2024/12/24

Post #1727 レクサプロに感謝。そして、メリークリスマス


 この三年ほどの間に、コロナに罹り、その後遺症か鬱病となった。

発達障害の息子を連れて行った精神科の清算窓口で、希死念慮がありますと告げて通院することになった。もしそうしていなかったら、きっと家族を殺して自殺していたか、高速道路で闇に吸い込まれるように側壁に車を衝突させて死んでいただろう。どうだっていい、馬鹿が一匹減るだけさ。同じような事件が、すぐ近くの町で起こった。男は妻と子供二人を殺し、自分は死にきれなかった。自分に重なった。俺はギリギリ助かった。

おかげさまで、高速道路を狂ったように疾走することも見事になくなった。

突然感情崩壊して、とめどなく涙が流れることもなくたった。

肚の奥底からこみあげるような破壊衝動にも似た狂気もなくなった。

去勢されたみたいだ。

レクサプロに感謝だ。

高校時代のかけがえのない友人、仕事で目標にしていた先達、高校時代に付き合っていた女性、多くの親類、何十年にもわたって自分を導いてくれた師匠。

自分にとって、かけがえのない人たちが、次々と死んでいった。

もう40年も前に母が死んだときから、人が死んでも泣くことはない。

自分の中に澱のようによどんでいくだけだ。けれど、受け入れているわけでも、平気なわけでもない。都度、自分の心の一部が、無理矢理に剥ぎ取られるように感じた。

とりわけ、友人の死は辛かった。

そしてそれをありふれたことのように他人に軽くあしらわれるのも、心を踏みにじられるような悲しさだった。

いま住んでいる街には、辻々に地蔵菩薩が祀られている。いつも足を止め、真摯に手を合わせては、その人々の救済を祈る。

レクサプロに感謝だ。

自分の弱さから、絶縁した人もいる。

自分の振る舞いをパワハラだと訴えた人もいる。

実の兄弟の中には、自分のことを憎んで嫌っている者もいる。

すべて、自業自得だ。

それでも、自分自身の存在が足元から揺らぐような、癒えない悲しみがある。

考えれば考えるほど、吐きそうになる。

レクサプロに感謝だ。

腎臓結石から菌血症になり、三度も入院することとなった。体と財布はボロボロになった。

何も食べられないのに吐き戻し、高熱の中下痢を垂れ流した。無様というかなかなかやばかった。医師の友人には、それで死んでもおかしくなかったといわれた。

オーグメンチンに感謝だ。

じっと、鏡を見る。

いつの間にか55歳、いや年が明けると56歳だ。自分の祖父はそれくらいでぽっくり死んだ。

練炭火鉢の火のついた練炭を取り落とし、驚いて心臓が止まったんだ。

いつ自分の番が来てもおかしくはない。

自分の人生は、もう終わりが見えた。

もうこの先ロマンスも冒険も何もない。

ただ生きて年老い、死ぬるだけさ。

神から与えられた時を、無駄にしてしまった悔恨がこみあげてくる。

レクサプロに感謝だ。

悩みの種も家族だが、自分を支えてくれるのも家族、特に息子の麒麟児だった。

その息子の元を離れ、ひとり華やかな歴史と陰惨な差別が同居する街で暮らし、夜な夜な仕事を続けている。道を歩いているのは、インバウンドの外国人ばかりだ。知人の一人もいない街で、仕事以外で言葉を交わすこともなく、ねぐらと仕事場の往復だ。

それも今年は、今日で終わる。そのうち、自分の退屈な人生も終わるさ。


メリークリスマス。


冬の荒野のような心象風景が胸の奥にどこまでもどこまでも広がっている。

2022/03/01

Post #1726

コロナと診断されてから、既に一週間が過ぎた。
体重は4キロほどおち、子供が生まれる前に、タバコを吸っていた頃に近づいてきたようだ。しかし、かつて持っていたスーツは、ウエストがしんどくなって捨ててしまったことを思い出し、卒園式、入学式が近いので、ふと悔やまれる。

