2015/05/21

Post #1506

Bremen,Germany
昨日は打ち合わせを二件こなすくらいしかやることのない一日だった。
仕事が暇だと、そんなことでもないと他人とほとんど話さないありさまだ。
こりゃ、偏屈で寂しい老後を迎えることになるだろう。間違いないぜ。
こんな俺をわざわざ訪ねてくるのは、生命保険のセールスのおばちゃんくらいだ。相変わらずおばちゃんには大人気だけどな。
こんな時に、君が訪ねてきてくれたなら、どんなに楽しい時間を過ごせるだろうか?
若い頃から俺はずっと反体制でやってきた。だから、俺には友人が少ないのさ。仕方ないぜ。何しろ俺は上っ面の話題だけが上滑りするような友人じゃ、退屈しちまうからな。本音の話で盛り上がりたいのさ。
昨日は初夏の陽気だったなとか、アマゾンからCDが届いたんだなんて話をしても仕方ないだろう。俺がする話じゃないのさ。だれか別の人にお任せしよう。

そうだなぁ、何か話題になるようなことはないかなぁ・・・。

そうそう、実は今度の土曜日に、高校時代の同窓会があるんだが、イマイチ気乗りしないながらも、つい出ることにしちまったんだ。まったくもって、金と時間を無駄にしにゆくのさ。会いたい奴もそうはいないし、俺の高校は男女の比率が7対3くらいだったから、集まるのはおっさんばかりだ。さえないぜ。
だいたい、何十年もあっていない奴らと話をしたって、お互い話題もないだろうよ。
なにしろ、俺の通っていた高校の連中ときたら、医者の倅とか、とにかくやたら金持ちのボンボンばかりだったからな。今となっては、反体制でドロップアウトの俺とは、まったく住む世界が違うのさ。
こりゃ、天気の話でもするしかなさそうだな。やれやれ・・・。それについては、また話す機会もあるだろうよ。

毎日なにか面白おかしいことがないとな。人生が萎れちまうぜ。
しかし、そんなことを言っていられるのも今のうちだけだ。俺にははっきりわかってる。今は自分を休ませて充電する時期だって。そんなときもないとな。

なにしろ7月になれば、長期出張ででかい現場が俺を持っているんだ。
漢の仕事だ。浮ついた奴なんてついてこれないぜ。
未だかつてない重責なんだ。しびれまくること請け合いだ。正直、今の俺の実力でやり切れるか不安で仕方ないけれど、こいつをやり遂げれば、俺の仕事のレベルはまた何段かステップアップすること間違いないだろう。七転八倒してピンチを切り抜けるのが楽しみだ。
ワクワクするぜ。
だから、いま大してすることがなくったって、その長丁場を思えば、その手持無沙汰を愉しめばいいってことがよくわかる。これでいいのさ。

まぁ、どこでどんな現場と格闘することになるかなんてことは、ここには書けないけどな。こう見えて俺にだって、仕事上の守秘義務ってのがあるのさ。
そして、その現場を何とか切り抜けることができたなら、そのあとは息継ぎする間もなく、来年の3月まで、次の仕事が固まっているんだ。走り出したら気を抜く暇なんてありゃしないさ。

俺はいつも思ってることがあるんだ。
何をって?
そう、どんな仕事でも、目の前のことに精一杯取り組まない限り、次のステップに進めないんだってことさ。俺はそれをいつも自分に言い聞かせてるんだ。
だってそうだろう?どんなにでっかい夢を抱いていても、目の前のことに真剣に取り組まない限り、前には進めないんだぜ。当然、その夢に行きつくことなんてできっこないさ。

言ってみれば、説教好きな親父が、居酒屋で一杯やりながら言いそうなくらい月並みなことだけど、それが間違いないってことが、俺には経験的にわかってる。どうしてって聞かれると、苦労自慢みたいになるから、あえて言いたくないけどね。だって、過ぎてみれば、どんな苦労も笑い話だから。そうじゃないかい?

読者諸君、失礼する。今日はなんだか散漫な話になってすまない。まぁ、そんなときもあるってことさ。

2015/05/20

Post #1505

Hamburg,Germany
ハンブルグの駅前広場で、列車の乗り継ぎの間に煙草を一本吸おうと外に出てみた。
ドイツのというか、ヨーロッパの鉄道では、列車内の検札が主流なので、改札はなかったりする。
近距離列車では、検札も改札もなかったりするから、いったいどうやって不正乗車を取り締まっているのか疑問だ。
それはまぁいい。
俺は煙草を吸う前に、そのあたりの露店をそっと写真に収めたりしていたんだ。
誰にも気が付かれないはずのノーファインダーでだよ。

すると、10メートルほど離れたところから、見るからにうすのろといった雰囲気の太ったさえない男が、モグモグとケーキのようなものを鷲掴みで頬張りながら、俺めがけて近寄ってきた。

