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| Copenhagen,Denmark |
薩摩隼人の血を引く祖母に育てられた俺以外には「切腹」というのは極端な話かもしれないけれど、かつての日本には確かに「公(おおやけ)に対する責任感」や、失敗を恥じる「潔さ」という倫理観が、指導者層にも現場にも深く根付いていた。
現代の指導者層(政治家や官僚、プロ経営者)が『劣化』したように見える背景には、単なる精神論ではない、いくつかの構造的な要因がある。
まずは何より「恥の文化」から「無謬(むびゅう)性の文化」へ日本文化が変容してしまったんだ。
昔の日本人は、自分の非を認めることを『恥』とし、そのケジメとして身を引いて隠居する座敷牢に入るなり、切腹するという『美学』を持っていた。倫理と生き方の美学が内面化されていたんだな。
しかし現代の組織、とりわけ官庁、つまり役人のせかいでは、「間違いを認めたら終わり」という文化が定着してしまった。別にアメリカ流とかそういうわけじゃない。
一度失敗を認めると、その瞬間に自分の人生をかけて築いてきたキャリアが断絶し、組織全体の責任を問われるため、厚顔無恥に屁理屈をこね、論理をすり替えてでも「自分たちは間違っていない」と強弁し続けることが正解になってしまったというわけだ。見苦しいぜ。これが官僚の無謬性だ。現代の天動説だ。睾丸に鞭でもくれてやるぜ!
そして赤信号みんなで渡れば怖くないといわんばかりの「顔の見えない」意思決定システムだ。
かつての実業家や政治家は、自らの出身地域や行政の現場と密接に繋がっており、『誰のために何をするか』という個人の顔が見える責任を負っていた。
しかし今は、プロジェクトがあまりに巨大化し、経団連の偉いさんや経済学者や政治家の皆さんがお集まりになる、なんちゃら会議だのなんちゃら委員会の合議制の影に隠れて、「誰が最終的に決めたのか」が曖昧になっている。唐傘連判みたいに判子はいっぱい捺してあるかもしれないが、責任が細分化された結果、誰もが『自分は組織の一員として手続きに従っただけだ』という言い訳が可能になってしまいました。官僚的無責任というわけだ。
なんのこたぁねぇ、連帯責任は無責任ってことか。
デビッド・グレーバー🔗の官僚制のユートピア🔗を一読なさることをお勧めするよ。
そして、リスクを取らない「秀才」たちの跳梁跋扈。
今の日本の中枢にいるのは、失敗を恐れて減点法を生き抜いてきた「試験のプロ」たちだ。
彼らは自分の懐が痛まないお金、つまり俺たちの税金を使い、失敗しても優秀な頭脳でひねり出した屁みたいな理屈で逃げ切れるため、本当の意味での「覚悟」を持つ必要がない。まったく猪口才な奴らだぜ。コロナの頃の『アベノマスク』はあまりに鮮やかな典型だ。
しかし俺も含めて市井の実業の親父さんたちは、 失敗すれば自分と家族が、社員とその家族が路頭に迷うため、本気でリスクを管理し、必死に汗をかく。命が惜しいからな。
そして日本人の心から「武士道」的な倫理観が払底し、喪失してしまったんだ。
かつて日本人の根底にあった『卑怯な真似はしない』『弱きを助ける』といった徳目が、効率や数字、あるいは『保身』という価値観に取って代わられてしまった。
インボイスで零細企業を追い詰め、自分たちは裏金で甘い汁を吸うという行為に『恥ずかしさ』を感じなくなっているのは、まさに精神的な劣化と言えるだろうよ。
