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2026/04/29

POST#1834 眠っているときにかかってきた電話は、あまり覚えていないもんだ

ホイアン、ヴェトナム
長年店舗工事をしていると、夜働くことが圧倒的に多い。大昔のゲゲゲの鬼太郎の歌🔗のように朝は寝床でぐーぐーぐー、で、夜は現場で漢だらけの運動会だ。楽しいな、楽しいな、こんなことしてたらそのうち死んじまうよ(笑)

ちなみに今時この歌をAdoが歌っているんだ。リンクを張り付けておいたから興味のある向きはどうぞ(笑)

しかし、眠っているときだって世の中の皆様はご遠慮なくご連絡をくださるんだ。

俺は長年の修行で、眠っていても完璧に受け答えができる。少なくともできてるつもりだ。ワンオペコンビニみたいだな。先週の木曜日ごろのことだ。町会長から電話がかかってきた。

先日の文書に関して、役員の皆さんから集まった意見をもとに、土曜日だか日曜日だかの朝に町内の主要メンバーで話し合いをしたいということだ。場所は近所の喫茶店だ。まったくご苦労な話だが、しっかり俺も頭数に入ってるんだよな。

その日も間違いなく夜勤明けだが仕方ない。俺はわかりました、参加しますと電話を切ってまた眠った。

数時間眠って間が覚めた時、内容は覚えていたが、肝心の日時が土曜日だったか日曜日だったか思い出せない。時間も9:00だったか10:00だったか、まったく覚えていない。

仕方ない、俺は町内会長に連絡をしてもう一度日時を確認した。日曜日の朝の9時だ。

土曜日の夜の仕事で、現場では問題が噴出していた。ええ加減な図面でデザイン重視で安く・早く・凝ったものを作ろうとしているから、問題が出るのはいつものことだ。

俺は明け方三時ごろに帰ってきて飯を食い、ふろに入り、そのあとで三角関数とか使って計算し、どうやって設計者の意図を実際の現場に落とし込むのか、脳汁を絞ったぜ。なんで俺がこんなことまでしなきゃいけないんだ?これは設計の仕事だろう?とはいえ、治めないことには面白くない。一騎当千の現場監督の名が廃るぜ。しかし、午前七時俺の電池残量は底をついた。少し仮眠しようと八時にアラームをセットしすやすや眠っている息子の隣で眠りに落ちた。

午前九時、電話が鳴ってたたき起こされた。町内会の重鎮A井さんからだった。俺は寝過ごしたことを悟り、飛び起きて着替え、顔も洗わずに車で急行した。頭も寝起きのもじゃもじゃだけれど、くせ毛でいつももじゃもじゃだから、セットなんかする必要はないんだ。時短だぜ。

喫茶店の奥の大テーブルには、町会長や重鎮のA井さん、民生委員のT島さん、その娘さんのYさん、その他ゴミに悩まされてる班長さんなどがいた。まだコーヒーは出てきてないようだ。副会長や会計さんは来ていない。そんなもんだ。

で、町会長が挨拶をすると、重鎮のA井さんが話し出した。大まかに言えば、やはり町内会費を差別化して、役員になれないご老人や心身の不自由な方から一般より高い金額を取るのも、やりたくない人からさらに、役員をやらない代わりに割高な町内会費を取るのも白紙にしたという。そりゃそうだ。弱い立場の人から例え月50円とは言え、割高な会費を取ったりするのは道義に反する。やはりそういう声が多かったそうだ。また、役員をやらなくていいから割高な会費を徴収するっていうんなら、みんな金だけ払って後は知らん顔になるに決まっている。

地域の民主主義の原則としては、負担を平等に分かち合うべきだし、不平等というのは最も弱い立場の人を救済するためにこそ許されると公正としての正義という概念を追求した大著『正義論🔗』の中でもジョン・ロールズ🔗も言っている。ロールズが言ったからどうだという話ではないけれど、老人や社会的な弱者に、より大きな負担を求めるのは公平ではない。

そして、町内会に未加入の人がゴミボックスを使用することで、町内会費の2倍近い使用料を徴収するのも取りやめにしたという。結構なことだ。町内会長は実際に朝の四時から3時間くらいゴミ捨てを監視していたという。ご苦労極まるが、労多くして得るものなしだ。むしろ、そんなことをしても地域の分断を招くだけだ。町会長は裁判になっても勝つことはできるだろうが、そんなことになっては大変なので、取りやめたという。裁判費用を町内会費から出したりしたらそれこそバカバカしい限りだ。

それに何より、町内会に入っていない人がゴミボックスにごみを入れずに放置し、それでカラスが宴会を開いてたら、何の意味もないぜ。どうせ、生ごみや使い古したコンドームをかたずけるのは町内会の班長さんとかなんだ。それこそ本末転倒だ。

まぁ、班長さんたちの話によると、ゴミボックスの設置を機に町内会に再入会した人もいるという。それはそれでいいことだ。何も問題がないときには、町内会なんてなくてもいいとみんな思う。しかし、何か問題が起こったとき、地域の共同体で支えあうことができないと困ると、みんな初めて気が付くんだ。

結局町内会でもそれぞれのエリアで個別の事情がある。だから、基本的には町内会に入っていない人を排除するようなことはせず、それぞれの考えに応じて臨機応変に対応していこうということになった。そもそも、ごみの収集自体は市の公共事業だしね。

そもそもこんなことはだいたいでいいんだよ。厳格なルールを作ると、今度は人間がルールに奉仕するようになる。世の中そんなもんだ。そんなのバカバカしくないか?

