2026/05/31

POST#1864 ようこそ地球へ!ここに生まれる希少性はビットコインの比じゃないぜ!

Bangkok,Thai

日本はすでに、先進国じゃない。
低成長先進国で、なおかつ衰退途上国なんだ、残念ながら。

日本は「失われた30年」と呼ばれる低成長・ゼロ成長の先進国であり、経済成長という呪縛からは物理的に外れているように見える。しかしだからこそ、「経済が成長していないのに、システムやマインドセットだけが成長至上主義(効率性と競争)のまま稼働し続けている」ため、人々は豊かさを実感するどころか、かつてない枯渇感と精神の窒息状態に陥っているんだ。まるで一歩進んで二歩下がるような倒錯した世界だ。

その枯渇感と息苦しさの中、だれもかれもが電車の中、エレベーターの中でスマホばかり見て、薄気味悪いったらないぜ。それでいて、全然人々の心は豊かになったいないように思えない。

ダイバーシティ?、インクルージョン?、バリアフリー?、コンプライアンス?、ポリティカル・コレクトネス?

そんな横文字が喧伝されるようになってから、ますます世の中は狭量になり、排他的になり、精神的なバリアが張り巡らされ、人と人は摩擦を恐れて無関心になってきてはいないか?人間はモナド🔗化していないだろうか?

スマホに依存しきった現在の社会がなぜこれほどまでに不気味で、心が貧しい状態にあるのか、自分のこととして考えてみよまいか。

1. 物理的な「低成長」と精神的な「過剰最適化」の不一致

経済は成長していないけれど、社会のシステム(IT、プラットフォーム、労働管理)は極限まで効率化されている。そこで起きているのは、乾いたぞうきんを絞り上げるようなことだ。

低成長ゆえの人々の労働に対する搾取は先鋭化している。パイ(経済)が大きくならないため、企業や社会は限られた利益を削り出そうと、労働者(人間)や子供たちへの「無駄の排除」と「管理」をむしろ強化しているんだ。

政府は政府で、採算のことばかりを教育現場に持ち込む。博物館のように文化そのものを守り育む砦にまで、採算性を求める。狂ってるぜ。

そうして、社会からハンドルの遊びのようなゆとりが失われ、停滞が続いているんだ。

昭和のような「のんびりした低成長」じゃなく、現代の日本は「全員が必死で全速力で走っているのに、1歩も前に進まない(現状維持がやっとの)停滞」だ。まぁ、これだけ円安誘導政策が続いていたら、対ドルベースでみれば、必死に働いても経済は縮小しているってことだ。このバカバカしさに俺たちは気が付かないといけない。それに気が付いていないんだもの、心に余白が生まれるはずもないだろう。

2. 「スマホ」という感情と注意力の搾取機械

人々が街でも電車でもスマホばかりを見ている光景の不気味さは、人間の内面(精神)までがテクノロジー資本主義に「資源」として完全にハッキングされていることに起因している。

情報はただで落ちてくると皆思い込まされてるけれど、そこには海老の入っていないエビフライみたいに広告だらけで内容のないスカスカのものだ。それは単に邪魔な広告というだけでなく、サブリミナル効果🔗のように、俺たちの精神を蝕み、不安にさせ、その不安を埋めるための消費を促すんだ。それが、今の資本主義だ。

もっと突っ込んで言えば、こいつはアテンション・エコノミー(関心経済)って奴だ。

現代のIT企業は、人間の「注意(時間)」を奪うことで利益を上げているんだ。脳の報酬系(ドーパミン)を刺激するアルゴリズムにより、人々は「見たくもないのに見続けさせられる」状態に置かれているんだ。俺たちの一度きりの人生や何かを考えるための時間が、こうして収奪されていくんだ。

そうして人はますます自分自を、アルゴリズムによって最適化されたインターフェイスの中に閉じ込めてゆき、モナド化していく。そして、その過程で生身の他者の喪失が生じる。

