2026/05/07

POST#1842 現在の日本人にとって、天皇って何を意味しているのかわかるかい

 

東京、銀座

戦後の昭和天皇の日本巡行に始まり、平成天皇において確立され、現在も今上天皇陛下が担ってくださっている、戦死者の慰霊と大災害の被災者への慰撫という行為は、それがすでに宗教的な行為そのものに俺には見える。

この感覚は、吉本隆明が『共同幻想論』で分析した「天皇の本質」に極めて近い、本質的な洞察じゃなかろうか。

戦死者の慰霊や被災地での見舞いは、憲法上の「国事行為」ではないが、現在、天皇制が国民から広く受け入れられ、俺のようなリベラリストからも支持されている(POST#1820🔗参照)最大の根拠になっている。


これを隆明さん的な視点で見ると、以下のようになまとめることができるだろうな。


「罪」と「穢れ」を浄化する装置
吉本は、天皇の原初的な役割を、共同体の「罪(秩序の乱れ)」や「穢れ」を浄化(祓い)することにあると考えていた。
日本を次々と襲う震災をはじめとした自然災害は、自然という巨大な暴力が共同体の日常を破壊し、「穢れ(日常の停止)」をもたらした事態と比定することができるだろう。
これに対して先の大戦での戦死者の慰霊は、 『国家という共同幻想』のために「死(最大の穢れ)」を強制された人々の魂の彷徨を鎮め、その荒魂を慰撫して和魂へと昇華し、日本人の祖霊という共同幻想に回収する営みだといえよう。
天皇が被災地に膝をつき、戦地で頭を下げる行為は、法的義務を超えた「共同体の傷を癒やし、秩序を元の清浄な状態に戻す」という宗教的・呪術的な行為そのものだ。
「対幻想」を包摂する「共同幻想」
災害で家族を失い、戦争で愛する人を失った人々の悲しみは、究極の『対幻想』つまり『個人的な愛』の喪失に他ならない。この時、天皇という『共同幻想の頂点』が、その個人の悲しみに直接触れようとする行為は、対幻想の喪失による『自己幻想』の傷を癒すとともに、バラバラになった個人の心を再び『国家(共同体)』という大きな物語=『共同幻想』に繋ぎ止める機能を持っている。これこそが、俺自身が「宗教的」だと感じる「救済」の構造だろう。
 「ヒメ・ヒコ制」における「ヒメ(祈る者)」の機能
現在、政治の実務は「ヒコ(政府・行政)」が担っていますが、行政が提供できるのは金銭や制度という「物質的な補償」に過ぎない。
しかし、人々が本当に必要としている「魂の救済」は、行政には不可能だ。人々は、癒されない傷を負ったまま生き続け、もがき続けることになる。
こで、「祈る者(ヒメ的機能)」としての天皇が、科学や政治では解決できない「心の穢れ・傷」を浄化する役割を一手に引き受けることができるのだ。
もちろん、それですべて癒されることはないし、失ったものは戻ることはない。けれども、皇族方が柔和な姿で、苦しみのどん底にある人々に目線を合わせて寄り添う姿が、人々に自分たちは見捨てられた存在ではないと確信させ、生きる希望の灯を心にともしてくれるのではないだろうか?
災害時に日本で暴動や略奪が起きないことを驚く諸外国の方々も多いが、その遠因はやはり『共同幻想』の核となる天皇陛下の存在と、なにより皇族方の柔和で穏やかな御姿が日本人の心性に刷り込まれているからという面も否定できないだろう。決して麻生漫☆画太郎が「あんたの国とは民度が違う」と厭味ったらしく言うレベルの問題ではないはずだぜ。
伝統が「今」作られている現場
明治的な「軍事指導者」としての天皇を捨てた後、日本人は無意識のうちに、より古層にある「浄化の神官」としての天皇を呼び戻し、現代の形にアップデートしたのだと言えるだろう。法や制度(皇室典範)の議論がどれほど空理空論に聞こえても、この「慰霊と癒やし」という生々しい宗教的機能が機能している限り、天皇制という『共同幻想』は日本人の中に生き続けるだろう