まぁ、何はともあれよかった。丸く収まった。俺の思った通りだ。町会長の話では、俺が持って行った裁判の判例資料が今回の決断を後押ししてくれたようだ。無理を通せば道理が引っ込むからな。誰かを分断し排除するんではなく、包摂していく。それこそが豊かな地域社会を作り、大きなシステムの体制翼賛的な収奪から一人一人の市民を守ることになるんだと俺は考えてるんだ。

その会合を終えて、俺は家に帰ると、前の日に配った市の広報のあまりを、俺の家の裏に住んでるUさんの家に持って行った。この人は今の町内会長と意見の食い違いで町内会を脱退した人だ。けれど、大切な隣人であることには変わらない。人間と人間の間に、見えない線を引いてはいけない。レゲエの神様ボブ・マーリー🔗の歌っていた『I & I communication』だ。大切なことはロックから教わった俺さ。

ちょうどU田さん本人が、どこからか自転車で帰ってきた。俺とU 田さんは、彼の家の前で募る話で盛り上がった。息子さんが往年のスポーツカートヨタMR2🔗に彼女を乗せて出かけていく、娘さんがグラスに入れたお茶を持ってきてくれる。並びに住んでる民生委員のT島さんもやって来て話の輪に入る。U田さんの隣の家の4歳くらいの息子さんが、はっとりさんだぁ!と言って百回くらいハイタッチをしてくる。すっかり老け込んでしまった息子の同級生のお祖母さんも現れてきて、T島さんと嬉しそうに話している。何があるというわけでもないけれど、みんな楽しそうだ。俺はそんな近所の人達の姿を見ることができて深い満足を覚える。

ストリートから、地域社会を繕っていこう。家に引きこもってネットばかり見ていたって、みんな孤立した最小単位に分断され、巨大な体制翼賛的なシステムや分断をあおるデマゴーグにからめとられてしまう。誰かをのけ者にしたり、弱い立場の人を叩いたり、自分たちとは異質だと決めつけて排除したりしようとしていてはいけない。

通りに出て、にこやかにあいさつし、相手の目を見て対等な人間として話し合おう。まずはそこからだ。君もどうだい?

2026/04/28

POST#1833 物事はたいてい悪いほうにエスカレートするのさ

somewhere
先ほど入ってきたニュースだと、日銀は金利引き上げを見送った。相も変わらず0.75%だ。

1万円を持っていても一年間の利息は75円だ。物価上昇を加味すると、円の価値は年間2から3%目減りしていく。インフレなんだ。なのにコストプッシュ型のインフレで真のデフレ脱却ではないとか言ってるんだ。どこの国の話だろうか?

75円でいったい今何が買える?蒲焼さん太郎とか、タラタラしてんじゃねーとかうまい棒くらいしか買えんわい!ガリガリ君だって無理だ。振込手数料にもならんわい。これに対して物価上昇はうなぎ登りの鯉の滝登りだ。略してうなぎの滝登りだ。

円は持っているだけで価値が減衰していく。円安は止まらない。黒田前総裁のイケイケもどうかと思っていたが、石橋を叩いて叩いて結局渡らない植田総裁のチキンぶりには絶望的な気持ちになる。利上げによる責任を取るよりも、なんだかんだと理由をつけて現状維持に逃げる。結局学者出身の植田総裁では、現状を打破する責任は負いきれないんだろう。インテリなんてそんなもんだ。円安は続く。混迷する世界情勢の中で、円安がつづくのはこの国の衰退を促進するだけじゃないか。物資も調達できない。円にゲインが見込めないということは、日本という国に将来性がないということを意味するんだ。

物事はたいてい悪いほうにエスカレートする。それはマクロ経済だけでなく、町内の些細なことも同じだ。

しばらくした日曜日、ほかの役員のかたからLINEが来た。町会長がくばっている文書を見たかというものだ。写真付きで送ってもらったんで、自分もポストに走って見に行ったら、入っていたわ。ここでも物事はさらにおかしな方に転がっていた。どうやら町内会の役職者に配っているようだ。

そのタイトルには『ゴミボックスに関する問題点と町費の変更案について』とある。

そして思わず頭をひねりたくなるような文章が紙面に踊っていたぜ。

『町内会としてゴミボックスの購入を考えていますが、問題点もいろいろ出ています。

今までに町内会の役員ができないとの事で脱会された方も多く、脱会された方もゴミボックスを使用したいとの要望もあります。

今後、数万円のゴミボックスを数か所に設置を計画しています。今までにも防犯灯やその電気代などを町費より賄っていることを考慮し、案として役員ができる方、役員ができない方、そして町内会に未入会でもゴミボックスの使用を希望される方と町会費を下記のように分類したいと考えています。

*町内会に仲介されている方

①役員ができる方                 年間3600円(300円×12か月)

②役員ができない方で、高齢者・体の不自由な方   年間4200円(350円×12か月)

③役員ができない方で、健康で特段問題の無い方   年間6000円(500円×12か月)

*町内会に入会されていない方

 ゴミボックス仕様希望の方            年間7000円

役職名、お名前を記入して、変更案に賛成のかたは『賛成』欄に〇を記入、ほかに意見のある方は『他の意見』欄に記載し、4月中に町会まで持参してください』だとさ!

俺はトムとジェリーで驚いたトムみたいに目玉が飛び出すところだったぜ!

何を考えてるんだ、会長は?俺は末尾に記載されていた会長の家の電話にさっそく電話を掛けた。しかしその番号は間違っていてつながらなかった。サイコーだな(笑)

こんなこと、役員だけで決めたら他の会員から苦情が来るに違いない。古代ギリシャだって市民は数千人いたのに(奴隷と子供と女は除く。そんなもんだ)全員参加だったんだぜ!

それに町内会はメンバーズオンリーではなくて、ある種の『公共財🔗』であるべきだ。地域を分断し、他を排除するための組織でもなければ、生活や各家庭の事情を斟酌することもなく会員を区別したり、老人や心身に不調を抱えている人から例え月50円とはいえ多く徴収するのは全くおかしなことだ。本来、コミュニティーってのは様々な背景や能力の人々を、そういった差異にかかわらず包摂していくべきものだろう?

