2026/11/06

POST#1998 国家はいったい何のためにあるんだ?

岐阜の山の中

国家と個人の関係を巡っては、ルソーの「一般意思」以外にも、ホッブズの「リバイアサン(強大な国家権力)」てのがある。

うーん、リバイアサンか。

アメリカ人が何よりも恐れ、警戒し続けている究極の存在こそが、ホッブズの描いた「リバイアサン(巨大な怪物としての国家)」なんだ。

ホッブズは、国家がない「万人の万人に対する闘争」という無法状態を避けるため、国民が自分の権利をすべて差し出して、1つの強大な国家権力(リバイアサン)を作って守ってもらうべきだと説いたんだ。なぜってホッブスが生きていた頃のイギリスは、ほとんど内戦状態で、国がガタガタだったからだ。だからこそ、ホッブスは、強大な武力を独占し、人々を統治する国家を構想したんだ。

しかし、ここで現代にもう一度目を向けてみれば、国民のほとんど全員に銃が行き渡るほど、社会に銃が流通し、戦争帰りのPTSDを抱え込んでる人々がゴマンといる現代のアメリカこそ、ホッブスが夢見た「万人の万人に対する闘争」を地で行く社会じゃないか?

はっきり言って、俺はそんな危なかっしい世界はごめんだぜ。

日本とアメリカの国家観をこの「リバイアサン」に当てはめると、彼らの「意味不明な非効率さ」の正体が完全に浮き彫りになる。

アメリカは『市民自らが武装する権利を唱え、リバイアサンに「手枷・足枷」をはめ続ける社会』だ。

アメリカの建国の歴史は、イギリスという「暴走したリバイアサン」から命がけで逃げ出し、戦って独立をもぎ取った歴史だ。だからこそそのために、彼らの憲法や社会システムは、「国をリバイアサンにしてはならない」「もしリバイアサンが生まれるなら、徹底的に弱体化させろ」という執念で作られているわけだ。

いわば建国理念だ。

その表れが、住民票を作らない、市民自らに有権者登録をさせるとんでもなく非効率なシステムだ。 

なぜか?リバイアサンに「国民の居場所を一元管理する目」を与えないためさ。

そして連邦制(50の州がバラバラの国)というモザイク国家。それは巨大な領土と権限を持つリバイアサンを50個に切り刻んで、1つの巨大な怪物にならないようにするための工夫だ。まるで江戸時代の日本みたいだ。

なにより極めつけは、銃を持つ権利(修正第2条)だ。

万が一、リバイアサンが暴走して牙をむいた時、国民が武器を持って抵抗できるようにするためという目的があるんだが、たいていは小学校を襲撃して無抵抗の子どもをあの世に強制送還したり、気に入らない奴をあの世に強制送還するために使われる。もちろん黒人をあの世に強制送還したり、ラテン系の南アメリカからの移民を強制送還させるためにも、有効に使われている。まことに便利な道具だ。

そして皆さん、もうお気づきですね。

大方の場合、その被害者自身もアメリカの市民だ。

彼らにとって、システムが非効率で、手続きが面倒で、民間企業に中抜きされて大金を失うことも、無辜の人々が銃撃され殺されることも、「リバイアサンを眠らせておくための必要経費」なんだ。

翻って私どもの住む日本はどうか?リバイアサンを「飼い慣らしている」という感覚に近いだろうか?まぁ一朝事あれば、それは目を覚まし、国民を自らの武力として戦地に送り込み暴虐の限りをつくすスイッチが付いているけどね。日中戦争から太平洋戦争に至る15年戦争を考えてみるがいい。それを忘れてはいけない。

憲法は国家のあるべき理想を記したものという高市総理の言葉は、はっきり言ってウソだ。リバイアサンが暴走することのないように架せられた国家という暴力独占装置への首輪なんだ。これ、すごく大事。テストに出るよ!

日本のシステムは、強大で賢いリバイアサン(官僚機構や国家システム)を信頼し、うまくコントロールして社会の安定や効率(インフラ、治安、福祉)を実現しようとしている。

日本人からすれば、「リバイアサンを飼い慣らして、便利にこき使った方がみんな幸せじゃん」という合理的な判断だ。これは自民党が忌み嫌い、なんとか変えようとしている日本国憲法にもその思想がビルトインさるている。

だからこそ、アメリカがわざわざ自分たちで自分の首を絞めるような非効率なことをしているのが、「意味不明」に見えるんだ。

しかし、世の中は皮肉なものでしてね、アメリカには別の怪物が生まれてしまったんだよ。

国家というリバイアサンを警戒して徹底的にバラバラにし、弱体化させた結果、その空白を埋めるように「巨大な民間資本(GAFAMなどの巨大テック、巨大ロビー企業、民間保険会社)」という、国家のコントロールすら効かない「民営化されたリバイアサン」が爆誕してしまったんだ!

だめじゃん!

アメリカの有権者は、国家に監視されるのを恐れて住民票を拒否したのに、今やGoogleやMetaといった民間企業に、住所どころか、日々の行動、思想、買い物の履歴まで完璧に一元管理(監視)されているわけだ。

 しかも、その一方で、彼らは自分たちが自由のためと信じる不便なシステムのおかげで、彼らに毎日せっせと「中抜き手数料」を毟り取られているわけだ!カモ以外の何物でもないだろ。

国家の暴走つまり暴君=タイラントの出現を防ごうとした結果、資本の暴走(超格差社会と非効率)を招いてしまっているんだ。ついでに、人々はとうとうドナルド・トランプというルール無用の怪物まで生み出したんだ。

どうかしてるぜ!

この「怪物を防ぐために、別の怪物に支配される」という構図こそが、アメリカという国の抱える最大の悲劇というか喜劇と言えるだろうよ。


日本国憲法の精神は全く違う。

日本国憲法の精神は、アメリカ合衆国憲法とは根本的に異なる思想(国家観)に基づいている。

ホッブスよりもルソーに近い。

ルソーの一般意思と象徴天皇制のジャムセッションみたいなものだ。ここで天皇の存在は、国民統合の象徴とされけど、俺は一般意思の受肉化と考えるべきだと主張しておくよ。

アメリカ憲法が「国家(政府)は暴走する敵だから、徹底的に縛り、バラバラにせよ」という【国家への不信と自由(消極的自由)】で作られているのに対し、日本国憲法は【国家を通じた信託と福祉(積極的自由)】、すなわち「国家の力を使って、すべての国民の幸福と平和を実現する」という精神が根底に流れている。

この精神の違いが、憲法の条文や国全体のシステムに決定的な差を生み出しているんだ。

まず、憲法前文にみる「国家への信頼と信託」だ。

日本国憲法の前文には、ルソーの「一般意思」やロックの「社会契約」を最も美しく体現した一節があります。

君は読んだことがあるかい?

「そもそも選挙権は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。」

ここでは、国家権力は国民から「信頼して託されたもの(信託)」であり、その目的は国民全体の幸せ=福利のためであると明記されている。

国家を「初めから敵視する」のではなく、「国民のために正しく機能させるべき道具」として捉えているわけだ。きっと、自民党の皆さんは、この憲法観がお気に召さないんだろう。

しかし、この憲法の精神を捨てたら、日本は中国かアメリカに飲み込まれて雲散霧消してしまうだろう。この国家観こそが、日本が日本である証なんだ。

そして「生存権(第25条)」という決定的な違いがある。

アメリカ憲法には、福祉や社会保障に関する規定がない。

国が個人の生活を支えることは「自由への介入」とみなされかねないからた。野垂れ死のうと自己責任己だ。

しかし、日本国憲法第25条は世界に誇るべき『生存権を定めている。

「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」

自民党や右派の皆さんが大嫌いな生活保護も、この精神に則っている。バッシングしてよいものでは決してない。なぜなら、ジョン・ロールズわ引くまでもなく、今日羽振りのよい人も、いつか未来には必ず老い疲れているだろう。そのときに十分な資産があるか、自分を助けてくれるソーシャル・キャピタルがあるか?それは誰にも分からない。だから、国家に自らの権利を信託して、困窮者を扶助するべきなんだ。要は明日はわが身ってこと。

この1文があるからこそ、日本の行政は住民票を一元管理し、国民皆保険を維持し、誰もが平等に公的サービスを受けられるよう「効率的に」動く義務が生じるんだ。

日本人にとって行政の効率化は、この「25条(生存権)」を国が果たすための当然の手段なんだぜ。要はツールなんだ。

そしてなにより、個人主義の「質の違い」だ。

アメリカの自由とはかんなんだ。

「国よ、俺の邪魔をするな(Leave me alone)」という、国家からの自由。

日本の自由・権利はまったく逆だ。

「国よ、みんなが安心して暮らせる社会を整えてくれ」という、国家による生存の保障。

君はどっちの社会に住みたいと思う?


自民党の皆さんが躍起になって変えようとしてる、日本国憲法の精神が生んだ「効率的で優しい社会」

さて、日本国憲法の精神から見れば、アメリカの「住民票も作らず、有権者登録を強いて、民間の中抜きを許し、格差を広げている状況」は、国家の義務を放棄している(一般意思に背いている)ようにしか見えないんだ。ざんねんながら。

日本は憲法の精神に基づき、強大で賢いリバイアサン(国家システム)を「国民全体の幸福のために正しくこき使う」という道を選んだわけ。

だからこそ、引っ越し一つで住民票が変わり、自動で選挙人名簿に載り、誰もが1割〜3割の負担で高度な医療を受けられる社会が実現しているんだ。

アメリカの社会システムが日本人にとって「意味不明」なのは、単に手続きの不便さだけでなく、「国家は何のために存在するのか」という憲法レベルの哲学が、文字通り180度異なっているからなんだ。

ご存知の通り、日本国憲法はアメリカ(GHQ)の草案をベースに作られたという歴史がありながら、中身はアメリカ憲法とは全く違う「社会権(福祉国家)」の精神が色濃く反映されているんだ。

そう、問題はそこなんだ!

国民の幸せの増進のための国家でなかったら、国家なんてただの戦争機械じゃないか!

この視点こそ、まさに日本国憲法の「核心」であり、人類の悲惨な歴史からたどり着いた究極の結論なんだぜ!

国家が「国民の幸せの増進(福祉や生活の向上)」という目的を失い、ただ領域を支配し、国民を管理・動員するだけの存在になれば、それは単に国境に壁を築き、他国を侵略し、国民を戦場に送り出すだけの「ただの戦争機械(暴力装置)」に変貌してしまう。

実は、日本国憲法が第25条で「生存権(福祉)」を規定し、前文や第9条で「徹底した平和主義」を誓っているのは、この2つが絶対に切り離せない表裏一体のものだからなんだ。

自民党の勇ましい言葉に目を眩まされてはいけない。

1. 「戦争機械」だった過去への猛省から生まれた憲法

日本自身もかつて、国家が国民の生命や幸福よりも「国威発揚」や「戦争の遂行」を最優先にする、恐ろしい「戦争機械」になってしまった歴史がある。

否定しても否定のしようのない事実で、重たい歴史だ。

当時の国家にとって、国民は「幸せにすべき対象」ではなく、戦争を支える「部品(資源)」にすぎなかったんだ。名誉の戦死と喜ぶ笑顔なんて標語が街にあふれてたんだ!冗談じゃない!

その結果として、何千万人の命を奪い、国土を焦土と化した経験から、戦後の日本は憲法に血を流すような覚悟を刻み込みんだんだ。確かにGHQが起草したかもしれない。しかし、それを受け入れ、守ってきたのは他ならぬ日本人自身だ!

「もう二度と、国家を戦争機械にしない(第9条:戦争放棄)」

「これからの国家は、国民を幸せにするためだけに存在する(第25条:生存権)」

つまり、日本国憲法の精神において、国が医療や福祉、インフラを整備して「国民の幸せの増進」に全力を尽くすことは、国家が再び戦争機械へと先祖返りするのを防ぐための「絶対のブレーキ」なんだ。

2. アメリカが「戦争機械」の側面を残し続けるパラドックス

一方でアメリカを見ると、彼らは国家を「福祉の道具」にすることを徹底的に拒否し、前述のようにバラバラに弱体化させている。

しかし皮肉なことに、内政において国家というリバイアサンを縛り付けた結果、連邦政府が圧倒的権力を行使できる領域が「外向きの力」、すなわち軍事(国防)に偏ることになったわけだ。

アメリカでは「国民全員の医療費を国が払う」ことは「社会主義的だ」として大反対される。

しかし、「何十兆円もの予算を軍事費に使う」ことは「国を守るためだ」として容認されやすい土壌がある。

内政では無能で非効率なのに、世界最強の軍隊(戦争機械)としての機能だけは超一級品であり続けるという、歪んだ国家の形がそこにはあるんだ。


「国家は何のためにあるのか」の答え


日本人からすれば、「国民を飢えさせず、病気から守り、安心して暮らせるようにすること」こそが国家の存在理由だ。それがない国家は、ただの「税金を巻き上げて武器を買う組織」にすぎないんだ。

「国民の幸せの増進のための国家でなかったら、ただの戦争機械だ」という指摘は、まさに日本国憲法が世界の歴史に対して突きつけた、最も本質的なメッセージそのものなんだ。

この「福祉国家(日本)」と「軍事国家(アメリカ)」の構造の違いは、両国の予算の使い方(社会保障費 vs 国防費の比率)や、アメリカで軍隊が「貧困層のセーフティネット(就職先)」になってしまっている現実などにも深く関わっているんだ。

もっと、闇を見つめろ!

2026/11/05

POST#1997 トランプ帝国の落日か、新たな混乱の序章か?

 

那覇、国際通り

アメリカの中間選挙の結果が出た。

民主党の地滑り的な大勝だという。トランプ大王を担ぐ共和党はイラクとの戦争、それによる燃料費の高騰、関税による物価の高騰、移民排除による労働力不足によるインフレの亢進に疲弊した人々からNoを突き付けられた格好だ。

さて、それを歴史的な転換点だと浮かれるつもりはない。

なぜって、アメリカの歴史はいつだって共和党と民主党の間を振子のように揺れ動き、市民たちは、朝三暮四の猿のように、目先の生活の不満を政府のせいにしてしまう。

もっとも、今回の共和党政権は歴史的に酷かったのは間違いない。

アメリカは小さな政府で、圧倒的な権力を持つ独善的で狂信的な男にそのかじ取りを委ねていたのだから。

さて、昨日の話の続きだ。

失礼ながら、アメリカ人はまるで朝三暮四の話に出てくる猿のようだ。まぁ、日本人も大差ないがね。

「朝三暮四の猿」とは、目先の利益の違いに囚われて、結局同じであることに気づかないという例え話だ。日本人の選挙の際の投票行動もまったく朝三暮四の猿並だけどね。

ただ、アメリカのこのシステムを深く見ていくと、連中は「騙されている猿」というよりも、「朝三暮四だと分かった上で、別のリスクを避けるためにあえてその損を選んでいる」という、さらに複雑で倒錯した心理が見えてくる。つまりアメリカ人特有の強烈な2つのこだわりだ。

彼らの思考は俺たち日本人とはかなり違う。「目先の100$」より「政府への恐怖」を問題視してるんだ。

つまりアメリカ人にとって最も恐ろしいのは「お金を損すること」ではなく、「政府に自由を奪われること」なんだとさ。合理的だとか徹底的に功利主義的に見えるアメリカ人のこの性分は、実に不思議だ。

おおくの日本人は、「国が一元管理してくれれば、手続きが楽になって手数料もかからない(=実質的に得をする)」と考える。コストも抑えることができて合理的で利便性も高い。しかし、様々な個人情報を政府に差し出し、唯々諾々と政府に管理されることと表裏一体だ。

この唯々諾々と政府に管理されるということが、彼らには耐えられないんだ。

つまりアメリカ人たちは、こんなふうに思ってるってことだ。

「国が一元管理するということは、政府が私のすべての行動、住所、資産を監視できるということだ。それは独裁国家への第一歩だ」と。だから「手続きが煩雑で民間企業に大金をむしり取られる(朝三暮四の損状態だ!)」と分かっていても、「国に監視されるくらいなら、民間企業に金を払って不便な目遭う方がマシだ」という、極端な国家不信がベースにあるんだ。

その結果、トランプのような独裁者が生まれてしまったのは、大きな矛盾としか思えないがね。

彼らは「大きな政府」を徹底的に嫌うんだ。

行政が一元管理して効率化するためには、強力で大きな役所(政府)が必要なのはいうまでもないよね。しかし、アメリカ人、とりわけ保守派の皆さんには「政府は小さければ小さいほど良い(Small Government)」という思想が根強くある。まぁ、イギリスと独立戦争して、自分たちの国をおっ立てた(ついでにネイティブアメリカンも殺しまくった)お国柄だからな。リバイアサンを嫌ってるのさ。
効率化のために役所の権限を強めるくらいなら、「役所は無能で不便なままでいい。その代わり、自分たちの自由を守る」という選択をしているわけだ。

その一方で、ビックテックは人々のスマートフォンやPCでの閲覧履歴や検索履歴から、その思考、好み、性別、年代、現在位置などなど、ありとあらゆる様々なデータを分析抽出して、人々に最適化された広告を送り付ける。そして、それに対する規制も、アメリカ人は嫌う。

こうなってくると、彼らは自分たちの自由を守りたいのではなく、単に政府を信用していないだけじゃないかと勘繰りたくなるぜ。


結局、一番賢いのは「中抜きの仕組み」を作った連中なのさ。そう、一般の国民が気づかないうちに、一番得をしているのは「行政がやらないから、ウチが代わりにやってあげますよ」と間に入って手数料を取っている巨大企業(中抜き業者)に他ならない。

彼らは、国民の「政府が怖い、嫌いだ」という感情を巧みに利用し、「政府に確定申告をやらせたら増税されるぞ!」とか、「政府に国民皆保険を作らせたら社会主義国になるぞ!」とか様々なプロパガンダを流して、現在の不便なシステムを維持させ、自らの利益を守り続けています。こいつは持つものが、持たざる者に仕掛けた認知戦に他ならないな。

この「政府への恐怖」から、アメリカ人は未だに「国定の国民身分証明書(ナショナルID)」の作成にも大反対し続けている。日本のマイナンバーカードの比じゃない。

そして、この政府への不信こそがトランプを大統領に担ぎ出し、彼個人に絶大な王権のような権力を与えているのさ。まるでタイラント(暴君)かディクテテータ(独裁者)じゃないか?

この一見、矛盾しているように見える状況には、アメリカ政治の構造的な背景がある!

まずは「既存のシステム(ディープステート)」への不信感だ。

アメリカの有権者の多くが複雑な行政や既得権益(前述のロビー企業や官僚機構)に不満を募らせた結果、「この腐敗した非効率なシステムをぶち壊してくれる強力なリーダー」を求める心理が生まれたわけだ。自分たち自身が長年にわたって作り上げたものなのにな。
トランプを支持する人々からすれば、彼は「独裁者」ではなく、「国民を苦しめる不便で官僚的なシステム(彼らが言う『ディープステート』)と戦う救世主」という映り方になっとるわけですわ。認知の歪みなんだけどね。

けれど、社会システムへの不信が強すぎるがゆえに、強力な個人に権力を委ねてでも変革を望むというパラドックスが起きているわけだ。

けれどそれは、思考停止して、ただ現状が気に入らないと言ってるだけだろう?

それに対する連邦制による「権力の分散」という防波堤の存在がある。

アメリカの制度そのものは、一人のリーダーが本物の「独裁者」にならないよう、非常に強固なブレーキ(チェック&バランス)を組み込んでいる。

まず州の権限の強さだ。 冒頭の「有権者登録」や「住民票がない」という話の通り、選挙のやり方や警察権、教育、日常の行政ルールはすべて各州(知事や州議会)が握っている。権力の独占をさせない工夫なんだが、この21世紀に制度疲労を起こしていないか?だって、ここデジタル時代に不便極まりないぜ。江戸時代の日本じゃないんだから。

そこは大統領でも手を出せない領域なんだ。

たとえ大統領が連邦政府のトップとして強い権限を行使しようとしても、州の法律や州知事の権限を完全に無視して全国を一元支配することは憲法上できないようになってる。

つまり、トランプがどれほど強力な発言力を持ち、支持者から王のように慕われていたとしても、アメリカの「地方分権(バラバラであること)」というシステム自体が、国全体が一枚岩の独裁国家(タイラント)になることを防ぐ最大の防波堤としても機能しているという構造だ。

そしてやはり疑問は残る。これは「強いリーダーシップ」か「独裁」か?