とっくに熱も下がって咳も出ない。しかしやることもないので、ゴロゴロしながら本を読んで暮らしている。
昨日まで読んでいたのは、先年亡くなられた人類学者マーシャル・サーリンズの『石器時代の経済学』という古典的な人類学のテキストだが、これがとても面白かった。
こういう本は、しっかり腰を落ち着けて読まないと、ちっとも理解できない。車の信号待ちや、仕事の休憩時間で読むような本ではないのだ。
20世紀もなお石器時代(狩猟採集だけの旧石器時代と農耕も始めている新石器時代)を生きている人々への人類学者のフィールドワークを丹念に分析することで、石器時代の人たちは生きるのに必死で、朝から晩まで食料を得るために駆けずり回り這い回っていたわけではなく、毎日平均2、3時間働くことで、生活の要求を満たしており、石器時代とは『始原のあふれる社会』だったということを論じる内容だ。
それが第一章の論旨なんだが、二十世紀初頭の人類学者マルセル・モース(岡本太郎パリ留学中の先生)の古典的な名著、『贈与論』の核心部分の解釈を掘り下げ、ルソーやホッブズ が考察していた始原の社会の社会契約と比較する第四章が、難しいけんどスリリングで、めちゃめちゃ面白かった。
万人の万人に対する闘争を回避するため、コモンウェルス(=共同の富)即ち国家を持たない人々は、贈与によって相互に社会契約を生み出したということを、モースを素材に、リヴァイアサンのホッブズを8分に、不平等起源論のルソーを2分ほど絡めて述べられ、仕上げのスパイスにレヴィ・ストロースの『交換とは平和的に解決された戦争であり、そして戦争とは、互換活動が不首尾に終わった結果にほかならない』という有名な一節をさらりとあしらわれ総括される。
そして最後にブッシュマンの次のような言葉で締めくくられるのだ
『一番悪いことは、贈物をしないことです。おたがいに好感をもっていなくても、一人が贈物をあたえたら、もう一人はうけとらねばなりません。こうして人々のあいだに、平和がもたらされるのです。私たちは、自分がもっているものを与えます。これが、みんな一緒に暮らしてゆく、私たちのやり方なのです』
僕は性魯鈍にして愚物ではあるが、こういう文章を読むのが楽しくて仕方ない。
そして、人間と社会に対する見識が深まる。細かいことは学者ではないから、サクッと忘れても構わない。自分の中に、気持ち良い風に吹かれたような感覚が残る。
法が蔑ろにされ、戦争が起こっているまさにいまこそ、これを読んでよかったと思える。

そして、その後ネットで原一男の不滅のドキュメンタリー映画『ゆきゆきて、神軍』を見て暮らした。
神戸のバッテリー商 奥崎謙三は、かつてニューギニアで戦った。日本に帰って来てからは、悪徳不動産屋を殺し、服役後、天皇に対して戦争責任を叫びながらパチンコ球を投擲した。天皇の顔写真をコラージュしたポルノを印刷したビラを撒き、また服役。
昭和の怪人だった。あまりに堂々と自分の信じた正義のために、国法などあっさり無視して行動する、今日で言う『無敵の人』だった。
ニューギニア戦線で奥崎がしょぞくしていた部隊で、戦争は終わっていたのに、二人の兵士が上官の命令で射殺された。
時は流れ、バブル真っ盛りの80年代、元帰還兵の奥崎謙三は、田中角栄を殺すと大書きしたマークⅡで、かつての上官を訪ねまわり、その真相を、執拗な尋問と発作的な暴力で解明してゆこうとする。
その処刑の裏には、極限の飢餓状態に追い込まれた日本兵が、階級の低い者を撃ち殺して食べたのではないか?という今日では考えられないような戦争の実態が潜んでいる。
誰もが、戦争中の出来事は思い出したくない。生きて帰ってこれたことに満足し、善良な市民として生きてきた。子供や孫のいる前で絶対に話したくない。そして、誰もが自分は撃っていない、自分は命令していないという。
そして最後には、奥崎謙三は元上官の家に改造拳銃を持って乗り込み、上官の息子を狙撃、逮捕されてしまう。
もう、完全に狂っている。けれど、アイヒマンの裁判を通じて、戦争責任を追求したハンナ・アーレントにも通じるなにかを感じる。
これもまた、戦争が起こっている今だから、あえて観てみたかったものだ。

そして、見終わってから奥崎謙三とどことなく風貌が似ていた吉本隆明の本を引っ張り出して、今日も一日本を読んで暮らした。コロナのお陰で優雅なことさ。

2022/02/27

Post #1725

 さて、コロナで自宅隔離の病牀六尺からは今回のウクライナ侵攻が、どうにも日本国民には対岸の火事程度にしか感じられていないように感じますが、これは本当に余所事ではないと思います。

先日の投稿にも書きましたが、我が国の皆さん、とりわけ自民党をはじめとした保守政党の皆さんにすこぶる評判の悪い日本国憲法ですが、武力による紛争解決の禁止は、我が国の憲法にのみ現れるものではなく、パリ不戦条約以来の国際法、国連憲章にも謳われているわけです。

パリ不戦条約は、日本も含めた15カ国がまず調印し、ロシアの前身たるソヴィエト連邦共和国ふくめて、62カ国が調印しました。

しかし、それでも第二次世界大戦は、大東亜戦争は起こってしまいました。

パリ不戦条約は、自衛のための戦力保持は認めていました。

僕が読んでいる岩波文庫版日本国憲法の解説は、長谷部恭男先生が書いておられるのてすが、その172頁には、『帝国議会での憲法草案の審議過程で、九条二項の冒頭に「前項の目的を達するため」という文言がくわえられた。この修正を提案した芦田均氏は、〜中略〜憲法の公布時以降、九条では自衛のための武力の行使が認められることがこの修正によって明確になったとの主張を展開した。』と述べ、我が国の憲法九条は、個別的自衛権を認めていると当時の政府も国際連合憲章第五一条には、明らかに自衛権を認めていると解釈していた記載があります。