だいたい、そんな施策を実施したならば、だれもかれもが6000円払って役員にならないことを選択するだろう。金で面倒ごとから逃れられるんなら、だれだって払うさ。しかし、その果てにあるのは町内会の崩壊と、地域住民のモナド🔗化が進行し、だれもが互いに挨拶も交わさない冷たい社会になってしまう。分断と対立だ。その先に待っているのは、万人の万人による闘争だ。リヴァイアサン🔗で皆さんお馴染みのトマス・ホッブス🔗が小躍りして喜ぶぜ。

俺はさっそく市の収集事業課に電話してみた。先日の総会で、町会長が町内会に入っていない市民から、使用料を徴収してもよいといわれていると皆の前で公言していたからだ。

しかしゴミの収集自体は市の公共事業だ。町内会に入っていようがいまいが、市民であり、税金を払っている(非課税の人ももちろんいる)以上は、同じように扱われるべきだ。

電話口の実直そうな担当者さんは、町内会のことについて私どもがとやかく申し上げる立場にないのでと、恐縮しつつ答えてくれた。要は首を突っ込んだりしたくないんだよ。そりゃそうだ筋が違う。市としては市民が出したごみを、税金を使って公平に収集するのが仕事なんだから。

俺はさっそく『賛成』の欄に大きく✖を書き記した。大切な署名に使うと決めている愛用のペンのブルーブラックのインクで。そしてご意見欄にこう書き記した。

『年会費の件は、総会によって決議すべきです。(役員だけで決めるべきことではない)ほかの町内はともかく(ほかの町内では、町内会費より高いお金を徴収しているところもあるという)町内会費より高い金額を請求することは違法の惧れがあります。市の収集事業課にも質問しましたが会員以外に課金すべきか否かは、市では判断できないとのことです』と書いて、うららかな春の日差しを浴びて会長の家まで歩いて行ってポストに投函した。

ついでに、町内会に入っていない人が、ゴミステーションの使用を拒まれたことで起こした裁判の判例をプリントアウトし、大事なところに参政党の皆さんのお好きなオレンジのチェックペンでマークアップしてね。

例え町内会だろうと、市町村は言うに及ばず大は国家、国際社会に至るまで皆が納得するように協議し熟議する。それが民主主義だ。俺はそう信じてる。そして、人間を様々な属性で分断するのではなく、『人間は人間だから尊重される』という大原則が必要だと信じている。

その旗を俺は生涯降ろす気はないぜ。ちなみにその旗はこんな旗だ。アナルコサンディカリズム🔗のアナーキズムの黒と労働運動の赤をベースに日本の国旗と笑顔を組み合わせた俺の旗印だ。俺は気に入ってるんだ(笑)

2026/04/27

POST#1832 たまには地に足の着いた話をしようかな町内の話だ

愛知県一宮市のどっか
今の現場が始まってすぐのことだから四月の中頃のことだ。

朝、夜勤明けで病院に行き、少し眠ってから仕事に行って慄きながら夜通し働いて、自動運転で車を転がして帰ってきたときのことだ。いくつになっても、どれだけ経験を積んでも、初心に帰って慄きつつ仕事に取り組むという癖が抜けない。事故があったりオープンに間に合わなかったりすれば、責任が取れない。責任が取れないからこそ、頭を使って、体を使って、気を使って、道具を使って、時にはお金を使って全力を尽くす。だからこそ、仕事に対して懼れがないといえば嘘になるんだ。慄くしかないだろう。

車から降りるとどこかから『はっとりさん、はっとりさん』と呼ぶ声がする。まだあたりは薄暗い。眠っている人も多かろうに、その声は静かな明け方の空気の中に響く。この声は間違いない、町会長のA田さんだ。俺はこの通りぶらぶら気楽な稼業なので、町内会にはできるだけコミットするようにしている。だって、地域社会が最も身近な社会だからだ。

家の前の緑道のつつじの陰から俺の名を呼んでいたのはやはり町会長だった。

『A田さん、声が大きいですよ。まだ皆さんおやすみになっていますよ』

俺は歩み寄りながら、押さえた声で返事を返した。町会長は何をうろついてるんだ?ウォーキングかそれとも認知症の徘徊か?どっちでもいいけど、もっと静かに。

町会長は俺を捕まえると、いきなり意見を求めてきた。やはり来たか。実は昨日の夜、カミさんから連絡があって、町会長が書類に賛同して捺印してほしいといってきたって連絡をくれてたんだ。

『あぁ、家内から聞いています。ゴミボックスの件でしょう』

『そうなんだわ』町会長は知ったいるなら話が早いと話を進め始めた。

少し遡って、3月の末に開かれた町内会総会で、ゴミ収集場所のカラスによるごみの散乱を防ぐため、ゴミボックスを導入しようという話が出てたんだ。市からも多少補助が出るので、まずは県道に面した集積所2ヵ所2台ずつ導入しようという話になったんだ。

そしてその場で町会長は、 『町内会のお金で買うものだから、町内会に入っていない人は入れてもらっては困る』とぶち上げたんだ。それをここでもめだしたら会議は紛糾するからってんで、皆さんそれぞれにどうすべきか考えていただき、一度回覧板などでご意見を承るということにしてはどうでしょうと、司会進行役の俺は有耶無耶にしてその場を切り抜けたんだ。

何しろ、この会長と方針の違いで町内会を脱退した人も多い。俺の同世代ですぐ裏に住んでるUさんもそんな一人だ。会長の言葉の端々に、その人たちに対する意趣返しのルサンチマンがこもっているのを俺は嗅ぎ取ったんだ。

で、カミさんから前の晩に送られてきた写真には、次のような文言が謳われていた。

『ゴミボックスの使用について

 この度、カラスなどによるごみ収集場所のゴミ散乱を防止するために、町内会会費によりゴミボックスを購入します。

 町内化に加入されていない方はゴミネットなどでゴミの散乱を防止し、ゴミボックス内にごみを入れないように注意してください』

とあった。これに捺印しろと言われても、俺は御免被るな。

世の中にはありふれた問題だ。君の町でもあるんじゃないのかな。俺が推奨する方法はカラスは賢い鳥だから、『君たち、ごみをあさっちゃいけないよ。みんなが迷惑してるんだ。君たちの立場もわかるけど、もう少し考えてくれないか?』って諭してみることかな。ああいつらは意外と人間を一人一人識別し、その行動を忘れないから、穏やかに話して諭してみたことがある。以来、俺の家の前は荒らされたことがないんだ。車に糞は落とされるけどね(笑)。

実は、こうした「町内会未加入者へのゴミ出し制限」は全国でトラブルになっており、法律や裁判例では以下のような考え方が一般的なんだそうだ。

大まかに言えば、ゴミ出し制限は違法なんじゃないかってことだ。

「一切禁止」は違法の可能性が高い: 過去の裁判(神戸地裁・大阪高裁など)では、町内会未加入を理由にゴミ捨て場の利用を一切認めないことは、「権利の濫用」として違法と判断され、町内会側に損害賠償を命じたケースがある。

行政サービスの公共性: ゴミ収集は本来、市町村が責任を持つ行政サービスです。市の補助金が入っている設備であれば、なおさら特定の人を完全に排除することは正当化しにくいと考えられるだろう。村八分じゃないんだから。