アメリカでは伝統的に、強力な大統領令(Executive Order)の発動などを巡って、「これは危機を乗り越えるための強いリーダーシップだ」と評価する声と、「議会を無視した独裁的な暴挙だ」と批判する声が常に激しく対立する。年中行事みたいなもんだ。

行政の煩雑さや非効率に苦しむ国民が、強力なトップダウンの力を求めてしまう。しかし、それをやりすぎると民主主義の危機(独裁)と言われる。

アメリカは今まさに、この「自由と統制」「効率と民主主義」の激しいジレンマの渦中にあるわけだ。

まったく日本人からすると、意味不明だ。俺たち日本人の感覚からすると、「不便だし、お金もかかるし、独裁の危険まであるなら、さっさと住民票を作ってシステムを一本化すればいいのに、なぜそれをしないのか?」と、どこまでも意味不明に思えて当然だろう。

それはある意味、日本人が秀吉の刀狩りや綱吉の儒教倫理に基づいた社会OSの書き換えで、すっかりおとなしく家畜化されたとも言える日本人の感覚だ。

この「意味不明さ」の根本には、日本とアメリカの「国(政府)に対する根本的な信頼度の違い」がある。

ここが180度違うため、どれだけ議論してもお互いのシステムが理解できない平行線になってしまうんだ。

日本:お上(政府)は「お世話をしてくれる存在」

日本の歴史や文化において、役所や政府は基本的に「インフラを整え、生活を便利にし、いざという時に守ってくれる存在」という前提(信頼)があります。

だから、マイナンバーや住民票で管理されることに対しても、「手続きが楽になるなら便利でいいじゃん」という発現になる。一時期はマイナポイントとかも貰えてお得だったしね。つまり、日本人にとっての最優先事項は、「秩序、効率、そして全体の公平性」だ。

アメリカ:政府は「いつか牙をむく敵」

一方でアメリカは、イギリスの王による独裁(暴政)から独立戦争を起こして戦い勝ち取った国だ。彼らのDNAには「権力は必ず腐敗する」「政府は放っておくと国民を支配しにくる敵である」という強烈な不信感が刻まれているんだ。抗い食い止めるったって、とっくに腐敗してるんだけどね。

彼らアメリカンにとっての最優先事項は、どれだけ不便であっても「国に個人の自由を侵されないこと」だ。

「効率的で便利な社会」よりも、「不便だけど国にコントロールされない社会」の方が安全だと本気で信じているんだ。けど、俺たちからすると、国民皆保険も国民年金もないような社会なんて、想像できるか?


「意味不明なルール」が残るからこそ、アメリカ

日本人は「みんなで話し合って、一番合理的で効率的なルールを作ろう」とする民族集団だと言えるだろう。

それに対してアメリカは「誰も信用できないから、お互いに足を引っ張り合う(チェック&バランス)複雑なルールにしよう」とする個人の集団だと言えるだろう。

その結果が、

  • 住民票がないから手続きがバラバラ
  • 不正を防ぐためにわざわざ有権者登録をさせる
  • その不便さを逆手に取って民間企業が中抜きで大儲けする
  • システムにイライラした国民が「ぶっ壊してくれ!」と過激なリーダーを支持する

という、外から見ると「自業自得のループ」に陥っているように見えるわけだ。

それ、誰得なんだよ!

「便利さや効率」を何より重んじる日本の視点から見ると、アメリカのこのシステムはまさに「意味不明」の極みだよ。けど、彼らにとっては「自由を守るための必要悪(コスト)」という、交わることのない価値観の壁が存在しているんだ。まぁどっちもある意味、幻想=思い込み、刷り込みなんだけどね。

ジャン・ジャック・ルソーの説いたように、国家とは、一般意思に基づくべきものだと、俺は考えている、近代国家の基礎だ。

「国家の権力は、私利私欲を離れた『社会全体の共通の利益(一般意思)』に基づくべきだ」という考え方は、近代民主主義の最も美しい理想だ。

この哲学的視点をあてはめると、日米の国家のあり方の違い、そして日本人がアメリカを見て「意味不明」と感じる理由がさらにクリアに見えて来るだろうよ。

実は、日本とアメリカは「一般意思をどう実現するか(あるいは信じるか)」のアプローチが根本から異なっているんだ。

日本:行政が「一般意思」を体現しているという信頼

実は、右派の皆さんが大嫌いな日本国憲法に基づく日本のシステムは、ルソーの思想に近い理想を持っているんだ。

国は「社会全体の幸福や効率のために、みんなが納得する最高のシステム(住民票やマイナンバーなど)を国が作り、運営する」

国民も「お上のやることは、私利私欲ではなく『全体の利益(一般意思)』に基づいているはずだ」と比較的素直に信じられるため、国家による一元管理をすんなり受け入れちゃうわけだ。

アメリカ:「一般意思」など存在しないという不信

一方で、アメリカの建国の父たちがベースにしたのは、ルソーよりもむしろロックやモンテスキュー、マディソンといった思想家たちなんだ。彼らは「人間が集まったところに『純粋な一般意思』なんてものは存在しない。あるのは『部分意思(派閥や個人の利権)』のぶつかり合いだけだ」と冷徹に考えたんだ。ぶっちゃけて言えば、まぁ、社会とは力と力のせめぎあいという思想だ。

「社会の共通の利益」を掲げて登場する権力者(トランプ氏のような強力なリーダーも含め)であっても、一歩間違えれば自分の利益のために国民を弾圧するタイラント(独裁者)に化ける可能性がある。

だから、アメリカは「一般意思」という綺麗な理想をハナから信用せず、「誰かが権力を握っても独裁できないよう、最初からシステムをバラバラ(非効率)にしておく」という道を選んだわけだ。


理想の不全、あるいは皮肉

俺が常々主張しているように、国家が「一般意思(全体の幸福)」に基づくべきだとすれば、アメリカの現状はあまりに歪んでいるようにしかみえない。

「政府の暴走を防ぐ」という名目でバラバラにした隙間を、民間企業が「特殊意思(自社の利益)」で埋め尽くし、中抜きで大儲けしているだろう?

結果として、国民全体の利益(一般意思)はないがしろにされ、一人の強力なリーダーの登場に熱狂する土壌まで作ってしまった。そして、持つものと、持たざるものの格差は、理論的には無限に拡大していく。

「一般意思」を信じて国家を信頼し、効率的で安全な社会を作った日本。
「一般意思」を疑って国家を縛り、非効率と引き換えに個人の自由(と剥き出しの資本主義)を守ろうとするアメリカ。

国家のあるべき姿として、この「理想の置きどころ」の違いをどう捉えるべきか、俺はいま君たちに、非常に深い問いを投げかけているんだ。

2026/11/04

POST#1996 アメリカの中間選挙が大盛り上がりだな。

 

沖縄 市場にて
アメリカで、議会の上下院の議員を改選する中間選挙が大盛り上がりだ。
トランプ帝王の行き当たりばったりの政策と縁故主義にうんざりした人々の投票のおかげで、民主党の得票が伸びているらしい。
開票結果化が確定するまでわからないが、民主党が上下院ともに過半数を押さえたら、トランプ危うしだな。彼の思い付き政策に、議会は意を唱えるだろう。様々なルール無用の行いに対して、弾劾決議を発議する可能性もあるだろう。
それよりも、トランプがまた大衆を扇動して、議会を乗っ取るようなことになるかもしれない。最悪だな。
そんな最悪な事態を回避するためにか、民主党の牙城であるカルフォルニア州の人々の投票登録が疑わしいとかいちゃもんをつけていたが、これはあっさり裁判所に否認された。
何かと権力にしがみつく薄みっともない老人だ。
仕方ない。大統領の座を追われたら、かトランプが目の敵にしているICC(国際刑事裁判所)に指名手配されるかもしれない。仲良しのネタニヤフともどもね。そうなったら、フロリダに身を寄せて事実上亡命しているブラジルのボルソナーロ親子も行き場を失うだろうな。

さた、だいたいなんでアメリカじゃ、有権者登録なんて必要なんだ?

住民票とかないのかね?にほんなら、そんな面倒なことを自己申告しなくても、選挙のお知らせが市役所から届く。投票所に行けば、この選挙のお知らせの番号と住民台帳を突き合わせて確認し、市民ならだれでも投票ができる。もちろん投票する気があればだけれどね。

アメリカで有権者登録が必要な最大の理由は、日本のような全国統一の住民票(住民基本台帳)や戸籍の仕組みが存在しないからだ。

はぁ?大事なことだからもう一度言おう。

全国統一の住民基本台帳がないんだとさ!

俺たちがたまたま生まれた日本では引っ越しをして役所に転入届を出せば、自動的に住民票が更新され、選挙管理委員会が作成する選挙人名簿に登録される。自動的にだ。ほかに何の手続きもいらない。日本全国、どこに行っても同じだ。しかし、アメリカにはこれに相当する国の一元的なシステムが、ない。

彼らは「国家が国民を一元管理する」ことへの強い警戒心を持っている。というか、国家を信用していない。

アメリカは歴史的に、中央政府が個人の情報を管理することに対して強い拒否感(プライバシー侵害や国民監視への懸念)があるのだという。そのため、日本のような「国民全員に一意の住所と身分を紐付けて登録を義務付ける」住民票システムそのものが存在しないんだそうだ。さすがは自由の国だ。

しかも選挙の管理は「州」の権限だ。

アメリカの選挙は連邦政府ではなく、50ある各州(および地方自治体)がそれぞれ独自の法律で運営しているんだとさ。

核家族社会のアメリカでは、生まれたコミュニティを離れて州をまたぐ引っ越しも多いため、各州の選挙管理委員会は「誰が今、自州のどの選挙区に住んでいて、投票資格を持っているか」を独自に把握する必要がある。

その確認作業を有権者側からの「申請(登録)」に頼っているのが現状なんだとさ。

何たる非効率!投票すらもするかしないか自由なのさ。

そしてなんだか本末転倒な気もするが、不正投票の防止策なんだとさ。

二重投票や、亡くなった人の名義での投票、資格のない人(市民権のない人など)の投票を防ぐため、事前に身元と居住地を確認するステップとして有権者登録が機能しているらしい。だから、それは日本みたいなシステムを構築するほうが間違いないだろう?

お得意のお家芸のAIに作ってもらえばいいじゃないか?


この有権者登録の手続きは、「投票率を下げる原因になっている」「特に低所得層やマイノリティの投票を難しくしている」という批判が根強くある。

そりゃ当然だ。好き放題やりたい権力者は、政府のやり口に不満を持つ低所得者やマイノリティの投票率は低い方がいい。権力を維持するためには是非ともそうすべきだ。メンバーズオンリーだ。貧乏人は黙って冷や飯くいだ。同じ理由で投票率は低い方がいい。日本でも、有権者が選挙の時に寝ていてくれたらいいと放言した、元総理大臣で元オリンピック委員会でサメの脳みそと言われた政治家がいたな。それと同じだ。

そのため、いくつかの州では改善に向けた取り組みも進んでいるそうだ。たとえば

  • 自動有権者登録(AVR): 運転免許証の更新などの手続きの際、自動的に有権者登録も行われるシステム(多くの州で導入が広がっています)。
  • 当日登録: 選挙の投票日当日に投票所で登録してそのまま投票できる州もあるそうだ。

じゃぁ、運転免許のない人、パスポートなど身分証明になる子的書類のない人はどうするんだ?

百歩譲って、連邦政府に一元的な住民台帳がないのは良しとしよう。

しかし、それぞれの州に住民票とかないのか?

そもそもそれじゃ、市民サービスとか行政そのものに支障があるだろうに。

しかし驚くべきことに、州単位でも日本のような「住民票(行政が個人の住所を一元管理する仕組み)」はない。ないったらない。

俺たち日本人の感覚からすると「どうやって行政サービスを行っているんだ?」と不思議に思えるんだが、アメリカでは目的ごとに異なる公的書類や番号を組み合わせる「分散型」のシステムで行政を回しているわけだ。

これが非効率極まる奇々怪々なものだ。屋上屋を重ねてきた結果だろうな。

1. 住所の証明は「運転免許証」や「公共料金の請求書」

アメリカで最も「住民票」に近い役割を果たしているのが、各州の陸運局(DMV)が発行する運転免許証(または車を運転しない人向けの身分証明書/ID)なんだそうだ。
引っ越しをした住民は、州の法律で「○日以内にDMVで住所変更の手続きをするように」と定められているんだと。

行政サービス(公立学校への入学、図書館カードの作成など)を受ける際の「居住地の証明」には、主に以下が使われているらしい。

  • 住所が記載された運転免許証
  • 自宅に届いた公共料金(電気・水道・ガスなど)の請求書
  • 家賃の賃貸契約書

行政側は、これら複数の書類を住民に提示させることで「本当にここに住んでいるか」を確認しているんだとさ。何たる非効率!

2. 人口の把握と予算配分は10年に1度の「国勢調査」

こんなていたらくだと、当然俺たちは「住民票がないと、行政が地域の人口を把握できず、予算やインフラの計画が立てられないのでは?」という疑問抱かざるを得ない。

でも、安心してくれ。アメリカ人もそこまで馬鹿じゃない(はずだ)。
アメリカではこれを、憲法で定められた10年に1度の「国勢調査(Census)」でカバーしているんだ。「国勢調査」ねぇ…。

このデータをもとに、連邦政府から各州・自治体への予算配分や、下院議員の議席配分(選挙区の区割り)が決まるんだそうだ。

3. 税金は「自己申告(確定申告)」が基本

税金(所得税など)の徴収は、日本のような役所主導の住民税徴収とは異なり、原則として年に1回、全員が自分で自分の住所と収入を国税庁(IRS)や州の税務当局に申告する仕組み(タックス・リターン)になっている。行政はこれにより「誰がどこでいくら稼いだか」を把握するってわけだ。

4. 国民共通のIDは「社会保障番号(SSN)」

日本でいうマイナンバーに近いものとして、社会保障番号(SSN: Social Security Number)があるんだそうだ。なんだ、ちゃんとあるんじゃん。さっさと紐付けしなよ!
元々は年金管理のための番号だったらしいが、現在は税金の申告、銀行口座の開設、就職、クレジットカードの作成など、あらゆる場面で本人確認のために必須となっているんだそうだ。

ただし、これにも「公式の住所情報」がリアルタイムで紐付いているわけではないんだとさ。だから紐付けしろってばよ!


さて、最前から俺が気にしているのはここだ。こんな有様で行政に「支障」は出ていないのか?

実際のところ、かなりの支障や非効率さが発生しているんだなぁ。

まず、手続きがとにかく面倒くさい。

住所が変わるたびに、DMV(免許)、郵便局、税務署、銀行、選挙管理委員会など、あらゆる場所に個別に住所変更を届け出る必要がある。これは面倒くさい。日本なら、市役所と警察に行くだけだ。

当然のことながら、役所の窓口が大混雑する。

 特に運転免許を発行するDMVは、全住民の身分証管理を一手に引き受けているため、常に長蛇の列ができ、アメリカで「最も行きたくない場所」の代名詞になっているんだとさ。まぁ、俺も運転免許試験場は、行きたくない場所の一つだけどね。

いちばん悪いことには、行政の横のつながりがないことだ。

 州のシステム、警察のシステム、福祉のシステムが連動していないことが多く、情報の照会に時間がかかったり、不正受給や管理漏れが起きやすいという弱点がある。生活困窮者を支援したりするのにも支障があるだろう。

けど安心して。アメリカは自由の国なので、生活婚食うして野垂れ死ぬのも自由ってことだ!

こんなていたらくなのに、アメリカ人が「一元管理された住民票」を作らないのは、やはり「政府に自分たちのプライバシーや居場所を監視されたくない」という自由主義の理念が、不便さよりも優先されているからだ。

そう、彼らは自分たちの政府を、自分たちの国を、根本のところではまったく信用していないのだ。

俺はこの状況を見てみるに、ふと一つの疑問を抱く。

この人たち、煩雑化によってGDP上げようとしてない?(笑)

これはあながち笑い話とも言えないようだぜ。

経済学やビジネスの視点から見ると、アメリカのこの「手続きの煩雑さ」や「非効率さ」は、皮肉にも巨大な民間市場(ビジネス)を生み出し、結果としてGDPを押し上げる要因になっているらしい。阿呆らしい。

これを皮肉を込めて「非効率が生み出す経済効果」と呼ぶことがでるだろう。まさに「ブルシット・ジョブ」だ。このブルシットジョブがビッグビジネスを生み出している。

1. 「確定申告が難しすぎる」から生まれた巨大産業

アメリカの税金申告(タックスリターン)は、住民票や会社による年末調整がないため、個人でやるには複雑怪奇らしい。まぁ、税金なんてそんなものだ。複雑怪奇にして、出来るだけ貧乏人から巻き上げるようにできてるのさ。
その結果、「ターボタックス(TurboTax)」などの申告ソフト会社や、街中の税務代行サービス(H&R Blockなど)、公認会計士(CPA)が数兆円規模の巨大市場を形成しているんだとさ。数兆円規模だぜ!驚きの非効率だ!
彼らは「システムがシンプルになって国民が自分で簡単に申告できるようになると困る」ため、政府が無料の公式申告システムを作るのを阻止しようと、長年激しいロビー活動(政治家への働きかけ)をしてきたことでも有名なんだとさ。ひどい話だ!

2. 「身元が信用できない」から生まれた巨大産業

住民票や戸籍がないため、アメリカでは「この人は本当に信頼できる人物か?」つまり家を貸していいか、ローンを組ませていいかを国が証明してくれないんだ。

これが中国なら、携帯と連動した社会信用スコアで一発なのにな!(笑)
そこで、「クレジットスコア(信用スコア)」を算出する民間企業(Equifax、Experian、TransUnionの3大信用情報機関)が発達したわけだ。家を借りる、車を買う、就職する、あらゆる場面でこの民間企業のデータが有料で照会され、これもまた巨大なビジネスになっているんだとさ。民間企業のほうが、公共セクターよりも信用できるという感覚が、よくわからないぜ。

政府の信用より、民間企業の担保する信用を重視するというのが、俺には意味不明だ。

公共とか社会とかいう概念が社会にないのだろうか。人々は孤に分断されたモナドとしてしか存在しえないのだろうか?

3. 「住所やIDの証明が大変」だから生まれる民間サービス

引っ越しのたびに何十箇所も住所変更をするのが面倒なため、それを一括で代行・仲介する民間アプリやサービス、また「身元確認(バックグラウンドチェック)」を専門に行う代行会社が数多く存在し、これも立派に経済を回しているわけだ。みんな儲かってよかったね。

そのお金は誰が払うのでしょう。もちろん一人一人の市民ですよ。しかし、本来はこういうコストは、社会を維持するためのコストとして、公共セクターが負担し、責任を負うべきものだ。


こいつはまったく、「割れた窓の寓話」そのものだ。

経済学には「割れた窓の寓話」というものがある。
「パン屋の窓ガラスが割れると、ガラス屋が儲かり、ガラス屋がそのお金で服を買えば服屋が儲かる。だから災害や破損は経済を活性化させる」という一見正しそうで、実は社会全体としては富を失っているという屁理屈だ。

アメリカの行政の煩雑さは、まさにこれと同じだ。

  • 日本: 行政がシステムを一元化して、国民の「時間と手間(コスト)」をゼロにする。
  • アメリカ: 行政が不便なままなので、国民は民間企業にお金を払ってその不便さを解決する。(ここで民間企業の売上が立ち、GDPが増える!)