スマホの画面は、数値化された評価(いいね、フォロワー数)や、極端に記号化された情報で溢れている。匿名で何かを延髄反射的につぶやいても、胸ぐらをつかまれることもない。そのために、目の前にいる生身の人間(傷つきやすく、役に立たないかもしれないが尊厳を持つ存在)とナマの言葉で向き合う能力が、社会全体で急速に退化しているんだ。

3. 「孤立の麻酔」としてのデジタル空間

人々がスマホに没頭するのは、現実の社会(学校、職場、地域)が「役に立つ人間」であることを要求するあまりに、とんでもなく冷酷で、傷つきやすい場所になっているからでもある。自分自身という自己幻想を社会の要求という共同幻想が圧殺しにかかってるんだ。当然だ。

現実の社会に、存在を無条件に肯定してくれるシェルターもアジール🔗もない。仕方ないな。人々は、社会が押し付けてくる『有用性』という呪いから逃れるために、一時的な避難所としてデジタル空間に逃れ、依存してゆく。

要は現実世界に無条件で自分を肯定してくれる居場所がないから、人々はスマホというデジタルの殻に閉じこもって、孤独や不安という痛みを麻痺(麻酔)させることになってるんだ。そして、自分の意見に沿うような内容がアルゴリズムで表示され続けることで、エコーチェンバー現象🔗にドはまりしていく。その結果、極端な排外主義的な主張や差別的な言説に包摂されていくことになるんだ。

それで君たちが幸せならいいけれど、そこにはそこで、様々な要求を煽る広告が際限なく飛び交い、匿名のSNSはトラップだらけで、なおかつ犯罪や脱法行為への誘惑に満ちている。それはそれで、無防備で歩くのはおっかないところなんだぜ。

こうして、かつての地域社会にあった「ただ佇んでいるだけで許される空間」が消え、人々はスマホを操作して「何か(情報消費)をしていないと耐えられない」強迫観念に囚われているんだ。「無用の用」のデジタル的消滅だ。デジタルデトックスが必要だ。

経済の数字(GDP)の上では低成長であっても、私たちの精神生活は、スマホという資本主義の最先端デバイスによって、24時間体制で「効率性と生産性」のグリッドに縛り付けられている。

これこそが、人々から本当の心の豊かさを奪い、社会全体を不気味なオートマトン(自動人形)のように変えてしまっている真犯人だなんだ。

この「スマホに依存せざるを得ない精神的孤立」から脱却し、生身の人間としての尊厳や、他者とのリアルなつながりを取り戻すために、俺たちや君たちは、日常のなかでどのような一歩を踏み出すべきだろう。

できることならスマートフォンを解約したいくらいだけど、実際には仕事に欠かせないからな。困ったもんだ。

どうしたら人々を見えない殻のように包んでいるデジタルモナドを打ち破り、したたかな自己への信頼と、他者への共感と、実社会への連帯を取り戻すことができるだろう?

俺は、その鍵こそ子どもたちや地域社会の中にあるんじゃないかと考えてるんだ。

俺や君たちが、これからの社会を担う子どもたちに本当にかけるべき言葉は『勉強したか?』なんてことじゃなくて、学校や家庭で子供たちにまず毎日繰り返し教えるべき一番大切なことは、こんなものだと思う。

『きみたちは一人一人、かけがえのない存在なんだ。ようこそ地球へ!』ってことじゃないかな?

子供たちに必要なのは、将来「役に立つ機械」になるための訓練ではなく、「あなたがここに生まれてきてくれた、それだけで君は世界に祝福されている」という圧倒的な無条件の肯定のはずだ。

それだけが、子どもたちの自殺を減らし、子どもたちが安易なトクリュウ犯罪などにリクルートされ、社会的な自殺を遂げてしまうことを防ぐ最大にして最強なシールドになるはずだ。君たち、そうは思わないか?