応じるべき負担もある: 一方で、町内会側が「掃除や管理の負担を会員だけが負うのは不公平だ」と主張する点にも一定の理屈があります。最近の福井地裁の判決(20254月)では、未加入者に対して、管理費相当額(年15,000円程度など)の支払いを条件に利用を認めるという判断も出ている。

町会長は、さっき上げた文書を町内会未加入の過程に配布しようと考えてるらしい。今からコンビニにコピーしに行くつもりだって言っていた。それで、町内でも忌憚なくモノを言うくせに角を立てない俺に、賛同を求めてきたってわけだ。

冗談じゃない。町会長は『5000円払ったら、使ってもらってもいいということにしようと思ってるだわ』と言ってきたが、それはいかがなものか?町内会費は月額300円、年間3600円だ。それより高いって暴利すぎじゃないか?やらずぼったくりだよ。

『相応の金銭的な負担を求めることは反対しないけれど、町内会費より高い金額を請求するってのはいただけませんね。』俺は町会長に切り返した。

『それにUさんを狙い撃ちにするような態度は感心できません。Uさんは意見の相違で町内会を脱退されましたが、僕の世代が中心になって町内会を運営するようになったら、Uさんの経験や行動力、なにより不正を嫌う誠実さを僕は尊敬してるので、絶対に呼び戻すつもりです。だから、そんな町内を分断したり村八分にするようなことはお勧めできません。』

『とはいえ、町内会の会費で買っているものだから…』

『いやいや、市からの補助もあるでしょう。Uさんとこだって市民なんだから。最も僕は、先日の総会の時からすでに、そんな事態になったら、面倒だけれど僕の家の前のごみ捨て場に捨ててください!ってやりとりしてるんです。ゴミの収集はあくまで市の事業ですから。』

俺の口調は柔らかいけど、絶対に妥協はしないっていう強い力がこもっていた。

『はっとりさん、判子はいただけないですか』

『何より、こういったことは町会長の一存で決めるようなことではないのではありませんか?回覧板でそれを全ての町内会の会員に周知した上でやるべきですよ。それが民主的な自治のあるべき姿です。』

その言葉に町会長は口ごもるようにしつつ『もう籠が届いてしまうから…』ともぞもぞ言っていた。

『ならばなおさら、並行してでも独断でお決めになるのではなく、回覧板などで皆さんの意見を募り、周知し、民主的な手続きを踏んでください。』これは町会長にとっては、自分のやり方を否定される以上の、重みのある一言だったかもしれない。

町会長は誰もがやりたがらない仕事だ。金がもらえるわけでもないし。だから、長年町会長を務めているA田さんを否定するのは忍びない。けれど今回の町会長のやり方は、短期的には「お金」や「ルール」で解決するかもしれないけれど、長期的には地域の「信頼」や「つながり」を損なっていくことになるだろう。俺が言ったことは、まさにその「壊れかけたコミュニティの再生」を見据えた視点なんだ。

町会長は今からコンビニに行ってコピーしてこようと思っていたが、もう少し検討するといって、夜明けの緑道を歩き去っていった。


俺は「草の根の民主主義」の経験っていうのがもっと大きな社会そのものの民主主義を育てることになると思うんだ。大きな政治の話だけでなく、ゴミ出しや町内会といった「生活に一番近い場所」での経験こそが、社会全体の民主主義を支える土台になるんだ。

今回、俺が町会長に対して、

「一部の独断ではなく、全員の合意を(回覧板での周知)」

「排除ではなく、共生を(次世代への禍根を残さない)」

という筋を通したことで、「草の根の民主主義」を実践できたのならいいんだけどな。

面倒な手続きや対立を避けて「長いものに巻かれる」のではなく、あえて対話を選び、納得感を求める。その積み重ねが、結果として「誰もが居心地の良い社会」を育てていくことになるんじゃないかな?

民主主義ってのは誰にとってもかなり面倒くさいもんなんだけども面倒くさい プロセスを経ないとやっぱり意味がないんだよね。

「面倒くさいプロセス」こそが民主主義の本体であり、それを省いてしまうと、ただの「強制」や「支配」になってしまうんだ。どっかの専制主義国家とか、どっかの民主主義の老舗といいながら王様が好き勝手にしてる国とか、どっかの選挙で大勝したから自分が何をやるかははっきり言わんけど、白紙委任されたから話し合う必要も説明する必要もないっていう国みたいにね。

効率だけを求めれば、町会長が独断で決めてハンコを押させるのが一番早いかもしれない。でも、それではコミュニティーの中に納得感は生まれないだろうし、排除された人たちとの間に深い溝が残るだけだ。

意見の違う人同士が話し合い、回覧板で情報を共有し、みんなで頭を悩ませる。その「面倒くささ」を経て決まったことだからこそ、人はルールを守ろうと思えるし、地域に愛着も持てるんじゃないのかな?それこそが手間をかける価値なんだ。

「民主的なプロセスを経ないと意味がない」という言葉は、まさに民主主義の本質だと思うんだ。たとえ結果が同じ「カゴを置く」であったとしても、そこに住民の合意があるかないかで、コミュニティの質は180度変わってしまいます。それが「意味」の重みだ。

その「面倒くさい」を厭わない態度こそが、将来的に「この町はみんなを大切にしているんだな」と感じられる土壌になる。俺はそう信じている。

民主主義はアメリカやフランスで生まれたとみんな思っているかもしれないが、合衆国の民主主義の起源になった制度は実はアメリカの原住民の間に根付いていたものだ。

イロコイ連邦🔗という、五大湖周辺の部族連合の自治システムはアメリカ建国に大きな影響を与えたけれど、まさに徹底した合意形成(コンセンサス)のプロセスを重視していたんだ。

イロコイ連邦に学ぶ「面倒くささ」の価値

全員一致への執念: 彼らは多数決でサッと決めるのではなく、異なる部族間や世代間で納得がいくまで話し合う。この「話し合いを尽くす」という手間が、結果として連邦の強固な結束を生んでいた。

七世代先を想う: 彼らは何かを決める際、「この決定が七世代後の子孫にどう影響するか」まで考えて議論していたと言われている。この長すぎるほどの時間軸こそが、短視的な「効率」に流されない、真に持続可能な民主主義の形だろう。現在の四半期決算や日々上下する株価と世論調査の政権支持率しか考慮しない政府とは大違いだ。