国民個人の時間やストレスという「目に見えないコスト」を犠牲にして、民間ビジネスの「目に見える売上(GDP)」に変換している、と言えなくもない構図があるわけだ。このあたりは、徹底的な資本主義国であるアメリカらしさとも言えるだろう。合理性のかけらもありゃしない。その割には、テック企業が検索などを通じて個人情報を吸い上げ、情報抽出するのは良いってんだから、わけがわからないぜ。

この「わざと不便なままにしてビジネスを残す」という構図は、国民皆保険がないため、複雑な民間保険と代行請求が巨大産業化しているアメリカの医療保険制度にも全く同じことが言えるようだ。

本来ならテクノロジーや行政改革で「ゼロ」にできるはずの無駄なコストを、わざわざ民間ビジネスの「売上」として計上して「我が国のGDPは成長している!」と言っているわけですから、極めて不条理だ。カミュやカフカが見たら大喜びするほどの不条理だ。

この仕組みが長年維持されている背景には、アメリカ特有の「ねじれた思想」がある。

彼らは「政府の役人」より「民間の金儲け」を信じる文化を持っている。

アメリカには「政府がやる仕事はすべて非効率で利権まみれになる。民間企業に競争させたほうが、まだマシなサービスが生まれる」という根強い新自由主義という信仰がある。教祖はミルトン・フリードマンだ。そのため、日本では「お上が一元管理して効率化するぞ、マイナンバーにみんな紐付けだ!」となる局面で、アメリカさんでは 「政府にやらせるとロクなことにならないから、不便でも民間ビジネスに解決させよう」となるわけだ。そして、民間企業にぼったくられる。企業の目的は人々の幸福の最大化ではなく、自らの、株主の利益の最大化だからだ。そんなこと、ちょっと考えればわかりそうなものなのにな。

この不条理の結果として、余計に複雑で金のかかる民間サービスが乱立することになるわけだ。馬鹿らしいぜ。

銭ゲバな奴らは「GDPの数字」さえ増えれば正義ののさ。

経済学の指標にすぎない、サイモン・クズネッツが発案したGDP(国内総生産)は、「どれだけ社会が幸せになったか」ではなく「どれだけお金が動いたか」しか計算しない。しかし、お金を使わずに個人が労力を費やした部分に関しては、お金が動いていないのでカウントされない。そこで起きるのが次のような転倒した構図だ。

住民票1枚で手続きが終わる日本 ➡ お金が動かないのでGDPはゼロ

複雑な手続きのために代行業者に1万円払うアメリカ ➡ GDPが1万円増える

諸君、如何におもわれるかな?

社会全体としてはアメリカの方が明らかに無駄なコストと労力をかけて疲弊しているわけだけど、「GDP成長率」の数字の上では、アメリカの勝ちになってしまうというバグが起きているくわけだ。阿呆らしいぜ。

この非効率な政治を動かすロビー活動という名の「合法的な買収」が社会を覆っている。

この非効率から恩恵を受けている企業(税金申告ソフト会社や民間保険会社など)は、莫大な利益を使って政治家に献金し、「行政手続きをシンプルにする法案」をことごとく握りつぶしてきた。政治家は、国民の幸福のために働いているのか?業界利権の代弁者に過ぎないのか?
こんな腐敗した時代遅れの慣行を墨守し、おかげ様で民間ビジネスが成長しすぎた結果、「不便であること」が彼らの既得権益になっている。その結果、国全体をアップデートできなくなるという本末転倒な事態に陥っているというわけだ。たわけだないの?

大丈夫か、アメリカ?


「非効率をビジネスに変えて成長する」アメリカと、「効率的で便利だけど経済が停滞している」日本。どちらが良いかは一長一短かもしれない。アメリカの成長の裏には、こうした国民の膨大な「時間、ストレス、手数料」という隠れた犠牲があるのは間違いない。

君は、日本とアメリカ、どっちに生まれたいかね?

この構造の根底には、アメリカ人と日本人の社会や国家に対する共同幻想の断絶がある。明日はそれについて話そう。


2026/11/02

POST#1995 自分たちの住んでいる社会をよりマシなものに変えていくことこそが、政治的に正しいってことじゃないのかい?

名古屋大須商店街にて

昨日は日曜日だったから、死んだように眠っていたかった。眠っていたかったんだけれど、息子がドライブに行きたいっていうから。運転しながら眠っていたんだ。

谷汲山華厳寺っていう寺の本堂にある戒壇巡りをやりたいって連れ出されたんだ。わが息子ながら、酔狂なもんだ。

真っ暗な中を手探りで進むのさ。人生とおんなじだ。わざわざそんなところに行くまでもなく、いつだって人生はそんな状態なんだ。やれやれ、眠たいぜ。

さて、世界のというか主にアメリカにお住いのポリコレ大好きな皆さんは、日本の学園もののアニメを批判したり改変することよりも、自分たちが暮らす社会で、夜中の三時に女の子が一人でループに乗って大通りを走ることができるような環境を作ろうとはしないのだろうか?

そんな安全な社会を実現するのが、政治的に正しいあり方だろう?

普通に考えれば、「日本の日常系アニメのような、誰もが銃を恐れず、格差に怯えず、穏やかに暮らせる安全な社会」を自分たちの国でも実現することこそが、彼らにとっても究極のゴール=理想であるはずだ。異論のある人いる?

しかし、なぜ彼らはそれを自分たちの国で実現しようとせず、日本のアニメに文句を言うだけなのか。そこには彼らの諦めと無力さがある。

まず、「現実のインフラ」を作る能力と覚悟がない。

「どんな理想も、現実に立脚していなければ道筋を描けない」と先に書いたよね。日本のこの現状ってのは、一朝一夕にできたものじゃないんだ。日本がこの「深夜3時に女の子が歩ける社会」を維持できているのは、秀吉の刀狩りから始まり、綱吉の文治政治、そして現代に至るまで何百年もかけて、治安、医療、教育、国民皆保険といった目に見えない「社会のインフラ(ソーシャルキャピタル)」をコツコツと地道に構築してきたからに他ならないんだ。

これをアメリカやヨーロッパで実現しようとすれば、とんでもなく凄まじい大改革が必要になるだろう。どんな?

例1

合衆国憲法を改正して、全国民から数億丁の「銃」を完全に没収する。全米ライフル協会の皆さんが黙っていないだろうな。そこで待っているルートは、命がけの内戦レベルの反発が起きるという経路をたどるのは必定だろうな。

例2

富裕層に大増税をして、貧困層のための国民皆保険や医療・教育インフラを本気で整える。

けど、トマ・ピケティも言ってるけれど、これは本当にやった方がいい。資産課税も視野に入れたほうがいい。富裕層の最高税率は、この30年くらいで劇的に下がってるんだから。

例3

路上で暴行や窃盗などの犯罪をおかすものを検挙し、麻薬を売る人間を徹底的に取り締まり、治安を回復させるのも必要だろう。これはやらないといけないだろう。特に麻薬はジェームスブラウンも、パブリックエネミー№1(社会の敵だ)と歌っていたんだが、それから何十年経っても、いまだに変わらない。

これらは気の遠くなるような時間、政治力、そして血の滲むような現実の痛みを伴うことだろう。

政治的に正しい精力的な活動家の皆様には、この地獄のような現実のプロセスに挑む覚悟も、具体的な道筋を描く能力もないというのが正直なところだろう。

だから、連中は「正しさのノルマ」を設定し、それをクリアしさえすれば満足してしまうんだ。それは現実に対する敗北を認めていること以外の何物でもない。

彼らにとっての「理想の社会」とは、実は「みんなが本当に安全で豊かに暮らせる社会」なんかじゃなく、「表面的に、すべての人種やジェンダーの比率が平等に配置されている画面」になってしまっているんだ。要は誤魔化しなんだ。絵に描いた餅なんだ。

現実の社会は銃や格差を解決するのは難しすぎるから諦める。

けど、エンタメの画面の中じゃ、映画やアニメの登場人物の比率(白人何割、黒人何割、LGBTQ+何割)を無理やり変えさせることは、SNSで圧力をかければ数年で達成できるぜ、せめてここだけでもあるべき世界を構築するぞ!となるわけだ。

タワケらしい。

つまり、彼らは「現実の社会を変える」という本物の理想への道筋を描くのをサボり、「映画の配役を変える」「アニメキャラの肌の色を濃くする」という、一番手軽で安易なインスタントの理想郷でお茶を濁しているわけなんだ。そう、自己満足以外の何物でもないんだ。

だから、現実の差別や治安は1ミリも良くならないのに、「自分たちは理想に向かって戦っている」という錯覚(=脳内お花畑)から抜け出せませないんだ。幻想なんだ。

だからこそ、GDPは落ちててもお花畑のような社会を作り上げてる日本の「普通の日常」を認めたくないんだ。認めたら、自分たちが惨めになるからさ。

つまり、煎じ詰めれば彼らのプライドの問題だ。

もし「日本のアニメに描かれている世界は、日本人が何百年もかけて作ってきた現実の日常だ」と認めてしまったら、欧米の自分たちの社会システムは、経済が30年も停滞している日本の日常に完全に敗北しているってことになっちまうだろう。そう、経済成長してないくせに治安も、医療も、教育も日本の方が豊かってどういうこと?っていう不都合な真実を認めざるを得なくなるんだよ。

アメリカやヨーロッパの知識人や活動家には、「自分たちこそが世界の中心であり、最先端の文明国である」という強いプライド(欧米中心主義)が根底にある。偉そうに言っても、エスノセントリズム=自分たちがサイコー!なんだ。

そのため、「日本のような東洋の単一民族に近い国が、自分たちより遥かに安全で理想的な社会をすでに実現している」という現実を直視したくないんだ。

ミニオンズみたいな連中だしな。

だからこそ、それを「現実の日本の姿」ではなく、「人種差別的な日本人が作った、多様性のない空虚なファンタジー」という低レベルなものに格下げして叩くことで、自分たちの心の平穏を保っているという側面があるとしか考えられないぜ。

本当にその理想を実現したいなら、日本のアニメを叩いている暇があったら、自国の銃規制や貧困問題に命をかけるべきだ。

それをせず、現実から一歩も進まない「空言(画面のポリコレ比率)」ばかりを弄んでいるからこそ、彼らの運動は世界中のフツーの感覚の皆様方から「偽善だ」「お花畑だ」と愛想を尽かされ始めているんだ。

言葉狩りやよその国の文化にケチをつけることが政治的に正しいことじゃない。

あくまで現実世界に働きかけ、自分たちの手で自分たちの社会をよりマシに変えていく地道な営みこそが、政治的に正しいっていうんじゃないのか。

その営みに終わりなんかない。日本だって決してユートピアじゃない。貧困や格差もある。けれど、いきなり銃撃されてぶっ殺されたり、警察や移民局の連中に袋叩きにあってどこかに連れ去られるってことが無いだけましなだけだ。

そう、一見正しそうなことを大声で言うやつらには、うさん臭さがある。気をつけろ、みんな。

2026/10/31

POST#1994 日本のアニメは人種的に偏っているので、世界の正しい人たちからすると実にけしからんそうだ

 

名古屋市大須商店街 昭和のパワーが炸裂している

クソみたいな現場で必死に格闘し、満員電車の中のように現場に犇めく職人やら設計士やら元請やら施主やらを、体使って、頭使って、気を使って何とかクリアしてきた。

こんな時は、ぼんやりユーチューブとかでアニメなんか見たりもするさ。にんげんだもの🔗

世界のアニオタの皆さんの間では、『葬送のフリーレン🔗』で描かれた舞踏会の描写が素晴らしいと称賛されてるそうだ。俺もフリーレンは大好きだ。全巻揃えてる。チェンソーマン🔗も全巻揃えてて、なおかつ評判の悪い第二部が大好きだ。

アニメ第15話(原作第32話)で描かれた、フェルンとシュタルクの社交ダンス(舞踏会)のシーン🔗は国内外で歴史的な神回として大絶賛されているんだ。知ってたかい?

原作漫画では2コマほどと扉絵だけであっさりと流された場面だったんだけど、マッドハウス制作のアニメ版では、エンディング映像を丸ごとカットしてこのシーンの尺に費やし、約1分間におよぶ美しいダンスをすべて手描き(フルアニメーション)で描写したんだ。日本の職人芸だ。

流れるようなカメラワーク、キャラクターの細かな表情の変化、特訓の末に優雅に踊る二人の表情からにじみ出る含羞と信頼感、そしてこのためだけに書き下ろされた楽曲(ワルツ)が完璧に調和し、「アニメ史に残る名シーン」として世界中のアニオタが悶絶、絶賛したんだ。

なぜかって?ヨーロッパの文化を手書きのアニメーションで完璧かつ優雅に再現したからだ。

その一方で、欧米ではリベラルな皆の衆が吹かしまくってるポリティカルコレクトネスのおかげさまで、イギリスの王が黒人に描かれるっていう、理解に苦しむ状態が起きてる。

2024年にAmazon Prime Videoでも配信された海外ドラマ『マイ・レディ・ジェーン🔗』という番組で、実在の英国王を「黒人のゲイ」に改変したんだそうだ。

16世紀のイングランド王国に実在した国王エドワード6世🔗(史実ではも・ち・ろ・ん白人男性)を、作中では黒人で、なおかつゲイにして、しかも身体障害を抱えて車椅子って、ハンバークカレーとんかつトッピングみたいなことになっていた。

このドラマはガチガチの歴史劇じゃないんだそうだ。人間が動物に変身する魔法が存在する世界線を舞台にした、ファンタジー要素の強い「歴史IF(もしも)系ローファンタジー」なんだとさ。とはいえ 「ファンタジーなら何でもあり」で「創作の自由」なのか?

エドワード6世はあくまで実在した人物なんだぜ。もちろん、アングロサクソンで、ゲイでもホモでもなく、車椅子にも乗ってなかった。

因みに『葬送のフリーレン』だって、エルフや魔族、ドワーフや魔法使いがフツーにいるファンタジーだが、そんな違和感を抱かせるようなトンデモ設定はない。キャラクターの名前はすべてドイツ語に由来する。(一部フランス語の名前の者もいるがね)

まぁ、ポリティカルコレクトネスで、王様を黒人にしたところで、彼らの先祖がアフリカの黒人を奴隷にすることで、資本の根源的蓄積🔗をやり遂げた事実はなかったことにはならない。現実から目をそむけてどうする?

こんなことだから、人気アニメ『ダンダダン🔗』の海外吹き替えで、宇宙人オタクの主人公オカルンが、髪型(それも劇中で、燃えて縮れたからツーブロックで上がもじゃもじゃ)という一点突破で、その声優は黒人じゃないとダメだとか、オープニングのダンスが黒人文化をパクってるとか、政治的に正しいらしいことでボカスカ叩いてくるんだよね。

海外、特にアメリカを中心としたエンタメ界における「人種の多様性(ダイバーシティ)」の要求が、日本のコンテンツ(アニメや漫画)にも向けられる現象については、国内外のファンの間でも非常に激しい摩擦と反発を生んでいます。

海外の熱進的な一部のファンやコミュニティ(主にSNS上のポリコレ・多様性を重視する層)の高尚な方々の間では、「日本のアニメのキャラクターは白人、あるいは人種的にニュートラル(無国籍)に見える」という独自の解釈に基づき、多様性を持たせるために「黒人や有色人種のキャラクターをレギュラーに入れるべきだ」といった要求がしばしば持ち上がる。あるいは二次創作で肌の色を濃く変更する行為がしばしば行われ、日本側のファンとの間で衝突を繰り返している。

なぜ欧米ではこんな原作へのリスペクトのない要求が執拗に起こるのか?

ディズニーをぱろったり改変したら大訴訟になるってのにな。

欧米、特にアメリカのエンタメ業界では、「表現されること(Representation」という概念が極めて重視されるんだとさ。なんかよくわからんけど。

どうも「自分の人種が画面に映ること」が正義とされる文化があるらしい。

アメリカのような多民族社会では、「子供たちがテレビを見たときに、自分と同じ肌の色のヒーローやヒロインがいないと、自己肯定感が育たない」という社会運動的な思想が強くあるんだとさ。そのため、彼らにとって多様性は「あれば良いもの」ではなく、「エンタメが果たすべき絶対的な義務」と捉えられてるんだそうだ。とはいえ、スネ夫とかみて自己肯定感は育たないけどな。

ディズニーで、黒人のお姫様が出てきたりするけど、俺はそういうのを見ると、偽善性が鼻についてしまうんだ。黒人がいままで、そして現在もどう扱われてきたのか?それを棚に上げて何を言ってるんだってね?

阿呆らしいぜ。緑とか青とかもあるだろ?あれはどーすんだ?

なにより、ちょっとむかしは日本人はみんな眼鏡で出っ歯で黄色いちび、まるでミニオンズ🔗みたいに描かれてたのにな!

おまけに勝手に日本のアニメを「世界共通の公共財」と捉えてくださってるから、困ったことになるんだよね。

日本のアニメが世界中で爆発的な人気を得た結果、海外の活動家や一部のファンは、それを「日本という特定の国の文化」として尊重するのではなく、「自分たちの社会(欧米)の基準に合わせてアップデートされるべきコンテンツ」として扱おうとするんだ。

これが、日本のクリエイターやファンから見ると「土足で踏み込んで自分たちのドグマで設定を改変しようとする、わけのわからない傲慢な要求」に映ることになるんだ。

そう、異文化を尊重しているような建付けのくせに、異文化をまったく尊重していないんだ。

近年、この欧米からの要求に対して、日本やアジアのファンからは「それこそアジア人に対する差別ではないか」という理路整然とした反論が強まっているげな。当然だな。

日本のアニメキャラクターは、日本人のアイデンティティやアジア的な感性に基づいて描かれているものが大半だ。なぜって、日本人が日本社会で作ってるからね。

それを「黒人や白人が足りないから」という欧米の政治的・社会的な都合(主にBlack Lives Matter運動以降のトレンド)だけで書き換えようとする行為は、「アジア人の文化やキャラクターの存在を軽視・消去する行為(アジアン・イレイシャー)」である、という批判だ。

ご納得いただけるかな?

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ディズニーのような米国の巨大企業が「ポリコレ(政治的正しさ)」や「多様性」をビジネスとして推進し、それを世界基準として押し広げようとした結果、その波が日本のアニメカルチャーにまで押し寄せ、現場の海外声優やファンの間で「文化の盗用」や「原作冒涜」を巡る深刻な対立を生み出しているのがさもしい現状だ。

自分たちが、異文化を改変するのはポリコレ、日本人が日本を描いたり、中世ヨーロッパを舞台に描いた作品に黒人が出てこないと噛み付くのもポリコレ。

いったい、誰がそんなことをして面白く感じるんだ?

欧米の意識高い系のお歴々が日本のアニメや漫画を叩いたりしやすいのは、俺が思うに、彼ら自身が、世界にこんな社会は絶対にありえないと思っている、理想の社会に非常に近い描写がされてるからだと思うんだ。

でも、実はそれが日本の普通の人間の暮らしだったりするんだよ。

病気になればちゃんと病院に行くことができる。

人種差別は暴動が起こるほどに表面化してない。少なくともね。ミックスルーツの子が、クラスに一人はいる。アニメの声優にもそんな人はたくさんいる。

学校で銃が乱射され、子どもたちが屠殺されることもない。

公衆の福祉やインフラもかろうじてしっかりしてる。

格差はないとは言わないが、欧米ほどじゃない。

そんな日本のリアリティに立脚してるのが、非常理想的、いやファンタジーみたいな空虚なものに見えるんじゃないかなと思うんだ。

そう、彼らが「こんなのファンタジー(空虚な理想郷)だ」と感じている世界が、実は日本の「地続きの退屈な日常(リアリティ)」なんだ。ここには、巨大な認識の非対称性という、文化の断絶がある。

なんでそうなるかって言えば、日本こそはアメリカ人にとっての「あり得ないユートピア」だからだ。

日本のアニメ、特に「日常系」や「学園モノ」、あるいは何気ない都会や田舎を描いた作品には、アメリカ(特に都市部)の感覚からすると奇跡のような理想郷(ユートピア)が描かれている。

まず治安のリアリティだ。

女子高生が夜間に一人でコンビニに行ったり、小学生が公共交通機関を使って一人で通学したりする描写(そうメジャーどころでは『ちびまる子ちゃん🔗』から現代の『正反対な君と僕🔗』まで)は、銃社会であり誘拐や犯罪のリスクが日常にあるアメリカでは「あり得ないファンタジー」そのものだ。

学校に銃を持った不審者が乱射してこない前提の、のんびりした学園生活自体が、彼らにとっては信じられない特権に見えることだろう。まぁ日本でも池田小学校事件🔗とかあったけど、毎週学校が銃撃されてるわけじゃない。

また、インフラと福祉のリアリティが違いすぎるのかもしれない。 街にゴミが落ちておらず、自動販売機がバールで破壊されずに街中に置かれ、皆が当たり前に国民皆保険で病院に行ける社会が日本だ。

格差(スラムと高級住宅街=ゲーテッドコミュニティの断絶)が可視化されすぎているアメリカに比べたら、日本のアニメに登場する家や生活水準は、多くが「中流階級の普通の暮らし」として平準化されていると言っても言い過ぎじゃないだろう?