「自分の決断に自らの人生を賭ける」という実業の親父さんたちが持っている当たり前の感覚が、国を動かす側から完全に失われてしまったんだ。寅さんに出てくるタコ親父の爪の垢でも煎じて飲んでろ。中小企業の親父さんたちは、今時切腹こそしやしないが、どん詰まりになったら首をくくったり線路に飛びこんだりしてるんだ。
言葉を失うほど重い現実だ。くそっ、たかが金のことで死んでたまるか。俺はそうなったら、ミャンマーの奥地、黄金の三角地帯🔗に逃げ延びて、バナナでも食いながらケシでも栽培してしぶとく生きるぜ。
さて皆の衆、『劣化』という言葉では足りないほど、今の日本の指導層と現場の間には『命の重さ』に対する埋めがたい断絶があるのではないでしょーか。
人間は人間であるという、ただその一点だけで尊重されるべきだ。
中小企業の親父さんたちがどん詰まりの末に選んでしまう「最悪の決断」は、まさに自分の人生、家族、そして従業員への責任を、文字通り自分の命で取ろうとする究極のケジメだろう。もうどうしようもなくなってメンタルを病んでしまうんだろうな。
俺の親父みたいに、家もとられて借金も税金も踏み倒して、借用書すら持ってないってくらいアナーキーな奴のほうがしぶとく長生きするぜ。ある意味痛快だな。
これに対して、兆円単位の国家予算を動かしている官僚や政治家が、失敗して「申し訳ありませんでした」と頭を下げる(あるいは開き直ってそれすらしない)姿は、実業の現場から見れば、あまりに軽薄で、怒りを通り越して虚しさを感じざるを得ないけど、それは俺だけじゃないだろう?
インボイス制度や社会保険料の引き上げは、机上の計算では「公平な負担」に見えるかもしれない。益税益税って、世間様からぶっ叩かれたしな。
しかし、ミクロな現場ではその「わずかな数万円、数十万円」が、夜の零細企業経営者たちを死に物狂いの資金繰りに追い込み、最後の一線を越えさせる引き金になるんだぜ。
一言で言えば、
この世がくそダメに思えてくるぜ。
そういえば、俺が子供のころ、近所の畑の肥溜めの上澄みの中でトノサマガエルがすいすい泳いでいた。俺はそれを捕まえようとして肥溜めに手を突っ込み、おふくろに激切れされたことを今思い出したぜ。まさか、この年になって俺があのトノサマガエルみたいにくそ溜めの中を泳ぎ回る羽目になるとはな。
零細企業やフリーランスの現場では、制度の変更一つで、リアルに「死」が隣り合わせになる。こんな駄文を書き散らしてる俺は、君には呑気なおっさんに見えるかもしれないけれど、心中は毎日綱渡りだ。
けれど、このくそ溜めの上に聳え立つ国策プロジェクトでは、盛大に失敗しても誰も死なないし、生活も困らない。
このあまりにも不平等な構造こそが、今の日本で最も『おかしい』部分だとは思わないか?
『責任ある積極財政』という言葉が聞かれるけれど、あれはいったいどういう意味なのか、俺にはさっぱりわからない。「責任」という言葉が独り歩きして形骸化し、責任ってつければみんなが納得する枕詞みたいなもんだろうか?
今のエリートたちが使う「責任を取る」という言葉は、せいぜい「役職を辞める」「ボーナスを一部返納する」程度のことだろう?なに、報酬の○○%返納というのもよくきくね。けど、彼らにはどうってこたぁないのさ。
一方で、市井の経営者にとっての責任は、常に「全人生」がかかっている。
この「責任の重みの差」を知ろうともせず、机上の空論で2.3兆円という想像もつかない額を動かす。しかもその金は、市井の経営者の皆さんや日本全国津々浦々の労働者の皆さんが、生活を切り詰めて払った税金そのものだ。この無神経さはいったいなんだ?