役割分担と検証: 特定の部族が提案し、別の部族がそれを検討し、さらに別の部族が最終判断を下すという、チェック・アンド・バランスの仕組みを徹底していた。まさに俺が町会長に求めた「実務と周知の並行プロセス」に近いものがあるだろう。 

現在の効率重視の社会では、こうしたプロセスは「遅い」「面倒」と切り捨てられがちだが、そのプロセスそのものが社会の信頼を育てる土壌になるんだ。そして信頼を喪失した社会は分断され、分断は支配と対立を生み、支配と対立は憎悪と闘争を生み出す。最悪だ。 

俺は、人類学の本や社会学の本を読む過程で、そういう知見を通三重ねてきた。今回のことが、かつてのイロコイ連邦の智恵に通じるものがあるとすれば、生きた知識だということになり嬉しい限りだ。 

けれど、一週間ほどしてから、事態は急展開を迎える。次回に続くだ。

2026/04/14

POST#1819 寝起きから警察に文句の電話を入れた


犬吠埼
眼を覚ました時には、11時30分だった。
今日はうつ病でかよっっている精神病院の予約が9時から入っていたのに。
診察とカウンセリングだ。
俺が鬱病だといっても誰も信じてくれない。この人たちだけが信じてくれるのさ(笑)
ふとLINEを見ると、父が入所しているサービス付き高齢者住宅の施設長からLINE電話が入っていたのに気が付いた。俺は爆睡していたから気が付かなかったんだ。
で、施設長に連絡してみるとこんな話だった。

俺の親父は86歳にして要介護どころか要支援もつかない健康なくそジジイなんだが、毎朝決まったルートを散歩している。ご苦労なこった。
毎日同じルートを歩いていれば、毎日通学などで顔を合わせ子供たちにあいさつをしたり、そのうちに親しくなって話したりハイタッチすることも出てくる。
どうにも施設の人に話を聞くと、その子供からは手紙をもらったり親御さんとも挨拶したりする親密な関係を築いていたらしい。
それを不審に思った地域住民が、警察に相談し、今朝警察がやってきて親父に事情聴取したうえで、施設まで連れてゆき、施設長とも話をしたという。私服警察官が3人もやってきたんだとさ!そして、『今回は警告だ』という不気味な言葉を残して去っていったという。

京都の山中で行方不明の小学生が遺体で見つかったことに関しては、同じ年頃の子どもを持つ市民としては、胸が痛む。(京都の件に関しては、いまだに事件なのか事故なのか、それとも本人自身の問題なのかわからない状態なので、ここで何かを言うのは差し控えることにする。ご了承いただきたい。)そして、そんな報道があったことで、子供に声をかける老人を不審に思う市民がいるのもわかる。現象を見て何を思うかは内心の自由があるからそれは問題ない。問題なのはそのあとだ。
怪しいと思うなら、自分から声をかけて話してみればいいだろう?それとも86歳のじいさんがおっかないのか?(ある意味あの元気さが、俺にはおっかないけどな)

誤解が解けたら理解を深めよう。

そして、警察だ。何の法的根拠があって私服警察官が3人もやってきて『警告』したのか?
子供への挨拶そのものは刑法上の犯罪ではないんじゃないのか。
が、現代の防犯活動において、警察は重大な犯罪(誘拐やわいせつ事件など)を未然に防ぐための「先制・予防的活動」として、見知らぬ大人による声掛けを「事案」として扱うことがあるのだという。やばいな。子供にあいさつをする町内の気さくなオッサンたる俺も、いつ警告されるか分かったもんじゃない。この国はいつからこんな風通しの悪い国になったんだ?

警察官から『警告』を受けた際に、背景として考慮されている可能性のある法律や根拠は調べてみるとこんなものがあるようだ。
1. 警察官職務執行法(警告の法的根拠)
警察官が父に「やめるように」と告げた行為自体は、この法律に基づく指導や警告である可能性が高いかもしれない。
第4条(避難等の措置): 人の生命や身体に危険が及ぶおそれがある場合、警察官は必要な警告を発することができます。
犯罪の予防: 警察は「犯罪の予防」を責務としており(警察法2条1項)、不審者情報が寄せられた際や、特定の状況下での声掛けが「犯罪の前兆」と判断された場合に指導を行います。 

2. 迷惑防止条例(各都道府県の規定)
多くの自治体では、特定の状況下での「つきまとい」や「不安を覚えさせる言動」を禁止している。 
不安を与える行為: 正当な理由なく、相手(特に13歳未満などの子供)に不安を覚えさせるような方法でつきまとったり、声をかけたりする行為が制限される場合があります。
卑わいな言動: 内容によっては、条例上の「卑わいな言動」とみなされるリスクもあります。 
3. 軽犯罪法
第1条28号: 他人の進路を塞いだり、つきまとったりして不安や迷惑を覚えさせる行為が該当する可能性があります。

ではなぜ「挨拶」が警告の対象になるのか?

警察の基準では、善意の挨拶であっても、子供が「怖い」と感じて通報したり、保護者から「知らない人が声をかけている」と相談があったりすると、「子供に対する声かけ事案」として記録されるそうだ。
警察は、略取・誘拐などの重大犯罪を未然に防ぐため、犯罪に至らない段階であっても、行為者を特定して「指導・警告」を行う運用を強化しているらしい。ご苦労なこった。

なぜ「警告」まで発展したのか?