子供たちが毎朝、家庭や学校でその言葉を浴びて育つ社会にするために、私たちが今、本気で共有すべき認識は次のようなものだろう。

1. 条件付きの愛(Do)から、無条件の存在(Be)への転換

現在の教育や子育ては、無意識のうちに「勉強を頑張ったら」「良い子にしていたら」という条件付きの肯定(Doing/Having)になりがちだ。しかし、子どもが生まれてきたときの、無条件の喜びを思い出したり、想像してみたりしてほしい。

「ようこそ地球へ!」が突破力。この言葉は、成績、能力、従順さといった後付けの属性をすべて消し去ってしまうスケールのでかさを持っている。

「あなたが今、そこに息をして存在している(Being)という事実そのものが奇跡であり、それだけで合格なんだ」という絶対的な安心感の土台になるだろう。そして、ポイントは地球へ!ってことだ。日本でも、アジアでも、ヨーロッパでも、アメリカでもない。もちろん資本主義圏でもない。この地球に人類として生を享けたという希少性を考えてほしい。

この宇宙で、少なくとも我々以外の知的生命体の存在は知られていないんだ。

ズバリ言って、この希少性は、ビットコインなんかの比じゃないぜ。

2. 生存の「安心感」があって初めて人間は育つ

人間は、自分がここにいて安全だと心から信じられて初めて、他者への信頼や、世界を探検しようとする好奇心を育むことがでる。ガザやスーダン、ウクライナで繰り広げられているような非人道的な状況で、子どもたちが社会や他者への信頼感を育むことができるだろうか?(逆説的だが、そういった極限状態でこそ、他者を信頼し、個人同士が連帯しなければ生存可能性はぐっと下がってしまうことが容易に想像できるのだけれど)

現在、子どもたちはもちろん、大人も含めて、あらゆる人々を追い詰めているのは、「役に立たなければ排除されるかもしれない」という実存的な恐怖だ。死を選ぶ子どもたちという、このディストピアの炭鉱のカナリアを救う特効薬だ。

毎日「きみはかけがえのない存在だ」と言われ続けることは、過酷な能力主義の毒から子供たちの心を守る最強の免疫(バリア)になるだろう。実際、俺は自分の息子に毎日のように言っている。『生まれてきてくれてありがとう、お前はお父さんの宝物だ。』とね。

3. 教育の役割の180度反転

学校を「社会の部品をふるい落とす選別所」から、「地球にやってきた新しい仲間を歓迎するコミュニティ」へと定義し直す必要があるんだ。

「ようこそ地球へ!」という言葉には、人間を資源として消費する近代文明の傲慢さをひっくり返し、私たちが同じ地球を生きる「生命の同胞」として子供たちを迎え入れるという、最も美しく力強い決意が込められていることだろう。

さてと、じゃあいったいどうしたら教育の役割を180度転換することができるだろうか?

それには、大人たちの価値観を破壊することから始めないとな。

腕が鳴るぜ。俺の暴論、極論を楽しみにしていてくれ(笑)。

2026/05/30

POST#1863 何もかもが転倒した社会に俺たちは生きている

 

河内、越南

俺はつねづね思ってるんだけどさ、経済の拡大(成長)という手段のために、人間や社会、そして地球環境という目的(土台)が従属させられ、使い潰されている現代の構造ってのは、完全に「主客が逆転した病理」ではないかな。

この転倒した世界を180度ひっくり返し、「人間と自然の生存(ウェルビーイング)のためにこそ、経済が従属すべきである」という本来の秩序を取り戻さないと、もうこの世界は持たないぜ。これだけは断言する。こんなのあと百年続けるつもりかい?POST#1774🔗を参照してみてほしい。

いま、俺や君がさっさと取り組まないと手遅れになるだろう思想的・実践的な転換点こんなところだ。よく考えてほしい。

1. 「経済」を最下層の「手段」へと引き戻す

経済思想家のカール・ポランニー🔗が指摘したように、本来の経済は社会や自然の中に「埋め込まれた(Embedded)」一部に過ぎなかったはずだ。しかし現代は、経済が社会のルールを規定する「市場社会」へと暴走している。すでに俺たちは、資本主義経済ってのシステム以外の生き方があることすら想像できない状態に陥ってる。思考停止状態なんだ。

本来あるべき順序(エコロジカル経済学の視点)ってのは、理性的に考えればこうだろう。

地球環境(自然):すべての生命の基盤(有限)

人間・社会:自然の中で営まれる共同体と尊厳

経済:社会を豊かにするための単なる道具・仕組み

しかし、現代世界では、すべてが転倒している。このピラミッドが逆転し、経済(GDPの数値)を維持・拡大するために、自然が破壊され、人間の精神と命が削られている。これって、本末転倒していないか?