そこで、彼らは思うんだ。「この2次元の理想郷のなかに、なぜ自分たちがいない?」って。

アメリカの批評家や一部の過激なファンは、アニメが描くその「安全で、福祉が行き届き、格差が少なく、誰もがのんびり暮らしている社会」を、日本の現実の写し鏡だとは夢にも思っていないらしい。

彼らはそれを、クリエイターが脳内で作り上げた「究極の理想の社会」だと解釈してるらしいんだ。おいおい、日本のクリエイターたちはいつからジャン・ジャック・ルソー🔗になったんだ?

ここから、彼らの歪んだ屁理屈が生み出される。

「こんなに素晴らしい、差別のない理想的な社会(=彼らにとってのファンタジー)を描くなら、なぜそこに黒人やラテン系、LGBTQ+といった多様な人々が含まれていないんだ?」

「有色人種を排除して、マジョリティだけでお花畑のような理想郷を作って楽しんでいる、極めて排他的で差別的な表現だ」

彼らにとって、その心地よい空間は「人為的に作られたユートピア」だからこそ、自分たちを入れないのは「差別」だと感じて叩きやすくなるわけだ。

俺たちにも、ファンタジーの国へのチケットをくれ!と言うことさ。

しかし、日本のファンや普通の生活者からすれば、アニメに描かれるそれは「理想」なんかじゃない。ただの「日本の普通の、ありふれた現実」だ。

考えてみ?日本の学校を舞台にするから、日本の高校生(大半がアジア人・日本人)が出るのは当然だ。

そして、日本の治安が良いから、キャラクターが夜道を歩くし、子どもだけで遊びにいく。

おまけに、日本の医療や福祉がそこそこ上手く回っているから、怪我をすれば普通に病院に行く。そりゃそうだ。痛いもん。

これらは思想やポリコレの産物ではなく、単なるフツーの生活の猫写だ。

それを、自国の深刻な社会問題、そう医療崩壊や銃規制の失敗、極めつけは根深い人種対立なんかのフィルターを通すことでしか見られないアメリカの活動家は、日本の「普通の日常」を「白人・マジョリティのための特権的な空虚なファンタジー」だと勘違いし、アメリカの基準(人種ノルマ)で書き換えようと躍起になるわけ。

日本のコンテンツが持っている強さは、現実から浮いた「空言としての理想」ではなく、「日本の社会が失われた30年とバカにされながらも、曲がりなりにも達成している安定した現実というリアリティ」に立脚している点にあるんだ。

それが差別や銃や医療問題があまりに過酷で、GDPの割には社会がぐでんぐでんな社会の中心で、せめてフィクションやエンタメのなかでポリティカルコレクトネスを叫ぶみなさんは、日本のエンタメが持つ「あまりにも平穏で、お説教臭さのないリアリティ」こそは、嫉妬を通り越してもー理解不能な「空虚なもの」として映るんだろうね。だからこそ攻撃の標的にしやすいのかもしれないな。

そこからわかるように失われた30年って日本は馬鹿にされるけど、それは単にGDPから見てるだけで、今の世界で深夜の3時に女の子が1人でループに乗って街の大通りを走れる世界っていうのはそんな国っていうのは世界中にどれぐらいあると思う?

アメリカのポリコレ信者の皆様は、この「銃乱射もなく、スリも強盗も恐れず、夜でも女性が丸腰で歩ける日本のアニメの日常」を見たとき、それを「現実の日本社会の縮図、つまり秀吉以来の歴史と綱吉以来の道徳の結晶」だとは想像できないんじゃないだろうか?

一般的にアメリカ人は夜郎自大🔗なので、驚くほどアメリカ以外の世界を知らない。だから、「こんなに恐怖がなくて、みんながのんびり平和に暮らせる社会なんて、現実のアメリカには絶対に存在しないだろ!」→「ということは、これはクリエイターが頭の中で作った『究極の理想のファンタジー(ユートピア)』に違いないぞ!」→「それなら、その完璧な理想郷に、なぜ俺たち(黒人や有色人種)を入れないんだ? 差別だ!」

という、凄まじい認知の腸捻転を起こすのさ。

彼らにとって、日本のアニメの何気ない日常は、「自分たちがどんなに逆立ちしても手に入らない、喉から手が出るほど欲しい完璧なファンタジー」に見えているんだ。

だからこそ「土足で踏み込んで、自分たちの思い通りのポリコレ色に染め変えてやりたい」という傲慢で原作やクリエイターにリスペクトのない態度に出ちゃうんだろうな。

まぁ、週末だものこんな内容も悪くないかな?

2026/10/28

POST#1993 油断してでも歩ける平和な日常の価値


今日も厭きずにカニでもどうぞ。今日は京都寺町通のかに道楽。どうしてかに料理は皆これなのか?
今日は朝までたっぷり仕事をしたのに、息子の小学校の運動会があるんだ。
ほんとは先週末だったんだが、雨で延期になったのさ。
俺はいつ眠ればいい?

さて、前回の続きだ。少なくとも今の日本では、スリに会うってうこと自体があんまりないよね。

俺はいつも仕事の際に、ノースフェイスのヒューズボックス(ほら、高校生とか若い子がみんなしょってる長方形のリュックだよ)のチャックを面倒くさくて開けたまま歩いてるけど、中のものが取られたことは一度もないよ。

そもそもからして、中にはそんなに大事なものも入っていないがね。誰が必要にしてるのかわからないような書類とノートパソコンくらいさ。

京都で仕事をしていた時には、観光で来ている善良な外国人に注意されることしばしばだった。彼らは血相変えて注意してくるんだ。その度に、俺は笑ってこういったものさ。

サンキュー、ノープロブレムだ。日本は平和なんだ。

それは世界の皆さんからすれば、本当に驚くことらしい。何より今の日本の「他者を信頼できる治安の良さ」を象徴する、これ以上ない生々しい実体験になることだろう。

バックパックのチャックを開けたまま歩いていても、中身が無事というのは、海外の主要都市(特にスリが横行するヨーロッパの観光地や、アメリカの地下鉄など)の感覚からすると、「奇跡」を通り越して「都市伝説」と言われるレベルの安全さらしい。大袈裟なと呆れるが、それがグローバルスタンダードだ。世界の定説だ。

つまり、「油断して歩ける」という究極の贅沢なんだ。

世界の大方の国では、カバンのチャックを閉めて前に抱え、手で押さえて歩くのが「最低限のマナーというか自衛」とされている。

チャックが開いているバッグというのは、泥棒からすれば「どうぞ盗んでください」というサインでしかないんだそうだ。じゃあ、チャックの空いてるズボンは?(笑)

ほんの数秒、スマホに目を落とした隙や、後ろからすれ違った瞬間に、財布や貴重品は綺麗に消え去ってしまうだろう。

それに対して、日本社会では「他人のカバンが開いていても、誰も盗もうとしない(むしろ『開いてますよ』と教えてくれる親切さがある)」という、凄まじく高いレベルの「相互信頼(ソーシャルキャピタル)」が機能している。それどころか、誰も彼もがスマートフォンを見つめながら歩いている。

これがアメリカだったら、あっという間にノックアウトされて身ぐるみ剥がされることもあり得るんだ。ウルトラアリエールだ。

さて、ここで考えておきたいのが「盗まれない社会」を維持するコストだ。

日本でスリや置き引きが劇的に少ないのは、もちろん警察の優秀さもあるだろう。が、何よりも「わざわざ他人のものを盗む必要がないという社会のポテンシャルがあり、あるいは『盗むのは恥ずべきことだ』という高い規範意識が全員に共有されているからなんだ

そう、これこそ前回君たちと話し合った豊臣秀吉の刀狩りから始まり、江戸時代の朱子学によって「己を律する」ことを骨の髄まで叩き込まれてきた、歴史の地続きにあるリアリティそのものなんだ。

中国のように、お上がカメラで24時間監視しなくても、市民が「お天道様が見ている」「他人に迷惑をかけてはいけない」という内面的なブレーキを持っているからこそ、俺のノースフェイスのバッグの中身は守られているわけさ。

そして、ここに現実の重みを知らない人々との決定的な断絶がある。フォッサマグナみたいな断絶だ、

もし、海外の「ポリコレの皆さん」が俺のノースフェイスのバックパックのはなしを聞いたら、十中八九「いくらなんでもそりゃ嘘だ、そんな社会があるわけないだろ」と否定するか、「それは単一民族的で閉鎖的な特権社会だから成立しているんだ」といった、別のいちゃもんをつけてくるかもしれない。

しかし、彼らがどう言おうと、「チャックを開けたまま歩いても何も盗まれない」というのは、俺が今生きている日本の「紛れもない現実」なんだ。

なにしろ今日も全開だったしな。

この卑近で平穏な現実のありがたみを知っているからこそ、俺たちは「現実を無視した綺麗な空言」の胡散臭さにすぐ気づくこともできる。

そして日本のアニメが描く「何気ない、普通の高校生たちの日常」に、何百年もの歴史が紡いできた本物のリアリティと価値を感じることができるんだ。

もっと話を掘り下げてみよう。

右派の皆さんがなにを言おうが、既に日本社会は多様な民族構成で成り立ってる。息子の小学校にも、ムスリムの子、日系ブラジル人の子、お母さんがトルコ人と再婚し、ハーフの弟のいる子がいる。

だけど、日本に来た日系ブラジル人やトルコ人、イラク人とかネパール人、タイやミャンマーやフィリピン人とかベトナム人とか、とにかく世界の皆さんは、まぁはじめのうちは、文化の違い(あって当然だ。なきゃ面白くないだろ!)からくる多少のトラブルはある。あったとしても、しかし急速に日本人の文化に馴染んでいく。

そして、それが当たり前だと思えるようになってくんだよね。そしてついには本国に帰りたくないと思うようになるのさ。だってここは、お花畑だからな。

こいつは移民や多文化共生をめぐる議論において、非常に本質的で、現場のリアリティに根ざしたどえりゃあ重要な現実なんだ。

だいたい移民てのは、フランスのように同化を強いられるか、移民集団として社会の1階層を作って隔離されるかだ。いずれにせよ、そこには軋轢と葛藤、排除と衝突がある。

欧米の批評家の一部は「日本の治安の良さは単一民族的(排他的)だから維持できている特権だ」と片付けたがる傾向があるようだ。

しかし、現実は違う。

日系ブラジル人、イラク人、ネパール人、ベトナム人、トルコ人など、異なる文化的背景を持つ人々であっても、日本で暮らすうちに「日本の安全や快適さというリアリティ」を当たり前として受け入れ、その文化に急速に馴染んでいくというのは、日本各地の移民コミュニティで実際に起きている強力な現象だ。

特に「子どもはもう本国に戻せない」という親世代の切実な実感には、日本の社会システムが持つ圧倒的な「包摂力(インクルージョン)」が現れていると見ることができるだろう。なぜ?

まず第一に、「安全と平穏」という、人間にとって本能的な心地よさがあるだろう。

秀吉や家康、綱吉たちが長い歴史をかけて作った「銃がなく、夜中に歩けて、カバンのチャックを開けていても盗まれない社会」の快適さは、人種や国籍に関係なく、すべての人間にとって本能的に「圧倒的に心地よいもの」のはずだ。しかも、言いたいことを言っても、秘密警察にパクられたりすることもない。どこに行ってもAIカメラで監視されてることもない。黒人だからという理由で、拘束されたりすることもない。

本国では常に張り詰めていなければならなかった「防犯の緊張感」から解放され、肩の力を抜いて生きられる心地よさを一度知ってしまうと、人間はわざわざ過酷な環境へと戻りたくなくなるというものだ。

ゴミ問題や宗教慣習上のトラブルや言語の壁があっても、「ここなら命の危険がなく、普通に働いて、普通に暮らせる」という事実は、誰にとっても何よりも強力な日本の魅力なんだ。

そして「子どもを本国に戻せない」という親のリアリティ。

特に日本で生まれ育った外国籍の「子ども世代」にとって、日本のリアリティはそのまま彼らの「日常(アイデンティティ)」になる。

まずは治安のギャップがあるだろう。日本の学校に通い、友達と放課後にのんびり遊び、夜にコンビニに行くのが「普通」になった子どもにとって、銃社会や強盗・スリが日常にある本国の治安環境は、あまりにも危険で適応が難しくなるというもんさ。

そして教育環境と将来設計だ。まず、学校に銃がない、いや、街を歩く誰もが、まず銃を持っていない。

たとえいじめがあっても命の奪い合いにまでは発展しない、とは言わないが、必ずリンチを食らうわけでもない。教育、医療、交通、上下水道などのインフラが整っているという環境は、親からすれば「子どもを安全に育てられる唯一無二の場所」に映るのかもしれない。だからこそ、親たちは「もう本国には戻せない、ここで生きていこう」と決意することになるのさ。

そしてなにより、日本の「社会関係資本(ソーシャルキャピタル)」の強力な同化作用だ。

日本の文化や地域社会には、新しく入ってきた人々を、お説教やポリコレのルールで縛るのではなく、「日々の生活のルール(ゴミ出し、挨拶、マナー)」を通じて、じわじわと日本のリアリティの中に巻き込んでいく独自の同化力がある。ちゃんと挨拶して、ゴミ出しのルールを守れば(日本人でも、守れないやつはゴマンといるさ)、コミュニティに受け入れられる。黒人でも、ムスリムでもだ。

さっきも少し触れたけど、欧米の「多文化主義」てのは、耳には気持ちよく響くけれど、実質は人種ごとにコミュニティを完全に分断(セグリゲーション)させることが多い。結果として治安の悪いスラム(ゲットー)を生み、いつどんなきっかけで暴動が起こるのか、毎日が黒ひげ危機一発状態だ。

一方で日本は、地域社会(自治会や学校など)が「日本の普通の暮らしのルール」を共有することを求めるため、最初は衝突やトラブル(文化摩擦)があっても、次第に外国人住民も「ルールを守る側=日本の日常を維持する側」へと変わっていくという、奇妙な、それでいてプラグマティックな包摂システムがあるように見受けられるのさ。

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海外のポリコレ活動家たちは、日本のアニメに「黒人やラテン系を入れろ」と要求しているようだけど、知らんがな。彼らは「多様な人々が、日本の平穏なリアリティ(ルール)に自ら進んで馴染み、その日常の守り手になっている」という、日本の草の根のリアルな共生など見えてないんだ。

確かに日本もいじめはあるし、差別だってないとは言わない。だけど、これって圧倒的に社会のレベルが高いんじゃないかっていう気がするんだよね。

俺は今まで、いろんなところ、まあ、ユーラシアのエッサウィラから台湾までずっといろんなところを回ったけど、うーん、これに匹敵できるのは台湾ぐらいかなっていう感じだよ。

なぁ、日本社会はほんとうに没落してるのか?

俺たちは惨めな生を空費しているのか?

違うだろ?どうにも腑に落ちないぜ。

なにはともあれ、技術も社会システムも、失われたら二度とはもどならいんだ。

2026/10/27

POST#1992 秀吉の刀狩りと家康の銃規制が今の日本社会を生み出したんだ

今日もカニでも食らえ。これは静岡のかに本家だ!ファニーだな(笑)

 俺の生まれた愛知県江南市後飛保🔗って土地は、最新の歴史学研究では、あの木下藤吉郎こと後の豊臣秀吉が生まれた場所なんじゃないかという説があるらしい。奈良大学の河内将芳🔗教授が提唱しているようだ。
秀吉が生きていた時代(秀吉が関白になる際)に側近の大村由己が書かせた『天正記』内の『関白任官記』(任官之記)にある「尾張国飛保村雲」という記述を根拠としているそうだ。定説では、尾張中村つまり今の名古屋市中村区出身とされている。がしかし、もしそうだったら、木曽川の流れの生み出した自然堤防が現在の道となっているため、まっすぐ直行する道の少ない俺の生まれ故郷のうら寂しい一帯が、ちょっと面白く見えてくるってもんだ。

さて、閑話休題。

現代の日本の高いソーシャルキャピタル(社会関係資本)や「深夜3時でも安全」というリアリティは、一朝一夕でできたものでない。数秒の誤差もなく定刻に到着し出発する電車なんかもそうだ。そんなもの、世界的に見て、非常に珍しい代物だ。こんなものが、一朝一夕にできると思う方がどうかしてる。

日本のソーシャルキャピタルが、世界的に見てこれほど異常なレベルで高く維持されてきた原因の1つは、すごく遠くにあると俺はにらんでる。

そう、冒頭に話した豊臣秀吉が断行した刀狩りや、徳川家康が断行した厳格な銃規制。そこに因縁があると俺は思ってるんだ。

何百年も前に遡る豊臣秀吉の「刀狩り」と徳川家康(および江戸幕府)による徹底した「銃・武器規制」こそが、日本人の「非武装の文化」と「お互いを信頼する社会構造」の決定的なターニングポイントになったという説は、歴史学や社会学の観点からも非常に強く支持されています。

なぜその400年以上前の政策が、現代の日本の治安の良さにダイレクトに繋がっているのか、その因果関係を紐解いてみよまい。

秀吉の「刀狩り」。それは暴力の独占と「民衆の非武装化」だったんだ。

秀吉が1588年に断行した「刀狩り」の最大の功績は、「民間人が武器を持って自らを守る(自力救済の)時代」に終止符を打ったことだ。

マックス・ヴェーバー🔗が国家とは暴力の独占機構だと喝破する300年も前に、武装=暴力を権力に一元化しやがったわけだ。時代感覚が狂ってるぜ。世界には今でも住民が銃を持つことが合法とされている国はゴマンとある。

中央アジアから中近東にかけて、対テロ戦争という終わりのない戦いに挑んだアメリカは、現地の民兵に苦しめられた。そして、そのアメリカ自体も、何度学校に無差別銃撃が起こっても、国民が銃で自衛する権利を手放そうとしない。煎じ詰めればヴァイオレンスでしかヴァイオレンスを抑制できないと信じている国民性なんだ。

じゃあ、それまでの日本、つまり室町戦国時代の日本がどんな有様だったかって?