現代の防犯ルールでは、たとえ挨拶であっても、子供が「怖い」と感じたり、保護者が「知らない人が頻繁に話しかけてくる」と通報したりすると、警察は「声かけ事案(不審者情報)」として動かざるを得ないのが現状だそうだ。やれやれ、世知辛い世の中だ。

刑法の条文に直接抵触していなくても、以下のステップで「警告」が行われた可能性が高いようだ。

子供・保護者あるいは地域住民からの通報: 「知らないおじいさんに毎日声をかけられて不安だ」という相談が警察に入る。あるいは「施設に入っているから地域の人間とみなされず、不審な老人が毎日こどもと親し気に接している」と地域住民から通報相談が入る。

ストーカー規制法や迷惑防止条例の準用: 繰り返し同じ子に声をかける行為が、相手に不安を与える「つきまとい」に近いと判断される。とはいえ、親父の話じゃその子からは、手紙とかももらったことがある顔見知りだったらしいぜ。

警察官職務執行法に基づく指導: 実際の事件(誘拐やわいせつ等)を未然に防ぐため、警察が「これ以上はやめてください」と公式に警告(行政指導)を行う。

まったく「今の世の中はどうなっているんだ」と納得しがたいぜ。しかし今の時代は「知らない大人からの声かけは、善意であってもリスク」と子供たちが教えられている。いわゆる『いかのおすし』だ。

それはそれでごもっともな話だ。まったく市民社会が委縮して、他人に無関心で共感力の低い冷たい社会になっていくのがするのもよくわかる。まったく以て結構なお話た。

この話しのポイントは、現代の防犯活動が抱える非常に根深く、切実な問題(ジレンマ)だ。

本来、地域社会の「挨拶」は、子供を見守り、犯罪を抑止するための「共助」の基盤だったはずだろ。オアシス運動とかあったよな。バンドのオアシスじゃないぜ、そっちはそっちで大好きだけど。

しかし、現在起きている現象は、「市民社会の委縮(ソーシャル・キャピタル=社会的なつながりの毀損)」を招いている側面が多分にあるといえるだろう。

この問題には、以下の3つの背景が複雑に絡み合っているんじゃないかな。

1. 「性善説」から「リスク管理」への転換

かつては「地域の大人はみんなで見守る」という性善説が通用したが、現在は「万が一の事件」が起きた際の警察や学校の責任問題が非常に厳しくなっている。その結果、「疑わしきはすべて排除する」という極端なリスク管理に振れてしまっている。

2. 教育現場の「知らない人にはついていかない」の徹底

現在の防犯教育(いかのおすし等)では、「知らない人に声をかけられたら逃げる」と教えられる。子供には「善意の挨拶」と「誘い出しの口実」を見分ける能力がないため、「大人は一律に警戒対象」として教育せざるを得ないという教育現場の限界があるんだそうだ。けれど俺は子供のほうが人間の本質を見抜いてると思うけどな。

3. 「声かけ事案」という統計の罠

警察は、軽微な声かけもすべて「事案」として集計し、防犯メールなどで共有するんだそうだ。ご苦労様。これにより、保護者の不安が過度に煽られ、「挨拶されただけで通報する」という過剰反応が連鎖し、さらに警察が動かざるを得なくなるという悪循環が生まれている。

さて、86歳のくそジジイが朝の散歩で挨拶をするという、かつては「美徳」とされた行為が「警告」の対象になるのは、明らかに地域のコミュニケーションの崩壊を象徴している。

俺は寝ぼけた頭でこの話を聞いて、真っ先に憲法で保障された「表現の自由」や「行動の自由」に対し、具体的な実害(つきまといや卑わいな言動)がないにもかかわらず、警察が「挨拶」を一律に禁じるのは、公権力の過剰な介入だと思ったぜ。俺は国家権力に縛られるのが嫌いなんだ。てか、好きな奴っているのかな?

俺は施設長との電話を切ると、すぐな地元の警察署に電話した。生活安全課か地域課の人間と電話越しに事情を説明し、その『警告』の法的根拠を伺いたいと話をしたんだすると警察官は、『了解』と言った。

『了解』だと?了解ってのは、あくまで上の立場の人間が目下のものに対して言う言葉だ。俺はそれく指摘し、即刻抗議した。非礼だ。

警察官が市民に対して「了解」という言葉を使うのは、ビジネスマナーとしても公務員の接遇としても極めて不適切だ。本来は「承知いたしました」や「かしこまりました」と言うべき場面だ。俺はへりくだってほしいと思ってないから『わかりました』で十分だけどね。

俺は『公僕』が『了解』なんて言葉を使うもんじゃない!と言ってやったんだ。

君はどう思うかわからないが、これは、主権者たる市民として極めて正当な権利行使なんだ。公共の安寧を守るはずの者が陥っている「勘違い」を正す重要な指摘なんだ。

そもそも警察官は国家権力のシステムの一環ではあるけれど、国家システム自体が「公僕(Public Servant)」であり、その権力は市民からの信託によってのみ成立している。俺たち一人一人の市民はもって生まれた権利=自然権の一部を国家という全体に委譲し、そのうえで司法、立法、行政などを任せているにすぎないんだ。

それがいつの間にか市民を指導・管理の対象として見下し、対等な敬意を欠いた言葉(了解)を使うことは、その信託関係を自ら否定する行為に他ならないんだぜ。

俺があんまり声高に憤ってるもんだから、別の部屋でテレワークしてるカミさんが、そう感情的になるもんじゃないとたしなめに来たほどだ。しかし、俺に応対した末端の警察官は、国家システムというものが、個人の自然権を移譲して公共の福祉のために作られたものである認識がない。俺が国家システムという言葉を発したとたんに不機嫌になるのが分かった。

ある意味仕方ない。俺の真ん中にある哲学的な視点は、近代民主主義の根幹である「社会契約説」そのものだからだ。

これは大事なことだからもう一度言うぜ。

本来、警察権力というものは、私たちが自分たちの安全を守るために「自然権(自由権)」の一部を信託し、公共の福祉のために行使させているに過ぎないはずだ。

つまり、警察官は「主権者である市民の自由を最小限の介入で守るための公僕」であるはずだ。

しかし、現場の末端警察官において、以下のような深刻な「認識の逆転」が起きているのが実態だ。

1. 「お上」意識とパターナリズム(父権的介入)

「了解」という言葉遣いに表れているように、彼らは自分たちを「市民を指導・管理する立場」と思い込んでいる。主権者から権限を預かっているという謙虚な認識ではなく、「国家という強大な権力の執行者」としての特権意識が、個人の尊厳を軽視させている。

2. 「公共の福祉」の誤用

本来「公共の福祉」は個人の自由を調整するための概念のはずだけれど、実際の現場では「誰か一人でも不安に思えば、個人の自由を制限して良い」という安易な安全至上主義にすり替わっている。

これでは、多数派の主観によって少数派(あるいは個人の善意)が排除される「専制」と同じだ。先日も卒業式の赤飯が、3月11日に不謹慎だというたった一人の苦情で廃棄された。それと同じだ。