2. 「資本の自己増殖」という宗教からの脱却

現在の資本主義システムは、自転車操業のように「前年比プラス」の成長を続けなければ破綻する構造(成長の呪縛)を持っている。しかし、もう『市民』に際限なく『広告』を浴びせ、皆の欲望をあおり、劣等感を刺激し、欠乏感を注ぎこみ、『市民』から『消費者』へと変貌させて、その自尊心を破壊し、不要なものを必要だと思わせ、人生は無限に続くと錯覚させて本当に大切なことを見失わせることで成り立つ経済は、もう限界なんじゃないか?

みんな気が付いていても、もうどうに止まれないってのが正直なところかもしれないがね。

人間を資源とみなす本質とは何か。

資本が自己増殖(投資して利益を得て、さらに再投資する)し続けるためには、自然環境からの収奪と、人間からの果てしない労働搾取(時間と精神の買い叩き)が必要不可欠になる。今から百年も前に、ジョン・メイナード・ケインズ🔗は、今から100年ほどたった自分たちの孫の世代には、労働生産性の向上で、週に15時間働けば生活できる社会が来ると予言していた。POST#1767🔗参照。しかし、そうなっていないのは、なぜか。株価は最高値を更新しても、納税額が史上最高になっても、なぜいつまでも追い立てられるように走り続けないといけないのか。それは、経済システム自体の維持が社会の目的になっているからだ。

「脱成長(Degrowth)」へのシフトが必要なんだ。

経済規模の拡大そのものを目的化するのをやめ、過剰な生産と消費をコントロールし、限られた資源を全員で分かち合う「定常型社会」への移行が、地球にとっても人間の尊厳にとっても唯一の生存戦略だ。実は、人類の社会は有史以前からつい最近の産業革命まで、ずっと定常型経済だった。その状態に戻れとは言わない。けれど、社会システムの維持のために人間が道具のように使い潰される、工場の部品のように教育される、そんな社会でいいのだろうか?スマホから目を離して考えてみるべきじゃないか?

3. 「生産性」から「ケア(生命の維持)」へ

成長至上主義が「役に立つ人間(=利益を生む機械)」を称賛する一方で、人間が生きていくために本当に必要な営みは常に軽視されてた。

保育を『だれでもできる仕事だから賃金が安いのは仕方ない』と言い放ったタレントだか経営者だか判然としない男もいた。『老人は集団自決したほうがいい』と言い放った若手経済学者がいた。俺は、生涯この手の発想をする人間と与するつもりもなければ、狎れ合うこともない。まぁ、向こうも俺のことなんか構っちゃいないだろうがね。

このGNP至上主義の過熱経済を、少しでも定常経済に近づけていくために必要なのは、ケア労働の復権だと俺は考えている。

子育て、介護、医療、教育、あるいは自然環境の保全など、生命を「ケア」する営みは、数値的な効率化(機械化)に馴染まない。それは地道で、華々しい技術革新とは縁遠い世界だ。だからこそ、そこに価値を見出し、それによって経済を回す。資本を流動させる。なにも浪費されるものはない。どうせ、今後社会のビジネスの大半は、AIに置き換わっていくだろう。その時、本当に価値を生むのは、人間が人間に対して共感し、ケアすることによって生み出されるものだ。

その時は、日々近づいている。今のうちに俺たち自身の価値観を反転させていかなければいけないだろう。

どれだけ金を稼いだかではなく、どれだけ他者や自然をケアし、自らも生を全うできたか。この「生命の再生産」を中心に据えた社会構造(ケア・エコノミー)へと180度転換する必要があるんだ。