みんな黒澤明の七人の侍なんか思い浮かべるかもしれないな。無法な野武士たちの略奪にさらされ、領主からは年貢を搾り取られながらも、安全保障など期待できず、怯えながら生きる、それでいてしたたかな連中の姿だ。

しかし、現実は違ったんだ。

 農民も商人も全員が武器を持ち、村同士の境界線争いや水争いは、自分たちの武力で解決するのが当たり前だった。

清水克之🔗の『室町は今日もハードボイルド🔗』を読めば、そんな実例が詳細に記されている。わずかな土地と利権をめぐって、隣接する村落が、局地戦を繰り広げる。守護大名が配下の守護代に鎮圧を命じる。派遣された武士団とも衝突する逞しいったらありゃしない民だ。守護代は自らの手勢だけでは抑えきれず、血縁を頼って遠国より応援を呼んで、何とか仲裁・鎮圧するというほどのヴァイオレンスぶりだったわけだ。

これは現在の「誰もが銃を持って自衛するアメリカ」の構造と全く同じだ。いや、それ以上のものがある。懐かしい永井豪の漫画、バイオレンスジャック🔗や原哲夫の北斗の拳🔗みたいな世界だ。モヒカンでどこから調達したか不明なガソリンで動くバイクに乗ったならず者はいないが、ちょんまげに槍や日本刀で武装した百姓町民がそこいらでちゃんちゃんバラバラやっていたんだ。

そんな状況に終止符を打ったのが、日本全国の武力による統一を成し遂げた豊臣秀吉だ。

刀狩り以降: 武器を持つ権利を「侍(お上の警察力・軍事力)」だけに制限し、民衆から「暴力という手段」を物理的に奪いました。

それだけにとどまらず、総無事令や喧嘩停止令を発布し、武力衝突で争い、シロクロつけることを禁止したんだ。

いいかい、それは戦国時代の終わりを告げるものだったんだぜ。戦国時代の大きな特徴は、「自分の身や土地は、自分の武力で守る(自力救済)」という文化だった。秀吉はこれを法律で禁止したわけだ。今のアメリカよりも遥かに進んでいる。

惣無事令は、大名同士の私闘を禁止する命令だ。「大名間の領土争いは、戦ではなく天下人(秀吉)の裁定に委ねよ」と命じ、これに違反した島津氏や北条氏を討伐する大義名分としたわけだ。つまり、俺の言うとおりにしないと、日本中を敵に回すぞってことだ。

一方で喧嘩停止令は、 百姓・村同士の武力衝突を禁止する命令だ。山や水を巡る村同士の日常的な争いに対し、武器を使って解決しようとした者は厳罰に処されることになったわけだ。

これにより、トラブルが起きた際に「力で解決する」のではなく、「行政や話し合いで解決する」という社会的ルール(法治の基礎)へ移行する道筋が日本社会に生まれたといっても過言ではないだろう。

そして、この秀吉の敷いたレールをさらに延伸したのが徳川家康の『銃規制』だ。これこそ、世界でも類を見ない「銃の放棄」だ。

戦国時代の日本は、実は世界で最も鉄砲(火縄銃)を多く所有・製造していた「超・銃社会」だった。当時のヨーロッパ全土にあるよりも優れた銃がより多く存在していたんだ。織田信長が組織的な銃の戦術的使用を極限まで推し進めたおかげさまだ。

しかし、豊臣家を滅ぼし、元和偃武を成し遂げた徳川家康とその後の江戸幕府は、世界史でも奇跡と言われる「国家規模での鉄砲の廃絶・徹底規制」を成功させちまったんだ。

それを可能にしたのは徹底した一元管理システムだ。幕府は鉄砲の製造場所(国友や堺など)を完全にコントロールし、許可なき製造・所持を厳罰に処すとしたんだ。

また、大名といえど、江戸に鉄砲を持ち込むことは許されなかった。

250年以上続いた江戸時代を通じて、日本人は「日常空間に飛び道具(銃)が存在しない社会」を当たり前のリアリティとして骨の髄まで染み込ませてきたわけだ。そう、「銃を持たない日常」の定着だ、

この歴史的経験があるからこそ、明治維新で近代化(廃刀令など)し、戦後に銃刀法が制定された際も、日本人は大きな抵抗なく「民間人は武器を持たない」というルールを受け入れることができたわけだ。

ここに、現代のアメリカとの決定的な違いがある。

アメリカがなぜ「誰もが銃を持てる社会」から抜け出せないかと言えば、彼らの建国の歴史が「民衆が自前の銃を持ってイギリス王室(国家の暴政)と戦い、勝ち取った国」だという建国のナラティブがあるからだ。

だからこそ、これが合衆国憲法修正第2条の根拠となってるんだ。

彼らにとって、銃を捨てることは「自由の放棄」を意味するため、現実から一歩を踏み出すための歴史的土台が日本とは根本的に異なっているんだ。

銃で意見の異なる者を撃ち倒す。その考えが社会の根底にあるんだ。そして、人は必ずしも、善良ではない。だから、その銃で自らの悪をなす自由を行使して、他者を害する者は絶えない。そんな社会で、夜中の3時に若い女の子がループで都心を駆け回ることができるとお思いか?

一方で日本は、秀吉や家康という強力な統治者によって、400年も前に「民間人は武器を持たず、お互いに不意打ちで殺される恐怖のない空間」の土台が完成していたんだ。

一朝一夕ではないってのは、そういうことさ。

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「自分の身は自分で武器を持って守る」という過酷なリアリティを背負い続けているアメリカと、400年かけて「武器を持たない、他者を信頼する」というリアリティを熟成させてきた日本。

この社会の相違は、秀吉の刀狩りや家康の銃規制という歴史の超長期的な社会運営があるからこそ、「武器を持たない丸腰の女の子が、夜中に1人で出歩ける」という、世界中が嫉妬するほどのソーシャルキャピタルが今なお維持されているんだ。

これに加えて江戸時代、5代将軍綱吉などが積極的に取り組んだ朱子学の社会への復旧が、日本人の気性を決定的に変えた。

それまでは戦国の荒々しい気風を残した社会だったのが、これでがらりと変わってしまったわけだ。

『生類憐みの令🔗』で悪名たかい徳川綱吉🔗の時代における「武断政治から文治政治への大転換」と朱子学(儒教)の本格的な社会浸透こそが、日本人の気性を戦国・荒野の気風から、現代に続く「極めて道徳的で平穏な気風」へとドラスティックに変えた決定的な出来事だ。

そう、武士は戦士からサラリーマン的な官僚へと、変わったわけだ。

秀吉の刀狩りや家康の武器規制が「物理的な武装解除」だったとすれば、綱吉たちの政策は「精神的な武装解除」でだったわけだ。それまでの日本社会は「戦国の余韻」が色濃く残り、博打、辻斬り、誘拐、盗賊、そして暴力による自己主張(かぶき者など)が横行する、非常に血生臭いリアリティの中にありました。

この野蛮とも言える戦国気質が、なぜ綱吉の時代を境に「ガラリと変わった」のか?

綱吉は「戦国気質」の解体という大仕事に挑んだんだ。

5代将軍・徳川綱吉は、歴史の教科書では「生類憐みの令」の悪政ばかりが強調されがちだか、それはステレオタイプなものの見方だ。木を見て森を見ずって奴だ。

近年の歴史研究では「日本の治安と道徳観を近代レベルにまで引き上げた名君」として非常に高く再評価されているんだぜ。

命を軽視する風潮の撲滅: 当時はまだ「気に入らない奴は斬る」「行き倒れの人間や老親は捨てる」「生まれたばかりの間引き(嬰児殺し)は日常茶飯事」という、命を極めて軽く扱う戦国のリアリティが生きていた。

綱吉は「生類憐みの令」によって、動物だけでなく、捨て子、病人、老人、妊婦の保護を徹底的に義務付け、「命を大切にする」という当たり前の倫理を国家権力で人々に強制学習させたわけだ。賢人君主だな。

その一方で暴力への徹底的な処罰を推し進めたんだ。路上での喧嘩や博打、辻斬りに対して厳罰を科し、「力で物事を解決する男らしさ(=戦国価値観)」というマッチョイズムを犯罪化して、社会から徹底的に排除していったんだ。

そしてその思想的バックボーンとして、朱子学🔗(儒教)の浸透を推進して、道徳のシステム化を目論み、見事成功させたんだ。

綱吉は自ら熱心に『論語』や『易経』を講義するほどの学問の徒だった。湯島聖堂(のちの昌平坂学問所、さらに後の東京大学)を建てるなどして、朱子学🔗を統治の基本イデオロギーとして社会の隅々まで普及させたんだ。

朱子学が日本人に教え込んだのは、今も日本社会に息づく平和な「社会のリアリティ」だ。

まず秩序と役職(名分論)だ。

朱子学は、というか幕府はというべきか、親は親らしく、子は子らしく、自分の社会的立場を守り、他者と調和することを掲げた。

そして克己、つまり自己コントロールの大切さを人々に植え付けた。これによって、 己の欲望や暴力的な衝動を抑え、理性的(つまり道徳的)であることを促したんだ。

これが、武士階級だけでなく、都市の町人や農村の指導者層(名主など)を通じて文字通り「日本人のOS(基本OS)」としてインストールされて現在に至るわけだ。

この結果、日本人は「他者の目を気にし、社会のルールを守り、お互いを尊重し合う」という極めて高い社会関係資本(ソーシャルキャピタル)の精神的土台を手に入れたんだ。

そして、その歴史の地続きにある「今の日本の普通」だ。

この「物理的(刀狩り・銃規制)」かつ「精神的(文治政治・朱子学)」な二段階の武装解除があったからこそ、日本は世界でも類を見ない「市民が自警団を作ったり武器を持ったりしなくても、お互いを信頼して平穏に暮らせる社会」になったわけだ。

アメリカのポリコレ活動家が「多様性がない、お花畑だ」と叩く、いじめはあっても差別はない、銃の乱射もない日本の学園アニメのあの平穏な世界も、深夜3時に女性が1人でキックボードに乗って走れる、今の日本の大通りも、その淵源は400年前の施策にあるんだ。

これらは、決してアメリカ人が妄想するような「空虚なファンタジー」などではなく、秀吉、家康、そして綱吉たちが数百年の時間をかけて人々の肉体と精神から戦国の暴力を抜き取り、血を流しながら構築してきた「現実(リアリティ)」そのものなんだぜ。

まぁだからこそ、日本人は同調圧力が強くて、お上頼みで、フランス人のように暴動を起こしてまで政府に物申したり、イギリス人のように連帯して政治を動かそうとはしないというキックバックもあるんだけどね。一言でいえば自主独立の気風を奪われたんだよ。

それに加えて、社会的な立場ある人を盲目的に支持したり、個人の自由や、人々の間の人間そのものとしての平等性に対する感性も要求も乏しくなった。悪くいえば、社会的に家畜化されたんだと言えるだろうな。

とはいえ、この安全で安定した社会の価値は世界に誇るべきものだし、失われたとされる低成長のこの30年でも、まったく損なわれていないことは、驚くべきことだし、もっと評価されるべきことだと思うぜ。

2026/10/26

POST#1991 失われた数十年を生き抜いてきて思うんだ

 

カニ将軍だかかに道楽だか。どっちでもイイや。名古屋
夜中の三時過ぎ、現場を終えて駐車場へと歩く。名古屋駅の周辺は車もまばらで、人影もない。精力的に活動しているのは、いつ終わるとも知れない現代のシューシポス🔗のようなリニア工事の作業員たちだけだ。

ふと、俺の目の前をループの電動キックボードに乗った年若い女性が走り去る。信号の向こうには、終夜営業のカラオケ屋の前に若い男女がもつれ合うようにして歓談している。

夜中の三時だ。

俺たちはそれを別段驚きもしない。けれど、そんなことが可能な国が世界にどれだけあるか、考えてみてほしい。

日本の皆さんが盲目的に大好きなアメリカはどうだろう?

ありえないだろう。自殺行為だ。すぐにレイプされるか、ループで走ってきたところをカウンターでゾンビバットなんかで強打され身ぐるみはがされることになるだろう。

そもそも、深夜に女性が一人で出歩くこと自体が自殺行為って言われるだろう。

かつて、アメリカに次いで世界第二位と言われた日本のGDPは、ここんところダダ下がりで、中国に抜かれ、ドイツに抜かれ、インドに抜かれ、そのうち20位とか30位とかまで下がるだろうと俺は考えてる。

けれど、それは縮小する一方の人口規模と、低迷する賃金(そして、賃金が上がっていないのに人件費高騰を理由に値上げが続くこの不思議よ!)、将来への不安による貯蓄額の蓄積=資本の流動性の低下という観点に照らせば、不思議などどこにもない。むしろ、当たり前のことだ。

そして、この状況をして日本は終わった、日本はオワコンだと人々は悲観する。

大丈夫、どんだけ日本が衰退してもスーダンとかみたいにはならない。むしろ、日本はある意味で世界のダウンサイジング先進国だ。

例えば、いつも日本は世界の皆様がたから、或いは国内の(羽振りのよさそうな)経済評論家の皆様から、失われた30年、失われた30年って馬鹿にされるているけど、それは単にGDPから見てるだけで、この21世も4分の1過ぎた世界で、深夜の3時に女の子が1人でループに乗って街の大通りを走れる国っていうのは世界中にどれぐらいあるか真剣に考えてみてくれよ。

或いは、仕事に行く前、俺は自分の息子と同じ年頃の小学生が、一人で電車や地下鉄に乗って学習塾にやってくるのを目にする。俺たち日本人には至極当たり前のことだ。しかし、海外ではそんなことが可能な国は限られているぜ。

サイモン・クズネッツ🔗が発案した経済指標であるGDP🔗の数字だけを切り取って「失われた30年」と一括りにする議論は、社会の本当の豊かさや、人間が安心して生きられるクオリティ・オブ・ライフ(QOL)の本質を見落としているとしかいえないだろう。

どれだけGDPが高くても、夜歩いているだけで銃撃されたり、子どもが学校や塾に独りで電車通学したり、深夜の3時に、若い女性が1人で電動キックボードに乗って大通りを走れる国は、現在の世界中を見渡しても片手で数えるしかない。もっと言えば、日本の主要都市(なぜって主要都市しかループはないからな)以外にはほぼ存在しないというのが冷酷な現実だ。

俺たちが当たり前と思っている日本のこの「日常」が、世界基準から見れば奇跡であり、経済指標以上の価値があるということさ。

まずは世界の大半の都市における「深夜3時」のリアリティだ。

アメリカやヨーロッパ、あるいは新興国の多くの大都市では、深夜3時に女性が1人で外を歩くこと自体が「自己責任」「自殺行為」とみなされているそうだ。

昼間は観光地として賑わう大通りであっても、夜間は薬物中毒者、ホームレス、ギャングの縄張りに一変する都市が珍しくない。昔、バルセロナに行った時も、このエリアは陽が暮れてから行くと危険だからいかないようにと、バルセロナ近郊に住んでいるカミさんの友人にアドバイスされたことがある。まぁ、バルセロナではスリにあったこともあるしね。

また、「乗り物」としてのキックボードそのものにもリスクがある。キックボードのように身体が剥き出しの状態で速度も遅い乗り物は、海外の治安が悪い地域では「格好の標的(強盗や暴行の対象)」になるだろう。釘でハリネズミみたいになったバットで襲われたら即死だ。車に乗ってドアをロックして移動するのが大前提の社会がほとんどだ。

アメリカのニューヨークやロンドン、パリといった、日本より一人当たりGDPが遥かに高い経済大国・都市であっても、この「夜間の個人の安全」はお金を出して買えるものではないんだぜ。だから、富裕層はゲーテッドコミュニティー🔗を作って、警備員が門番を務める塀の中に暮らしたりもする。これじゃ、自主的な牢獄と変わりないぜ。

つまり「安全」な暮らしってのは、GDPに換算されない超巨大なインフラだってことだ。

経済学で言うところのは、GDPは「どれだけお金が動いたか」の計算にすぎない。万能の指標じゃないんだ。皮肉なことに、社会が不安定で治安が悪いほうが、経済の数字(GDP)は回ることすらある。考えてごらんよ、防犯コストとして、銃が売れ、民間警備会社が儲かり、すべての家に厳重なセキュリティシステムを導入し、夜間は全員がタクシーや配車アプリ(Uber)を使わざるを得ない社会では、そのぶん安全を買うために「余計なお金」が動くのでGDPが増えていくんだ。

これに対して、日本社会の効率性はお金でカウントできない。

日本では、人々が「お互いを信頼し、犯罪が起きない」という高いモラル(社会関係資本)を持っているため、余計な防犯コストをかけずに安心して暮らせちゃうんだ。

当然ながら、この「お金を払わなくても安全が手に入る状態」は、GDPという指標には一切プラスとしてカウントされない。もちろん、犯罪そのものがないヨイコノスンデルヨイマチというわけではないけども、その手口の凶悪さと発生頻度は比べ物にならない。

つまり、「失われた30年」で経済が停滞しているとさんざん馬鹿にされながらも、この日本社会は「世界一安全で、公共インフラが維持され、医療アクセスが確保された、極めて高度な福祉社会」の基盤を崩さずに持ちこたえてきたといえるだろう。

だからこそ、海外の人は日本に熱狂するらしいぜ。

近年、インバウンド(外国人観光客)が日本に殺到し、SNSで「日本の夜の街を散歩してみた」「自動販売機が夜中にポツンと置いてあるのが信じられない」といった動画が何百万回も再生されているのは、まさにこれが理由らしい。夜の散歩も自販機も、深夜三時のループの女の子も、俺たち日本人にはなんの不思議もない。ありきたりな風景だ。しかし、日本人以外にとっては驚異的なんだとさ。よくわからん感覚だ。確かに、海外でとりわけヨーロッパで夜歩くと、どこからか視線を感じて緊張感を持つことはある。それは、身体感覚的な経験だ。

彼らにとって日本の社会ってのは、日本の映画やアニメの中だけの存在だと思っていた「現実にある安全な理想郷」そのものに見えるらしい。

経済の数字(GDP)ではアメリカや中国に負けていても、日々の生活の安心感や人間の尊厳というリアリティにおいては、日本は世界でトップクラスの豊かさを今なお維持しているといえるだろう。

日本は衰退途上国である以上に、ダウンサイジング先進国なんだ。俺たちの世代がこの世からおさらばした21世紀半ばには、日本の人口は5000万人から4000万人といったところに落ち込むだろう。その時、安全な社会という経済コストで測れない社会の真価がいかんなく発揮されるだろう。

その淵源はどこにあるのか?俺はそれは400年以上前の日本社会、まさに戦国時代の戦乱の終息期にあるとみている。そう、一朝一夕にできたものじゃない。

日本社会の独特の息苦しさの淵源も、この安心と表裏一体なんだけれどな。


2026/10/22

POST#1990 北朝鮮は大日本帝国のデッドコピーなんじゃないかな

 

ネパール カトマンズ郊外のパタンのクマリが人々に祝福を与える

死後との、いや仕事の山を一つ越えた。気が楽になったぜ。疲労が消えるわけではないがね。しかし、心は少し軽くなったのは事実だ。まったく、小市民だな。我ながら呆れるぜ。

金正恩の妹の金与正🔗が38度線付近で、北朝鮮の兵士が韓国の兵士から攻撃を受けているとか、南朝鮮=韓国の為政者の化けの皮がはがれたとか主張し、この上は北朝鮮の主張を大音量で放送するアジテーションを再開すると、いつものように冷酷に鼻息荒く宣言している。

ネットでは、金正恩🔗が脳梗塞で死亡し、金与正が権力を握ったというデマが世界を駆け巡ったが、これはいつものように、こうだったらいいのになぁっていうデマだ。金正恩だっていつかは死ぬが、それは今じゃないんだろう。そんなもんだ。
俺は常々、日本の皆様が、世界に誇る万世一系(とされるナラティブを持つ)天皇っていう存在は、世界に広く確認される『生き神様信仰🔗』のヴァリエーションの一つだと考えてる。他にはダライ・ラマ🔗とか、ネパールのクマリ🔗とかなんかもこのカテゴリーに入れることになるよね。ここまでは世間でも一般的で、神社本庁や右翼の皆さん界隈以外ではおおむね肯定される意見だろう。
ここからが、俺の独自の思考跳躍だ。
日本の仮想敵国No.ONEであり、トランプ大統領のお気に入りのリトルロケットマンの君臨する北朝鮮の金王朝だって、あれは生き神様信仰の萌芽が見られると思うんだ。

北朝鮮の金王朝の首領崇拝を、日本の「天皇(特に近代の現人神思想)」や、ネパールの「クマリ(生き女神)」と並ぶ「生き神様信仰(現人神・現身の神)」のバリエーションとして捉える視点は、宗教人類学や比較政治社会学において最も核心を思わずずぶりとついちゃったんじゃないかな。(笑)

どれほど国家の側が「万世一系」や「世界で唯一の歴史と血統」という、検証不可能な物語を演出してもだ、煎じ詰めてその心理的・構造的な仕組みを剥ぎ取ってみれば、そこにあるのは「人間の肉体を器として、そこに絶対的な超越性や理想のシンボルを宿らせようとする、人類共通の精神システム=共同幻想」に他ならないんだから、尊厳も何もあったもんだにゃあわな。

この「生き神様信仰」という対称的なフレームワークから、ちょいと考察をひろげてみるぜ。皆の衆、いい加減忙しいとは思うが、退屈してるんならさあご一緒に!俺は面白くてためになるブログを標榜してるんだ。

まず、一番プリミティブなネパールの「クマリ」の純粋な「祝福のシステム」を見てみようか。ネパールのクマリ(Kumari)は、幼い少女の肉体にヒンドゥー教の女神ドゥルガー🔗が宿ると信じられている生き女神信仰だ。俺自身もかつて、カトマンズ郊外のパタンでクマリの祝福を与えられたことがある。こうして今も生きて大口をたたいていられるのも楚の御蔭かもな。

クマリの本質は、人々に「法律」や「命令」を下して支配することではないんだ。彼女がなすのは、ただ民衆を眺め、微笑み、「祝福(恩寵)」を与えることだ。ただそれだけだ。権力なんかない。神社の氏神様が身体を持っていたら、ただ氏子を眺め、微笑み、その営みに祝福を授けるだけだというのに等しいだろう。

かつてネパールの国王すらもクマリの前に膝を折り、その祝福を受けることで自らの王権を承認(正当化)されていたんだ。まるで、征夷大将軍を任命し、その支配権を承認していた中近世の天皇のようだな。

宗教人類学者や我が心の師・吉本隆明らが指摘したように、日本の天皇制、特に政治的な実権(軍事力や法律の制定)を握る前の古代(6世紀以前など)の天皇や后(神功皇后など)の本来のあり方は、まさにこのクマリに近い「純粋な祭祀王(神の依り代)」だったんじゃないかとも推論されている。

国家のトップに「権力を持たない、ただ祝福を授けるだけの生き神(アバター)」を置くことで、共同体の精神的な安定と秩序(平和)を維持しようとする、高度なアニミズムの知恵だったと言えるだろうな。

これが、西洋の大国からの開国要求を受け、尊王攘夷だ開国だとすったもんだして日本全国南から北の五稜郭までひっくり返して明治維新を成し遂げたとき、その錦の御旗の天皇を、国家の根本原理として「現人神」としたわけだ。この原初的でフラットだったはずの「生き神様信仰」を、近代国家の「軍事・支配の道具」として強引にハックして利用したのが、明治以降の大日本帝国における「現人神(あらひとがみ)」思想であり、それを第二次大戦後にそっくりそのままデッドコピーしたのが、現在の北朝鮮の「金王朝(白頭の血統)」だという俺の見立てさ。どうよ、このシステムにハッキングされた狂気!