側室制度と「対幻想」の葛藤
側室制度は、一人の男性天皇(ヒコ)に複数の女性を配することで「血の存続」という共同幻想を最大化するシステムだ。

がしかし、それは現代においては、個人の愛や尊厳という『対幻想』と決定的に衝突してしまう。拒否感を示すのは上野千鶴子センセーだけじゃないってことだ。隆明さんが説いたように、『共同幻想』が『対幻想』をあまりに過酷に抑圧すると、そのシステムは内側から崩壊(あるいは形骸化)しかねない。
これは、かつて吉本がサホ姫の悲劇として描いた 『対幻想の敗北』を、現代において『対幻想と共同幻想の和解』へと書き換える試みとも言えるのではないだろうか。
「姫」が情緒的な安定をもたらす 
家庭内の「祈り」や「ケア」、あるいは精神的な支柱としての役割を、まず女性が担う。
「太郎」が現実を動かす:
その精神的な安定の土台の上で、男性が実務や外の世界(共同体)での活動を担う。

前回の終わりに俺が語った「伝統は今作られるものだ」という言葉の通り、冒頭にあげた「慰霊と見舞い」というスタイルは、実は昭和天皇の戦後巡幸から平成・令和にかけて「新たに創出された、現代の宗教的伝統」だ。
この「祈る存在」としての重圧を、先ほどの「愛子天皇と悠仁親王の分担」という構図で捉えると、また違った未来が見えてくるだろう。
「祈り」と「支え」の役割分担。

これこそが、現代に必要な新しい宮中の形だと俺は考えているんだ。


俺は天皇制を存続するために 側室制度を復活させるっていう施策まで提出したことがあるのは、読者諸兄諸姉のご承知の通りだ。(POST#1835🔗POST#1836🔗参照)
だが 実際にはこのヒメ・ヒコ制っていうのが1つの落としどころかなと考えているんだ。

側室制度の復活という、最も過激で純粋な『血の維持(共同幻想の死守)』の提案を経て、最終的に『ヒメ・ヒコ制』という双子型の統治形態にひとつの落とし所を見出すというのは、まぁひっかけというか議論をリードするための陽動作戦だ。
隆明さんの『共同幻想論』の文脈から見ても、この「落とし所」は極めて理にかなっているるんじゃないかな。


実際に、現在の社会は『共同幻想』が『対幻想』を激しく抑圧しているため、人々は他者と『対幻想』を結び、家庭を築き、子供を作ることすら思いもよらないという異常な状況になっている。これについては、また後日しっかりと話そう。これも日本の大問題なんだ。


「ヒメ・ヒコ制」という人間的な調和
「愛子天皇(ヒメ)と悠仁親王(ヒコ)」という複合的な形態は、以下の理由で現代的な「落とし所」になり得る。

一人の天皇が「霊的権威」も「血の責任」も「実務」もすべて背負うのではなく、二人(あるいは複数の皇族)でその重圧を分かち合う。つまり独占から共有へという方法論だ。
直系としての愛子内親王が持つ「国民との絆(徳)」と、男系としての悠仁親王が担う「形式的な継続性(血)」を、一つのシステムの中に共存させる。いうなれば「血」と「徳」の融合だ。
「男系男子のみ」という明治以降の硬直した法(共同幻想)を、より古層にある「男女ペアによる補完」という柔軟な構造で包み直す明治以来の呪縛からの解放とも、古代的な構造の復古ともいえるだろう。 
つまりだ、側室という「生身の人間を犠牲にする力技」ではなく、「役割を分担し、支え合う柔軟な構造(ヒメ・ヒコ制)」を再構築すること。それこそが、「今この瞬間に新たに作られる伝統」の具体的な姿だといえるだろう。

この「ヒメ・ヒコ」という役割分担が成立したとき、俺たちが抱く「日本」という国家のイメージは、より穏やかで、しかし芯の強いものに変わっていくんじゃないだろうか。

その根拠は?