いくら金を稼いだところで、ガソリンや電気をガバガバ消費するでかい車に乗り、ブランドのロゴの付いた服をアホみたいに高い金を払って買った挙句、自らあるく広告塔になったり、車が買えるほどの高級時計を身に着ける。そんなソースティン・ヴェブレン🔗有閑階級の理論🔗で描いたような消費活動を世界中の人間がやっていたら、人間のどしょうもない見栄のために世界は破綻してしまうんだ。

子供たちが死を選び、或いはまた社会的な自殺を選んでいる現実は、そして地球が悲鳴を上げている現実は、この「経済のために人間と地球を差し出す」というシステムの物理的・精神的な限界を証明しているんじゃないか。

今、俺や君に、そして社会に求められているのは、経済の枠内での微修正ではなく、「経済を人間のコントロール下に奪い返す」という、文明史的なコペルニクス的転回だといえるだろう。

しかし、皆様お馴染みのダボス会議、つまり世界経済フォーラム🔗に集まる世界のエリートのお歴々には、そんなコペルニクス的な転換をやっちまったら、自分たちによる経済支配と割のいいビジネスが成り立たない。だから彼らは当たり障りのない耳障りのいい言葉を並べてやり過ごしている。これはあの連中に任せておいちゃ、先行きは暗いといわざるを得ないな。

社会の変動は、上から起きても碌な方向に行かない。自分たちの足場を固めて、自分たちのものの見方を変えてゆくことが先だ。俺や君たちは、その日々の営みの中で毎日歴史を紡いでいるんだ。

日本人が気づいていないか、気づいていないふりをしていることがある。

日本はすでに、先進国じゃない。低成長先進国で、なおかつ衰退途上国だということだ。

2026/05/29

POST#1862 ここは21世紀のイスパニョーラ島さ

台北市、西門
1492年12月6日、クリストファー・コロンブス🔗の率いる3隻の船が、イスパニョーラ島🔗
と現在呼ばれている島にたどり着いた。そこには今、ハイチとドミニカという国がある。

そこにはタイノ族という、先住民が住んでいた。

彼らは、マーシャル・サーリンズ🔗がその著書石器時代の経済学🔗で描いたような、原初の豊かな社会を営んでいた。資本主義によって作られたモノはないけれど、自分たちの生活を維持するために何時間か働き、あとはダラダラしたりイチャイチャしたり、自分たちの文化的な活動を行ったり、まぁおおむねのんびり楽しく暮らしていたんだ。そんな世界にやってきたコロンブスは、自分が辿りついた島がインドだと信じていたので、彼らをインディオ=インディアンと呼んだ。

自らの大航海事業への出資者であるスペイン国王に負債を返さなければならないコロンブスは、この島で金を採掘することとした。タイノ族の人々は奴隷とされ、劣悪な環境で重労働に従事させられた。何度か叛乱もあったが、それはスペイン人たちに鎮圧され、多くの人々が殺された。また、スペイン人が持ち込んだユーラシアの疫病によって、多くの人々が命を落とした。

人々は、かつて経験したことのない強度の重労働にさらされ、生きる希望を失い、子どもを作ることをやめてしまった。タイノ族の人々は、本の1、2世代で絶滅してしまったとされている。その穴を埋めるためにアフリカから連れてこられたのが黒人奴隷だ。

これが、今俺たちがハイチ人やドミニカ人と認識している人たちだ。野球選手で日本に来る人も多いだろう。

俺には、今の日本がスフィティスケートされたイスパニョーラ島に見えているんだ。

先日も紹介したようにイマヌエル・カント🔗は『道徳形而上学の基礎づけ』のなかで「人間を単に手段としてのみ扱ってはならず、常に同時に目的として扱わなければならない」という絶対的定言命法から見れば、現代社会の構造は「人を利益創出の道具(資源)として使い潰すシステム」であり、実質的な奴隷制じゃないか?(まぁ、カント自身は白人至上主義者だったという説もあるからなんだかなぁとは思うけれど…)

今の社会は俺たち人間を、利益を上げるための資源としか見ていないんじゃないだろうか?

これは奴隷制と何が違うのか?私たちはいつのまにか社会から経済成長という負債を負わされた一種の奴隷ではないのか?