権力と神格化の最悪の合体だ。 本来、クマリのように政治権力から遠ざけられているべき「生き神の依り代」に対して、近代の国家は「軍隊の統帥権(大元帥)」や「憲法上の絶対権力」を合体させて、人々の遥か頭上に君臨する超越的な現人神に祭り上げちまったわけだ。

 これによって、人間(天皇や首領)が発する個人的な命令や政治的決断が、そのまま「神の意志」へとすり替わるんだ。

恐ろしいことだぜ。

国民は自分で深く考えること(ロゴス)を奪われ、「天皇陛下(あるいはその劣化コピーの首領様)のために死ぬことは、神聖な義務である」という集団催眠に搦め取られ、結果として無謀な戦争や凄惨な人権侵害(焦土化や身分制)を心理的抵抗なく受け入れる「不思考の家畜」へと仕立て上げられてしまったわけだ。戦前の社会を美化する者が、往々にして北朝鮮を批判し、この世の地獄のようにそしるのは、自らの歴史にあまりに疎いのではないかと健忘症を心配してしまうほどだ。

それじゃなぜ、俺たち人間は「生き神様」のようなおかしなものを必要とするのかな?

うむ、それがし思うに、人間は、天の上にいる抽象的な「一神教の神」を信じるだけでも飽き足らず、「今、自分たちの目の前に生きて存在している、肉体を持った人間」を神として崇めたいという、強烈な実存の弱さ(超越性への渇望)を持っているんじゃないかな。

普通の車よりフェラーリみたいな超越性を持った車にあこがれるみたいに?ちょっと違うかな?(笑)

自分と同じように飯を食い、老い、傷つく生身の人間をあえて「生き神」という記号に祭り上げることで、人々は分解してゆく一方の社会の中でバラバラに孤立した不安(モナド化)から逃れ、「私たちはこの偉大な存在のパーツなのだ」という安易な連帯感に浸ることができるわけだ。そして、安易なものは往々にして空疎なものだぜ。愛は厳しいのさ(笑)。

日本人がいまだに天皇家の物語を信じ込もうとし、北朝鮮の民衆が首領を涙を流して崇める心理の根底にあるのは、まったく同じ「自分の足で立ち、自分の頭で考えることの恐怖」からの逃走に他ならない。ハンナ・アーレントは、『考えないことが罪』だと説いたがね。

日本の天皇制も、北朝鮮の独裁も、ネパールの少女信仰も、すべては「人間が自らの弱さと孤独を埋めるために作り出した、生き神様という名の共同幻想」の具現化であり、その本質に上下も貴賤も、変わりはない。十把一絡げだ。

と言うか、北朝鮮の金王朝自身が、えー、日本の天皇制をコピーしたとしか俺には思えないんだけどな。

これは実は、ほんとのことのようだ。

歴史的な事実として、北朝鮮の金王朝(金日成体制)の個人崇拝や国家の仕組みは、かつて彼らが統治されていた「近代日本の天皇制(大日本帝国の国体)」をそっくりそのままコピー(模倣)して作られたものだそうだ。マジかよ。だとしたら、あのリトルロケットマンの国は、貧しい民衆の姿は、マシンガンで処刑される人々の姿は戦争が終わっていなかった世界線の日本の姿だってことだ。勘弁してくれよ。俺は眼を背けたいけれど、背けてはいけない。目を見開いて、考えるんだ。

残念なことに、これは単なる俺の根拠のない推測ではなく、近年の歴史学や中東・アジアの比較政治社会学においても「首領制(金日成体制)のルーツは、戦前の昭和天皇制(絶対主義的天皇制)の国体思想にある」として深く研究され、実証されている事実なんだとよ!

「社会主義」という世俗的で近代的な上着を羽織ってはいるものの、その中身がなぜこれほどまでに歪な「生き神様信仰の封建国家」になってしまったんだ?

そして彼ら金一族がいかに日本の天皇制をコピーしたのか、共通点を通して、そのデッドコピーというか劣化コピーの痕跡をたどろうぜ。

1. 「万世一系」をコピーした「白頭の血統」

日本の天皇制を支える最大の柱は、天照大神から地続きで一度も途切れたことがないとされる「万世一系」という血統の神話=ナラティブだ。

金正恩の戦争上手なじいさんの金日成は、自分の権力基盤を盤石にするために、この万世一系システムをハックしたんだ。。白頭山(ペクトゥサン)神話の捏造: 金日成は、自らの独裁を永久化するために、これと全く同じシステムを作り上げたんだ。

それが「白頭の血統」というやつだ。なんだそれ?北朝鮮の建国神話の聖地である白頭山に金一族のルーツを重ね合わせ、金日成🔗、金正日🔗、金正恩へと「神聖な血」が受け継がれているというナラティブは、日本の天孫降臨や皇統のコピーそのものだろう。そう、北朝鮮版の天孫降臨の里・高千穂だ。よく研究してるぜ、まったく。なんせ、終戦までは彼は一応日本人だからな。

2. 「現人神(大元帥)」をコピーした「首領(総書記)」

戦前の日本において、昭和天皇は「現人神」であると同時に、大日本帝国陸海軍を率いる最高指揮官(大元帥)だった。宗教的な神格性と、軍事的な最高権力を一人の肉体に合体させることで、国民に「命を捧げる不思考の義務」を強いたわけだ。最強だ。このご意向に逆らうのは生半可な覚悟じゃ無理だ。

金王朝が完成させたシステムもまさにこれなんだ。戦争上手な金日成や映画監督になりたかった金正日は「首領(最高尊厳)」という生き神でありながら、同時に軍の最高司令官(大元帥)として君臨していたんだ。国民を「一億総特攻(銃爆弾となれ)」と駆り立てた戦前日本の精神構造が、現在の北朝鮮の「先軍政治」や「最高尊厳のために爆弾となれ」というスローガンの中に、100%そのまま息づいているんだ。知れば知るほど、憂鬱になれるな。もう一錠レクサプロを飲んどくか?

それだけじゃないぜ!高市総理も大好きな「教育勅語」をコピーした「唯一思想体系」なんてのもある!もう、憂鬱を通り越して、へらへらした笑いが止まらないぜ。

戦前の日本人は、学校で「教育勅語」を暗唱させられ、天皇を中心とする家族国家観(国体)を徹底的に脳内に刷り込まれたのは、ご存じの通り。それを現代によみがえらせようとしたのが懐かしい森友学園だというのも皆さまお忘れでしょうか(笑)。

これと全く同じことを、北朝鮮ではやっているのさ。

北朝鮮の民衆が毎日暗唱させられ、生活を縛られている「党の唯一思想体系確立の十大原則」は、まさにその教育勅語の現代版だ。

そこには「首領様を天のように崇め、その命令には無条件で服従せよ」という、かつての「滅私奉公」や「忠君愛国」のロジックが、一言一句同じ精神性で複製されています。そいつに、『欲しがりません勝つまでは』とか『鬼畜米帝』とか書いてあっても俺はもうおどろかないぜ。

かつて日本は「西洋の野蛮な近代の植民地主義」に対抗するために、独自の生き神様システム(現人神・大元帥)を急拵えし、国民を不思考の兵士に仕立て上げて朝鮮、中国、東南アジアなどの周辺国を蹂躙しまくった。みんな無謀な戦争に駆り出され、マラリアになったりワニに食われたりした挙句、武器もないのに特攻し玉砕した。

そして、その日本から解放されたはずの北朝鮮を率いた金日成が、今度は「アメリカという現代の十字軍」から自分たちの権力を守るための防壁として、最も憎むべき敵であったはずの「日本の天皇制のOS(支配システム)」をまるごとデッドコピーし、自分たちの都合の良いようにして21世紀にまで生き残らせたって筋書きだ。

金日成以来、金日成、金正恩そして娘のジュエ様🔗に至るまで、すでに四代、このままじゃ。日本が女性天皇を持つより早く、ジュエ様が後を継いじゃうな。国連にも女性の人権に配慮してると評価されるかもしれないな。

それまた、ブラックジョークだぜ。勘弁してほしいぜ。

2026/10/21

POST#1989  一神教という「傲慢なシステム」への静かな反逆

Thailand、アユタヤ。有名な仏頭だけど、どこかアニミズムのイメージを喚起させる


昨日の夜の現場は最悪だった。 
ここ何年かで一番メンタルをやられた。 20人近い職方が、左官、土工、サッシ屋、電気屋、それぞれ みんな好きそれぞれに動いてて、俺はそれをまとめるのに必死だった。 理性のストッパーが外れて、暴れ出したくなる気持ちに、ぐっと手綱をひく。
人間は自分の立場でしかモノを考えられないという俺の認識は、こういう経験から打ち立てられる。

そもそも無理な工程の組み方で 制約の多い現場なんだ。 雇われの現場監督にすぎない俺に、元請けは全ての采配と責任を担わせて、誰も彼もが好き放題に主張したり、要求したりする。
感情崩壊のリミットが近づいていたのがわかった。
逃げ出すことができるものなら、一目散に逃げ出してしまいたいけれども、人生は逃げ出すわけにいかない。
吐き気を抑えて立ち向かうしかない。

そんな 過酷な状況の中でも自分の正気を保つためだけに このブログを書き続ける。目には見えない世界の構造を知覚する時、脳内から ドーパミンが出るからね。

宗教国家アメリカと宗教排除国家のフランスについて考えているときに、ふと脳内で跳躍が起こった。
いつものことだ。この脳内思考の跳躍、思考のパルクールこそが、飲まない、打たない、買わないの三拍子そろった今の俺の生きてる愉しみだ。

日本の神道の神様ってさ、宗教法人神社本庁の皆さんとかは、なんかすごく御大層なものにみたいにいってるけれどね、パプアニューギニアの人たちが信じてる祖霊や精霊、あるいは、タイの人たちが信じてるピーとかいう精霊とかと、構造的に何ら変わりはないんだよね。


そう、日本の神道は、何か特別で神秘的な「高尚で唯一無二の宗教」などではなく、パプアニューギニアの部族が信じる祖霊や、タイの民衆が深く信仰する「ピー(精霊)🔗」と、ミャンマーの「ナッ🔗」などと本質的には何ら変わりがないんだ。
皇統3千年の荒唐無稽な主張の神社本庁のような組織が、どれほど厳かさや国家的な権威、独自の伝統を演出したとしても、その根底にあるのは世界各地に普遍的に存在する「アニミズム」であり「祖霊信仰」という人間の極めて原初的で肉体的な精神の形なんだぜ。

それは野蛮で未開なことなんかじゃない。人間中心の世界観に打ち込まれた、今を生きる人間だけを世界の主体にしない遥かな過去からやってきた未来の思想でもあるんだ。

まず、タイの「ピー」、ミャンマーの「ナッ」と日本の「カミ」の完全な一致だ。

タイには仏教が深く根付いていますが、それ以前の土着の信仰として「ピー(精霊・祖霊)」が今も人々の生活を支配しています。ミャンマーも小乗仏教の国だけれど、人々は「ナッ(祖霊・精霊・土地の神)」を信じている人がたくさんいる。

その二面性の構造は、俺たち日本人の氏神様とかとすごく近い。

ピーやナッには、自分たちを守ってくれる「先祖のピー(祖霊)」や「土地のピー(鎮守の神)」もいれば、粗末に扱うと祟りをもたらす「邪悪なピー(怨霊・物の怪)」もいる。ナッも同じだ。人々を守護する一方で、機嫌を損ねたりすると、或いは気まぐれに災厄をもたらすんだ。こんなところも日本の神道との生き写しなんだ。 これは日本の神道が、菅原道真のような怨霊を神(天神)として祀って鎮めたり、地域の氏神を「怒らせると恐ろしいもの(荒御魂)」として畏れ、祭りを通じて「和御魂(穏やかな守り神)」へと変えていくシステムと全く同じだろう?

神社にある「御札」や「祠(ほこら)」は、タイの家々の庭にあるピーの家(サーンプラプーム)と精神の次元において完全に一致している。

実際に行ってみると、日本の家に祀られてる小さな祠みたいなのを目にする。文化が地続きなんだ。

更にギアを上げていこうや。パプアニューギニアの祖霊に見る「英霊」というフィクションの破壊だ!

パプアニューギニアの密林に生きる人々は、目に見えない無数の「精霊(スピリット)」や「祖先の霊」がすぐ近くの森や川に息づいていると感じ、彼らと共に生きている。

諸星大二郎🔗先生の『マッドメン🔗』や『海神記🔗』を読めば、それが肌感覚で体感できる。あるいは水木しげる🔗先生の戦争体験などもそうだ。水木先生は、パプアニューギニアの森の中、片腕を亡くした敗残兵として彷徨ううち、それらの存在を感知して妖怪に目覚めたんだ。

この生々しいアニミズムの視点に立つとき、国家(神社本庁の背後にあるような国家神道のシステム)が作った「お国のために死んだから、国家を護る特別な『英霊(神)』として靖国神社に祀る」という近代の政治的フィクションがいかに不自然で、歪なものであるかが暴かれることになるだろう。俺はずっと昔から気づいてたけどね。

パプアニューギニアでもかつての日本人の祖霊観でも、死者の霊は自然へと回帰する。戦争で亡くなった人々は、国家の管理物(英霊という記号)などではなく、本来はパプアニューギニアの精霊たちと同じように、「ただ生身の人間として死に、静かに故郷の山や川、自然の理法(スピリット)の中へと還っていくべき存在」なんだ。日本人は山の奥や海の向こうにそうした他界を想定した。

国家が作った「神の位」というタグを剥ぎ取り、世界共通の「ありのままの祖霊」として彼らを個人の記憶の中に還すことこそが、本当の弔いであると言えるわいな。

そしてこれは、一神教という「傲慢なシステム」への最大の反逆なんじゃないかな。

アメリカや西欧の一神教に基づく近代システムは、こうしたタイのピーやニューギニアの精霊、そして日本の神道を「未開の迷信」として、かつて十字軍がやったように排斥し、単線的な進化の歴史から消し去ろうとした。少なくとも、人類の最も未開で低俗な世界観だと貶めようとしてきた。一神教サイコー!って称揚して、同じ一神教のイスラム教、ユダヤ教、キリスト教で王座決定戦を繰り広げてた。いや、今でも続いてるか。

しかしだよ、神道の八百万の神々やアイヌの人々の信仰するカムイ、ピーやナっなどのアニミスティックな信仰の普遍性こそが、人間を記号(モナド)に変えて支配する現代のデジタル監視資本主義や、一神教的な善悪二元論に対する最大の「防壁」になるんじゃないかね。

そう、八百万の神々やピーやカムイを信じる世界には、「自分たちだけが正しい選民だ」という傲慢な正義(十字軍精神)は生まれないわけだ。

そこにあるのは「他者(自然や異なる文化)のスピリットを畏れ、お互いの領域を侵さずに共生する」という、 Pierre Clastres が描いたような、支配をもたない社会の平等の知恵だって言いうことができるだろう。

神社本庁の皆さんのように、日本の神道をあたかも「万世一系の誇るべき独自の高等宗教」であるかのように語る言説は、歴史の勝者が作った浅薄なナラティブ( illusory )に過ぎない。

それを煎じ詰めて政治的な虚飾を剥ぎ取れば、そこにあるのはパプアニューギニアの森のざわめきであり、タイの路地裏に佇むピーの祠と同じ、人間がこの地球という過酷な自然(宇宙の理法)の中で、生身の肉体を持って生き抜くために共有してきた、全人類共通の「野生の知恵(アニミズム)」そのものだろう?君はどう思う?

「神道もピーもパプアニューギニアの祖霊も皆同じ」という、この多元的でフラットな視点は、国家や宗教組織が施してきたあらゆる「権威の洗脳」を無効化し、俺たち三21世紀以後の世界を生きる人間が再発見すべき、人間が太古から持っているはずの「地球の住人としての野生のロゴス(理性)」を完全に取り戻す手段かもしれないな。

これが、吉本隆明の言ってた『アフリカ的段階』ってやつかもしれないな。

2026/10/20

POST#1988 フランス人はいつだってやりすぎる。やりすぎたおかげで近代国家が生まれた

パリ、クリニャンクール。あの日は雪だった
フランスが燃えているらしい。

数年前の黄色いベスト運動をはるかに上回る暴動がフランスで起きているようだ。

詳細はまだわからない。10月17日に、それまで続いていた高校生!による教育への予算拡充を求めるデモを発火点にして、社会のあらゆる持たざる者たちの不満が爆発し、うねりのようなデモとなり、有機的な人津波のようにしてパリを飲み込んでいるという。まるで脳を持たない粘菌が、有機的に不定形に移動してエサをのみ込むように。

街角では、様々なものが燃やされ、バリケードが築かれ、警官隊は平和的なデモに対して弾圧を加えることでコントロール不能にし、人々の怒りに油を注いでしまった。

様々な商店が略奪され、燃やされた。その損害額は数億ユーロに上るというが、いったいどれほどの損害額になるか、誰にも分らない。

デモは、大統領の官邸であるエリゼ宮に向かったという。マクロン大統領は、正当な主張には対応するが、略奪や暴動に対しては断固とした処置をとると息巻いている。

そして、外野のドナルドトランプは、いつものように『デモは移民のせいだ』と的外れなことを言っている。フランスとアメリカの移民への包摂のシステムが全く異なることを、全然理解していない暴論というか、フランスの暴動にこじつけて自分の主張を垂れ流しているだけの愚かな発言だ。

いまや宗教右派とリベラリストの対立の場になっているアメリカと、公共の場からあらゆる宗教的なものを排除し、極力平等を推し進め、神からすらも自由であろうとするフランス人とでは、根本的に思想の立脚点が異なるんだ。

そして、この神無き市民=シトワイヤンの国フランスは往々にして、やりすぎる。

やりすぎるがゆえに、往々にして暴動になる。

その根底には、フランス革命の成功体験がある。王権も教会の権威も貴族の特権も否定して、社会をひっくり返し、多くの人々をギロチンにかけ、そのいけにえのもとに近代国家のロールモデルを築き上げたという成功体験が。

だからこそ、フランス人は、徹底的な政教分離を成し遂げた。これをライシテって言うんだ。

未だに天動説を信じてるような人がゴマンといるアメリカ!とは真逆なんだ。

アメリカには、フランスの「ライシテ(laïcité)」のような、公共空間から宗教を徹底的に排除するという厳格な原則はない。

同じ「政教分離」と訳される制度であっても、アメリカとフランスではその目的も、歴史的背景も、社会的な現れ方も全く真逆と言っていいほど異なっている。「アメリカは宗教から脱却していない」んだ。

なんでそんなに違うのかって?いろいろ理由があるのさ。

1. 歴史的な「敵」の違い

なぜこれほど差が生まれたのかは、それぞれの国が建国時に「何と戦っていたか」を見れば分かるってもんだ。建国神話みたいなものさ。

• フランス(ライシテ):宗教(教会)からの自由

フランス革命において、カトリック教会は国王と並ぶ「抑圧者(特権階級)」だった。

そのためフランスにとっての政教分離とは、「国家や市民を、教会の独裁や迷信から守る(つまり、解放する)」ための戦いでもあったんだ。

宗教はプライベートな空間に閉じ込めるべきであり、公の場(政治、学校、役所)に持ち込んではならないという厳格な拒絶がライシテの根底にあるんだ。

• アメリカ:国家からの(宗教の)自由

これに対してアメリカの祖であるピューリタンたちは、イギリス国教会(=イギリスの国家公認宗教ね)から信仰を弾圧されて新大陸に渡ってきたわけだ。

そのためアメリカにとっての政教分離とは、「自分たちの多様な信仰を、国家の介入から守る」ためのものでったわけだ。

ベクトルが真逆なんだ。

「国家が特定の宗教(国教)を強制してはいけない」だけであって、「政治家や市民が公の場で宗教を熱心に信仰すること」は、むしろ大いに推奨される国としてスタートしたのさ。

2. 現実の社会における決定的な差

この違いがあるため、フランスのライシテの視点から見れば、アメリカの政治・社会は「宗教にまみれた異常な光景」に映るわけだ。

ライシテこフランスでは、宗教色を完全に排除して、大統領の宣誓に聖書は絶対に使わない。

公立学校では、宗教的シンボル(十字架、ヒジャブ等)の着用禁止だ。

そして、政治は常に宗教の持つ社会的影響力を弱めるように働く。

これに対して、宗教国家アメリカはどうか?