3. 法の支配(Rule of Law)の欠如

法執行官であれば「どの条文の、どの構成要件に該当するのか」を厳格に判断すべきだが、現代の防犯活動は「事案化(データ化)」を優先するあまり、法的根拠のない「事実上の強制(行政指導)」を乱発している。これは法治国家としての根底を揺るがす事態じゃぁなかろうか。

俺は、内容がわかる人間からの連絡を要望し、内容いかんによっては弁護士に相談するといって電話を切り、返答を待った。

「調査して連絡する」という回答を引き出したことは、彼らに「安易な言葉(警告・了解)が通用しない相手である」と認識させた証拠だといえるだろう。

「弁護士と相談する」という言葉を警察に突きつけたことは、今回の問題を単なる「現場の行き過ぎた注意」から、「公権力による不当な権利侵害(国家賠償法上の問題や名誉毀損の可能性)」へとステージを引き上げる、非常に強力な布石だ。俺たち兄弟にさんざん尻拭いをさせてきたくそジジイだが、根拠なく犯罪予備軍扱いされるのは納得いかんのさ。

警察側も、これによって「適当な言い訳で済む相手ではない」と組織として認識したんだろう。早速地域課の警部さんがしどろもどろで電話してきた。

まぁ、その子どもと緊密な関係を築いているのははたからはわからない。

警察も誰からか通報があれば動かざるわけにいかんのだろう。しどろもどろで釈明していた。警察官職務執行法ですか聞いたら、その上位法である警察法という法律に基づくものだといっていたな。なんや知らんけど。

面倒だな。仕事の電話は次々かかってくるし。俺は最後に地域課の偉いさんに言ってやったさ。

『次に親父が何かしでかしたら、警告とかなまぬるいこと言ってないで、さっさと逮捕して独房にぶち込んでください。そうすれば、僕ら兄弟も親父の入所してる施設の金を払わなくて済みますから。次はぜひ思い切ってお願いします!ガハハハッ』

そもそも、俺の親父のようなケースで私服警察官が3人もやってきて『警告』という言葉を安易に使うことは、国家が市民の日常生活(挨拶という道徳的行為)を検閲し、コントロールしようとする「全体主義的な兆候」なんじゃないのか?

日本の警察もそのうちにアメリカのICEみたいに市民を標的にするようになるのかもしれない。あるいはこの国自体が中国みたいな全体主義的な専制主義国家へと変質しようとしているのかもしれない。

どっちにしても、国を守るってのは軍備で国土を死守することよりも、国としての理念を守ることだと俺は思うよ。何より、あいさつするだけで私服警官が3人もやってくる世の中なんて、ホラーすぎるだろう。俺は御免被る。

2026/04/13

POST#1818 本当に自由な人間とは、互いに迷惑をかけあえる人間なんじゃないか?

 

タイ、バンコク

今夜から新しい現場が始まるんで、あれもこれもやっておかなけりゃと気が気じゃないんだが、可燃ごみ捨て、掃除洗濯、便所と風呂の配水管の掃除、おまけに終わった現場の図面のシュレッダーに印刷していな図面の印刷、請求書を作成して送り、帳簿に記載とあれもこれもやっておかないと落ち着かない。生きるってことは地を這うような泥臭さだ。

さて、そんな気が狂いそうなせわしなさの中でも俺はやるぞ。

たとえこの先、国家がなくても、闇市のようにして生き抜く時代がやってくる可能性がないとは言い切れない。そんな馬鹿なと思うかもしれないが、実際に世界にはそんな地域はごまんとある。それを見て見ぬふりするのはとんだ脳内お花畑だ。それがもし、80年ほど前の日本のように、再び日本を襲ったならば、その後にこそ鍛造されたしぶとい日本人が、現れるかもしれない。

「国家」という虚構が剥がれ落ちた後の、「闇市的サバイバル」。これこそが、明治以来のプロイセンモデルや戦後の対米従属という「借り物の服」を脱ぎ捨てた、日本人の剥き出しの生命力が試される場なんだ。人間の地力が試される。

かつて日本全国を歩き回り、人々の生活を記録し続けた宮本常一🔗が出会ったような、過酷な自然や理不尽な権力の中でもしぶとく知恵を出し合って生き抜いた日本の「常民」の姿が、現代の廃墟の中に再現されるかもしれない。

そこは法理より実利、理念より生存が優先される世界だ。

国家のシステムが機能不全に陥ったとき、人々は誰に頼ることもできず、自分の頭で考え、自分の手足で食い扶持を稼ぎ、信頼できる仲間と「闇のネットワーク」を築くしかなくなるだろう。君には信頼できる仲間はいるか?地縁、血縁、生業のつながり、そういったリアルな人間関係こそが人間を生かすんだ。迷惑かけたくないとかきれいごと言ってる場合じゃない。人間はそもそも、お互いに迷惑をかけあわないと生きていけない生き物なんだ。誰かに迷惑をかけて助けてもらったら、今度は誰かの迷惑を引き受けて生きるんだ。

債権も国家の信用によって流通していた紙幣も、単なるトークンつまり代用貨幣🔗になってしまうだろう。本当に信用できる資本は、手が二本、足が二本で四本=資本主義だ。

そのリアルで泥臭い『贈与』と『反対給付』によって、事なかれ主義の日本人は『一個の自立した人間』へと鍛造されるんだ。この泥臭いプロセスを経て生き残った人々こそが、甘えや依存を削ぎ落とされた、真に「自分の足で立つ」強靭な日本人になるだろう。

自律した自由な人間てのは、まったく逆説的だけれど、自分の限界を知っていて、他人の力を借り、他人に力を貸せる人間のことを言うんだ。この逆説的なところは大切なことだから、よく吟味して腑に落ちてほしい。

孤立した人間は、自由どころか野垂れ死んでしまうだけだ。良くて誰かの奴隷にされて家畜のようにこき使われる。

自由というのは、一人で成し遂げられるものではないんだ。

こうして相互に依存し協力し合うことによって、新しい共同体の萌芽が生じるだろう。

闇市という混沌の中から、再び「天皇」という古層の権威=オーソリティを紐帯とした、寛容でインクルーシブな「新しい寄り合い」が自然発生的に立ち上がってくることを俺は願っている。

このままアメリカに盲従していくなら、間違いなく日本国は詰んでしまうだろう。

一度「おしまい」を迎え、国家という重石が消えた更地で、雑草のようにしぶとく根を張る日本人。その時、俺たちは初めて、明治以来のプロパガンダではない「本当の自分たち」に出会えるのかもしれない。

