい。
写真を撮る事を通じて、この世界の断片=フラグメントを自分の中に刻み付けたい。
そうして、自分自身が世界の他者ではなく、世界そのものの構成要素=エレメントであり、もっと言うなら世界そのもののだと感じてみたい。
世界そのものになれたなら、俺の肉体形象が滅び去っても、世界そのものがあるかぎり、ある意味で俺は不滅だろう。
あぁ、ヤバい。この辺のビミョーなカンジはなかなか言葉では言い現せないな。俺の頭の中ではかなりいっちゃってるアクロバティクな論理の飛躍跳躍バク転バク宙がおこっているんだけど、それを言葉にすると大麻かドラッグをキメたバカ野郎ののタワ言にしか聞こえない。さすが、既に高校生の頃、一を聞いて十を知るが、2から9が全く抜けていると担任の光岡センセーに評された俺だ。
まいったなぁ…。
とにかく、俺が写真をやめられないのは、そんな訳さ。
じゃ、また会おう。

2011/01/26

Post #69 Just Like A Blade Runner #2

『お前たち人間が信じられないようなものを見てきた…。オリオン座の近くで燃える宇宙船や…タンホイザー・ゲートのオーロラ…。そういう思い出も、やがて消える。時が来れば…、雨のように、涙のように…。その時が来た』
ルトガー・ハウアー演じるレプリカントのリーダー・バッティが、ブレードランナー リック・デッカードを絶体絶命に追い詰めながらも、自らの命が尽きる事を悟って、デッカードに語る言葉だ。バッティは雨の中、静かに目を閉じ死んで行く。
このセリフは、ルトガー・ハウアーが撮影中に思い付いて採用されたものらしいんだけど、俺はこの言葉が忘れられない。俺にとっては、この一言でブレードランナーは特別な映画になったと言ってもいいくらいだぜ。
それは、レプリカントだけの事じゃないんだ。俺や君や彼や彼女、全てに当てはまる事なんだ。人間の存在の根っこに絡み付いている。いや、むしろ、人間の存在を木に喩えるなら大地の下で見えないが、木そのものを支える根そのものだ。
HongKong
俺や君や彼や彼女達が年老いて死を迎える時、俺たちの全ての記憶は、喜びも悲しみも、怒りも哀しみも、全ての消え失せる。消えちまうンだよ。きれいさっぱりな、チクショー!

その圧倒的な虚無感におののいた俺たちは神を信仰を生み出したんだぜ。神様が人間を作ったんじゃないんだ。ドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟にも書いてあるさ。
そして、俺や君のことを憶えている人たちも消え失せた時、俺たちが存在していたことを証しだてるものは、記録しかないんだ。
そう、『記録』だ。
俺が思うに、写真は人類が発明したかなり有効な『記録』手段だ。それがデジタルであれ、アナログであれ、在りし日の俺や君を忠実に記録する。そしてそれは、当たり前のことだが、写し取られ記録化されたその瞬間から、過去の失われた瞬間の映像になっていく。俺たちの存在のなんちゅう儚さよ。
その儚さを想って、俺は子供の頃から悩みぬいてきた。このことの前では、世間的な意味でのより良い人生 ( こんなものは昨今ではとっくに崩壊してしまったようにも感じるが )、即ち良い学校に入り、よい企業に入るなりして、実入りのいい生活を送るなんてのは、まるっきり枝葉末節にしか感じられなかった。だから、俺は高校時代、進学校に通っていたにもかかわらず、お勉強するのをヤメタ。アホラシイからな。おかげさんで、今結構な苦労をしているぜ。しかし、これはこれで充実した人生だ。苦しみのない人生なんて、気の抜けたコーラみたいなもんだ。甘ったるいだけで、ゲップもでやしねぇ。なかなかにおもしれーもんだぜ。
そこで、写真だ。以前にも書いたが、写真との出会いは偶然だった。けれど、偶然に意味を与えることで、人間はそれを必然に転化しうる生き物だ。
写真こそが、俺の存在を、俺の命の消費期限を超えて、あり続ける俺の記録なんだ。俺が写っていなくても、俺が、その時に、この場所で、世界に対峙していた。そして、世界に対峙することで明らかに存在していたことを、俺が死んだ後も、沈黙のうちに雄弁に語り続ける『記録』なんだ。
かつて特別なものだった写真は、今やケータイに当たり前のようについているカメラで、いくらでも撮影される。しかし、この世界に氾濫する無限の写真の全てが、実は、一瞬の後には止まることなく変容し続けるこの世界が、かつてこのようにあったことを語り続けるもんだと思うんだ。どうだろう?
俺にとって、写真は重たいものだ。俺が雨のように、涙のように消え失せてしまっても、俺の存在していたことを、俺のその瞬間の想いを封じ込めて残るかけがえのないものだからだ。そして、こうしてWEB上に公開してゆくことで、それはさらにその存在を拡張してゆくことになるだろう。
もちろん、写真だって、永遠の時間の流れの前には、儚いものであることは何ら変わりはないのは承知の上ではあるのだが、少なくとも今夜、俺が交通事故で死んでしまったとしても、しばらくは俺の影としてこの世界に残りうるものだと信じている。