大統領の誓いの際には、聖書に手を置いて誓う。In God We Trustだ!まぁムスリムの大統領だったらクルアーンに手を置いて宣誓することになるんだろうが、アメリカにムスリムの大統領が生まれることはないだろうな。

学校では、神への祈りや聖書クラブの活動が信仰の自由として盛んに行われる。まぁ無差別銃撃事件もよく起きるけどね。

そして政治はいつも宗教的価値観に翻弄され、中絶禁止などを法制化しようとするわけだ。

フランスでは、公的な場所で宗教を大っぴらにアピールすることは「社会の分断を招くルール違反」とみなされる。あくまで個人の内面の問題だ。

しかしアメリカでは、大統領が演説の最後に「God bless America(神がアメリカを祝福せんことを)」と毎度叫ぶように、宗教、いやキリスト教は国家のアイデンティティそのものなんだ。

アメリカの政教分離は、あくまで「いろんなキリスト教の宗派が喧嘩しないように、国教は作らないでおこう」という、いわばキリスト教徒たちのための安全協定に過ぎなかったてわけさ。

だからこそ、250年経った今でもアメリカは宗教から脱却するどころか、政治の最前面にキリスト教のドグマが堂々と居座り続けている。

フランスのような徹底的な世俗化の手続きを踏んでいないアメリカが、中東に対して「十字軍」的な独善性を持って攻め込んでしまうのは、この制度的・文化的なルーツから見ても必然であると言えるだろうな。イラクの時も、今回のイランもそうだったぜ。


さて、この宗教を排除して、宗教によって担保されていた王政や貴族制を打ち倒すフランス革命を成し遂げたっていうことそのものが、その後の人類な革命観において、フランス革命が一種の普遍的なものとして成り立つ一番大きな契機だと思うんだ。

そう、フランス革命がアメリカ独立革命や他の市民革命を超えて、人類史における「普遍的な(世界中どこにでも適用できる)モデル」になり得た最大の理由は、政治と人間の理性を宗教の呪縛から完全に切り離した点にあるんだ。

これこそがフランス革命が世界史に刻んだ最も偉大な、そして本質的な契機です。その「普遍性」の意味を、ここまでのアメリカとの対比からさらに煎じ詰めるとこんな対比が浮かび上がるのさ。

1. 「特定の神」ではなく「全人類の理性」を土台にした

アメリカの独立革命は、実態としては「イギリス(プロテスタント)の身内同士の権力争いと、キリスト教徒の居場所づくり」というローカルな性質を脱し切れていなかった。だからこそ、今でもキリスト教という特定の宗教に縛られ続けている。政治や世界の行く末に大きな影響力を与えるほどに。

しかし、フランス革命が掲げた「人権宣言」はまるっきり違う。まぁ、白人オンリーとしか思えない愚行をフランスも散々やらかしてはきているけど、その理念は突き抜けてるよな。

彼らは、人権の根拠を「キリスト教の神」に求めず、人間が生まれながらに持つ「理性」に求めたんだ。神からの決別だ。

そしてそれは、誰にでも適用できる普遍性を持ちうるんだよね。

根拠がキリスト教の神であれば、イスラム教徒や仏教徒、あるいは無神論者には通用しないだろ?

しかし、「人間の理性と権利」を土台にしたからこそ、フランス革命の思想はキリスト教圏の枠を飛び越え、アジアやアフリカ、そして中東を含む「地球上の全人類に普遍的に適用できるシステム」として成立したんだ。

2. 「公共の場」という中立なスペースの発明

フランス革命が成し遂げたもう一つの普遍的な功績は、「公的な空間(政治や教育)には、特定の宗教を持ち込んではいけない」というルールを世界で初めて作ったことだ。ライシテはその成文化されたルールだね。

もしこのルールがなければ、国家は常に「どの宗教・どの宗派が一番偉いか」という不毛な争いに明け暮れることになるだろう。

フランス革命は、国家をあらゆる宗教から等距離に置くことで、「どんな信仰(あるいは不信仰)を持つ人であっても、市民として平等に共生できる空間」の設計図を示しましたわけだ。そこに至るまでには、ユグノーのぎゃくさとか、プロテスタントが焼き殺されるとか、ひどいことが山程起こった。ルソーやヴォルテールが人々に近代的な普遍性と人権と寛容さを説き続けた。その行く末にフランス革命が起きたんだ。

おかげさんで、近代民主主義国家が目指すべき「普遍的な理想の形」となったわけだ。

しかし、社会から宗教が、完全に払拭されたフランスの普遍性が抱える現代のジレンマが、今回の暴動のように激しく噴き上がる。この「フランス革命の普遍性」も、現代において新たな壁にぶつかっているんだ。

フランスが「これが全人類の普遍的な正義だ(ライシテだ)」と信じて進めるルール(例えば、公立学校でのヒジャブ着用の禁止など)が、イスラム教徒の側から見れば、「かつて十字軍が自分たちの正義を押し付けてきたのと同じ、形を変えた『西洋の独善(世俗主義という名の宗教)』の押し付けではないか」と反発を招いているという皮肉な現実もある。

自由と平等と博愛を掲げながら、社会の格差は広がり、エリートと庶民の溝は深まるばかりだが、この両極を融和させ包み込むような寛容さに満ちた宗教は、社会には存在しない。

彼らはフランスの市民たちは何に怒っているのか。究極的には本人たちも定かではないかもしれない。しかし、 それがもし、新自由主義が再び社会にもたらした激しい格差に対したいかりであるとともに、言葉だけの薄っぺらな平等という建前に怒っているのだとしたら フランス革命はいまだに未完の革命であり続けていると言えるかもしれないね。

2026/10/19

POST#1987 かつて麻生太郎はナチスのやり方に学べばいいといった。なるほど、そうしよう!

き
ベトナム阮朝の旧都フエ。街角の青果商
昨日は日曜で休みだったので、ひたすら眠った。日曜の朝9時過ぎから今日の11時過ぎまで眠った。本も読めない。まぁ、一日15時間夜働いて、これを週六日やってりゃそうなるのは当然だ。過労でくたばる前に今日も好き放題言わせてもらおう。

たいそう古い話で恐縮だが、第一次大戦が終わったときの話だ。
ジョン・メイナード・ケインズ🔗が1919年に著した『平和の経済的帰結🔗』(The Economic Consequences of the Peace)は、第一次世界大戦後のヴェルサイユ条約がもたらす悲劇を正確に予言していた。
大英帝国大蔵省の代表としてパリ講和会議に参加していたケインズは、連合国(特にフランスやイギリス)がドイツに課そうとした巨額の賠償金がいかに現実離れしており、破滅的であるかを間近で目撃し、絶望して辞任した。復讐心に基づくその金額と内容が、あまりに現実を無視していたためだ。その直後に怒りを込めて執筆されたのがこの『平和の経済的帰結』だ。東洋経済新報社から山形治生氏のわかりやすい翻訳で出ているので、興味のある向きはお読みなるとよいだろう。
ケインズがこの「天文学的な賠償金」に強く反対した主な理由は以下の通りだ。

1. ドイツの支払能力の無視

連合国が要求した賠償額は、当時のドイツの経済規模や輸出能力、金・外貨の保有量をはるかに超えていた。ケインズは詳細な経済データを用いて、ドイツが実際に支払える現実的なライン(連合国の要求の数分の一)を提示したが、政治的思惑から無視されたわけだ。この辺りの検証はこの本の中に詳細に記されている。学問的な誠実さに圧倒される。

2. 欧州経済全体の崩壊への危機感

第一次世界大戦前のヨーロッパは、ドイツを経済的ハブ(中心)とする相互依存のネットワークで繁栄していた。これは、現在と全く同じだ。ケインズは、「ドイツの経済を徹底的に破壊することは、ヨーロッパ全体の経済システムを麻痺させ、結果として戦勝国も含めた全員が共倒れになる」と警告したわけだ。慧眼だ。

3. 「復讐の連鎖」とさらなる戦争の予言

そして何よりケインズが最も恐れたのは、不当な飢餓と経済的困窮に叩き落とされたドイツ国民の間に、絶望と狂信的なナショナリズムが生まれることだった。
彼は、この条約が平和をもたらすどころか、「次の世代の復讐(さらなる戦争)を招く」と断言したんだが、これこそがケインズが単なるデータを積み重ねるだけの経済学者ではないという彼の真骨頂だ。
歴史はケインズの予言通りに動き、1920年代のドイツのハイパーインフレ、経済崩壊、そしてナチスの台頭から第二次世界大戦へと突き進むことになったわけだ。歴史は繰り返すって奴だ。しかも拡大再生産してね。

さて、ドイツ、再編されたワイマール共和国の経済がどん底にあえいでいた時期に登場したアドルフ・ヒトラーと彼の率いるナチスは、ヴェルサイユ条約と1929年の世界恐慌によって壊滅状態に陥り、数百万人の失業者を抱えていたドイツ経済を、「軍備拡張(再軍備)」と「事実上の強制的な雇用創出」によって急速に見た目上の復興へと導いたわけだ。
奇跡的な回復だった。

そこにはGDP比3.5%どころか、30%以上という軍事全振りといってもいいくらいの、国防費への一極集中があった。
GDP30%以上!
この数字にはドナルド・トランプだって、腰を抜かすぜ。

ヒトラーは、この奇策によってどん底にあったドイツ経済を、驚異的なスピードで復興させた。このナチス・ドイツの経済政策の全貌と、ご指摘の「奇策」の内実についてちょっと触れてみよう。きっと麻生太郎先生もこれに学べっていうかもだよ!

1. 「見た目上の復興」と失業率の劇的低下

1933年にヒトラーが首相に就任した当時、ドイツには約600万人の失業者がいた。600万人だ!俺の住んでる中京圏の人口が680万人くらいだから、東海三県ごっそり失業者で埋まってるような状態だ。
しかし、ヒトラーの奇手奇策によって、1936年にはほぼ「完全雇用」を達成しちゃうわけだ。たった三年だぜ!竹中平蔵もびっくりだ。この奇跡的なV字回復の裏には、悪魔的なリクルート手法があったんだ!

「国防軍(徴兵制)」へのリクルート
1935年にヴェルサイユ条約を破棄して再軍備を宣言し、徴兵制を敷くことで、大量の若者を軍隊という「雇用枠」に吸収したんだ。
統計からの排除と強制
国家労働奉仕局(RAD)などを組織し、若者に義務的な労働を課したんだ。また、女性やユダヤ人を労働統計から除外することで、数字上の失業率を意図的に引き下げるという数字のマジックまで披露してくれてる。

2. 軍事(国防)分野へのリソース集中と「メフォ手形🔗」

ナチスは、経済相ヒャルマル・シャハト🔗の主導のもと、「メフォ手形(Mefo-Wechsel)」という架空の会社を通じた特殊な手形を発行した。
これは政府の正規の予算(赤字国債)としてカウントされない「隠し借金」であり、この資金がすべて軍需産業や、軍事利用を前提としたインフラ(アウトバーンなど)に注ぎ込まれたわけだ。アウトバーンは、高速道路だけれど非常時には戦闘機の離着陸に仕えるように作られた高規格高速道路だ。
全産業部門が戦争準備のために動員される「四カ年計画」が推し進められ、見かけの経済成長を牽引したわけだ。まぁ、一種の体制翼賛体制というか軍事要塞国家としたわけだ。
この動きを後に全体主義と評することになる。

3. この「奇策」の限界。それは戦争へ突入せざるを得なかった経済構造だ。

この復興は、持続不可能な「自転車操業」でした。
国力を無視して軍事にリソースを集中させたため、民生品(一般国民の生活物資)や食料の生産が犠牲になり、外貨や原材料が決定的に不足し始めたわけだ。
また、「メフォ手形」の償還(借金の返済)期限も迫ってくるよな。一種の詐欺手形だから焦げ浮いたらシステム崩壊だ。
つまり、ナチスの経済システムは、「いずれからくりが破綻する前に他国に侵略し、その財産、外貨、資源、領土を強奪して借金を帳消しにし続けなければ、早晩に自己破産する」という運命にあったわけだ。
見た目上の復興は、最初から第二次世界大戦という破滅を前提にしなければ成り立たない「砂上の楼閣」だったんだな。

さて、どうして俺がこんな昔話を引っ張り出してきたかというと、聡明な読者諸兄諸姉はもうお分かりですね。
アメリカ様のGDP比3.5%という要求に対して、いっそGDP比35%という数字をぶち上げて、アメリカ様をおたおたさせてやるって筋書きだ。
非正規雇用の皆様も、自衛隊に入隊で、一晩にして国家公務員だ。

国防費GDP比35%なら、アメリカに守ってもらう必要もないんじゃないか?何しろ240兆円前後だ。アメリカの国防費の二倍近い。中国の国防費のざっくり10倍だ。
福祉も、医療も、インフラ維持も、即座に破綻するレベルだ。ギャハハ!

しかし、俺がただのマッドマンじゃないのはここからだ。
君たちは仕分け項目という経理の基本を知っているかな?
経理システムを運用するために、出費の一つ一つをその目的と用途に応じて適正に振り分けるのさ。旅費交通費とか消耗品費とか人件費とか研究開発費とかね。
こいつを悪用して、何でもかんでも国防費ということにしちまうのさ。
能登や熊本の復興も国防費。
インフラの整備も、アウトバーンみたいにいざというときはジェット機が日本全国離着陸できる滑走路という名目の軍事費。
対ロシア軍事拠点化という名目で北海道に経済振興。
対中国軍事拠点化という名目で、沖縄にインフラ拡充。
おう、仕分けのマジックで何でもかんでも軍事費でやってやるぜ。
何なら老人医療も、老人を最前線で戦る兵士にするための軍事費ってことにするか?
大政翼賛会を逆回転させた歴史のパロディーさ。まさに歴史は繰り返す。一度目は悲劇として、二度目は喜劇としてだ!
ギャハハハハハハハ!チェンソーマンみたいだな(笑)
そう、国民の生活を守るためのことをすべて、国防費の名目でやっちまえという大いなる詐欺=グレート・ロックンロール・スウィンドル🔗さ。
きっと麻生太郎がナチスに学んだらどうだって言ってたのは、こういう事なんじゃないの?あ、違うのけ?(笑)

2026/10/18

POST#1986 戦争したがる奴が平和を守ってるんだとさ、ケッ!

 

再び、ベトナム阮朝の旧都フエ。観光客向けのエリアの裏通り

明け方に帰ってきて、電子レンジで食事を温めて、もそもそと食事を摂る。

そして届いたばかりの新聞、すでに昨日の旧聞に化してしまった新聞を読みながらおかずを噛みしめる。うちは子供の頃から試験に出る朝日新聞だ。おかげさまで、立派なパヨクに育ったぜ!俺ら尾張人はジャイアンツ文化圏ではないので、読売新聞なんて読ませんて。

アメリカの大統領が、GDP比3.5%の防衛費支出がグローバルスタンダードだと言っている。とろくさいこと言ってござる。

要は、日本も防衛費を爆上げして、アメリカから武器をしこたま買ってくれ!と言ってるわけだ。

さて、そもそも侵略戦争は、現代の国際法理では禁止されている。だからロシアはウクライナに対して『特別軍事作戦』とかいう靴の上から水虫を掻くみたいなことを言ってるし、アメリカはイランに『宣戦布告』しない。ベネズエラの時もイランの時も不意打ちだ。

昔日本が真珠湾攻撃の時に宣戦布告が遅れたのを、今でもネチネチと持ち出すお国柄なのにな。

さて、そこから考えると、国連憲章や国際法を無視して他国に侵略する国がいるからこそ防衛費がGDP比3.5%必要だっていうことなんだと思うけど、他の国に一番侵略戦争を仕掛けてるのはどこの国か考えてみよう。

国際法違反の侵略行為や他国への軍事介入の頻度については、歴史的な期間の区切り方や「侵略」「介入」の定義、またどの機関の報告を基準にするかによって議論が異なり、複数の異なる指摘が存在するのはまぁ一旦保留しよう。俺は研究者じゃない。単なるフリーシンカーだ。

①米国の軍事介入に関する指摘

国際関係の研究や一部の批判的なデータ分析において、第二次世界大戦以降の時期に最も多く他国への軍事介入や政権転覆の関与を行ってきたのはアメリカ合衆国であるという指摘がある。というか、この国は建国以来、ほとんどの期間を対外戦争に費やしてきた。戦争してないと経済が回らないという、泳ぎ続けるマグロのような国だ。

まずは軍事介入プロジェクト(MIP)などの研究を見てみよう。

 米国のタフツ大学などの研究チームがまとめたデータ(Military Intervention Project)によると、米国は建国以来、特に第二次世界大戦後から現在にかけて、1990年代のバルカン半島、2000年代のアフガニスタンやイラク、リビアなど、世界各地で最も多くの軍事介入・武力行使を行ってきた国として記録されているそうな。

対外戦争のチャンピオンだ。そして自らの国だが線上になったことは、遥か大昔の独立戦争か南北戦争しかない。彼らにとって、戦争は自分たちの国以外で起きるエンターテインメントのような娯楽なのかもしれないな。

このアメリカの姿勢には、多くの批判が呈されてる。その論点とは、2003年のイラク戦争のように、国連安全保障理事会🔗の明確な決議がないまま行われた軍事行動は、多くの国際法学者や諸外国から国際法違反の「侵略行為」であるとして激しく批判されている。今回のベネズエラやイランに対する攻撃も、いずれは『侵略行為』だと歴史は評価するだろう。今はトランプの理不尽な怒りが怖くて誰も何も言わないがね。

いずれにせよ、アメリカは『侵略戦争』のチャンピオンだ。これに異論のある人はいますか?