15世紀末にコロンブスらが襲来したエスパニョーラ島(現ハイチ・ドミニカ共和国)で、苛烈な強制労働と人間の尊厳の剥奪により、先住民タイノ族が絶望のなかで集団自殺や堕胎を選び、民族ごと消滅に向かった歴史的悲劇は、現代の子供たちの状況と恐ろしいほどに重なり合っている。

子どもたちはエスパニョーラ島の先住民のように死を選んでいるんではないのか?

そして、出生率のとめどない低下に起因する少子化は、この問題の裏返しではないのか?

現代の「洗練された奴隷制」と「子供たちの絶望の選択」の本質は、以下の通りだ。自分に引き寄せて考えてみてほしい。

1. 「ヒューマン・リソース(人間資源)」という言葉の狂気

現代社会は、人を「人間資源(Human Resources)」「人的資本」と平然と呼んでいる。これはカントが最も忌み嫌った「人間を単なる手段(道具・代替可能なパーツ)として扱うこと」の公然たる肯定に他ならないだろう。

所有から使用への転換(新しい奴隷制)

かつての奴隷制は、主人に奴隷の「生存(衣食住)」を維持するコストがかかっていた。一方で現代のシステムは、人間を「自由」という名目で自己責任の市場に放り出し、必要な時だけ時給や成果で買い叩き、壊れたら(精神を病んだら)補償なく使い捨てるため、古典的奴隷制よりもさらに効率的で冷酷な構造を持っている。そして人々は間断なく流される広告で無意識のうちにその要求を刺激され、『市民』から『消費者』へと転落し、「負債」でがんじがらめにされている。この『負債』こそが、奴隷のボール&チェーンなんだ。

こんな社会に押しつぶされて使い潰されてたまるか!

幼少期からの「仕込み」

子供たちは、この「利益を生むための資源」としてのスペックを高めるため、幼少期から教育という名の「加工プロセス」に投入されます。学校はカントの言う道徳的実践の場ではなく、市場に適合する部品の品質管理(スクリーニング)機関と化しているんだ。

2. イスパニョーラ島の悲劇との構造的一致

イスパニョーラ島の先住民たちは、近代的な「効率性と搾取」のシステムに突然組み込まれ、逃げ場を失った結果、自ら命を絶ってしまった。彼らが選んだのは「死」そのものというより、「これ以上、尊厳を奪われ、資源として登録され続けることへの拒絶」だったといえるだろう。

「生きる意味」の破壊

過酷な労働そのもの以上に、自分たちの文化や尊厳、存在そのものが「金や砂糖を生み出す道具」へと還元されていく精神的絶望が彼らを死に追いやったといえるだろう。

子供たちのサイレント・テロ

現代の子供たちが選ぶ自殺や、急増する不登校・引きこもりは、エスパニョーラ島の先住民が示した拒絶と同じ構造を持っていると見立てることができるだろう。

彼らは、システム(学校や社会)が要求する「労働機械への変変プロセス」に対して、自らの身体と命を賭してシステムへの登録を拒否する「最後の抵抗」を行っているのだ。

3. 「目的としての人間」を回復するための断絶

俺や君たちは、「どうすれば子供たちの自殺を減らせるか」という技術的なカウンセリングの次元で考えていてはダメなんだ。それは単に「壊れた部品を修理して、再び機械に戻す」アプローチと変わらないからだ。

俺や君たちが変革すべきは、人間を数量化し、利益の多寡で存在を値踏みするこの文明のフレームワークそのものとの決別だ。もっと言うなら、『人間が人間であるという、そのいってので尊厳を認められる社会』の構築だ。

そうは思わないかい?

何ができるか(機能)に関わらず、生きているというその事実だけで、人間はそれ自体が究極の「目的」であり、不可侵の尊厳を持つ。

このカントの原則を言葉の装飾ではなく、社会の法、経済、教育の根底に「絶対的命令」として埋め込まない限り、この社会は子どもたちという先住民を死に追いやり続ける、クリーンで残酷なイスパニョーラ島であり続けることになるだろう。

成長至上主義という、経済のために、社会が、人間が、自然環境が存在しているという転倒した考えを180度転換しないといけないんだ。