Tokyo
もう一度、ブレードランナーに戻ろう。
アジトを逃げ出したレプリカントは、何故か写真に執着していた。この写真がデッカードがレプリカントを追っていく手掛かりになるんだが、過去や記憶を持たないがゆえに、その代替物として写真に執着していたのかもしれないと俺は解釈している。
また、自分がレプリカントではないかと疑問を抱き始めたレイチェル ( 演じるのはショーン・ヤング。レプリカントの発明者タイレル博士の秘書だ。秘書ってのはやっぱり美人じゃないッといけねぇな ) が、自分が人間だという証拠としてデッカードに差し出すのは、母親の膝の上に抱かれて微笑む幼い頃の自分自身の写真だ。
そう、ここでは写真は、レイチェル自体の存在を証明する『記録』として機能しているんだ。
この映画は、俺から見ると写真の本質にまつわる要素が含まれているように思えるんだ。まぁ、とはいえ受け取り方は人それぞれだから、押し付けることはしないけれど、見たことがないんなら一度見てみることを勧めるぜ。見たことがあるんなら、もう一度じっくり見てみるのもイイだろう。
それ以上に俺が感じたのは、少年の頃に見たこんな映画が、意外と自分の写真のセンスに大きな影響を与えているってことだ。

俺如きがエラソーに言うのもなんだけれど、あえて言ってしまおう。
写真は、けっして単なるイメージとして消費されていくだけのものではない。
そこに写っているモノが儚く脆い存在であればあるほど、写真の持つ比重は増してゆく。
写真を撮ることには、それなりの覚悟が必要だ。そう、銃で人を撃つくらいの覚悟が。
しかし、その銃は命を奪う銃ではなくて、限定された意味ではあるが、被写体に対して、ある意味での不死性を与える銃なんだ。
今日はなんだか小難しくなっちまっていけねぇや。ボロが出ないうちに切り上げて、今夜も例によって例の如く、男の仕事に出撃するかな。
また会おう。今度はそんなにムツカシー話で君を困らせたりしないさ。

2011/01/25

Post #68 世界の中心、世界の涯

君は世界の中心がどこか知っているだろうか?

別にそこで愛を叫びたいわけではないんだぜ。ただ、ちょっと聞いてみただけさ。

VietNam
どうだろう?君の頭の中には、ニューヨークとかトーキョーとかパリとか、世界中のコスモポリスの名前が浮かんでくるのだろうか?きらびやかで、富と名声に溢れた人々が、世界の行く末を議論しているようなイメージだろうか?そして、自分たちの日々の営みは、世界の中心から遠く隔たった、いわゆるヘンキョーで、どことなく卑小で、しみったれて、なんとなくみすぼらしく感じられてしまうのだろうか?もしそうだとしたら、それはとてもさみしーこったな。
それとも、この宇宙で、かつてビックバンが起こった時空を思い浮かべるのだろうか?

では、世界の涯は?

南極とか、北極とか、リスボンとかイースター島とかが浮かぶのだろうか。人の姿もないような、荒涼としたさみしー世界を思い浮かべるのだろうか。荒れ果てた大地に、高い波が打ち寄せるような、冷たい風が吹き付けるようなところをイメージするのだろうか?
それとも、光の速さで膨張してゆく宇宙の涯を想うのだろうか?

俺は世界の中心がどこにあるのか、実は気が付いているのさ。何年も前からね。必然的に世界の涯もどこにあるのか知っているのさ。

俺は写真を撮りながら、何時だって世界の中心を、世界の涯を意識しているんだ。そう、ビンビンに意識しているんだ。どうだい、スゲーだろ?

君は知っているかい?世界の中心がどこか、世界の涯がどこにあるのかを?

世界の中心は、俺が立っているまさにここなのさ。俺にとってはね。
モスクワや上海でどんな事件が起こっていようと、ニューヨークやパリで世界の行く末や最先端の文化についての議論されていたとしても、ロンドンやトーキョーで世界を揺るがすような経済取引が行われた板としても、俺にはゼンゼン関係ない。

ホント、どこ吹く風さ。カンケーないぜってカンジだぜ。
AirPort
そして、君にとっては、君が今立っているまさにそここそが、君の世界の中心、ド真ん中だ!
いいかい、どんなに世界が広大でも、俺や君の限定された意識が接することのできる世界は、君や俺の周囲にしかないんだぜ。今、ここにリアリティーを持って生きていなかったら、俺たちは世界の片隅で、パンくずでも拾ってカツカツ生きているような気分になっちまうぜ。
大事なことだから、もう一度、言わせてもらうぜ。
世界の中心は、俺や君が立っている、まさにここなんだ。

そして、世界の涯は?

賢明な諸君はもう気づいているだろう?
世界の涯とは、君や俺のすぐ横に立っている、俺や君なんだ。手を伸ばせば触れることができるすぐ身近な人々だ。どうしてかって?わかってるだろう?俺たちの住んでるこの地球は、スイカみたいに丸いんだぜ。君の気の向いた方角に向かってずっと歩いて行ってみなよ。もう気が付いたかい?
世界の涯は、地球をくるりと回った君のすぐ隣なのさ。君の大切な人が立っている君のすぐ隣こそ、世界の涯なんだ。

俺たちは、かつてないほどの情報の海に漂っているんだ。だけれど、この世界の、つまりこの人生で、実際に認識可能な世界の主人公は、いつだって自分自身だってことを、忘れちゃいけないぜ。そして、探求に値する世界の涯は、君のすぐそばにいるはずだ。声をかけてみようぜ。その人のことをもっと知ってみようぜ。心の中まで、しっかりすっかり探検してみようぜ。

OK、世界の中心から、世界の涯に向けて、レンズを向けよう。

俺たちの探求には、宇宙船もジェット機も必要ないのさ。世界の中心で、しっかり立ってる自分自身と、周囲の人や物に対する好奇心があればいいのさ。
世界はきっと驚きに満ちているぜ。