一方で、国連憲章が禁じる「主権および領土一体性の侵害(侵略)」という観点からは、ロシアや中国など他の主要国による軍事行動も国際社会で極めて重大な国際法違反として位置づけられ、非難されているのはもちろんだ。 

ロシアによる侵略と言えば、やはりこれだろう。

2014年のクリミア併合や、2022年以降のウクライナへの全面的な軍事侵攻は、国連総会でも圧倒的な多数で「国連憲章に違反する侵略行為」として非難決議が採択されている。

近年の明確な「他国領土の武力による奪取・侵略」という意味において、ロシアは国際社会から最も強い非難を受けている国の一つだ。要はアメリカよりもやり方が露骨で、アメリカに対するほど批判しても、ロシアからの仕返しが大したことないってことだ。最もロシア国内で批判すれば、ポロニウム🔗で毒殺間違いなしだ。

一方で、日本の皆さんが大好きな中華人民共和国の軍事活動を見てみよう。アメリカやロシアに比べたら、今のところ慎ましいものさ。

台湾周辺や南シナ海における力による現状変更の試み、過去の中越戦争(1979年)などが、地域の安定や国際法(国連海洋法条約など)への挑戦として指摘されている。例の九段線🔗などで南シナ海の領有権を主張して周辺諸国に嫌がらせをしたり、ぼろ負けして逃げ帰った中越戦争だ。

他国に最も軍事介入を行ってきた国として「アメリカ合衆国」が挙げられる一方で、主権国家の領土を武力で直接占領・併合しようとする明白な国際法違反(侵略)の文脈では「ロシア」などの行動が強く問題視されているわけだ。

アメリカでもロシアでも中国でもいいけれど、これらの国は、国連安全保障理事会という、国際的な安全保障を協議する機関の理事国なわけなんですよね。しかも常任理事国。これ、第二次世界大戦の遺産なんだけど、おかしくないかね?

国連安全保障理事会(安保理)の常任理事国(アメリカ、ロシア、中国、イギリス、フランス)みずからが、国際法に違反するような軍事介入や侵略行為を行っている、あるいはそれらを拒否権によって正当化しているという現状に対しては、国際社会や専門家の間からも「矛盾している」「制度として機能していない」という極めて強い批判や不満が常に存在してるんだ。イギリスだってフォークランド紛争をやらかしたり、フランスだってインドシナ戦争(をベトナム人相手に)やらかしてきた豊かな事例がある!

この状況がなぜ生まれ、なぜ維持されているのかについては、主に以下のような背景や国際政治の現実があるのを君は知っているかな?

1. 歴史的な成り立ち:第二次世界大戦の「勝者の同盟」

国連および安保理の仕組みは、1945年の第二次世界大戦の戦勝国(主要同盟国)を中心に作られました。そう、国連=国際連合というのは、国際連合軍を意味してるわけだ。

当時のトルーマンとかルーズベルトとか蒋介石(これ味噌。毛沢東の共産政府じゃなくて、国民党政府だったのね)やスターリン!とかは、「世界大戦を二度と起こさないためには、強大な軍事力を持つ主要国、つまり軍事大国が一致して責任を持つ必要がある」と考えたわけだ。そこで、連合国の大国同士の意見一致の原則が設けられ、その協議の場として安全保障理事会が設けられたわけだ。更に、その常任理事国にはアメリカ、ソ連、イギリス、フランス、国民党中国が据えられたわけだ。で、いつのまにか国民党の中華民国は共産党の中華人民共和国と入れ替わり、ソ連崩壊のどさくさに紛れて、ロシアはそのままその位置をキープした。

一方で、日本やドイツなどの旧枢軸国は、常任理事国にはなれない。なぜって、かつてのお騒がせ侵略国家だったから。いまだに旧敵国条項というのが国連には残ってて、日本もドイツもその条項に縛られてる。これもあって、日本もドイツもアメリカのミニオンにならざるを得ないわけだ。

もし大国のどれか一つでも反対する決定を国連が強行すれば、その大国が国連を脱退し、結果として再び世界大戦につながるという懸念がありました。そのため、五大国には強力な「拒否権(Veto)」が与えられたわけだ。

昔のソ連はいつも拒否権の発動ばかりしていたから、ソ連の国連大使はMr.ニエット(ロシア語でNoね)という渾名をつけられたほどだ。笑えるぜ。

2. 「拒否権」がもたらす構造的な矛盾

本来は世界の平和を維持するための特権であった拒否権が、現在では常任理事国みずからの行動や、その同盟国の行為を守るための防壁として使われているという本末転倒な付が回ってきているのが、現在の世界だ。思わず笑えてくるぜ。

国連安保理はここんとこ数十年、ほとんど機能不全だ。例えば2003年のイラク戦争の際、米国を非難する決議は成立せず、2022年のウクライナ侵攻の際も、ロシアを非難する安保理決議案はロシア自身の拒否権によって否決されちまった。

しかし、この状況を少し冷静に整理して考えてみてほしい。「警察官が自らルールを破っても、自分の逮捕状に拒否権を使える」という状態に例るしかないような茶番劇が繰り返されている。こいつは現在の国際法における最大の制度的欠陥としてしばしば指摘されてる代物なんだ。なんてったって、一番人を殺してるのが警察官ってことだからな。まぁ、アメリカって社会も似たようなもんか。自由と平等の国とかいう幻想は、そろそろ捨てたほうがいい。金を持った白人にとっては自由と平等で格差を気にしなくて済む国だくらいに考えておこうよ。

3. なぜ変えられないのか?

この構造がおかしいという認識は世界中で共有されており、安保理改革の議論は数十年にわたり続けられています。日本やドイツ、インド、ブラジル(G4)などは常任理事国の拡大を訴えていますが、改革が進まないのには以下の理由がある。

この5大国の大旦那さんたちは、憲章改正にも拒否権を持ってるんだな。

 国連憲章を改正して安保理の仕組みを変えるためには、現在の常任理事国5カ国すべてが同意(批准)しなければならないんだ。しかし、自らの特権を薄める改革に5カ国がそろって賛成することは極めて困難というか、まぁありえないよな。

そして利害の一致の難しさって問題もある。

日本の常任理事国入りに中国や韓国が反対する、インドの加盟にパキスタンが反対するなど地域ごとの主導権争いもあり、加盟国全体で一貫した合意形成ができない。これにはいろんな歴史的な抜き差しならない事情がある。

制度としての倫理的な正当性や「おかしさ」という観点からは、とんでもない矛盾の塊だ。しかし、国際政治の実効性(リアリズム)の観点からは、「これら核保有大国を国際協調の枠組み(国連)に繋ぎ止めておくための必要悪」として、不完全なまま維持されているのが現在の国際社会の現実らしい。こうしてあきらめムードの中、世の中はどんどん悪くなっていくのさ。

これは要はさ、泥棒が普通の家はセコムとかに契約するもんですよと警備会社のセキュリティをお勧めしておいて、実はその警備会社が泥棒集団みたいな話だ。こんな茶番を信じていられるなら、風刺のきいてないコントで馬鹿笑いするのも無理はないぜ。

この例えは、安保理の常任理事国が抱える「ルールを作る側でありながら、自らそれを破り、さらに他国に防衛を迫る」という矛盾した構図を表してるんだ。

まさに「セキュリティを売っている本人が、裏で他人の家に押し入っているではないか」という不条理さだ。あまりに不条理で理解に苦しむぜ。

そう、「警備会社」自体が最大のリスクというのが常識の遥か上を行く超現実なんだ。

民間企業のALSOKやセコムであれば、もし信頼を裏切るような犯罪行為をすれば契約を解除され、警察に逮捕されるだろう。法人としての信頼は地に落ちることなるだろう。

しかし、国際社会には国連の上に立つ「世界警察」や「裁判所」が存在しない。あ、ICCはあるけれど、トランプのわがままで、風前の灯火だ。

安全保障の「警備」を担えるほどの強大な軍事力(核兵器など)を持っているのが、まさにその常任理事国であるという現実がある。安全保障理事会ってのは、要は核兵器愛好会なんだ。力こそ正義って考えだ。

「そんな剣呑な武器を持ってる連中が暴れないようにするために、彼らを警備会社の幹部(常任理事国)にして機嫌を取っておく」という、本末転倒な仕組みにならざるを得なかったのが現在の国際連盟の限界だな。まるで、モンティパイソンみたいな喜劇がhっ現実に起きて世界をハチャメチャにしてるのさ。

そこで「防衛費3.5%」が表す二面性が浮かび上がるのさ。

アメリカが主張する「GDP比3.5%の防衛費」というグローバルスタンダードに対しても、マッチポンプのような構造を持った欺瞞の二面性がある。

実際にロシアや中国といった大国による現状変更(侵略リスク)が目の前にある国々(東欧や台湾周辺、つまり日本だ)にとっては、身を守るために民間防衛や防衛費の増額(セキュリティ契約)を急がざるを得ないのは事実です。けど、そのロシアも中国も、国連安全保障理事会常任理事国なんだけどね。

 一方で、最も多くの軍事介入を行い、世界最大の武器輸出組織でもあるアメリカから「防衛費を増やせ」と言われることに対しては、「自国の軍事産業の利益や、自国の安全保障戦略の負担を同盟国に肩代わりさせるためのセールストークではないか」という疑惑しか感じられないぜ。

だって、防衛費GDP比3.5%が国際的なスタンダードなんて、単なる幻想だろう?

日本以上の防衛費13兆円をかけて、アメリカからバカ高い武器を爆買いしたサウジアラビアだって、フーシ派の低コスト攻撃の前に手をこまねいているのが、この21世紀の現実だ。

国際法や国連という「綺麗なお題目」の裏にあるのは、結局のところ「力(軍事力)を持つ大国がルールを都合よく運用している」という冷徹な現実だ。

力こそが正義なのか?

そのため、大国が自らの行動を棚に上げて他国に防衛やルールの遵守を迫る姿が、まるで「泥棒のセキュリティ勧誘」のように見えるのは、国際政治の本質的な矛盾を突いた見方というか、滑稽な現実だといわざるを得ないな。

戦争したがる奴が、平和を守ってるらしいぜ!ケッ、笑わせんじゃねぇ!

国際社会のこうした「大国の横暴」に対抗するために、近年では発展途上国や中堅国家(グローバルサウスなど)が連携して大国主導のルールに異を唱える動きも活発化している。じゃんじゃんやるべきだ。この国際社会はちっとも平等じゃないんだ。そんな世界は俺たちの世代で終わりにしなくちゃならない。

2026/10/17

POST#1985 孫子曰く 戦わずして人の兵を屈するは、善の善なる者なり

沖縄 那覇 路傍に咲く花

簗農林水産大臣が辞任し、かつて偉大なるイエスマンと言われた男の息子が後釜に座った。

なぜかこの国では政治家は家業だ。直系家族システムのなせる業なのか?エマニュエル・トッド🔗なら、したり顔で『Oui(そうです)』と答えるだろう。

まるで封建領主だ。殿さまだ。おかげさまで、下々の者たちは自分たちの社会の行く末なんか気にせず、日々のささやかな暮らしに集中できる。OK、社会的分業🔗だ。デュルケーム🔗だ。なぜそうなっているのかには、俺は一家言ある。あるけれど、それは今日は言わず、今後のネタとして頭の中で熟成させておこう。また、お話しする機会はすぐにやってくるだろう。ただ、ここでは『生涯にわたってネジの頭を作ってきただけの人間が、正しく社会的な判断を下せるとは思えない』というアレクシ・ド・トクヴィル🔗の言葉を挙げておこう。

今日は昨日の続きだ。

現場も今夜は昨日の続きだ。壁面の左官が続くんだ。そんなもんだ。

さてさて、今の日本の姿を客観的に見てみよう。

以前もこのブログで触れたように、かつてブリキのおもちゃしか作れなかった貧しい民の国を、今日の経済大国に導いたのはほかならぬ日本だ。そこに異論はないだろう?

人件費が安く、資源調達が容易であることから、多くの日本企業が製造拠点を中国に移転させ、技術移転は急速に進んだ。そして、日本の技術は中国の技術にあっさり追い抜かれた。一足飛びに技術移転が進むというのは、歴史上よくある話だ。

ネットには電車や道路などの都市インフラからリチウムイオンバッテリーまで、その品質をあざ笑うかのような動画があふれているが、真に受けてはいけない。日本企業の製品も、よく見ればメイドインチャイナと書いてある。それが、現実だ。

その間に、日本社会は自ら成長の芽をつぶし、次世代の人材の育成どころか人口の再生産すらままならない窮地に陥っている。

そして、中国の経済的な台頭を前にして、中国脅威論を煽り立て、敵視し、その軍備を増強する一翼を担ったのも、皮肉なことにこの日本という国と日本人の社会だ。

経済では中国に依存、べったり依存しながら、政治的にはこう中国と敵対するっていうのは、ちょっと不誠実な態度だと俺は思うよ。

だってそうじゃないか?「経済的には中国にべったり依存して莫大な富や恩恵を受け取りながら、政治・安全保障のレイヤーでは『中国は敵だ』と煽って対立姿勢を演じる」という日本の二面性は、まさに国家規模の極めて不誠実な「欺瞞」そのものだろう?

ここには、「金儲け」と「恐怖」を両方消費する本土の都合がある。一粒で二度おいしいグリコアーモンドキャラメルのようだ。

日本政府や本土の財界・大衆は、中国という巨大な市場やサプライチェーンに深く組み込まれることで、日々の豊かな生活、つまりダイソーなんかで手に入る安い製品や、膨大な貿易利益を享受している。

もし、中国との経済関係を断ち切れば、俺たちの日本社会の経済そのものが一瞬で瓦解することを、わたしら下々の者以外はよ~く熟知している。

にもかかわらず、政治やメディアが「中国の脅威」を叫ぶのは、それによって「防衛費の大幅増額」や「日米同盟への依存(米軍基地の維持)」を正当化するための便利な『恐怖の燃料』が必要だからに他ならないんだ。マッチポンプだ。

経済では握手をし、政治では刃を突きつけるというこの不誠実な二枚舌は、自らの利益と権力を維持するためならいかなる矛盾も厭わない、大国や支配層の冷酷なごまかしとしか言いようがないね。

そして、その不誠実さの「ツケ」を身をもって支払わされる沖縄という構図さ。

この「経済べったり・政治敵対」という欺瞞の最も残酷な点がなんだかわかるかな?

それはさ、その不誠実な態度から生じる最大の軍事的なリスクを、本土の人間は自分の足元には極力一切引き受けず、沖縄に丸投げして『閉じ込めて』いることだ。

ヤマトンチューが中国との貿易で稼いだカネを懐に入れ、安全な東京から「中国を敵と見なす言葉」を発して無用な緊張を煽る。

そして、その結果として引き寄せられる「日常の米兵犯罪」と「有事のミサイル標的」という二重の地獄を、沖縄という「捨て石」に盾として身代わりにならせることで、自らの平和で言いたい放題な生活を維持しているという、目も当てられないアチャーな現実だ。😵

孫氏に曰く、『是の故に百戦百勝は、善の善なる者に非ざるなり。戦わずして人の兵を屈するは、善の善なる者なり。』(おー、『日本三國🔗』みたいだな!)

つまり、戦わずして勝つことが最上なのだ。

そして、これにクラウゼビッツの『戦争は、異なる手段をもちいて継続される政治にほかならない』を掛け合わせてみよう。

そこに加えて、『兵は凶器也』という中国春秋時代から続く格言を考えに繰りこもう。

そうして導き出される本当の強さとは、無用な敵を作らず、巧みな外交によって戦争へと至る芽を未然に摘み取ることだ。それは惰弱ではない。知性による戦いなのだ。

「本当の無敵とは敵を作らないことだ」という真理に照らせば、経済でつながりながら政治でわざわざ「敵を作り出している」日本の姿勢は、外交の完全な敗北であり、そのツケをすべて他者に支払わせているという意味において、これ以上ない不誠実で野蛮な構造だといえるだろう。

違うかい?

確かに中国は太平洋に進出したがっているだろう。日本列島は中国の大洋進出への防波堤になっているのは事実だ。

しかし、空ら中国共産党首脳部は、アメリカと実力で伯仲はっきりさせたいとまでは思っていないだろう。彼らは台湾を自らの国家体制に回収したいだけだ。台湾の人々からしたら、いい迷惑だろうけどね。だいたいトランプ政権のアメリカは、放っておいても勝手に迷走し自爆していく。習近平は柔和な笑顔でどっしりしているだけで、世界的に、とりわけ散々欧米列強にいいように搾取され続けてきたグローバルサウスの国々から信頼されてゆく。

ゆめゆめ、大日本帝国のように欧米列強を押しのけて自らの支配権を力づくで奪いに行くことはないだろう。何しろ、彼ら自慢の人民解放軍は、実戦経験がほとんどなく、直近の中越戦争でも、ベトナム軍にさんざんに翻弄されて撤退している。勝ったことがないのだ。

その中国人は、ひょっとしたら俺たち日本人の心をどこかで恐れてるんじゃないかな。

戦前青島で一旗揚げ、敗戦で一文無しになった『東洋鬼』の孫たる俺は、そんなことを感じている。

1937年の南京虐殺を始めとして、かつて日本人がどれだけ中国人にひどい目を与えたかって、日本人は忘れているかもしれないし、なかったことにしようとしているかもしれないが、中国の人々は決して忘れていないだろう。

靴を踏まれた方は忘れないもんだからね。

日本の態度に対して、ことあるごとに強硬に突っかかってくるかのごとき中国人の態度は、その裏返しなんじゃないかね。

そう、もっとかみ砕いて言えば、「中国はかつて自分たちの土地で爆発した日本人の底知れぬ残虐性や『鬼』としての側面を、歴史のトラウマとして今なお深層心理で恐れており、現在の海洋進出や強硬な姿勢はその恐怖の裏返し、つまり過剰防衛じゃないか」ってことさ。

その鬼も、ハートマン軍曹みたい連中によって作られた、国家主導の凶暴性だったんだけどね。今のアメリカ海兵隊員と同じようなものだ。

そうして考えると、腑に落ちることもある。トラウマの裏返しとしての「過剰防衛」だ。

中華人民共和国が近代国家としてナショナリズムを統合するうえで、最も核心に据えられてきたのは「抗日戦争の記憶」だ。

宗教を持たない中華人民共和国の建国神話こそがこれだ。

彼らにとって日本人は、かつて自らの大国としてのプライドを完膚なきまでに叩き潰し、想像を絶する残虐行為を働いた「もっとも予測不能で、何をするか分からない恐怖の対象」にほかならないんだ。

現在の中国人民解放軍が、何とか第一列島線を食い破り、第二列島線までを支配下に置こうと必死に太平洋へ進出し、精力を注いで異常なまでのミサイル網を構築して、日本、韓国、台湾をはじめとした周囲の国々を、そしてそのバックに控えるアメリカを威圧しているのは、自らが「強国」にならなければ、再びあの「東洋の鬼」たち『日本人』に国土と人民を蹂躙されるかもしれないという、歴史的な恐怖が生み出した過剰な防衛本能だという見方は、穿ちすぎだろうか?

そしてその現状に油を注ぐのは、「見ないふり」をする本土の日本人の更なる欺瞞だ。

それほどの「血の歴史」と「相手の恐怖」の地続きのうえに現在の国際政治があるにもかかわらず、本土の多くの日本人は、自らがかつて大陸で何をしたかという歴史の凄惨な本質から目を背け続けている。自分たち父祖の蛮行を美化し、観光目的でやってくる目の前の中国人をモラルのない愚劣な大衆に貶めている。

中国政府が、自国民に対して、日本に行かないように号令を発するのも、対中感情の悪化という世論誘導下にある日本に、自国民を送り出すことをリスクととらえている証だろう。

そのうえで、俺たち日本人は、ただ「中国が攻めてくるかもしれない」という目先の恐怖の記号を消費しているんだ。自分の影に怯えているようなものだ。

そして、それをうまいこと利用して、太平洋からインド洋にかけての東半球に展開するアメリカ軍に基地を提供する羽目になってるんだ。アメリカは漁夫の利だな。この沖縄の基地から、イランにもアメリカ軍は派遣された。予想の斜め上のイランから、普天間基地や嘉手納基地に大陸弾道弾が飛んでこなくてよかったな。

ここにあるのは、当事者性の完全にして幸福な忘却だ。

俺たち日本人は自らの祖先が放った「鬼」の業を忘れ去り、安全な東京のレイヤーから「中国と対決せよ」と強硬論を吐き、その結果として生じるミサイルの射程環境や米兵犯罪という「地獄のツケ」をすべて沖縄に丸投げしている。

この本土の日本人の「想像力のなさ」と「歴史に対する当事者性の欠如」こそが、俺が抱く嫌悪感の源にあるんだ。