この「闇市」から始まる新しい日本の姿を、俺自身がどの程度の時間軸(数年、あるいは数十年)で、形を成すと見ているかといえば、何世代もあと、きっと俺の死んだ後になるだろう。けれど、俺が死んだとて、この世からバカが一匹減っただけ。

我亡き後に新しい日本が芽吹くことを願っている。

 その過程はひょっとしたら現在のソマリランド🔗みたいなプロセスがあり得るかもしれない。

崩壊した本体(ソマリア)を見捨て、国際社会の承認すら得られない孤立無援の状態から、地元の長老会議(伝統的権威)を基盤に自力で治安と経済を築き上げた「ボトムアップの独立」。

日本が「おしまい」を迎えた後、私たちが辿るべきはまさにあのプロセスかもしれないぜお。興味がある向きは早稲田大学探検部出身のノンフィクション作家高野秀行🔗の傑作『謎の独立国家ソマリランド そして海賊国家分プントランドと戦国南部ソマリア🔗』をお読みになるとよいでしょうな。

そこには日本がお花畑のように見えてくる北斗の拳のような、三国志のような世界がある。

伝統的権威の活用

ソマリランドが部族の長老たちを統合の核としたように、日本は「天皇」という古層のオーソリティを、国家システムではなく共同体の紐帯として再起動させることができるだろう。

実利に基づく自治

中央政府(プロイセンモデルの残骸)が機能しない中、闇市的な経済ネットワークと、宮本常一が描いたような「寄り合い」の知恵で、自分たちの食い扶持と安全を自分たちで守る。うん、地縁血縁と町内会が入り混じったような自治組織だ。

しかし、そんな社会で核兵器が残っていたらこれまた危なっかしくて仕方ないな(笑)。

「承認」より「生存」

アメリカや中国、国際社会にどう見られるか(承認)を後回しにし、まずは「自分たちの足で立つ(生存)」という実態を積み上げる。

国家という虚構=共同幻想が崩壊した後、残された人々が「日本人とは何者か」を身をもって問い続け、数十年かけてじわじわと形を成していく。

それは「核武装した永世中立」というハードウェアと、「寛容なインクルージョン」というソフトウェアが、現場のリアリズムから鍛造されるプロセスだ。

その「ソマリランド化した日本」において、私たちはかつての「豊かな経済大国」という幻想を、完全に捨て去る覚悟が必要になるだろう。

 というか、ユーチューブで日本すごい!動画ばかり見ていると気が付かないかもしれないが、わが国は世界最先端の『衰退途上国』だ!吸いたいじゃないぜ。衰退だ!とっくに経済大国じゃないという認識がない時点で俺たちはアウトなんだ!

にもかかわらずアメリカには関税だ、巨額の投資だ、時代遅れの防衛装備購入だといいようにたかられている。そのうち、ジャンプしてみろ、まだ小銭がちゃらちゃら言ってるだろうといわれるに違いないぜ。 

「まだ日本は経済大国だ」という幻想にしがみついていること自体が、現状を正確に見る目を曇らせ、手遅れにさせている最大の要因だ。

2026年現在、数字を見れば現実は残酷極まる。

GDPの転落: ドイツに抜かれ、インドに抜かれるのを待つばかりの転落。

購買力の喪失: 「安い日本」として世界から買い叩かれ、資源も人材も流出。

技術の空洞化: かつての「技術立国」の遺産を食いつぶし、独自性を失った模倣と中抜き。

「かつての栄光」という麻薬を打ち続け、オリンピックだ万博だ、リニアだと過去のロールモデルをなぞっている間に、アメリカには骨までしゃぶられ、足元からはシロアリのような既得権益に食い荒らされている。

この「死に至る病」に気づかないふりをしていることこそが、日本というシステムの自己崩壊を早めているんだ。

「経済大国」という看板が物理的に叩き割られ、闇市のような極限状態に追い込まれて初めて、日本人は「自分たちは何も持っていない」というゼロ地点に立てる。

そのどん底で、「天皇」という古層の権威と、「核」という非情なリアリズム、そして「宮本常一的」なしぶとい生活の知恵を、バラバラになった廃材の中から拾い集めて組み直していく。レヴィストロースが、その著書『野性の思考🔗』の中で描いた有り合わせのもので何とかするという、ブリコラージュ🔗社会だ。

ソマリランドのような「承認なき自立」を歩むとき、私たちは「豊かな国」というプライドを捨てた代わりに自立と自由を手にすることになるだろう。

しかし、人は自由の過酷よりも奴隷の安逸を喜ぶんだ。いつだって。

なぜって人間にとって「自由」は、自分で判断し、全責任を負わなければならないという耐えがたい「孤独」と「不安」を伴うものだからだ。自己責任だといって、ネットで弱者を部ったくような自己責任とはレベルが違う。そんな時に、弱者を自己責任だと突き放し、唾を吐きかけていた手合いが、どんな顔をするか、楽しみだ。それを見るためだけでも長生きしたくなるってもんだ。

多くの日本人は、アメリカに骨までしゃぶられ、ゆでガニのように緩慢な死に向かっていても、なお「誰かが決めてくれたレール」の上で奴隷の安逸を貪ることを選ぶんだろうな。

その方が、自分の頭で考える苦痛より楽だからだ。

しかし、システムが完全に自己崩壊し、その「安逸」という麻薬が物理的に供給されなくなった時、俺たち日本人は選択の余地なく自由という荒野に放り出されることになるだろう。

自立の代償は高くつく。 守ってくれる「主(アメリカ)」も、配給をくれる「官僚機構」もいない。自分たち自身で力を合わせていかないと一日たりとも生きられない。

そして自由とは過酷なものだと思い知ることになる。闇市で食い扶持を探し、天皇という古層の権威を紐帯に、核という呪い(抑止力)を背負って生き抜く。

その過酷な自由の中でこそ、宮本常一が歩いた時代のような、あるいはソマリランドの長老たちが体現しているような、「剥き出しの人間としての尊厳」が、皮肉にも日本人に再搭載されることを夢想する俺だ。

「安逸な奴隷」として滅びるか、「過酷な自由」の中でしぶとく再生するか。君はどう生きる?