これは厄介なことになったな。俺は正直そう思った。

今回のヨーロッパ旅行では、写真を撮っていてトラブルらしいトラブルは一度たりともなかったんだが、旅の最終コーナーに差し掛かったところで、こんな訳のわからん男に写真を撮っているところを見咎められてトラブルになるのは御免だった。
なにしろ、いくらかどんくさそうだとはいえ、いざ揉め事になったなら、俺と相手には体格差がありすぎる。体格差をカバーするなら、奇襲攻撃で急所を躊躇なく狙わねばなるまいが、そうなったら、間違いなく警察沙汰だ。ますますやっかいなことになる。それにこっちには、でかいトランクだってあるから、行動の自由が効かない。走ってトンズラできないのだ!
カミさんときたら、不穏な気配を感じたのか、タバコの煙が嫌なのか、すっと何処かに離れて行ってしまった。さすがだ。

男は、相変わらずケーキをもさもさ喰らいながら、俺のカメラを指して何事か語り掛けている。
しかし、挨拶くらいしかわからないドイツ語の上に、その男は口の中いっぱいにケーキを詰め込んでもぐもぐやっていやがるので、何を言いていのかさっぱり要を得ない。

しかし、どうやら男は俺に『あんた、い、いま写真撮ってただろう?お、俺の写真もとってくんねぇか?』みたいなことを言っているようだった。

いやぁ、こういう奴の写真を下手に撮ると、撮ってから金を払えとか言われかねないなと思った俺は、首を振り、写真なんか撮ってないと意思表示し、手を彼の前で振って、君の写真を撮る気もないってことをゼスチャーで伝えたんだ。
そうして、さも俺は単に煙草を吸いたいだけなんだって風情で、無造作にポケットからラッキーストライクのボックスを出し、箱に入ったままの煙草を歯で咥えて引っ張り出し、煙草に火をつけた。

男の興味は、俺の吸う煙草に移ったようだ。
物欲しそうな目つきで、煙草をじっと見ている。俺が風に乗せるように吹き出す煙を、じっと見ている。
俺は、煙草の箱から一本抜出して、男に差し出した。

男は、まだ残っていたケーキを必死の形相で口に押し込むと、クリームまみれの右手の太い指で、煙草を受け取った。
その時俺は、男の左腕が軟質な素材で形成された義手だということに気が付いた。
そして、無性にこの男を写真に収めたくなった。

俺がカメラを目の高さに挙げて、ちょっとうなづくと、男にもその意図が通じたらしく、口の中のケーキを何とか飲み下し、精一杯胸を張ってポーズをつけた。俺は覚悟しろと念じながら、写真を撮った。

それがこの写真だ。男の右手には、俺からもらったラッキーストライクが挟まれている。

そうしてこの後、風の吹き抜ける中、男の懐にライターを突っ込み、奴の煙草に火をつけてやったのさ。煙草一本のやり取りで、何とも言えない親和が、俺と男の間に芽生えたのを俺は感じていたんだ。

俺はいつでも人間を見るとき、その過剰や欠損にまず目が行ってしまう。そして、それがその人間の人生や人格に、どんな影響を与えているのか、考えこまずにはいられない。


読者諸君、失礼する。しかし、精神や欲望といった目に見えないものの過剰や欠損は、どう見抜けばいいのか。できることなら、それがわかる感受性が欲しい。もっとも、俺自身もある意味で、そう言った過剰や欠損を精神に宿した、一種のカタワだと思えるよ。

2015/05/19

Post #1504 Farewell, My Lovely Camera

 のっけから、タイトルはレイモンド・チャンドラーの名作ハードボイルド、『さらば愛しき女よ』のパクリだ。
そう、今日はまさに『さらば愛しきカメラよ』なのだ。
そのカメラとは、これだ。
カメラに興味のない人は、すまん。勘弁してくれ。
しかし、カメラを手放すことは、俺にとっては身を切るように辛いことなのだ。
わかっておくれよ。
Fuji TX-1 with TX-30f5.6
日曜日の車の事故は、本当に凹んだ。精神的に打ちのめされた。
先日、任意保険の更新があって、2年前の事故のおかげで、保険料が上がったと家人に小言を言われたばかりだったので、ますます落ち込んだ。

Nagoya Station
仕方ない。仕事もぽつぽつと入っては来たが、まだ弱い。7月から来年の3月まではがっちり固まっているのだが、この5月6月はさっぱりだ。先が思いやられる。
そこで、痛恨ながらカメラを一台売却してきた。
それがこのカメラだ。

フジフィルムが、天下のハッセルブラッドと共同開発したカメラ、FUJI TX-1だ。もちろん、35ミリのフィルムカメラだ。当時は、35ミリフィルムで中判並みの画質が得られるということで、驚異のカメラだった。まったく、今となっては前世紀の遺物だ。
泣けてくる。
これは俺が発売と同時に、珍しく新品で買った思い出深いカメラだ。20世紀の終わりごろだったろうか?その割には出番が少なかったがな。

このカメラは、そりゃ凄いカメラだった。
ライカなんかと同じレンジファインダー・カメラだ。つまり、ファインダーの中に映っている二重像を、レンズのピントを調整することで一つに合致させてピントを合わせるというカメラだ。
三角測量の原理の応用だ。
この手のカメラは、基線長が長いほど、ピント精度が高いとされている。と言っても、デジカメ全盛の昨今、そんなこと言ってもよくわからないだろう。つまりファインダーともう一つの対物窓の距離が長いほど、ピントの精度が高まるということなのだ。
しかし、それにしてもこのカメラは横に長い。
この横に長い独特のフォルムがこのカメラの特殊性を物語っている。

