2015/01/05

Post #1370

Boudhanath,Nepal
今日からごそごそ動き出したんだが、頭の痛いことになりやがった。
正月気分は完全に吹っ飛んじまったぜ。力なく笑うしかないなぁ。

俺は自分のためだけの小さな法人を作ってはや5年ちょっと経つんだが、これが11月に決算なわけだ。するてぇと、1月の末には税金を払わなけりゃならないんだ。
世の中、税務署さんだけは待ったが効かないんだ。それが世の中の仕組みだゼイ。
俺は昨期、ケチケチ事業展開したおかげで、業界の連中からは守銭奴とかセコいと評されるほどだったのだが、おかげさんで、帳簿上は利益が出てしまったゼイ。
自分史上、過去最高だ。
しかし、そんなものはタカが知れているゼイ。
実際には、そこから今期の経費を絞り出したり、自分の給料を捻り出したりしなけりゃならんのだ。
そうすると、そんな利益はすぐに蒸発しちまう。その程度のちんけな商売なんだゼイ。
自転車操業だゼイ。毎日が綱渡りだゼイ。
インディペンデントは辛いなぁ・・。
で、利益が出てしまったので利益に対して15%の法人税を払わなけりゃならんのだゼイ。
法人税だけじゃない。復興特別税、法人県民税、法人事業税、法人市民税・・・。
いったいいくらになるのやらだゼイ。
この冬のやりくりに頭が痛いゼイ。
高額納税者への道は険しいゼイ。

それだけじゃない、まっとうで善良な小市民の俺は、社会保険だって厚生年金だって自己負担分と会社負担分を併せて、せっせと毎月お支払いしているゼイ。
いやいや、それだけじゃないんだゼイ。
毎月法人としては、児童手当拠出金なる金も、微々たるもんだが支払っているのさ。
もちろん、市県民税だって支払ってるぜ。毎日のお買い物にはきっちりかっちり、8%の消費税がついてくる。借家暮らしだから固定資産税がないのはちょっと救いだゼイ。

読者諸君は、俺がちんけな法人をやってるから、ケツの毛まで抜かれるほど税金を払う羽目になっていると思っているだろうが、諸君の給料明細を読めば、自分も結構な額の税金を支払っていることがわかるはずだゼイ!

で、何が言いたいかと言えば、これだけ税金をふんだくられてるのに、その金は一体何に使われてるんだ?って、俺は声を大にして言いたいぜ。
政府のお偉いさんが言う社会保障に使われてるなんてのは、真っ赤な嘘だと思えるゼイ!
俺にはなんの恩恵もないのか?ゴミの収集くらいしか、お上のサービスを実感できないゼイ!
介護職員の給料は安い。そして、俺の将来の年金額では、とても老後はおぼつかないぜ。生活保護しか道は残されてないのか?
いったいこの国は、どうなってるんだ。
これじゃ、金持ちも貧乏人も、上手いことやって税金をごまかそうって思ったって、無理もない話だゼイ!そんな手合いに限って、国益がどうこうとか言ってんじゃないだろうな?
けれど、どいつもこいつもそんなんじゃ、この国の将来はお先真っ暗だゼイ!
しかし、仕方ない。耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、なんとか税金を払うとするさ。なんとか運転資金を捻り出さねぇと、税金払って路頭に迷うことになりかねないゼイ!


読者諸君、失礼する。明日は県税事務所と市役所だ。FUCK OFF!ぜいぜい喘ぎごえが漏れそうだゼイ!

2015/01/04

Post #1369

Patan,Nepal
昨日、暇に任せて近所の書店に行き、平安時代末期の流行歌である今様をたくさん収めた古典『梁塵秘抄』(ちくま学芸文庫 植木朝子編訳)と、岩波文庫の伊勢物語を買ってきて読んでいる。

梁塵秘抄の中では、気に入っているのはやはりこれだな。

『遊びをせんとや生まれけむ

 戯れせんとや生まれけん

 遊ぶ子供の声聞けば

 わが身さへこそ揺るがるれ』

こんなのも好きだ。共感できる。

『美女うち見れば

 一本葛にもなりばやとぞ思ふ

 本より末まで縒らればや

 切るとも刻むとも

 離れがたきはわが宿世』

伊勢物語なら、これなんかどうだろう。

 『むかし、をとこ、臥して思ひ、起きて思ひ、思ひあまりて、

   わが袖は 草の庵に あらねども 暮るれば露の やどりなりけり』

今っぽく言うと、昔、一人の男がいた。恋い慕う女を寝ては思い、起きては想い、その思い余ってこう歌を詠んだ。「私の袖は 草の庵に宿っているように、一日が暮れるころには、あなたを想う涙で、露のおりたように、濡れ果てているものです」といったところでしょうかね。


読者諸君、失礼する。明日から仕事なんだが、しょせん俺は、遊びをせんとや生まれけむさ。

2015/01/03

Post #1368

Kathmandu,Nepal
昨日も雪のなか、初詣に行ってきたのだが、おみくじによれば今年の俺の運勢は大吉だ。
怖いもんナシだ!こうなりゃ今年もガンガン行くぞ!