しかし、条約は言葉に過ぎません。言葉を曲解し、文言の裏をかくことは、何時も何処でも行われます。

自衛のために派兵する、自衛のためにやむなく侵攻するという詭弁を使ったわけです。ヒットラーはドイツ系市民の保護を謳ってチェコのスデーデン地方に侵攻し、我が国は満洲は帝国の生命線だと言って派兵し、中国に戦争を仕掛ける。そして実際には戦争状態なのに、事変と呼ぶ。そうしていつも自衛のためと称して、自国民、同胞の保護を名目に、自国の防衛と経済的な権益保護の名目で戦争は始まる。


そして、今回のロシアによるウクライナ侵攻は、まったく上にあげた第二次世界大戦の始まりと同じなので、怖れ慄くともに、呆れ返るわけです。

まったくもって、この21世紀に、こんなことが起こるとは。

このような事態が起こりうるなら、台湾どころか、沖縄くらい中国が侵攻して傀儡政権を作るくらいのことは、いつ起こっても不思議ではありません。

その時、日本の識者と言われる連中は、沖縄くらい習近平にくれてやるしかないと言うのでしょうか?


今回、現時点でウクライナはまだなんとか踏みとどまっているようですが、制裁と武器提供以外にNATOが動く気配はありません。

ゼレンスキー大統領は自分たちは、孤立無援だが、ここに残って戦うのだと、毅然としたリーダーシップを発揮しています。18歳から60歳の男性は国に残って共に戦い、市民には火炎瓶を作って抵抗することを呼びかけています。市民たちも、パニックにならずに団結している報道もみられます。

しかし、今回の例を見ても、いざという時に、アメリカは頼りになりそうもありません。

もちろん、NATO非加盟国と日米安全保障保障条約を締結している我が国を、同じように、論ずるのは乱暴なのは承知しておりますが、日米安全保障条約を読んでみると~先程挙げた長谷部恭男先生解説の岩波文庫版日本国憲法に収録されています〜あくまで有事に対して、アメリカの議会の承認のもと派兵されることになっとります。

民主主義そのものが疲弊し、社会の分断が極まったアメリカの議会が、中国と日本のために戦う決断をくだせるとは到底思えません。

そして、沖縄や台湾に万一の事態があったとき、次は本土だというのは間違いありません。

さて、その時、私達はどーしたもんかな?と考えています。

いまの香港や中国本土の人権侵害、民主主義軽視の状態を見ると、たとえ五十歩百歩とはいえ、その五十歩はデカい。

中華人民共和国日本省だの東京特別行政区など、あまりにも反動的で受け入れられません。

とはいえ、神州日本の私達は、ウクライナの皆さんのように、隣国のポーランド(かつて、ウクライナの西半分はポーランド=リトアニア共同王国の領土とされていました)に逃げたりできないわけです。周りは海だから。

戦うと言っても、みんな口では勇ましいことをいっていますが、年寄りばかりの国で、実際自衛隊の人員が定員割れしている現状では、なかなか厳しいのではないでしょうか?

これが東南アジアあたりなら、山の中に逃げ込んでしまいゲリラ化するあるいは雲散霧消することもできましょうが、杉の木ばかりの日本の山々では、どこにも逃げることはできないでしょう。

また、しきりと自民党の皆さんが検討したがっている敵基地攻撃能力も、相手が北朝鮮くらいの規模ならばまだ使い道もあるかと思われますが、相手が広大な国土を持つ中国やロシアなら、そのすべてを同時に攻撃しし、我が国への攻撃能力を削ぐことは、現実的ではないのではないでしょうか?

また、自衛のための軍事行動こそが、いつも戦争を勃発させてきたわけです。慎重に、慎重に考えないといけません。

さて、わたしたちはどうするか?国防予算を増やし、自衛隊の将兵を増やしますか?

そして、あなたやわたしの息子や娘に、銃をとって戦えと言いますか?

或いは、自分の子どもたちは医師や官僚、商社マンなどになって、安全な人生を送らねばならないので、ビンボー人の子弟は自衛隊に行けと言いますか?

それもひとつの方法かもしれません。しかし、あまり趣味がよいとはいえませんね。

僕にはどうするべきか、手持ちの答えはありません。できることなら、平和を愛する諸国民の信義を信頼してゆきたいが、どうにも今回は、信頼できんもんだなぁと憂慮せざるを得ないですね。

武力を伴わない正義には、なんの力もないのか?或いは、その制裁の先に、さらなる規模の戦争が待ち受けているのではないのか?

とはいえ、自分をはるか超えた共同幻想である国家のために、命をかけたり、見たこともない誰かをぶっ殺すのもゴメンだ。水木しげるの『総員玉砕せよ!』を読めば、ほんとにつくづく嫌になる。

さて、だからこそ、民主主義国家の指導者の皆さんには、団結を示して欲しい。平和を愛する諸国民の信義が、信頼に足るものだと証して欲しい。

また、わたしたちはいま起こっていることをよく見て、よく聴いて、なにが正しいのか、どうして行くべきなのか、しっかりと自分で考えねばならないだろう。

せめて、誰か声の大きなものの言うことに惑わされて、自分で理解すること、自分で判断すること、誰かの言ってる安易な結論に飛びつかないこと、なにより自分で納得できることを見つけることを抛棄しないようにしたいと、自分では考えています。

君なら、どうする?