工業デザインの世界では、形態は機能が決定するという鉄則がある。
人間にやさしいデザインなんて糞くらえだ!使いにくいものをうまく使いこなしてなんぼじゃろう!
このカメラは、35ミリフィルムの二コマ分を使って24ミリ×65ミリという大画面のパノラマを撮影することができ、しかも通常の24ミリ×36ミリの画面の撮影も、ボタン一つで切り替え可能なカメラで会ったのだ。
当時は、35ミリフィルムの上下をカットし、格好だけパノラマに見せかけるカメラが大流行していたのだが、このカメラは通常の35ミリの画質で、良好なパノラマ画像を撮影することができ、なおかつ、フィルムの途中で自在に通常サイズと切り替えることが可能であったのだ。

なぜそんな荒業が可能なのかと言えば、フィルムゲートの両脇に、切り替えスイッチに連動する羽が左右についており、これが開いたり閉じたりしてフィルムのサイズを切り替えるわけだ。
そこで、普通に考えるとフィルムの途中で切り替えると、フィルムのコマとコマの間が空いてしまったり、重複して二重露光になってしまうのではという疑問が出てくる。
少しフィルムカメラをいじったことがある人ならすぐに思い浮かぶだろう。
そこは世界レベルのカメラメーカーであるフジフィルムだ。
このカメラは、まず最初にフィルムを装填すると、フィルムの長さを計測しがてら、フィルムをすべて巻き上げ、これを巻き戻してゆくシステムになっているのだが、これによって、フィルムの残りのコマ数を計算しながら、画面が切り替えられるたびにフィルムのコマ間が適正になるように、少しづつ巻き上げたり、巻き戻したりするという、非常にお利口さんなカメラなのだ。こんなイカれたカメラは、このカメラとこの後継機種TX-2しかない。俺は、ニンゲンでも道具でも、常識外れにイカれた破格な奴が大好きなのさ。そして、このTX-2すら、出荷は2006年に終了している。それも時代の流れだ。

ううっ、こんなカメラを手放してしまうとは、俺、不甲斐ないッたらないぜ。

Nagoya Station
このカメラに、装着するレンズ、Super EBC FUJINON TX-90(90ミリf4)とSuper EBC FUJINON TX-45(45ミリf4)そして、中古で30万くらいで買った銘玉Super EBC FUJINON TX-30(30ミリf5.6)の三本をセットで持っていたんだが、これを泣く泣く叩き売ってきてのだ。

上に挙げた写真は、TX-30を使って撮ったっものだが、このようにパノラマモードにすると焦点距離は16度ほどに相当し、およそ角度にして94.1度の画角を得ることができる。
これは、人間の視角視野におおよそ匹敵するもので、非球面レンズの採用により、非常にひずみの少ないシャープな画像を得ることができるのだ。
もちろん、45ミリや90ミリも素晴らしいレンズだった。

まさに珠玉のレンズたち。たまらん。L=TX-45、C=TX-30,R=TX-90

古くからお馴染みのカメラ商さんは、精一杯の金額を出してくれた。しかも即金で。
ありがとう、熊沢さん。

いくらで買って、いくらで売ったってのは、詮索しないで頂戴ね。そういうことは言挙げしちゃいけないのが、この世界の不文律だから。

俺の秘蔵のカメラは、自分の会社を立ち上げるときにも何台か売られていった。そしてまた一台、箪笥の肥やしになっていた名機が、俺の手元から去っていったのだ。
自分の不甲斐なさに、泣けてくるというものだ。
せめて、誰かもっと使ってくれる人の手に渡ることを祈るばかりだ。

俺の尊敬する世界企業IKEAの創業者、イングヴァル・カンプラード氏は世界的にもまれな成功をおさめた企業家であるけれど、常々その子供たちにこう言い聞かせていたという。
『本当におまえが欲しいのはこれなのか。本当に欲しいのか、買う価値があるものなのか、しっかり考えたのか。それを買ったら、手元にお金は残らないぞ。』(ノルディック社刊 バッティル・トーレクル著、楠野透子訳『イケアの挑戦 創業者は語る」313ページより)

この言葉をもっと若いうちに知っておけば、現在、こんな不甲斐ないことにはならなかっただろう。
少なくとも、このイカれたカメラを、なけなしの高い金を出して買うこともなかったはずだ。
その代り、今の道楽者の俺はいなかっただろうし、今現在の写真の戦闘的で前のめりな撮影スタイルを見出し、確立することもできなかっただろう。
そして何より、写真を通じて世界をとらえ、その意味を探り、自分自身の考えを深めていくという生き方にも、達することはできなかっただろう。

何事も、授業料ってのは高くつくってもんだ。


読者諸君、失礼する。俺と一緒に、売られていったカメラのために、ドナドナでも歌ってやってくれ。頼むぜ。