昔から俺たち日本人は一姫二太郎っていうだろう?

一姫二太郎という家族構成が、単なる「育てやすさ」の知恵を超えて、どこか理想的な家族の雛形として日本人に定着しており、日本人が安心感を覚えるのも このヒメ・ヒコ制の遠い記憶が根源にあり、その遠い記憶に『対幻想』が共鳴しているからではないかと俺は考えているのさ。


精神的な「安定」の構造
「一姫(長女)」がまず生まれ、その後に「二太郎(長男)」が続くという順序は、吉本隆明が描いた古代の精神構造を家庭レベルで再現しているように見える。
このペアが揃うことで、家庭という小さな共同体が「精神的な充足」と「現実的な継続」の両輪を手に入れる。日本人がそこに抱く「安心感」の正体は、この役割分担の完結性にあるのかもしれないな。

「長女」の持つ巫女的資質

日本の家庭において、長女(姫)はしばしば弟や家族全体をさりげなく見守り、調整する「小さな巫女」のような役割を期待されてきた。これは、かつてヒコ(王)がヒメ(姉・巫女)の霊的な後ろ盾を必要とした構造の、ごく身近な反映だ。おなり神信仰や柳田國男🔗がその著書妹の力🔗で説いた内容にも通じるだろう。日本人が「一姫二太郎は縁起が良い」と感じるのは、それが『共同幻想(社会)を支えるための最も安定したユニット』であることを本能的に知っているからではないだろうか。
天皇制という「大きな家族」への投影
「愛子天皇(ヒメ)と悠仁親王(ヒコ)」という構図は、国民にとってこの「一姫二太郎」的な見慣れた、安心できる家族の形を国家規模で再現することになる。

この「一姫二太郎」への安心感は、まさに日本人が数千年にわたって培ってきた、「女性の精神性と男性の実務性がペアになって初めて世界が安定する」という宇宙観の現れだ。

アマテラス―ツクヨミ的、あるいはアマテラス―スサノオ的な神話的元型🔗の再現だともいえるだろう。この「安心感」をベースにした皇室のあり方こそ、俺が提唱する「今、新たに作られる伝統」の最も確かな土台になるのではなかろうか。


右派が固執する「男系男子のみ」という、殺伐とした「法」の論理よりも、こうした「日本人の心に馴染む家族像」を皇室の中に投影できることの方が、共同幻想を維持する上ではるかに強力な力を持つはずだ。

血の通った、主権者たる国民に支持されるシステムだ。

80年の長きにわたって、皇籍離脱していた旧宮家の未婚の男性を、皇室に養子として迎え入れるなど、国民の心理的抵抗を考えたなら、悪手中の悪手となるだろう。
今の世の中の議論は、法律(皇室典範)という「紙の上のルール」ばかりを気にしているように俺には感じる。しかし、俺は「大嘗祭の生々しさ」「ヒメ・ヒコ制という古層の構造」など、人間の生理や無意識に根ざした「本当の天皇制の姿」の深淵を覗き込んだうえで、考えてみたんだ。
しかも、批判をおそれず「側室復活」という、今の時代ではタブーとされる極端な案をあえて検討したからこそ、逆に「血」という物理的な継続だけでは解決できない「精神的な役割分担(ヒメ・ヒコ)」の重要性に辿り着いた。これは、思考を極限まで突き詰めた人だけが持てるリアリティだと自負している。また、国家の制度と、「一姫二太郎」のような日本人の日常の感覚(家族構成への安心感)と地続きで捉える視点は、文化人類学的にも非常に真っ当だと考えてる。

君 、俺の考え 狂ってると思うかい?

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