現場で歯を食いしばって、文字通り命を懸けて商売をしている人たちが報われず、無責任な「思いつき」で動く側が守られる。このままでは、日本という国そのものの精神が崩壊してしまうだろう。
せめてその失敗したプロ 経営者やエリート官僚を禁治産者にするとか、そういうペナルティーを考えてほしいもんだ。今の「やり逃げ」が許される構造を放置したままでは、今後も同じような失敗が繰り返されるだけだろう。
「プロ経営者」として巨額の公的資金(血税)を動かすのであれば、それ相応の「身分上のリスク」を法的に負わせるべきだというご意見は、実業の厳しさを知る人からすれば当然の要求じゃないか。
実際に、以下のような「厳格なケジメ」を制度化すべきだという議論があるようだ。
1. 「禁忌(公職・役員就任禁止)」の厳格化
失敗したプロジェクトの責任者に対し、その後一定期間、あるいは一生涯、「上場企業や公的団体の役員、政治家への就任を禁止する」という措置。
ちなみに、今の日本では、失敗しても別の会社の顧問や団体の理事として『渡り鳥』のように生き残れる仕組みになっている。何が『渡り鳥』だ。『アホウドリ』の間違いだろう!
「失敗したら二度と表舞台には立てない」というルールがあれば、彼らも中小企業の親父さんたちと同じような切迫感を持って、必死に仕事をする・・・かもしれない。あんまり期待しないけどね。
2. 「成功報酬」があるなら「失敗罰則」を
プロ経営者は成功した時に数億円の報酬を要求する。しかし、大損害を出した時には「解任」だけで済むのはアンフェアじゃないか。むしろ単なる強欲だ。
私財の没収や返還義務: 投じた税金に対して著しく成果が低かった場合、それまでに受け取った高額な報酬の返還を義務付ける。
個人保証の導入: 「国が保証するなら、経営者個人も一部保証せよ」という形にすれば、今の「他人の金=税金で博打を打つ」ような無責任な経営はできなくなるだろう。ちなみに、一般的な中小企業の経営者は、出資金以上の責任はないとされているけれど、法人の代表としてではなく、個人として連帯保証人となり、結局は事業債務から逃れる術はない。
日本は、一度レールから外れてしまったもの、一度失敗したものに、再起するチャンスを与えない社会だが、どうやら大企業の偉いさんたちの世界では勝手が違うようだ。
3. 「背任罪」の適用拡大
単なる「判断ミス」で片付けるのではなく、明らかに無理な計画を強行したり、事実を隠蔽したりした場合には、刑事罰(実刑)を含めた厳しい追及ができるように法整備を行うべきだろう。
中小企業の親父さんが「首をくくる」ほど追い詰められる一方で、何兆円も溶かした人間が「遺憾である」の一言で済ませる不条理を、法律で正す必要がある。何せ、血税を無駄にしたんだ。その責、万死に値するぜ。
「実業の現場」では当たり前の「責任の取り方」を、政治や国策プロジェクトの世界にも持ち込む。それができない限り、2.3兆円という大金は、ただの「エリートたちの遊び金」として消えていくだけかもしれないな。
まったく「役職を辞める」程度の生ぬるい話ではなく、「公民権停止(選挙権・被選挙権の剥奪)」や、二度と表舞台で活動できない「禁治産者(に類する厳しい資格制限)」のような、社会的・政治的生命を絶つレベルの厳罰が必要だと俺は思ってる。
それだけの覚悟がなければ、「他人の金(血税)」で数兆円規模の博打を打つ資格はないはずだろう。
1. 公民権停止と「公務禁止」
内容: 巨額の税金を損失させたプロ経営者や官僚、政治家に対し、一定期間(あるいは終身)、「選挙権・被選挙権の剥奪」および「一切の公的な職務(顧問や参与含む)への就任禁止」を課す。
意図: 「国を過った者には、二度と国政や公の物事に関与させない」という、文字通りの追放刑だ。
2. 「社会的・経済的剥奪(実質的な禁治産化)」
内容: 失敗の責任の重さに応じて、個人の全資産を凍結・没収し、さらに破産者と同等、あるいはそれ以上に「他人の金を預かる業務」や「企業の代表者」になる権利を恒久的に奪う。
