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| ベトナム、ハノイ |
俺がつねづね気に入らないと思ってるのは、小はその辺のおまわりさんから、大は総理大臣まで、どいつもこいつも国家が巨大なシステムであると同時に、大小さまざまな権力の保持機能だと思っているところだ。
まさに、そこが「小利口な秀才たち」の致命的な勘違いなんだ。
彼らにとって国家は、自分たちの権力を維持し、国民を管理・コントロールするための「箱(保持機能)」でしかないんだよな。だからこそ、明治憲法のもとになったプロイセン憲法のような「管理に便利な道具」を金科玉条とし、数合わせに奔走するわけだ。しかし、俺がここんとこを展開し続けている「天皇制リベラリズム」という言葉に込めた真意、そして柳田や折口、梅原猛たちが追い求めた日本の姿は、全くの別物のはずだ。
国家は「保持」するものではなく「通過」するものだ。
1万6000年の歴史を見れば、権力者は現れては消える一時的な存在に過ぎまないのさ。死なないやつはいないからな。本来の「日本という形」は、権力者が保持するものじゃなく、その土地の霊性や民の営みが脈々と流れていく「川」のようなものだといえるだろう。
ゆく川の水は絶えずして、しかももとの水にあらずだ。
天皇が日本社会の中心にぽっかり口を開けたブラックホールというかクラインの壺のような「中空の権力の中心」として祭祀王=「祈る存在」であるのは、権力という汚濁を浄化し、歴史の連なりを次世代へ流すためであって、権力を握りしめるためではないという見方もできうるだろうな。
「管理」ではなく「解放」
「天皇制リベラリズム」の視点に立てば、究極の権威が政治(まつりごと)のさらに奥にあることで、世俗の権力が全能になることを防いでくれるだろう。つまり、政治家ごときが「国家は俺たちの権力保持装置だ」と傲慢になることを許さない、一種の「自由の砦」としての機能だ。
魂を数値化する罪
今の政治家が国家を「権力の保持機能」と考えるから、人間を単なる「労働力」や「消費者」あるいは「有権者数」という数字でしか見られなくなるんだ。しかし、俺たち一人一人の国民は、そんな枠に勝手にくくられるようなものでなく、つぶさに見てゆけば、ひとりひとり差異を持つユニークな存在だ。
彼らは「国家を回している」という万能感に浸っていやがるが、その実は、日本という広大な歴史の森から切り離された、ただの「管理事務員」に過ぎないことに気づいていない。
そもそも国家というのは自然権を持った自由な市民たちが自らの自然権の一部を委譲信託して生み出した一般契約による幻想のはずだ。
ホッブズ、ロック、ルソーたちが築き上げた近代民主主義の「社会契約説」から見れば、国家は市民が便宜のために作り上げた「契約上の幻想」に過ぎないんだ。
俺たち頭の先からつま先まですっぽりと包み込む、母胎のようなものとは違うんだ。
今の政治家たちは、その「市民から預かっているだけの代理権」を、あたかも自分たちが最初から持っている「固有の権力」であるかのように勘違いし、保持し、居座っている。
これこそが、俺の感じる「違和感」の法的な、そして哲学的な正体だ。
しかし、ここで面白いのは、先に挙げた「天皇制リベラリズム」と、この「社会契約による幻想」という視点が重なった時に生まれる究極の逆説だ。
まず「契約」を包み込む「1万6000年の器」という視点が得られる。
西洋的な社会契約説では、契約が切れたり壊れたりすれば国家は終わりだろうな。しかし、日本にはその「契約(幻想)」が書き換えられたり破綻したりしても、その下で脈々と続いてきた「土着の命の連なり」がある。そりゃ、どこの国民だって人類の数十万年の歴史を経てこの地球上に存在してるのは変わりない。しかし、その歴史の重みのすべてとは言わないが一部を体現しているのが、天皇という存在なんだ。(だから大日本帝国と日本国が連続した政体だという擬制が成立するんだよね。)
そしてそれは政治家や官僚機構による権力の「私物化」への最強のカウンターとなっているわけだ。政治家が「国家は自分たちの権力保持機能だ」と傲慢になる時、「国家は市民の委任による幻想だ」という西洋的な理屈と、「天皇は権力を超えた祈りの存在である」という日本的な理屈は、実は「政治家に全能感を抱かせない」という一点において、強力なタッグを組めるはずだ。
どうだろう?
俺は今まで自分がアナーキスト、もしくはアナルコサンディカリスト(無政府労働組合主義者)に近いと思ってたのに、実は愛国者だったと気づいて自分でも驚いてるのさ。
こんなことってあるんだな(笑)

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