以前にも正月に触れたことがあるけれど、浮かれたTVを見ているとつい、一休さんでお馴染の室町時代の禅僧・一休宗純の逸話を想い出す俺なのさ。正月に、杖の頭にそこいらに落ちている髑髏をつけては、浮かれる人々に『ご用心、ご用心』と冷や水をかけて歩いていたそうな。
いやなジジイだなぁ。サイコーだぜ。
俺は歳食ったら、一休みたいな味わいのある表情のジジイになりたいと、常々思ってるんだ。
なに、一休さんの肖像、見たことないって?面倒くせぇなぁ。各々、ググってみてくれ。

この時、一休宗純が詠んだとされる歌がこれだ。
『門松は 冥土の旅の 一里塚 めでたくもあり めでたくもなし』

そんなわけで、俺も一休さんを見習って、ネパールで撮ってきた髑髏の写真をお送りしよう。
君たちの正月気分に冷や水をぶっかけるぜ!

ネパールやチベットの仏教には、髑髏のモチーフが多々見られる。人生のはかなさを、思い知らせようという意図がみえみえだ。そこいらに、このホネホネしたキンコツマンみたいな像や壁画を見ることが出来る。俺は、このキンコツマン、こんな姿になっても股間に一物ぶら下げているあたりに、そこはかとないおかしみを感じるぜ。六根清浄、男根不浄って趣だ。イヒヒ・・。
そういえば、ヨーロッパの中世の宗教画にも、LaDance Macabre(死の舞踏)といって、人間が骸骨の姿で踊り狂い、生のはかなさを示すものがたくさんあるっけ。

毎度毎度ながら俺自身のことを思い返すと、中学生の頃におふくろが死んだ。その時、運んだ母親の死体の冷たさ重さ、そして硬さが忘れられず、しばらく人間が薄気味悪くなっていた時期もあった。
少年時代の俺にとっては、人間というのはまこと薄気味悪い存在で、理科室の人体模型のように吐き気を催すような存在だった。まさに病毒の巣、美しい女性も一皮むくととても見られたもんじゃないって思っていたのは間違いない。
そのころ、荒んで他人を遠ざけるように暮らしていた。
見るに見かねて、手を差し伸べてくれる人のその手すらも、薄気味悪く思い、野犬が手を噛むようにして、振り払っていた。
いつの頃か、その思いも薄れ、克服されたのだが、それはいつの頃だったか・・・。思うにやはり、高校生になって、好きな女の子が出来たころだろう。
けれど、そんな感覚は今でも自分の中にトラウマのように遺っていて、写真を撮るという営み、つまりいずれは跡形もなく消え去ってしまうであろう人々に対する、やむに已まれぬ行為として表れているんだと思う。いとおしいというのは、いと=たいそう、惜しいという想いなんだなぁ。

数年前、岩波文庫の金子光晴詩集を読んでいて、こんな俺の思いにピタリとはまる詩を見つけた。今でも、時折引っ張り出して、読んでみる。いつか君にも紹介したいと思っていたんだ。いい機会だ。今日、ここに記しておこう。

五体

 世に地獄よりも怖ろしい
きつくわいなものは、あの医書。
解体と、病毒の図解こそ、
わが身がつゝむ嫌悪のみなかみ。

あゝ、あのおぞましい懐胎図。だが、
心ひそかに一人の女を恋ひそめた日から
畏れ、いとうた人間のからだが、
実用の機関(からくり)から、仄々(ほのぼの)と花咲きくゆり、

この口は、貪食の底抜穴ではなく、接吻のためにあり、
この眼は商品をみわけるためでなく、君を迎へる東道(しるべ)の炬火(たいまつ)
この鼻は、いのちのふいごではなくて、
そこはかとたゞよふ香りに誘はれるためにあり、

この手はつかみとるやつとこではなく、
君をかい抱くため、また、この心は、
損益や、真偽を思量するためではなく、そのまゝ
君にあづけるためにあると知つた。

(金子光晴 『金子光晴詩集』清岡卓行編 岩波文庫版より)

この心は、そのまま君にあづけるためにあると知った、ちゅうのが最高にいい。
相手の心を自分のものにしたりするより、自分の心をそのまま相手に受け取ってほしいというこの気持ち。
人を好きになるというのは、相手を所有することじゃなくて、自分を放棄することだということさ。
The Whoの曲にも、“Bargain”っていう名曲があったな。
“お前を見つけるためなら、喜んで我を忘れるよ
 手にしたものを全て諦めてもイイ”
という歌だ。
人間、なかなかこうは思いきれないので、困ったもんだ。

読者諸君、失礼する。今日も思うままに脱線しまくりだなぁ。