意図: 中小企業の経営者が自己破産した時に受ける苦しみ(住む場所を追われ、信用を失う)を、プロ経営者にも同等に、あるいは「公金を預かった重み」としてそれ以上に味わせる仕組みだ。
3. 「国策背任罪」の新設と「獄中」での責任
内容: 単なる経営判断のミスではなく、杜撰な計画や保身による強行を「国民に対する背任」と定義し、執行猶予なしの実刑判決を下せるようにする。
意図: 「切腹」が許されない現代において、国家に損害を与えたことに対する最大の物理的なケジメを、塀の中で取らせるという考え方だ。
今の日本のエリートたちが「劣化」したのは、こうした「失敗した時の恐怖」が皆無だからだ。なんせ、成功すれば、高額報酬。失敗しても、名誉ある退職。これでは「いい加減」になるのも当然です。
俺たちに日本の大衆は、もっとこの体たらくに怒ったほうがいい。
日本人が大人しいから、この懲りない連中は、盛大に失敗してものうのうと生きてられるんだ。日本人の「我慢強さ」や「秩序を重んじる気質」が、結果として無責任な指導層を「のうのうと生き延びさせている」という側面は否定できるかい。
諸外国、特にグローバルサウスといわれるような地域や、あるいは歴史的に市民革命を経験してきたフランスのような国々であれば、これほど不条理な事態(庶民からは1円単位でむしり取り、特定企業に数兆円溶かす)が起きれば、もっと直接的で激しい「怒りの爆発」が起きています。フランスであった黄色いベスト運動🔗を、君も覚えているだろう。大衆をバカにしていちゃ、今に痛い目を見るぜ。
1. 諸外国での「責任の取らせ方」の現実
激しい抗議行動: 途上国やフランスなどでは、生活に直結する増税や不透明な公金支出があれば、暴動に近いデモが起き、政府機関や指導者の邸宅が囲まれることも珍しくない。
物理的な追及:汚職や無策で国を傾けた指導者が、文字通り群衆に引きずり出されたり、国外亡命を余儀なくされたりする国は現実に存在する。日本人がおとなしくて規律を重んじる国民でよかったな。裏を返せば、飼いならされた家畜みたいだぜ。
2. 日本の「おとなしさ」が招く甘え
日本人は「法的手続き」や「選挙」を重んじますが、逆に言えば、「法さえすり抜ければ、あるいは選挙まで逃げ切れば、何をしても安全だ」と官僚やプロ経営者に高を括らせる原因にもなっていないか?
「切腹」の文化が消え、物理的な制裁の恐怖もなくなった現代の日本で、エリートたちは「国民は怒っても、結局は何もしてこない」と心のどこかで舐めている節があるだろう。
国会の前で何万人も集まってデモをしても、国営放送がニュースとして放送しないような情報統制国家なんだ。
3. 「命の重み」の不均衡
行き詰った中小企業経営者の中には、誰に言われるでもなく、一人で責任を背負い込んで「首をくくる」という極限のケジメをつけてしまう人もいる。人口10万にあたり15.4人自殺する。その中のいくらかはやはり、経済的に行き詰った末の自殺だろう。年間2万人ほど。一時期は年間3万人だったな。
しかし、その原因を作った側は、クーラーの効いた部屋で「遺憾の意」を表明するだけです。この「死ぬほど苦しんでいる側」と「涼しい顔をしている側」のバランスが、海外のような激しい衝突がないために、是正されずに固定化されています。
日本人が「大人しい」のは美徳とされることもああるだろう。麻生漫☆画太郎センセーも、日本人の民度は高いのだと海外の政治家に自慢してるくらいだからな。
しかし時として、その美徳が「無責任な権力者を助長させる装置」になり、国民をして『自らを圧殺する契機』となってっていないだろうか?
「袋叩き」に近いレベルの「激しい怒りと監視」を国民が突きつけない限り、彼らが自ら「実業の痛み」を理解し、身を正すことは期待できないのかもしれねぇなぁ…。

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